193 関係: 右大臣、参議、吉川弘文館、坂本太郎 (歴史学者)、大宰府、大宰権帥、大納言、大鏡、天満宮菜種御供、太政大臣、太政官、女御、官位、官職、宇多天皇、安永 (元号)、寛平、尊卑分脈、少将滋幹の母、左大臣、並木五瓶、中納言、平安時代、平野邦雄、人康親王、二宮神社 (船橋市)、今昔物語集、仁寿殿、仁和、仁明天皇、延喜、延喜の治、延喜式、廉子女王、従三位、従四位、律令制、保明親王、在原棟梁、在原業平、北政所、内覧、公卿、公卿補任、六国史、元服、光孝天皇、克明親王、皇族、班田収授法、...、祟り、神皇正統記、荘園整理令、菅原伝授手習鑑、菅原道真、親政、詔、谷崎潤一郎、貞元親王、貞観 (日本)、貞数親王、贈位、近衛大将、近衛府、阿衡事件、関白、藤原基経、藤原実頼、藤原仁善子、藤原仲平、藤原保忠、藤原忠平、藤原北家、藤原兼平、藤原国経、藤原穏子、藤原頼忠、藤原顕忠、藤原褒子、藤原良世、藤原氏、藤原氏の人物一覧、藤原温子、藤原滋幹、藤原敦忠、藤氏長者、蔵人頭、醍醐天皇、雅楽、陽成天皇、東大寺別当次第、権門、橘広相、正三位、正一位、正二位、正五位、歌舞伎、清和天皇、源博雅、源光 (公卿)、源能有、源興基、源重信、源雅信、源氏、源湛、源昇、本康親王、昌泰、昌泰の変、流罪、浄蔵、日本三代実録、日本紀略、摂政、摂政・関白の一覧、敦実親王、数え年、慶頼王、扶桑略記、怨霊、10月15日、10月2日、10月8日 (旧暦)、11月26日、11月26日 (旧暦)、1777年、1月10日 (旧暦)、1月14日、1月16日 (旧暦)、1月2日 (旧暦)、1月7日 (旧暦)、2月10日、2月13日、2月14日 (旧暦)、2月16日 (旧暦)、2月17日 (旧暦)、2月1日、2月21日 (旧暦)、2月22日 (旧暦)、2月23日、2月26日、2月4日、3月11日、3月17日、3月19日、3月19日 (旧暦)、3月27日、3月31日、4月11日 (旧暦)、4月1日 (旧暦)、4月25日、4月26日、4月2日 (旧暦)、4月4日 (旧暦)、4月5日 (旧暦)、5月12日、5月14日 (旧暦)、5月1日、5月26日、5月2日、5月4日 (旧暦)、5月5日、6月19日 (旧暦)、6月27日、6月6日、7月13日 (旧暦)、7月26日、7月3日 (旧暦)、7月7日 (旧暦)、871年、886年、887年、889年、890年、891年、892年、893年、897年、898年、899年、8月12日、8月18日、8月26日 (旧暦)、8月8日、901年、902年、907年、909年、9月21日、9月21日 (旧暦)、9月8日 (旧暦)。 インデックスを展開 (143 もっと) »
右大臣
右大臣(うだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「右府」「右丞相」「右相国」「右僕射」「太保」。和訓は「みぎのおおいもうちぎみ/みぎのおとど」。定員1名。官位相当は、正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 左大臣とともに太政官の事実上の長官だが、左大臣がある場合は議政官の首座は左大臣であり、左大臣が置かれていない場合や差し支えて出仕しない場合に右大臣が朝議を主催した。また、左大臣が関白であった時にも右大臣が政務を司った。1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
参議
参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.
吉川弘文館
吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.
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坂本太郎 (歴史学者)
坂本 太郎(さかもと たろう、1901年(明治34年)10月7日 - 1987年(昭和62年)2月16日)は、日本の歴史学者。東京大学・國學院大學名誉教授。文学博士(1937年・東京帝国大学)。専門は日本古代史。静岡県出身。 太平洋戦争終戦直後の混乱した東京大学国史学研究室の再建と、東京大学史料編纂所での史料編纂事業の復活および興隆に尽力した。.
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大宰府
大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。多くの史書では太宰府とも記され、おもに8世紀の大和朝廷内部で作られた史書で「大宰府」と記されている。.
大宰権帥
大宰権帥(だざいのごんのそち/だざいのごんのそつ)は、大宰府の長官である大宰帥(だざいのそち)の権官である。初代は弘仁元年(810年)の阿保親王、2代目は承和4年(837年)の藤原常嗣であるが、前者は薬子の変による連座、後者は遣唐大使としての功労による特殊事情による任命であるため、貞観15年(873年)に任じられた3代目の在原行平(阿保親王の子)が事実上の初代とされている。.
大納言
大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.
大鏡
『大鏡』(おおかがみ)は、平安時代後期(白河院政期)に成立したとされている紀伝体の歴史物語である。.
天満宮菜種御供
『天満宮菜種御供』(てんまんぐう なたねの ごくう)は歌舞伎の演目。通称『時平の七笑』(しへいの しちわらい)。初代並木五瓶・中邑阿契・辰岡萬作ら合作。全九幕。安永六年四月(1777年5月)大坂小川吉太郎座初演。.
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太政大臣
太政大臣(だいじょうだいじん/だじょうだいじん)は、太政官の長官。前近代日本の律令官制と明治時代の太政官制における朝廷の最高職。唐名は「(大)相国」「太師」。和訓は「おおまつりごとのおおまえつぎみ/おおきおとど」。定員1名。具体的な職掌のない名誉職で、適任者がなければ設置しない則闕(そっけつ)の官とされた。.
太政官
太政官.
女御
女御(にょうご)は、天皇の後宮の身位の一つで、天皇の寝所に侍した。官名は中国・周代の官制を記した『周礼』に由来し、位は皇后・中宮に次ぐ。また、女御のうち、女性皇族たる女王が女御となった場合の呼称を王女御という。 初見は『日本書紀』雄略天皇の条であるが、実際は桓武天皇の代に紀乙魚・百済王教法などを女御としたのに始まる。当初、その位は低かったが次第に高まり、平安時代中期以降は、皇后は女御から昇進する慣例が確立した。最後の女御は孝明天皇の女御である九条夙子(英照皇太后)。 定員はなく、複数の女御がいる場合は住まう殿舎の名を取って「承香殿女御」などと呼んだ。 応仁の乱以後、上流貴族の娘の入内が絶えると、女御も存在しなくなった。後陽成朝に近衛前久の娘の前子が豊臣秀吉の養女として女御となり、ついで後水尾朝に徳川秀忠の娘の和子が女御になり、さらに中宮へ昇った。江戸時代には歴代天皇の正妻として摂家や世襲親王家の娘が一人だけ女御となり、しばしば准三宮となった。しかし霊元天皇や光格天皇などは女御を中宮に立てたものの、立后させない例の方が多かった。.
官位
日本における官位(かんい)は、日本史では人が就く官職と、人の貴賤を表す序列である位階の総称、古代朝鮮史(高句麗・百済・新羅)においては人の貴賤の序列として定められた位のことである。ともに中国の影響を受けたものだが、中国史では官位という言葉は用いない。 官職と位階との相当関係を定めたものを官位相当といい、各官職には相当する位階(品階)に叙位している者を任官する制度を官位制(官位制度、官位相当制)という『日本歴史大事典 1』小学館、2000年(平成12年)、768頁。日本において、官職と位階は律令法(律令制)によって体系的に整備された。位階制度については「位階」の項目を、官職については「日本の官制」を参照のこと。以下、日本における官位制について概説する。.
官職
官職(かんしょく)とは、官吏の職のことをいう。具体的には以下の通りに分類される。また、官職の名称のことを官名(かんめい)という。.
宇多天皇
宇多天皇(うだてんのう、貞観9年5月5日(867年6月10日) - 承平元年7月19日(931年9月3日))は、日本の第59代天皇(在位:仁和3年8月26日(887年9月17日) - 寛平9年7月3日(897年8月4日))。 諱は定省(さだみ)。後の佐々木氏などに代表される宇多源氏の祖先にもあたる(詳細は皇子女の欄参照)。.
安永 (元号)
安永(あんえい)は日本の元号の一つ。明和の後、天明の前。1772年から1781年までの期間を指す。この時代の天皇は後桃園天皇、光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治。.
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寛平
寛平(かんぴょう、かんびょう、かんぺい、かんべい)は、日本の元号の一つ。仁和の後、昌泰の前。889年から898年までの期間を指す。この時代の天皇は宇多天皇、醍醐天皇。.
尊卑分脈
『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.
少将滋幹の母
『少将滋幹の母』(しょうしょう しげもとの はは)は、谷崎潤一郎の長編小説。王朝物の時代小説である。美しい若妻・北の方を藤原時平に強奪された老齢の藤原国経の妄執の念と、その遺児・藤原滋幹が恋い慕う母の面影の物語。戦後の谷崎文学の傑作の一つとして多くの作家や文芸評論家から賞讃された作品で、高齢の谷崎自身の幼い頃の母の記憶、永遠の女性像を仮託している作品でもある「谷崎潤一郎作品案内」()「戦中から戦後へ」()。 1949年(昭和24年)11月16日から1950年(昭和25年)2月9日まで『毎日新聞』に連載された「谷崎潤一郎作品案内」()。単行本は1950年(昭和25年)8月に毎日新聞社より刊行された。以後これまでに幾度となく舞台化やドラマ化がなされ、海外でも翻訳がなされている代表作である。.
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左大臣
左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.
並木五瓶
並木 五瓶(なみき ごへい)は、歌舞伎狂言作者の名跡。.
中納言
中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.
平安時代
平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.
平野邦雄
平野 邦雄(ひらの くにお、1923年3月24日 - 2014年9月20日)は、日本の歴史学者。東京女子大学名誉教授。専攻は日本古代史。.
人康親王
人康親王(さねやすしんのう)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。仁明天皇の第四皇子。光孝天皇の同母弟。官位は四品・弾正尹。山科宮と号す。.
二宮神社 (船橋市)
二宮神社(にのみやじんじゃ)は、千葉県船橋市三山にある神社。式内社論社で、下総国二宮と伝える。旧社格は郷社。 古くは「三山明神」「二宮明神」とも『千葉県の地名』二宮神社項。。.
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今昔物語集
『今昔物語集』(こんじゃくものがたりしゅう)とは平安時代末期に成立したと見られる説話集である。全31巻。ただし8巻・18巻・21巻は欠けている。 『今昔物語集』という名前は、各説話の全てが「今ハ昔」という書き出しから始まっている事に由来する便宜的な通称である。.
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仁寿殿
仁寿殿(じじゅうでん・じんじゅでん)とは、平安京の内裏における殿舎のひとつ。中殿とも後殿とも呼ばれた。 内裏のほぼ中央にあり、紫宸殿の北、承香殿の南、清涼殿の東に位置した。北後方には後宮である七殿五舎が存在した。 檜皮葺(ひわだぶき)の屋根を持ち、東西七間、南北四間の母屋の四面に廂をつけ、東西九間、南北六間の平面規模を持つ建物であった。平安時代初期に天皇の日常生活の居所として使用されたため、天皇が毎朝、伊勢神宮などを遙拝する石灰の壇(いしばいのだん)があった。 平安時代中期の宇多天皇の時代に天皇の日常生活の居所は主に仁寿殿から清涼殿へ移ったと考えられており、天皇の住まいの場が清涼殿へ移ってからは内宴、元服等の儀式を行ったり、庭で行われた相撲、蹴鞠等の各種行事を観覧する場所になった。 院政期以降、仁寿殿は仮に設けられた内裏である里内裏において「仁寿殿代」として再建された事はあるものの、紫宸殿や清涼殿とは違って現在の京都御所には伝わっていない。.
仁和
仁和(にんな)は、日本の元号の一つ。元慶の後、寛平の前。885年から889年までの期間を指す。この時代の天皇は光孝天皇、宇多天皇。.
仁明天皇
仁明天皇(にんみょうてんのう、弘仁元年(810年) - 嘉祥3年3月21日(850年5月6日)、在位:天長10年3月6日(833年3月30日) - 嘉祥3年3月19日(850年5月4日))は、平安時代初期の第54代天皇。諱は正良(まさら)。 嵯峨天皇の第二皇子。母は橘清友の娘、皇后橘嘉智子(檀林皇后)。正子内親王は同父母の妹でありかつ同年の生まれのため、双子の妹と推測される。.
延喜
延喜(えんぎ)は、日本の元号の一つ。昌泰の後、延長の前。901年から923年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。 この時代は形式的ながらも天皇親政が行われたが、のちにこれを延喜の治と呼ぶようになり、「天暦の治」とともに理想的な治世として賞賛されるようになった。.
延喜の治
延喜の治(えんぎのち)は、平安時代中期(10世紀前期)の醍醐天皇の治世を理想視した呼称。延喜は醍醐天皇の治世の元号である。.
延喜式
延喜式(えんぎしき)は、平安時代中期に編纂された格式(律令の施行細則)で、三代格式の一つである。.
廉子女王
廉子女王(れんし(やすこ)じょおう、生年未詳 - 承平5年2月(935年))は、平安時代の皇族。仁明天皇の皇孫で、本康親王の娘。藤原時平の正室。 元慶元年(877年)正月従四位下に叙位され、御帳を掲げる奉仕をした。その後時平と結婚し、藤原保忠を産んだ。承平5年(935年)2月卒去時の位階は従四位上だった。ちなみに『貫之集』歌番号340〜350に廉子女王七十賀の時の屏風歌と言われる一連の歌がある。 Category:日本の女王 (皇族) Category:平安時代の女性皇族 Category:生年不明 Category:935年没.
従三位
従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.
従四位
従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.
律令制
律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.
保明親王
保明親王(やすあきらしんのう、延喜3年11月20日(903年12月16日) - 延喜23年3月21日(923年4月14日))は、平安時代の皇族。醍醐天皇の第二皇子でその皇太子となる。母は藤原穏子(藤原基経の娘)。朱雀天皇・村上天皇の同母兄。初名は崇象(むねかた)。諡は文献彦太子。.
在原棟梁
在原 棟梁(ありわら の むねはり、嘉祥3年(850年)頃 - 昌泰元年(898年))は、平安時代前期の貴族・歌人。平城天皇の後裔で、右近衛中将・在原業平の長男。官位は従五位上・左衛門佐。中古三十六歌仙の一人。.
在原業平
在原 業平(ありわら の なりひら)は、平安時代初期の貴族・歌人。平城天皇の孫。贈一品・阿保親王の五男。官位は従四位上・蔵人頭・右近衛権中将。 六歌仙・三十六歌仙の一人。別称の在五中将は在原氏の五男であったことによる。 全百二十五段からなる『伊勢物語』は、在原業平の物語であると古くからみなされてきた。.
北政所
北政所(きた の まんどころ)は、平安時代の三位以上の公卿の正室の呼び名。また後に、宣旨をもって特に授けられた摂政・関白の正室の称号。.
内覧
内覧.
公卿
公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.
公卿補任
公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.
六国史
六国史(りっこくし)とは、古代日本の律令国家が編纂した6つの一連の正史のことである。一部に紀伝体的要素をとりいれつつも、概ね編年体で記されている。.
元服
元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.
光孝天皇
光孝天皇(こうこうてんのう、天長7年(830年) - 仁和3年8月26日(887年9月17日)は、第58代天皇(在位:元慶8年2月23日(884年3月23日) - 仁和3年8月26日(887年9月17日))。諱は時康(ときやす)。 仁明天皇の第三皇子。母は藤原総継の娘、贈皇太后沢子。.
克明親王
克明親王(よしあきらしんのう / かつあきらしんのう、延喜3年(903年) - 延長5年9月24日(927年10月22日))は、平安時代の皇族。醍醐天皇の第一皇子。初名は将順(まさのぶ)。.
皇族
女王旗)皇室儀制令19条では「親王旗親王妃旗内親王旗王旗王妃旗女王旗」。 皇族(こうぞく)は、天皇の親族のうち、男系の嫡出の血族(既婚の女子を除く)およびその配偶者の総称。すなわち、皇后、太皇太后、皇太后、親王、親王妃、内親王、王、王妃および女王の総称であり、天皇は含まれない。天皇を含む場合は「皇室」という。.
班田収授法
班田収授法(はんでんしゅうじゅほう)とは、古代日本において施行された農地(田)の支給・収容に関する法体系である。班田収授法による制度を班田収授制または班田制という。班田収授制は、日本の律令制の根幹制度の一つであり、律令が整備された飛鳥時代後期から平安時代前期にかけて行われた。なお、「はんでんしゅうじゅのほう」ともよむ。また、「班田収受の法」と表記することもある。.
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祟り
祟り(たたり)とは、神仏や霊魂などの超自然的存在が人間に災いを与えること、また、その時に働く力そのものをいう。人間社会の法則や論理では制御不能な出来事が起こった際に、それを強大な霊力の発現であると考える解釈・説明。 類似の概念として呪(のろ)いがある。祟りは神仏・妖怪による懲罰など、災いの発生が何らかの形で予見できたか、あるいは発生後に「起こっても仕方がない」と考えうる場合にいう(「無理が祟って」などの表現もこの範疇である)。これに対し呪いは、何らかの主体による「呪う」行為によって成立するものであり、発生を予見できるとは限らない。何者かに「呪われ」た結果であり、かつそうなることが予見できたというケースはあり得るので、両概念の意味する範囲は一部重なるといえる。.
神皇正統記
『神皇正統記』(じんのうしょうとうき)は、南北朝時代に公卿の北畠親房が、幼帝後村上天皇のために、吉野朝廷(いわゆる南朝)の正統性を述べた歴史書である。.
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荘園整理令
荘園整理令(しょうえんせいりれい)は、平安時代に発布された一連の法令のこと。 特に有名なものは、1069年(治暦5年.
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菅原伝授手習鑑
四代目中村芝翫の舎人松王丸。「寺子屋」での松王丸の姿を描く。豊原国周画。 『菅原伝授手習鑑』(すがわらでんじゅてならいかがみ)とは、人形浄瑠璃および歌舞伎の演目のひとつ。五段続。延享3年(1746年)8月、大坂竹本座初演。初代竹田出雲・竹田小出雲・三好松洛・初代並木千柳の合作。平安時代の菅原道真の失脚事件(昌泰の変)を中心に、道真の周囲の人々の生き様を描く。歌舞伎では四段目切が『寺子屋』(てらこや)の名で独立して上演されることが特に多く、上演回数で群を抜く歌舞伎の代表的な演目となっている。.
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菅原道真
菅原道真(すがわら の みちざね / みちまさ / どうしん、承和12年6月25日(845年8月1日) - 延喜3年2月25日(903年3月26日))は、日本の平安時代の貴族、学者、漢詩人、政治家。参議・菅原是善の三男。官位は従二位・右大臣。贈正一位・太政大臣。 忠臣として名高く、宇多天皇に重用されて、寛平の治を支えた一人であり、醍醐朝では右大臣にまで昇った。しかし、左大臣・藤原時平に讒訴(ざんそ)され、大宰府へ大宰員外帥として左遷され現地で没した。死後天変地異が多発したことから、朝廷に祟りをなしたとされ、天満天神として信仰の対象となる。現在は学問の神として親しまれる。 小倉百人一首では菅家。.
親政
親政(しんせい)とは、君主(国王・皇帝・天皇など)自身が政治を行うこと、またはその政治形態(君主制の一形式)のことである。.
詔
詔(みことのり)は、天皇の命令、またその命令を直接に伝える文書。御言宣、大御言。首都を移す「東京奠都の詔」などがその例である。これを文書にしたものを詔書(しょうしょ)(英:Imperial Rescript)と言う。主に、広く一般に天皇の意思を伝えるために用いられた。言葉としては秦の始皇帝が初めて造った。おおみせ、おおみこと、とも言う。.
谷崎潤一郎
谷崎 潤一郎(たにざき じゅんいちろう、1886年(明治19年)7月24日 - 1965年(昭和40年)7月30日)は、日本の小説家。明治末期から第二次世界大戦後の昭和中期まで、戦中・戦後の一時期を除き終生旺盛な執筆活動を続け、国内外でその作品の芸術性が高い評価を得た。現在においても近代日本文学を代表する小説家の一人として、評価は非常に高い。 初期は耽美主義の一派とされ、過剰なほどの女性愛やマゾヒズムなどのスキャンダラスな文脈で語られることが少なくないが、その作風や題材、文体・表現は生涯にわたって様々に変遷した。漢語や雅語から俗語や方言までを使いこなす端麗な文章と、作品ごとにがらりと変わる巧みな語り口が特徴。『痴人の愛』『春琴抄』『細雪』など、情痴や時代風俗などのテーマを扱う通俗性と、文体や形式における芸術性を高いレベルで融和させた純文学の秀作によって世評高く、「文豪」「大谷崎(おおたにざき)」と称された。その一方、今日のミステリー・サスペンスの先駆的作品、活劇的な歴史小説、口伝・説話調の幻想譚、果てはグロテスクなブラックユーモアなど、娯楽的なジャンルにおいても多く佳作を残している。.
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貞元親王
貞元親王(さだもとしんのう、870年? - 910年1月10日(延喜9年11月26日))は、清和天皇の第三皇子。873年5月21日(貞観15年4月21日))親王宣下。887年1月(仁和3年1月))四品。887年2月(仁和3年2月17日))上野太守。号は閑院を号したといわれているが、明確ではない。 1678年(延宝6年)に、現在の千葉県君津市貞元に建立された貞元親王墓(ていげんしんのうはか)は、1970年9月21日に市指定文化財に指定された。.
貞観 (日本)
貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。.
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貞数親王
貞数親王(さだかずしんのう、貞観17年(875年) - 延喜16年5月19日(916年6月22日))は、平安時代の皇親。清和天皇の第8皇子。品位は四品。.
贈位
贈位(ぞうい)とは、生前に功績を挙げた者に対して、没後に位階を贈る制度。追贈、追賜ともいう。官職を贈る場合は贈官(ぞうかん)という(例:贈太政大臣)。 将棋や囲碁の世界では、大会での優勝や功績に応じてタイトルを贈られることを贈位と呼ぶこともある。就位ともいう。この際に贈られる賞状を贈位状とも呼ぶ。.
近衛大将
近衛大将(このえ の だいしょう)は、日本の律令官制における令外官の一つ。宮中の警固などを司る左右の近衛府の長官。左近衛府には左近衛大将(さこんえのだいしょう)、右近衛府には右近衛大将(うこんえのだいしょう)が置かれ、それぞれ略して「左大将」「右大将」ともいう。定員は各1名で、権官はない。官位相当は従三位。常設武官の最高職で、馬御監の兼任とされた。和訓は「ちかきまもりのつかさのかみ」。.
近衛府
近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.
阿衡事件
阿衡事件(あこうじけん)は、平安時代前期に藤原基経と宇多天皇の間で起こった政治紛争である。阿衡の紛議とも呼ばれる。.
関白
関白(かんぱく)は、成人の天皇を補佐する官職である。令外官であり、また、実質上の公家の最高位であった。敬称は殿下。.
藤原基経
藤原 基経(ふじわら の もとつね)は、平安時代前期の公卿。藤原北家、中納言・藤原長良の三男。 摂政であった叔父・藤原良房の養子となり、良房の死後、清和天皇・陽成天皇・光孝天皇・宇多天皇の四代にわたり朝廷の実権を握った。陽成天皇を暴虐であるとして廃し、光孝天皇を立てた。次の宇多天皇のとき阿衡事件(阿衡の紛議)を起こして、その権勢を世に知らしめた。天皇から大政を委ねられ、日本史上初の関白に就任した。.
藤原実頼
藤原 実頼(ふじわら の さねより)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、関白・藤原忠平の長男。 村上天皇の時に左大臣として右大臣の弟・師輔と共に朝政を指導して天暦の治を支えた。しかし、後宮の争いでは師輔に遅れをとり、外戚たる事ができなかった。冷泉天皇が即位すると、その狂気のために関白職が復活し実頼が任じられた。次いで円融天皇が即位すると摂政に任じられている。また、有職故実に通じ、小野宮流を創始した。.
藤原仁善子
藤原 仁善子(ふじわら の にぜこ、生年不明 - 天慶8年12月19日(946年1月24日))は、平安時代中期の女官。左大臣・藤原時平の長女で、保明親王の妃。 延喜16年(916年)に東宮・保明親王の妃となる。慶頼王・煕子女王の生母となるが、延喜23年(923年)に親王は即位することなく薨御。延長3年(925年)には慶頼王も薨御した。 天慶8年12月(946年1月)卒去。本院御息所と呼ばれた。.
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藤原仲平
藤原 仲平(ふじわら の なかひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、摂政関白・藤原基経の二男。官位は正二位・左大臣。左京一条にある枇杷第を伝領した事から、枇杷左大臣と呼ばれる。.
藤原保忠
藤原 保忠(ふじわら の やすただ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原時平の長男。官位は正三位・大納言。八条大納言・八条大将・賢人大将と称された。.
藤原忠平
貞信公(百人一首より) 藤原 忠平(ふじわら の ただひら)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原基経の四男。 兄・時平の早世後に朝政を司り、延喜の治と呼ばれる政治改革を行った。朱雀天皇の時に摂政、次いで関白に任じられる。以後、村上天皇の初期まで長く政権の座にあった。兄・時平と対立した菅原道真とは親交を持っていたとされる。平将門は忠平の家人として仕えていた時期もあった。.
藤原北家
藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.
藤原兼平
藤原兼平(ふじわら の かねひら).
藤原国経
藤原 国経(ふじわら の くにつね)は、平安時代前期の公卿・歌人。藤原北家、権中納言・藤原長良の長男。官位は正三位・大納言。陽成天皇の外伯父。.
藤原穏子
藤原穏子(ふじわら の おんし・やすこ、仁和元年(885年) - 天暦8年1月4日(954年2月9日))は、関白藤原基経女。母は人康親王女。第60代醍醐天皇中宮、第61代朱雀天皇・第62代村上天皇生母。別名五条后。.
藤原頼忠
藤原 頼忠(ふじわら の よりただ)は、平安時代中期の公卿。藤原実頼の次男。 円融・花山両天皇の関白で、後に太政大臣となる。しかし、天皇と外戚関係を得ることができず、藤原兼家との政争に敗れて、一条天皇の即位とともに関白を辞し、失意のうちに薨御した。.
藤原顕忠
藤原 顕忠(ふじわら の あきただ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原時平の次男。官位は従二位・右大臣。贈正二位。富小路右大臣と号す。.
藤原褒子
藤原 褒子(ふじわら の ほうし、生没年不詳)は、平安時代中期の宇多天皇の御息所。藤原時平の娘。名はよしことも。京極御息所、富小路御息所と呼ばれた。.
藤原良世
藤原 良世(ふじわら の よしよ)は、平安時代初期から前期にかけての公卿。藤原北家、左大臣・藤原冬嗣の八男。官位は従二位・左大臣、贈従一位。致仕大臣と号した。.
藤原氏
藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.
藤原氏の人物一覧
藤原氏の人物一覧(ふじわらしのじんぶついちらん) 藤原は姓であり、家名や苗字ではない。鎌倉時代以降の藤原氏は、近衛、三条、九条などの家名を称するようになった。つまり厳密な意味での藤原氏は明治維新まで続いたことになるが、ここでは姓として「藤原」を称していた平安時代までの人物を取り上げる。.
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藤原温子
藤原 温子(ふじわら の おんし/よしこ、貞観14年(872年) - 延喜7年6月8日(907年7月20日))は、第59代宇多天皇女御。関白藤原基経女、母は式部卿忠良親王の女操子女王(同母弟に兼平、異母兄弟に時平、仲平、忠平、異母妹に穏子がいる)。第60代醍醐天皇養母。別名東七条后、七条后。 仁和4年、宇多天皇に更衣として入内。同年女御宣下、正四位下。寛平5年従三位。同9年、宇多天皇譲位・醍醐天皇即位にあたり皇太夫人。延喜5年に出家、同7年6月8日薨去。享年36。 宇多天皇は即位前から既に藤原胤子や橘義子らの妃との間に子女をもうけていたが、阿衡事件などでこじれていた基経との関係改善のためにも、温子入内は不可欠であった。入内後は関白の娘として基経没後も後宮で重きをなし、一人娘均子内親王を産んだものの皇子には恵まれなかったため、胤子没後にその所生の東宮敦仁親王(のちの醍醐天皇)を猶子とした。これについては、基経の没後に子供を儲けていないことから、宇多天皇が阿衡事件に対する反発から藤原北家嫡流を外戚とする皇子の出生を望まなかったとする説もある(河内祥輔説)。なお歌人の伊勢は温子に仕えたことで知られ、温子との贈答歌やその死を悼む哀悼歌を残した。 陵墓は宇治陵(京都府宇治市木幡中村)。 おんし category:平安時代の后妃後宮 category:皇太夫人 Category:872年生 Category:907年没.
藤原滋幹
藤原 滋幹(ふじわら の しげもと)は、平安時代前期の貴族・歌人。藤原北家、大納言・藤原国経の子。官位は従五位上・左近衛少将。.
藤原敦忠
藤原 敦忠(ふじわら の あつただ)は、平安時代前期から中期にかけての公卿・歌人。藤原北家、左大臣・藤原時平の三男。官位は従三位・権中納言。三十六歌仙の一人。通称は枇杷中納言・本院中納言。小倉百人一首では権中納言敦忠。.
藤氏長者
藤氏長者(とうしのちょうじゃ)は、藤原氏一族全体の氏長者のこと。.
蔵人頭
蔵人頭(くろうどのとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。 蔵人所の長官は大臣が兼任する「蔵人別当」であったが、これは名目的なもので、実務上は蔵人頭が殿上人の首座として蔵人および殿上人を指揮し、勅旨や上奏の伝達や、天皇身辺の世話等を取り仕切った。通常、四位の者が補任されるが、官位相当は無い。定員は2名。殿上の首席に座を占めることから「貫首」(かんず)とも呼ばれた(「貫主」と表記されることもある)。また、蔵人として禁色の使用が許された。参議に欠員が出た場合、蔵人頭が即参議に就任するようになり、公卿への昇進への登竜門ともいえる役職となった。また、その際に参議に就任するものが後任の適格者を推挙する例があり、源俊賢が藤原行成を推したことが知られている。 蔵人頭は武官である近衛中将と、文官である弁官の大弁または中弁から1名ずつ選ばれることが多くなり、それぞれ「頭中将(とうのちゅうじょう)」、「頭弁(とうのべん)」と呼ばれた。藤原俊憲の『貫首秘抄』には、頭中将は「禁中万事」を申し行い、頭弁は「天下巨細」を執奏するとされ、頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、頭弁は天皇と太政官の間で政務に関する連絡を担当したと記されている。頭中将は上流貴族出身者が務めたのに対し、頭弁は実務処理能力が重視された。このため、朝廷や摂関家政所において実務官僚を務めた勧修寺流・日野流などの藤原北家や高棟流平氏などの中級貴族の家系から輩出され、後にこれが通例となった。ただしそれ以外の職から選ばれることもあり、その場合には、それぞれの職にあわせて「頭亮(とうのりょう)」、「頭頭(とうのとう)」等と呼ばれた。10世紀頃までは、近衛少将で蔵人頭に補される例もよく見られ、2名とも頭中将である例や2名とも頭弁である例もあり、頭中将と頭弁1名ずつの原則が定着したのは平安時代末期の頃であった。院政期には、官職の推挙に院の近臣が容喙することが増えたためか、再びこの慣習が乱れ、安元2年(1176年)12月5日の除目において、蔵人頭に左中将藤原定能と右中将藤原光能が任ぜられたという例がある。 良岑衆樹は54歳になって任じられた。.
醍醐天皇
醍醐天皇(だいごてんのう、元慶9年1月18日(885年2月6日)- 延長8年9月29日(930年10月23日))は、平安時代の第60代天皇(在位:寛平9年7月13日(897年8月14日)- 延長8年9月22日(930年10月16日))。臣籍の身分として生まれた唯一の天皇で、はじめ源 維城(みなもと の これざね)といった。のち父の即位とともに皇族に列し親王宣下ののちに敦仁(あつぎみ・あつひと)に改めた。 宇多天皇の第一皇子。母は内大臣藤原高藤の女藤原胤子。養母は藤原温子(関白太政大臣基経の女)。.
雅楽
御前での胡蝶の舞、『日本の礼儀と習慣のスケッチ』より、1867年出版 雅楽(ががく)は、中国、朝鮮半島を経て、日本で花開いた伝統的な音楽の一つ(ベトナムについてはベトナムの雅楽を参照)。世界最古のオーケストラと言われる。以下、宮内庁式部職楽部に伝わる日本の雅楽(重要無形文化財、ユネスコの無形文化遺産→2007年)を中心に述べる。.
陽成天皇
陽成天皇(ようぜいてんのう、貞観10年12月16日(868年1月2日) - 天暦3年9月29日(949年10月23日))は、平安時代前期の第57代天皇(在位:貞観18年11月29日(876年12月18日) - 元慶8年2月4日(884年3月4日))。諱は貞明(さだあきら)。.
東大寺別当次第
東大寺別当次第(とうだいじべっとうしだい)とは、東大寺の歴代の別当に関して、その補任年月日・任期・師資関係・事績などが列記された記録。.
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権門
権門(けんもん)とは、古代末期から中世の日本において、社会的な特権を有した権勢のある門閥・家柄・集団を指す言葉。類似した意味を持つ勢家(せいか/せいけ)と組み合わせて、権門勢家ともいった。 「権門」と「勢家」はともに中国の古典に記された故事に由来する語で、平安時代初め頃から使われるようになる。902年(延喜2年)3月13日付太政官符(すなわち『延喜の荘園整理令』)には、「権門」「多勢之家(勢家)」などの語がすでに見られ、諸院諸宮王臣家あるいは五位以上の貴族の意味で用いられていたことがわかる。 摂関政治の時代に入ると、地方の在地領主が国司の介入を排除するため権門に土地を荘園として寄進して不輸権・不入権を獲得するようになった(荘園領主)。特に藤原北家でも摂関の地位を占める可能性のある一族に寄進が集中して格差が拡大し、それ以外の貴族が「寒門」として没落するようになった。当時の政治は権門によって運営されていたために、荘園整理などの権門抑制策には消極的だったが、一方で政治的権威の基盤である太政官 - 国衙の支配体制の崩壊も望まれるところではなく、官物率法の導入などによってその最低限の維持政策は取られ続けていた。 しかし院政の時代に入ると藤原北家への権力の集中に翳りが見え始め、それと平行して治天の君(皇室の家督)、興福寺や延暦寺などの大寺社勢力、そして桓武平家、清和源氏に代表される武士団を背景とした新しい武家勢力の棟梁などが、新たな権門として浮上するようになる。これらはしばらくの間互いを牽制するかたちで並列的に存在したが、やがて平安時代末期の源平合戦の動乱から鎌倉幕府の成立を経て、いわゆる「荘園公領制」の時代に入ると、「権門体制」と呼ばれる新秩序が確立されたと考えられている。 Category:平安時代 Category:日本の荘園制.
橘広相
橘 広相(たちばな の ひろみ、承和4年(837年) - 寛平2年5月16日(890年6月10日))は、平安時代前期の公卿・学者。初名は博覧。橘氏長者、若狭守・橘峯範の次男。官位は正四位上・参議、贈従三位・中納言。.
正三位
正三位(しょうさんみ)とは、位階及び神階のひとつ。従二位の下、従三位の上に位する。日本では「おおいみつのくらい」とも読む。.
正一位
正一位(しょういちい)は、位階及び神階のひとつ。諸王及び人臣における位階・神社における神階の最高位に位し、従一位の上にあたる。.
正二位
正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.
正五位
正五位(しょうごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。従四位の下、従五位の上に位する。贈位の場合、贈正五位という。.
歌舞伎
歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.
清和天皇
清和天皇(せいわてんのう、嘉祥3年3月25日(850年5月10日) - 元慶4年12月4日(881年1月7日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年11月7日(858年12月15日) - 貞観18年11月29日(876年12月18日)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。 文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣・藤原良房の娘、女御・明子。.
源博雅
源 博雅(みなもと の ひろまさ)は、平安時代中期の公卿・雅楽家。醍醐天皇の孫。兵部卿・克明親王の長男。官位は従三位・皇后宮権大夫。博雅三位(はくがのさんみ)、長秋卿と呼ばれる。管弦の名手。.
源光 (公卿)
源 光(みなもと の ひかる、承和12年6月2日(845年7月9日) - 延喜13年3月12日(913年4月21日))は、平安時代の公卿。仁明天皇の皇子(第三源氏)。官位は正二位・右大臣、贈正一位。西三条右大臣を号す。.
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源能有
源 能有(みなもと の よしあり)は、平安時代前期の公卿。文徳天皇の皇子。官位は正三位・右大臣、贈正二位。号は近院大臣。.
源興基
源 興基(みなもと の おきもと、承和12年(845年) - 寛平3年9月10日『日本紀略』。『公卿補任』では11日。(891年10月16日))は、平安時代初期の皇族・公卿。もと興基王と名乗るが、臣籍降下して仁明源氏となる。四品・人康親王の長男。官位は正四位下・参議。.
源重信
源 重信(みなもと の しげのぶ)は、平安時代中期の公卿。宇多天皇の皇子である式部卿・敦実親王の四男。官位は正二位・左大臣、贈正一位。六条左大臣と号す。.
源雅信
源 雅信(みなもと の まさざね、延喜20年(920年) - 正暦4年7月29日(ユリウス暦993年8月19日))は、平安時代中期の貴族。宇多天皇の皇子である敦実親王の三男で宇多源氏の祖。藤原氏全盛期を築いた藤原道長の正室である源倫子の父。従一位・左大臣。贈正一位。一条左大臣又は鷹司左大臣と号した。出家後の法名は覚実。.
源氏
源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.
源湛
源 湛(みなもと の たたう)は平安時代前期から中期にかけての公卿。左大臣・源融の長男。.
源昇
源 昇(みなもと の のぼる)は、平安時代初期から中期にかけての公卿。嵯峨源氏、左大臣・源融の次男。官位は正三位・大納言。河原大納言と号す。.
本康親王
本康親王(もとやすしんのう、生年不詳 - 延喜元年12月14日(902年1月26日)は、平安時代初期から前期にかけての皇族。仁明天皇の第五皇子。官位は一品・式部卿。八条宮と号した。.
昌泰
昌泰(しょうたい)は、日本の元号の一つ。寛平の後、延喜の前。898年から901年までの期間を指す。この時代の天皇は醍醐天皇。.
昌泰の変
昌泰の変(しょうたいのへん)は、901年(昌泰4年)1月、左大臣藤原時平の讒言により醍醐天皇が右大臣菅原道真を大宰員外帥として大宰府へ左遷し、道真の子供や右近衛中将源善らを左遷または流罪にした事件。.
流罪
ダンテ』 流罪(るざい)とは刑罰の一つで、罪人を辺境や島に送る追放刑である。流刑(るけい、りゅうけい)、配流(はいる)とも言う。特に流刑地が島の場合には島流し(しまながし)とも呼ばれる事もある。 歴史的には、本土での投獄より、遠いところに取り残された方が自分一人の力だけで生きていかなければならなくなり、苦痛がより重い刑罰とされていた。ほか、文化人や戦争・政争に敗れた貴人に対して、死刑にすると反発が大きいと予想されたり、助命を嘆願されたりした場合に用いられた。配流の途中や目的地で独り生涯を終えた流刑者は多いが、子孫を残したり、赦免されたりした例もある。脱走を企てた流刑者や、源頼朝、後醍醐天皇、ナポレオン・ボナパルトのように流刑地から再起を遂げた(一時的な成功も含めて)政治家・武人もいた。 日本では離島への文化伝播に大きな役割を果たしたほか、海外ではシベリアやオーストラリアといった植民地に労働力を送り込む強制移民としても機能した。.
浄蔵
浄蔵(じょうぞう、寛平3年(891年)- 康保元年11月21日(964年12月27日))は、平安時代中期の天台宗の僧。父は三善清行。兄弟に日蔵がいる。 宇多法皇に師事して出家。比叡山で玄昭に密教を、大慧に悉曇を学んだ。扶桑略記によれば、909年(延喜9年)怨霊となり藤原時平を祟っているという菅原道真を調伏しに行くが、時平の両耳から青竜に化現した道真が現れ祈祷を制止したので調伏を辞退した。その後、ほどなくして時平は死去したという。 935年(承平5年)から940年(天慶3年)にかけて平将門が関東で乱をおこすと、その調伏のため修法を行い霊験があり、その他にも験があたったという。美声の声明を行うことでも知られ、また天文・医薬にも通じていた。 Category:平安時代の僧 Category:天台宗の僧 Category:三善氏 Category:891年生 Category:964年没.
日本三代実録
『日本三代実録』(にほんさんだいじつろく)は、日本の平安時代に編纂された歴史書。六国史の第六にあたり、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。編年体、漢文、全50巻。.
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日本紀略
日本紀略(にほんきりゃく)は、平安時代に編纂された歴史書で、六国史の抜粋と、六国史以後後一条天皇までの歴史を記す。範囲は神代から長元9年(1036年)まで。編者不詳。漢文、編年体、全34巻。.
摂政
摂政(せっしょう、英:Regent)とは、君主制を採る国家において、君主が幼少、女性、病弱、不在などの理由でその任務(政務や儀式)を行うことが出来ない時、君主に代わってそれを行う(政を摂る)こと、またはその役職のことである。 多くの場合、君主の後継者(皇太子など)、兄弟、母親、あるいは母方の祖父や叔父などの外戚が就任する。.
摂政・関白の一覧
日本の摂政および関白(摂関)の一覧。 なお、摂政・関白の具体的な職掌などについてはそれぞれの項目を参照のこと。.
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敦実親王
敦実親王(あつみしんのう、寛平5年(893年) - 康保4年3月2日(967年4月14日))は、平安時代中期の皇族。宇多天皇の第八皇子。母は贈皇太后・藤原胤子で、醍醐天皇の同母弟。官位は一品・式部卿。六条宮を称した。.
数え年
数え年(かぞえどし)とは、年齢や年数の数え方の一つで、生まれてから関わった暦年の個数で年齢を表す方法である。即ち、生まれた年を「1歳」「1年」とする数え方である。 以降、暦年が変わる(元日(1月1日)を迎える)ごとにそれぞれ1歳、1年ずつ“年をとる”(例:12月31日に出生した場合、出生時に1歳で翌日には2歳となる。また1月1日に出生した場合は、2歳になるのは翌年の1月1日になる)。数え歳や数えともいい、年齢以外の項目では足掛け(あしかけ)ともいう。年齢の序数表示(たとえば、満年齢の0歳をあらわす英語の “first year of life” など)とは異なる。 これに対し、誕生日前日24時を過ぎた時点で加齢・加年する数え方を「満年齢」「満」といい、生まれた年を「0歳」「0年」として暦年が変わるごとに加齢加年する数え方を「周年」という。本項においては、主に年齢に関する事柄について記述する。.
慶頼王
慶頼王(よしよりおう/やすよりおう)は、平安時代の皇族。皇太子保明親王の第一王子で、母は藤原時平の娘・仁善子。同母妹に煕子女王がいる。父親王の薨去に伴い醍醐天皇の皇太子(皇太孫)に立てられたが夭逝した。.
扶桑略記
『扶桑略記』第21巻 『扶桑略記』(ふそうりゃくき)は、平安時代の私撰歴史書。総合的な日本仏教文化史であるとともに六国史の抄本的役割を担って後世の識者に重宝された。 寛治8年(1094年)以降の堀河天皇代に比叡山功徳院の僧・皇円が編纂したとされるが、異説もある。全30巻より成り、このうち巻二~六、巻二十~三十の計16巻と、巻一及び巻七~十四の抄記が現存する。 内容は、神武天皇より堀河天皇の寛治8年(1094年)3月2日までの国史について、帝王系図の類を基礎に和漢年代記を書入れ、さらに六国史や『慈覚大師伝』などの僧伝・流記・寺院縁起など仏教関係の記事を中心に、漢文・編年体で記している。多くの典籍を引用していることは本書の特徴の一つであるが、その大半が今日伝存せず、出典の明らかでない記事も当時の日記・記録によったと思われる。『水鏡』・『愚管抄』など鎌倉時代の歴史書にもしばしば引用され、後世に与えた史的意義は大きい。.
怨霊
葛飾北斎画『近世怪談霜夜星』に登場する怨霊(左) 怨霊(おんりょう)とは、自分が受けた仕打ちに恨みを持ち、たたりをしたりする、死霊または生霊のことである。 悪霊に分類される。.
10月15日
10月15日(じゅうがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から288日目(閏年では289日目)にあたり、年末まであと77日ある。.
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10月2日
10月2日(じゅうがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から275日目(閏年では276日目)にあたり年末まであと90日ある。.
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10月8日 (旧暦)
旧暦10月8日(きゅうれきじゅうがつようか)は、旧暦10月の8日目である。六曜は大安である。.
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11月26日
11月26日(じゅういちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から330日目(閏年では331日目)にあたり、年末まであと35日ある。.
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11月26日 (旧暦)
旧暦11月26日は旧暦11月の26日目である。六曜は赤口である。.
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1777年
記載なし。
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1月10日 (旧暦)
旧暦1月10日(きゅうれきいちがつとおか)は、旧暦1月の10日目である。六曜は仏滅である。.
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1月14日
1月14日(いちがつじゅうよっか、いちがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から14日目に当たり、年末まであと351日(閏年では352日)ある。誕生花はシクラメン、シンビジューム、スイートピー、サフラン。.
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1月16日 (旧暦)
旧暦1月16日は、旧暦1月の16日目である。六曜は仏滅である。.
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1月2日 (旧暦)
旧暦1月2日(きゅうれきいちがつふつか)は、旧暦1月の2日目である。六曜は友引である。.
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1月7日 (旧暦)
旧暦1月7日(きゅうれきいちがつなのか)は、旧暦1月の7日目である。六曜は先勝である。.
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2月10日
2月10日(にがつとおか)は、グレゴリオ暦で年始から41日目にあたり、年末まであと324日(閏年では325日)ある。.
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2月13日
2月13日(にがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から44日目にあたり、年末まであと321日(閏年では322日)ある。.
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2月14日 (旧暦)
旧暦2月14日は旧暦2月の14日目である。六曜は先負である。.
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2月16日 (旧暦)
旧暦2月16日は旧暦2月の16日目である。六曜は大安である。.
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2月17日 (旧暦)
旧暦2月17日は旧暦2月の17日目である。六曜は赤口である。.
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2月1日
2月1日(にがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から32日目にあたり、年末まであと333日(閏年では334日)ある。.
2月21日 (旧暦)
旧暦2月21日は旧暦2月の21日目である。六曜は仏滅である。.
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2月22日 (旧暦)
旧暦2月22日は旧暦2月の22日目である。六曜は大安である。.
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2月23日
2月23日(にがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から54日目にあたり、年末まであと311日(閏年では312日)ある。.
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2月26日
2月26日(にがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から57日目にあたり、年末まであと308日(閏年では309日)ある。.
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2月4日
2月4日(にがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から35日目に当たり、年末まであと330日(閏年では331日)ある。.
3月11日
3月11日(さんがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から70日目(閏年では71日目)にあたり、年末まであと295日ある。 日本では2011年に東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)が発生し、東北地方や関東地方の太平洋沿岸等を巨大な津波が襲った。.
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3月17日
3月17日(さんがつじゅうななにち、さんがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から76日目(閏年では77日目)にあたり、年末まであと289日ある。.
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3月19日
3月19日(さんがつじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から78日目(閏年では79日目)にあたり、年末まであと287日ある。.
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3月19日 (旧暦)
旧暦3月19日は旧暦3月の19日目である。六曜は先負である。.
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3月27日
3月27日(さんがつにじゅうななにち、さんがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から86日目(閏年では87日目)にあたり、年末まであと279日ある。.
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3月31日
3月31日(さんがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から90日目(閏年では91日目)にあたり、年末まであと275日ある。3月の最終日。 日本では前年4月始まりの年度最終日とされている。.
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4月11日 (旧暦)
旧暦4月11日は旧暦4月の11日目である。六曜は友引である。.
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4月1日 (旧暦)
旧暦4月1日(きゅうれきしがつついたち)は旧暦4月の1日目である。六曜は仏滅である。.
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4月25日
4月25日(しがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から115日目(閏年では116日目)にあたり、年末まではあと250日ある。誕生花はシャガ、モッコウバラ。.
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4月26日
4月26日(しがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から116日目(閏年では117日目)にあたり、年末まではあと249日ある。この日には地球が元日の時から2天文単位(地球の公転軌道の直径分)動いたことになる。誕生花はスカビオサ、ミヤコワスレ。.
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4月2日 (旧暦)
旧暦4月2日(きゅうれきしがつふつか)は旧暦4月の2日目である。六曜は大安である。.
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4月4日 (旧暦)
旧暦4月4日(きゅうれきしがつよっか)は旧暦4月の4日目である。六曜は先勝である。.
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4月5日 (旧暦)
旧暦4月5日(きゅうれきしがついつか)は旧暦4月の5日目である。六曜は友引である。.
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5月12日
5月12日(ごがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から132日目(閏年では133日目)にあたり、年末まではあと233日ある。誕生花はアスチルベ。.
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5月14日 (旧暦)
旧暦5月14日は旧暦5月の14日目である。六曜は赤口である。.
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5月1日
5月1日(ごがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から121日目(閏年では122日目)にあたり、年末まであと244日ある。誕生花はプリムラ・ポリアンサ。.
5月26日
5月26日(ごがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から146日目(閏年では147日目)にあたり、年末まではあと219日ある。誕生花はワサビ。.
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5月2日
5月2日(ごがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から122日目(閏年では123日目)にあたり、年末まではあと243日ある。誕生花はスズラン。.
5月4日 (旧暦)
旧暦5月4日(きゅうれきごがつよっか)は、旧暦5月の4日目である。六曜は友引である。.
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5月5日
5月5日(ごがついつか)はグレゴリオ暦で年始から125日目(閏年では126日目)にあたり、年末まではあと240日ある。誕生花はハナショウブ。.
6月19日 (旧暦)
旧暦6月19日は旧暦6月の19日目である。六曜は赤口である。.
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6月27日
6月27日(ろくがつにじゅうななにち、ろくがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から178日目(閏年では179日目)にあたり、年末まであと187日ある。誕生花はホタルブクロ、サンダーソニア。.
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6月6日
6月6日(ろくがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から157日目(閏年では158日目)にあたり、年末まであと208日ある。誕生花はジギタリス、スターチス。.
7月13日 (旧暦)
旧暦7月13日は旧暦7月の13日目である。六曜は先勝である。.
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7月26日
7月26日(しちがつにじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から207日目(閏年では208日目)にあたり、年末まであと158日ある。誕生花はヒャクニチソウ、ヤマトナデシコ。.
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7月3日 (旧暦)
旧暦7月3日(きゅうれきしちがつみっか)は旧暦7月の3日目である。六曜は先負である。.
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7月7日 (旧暦)
旧暦7月7日(きゅうれきしちがつなのか)は旧暦7月の7日目である。六曜は先勝である。.
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871年
記載なし。
886年
記載なし。
887年
記載なし。
889年
記載なし。
890年
記載なし。
891年
記載なし。
892年
記載なし。
893年
記載なし。
897年
記載なし。
898年
記載なし。
899年
記載なし。
8月12日
8月12日(はちがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から224日目(閏年では225日目)にあたり、年末まであと141日ある。.
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8月18日
8月18日(はちがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から230日目(閏年では231日目)にあたり、年末まであと135日ある。.
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8月26日 (旧暦)
旧暦8月26日は旧暦8月の26日目である。六曜は先負である。.
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8月8日
8月8日(はちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から220日目(閏年では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。.
901年
記載なし。
902年
記載なし。
907年
記載なし。
909年
記載なし。
9月21日
9月21日(くがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から264日目(閏年では265日目)にあたり、年末まであと101日ある。.
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9月21日 (旧暦)
旧暦9月21日は旧暦9月の21日目である。六曜は大安である。.
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9月8日 (旧暦)
旧暦9月8日は旧暦9月の8日目である。六曜は仏滅である。.
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