53 関係: 太政大臣、女御、宝蓮院、尾張藩、島津吉貴、島津綱貴、中御門天皇、下御霊神社、一条兼香、享保、御台所、徳川吉宗、徳川家宣、徳川宗睦、徳川宗武、徳川継友、従三位、従一位、准后、公卿、公家、元禄、元文、田安徳川家、貞享、鷹司尚輔、鷹司房熙、近衛基熙、近衛家、近衛家熙、近衛尚子、近衛内前、近衛熙子、霊元天皇、関白、藤氏長者、東山天皇、桜町天皇、正室、江戸時代、有職故実、摂家、1687年、1695年、1726年、1732年、1733年、1736年、1737年、5月8日 (旧暦)、...、6月17日、8月17日 (旧暦)、9月11日。 インデックスを展開 (3 もっと) »
太政大臣
太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.
女御
女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.
宝蓮院
宝蓮院(ほうれんいん、享保6年(1721年) - 天明6年1月12日(1786年2月10日))は、田安徳川家初代当主・徳川宗武の正室であり、近衛家久の娘である。名は初め知姫、その後森姫、通姫(通子)と改めた。院号は宝蓮院、あるいは法蓮院。 享保18年(1733年)に江戸城二の丸に入り、享保20年(1735年)に宗武と婚姻。その後、宗武との間に、誠姫(伊達重村婚約者だが婚姻前に死去)・裕姫(夭折)・小次郎(夭折)・銕之助(英菊)(夭折) ・仲姫(池田重寛正室)・徳川治察(田安徳川家2代)・節姫(毛利治親正室)の7人の子女を儲けた。 明和8年(1771年)、宗武の死後に落飾して宝蓮院(法蓮院)と号した。天明6年(1786年)1月12日に66歳で死去し、寛永寺凌雲院に葬られた。 Category:近衛家 Category:田安徳川氏 Category:江戸時代の大名の正室 Category:御三卿家の人物 Category:1721年生 Category:1786年没.
尾張藩
尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.
島津吉貴
島津 吉貴(しまづ よしたか)は、江戸時代中期の島津氏第21代当主。薩摩藩の第4代藩主。.
島津綱貴
島津 綱貴(しまづ つなたか)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。島津氏20代当主。薩摩藩3代藩主。.
中御門天皇
中御門天皇(なかみかどてんのう、 元禄14年12月17日(1702年1月14日) - 元文2年4月11日(1737年5月10日))は、江戸時代の第114代天皇(在位:宝永6年6月21日(1709年7月27日) - 享保20年3月21日(1735年4月13日))。幼名を長宮(ますのみや)、諱を慶仁(やすひと)という。追号の「中御門」は、平安京大内裏の門の一つである待賢門の別称に因む。.
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下御霊神社
下御霊神社(しもごりょうじんじゃ)は、京都市中京区にある神社である。旧社格は府社。社名は上御霊神社に呼応するものである。.
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一条兼香
一条 兼香(いちじょう かねよし/かねか、元禄5年12月16日(1693年1月12日)-寛延4年8月2日(1751年9月21日))は、江戸時代中期の公卿。桜町天皇の側近として活躍し、従一位関白左大臣・太政大臣を歴任して14年にわたって朝廷の中枢にあった。「後円成寺」と号する。.
享保
享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.
御台所
御台所(みだいどころ)は、大臣・将軍家など貴人の妻に対して用いられた呼称。奥方様の意。御台盤所(みだいばんどころ)も同じ。「御台」は身分の高い人の食事を載せる台の事で、「台盤所」とは宮中や貴族の邸宅の配膳室を指し、台所はその略で調理する場所を指した。.
徳川吉宗
徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.
徳川家宣
徳川 家宣(とくがわ いえのぶ)は、江戸幕府第6代将軍(在職:1709年 - 1712年)である。 甲府藩主・徳川綱重(甲府宰相)の長男で、母はお保良の方(長昌院)。正室は近衛基熙の娘・熙子(天英院)。子に徳川家継ほか。第3代将軍・徳川家光の孫に当たる。同母弟に松平清武、その子で甥に松平清方がいる。幼名は虎松。初名は綱豊(つなとよ)。.
徳川宗睦
徳川 宗睦(とくがわ むねちか/むねよし、1733年10月27日(享保18年9月20日)- 1800年1月14日(寛政11年12月20日))は、尾張藩の第9代藩主。尾張藩中興の名君と称された。.
徳川宗武
徳川 宗武(とくがわ むねたけ)は、江戸幕府第8代将軍・吉宗の次男。官位は従三位権中納言。松平定信の実父に当たる。江戸時代の御三卿・田安家の初代当主であり、田安 宗武とも呼ばれる。.
徳川継友
徳川 継友(とくがわ つぐとも、元禄5年2月8日(1692年3月25日) - 享保15年11月27日(1731年1月5日))は、江戸時代中期の第6代尾張藩主である。.
従三位
従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.
従一位
従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.
准后
准后(じゅごう)は、日本の朝廷において、太皇太后・皇太后・皇后の三后(三宮)に准じた処遇を与えられた者、またその待遇・称号。正式には准三宮(じゅさんぐう)といい准三后(じゅさんごう)ともいう。准后は略称である。清和天皇外祖父の藤原良房に三宮に準じた待遇を与えたのをはじめとし、当初は経済的処遇が主であったが、のちには称号を与えるだけとなった。.
公卿
公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.
公家
公家(くげ)とは、日本において朝廷に仕える貴族・上級官人の総称。天皇に近侍し、または御所に出仕していた、主に三位以上の位階を世襲する家。 公家の称の由来として、元来は天皇または朝廷を指し、「こうけ」「おおやけ」と読んだ。鎌倉時代以降、藤原氏・源氏・平氏などの貴族の内で、武力で天皇に奉仕する幕府を武家(軍事貴族、武家貴族)と称するようになると、それに対比して、儀式と文治をもって天皇に奉仕する宮廷貴族一般を公家(公家貴族)と呼ぶようになった。.
元禄
元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
元文
元文(げんぶん)は日本の元号の一つ。享保の後、寛保の前。1736年から1741年までの期間を指す。この時代の天皇は桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.
田安徳川家
安徳川家(たやすとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿の一つ。単に田安家とも言う。.
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貞享
貞享(じょうきょう)は日本の元号の一つ。天和の後、元禄の前。1684年から1688年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇、東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.
鷹司尚輔
鷹司 尚輔(たかつかさ ひさすけ、享保11年(1726年)-享保18年3月6日(1733年4月19日))は、江戸時代の公家。五摂家の一つ鷹司家の第18代当主。関白近衛家熙の三男。実兄の鷹司房熙(家熙の次男)が21歳で急死したため、5歳で房熙の養子として鷹司家を相続する。その後、従五位上右近衛少将に任ぜられるが間もなくわずか8歳で病死。五摂家の歴代当主の中で唯一公卿に昇ることはなかった。.
鷹司房熙
鷹司 房煕(たかつかさ ふさひろ、宝永7年8月13日(1710年9月6日) - 享保15年4月24日(1730年6月9日))は江戸時代の公卿。父は近衛家熙。母は町尻兼量女。養子は鷹司尚輔。号は清浄林院。従二位。.
近衛基熙
近衞 基熙(このえ もとひろ)は、江戸時代前・中期の公卿。主に東山天皇(113代)と中御門天皇(114代)治世の朝廷においてその中枢となり、江戸幕府との関係改善に尽力した。五摂家筆頭の近衛家当主。.
近衛家
近衛家(このえけ、近衞家)は、公家の五摂家のひとつ。家名は平安京の近衛大路に由来する。通称にがある。本姓は藤原氏で藤原北家近衛流の嫡流にあたる。摂関家には近衛流と九条流があるが、藤原氏の分家で初めて藤氏長者をつとめたのが近衛流である。.
近衛家熙
近衞 家熈(このえ いえひろ)は、江戸時代前期から中期にかけての公家。.
近衛尚子
近衛 尚子(このえ ひさこ、元禄15年3月9日(1702年4月5日) - 享保5年1月20日(1720年2月27日))は、江戸時代の中御門天皇の女御で、桜町天皇の生母。女院号は新中和門院(しんちゅうかもんいん)。.
近衛内前
近衛 内前(このえ うちさき)は、江戸時代中期の公家、関白、太政大臣。父は近衛家久、母は満君(島津吉貴娘)。猶子の広幡前豊・前秀父子には「前」の字を与えている。.
近衛熙子
近衛 熙子(このえ ひろこ、寛文6年3月26日(1666年4月30日) - 寛保元年2月28日(1741年4月13日))は、江戸幕府6代将軍・徳川家宣の正室。父は近衛基熙、母は後水尾天皇の娘・(品宮)常子内親王。夫の死後落飾して天英院(てんえいいん)と名乗る。.
霊元天皇
霊元天皇(れいげんてんのう、承応3年5月25日(1654年7月9日) - 享保17年8月6日(1732年9月24日))は、江戸時代前期の第112代天皇(在位:寛文3年1月26日(1663年3月5日)- 貞享4年3月21日(1687年5月2日))。幼名は高貴宮(あてのみや)、諱は識仁(さとひと)。「仙洞様」とよばれることが多い(譲位後の期間が長いため)。歌人、能書家でもある。.
関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
藤氏長者
藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。.
東山天皇
東山天皇(ひがしやまてんのう、延宝3年9月3日(1675年10月21日) - 宝永6年12月17日(1710年1月16日))は江戸時代の第113代天皇(在位:貞享4年3月25日(1687年5月6日) - 宝永6年6月21日(1709年7月27日))。幼名は五宮、諱は朝仁(あさひと)。追号の「東山」は陵所泉涌寺の山号に因む。.
桜町天皇
桜町天皇(さくらまちてんのう、享保5年1月1日(1720年2月8日) - 寛延3年4月23日(1750年5月28日))は、江戸時代の第115代天皇(在位:享保20年3月21日(1735年4月13日) - 延享4年5月2日(1747年6月9日))。幼名を若宮、諱を昭仁(てるひと)という。.
正室
正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.
江戸時代
江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.
有職故実
有職故実(ゆうそくこじつ)とは、古来の先例に基づいた、朝廷や公家、武家の行事や法令・制度・風俗・習慣・官職・儀式・装束などのこと。また、それらを研究すること。.
摂家
摂家(せっけ)とは、鎌倉時代に成立した藤原氏嫡流で公家の家格の頂点に立った5家(近衛家・九条家・二条家・一条家・鷹司家)のこと。大納言・右大臣・左大臣を経て摂政・関白、太政大臣に昇任できた。摂関家(せっかんけ)、五摂家(ごせっけ)、執柄家(しっぺいけ)ともいう。この5家の中から藤氏長者も選出された。.
1687年
記載なし。
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1695年
記載なし。
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1726年
記載なし。
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1732年
記載なし。
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1733年
記載なし。
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1736年
記載なし。
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1737年
記載なし。
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5月8日 (旧暦)
旧暦5月8日は旧暦5月の8日目である。六曜は赤口である。.
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6月17日
6月17日(ろくがつじゅうななにち、ろくがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から168日目(閏年では169日目)にあたり、年末まであと197日ある。誕生花はバラ、ベニバナ。.
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8月17日 (旧暦)
旧暦8月17日は旧暦8月の17日目である。六曜は赤口である。.
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9月11日
9月11日(くがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から254日目(閏年では255日目)にあたり、年末まであと111日ある。.
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藤原家久。