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総理各国事務衙門

索引 総理各国事務衙門

総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん、通称:総理衙門、満州語:、転写:geren gurun i baita be uherileme icihiyara yamun)は、清朝後期、外交や洋務(鉱山や鉄道に関する政策等)を管轄するために設立された官庁。1861年1月20日から1901年9月7日まで存在した。「総署」、「訳署」とも略称される。以下の解説では総理衙門と簡称する。時代が下るにつれて中国外交における影響力は低下したが、それまでの歴代中国王朝の外交手法を一変させる作用があった。 総理衙.

108 関係: 南京市台南同文館天津市天津条約 (1858年)外務省外蒙古崇厚左宗棠丁日昌両広総督両江総督九江市広州市広東システム広東省廖寿恒張佩綸張蔭桓徐継ヨ徐用儀北京大学北京市北京議定書北京条約北洋通商大臣ロバート・ハートロシア帝国フランス営口市アメリカ合衆国アロー戦争アンソン・バーリンゲームイギリス冊封内閣大学士六部倭仁皇帝王文韶理藩院礼部義和団の乱翁同ワ瓊州煙台市鎮江市聯元青海袁昶...裕庚裕禄西太后西蔵親王許庚身許景澄譚廷襄趙舒翹軍機大臣軍機処胡イツフン郭嵩トウ阿片戦争閻敬銘薛煥董恂陳蘭彬李鴻章李鴻藻東城区栄禄桂良欽差大臣毛昶熙汕頭市沈桂芬洪鈞淡水区満州語漢口朝貢戊戌の変法戸部 (六部)海南島新疆ウイグル自治区文祥日清戦争愛新覚羅奕キョウ愛新覚羅奕キン愛新覚羅載イ曽紀沢景廉1820年1835年1857年1858年1860年1861年1866年1867年1868年1870年1901年1911年1月20日9月7日 インデックスを展開 (58 もっと) »

南京市

南京市(ナンキンし、、、)は、中華人民共和国の副省級市で、江蘇省の省都。古くから長江流域・華南の中心地で、かつては三国・呉、東晋、南朝の宋・斉・梁・陳(以上の6朝を総称して六朝)、十国の南唐や明といった王朝や南京国民政府の首都であった。中国四大古都の一つ。14世紀から15世紀にかけて、世界最大の都市であった。2016年の都市的地域の人口は678.14万人であり、総人口は827万人である。 金陵(きんりょう)は南京の別名である。また清朝のころには江寧(こうねい、簡体字:江宁)と呼ばれたことから略称は「寧(簡体字:宁)」である。夏はとても暑く、重慶、武漢と並ぶ中国三大ボイラー(三大火炉)の一つと言われている。.

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台南

台南(たいなん) 台南市.

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同文館

同文館(どうぶんかん)は清末の洋務運動期に成立した、ヨーロッパ言語の教育を主とした機関。京師同文館ともいう。 1862年、恭親王奕訢の建議で設立された。外交事務にあたって外国語ができる人材の育成を目的としていた。制度上は総理各国事務衙門の管轄下に置かれた。成立直後は、英語・仏語・露語の教授を宣教師たちに依頼していた。その後、独語・日本語・天文学・数学・化学・医学・工学・西洋史・国際法の専攻が追加された。 1867年、徐継畬が担当大臣に任命され、同文館の発展は軌道に乗るようになる。1864年からアメリカ人宣教師ウィリアム・マーティン(丁韙良)が教授に就任していたが、1869年には校長となり、マーティンのもとで教育課程が整備された。教育課程は8年間で、最初の3年間は語学を学び、残りの5年間で各専攻に分かれるというものであった。1879年の時点では、163人の学生がおり、英語、フランス語、数学を専攻する学生が多かった。 著名な教員に数学者の李善蘭、科学者の徐寿などがいた。 同文館には教育機関の他、翻訳作業も行い、1873年には出版会を開いた。これは中国で最も早い大学出版会であり、数多くの本を翻訳して出版した。 1900年、義和団の乱で閉鎖。結局1902年に同文館は京師大学堂(現在の北京大学)に吸収された。 Category:清朝 Category:教育史 Category:北京の教育 Category:北京の歴史.

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天津市

天津市(てんしんし/ティエンジンし、、、)は、中華人民共和国に位置する直轄市。国家中心都市の一つ。略称は津。 天津は華北平原海河の五大支流の合流する所に位置し、東に渤海を、北に燕山を臨む。市内を流れる海河は天津の母親河とも呼ばれる。 環渤海湾地域の経済的中心地であり、中国北方最大の対外開放港である。首都北京市とは高速道路、高速直通列車、京津城際線によって、0.5〜2時間以内で結ばれている。元々は海河の河港であったが、河口の塘沽に大規模な港湾やコンテナターミナル、工業地帯が形成されている。経済成長率の高さはここ数年に渡り、全国トップである。2017年の第13期の全国体育大会の開催が決まっており、夏季ダボスフォーラム常駐開催都市でもある。 市区人口は506万人、都市圏人口は720万人。.

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天津条約 (1858年)

条約の調印の様子 条約の締結 天津条約(てんしんじょうやく、Treaty of Tianjin)は、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。 1856年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、その後さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でロシア・アメリカ・イギリス・フランスの4国と結んだものである。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。.

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外務省

外務省(がいむしょう、Ministry of Foreign Affairs、略称:MOFA)は、日本の行政機関の一つである。 外務省設置法第3条により、「平和で安全な国際社会の維持に寄与するとともに主体的かつ積極的な取組を通じて良好な国際環境の整備を図ること並びに調和ある対外関係を維持し発展させつつ、国際社会における日本国及び日本国民の利益の増進を図ること」を任務とする。.

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外蒙古

外蒙古(がいもうこ)は、北京を基準とする「内」「外」という語彙をもちいてモンゴルを南北に区分する分類法において、ゴビ砂漠の北側部分をさす呼称。19世紀後半、中国人が執筆した中国語文献において、外藩蒙古に分類されるモンゴル系諸侯のうち北元系の王公を区分するための概念として出現した。20世紀初頭以降、南北の位置関係を「内」「外」(または同義の訳語)で区分する用語は英語、日本語等でも使用されるようになった(英語:Outer Mongolia、日本語:外蒙古・外蒙・外モンゴル)。モンゴルでは北京を基準とする「内」「外」の用語を嫌い、独立国であるモンゴル国、中国領の自治区である内蒙古自治区のいずれにおいても、「北」「南」を意味する「北モンゴル(アル・モンゴル)」、「南モンゴル(ウブル・モンゴル)」という用語が使用されている。.

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崇厚

崇厚(すうこう、チュンホウ、ᠴᡠᠩ ᡥᡝᠣ 転写:cung-heo、Chonghou, 1826年10月7日 - 1893年3月26日)は、清朝の官僚。字は地山。満州鑲黄旗人で、金の皇室ワンギャ氏(wanggiya hala、完顔氏)の末裔。河道総督麟慶の子で盛京将軍崇実(チュンシ)は兄。 道光29年(1849年)に挙人となり、咸豊8年(1858年)に正四品永定河道に任命、同年から起こったアロー戦争の戦後処理を務め、咸豊10年(1860年)に正二品長蘆塩運使、翌11年(1861年)1月20日に三口通商大臣に任命され、天津条約で開港した牛荘(現在の営口市)・天津・登州(現在の威海市と煙台市北部)の三口を管轄、外国交渉を担当した。これは恭親王奕訢の抜擢があり、彼が推進した洋務運動にも加わり天津に天津機器製造局を設立した。 しかし、民衆の外国人に対する敵対感情から同治9年(1870年)にフランス領事アンリ・フォンタニールが暴徒に射撃、激怒した暴徒に殺害され外国人も多数殺される事件(天津教案)が発生すると、手に負えないとみた崇厚は直隷総督曽国藩に応援を要請して交渉を任せ、自身は謝罪使として10月25日にフランスの首都パリへ赴いた。交渉は曽国藩の尽力で纏まり、人事異動で曽国藩が両江総督となり、李鴻章が後任の直隷総督となった。合わせて11月12日に北洋通商大臣と改称された三口通商大臣が李鴻章の兼任となり、崇厚は帰国後は兵部左侍郎と総理各国事務衙門大臣に転任、光緒2年(1876年)に急死した兄崇実の盛京将軍も継承した。 光緒4年(1878年)11月、北方のイリ地方がロシアに占領されていたため、打開のため全権大使としてロシアの首都サンクトペテルブルクへ派遣され、翌5年(1879年)10月2日にクリミア半島のリヴァディア宮殿でリヴァディア条約を締結した。しかし、内容はイリ地方のロシアへの大幅な割譲とロシアの経済特権などを認めた不平等条約で、清からは左宗棠・張之洞らが非難の声を挙げ、激怒した西太后は光緒6年(1880年)に帰国した崇厚を死刑にしようとした。イギリス公使トーマス・ウェードの助命嘆願で赦免され、代わりにロシアへ派遣された曽紀沢が光緒7年(1881年)にリヴァディア条約を修正したイリ条約を締結したことで清は面目を保ったが、以後活動の場を与えられず光緒19年(1893年)に66歳で没した。.

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左宗棠

左宗棠 左宗棠 左 宗棠(さ そうとう、1812年11月10日 - 1885年9月5日)は、清朝末期の著名な大臣。太平天国の乱の鎮圧に活躍し、洋務派官僚としても有名。中国では「清代最後の大黒柱」と非常に高い評価を受けている(文化大革命期に太平天国が持ち上げられると、逆に評価が下がったこともある)。字は季高、湖南省湘陰県出身。老亮と号する。.

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丁日昌

丁 日昌(てい じつしょう、Ding Richang、1823年 - 1882年)は、清末の軍人・官僚。字は禹生または雨生、号は持静。洋務運動の中心人物の1人。広東省豊順出身。 20歳で秀才となり、郷試には合格しなかったが、恵潮嘉道の李璋煜が記述文章を見て幕僚に招聘した。咸豊4年(1854年)、太平天国軍が潮州を攻撃したが計略で撃退に成功した。咸豊7年(1857年)に軍功で瓊州府学訓導に任命され、次いで江西省廬陵の知県になるが、太平天国軍の攻撃を受けて陥落し、免職となった。咸豊11年(1861年)から湘軍を率いる曽国藩の幕僚となって水軍の準備に協力した。 同治3年(1864年)に蘇淞太兵備道に、翌4年(1865年)には両淮塩運使に就任した。同治6年(1867年)には江蘇布政使、江蘇巡撫に昇進、光緒元年(1875年)に福州船政大臣・福建巡撫となった。在任中には北洋・南洋・東洋の3つの海軍を建設して分担して国防に当たることを主張し、外国人を招いて技術指導にあたらせた。翌2年(1876年)に台湾で炭鉱を開き、中国で初めての電線を引いている。また『海難救護章程』を制定した。 光緒3年(1877年)に病で故郷に帰ったが、翌4年(1878年)には南洋艦隊の指揮を命じられて、総理各国事務衙門大臣も兼任した。政務の余暇には読書を好み、蔵書家としても知られた。.

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両広総督

両広総督(りょうこうそうとく、guwangdong guwangsi uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。広東省・広西省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。 外国貿易都市である広州を管轄するため対外事案を扱う事も多く、19世紀には三角貿易による銀流出を食い止める難しいポストになった。1840年のアヘン戦争・1856年のアロー戦争では広州は主戦場となるなど外国との衝突も多かったため、1844年には全国に先駆けてそれまで臨時官だった欽差大臣(諸外国との交渉のための全権大使)を常設し、両広総督に兼任させた。.

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両江総督

両江総督(りょうこうそうとく、giyangnan giyangsi uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。江蘇省・安徽省・江西省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。地方長官として最高位に当たる総督の中でも管轄下に南京を有する両江総督は非常に重要なポストであったが、同時に管轄下で起こった太平天国の乱に対応しなければならない等、「非常に難しいポスト」でもあった。この「両江」とは、江蘇・安徽省が清初には「江南省」と呼ばれていたため、「江南省と江西省を統括する総督」と呼んだことに由来する。 1866年からは華中の外国貿易港の監督も両江総督の管轄となったため、両江総督が南洋通商大臣を兼任することになった。.

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九江市

九江市(きゅうこう-し)は中華人民共和国江西省北部に位置する地級市。市区部は長江(揚子江)沿岸の重要港湾都市となっている。.

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広州市

広州市(こうしゅうし、、、、)は、中華人民共和国広東省に位置する副省級市で、広東省人民政府が置かれる省都。 広東省のみならず、華南地域全体の経済、文化、教育、交通などの中心都市の一つであり、国務院により、国家中心都市の一つに指定されている。2010年の常住人口は1,270万人、市内総生産は1兆0604億元(約13兆円)であり、昔から羊城と愛称され、花城、穂城の名もあり、穂()と略称される。地下鉄、高速道路網が発達している。 一般に北京市、上海市と共に、中国本土の三大都市の一つに数えられる。また、深圳市を含めた4都市は「一線都市」に分類されており、「北上広深」として四大都市に数えられることもある。アメリカのシンクタンクが2017年に発表した総合的な世界都市ランキングにおいて、世界56位の都市と評価された。中国本土では北京市、上海市に次ぐ3位である。.

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広東システム

広東システム(カントンシステム、英:Canton System)は、中国の清朝中期から後期(1757年 - 1842年)における、清国とヨーロッパ諸国(のちに米国も加わる)との間で行われた貿易管理体制である。「カントン体制」「広東貿易体制」などとも。ヨーロッパ商人との交易を広東(広州)1港のみに限定し、独占的商人を通じて行った貿易体制であり、日本の江戸時代のいわゆる「鎖国」体制における長崎出島での管理貿易体制(長崎貿易)と類似する。従来の中華帝国の交易スタイルであった「朝貢」貿易の一形態と見なされることも多いが、実際は朝貢形式の儀礼コストを省略し、広州現地における商人どうしの通商行動を重視した「互市」システムと理解する方が的確である(後述)。.

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広東省

広東省(カントンしょう、中国語:廣東省(广东省)、中国普通話拼音:Guǎngdōng Shěng、広東語拼音:gwong2 dung1 saang2、英語:Guangdong)は、中華人民共和国南部にある行政区分の一つである。隣の広西チワン族自治区と併せて「両広」と呼ばれる事もある。.

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廖寿恒

廖 寿恒(りょう じゅこう、Liao Shouheng、1839年 - 1903年)、字は仲山、晚号は抑斎。清の官僚。戊戌の変法を支持した。 江蘇省嘉定出身。同治年間に進士となり、庶吉士となった。その後湖南学政、国史館纂修、侍読学士、総理各国事務衙門大臣、兵部・礼部・戸部・吏部侍郎、左都卸史、刑部尚書、礼部尚書を歴任した。 1884年に清仏戦争が勃発すると、廖寿恒は武器の補給にあたり、西南の辺境の防衛に尽力した。1898年に軍機大臣となり、同年に戊戌の変法が開始されると、康有為と光緒帝の文書のやり取りを取りつぐ役割を果たした。1900年に病のために辞職。 Category:清代の人物 Category:清代の進士 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:上海出身の人物 Category:1839年生 Category:1903年没.

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張佩綸

張 佩綸(ちょう はいりん、Zhang Peilun、1848年 ‐ 1903年)は、清末の官僚。字は幼樵、号は蕢斎。直隷豊潤出身。.

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張蔭桓

張 蔭桓(ちょう いんかん、Zhang Yinhuan、1837年 - 1900年)は、清末の外交官・官僚。字は皓巒、号は樵野または紅棉居士。広東省南海出身。 若い時から科挙に挑戦していたが、及第しなかったため諦め、1862年に叔父に従って済南へ行き、金銭を納めて知県の地位を手に入れた。その後、山東巡撫の幕僚となり、巡撫の閻敬銘と丁宝楨からその能力を評価されて道員に推薦され、按察使に昇進した。 やがて北京に召されて総理各国事務衙門に入り、戸部左侍郎に昇進し、その後も工部・刑部・兵部・礼部・吏部を歴任した。1885年にはアメリカ・スペイン・ペルー公使となった。在任中は華僑の労働者(華工)の問題について協議している。 1895年、日清戦争で北洋艦隊が惨敗したため、朝廷は講和のために張蔭桓と湖南巡撫邵友濂を全権大使として派遣した。しかし全権委任状の不備のために交渉を拒絶され、結局李鴻章と交代することになった(李鴻章は下関条約を調印)。1897年にはイギリス・アメリカ合衆国・フランス・ドイツ・ロシアを歴訪した。 張蔭桓は変法運動を支持しており、康有為とも親密であったため、戊戌の政変後、新疆省へ流罪となった。1900年、義和団の乱の最中に流刑先で処刑された。.

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徐継ヨ

徐 継畬(じょ けいよ、Xú Jìyú、1795年 - 1873年)、字は松龕は、清末の政治家・思想家・地理学者。『瀛環志略』の著者として知られており、洋務運動の初期の推進者である。.

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徐用儀

徐 用儀(じょ ようぎ、Xu Yongyi、1826年 - 1900年)、字は吉甫または筱雲、清末の官僚。 浙江省海塩県出身。1859年、郷試に合格。その後、工部侍郎・総理各国事務衙門大臣・兵部侍郎・吏部侍郎などの職を歴任し、軍機大臣に昇進。1894年には太子少保を加えられた。 1894年、日清戦争の直前に主戦派と和平派の間で論争がおこったが、和平派の徐用儀は主戦派の翁同龢と衝突して解任された。1898年、戊戌の政変で西太后が再び政権を握ると、徐用儀も復職した。徐用儀は袁昶と許景澄を推薦し、両名は総理各国事務衙門大臣に任命された。1899年には徐用儀は兵部尚書に任命された。 1900年、義和団の乱が発生すると、徐用儀は義和団の行動の禁止を提議するが受け入れられなかった。各国の軍艦が天津に到着すると、朝廷では和平か戦争かで議論となった。徐用儀・許景澄・袁昶と戸部尚書立山・内閣学士聯元の5名は上書して、義和団を厳罰に処し、八ヶ国連合軍と和平を結ぶように主張した。しかし端郡王載漪らは主戦論を主張して、西太后も主戦論を支持したため、上書は受け入れられなかった。 7月29日、まず袁昶と許景澄が殺害され、徐用儀にも危険が迫っていることは明らかであったが、依然として意気軒高であった。8月11日、立山・聯元とともに逮捕され、菜市口で処刑された。3日後、八ヶ国連合軍は北京に入り、西太后と光緒帝は西安へと逃れた。 12月、光緒帝は徐用儀らの名誉回復を行い、官職を旧に復した。1909年、忠愍の諡号が贈られ、浙江省の人々は西湖に祠堂を建て、許景澄・袁昶とあわせて「三忠」と称した。 category:清代の人物 Category:北清事変の人物 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:嘉興出身の人物 Category:1826年生 Category:1900年没.

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北京大学

北京大学(ペキンだいがく、ピンイン:Běijīng Dàxué、英名:Peking University)は、北京市海淀区に所在する中華人民共和国の国立大学である。1898年に創立された。大学の略称は北大(ベイダァ)。.

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北京市

北京市(ペキンし、、)は、中華人民共和国の首都である。 行政区画上は直轄市であり、中国の華北の中央に位置する。人口は2152万(2014年)であり、中国では上海に次ぐ第二の都市。世界有数のメガシティであり、高い影響力を有する世界都市でもある。古くは大都・燕京・北平とも呼ばれた。.

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北京議定書

北京議定書(ペキンぎていしょ)は、1901年9月7日に北京で調印された、義和団の乱における列国と清国・義和団との戦闘の事後処理に関する最終議定書。日本の外交文書における正式名称は、北清事変に関する最終議定書である。また、中国ではその年をとって辛丑条約(しんちゅうじょうやく)、辛丑和約(しんちゅうわやく)ともいう。欧米では Boxer Protocol の呼び名が一般的である。 なお、1900年10月から始まった和議交渉から、その内容ごとに逐次列強国と清国間で協定を締結し、一部は既に施行されていた。本議定書はその条件履行の最終確認として、双方全権出席の下、調印されたものである。.

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北京条約

北京条約 北京条約(ペキンじょうやく、Convention of Peking)は、1860年(咸豊10年)に清朝とイギリス(10月24日)・フランス(10月25日)連合軍、および清朝とロシア帝国(11月14日)が締結した条約。天津条約の批准交換と追加条約である。.

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北洋通商大臣

北洋通商大臣は清朝の欽差大臣。略して北洋大臣ともいう。 アロー戦争後の1861年に清朝は総理各国事務衙門を設置し、その下に三口通商大臣と五口通商大臣を置き、対外通商と外交事務を担当させた。このうち三口通商大臣は天津に駐在し、天津条約と北京条約で開港された牛荘(現在の営口市)・天津・登州(現在の威海市と煙台市北部)の通商事務を担当した。初代の三口通商大臣は崇厚だった。 1870年に三口通商大臣は北洋通商大臣と改称され、直隷総督が兼任し、直隷省(現在の河北省)・山東省・奉天省(現在の遼寧省)三省の通商・洋務・外交・海防などを担当した。歴代の北洋大臣には李鴻章、王文韶、栄禄、袁世凱らがいる。.

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ロバート・ハート

初代准男爵、サー・ロバート・ハート(Robert Hart、赫徳、1835年 - 1911年)は、清朝末期に洋関総税務司を務めたイギリス人。 アイルランド、アルスターのアーマー州ポータダウンに生まれた。 1853年にクイーンズカレッジを卒業、翌年香港に着いて中国語を学び、寧波に移った後1858年に広東領事館の連合軍軍政庁書記官に就任、翌年広東海関の副税務司に就任した。1863年に総税務司に就任後、40年近く中国に滞在し、一定の影響力を持った。 1900年の義和団の乱の際には外交交渉に奔走した。1908年に賜暇を許され帰国し、3年後に総税務司在職のまま死去。 死後、現在の上海海関前に彼の銅像が建てられたが今は残っていない。 Category:清代の人物 Category:イギリスの準男爵 Category:北清事変の人物 Category:アーマー州出身の人物 Category:1835年生 Category:1911年没.

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ロシア帝国

ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.

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フランス

フランス共和国(フランスきょうわこく、République française)、通称フランス(France)は、西ヨーロッパの領土並びに複数の海外地域および領土から成る単一主権国家である。フランス・メトロポリテーヌ(本土)は地中海からイギリス海峡および北海へ、ライン川から大西洋へと広がる。 2、人口は6,6600000人である。-->.

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営口市

営口市(えいこう-し)は中華人民共和国遼寧省に位置する地級市。経済技術開発区が設置されている。.

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アメリカ合衆国

アメリカ合衆国(アメリカがっしゅうこく、)、通称アメリカ、米国(べいこく)は、50の州および連邦区から成る連邦共和国である。アメリカ本土の48州およびワシントンD.C.は、カナダとメキシコの間の北アメリカ中央に位置する。アラスカ州は北アメリカ北西部の角に位置し、東ではカナダと、西ではベーリング海峡をはさんでロシアと国境を接している。ハワイ州は中部太平洋における島嶼群である。同国は、太平洋およびカリブに5つの有人の海外領土および9つの無人の海外領土を有する。985万平方キロメートル (km2) の総面積は世界第3位または第4位、3億1千7百万人の人口は世界第3位である。同国は世界で最も民族的に多様かつ多文化な国の1つであり、これは多くの国からの大規模な移住の産物とされているAdams, J.Q.;Strother-Adams, Pearlie (2001).

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アロー戦争

アロー戦争(アローせんそう、Arrow War)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である。最終的に北京条約で終結した。戦争の理由の一つであった、中国人による多くの外国人排斥事件のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日本ではアロー戦争と呼称される場合が多い。また、この戦争がアヘン戦争に続いて起きたために、第二次アヘン戦争(Second Opium War)と呼ぶこともある。.

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アンソン・バーリンゲーム

アンソン・バーリンゲーム(Anson Burlingame, 1820年11月14日 - 1870年2月23日)はアメリカ合衆国の政治家・外交官。駐清公使を務め、後に清朝の使節団の代表となった。中国名は蒲安臣。.

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イギリス

レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.

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冊封

冊封(さくほう、さっぽう)とは、称号・任命書・印章などの授受を媒介として、「天子」と近隣の諸国・諸民族の長が取り結ぶ名目的な君臣関係(宗属関係/「宗主国」と「朝貢国」の関係)を伴う、外交関係の一種。「天子」とは「天命を受けて、自国一国のみならず、近隣の諸国諸民族を支配・教化する使命を帯びた君主」のこと。中国の歴代王朝の君主(元朝、清朝を含む)たちが自任した。 冊封が宗主国側からの行為であるのに対し、「朝貢国」の側は.

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内閣大学士

内閣大学士(ないかくだいがくし、満州語:dorgi yamun i aliha bithei da)は、中国明朝および清朝に存在した官職名。殿閣大学士とも呼称され、任官者は中堂という尊称を受けていた。 なお、日本と現代中華圏の内閣制度の呼称はここに由来する。.

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六部

六部(りくぶ、ろくぶ).

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倭仁

倭仁(わじん、ᠸᡝᠰᡞᠨ 転写:wesin、Woren、1804年 - 1871年)、字は艮峰、清末の保守派官僚。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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王文韶

王 文韶(おう ぶんしょう、Wang Wenshao、1830年 - 1908年)は、清末の官僚。字は夔石、号は耕娯または賡虞、晩年は退圃と号した。洋務運動を推進した。浙江省仁和(現在の杭州市)出身。.

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理藩院

藩院(りはんいん、中国語:理藩院、満州語: 、転写 : tulergi golo be darasa jurgan; モンゴル語:γadaγdu mongγul un törü-ji jasaqu jabudal-un jamun)は清朝において諸藩部に関する行政事務統轄を目的に設置された官署。 清朝太宗により平定後の内蒙古の間接統治を目的に設置された蒙古衙門(monggo jurgan)を前身とする。1638年(崇徳3年)に理藩院と改称された。当初、長官には承政、次官には左右参政が設置されたが、1644年(順治元年)に承政を尚書(aliha amban)、参政を侍郎(ashan i amban)とそれぞれ改称されている。1659年(順治16年)には礼部管轄、1661年(順治18年)からは独立した官署となる。 清朝の版図が外蒙古、青海、西蔵、新疆へと拡大するに伴い、これらの地域は藩部と称され、理藩院に統轄されるようになる。理藩院の職務としては諸藩部の朝貢・封爵・俸禄・会盟・駅伝・互市・裁判などが挙げられる。1861年(咸豊10年)に総理各国事務衙門が設置される以前はロシアとの外交・貿易関連事務についてもその職務としていた。 1906年(光緒32年)の官制改革により理藩部と改称、1911年(宣統3年)に内閣制度が創設されると、尚書は大臣、侍郎は副大臣に改められた。.

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礼部

部(れいぶ)は、六部の一で、礼楽儀仗・教育・国家祭祀・宗教・外交・科挙などを司掌した。 祖型は漢代にまで遡り、歴代王朝を通じて整備が進み、一時は祠部と改称された。唐代には、長官に(礼部尚書)、次官に侍郎(礼部侍郎)が置かれ、礼部に属する礼部司(礼楽・儀式・衣冠など)・祠部(しぶ)司(祠祀・国忌・廟・諱・天文・医薬・宗教)・膳部(ぜんぶ)司(飯膳・食糧)・主客(しゅかく)司(外交)の4司それぞれに判官であるとが設置された。科挙の学術試験は礼部侍郎が司掌するが、その合格者は更に吏部で身言書判が試験(吏部試)されて官吏に登用される定めであった。 宋代には代官を充てていたが、元豊年間(基督教暦11世紀後葉)の改革で復旧し、明、清代を通じて存在した。清宣統3年(同1911年)の内閣官制実施で廃止された。.

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義和団の乱

義和団のメンバー 1900-1904年の東アジア時局図 義和団の乱(ぎわだんのらん、)は、1900年に起こった、中国の清朝末期の動乱である。 義和団事件・義和団事変・北清事変(ほくしんじへん)・北清事件(ほくしんじけん)・清国事変などの呼び方もあり、中国では戦争が起こった年の干支から庚子事変(こうしじへん)とも言われるが、本項では「義和団の乱」で統一する。 当初は義和団を称する秘密結社による中国での排外運動であったが、1900年(光緒26年)に清国の西太后がこの叛乱を支持して6月21日に欧米列国に宣戦布告したため国家間戦争となった。だが、宣戦布告後2か月も経たないうちに欧米列強国軍は首都北京及び紫禁城を制圧、清朝は莫大な賠償金の支払いを余儀なくされる。禁圧の過程でイギリスとドイツは、清の許可を得ずに上海=北京間、膠州、威海衛、旅順に電信ケーブルを敷設した。この乱の後、西洋的方法を視野に入れた政治改革の必要を認識した西太后は、かつて自らが失敗させた戊戌の変法を手本としたいわゆる光緒新政を開始した。.

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翁同ワ

翁 同龢(おう どうわ、Weng Tonghe、1830年 - 1904年)は、清末の政治家・書家。翁同和とも書く。字は叔平、号は松禅。晩年は瓶庵居士と号した。清末の政治家・書家。翁心存の3男で翁同書、翁同爵の弟。江蘇省常熟出身。 父は咸豊・同治期の大学士で咸豊帝・恭親王奕訢兄弟の師であった。長兄の翁同書は安徽巡撫に至ったが曽国藩・李鴻章らに弾劾された。これにより後年、李鴻章と厳しく対立することとなった。 1856年に状元となり、同治帝と光緒帝の師を務めた。官職は工部尚書・軍機大臣・総理各国事務衙門大臣に至った。1873年の楊乃武と小白菜事件では判決に疑義をはさんだため、西太后は再審を命じた。このため事件は「両湖派」と「江浙派」の対立に発展した。 帝師という立場から皇帝の政治思想に深い影響を与え、1889年に光緒帝が親政を始めると馮桂芬の『校邠盧抗議』を提出し、西洋の学問の重要性と穏健な改革を説いた。1884年の清仏戦争では劉永福を支持し、1894年の日清戦争では主戦論を唱えている。光緒帝の親政と共に李鴻藻と並ぶ派閥(帝党)の領袖となり、西太后・李鴻章ら后党と対立していった。 変法運動が高まると、康有為を光緒帝に推薦したが、戊戌の変法の直前に西太后に迫られた光緒帝に解任されてしまった。その後、故郷で病死した。文恭の諡号が贈られた。 著作に『瓶庵詩稿』『翁文恭公日記』『翁文恭公軍機処日記』などがある。書の分野においても著名であった。晩年には書の代筆に趙古泥を起用している。.

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瓊州

州(けいしゅう)は中華人民共和国海南省にかつて設置された州。現在の海口市一帯に相当する。.

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煙台市

煙台市(えんたい-し、中国語:烟台市、英語:Yantai)は中華人民共和国山東省に位置する地級市。山東半島東部に位置する港湾都市である。山東半島の北海岸を占め渤海湾に面し、東は威海に、南と西は青島にそれぞれ接する。 山東省最大の漁港であり、なおかつ最初期に対外経済開放された沿岸都市の一つで、産業都市としても急発展している。現在は環境のよさ、景観のよさ、投資環境のよさが中国でも指折りと評価されている。海岸線に沿って広がる砂浜や断崖は、観光地として全中国から人が集まる。 かつて西洋人にはチーフー(Chefoo)の名で知られたが、これは伝統的に煙台の行政中心であった市の東寄りにある「芝罘」(チーフー、Zhifu)という陸繋島に由来する。今日の「煙台」という名は明の洪武帝の治世だった1398年(洪武31年)に初出する。この年、倭寇対策のために奇山北麓に城が築かれ、その北の山に倭寇襲撃時に警報の狼煙を上げる塔が建設された。これが簡単に「煙台」とよばれるようになった。.

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鎮江市

鎮江市(ちんこうし)は中華人民共和国江蘇省に位置する地級市。古くから商業都市として発達した国家歴史文化名城である。.

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聯元

聯元(れんげん、リャンユワン、ᠯᡞᠶᠠᠨ ᠶᡠᠸᠠᠨ 転写:liyan-yuwan、Lianyuan、1838年 - 1900年)、字は仙蘅、清末の官僚。 満州鑲紅旗人。チュイギャ氏(cuigiya hala、崔佳氏)。1868年に進士となり、やがて内閣学士・総理各国事務衙門行走に昇進した。1900年、義和団の乱が発生し、義和団が各国公使館を包囲した。御前会議で崇綺(チュンキ)が「民気用いるべし」と主張すると、聯元は「民気用いるべし、匪気用いるべからず」と反論し、争論となった。八カ国連合軍が天津の大沽砲台を占拠すると、端郡王載漪らは主戦論を唱えた。聯元は「日清戦争では日本一国にも勝利できなかったのに、八カ国連合軍に勝利できるだろうか」と反論した。しかし載漪はその言葉を不吉として退け、旧暦7月17日、徐用儀・立山(リシャン)とともに聯元を斬首に処した。義和団の乱終結後、聯元は徐用儀・許景澄・袁昶・立山とともに「五忠」と称された。 category:清代の人物 Category:北清事変の人物 Category:満州民族 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:北京出身の人物 Category:1838年生 Category:1900年没.

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青海

青海(せいかい、Qinghai、མཚོ་སྔོན་ 転写:mTsho-sngon、Хөхнуур、 転写:Kökenaγur、ᡥᡠᡥᡠᠨᠣᠣᠷ 転写: huhu noor)は、清朝の雍正帝がグシ・ハン一族を屈服させたのち、チベットの東北部に成立させた地域的枠組み。チベット高原の中央部に分布する遊牧民の居住地域が、1724年 - 1732年に行われた雍正のチベット分割により南北に分割されることによって成立。 アムド地方の西部・中央部とカム地方の北部から成る。 清朝時代は藩部に区分され、理藩院の管轄を受けた(のちに、中華民国の国民政府の時代、河西回廊の一部とあわせて青海省が設けられた)。 中華民国以降の青海地方については青海省 (中華民国)、青海省等を参照。.

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袁昶

袁昶 袁 昶(えん ちょう、Yuan Chang、1846年 - 1900年)、字は爽秋、号は重黎、清末の官僚。 浙江省桐廬県坊郭(現在の杭州市桐廬県桐君街道)出身。貧しい家庭に生まれるが、閩県の高伯年に師事した後、上海の龍門書院に入って劉熙載に師事した。1867年に挙人となり、1876年に進士となって戸部主事の職を授かった。1883年、総理各国事務衙門章京となり、1886年には会典館纂修官となり戸部江西司員外郎となった。 1892年、徽寧池太広道道台となった。在任中は、教育の方面では、「中体西用」の方針で、蕪湖中江書院を拡張し、「経義」「治事」の2学科を設け、経史・性理・数学・格致(物理)などの学問を教えるようにした。治水では銀五千両を投じて、蕪湖西南の大関亭から魯港までの12里にわたって堤防を築いた。また蕪湖に郵便局を設置した。 1898年、山西按察使・江寧布政使となり、さらに総理各国事務衙門大臣、光禄寺卿、太常寺卿に昇進した。 1900年、山東省で義和団が外国人宣教師を殺害するようになると、西太后と端郡王載漪は義和団の力を利用して列強と対決しようとして、各国公使館攻撃の準備を始めた。これに対して袁昶は反対の上奏を行っている。6月16日、西太后が御前会議を招集すると義和団の鎮圧を主張し、袁昶と親しい吏部侍郎許景澄・内閣学士聯元らは袁昶の意見を支持した。この時、開戦に反対の光緒帝は許景澄の手を取って号泣したという。6月17日、8ヶ国連合軍が大沽砲台を占拠。翌日、袁昶は『急救目前危局折』という上奏を行っている。6月21日、清は11ヶ国に宣戦を布告。義和団と清軍が公使館を包囲すると、袁昶は奸民を頼るべきではなく、外交官を殺害してはならないと上奏したが無視された。その後袁昶と許景澄は主戦派の大臣たちを弾劾する上奏文を提出しようとしたが、載漪らは7月27日に袁昶らを逮捕し、7月29日に袁昶と許景澄は処刑された。 結局清朝は8ヶ国連合軍に敗北し北京は陥落した。1900年12月、8ヶ国連合軍が北京から撤退すると、袁昶の名誉回復が行われた。蕪湖の人々は把江中書院を袁太常祠に改め袁昶を祀った。1909年、清朝は袁昶に忠節の諡号を贈り、杭州西湖の孤山の南麓に三忠祠を建設し、処刑された袁昶・許景澄・徐用儀の三人を祀った。1910年には蕪湖の人々は懐爽楼を建てて袁昶を記念している。.

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裕庚

裕庚(ゆうこう、?-1905年12月18日)、正白旗漢軍旗人、字は朗西。清末の官僚・外交官。 科挙の優貢出身。光緒21年(1895年)、広東省の恵潮嘉道道員・四品京堂銜となる。同年、出使日本大臣(駐日公使)として日本に赴任。光緒24年(1898年)に帰国し、太僕寺少卿銜として総理各国事務衙門で勤務。1899年、出使仏国大臣として赴任。1902年、帰国。1905年、上海で病死。 夫人は、アメリカ人の父と中国人の母の間に生まれたルイーザ・ピアソン。 2人の娘徳齢と容齢は、西太后のもとに仕え、外国公使夫人との交際の際に通訳を務めた。後に徳齢は英文で清朝宮廷を題材にした作品を発表する作家となり、容齢はバレエ舞踏家になった。息子の勲齢も宮廷で雑用係を務め、写真撮影ができたために西太后の宮廷生活写真を撮影している。 Category:清代の人物 Category:中国の外交官 Category:1905年没.

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裕禄

裕禄(ゆうろく、ユイル、ᡞᠣᡞ ᠯᡠ 転写:ioi-lu、Yulu、1844年? - 1900年)は、清朝の官僚・軍人。字は寿山。満州正白旗人で氏族はヒタラ(喜塔臘)氏(hitara hala)。湖北巡撫崇綸の子。 熱河兵備道、安徽布政使を経て、同治13年(1874年)に30歳の若さで安徽巡撫となった。以後も両江総督、湖広総督、盛京将軍、四川総督を歴任。盛京将軍在任中の光緒15年(1889年)には熱河の金丹道教の蜂起を鎮圧している。光緒24年(1898年)、軍機大臣・礼部尚書・総理各国事務衙門大臣に任命後、栄禄(ジュンル)と交代する形で直隷総督となった。 直隷総督として勢力を拡大してきた義和団を当初は弾圧しようとしたが、やがて利用する姿勢を取った。光緒26年(1900年)、義和団の乱で8ヶ国連合軍が天津を陥落させると、清軍が勝利したとの虚偽の報告を行って、敗残兵を率いて北倉に退いた。8月に楊村にまで逃れ、そこで服毒自殺した。 Category:清代の人物 Category:日清戦争の人物 Category:北清事変の人物 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:喜塔臘氏 Category:19世紀生 Category:1900年没.

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西太后

ランダの画家によって描かれた油絵 宦官に担がれた神輿に乗る西太后 西太后と外国の婦女 西太后(せいたいこう・せいたいごう、道光15年10月10日(1835年11月29日) - 光緒34年10月22日(1908年11月15日))は、清の咸豊帝の側妃で、同治帝の母。清末期の権力者。満州・旗人(鑲藍旗人)のイェヘナラ(Yehe nala、葉赫那拉、エホナラ)氏の出身。孝欽顕皇后(こうきんけんこうごう、満洲語:、転写:hiyoošungga gingguji iletu hūwangheo)、または慈禧太后(じきたいこう)。老仏爺(ラオフオイエ)とも呼ばれる。 中国語では「慈禧太后(Cíxǐ Tàihòu ツーシー・タイホウ)」ないし「那拉皇太后」、「西太后(Xī Tàihòu シータイホウ)」。英語では「Empress Dowager(皇太后)」という呼称がよく使われる。幼名は蘭児。 紫禁城内における3人の皇太后の住む場所によって、中宮、東宮(東太后)(第2婦人・ニオフル氏。慈安皇太后、母后皇太后)、西宮(西太后)(第3夫人。慈禧皇太后、聖母皇太后)と区別して呼ばれた。徽号と合わせた諡号は孝欽慈禧端佑康頤昭豫荘誠寿恭欽献崇煕配天興聖顕皇后。.

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西蔵

西蔵(せいぞう/シーツァンXīzàng)は歴史的チベットのうち、アムドやカムを除く、西南部2分の1程度を占める部分に対する中国語による呼称として成立した、地域概念の用語。元代より康熙中期ごろまで用いられた烏斯蔵に代わり、康熙末年ごろより使用され始めた地域概念である。その後、中国以外の漢字圏でこの表記がとりいれられ、あるいは中国国外在住の中国語話者たちが発信するチベット関連の情報において、中国における概念・用法にあわせてチベットの一部として、もしくは中国における概念・用法とは別個に全チベットの総称として、使用されるようになった。本来の、および派生した概念・用法の主要なものは、以下のとおり。.

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親王

親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.

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許庚身

許庚身 許 庚身(きょ こうしん、Xu Gengshen、1825年 - 1893年)、字は星叔、号は吉珊。清末の官僚。 浙江省仁和県(現在の杭州市)出身。天文学・数学・地理学に通じ、1852年に挙人となって、内閣中書に入った。1862年、進士となり、内閣侍読として方略館で各種の図書の編纂にあたった。その一方で軍機処にも属して、太平天国と捻軍に対する作戦計画の立案に参与した。1873年に光禄寺卿となり、1879年には礼部侍郎に昇進、その後戸部侍郎と刑部侍郎を歴任した。清仏戦争が勃発すると、刑部侍郎に軍機大臣・総理各国事務衙門大臣を兼任し、フランスに対して「外国を制御するのに上策はなく、籠絡することをよしとして、譲歩は避けなければならない」という態度をとった。1888年、兵部尚書に昇進。死後、太子太保と恭慎の諡号が贈られた。 Category:清代の人物 Category:清代の進士 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:杭州出身の人物 Category:1825年生 Category:1893年没.

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許景澄

許景澄 許 景澄(きょ けいちょう、Xu Jingcheng、1845年 - 1900年)、字は竹篔または竹筠、清末の外交官・官僚。.

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譚廷襄

譚 廷襄(たん ていじょう、Tang Tingxiang、? ‐ 1870年)、字は竹厓。清朝の官僚。 浙江省山陰(現在の紹興市)出身。1833年、進士となり、庶吉士に選ばれた。刑部主事、郎中、保定知府、刑部侍郎などを歴任した。1856年に陝西巡撫となり、さらに直隷総督代理に昇進した。しかしこのときはアロー戦争の最中で、1858年にイギリス・フランス軍により天津の大沽砲台を占領されたため、弾劾され免職となった。1859年、陝西巡撫として復帰し、1861年、山東巡撫となり、捻軍と結んだ幅軍・長槍会・白蓮教の鎮圧にあたった。1862年には東河総督となり、1864年に刑部侍郎に異動、さらに工部侍郎、戸部侍郎に異動となった。1867年、刑部尚書に昇進した。死後、端恪の諡号を贈られた。.

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趙舒翹

趙 舒翹(ちょう じょぎょう、Zhao Shuqiao、1848年 - 1901年)は、清末の官僚。字は展如、号は琴舫、晚号は慎斎。陝西省西安出身。 同治13年(1874年)に進士となり、刑部主事となった。光緒8年(1882年)より刑部員外郎、湖広司郎中、鳳陽知府、浙江温州道、浙江布政使を歴任し、光緒21年(1895年)に江蘇巡撫となった。光緒23年(1897年)に北京に召しだされ、刑部左侍郎兼礼部左侍郎となり、翌24年(1898年)に刑部尚書に昇進した。光緒25年(1899年)、総理各国事務衙門大臣・軍機大臣となった。 光緒26年(1900年)、義和団の乱が発生すると大学士剛毅(ガンイ)と共に調査に当たった。趙舒翹は「拳民恃むべからず」と考えたが、剛毅の意見に押され「これを用いるべし」との上奏を提出した。その結果8ヶ国連合軍が北京を陥落させ、西太后は西安に逃亡することになった。北京議定書調印にあたり、連合軍は趙舒翹を戦犯に指名し、清側に厳罰を迫った。西太后は当初は革職留任を考えていたが、やがて斬罪に変更された。これを聞いた西安の人々が助命を請うたため服毒自殺に変更され、光緒27年(1901年)に自殺した。 趙舒翹は刑部にあった時、法の執行に謹厳で、圧力に屈せず、多くの冤罪を明らかにして無実の人を救ったという。 Category:清代の人物 Category:清代の進士 Category:北清事変の人物 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:西安出身の人物 Category:1848年生 Category:1901年没.

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軍機大臣

軍機大臣(ぐんきだいじん、満州語:、転写:coohai nashūn i amban、 正式名称は「弁理軍機大臣」)とは、中国の清朝中後期(1732年-1911年)における主要な役職名である。軍機処で働く高級官僚であった事からこの名が付いたが、軍機大臣は公式の官職ではなく、高級文官の中から選抜された官吏の役職名である。軍機処にあって事務を処理する軍機章京(coohai nashūn i jiyanggiyūn)を「小軍機」と言ったのに対応して、軍機大臣を「大軍機」とも呼ぶ。.

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軍機処

軍機処(ぐんきしょ、ᠴᠣᠣᡥᠠᡳᠨᠠᠰᡥᡡᠨ ᡳᠪᠠ 、転写:coohai nashūn i ba)は、中国清代の政治制度で、皇帝の最高諮問機関である。 軍機処の始まりは軍機房と呼ばれ、1729年7月5日(雍正7年6月)に雍正帝のジュンガル遠征時に軍事における決定を迅速にするために設けられた。それまでの政務の最高機関であった内閣は定員が増え、仕組みが複雑になりすぎていたため皇帝独裁を狙う雍正帝はこれを嫌い、少数人数により迅速に決定が出来る軍機房を使ったのである。軍機房の最初のメンバーは怡親王胤祥(在任:~雍正8年)・張廷玉(在任:~乾隆14年)・蒋廷錫(在任:~雍正10年)の3名であった。 1732年(雍正10年3月)に軍機房は弁理軍機処に改称した。雍正帝が亡くなった直後の1735年12月(雍正13年10月)、乾隆帝によって弁理軍機処は廃止され、その職域を拡大して軍事だけではなく政務全てを見る総理事務処が作られた。1738年1月(乾隆2年11月)に弁理軍機処に再び改称され、この時から軍機処のメンバーを軍機大臣とするようになった。 軍機処は内閣大学士や各部の尚書から選ばれた3人から6人ほどの軍機大臣が選ばれ、最高責任者とされた。制度で定められていたわけではなかったが、漢族・満洲族がほぼ同数選ばれていた。 清も末期になり、国内が乱れてくると役職が高い人物よりも李鴻章のような背後に軍隊を背負った軍閥(郷勇)の方が権勢を振るうようになり、軍機大臣は有名無実化した。.

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胡イツフン

胡 燏棻(こ いつふん、Hu Yufen、1840年 - 1906年)は、清末の官僚。字は芸楣または雲眉。安徽省泗州出身(原籍は浙江省蕭山)。.

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郭嵩トウ

郭 嵩燾(かく すうとう、Guo Songtao、1818年 - 1891年)、字は筠仙は、清末の政治家・外交官。 湖南省湘陰出身。1847年、進士となる。太平天国の乱が発生すると湘軍に参加し曽国藩のもとで軍務についた。1862年には李鴻章の淮軍に入り、両淮塩運使となった。1863年、広東巡撫代理となるが、両広総督と対立し、1866年に解任された。1875年、福建按察使となり、『条陳海防事宜』で洋務運動の推進を主張した。1877年に駐英公使・駐仏公使に起用された。ヨーロッパの政治・経済・社会・教育を記録して『使西紀程』としてまとめ、清朝でも改革を実行するように提言した。そのため保守派からうとまれて、任期途中で解任された。晩年は故郷の湖南省に禁煙会を作り、アヘン禁止を推進した。病死した後、諡号を立てるかどうか議論されたが結局立てられずに終わった。その他の著書に『養知書屋文集』がある。 Category:清代の人物 Category:中国の外交官 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:清代の進士 Category:岳陽出身の人物 Category:1818年生 Category:1891年没.

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阿片戦争

阿片戦争(アヘンせんそう、第一次鴉片戰爭、First Opium War)は、19世紀前半に清へのアヘン密輸販売で巨利を得ていたイギリスと、アヘンを禁止していた清の間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。 イギリスは、インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたため、アヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間で戦争となり、イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。.

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閻敬銘

閻 敬銘(えん けいめい、Yan Jingming、1817年 - 1892年)、字は丹初。清末の官僚。 陝西省朝邑出身。1845年に進士となり、戸部主事となった。1859年、湖北省で太平天国軍との戦いのための食糧輸送を担当し、巡撫の胡林翼に評価されて按察使に昇進した。さらに1862年には胡林翼の後任の巡撫の厳樹森の推薦で布政使となった。その後、山東塩運使、さらに山東巡撫となり、捻軍や白蓮教徒との戦いを指揮した。また黄崖山で講学を行っていた太谷学派の張積中を弾圧した。 1882年に戸部尚書となり、1883年に軍機大臣・総理各国事務衙門大臣に就任し、協弁大学士に昇進。さらに1884年に東閣大学士となった。財政に明るく、「救時宰相」と称された。1889年、西太后が280万両をかけて頤和園を修築しようとしたことに反対したが、受け入れられなかったため辞任を申し出た。死後、太子少保と文介の諡号を贈られた。.

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薛煥

薛 煥(せつ かん、Xue Huan、1815年 - 1880年)は、清末の官僚。字は覲堂。四川省興文出身。 道光24年(1844年)に挙人となり、道光29年(1849年)に江蘇省金山県の知県に選ばれた後、小刀会と戦って昇進を重ねた。 咸豊10年(1860年)に太平天国軍が第二次江南大営攻略を成功させると、両江総督の何桂清は上海に逃亡し、江蘇巡撫の徐有壬は蘇州で戦死した。この緊急時に江蘇布政使の薛煥は江蘇巡撫の職を引き継ぎ、両江総督代理となった。薛煥は朝廷に火砲と艦艇の購入を上奏して、上海の防衛を固めるのに尽力した。翌咸豊11年(1861年)4月に曽国藩が両江総督に就任し、翌同治元年(1862年)に李鴻章が江蘇巡撫の職を引き継ぐと薛煥は欽差大臣となり、依然として上海で洋務運動の監督にあたった。 同年に北京に戻り、礼部左侍郎・総理各国事務衙門大臣となり、さらに工部右侍郎に異動となった。同治3年(1864年)に都察院左副都御史・通政使司通政使となった。同治5年(1866年)に引退して故郷に戻ったが、光緒元年(1875年)には雲南省に赴いてマーガリー事件の処理にあたった。 Category:清代の人物 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:宜賓出身の人物 Category:1815年生 Category:1880年没.

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董恂

董恂(1871年) 董 恂(とう じゅん、Dong Xun、1807年 - 1892年)、字は忱甫、号は韞卿。清末の官僚、能書家。初めは名を醇といったが、同治帝の名(載醇)を避けて恂と改めた。 江蘇省揚州府甘泉県出身。1840年に進士となり、道光帝・咸豊帝・同治帝・光緒帝の4代に仕えた。戸部主事・湖南儲運道・直隷清河道・順天府尹・兵部侍郎・戸部侍郎・都察院左都御史・兵部尚書・戸部尚書を歴任し、中でも戸部尚書の在任期間は1869年から12年の長きに渡った。また総理各国事務衙門にも入り、ベルギーやオーストリアとの条約交渉に当たった。1882年、76歳の時に引退し、10年後に揚州で死去した。 董恂は書に長け、著作も多い。『楚漕工程』十六巻・『江北運程』四十巻・『甘棠小志』・『隨軺載筆七種』・『荻芬書屋文稿』・『手訂年譜』が現存している。 総理各国事務衙門在職中に、アメリカの詩人ヘンリー・ワーズワース・ロングフェローの詩『人生賛歌』の漢訳を扇にしたため、ボストンのロングフェローに送っており、ロングフェローの故居に現存している。 Category:清代の人物 Category:中国の能書家 Category:揚州出身の人物 Category:清代の進士 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:1807年生 Category:1892年没.

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陳蘭彬

陳 蘭彬(ちん らんひん、Chen Lanbin、1816年 - 1895年)、字は荔秋。清末の官僚・外交官。初代駐米公使を務めた。 広東省呉川出身。22歳で貢生となり、1851年に挙人となった。1853年に進士となり、翰林院に入り庶吉士となった。後に刑部主事となり、さらに員外郎に昇進した。1860年に丁憂により帰郷し、その間、高文書院で講義し、曽国藩の幕府に入った。 1863年、刑部の職に復職した。そのころ黄河が決壊したため大名府に救援活動に赴き、『治河芻言』8巻を著した。その後、江南製造局と上海広方言館の総裁に就任した。1870年に曽国藩の推薦でアメリカ留学生委員に任命され、1872年に副委員の容閎とともに広方言館卒業生の児童30名をアメリカ留学に送り出した。翌年、中国系労働者の状況を調査するためキューバに派遣され、スペイン当局との協議の結果、中国系労働者の保護が進んだ。 1878年、正式に駐アメリカ・スペイン・ペルー公使に任命され、1881年まで務めた。在任中は呉嘉善の影響のもと、一転して留学生派遣計画に反対するようになり、最終的に留学計画は挫折した。 帰国後は総理各国事務衙門大臣、礼部左侍郎となった。引退後は再び高文書院で講義し、『高州府志』『呉川県誌』『呉川風俗志』『石城県誌』など地方志の編纂にあたった。死後、文毅の諡号が贈られた。.

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李鴻章

李 鴻章(り こうしょう、、1823年2月15日(道光3年1月5日) - 1901年11月7日(光緒27年9月27日))は、中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことでも知られる。.

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李鴻藻

李 鴻藻(り こうそう、Li Hongzao、1820年 - 1897年)は、清末の政治家。同治帝の帝師。字は蘭孫。直隷省高陽出身。 1844年に挙人、1852年に進士となり、翰林院庶吉士に選ばれ、編修や河南学政を歴任した。1861年、咸豊帝の皇子載淳(後の同治帝)が学問を始める年齢になると、大学士彭蘊章の推薦で帝師となった。1865年に同治帝が即位すると内閣大学士・軍機大臣となり、1872年に工部尚書となった。1874年10月に同治帝の病が重くなると、皇帝に代わって奏摺に硃批を加えている。 同治帝の後を継いだ光緒帝からも重用され礼部尚書・兵部尚書・吏部尚書を歴任し、翁同龢と共に光緒帝を支えた。李鴻章の親族と誤解されやすいが血縁関係はなく、清仏戦争や日清戦争では主戦論を唱えるなど李鴻章とは政敵であった。死後、太子太傅と文正の諡号を贈られた。北京師範大学の校長を務めた李石曽は子にあたる。 Category:清代の人物 category:強学会の人物 Category:日清戦争の人物 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:保定出身の人物 Category:1820年生 Category:1897年没 Category:清代の進士.

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東城区

東城区(とうじょうく).

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栄禄

栄禄(えいろく、Žunglu、1836年 - 1903年4月11日)は、清末期の軍人、政治家。満洲正白旗人、姓はグワルギャ氏(Gūwalgiya、瓜爾佳氏)。娘の幼蘭は醇親王載灃に嫁ぎ、最後の皇帝・宣統帝溥儀の母となった。.

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桂良

桂良(けいりょう、グイリャン、ᡤᡠᠢ ᠯᠢᠠᠩ、転写:guiliang、1785年 - 1862年)は清の官僚。字は燕山。グワルギャ氏(gūwalgiya hala、瓜爾佳氏)出身の正紅旗人。閩浙総督玉徳の子。.

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欽差大臣

欽差大臣(きんさだいじん、ᡥᡝᠰᡝ ᡳᠲᠠᡣᡡᠷᠠᡥᠠᠠᠮᠪᠠᠨ 転写:hese i takūraha amban)は、清朝の官職名。特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のものを指す。 ただ本来は臨時官であったが、中には時代の変遷と共に常設化したものもある。たとえば総督や巡撫といった官は明代の欽差官が定着したものである。すなわち欽差大臣と呼称されるものには、臨時と常設のものとの2種類があるといって良い。以下に挙げるのは本来の意味での臨時の欽差大臣である。.

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毛昶熙

毛 昶熙(もう ちょうき、Mao Changxi、1817年 ‐ 1882年)、字は旭初。清の官僚。 河南省武陟出身。1845年に進士となって庶吉士に選ばれ、御史、順天府丞を歴任した。1860年から河南省で団練の指揮を命ぜられ、巡撫の厳樹森を補佐して捻軍との戦いにあたった。戦功により順天府尹・太僕寺卿・内閣学士に昇進したが、引き続き軍務にあたった。1862年からはホルチン郡王センゲリンチン(僧格林沁)に従って、山東省・河南省・湖北省・安徽省を転戦し、礼部侍郎に昇進した。 1865年にセンゲリンチンが高楼寨の戦いで戦死すると、毛昶熙は北京に呼び戻された。捻軍平定後の1869年に工部尚書・総理各国事務衙門大臣となり、1872年に吏部尚書に異動となった。さらに、1874年に翰林院掌院学士、1882年に兵部尚書となった。 死後、太子少保と文達の諡号が贈られた。.

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汕頭市

汕頭市(シャントウし、スワトウし、さんとうし)は、中華人民共和国広東省東部に位置する地級市。深圳市や珠海市と同じ、80年代初めに経済開放された都市である。中華人民共和国の5大経済特区の1つ。.

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沈桂芬

沈 桂芬(しん けいふん、Shen Guifen、1818年 - 1881年)、字は経笙または小山。清末の官僚。 江蘇省呉県(現在の蘇州)出身。1847年、進士となり庶吉士に選ばれる。1863年、戸部左侍郎・山西巡撫代理となり、任地ではアヘン栽培を厳禁した。1867年に軍機大臣となり、1869年には総理各国事務衙門大臣となった。同期の進士に李鴻章・沈葆楨・郭嵩燾・馬新貽・何璟らがおり、相互に助け合って洋務運動を推進していった。沈桂芬は中央政府で洋務運動を推進した漢人の代表であった。梁啓超は「清朝で漢人が政権を掌握する嚆矢となった」と評している。沈桂芬はまた清廉なことでも知られていた。死後に文定の諡号を贈られた。 Category:清代の人物 Category:蘇州出身の人物 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:清代の進士 Category:1818年生 Category:1881年没.

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洪鈞

洪 鈞(こう きん、Hong Jun、1839年 - 1893年)は、清末の外交官・歴史学者。字は陶士、号は文卿。 江蘇省蘇州府呉県出身。1868年、状元となり、翰林院修撰、兵部侍郎、内閣学士を歴任した。1887年、ドイツ・ロシア・オーストリア・オランダ公使に任命された。洪鈞は当時蘇州の名妓賽金花を身請けして妾としており、本妻のように一緒に出使した。洪鈞の堪能なドイツ語・英語に加え、賽金花の魅力が外交界を驚嘆させた。また、電報の字や数字を国外のものと統一させ、経費を節減した。さらに外国のモンゴル史の史料を集め『元史訳文証補』を著した。 1892年、パミール高原をめぐって清とロシアとの間に争議がおこったときに、ロシア語は不得手であったのにロシア側の地図を使ったことで、弾劾を受けた。そのことを悔やむあまり病を発し、北京で病死した。光緒帝はその死を深く悼んだという。 category:清代の人物 Category:中国の歴史学者 Category:19世紀の学者 Category:中国の外交官 category:清代の進士 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:蘇州出身の人物 Category:1839年生 Category:1893年没.

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淡水区

淡水漁人碼頭(淡水第二漁港)と情人橋 淡水文化園区(旧カス洋行倉庫)付近の淡水河畔に残る水上家屋。対岸は観音山 淡水区(たんすい-く)は台湾新北市の市轄区。近代には清朝の条約港として台湾を代表する港町でもあった。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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満州語

満州語(滿洲語、まんしゅうご、ᠮᠠᠨᠵᡠᡤᡳᠰᡠᠨ、転写:manju gisun)は、満州族が話すツングース諸語に属する言語。.

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漢口

漢口(かんこう/ハンコウ、簡体字:汉口、繁体字:漢口、、武漢語:/xan˧˥kʰəu˦˨/、英語:Hankou/Hankow)とは、漢水の北岸、長江の西岸に位置し、長江と支流の漢水が合流する所を指す地理名称である。.

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朝貢

朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。.

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戊戌の変法

戊戌の変法(ぼじゅつのへんぽう)とは、清王朝時代の中国において、光緒24年(1898年、戊戌の年)の4月23日(太陽暦6月11日)から8月6日(9月21日)にかけて、光緒帝の全面的な支持の下、若い士大夫層である康有為・梁啓超・譚嗣同らの変法派によって行われた政治改革運動。.

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戸部 (六部)

戸部(こぶ)は六部の一で、土地管理、戸籍、官人への俸給などの財務関連の行政を司掌した。 祖型は三国時代の度支尚書であり、隋にて民部と改称され、更に唐より太宗の諱世民の民字を避諱して戸部と称されるようになった。長官は(戸部尚書)で次官は侍郎(戸部侍郎)。隋唐期に戸(民)部、度支(たくし)、金部(きんぶ)、倉部(そうぶ)の4司が属し、それぞれに判官であるとが置かれた。 その後、安史の乱以降の財政難に対して戸部尚書の下の戸部司と新たに設けられた使職の度支使・塩鉄使が財政を司るところとなり、戸部は有名無実化した。 これが北宋の元豊の改革の際に再び実権を取り戻し、再び財政を司るところと成った。清光緒32年(基督教暦1906年)のにより戸部は度支部と改称され、宣統3年(同1911年)の内閣官制実施で完全に廃止された。.

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海南島

海南島(かいなんとう、)は、南シナ海北部の島である。.

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新疆ウイグル自治区

新疆ウイグル自治区(新疆維吾爾自治区)(しんきょうウイグルじちく)(شىنجاڭ ئۇيغۇر ئاپتونوم رايونی / Shinjang Uyghur Aptonom Rayoni)は、中華人民共和国の西端にある自治区である。1955年に設立され、首府はウルムチである。 民族構成はウイグル族のほか、漢族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族(本来はオイラト族である)などさまざまな民族が居住する多民族地域であり、自治州、自治県など、様々なレベルの民族自治区画が置かれている。中華民国時代には、1912年から新疆省という行政区分が置かれていた。 本来中国には時差が設定されていないが、新疆では非公式に北京時間(UTC+8)より2時間遅れの新疆時間(UTC+6)が使われている。.

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文祥

文祥(ぶんしょう、ウェンシャン、ᠸᡝᠨᠰᡞᠶᠠᠩ 転写:wensiyang、1818年 - 1876年)は、清末の政治家。字は博川、号は子山。洋務運動を推進した。盛京(現在の瀋陽)出身。満洲鑲黄旗の氏族グワルギャ氏(gūwalgiya hala、瓜爾佳氏)出身の正紅旗人。同族に栄禄がいる。.

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

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愛新覚羅奕キョウ

愛新覚羅 奕(あいしんかくら えききょう、アイシンギョロ・イクワン、満州語:、転写:aisin-gioro i-kuwang、道光18年2月29日(1838年3月24日) - 1917年(民国6年)1月28日)は、清末期から中華民国初期の皇族。乾隆帝の曾孫で咸豊帝は又従兄に当たる。.

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愛新覚羅奕キン

愛新覚羅 奕訢(あいしんかくら えききん、アイシンギョロ・イヒン、満州語:、転写:aisin-gioro i-hin、1833年1月11日 - 1898年5月29日)は、清の皇族。道光帝の第6子で母は静皇貴妃(のちの孝静成皇后)。兄に咸豊帝、惇親王奕誴、弟に醇親王奕譞。妃は桂良の娘ほか。子に載澂、載瀅。爵位は恭親王。諡は忠。.

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愛新覚羅載イ

愛新覚羅 載漪(あいしんかくら さいい、アイシンギョロ・ヅァイイ、満州語:、転写:aisin-gioro dzai-i、1856年 ‐ 1922年)は、清の皇族。 道光帝の第五皇子惇親王奕誴の子。瑞敏郡王奕誌(嘉慶帝の第四皇子瑞親王綿忻の子)の跡を継ぎ、38歳で端郡王となった。西太后の甥で光緒帝のいとこにあたる。 戊戌の政変後、載漪の子溥儁が西太后によって大阿哥(皇太子)に擁立されたが、外国公使の支持を得ることはできなかった。西太后は反対を押し切って1899年4月に溥儁を即位させ、保慶と改元し、光緒帝を廃位した。しかし各方面から反対がおこり、西太后は光緒帝を廃位する計画を断念せざるを得なかった。 義和団の乱では、主戦派で弟の輔国公載瀾とともに積極的に義和団を利用することを主張した。連合軍が北京に近づくと西太后とともに西安に向かった。義和団鎮圧後、8ヶ国連合軍から戦犯に指名され、死刑を要求されたが王族だったため1902年に朝廷は載漪一家を新疆省に追放処分とした。移動途中のモンゴルに留まることになり、当初は友人や西太后の援助で裕福に生活できたが有力者と不和になり、中華民国建国後、甘州に移って医師の長男の収入と北京政府からの生活費の支給で暮らした。1921年に長男が亡くなると葬儀と埋葬のために北京に行ったが、1922年に亡くなった。享年66。 子孫に高名な画家の愛新覚羅恒懿がおり、著書「世紀風雪 幻のラストエンペラー」で載漪の追放とその後について記している。.

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曽紀沢

曽 紀沢(そう きたく、Zeng Jize、1839年12月7日 - 1890年4月12日)は、清末の外交官。曽国藩の長男で曽紀鴻の兄。子に曽広鈞など。字は劼剛、号は夢瞻。湖南省湘郷県(現在の双峰県荷葉鎮)出身。 1870年、父の功で戸部員外郎に任ぜられる。1877年、父の爵位を継いで一等毅勇侯となる。1878年、駐英公使兼駐仏公使に任命され、太常寺卿に補任される。 当時新疆はコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクが占領していたが、清の陝甘総督左宗棠によって滅ぼされた。ロシアはこの混乱に乗じてイリ地方を占領した。清朝は戸部右侍郎兼盛京将軍代理の崇厚を派遣して交渉にあたらせたが、崇厚はロシアにイリ地方をすべて割譲し賠償金を支払うというリヴァディア条約を結ぶ。清の朝廷はこれを認めず、曽紀沢に駐露公使を兼任させて改めて交渉にあたらせた。結局、1881年にイリ条約を結び、イリ地方の一部の返還に成功した。このため曽紀沢の評価は国内外で高まった。 その後曽紀沢はイギリスとのアヘン貿易問題や朝鮮・ミャンマーなどの問題の交渉にあたる。1884年、清仏戦争の際にはフランスに強硬姿勢をとったため、和平論が主流になった朝廷により駐仏公使を解任された。1885年には駐英公使を免ぜられ帰国した。帰国前に清の内政外交と列強の対清政策を論じた『China, the Sleep and the Awakening』(『中国先睡後醒論』)を発表した。帰国後は戸部右侍郎、総理各国事務衙門大臣などを歴任し、外交政策の改革と不平等条約の改正に尽力した。死後、恵敏の諡号が贈られた。同年、叔父の曽国荃も没している。.

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景廉

景廉(けいれん、ギンリャン、ᡤᡞᠩ ᠯᡞᠶᠠᠨ 転写:ging-liyan、Jinglian、1823年 ‐ 1885年)、字は秋坪または季泉。清朝の官僚。 満州正黄旗人。ヤンジャ氏(yanja hala、顔札氏)。1852年に進士となり、侍講学士となった。後に鑲紅旗満州副都統となり、刑部右侍郎、吏部左侍郎を歴任した。1858年、イリ参賛大臣となった。在任中は綱紀を粛正し、官吏のゆすりたかりを禁止した。1862年、ヤルカンド参賛大臣に転任。1865年には甘粛省の回民蜂起の鎮圧に参加した。1866年、ハミ幇弁大臣に任命された。1871年にロシア帝国がイリ地方を占領すると、奪回に動いたが失敗した。1874年、欽差大臣に任命され、ヤクブ・ベクの乱の対処にあたった。1875年、正白旗漢軍都統となり、北京に戻った。1876年、軍機大臣・総理各国事務衙門大臣に昇進した。その後、工部尚書、戸部尚書、兵部尚書を歴任した。 Category:清代の人物 Category:満州民族 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:清代の進士 Category:1823年生 Category:1885年没.

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1820年

記載なし。

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1835年

記載なし。

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1857年

記載なし。

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1858年

記載なし。

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1860年

記載なし。

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1861年

記載なし。

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1866年

記載なし。

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1867年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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1870年

記載なし。

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1901年

20世紀最初の年である。.

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1911年

記載なし。

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1月20日

1月20日(いちがつはつか、いちがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から20日目に当たり、年末まであと345日(閏年では346日)ある。 西暦年が4で割り切れる年の翌年のこの日、アメリカ合衆国で大統領の就任式が行われる。.

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9月7日

9月7日(くがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から250日目(閏年では251日目)にあたり、年末まであと115日ある。.

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