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欽差大臣

索引 欽差大臣

欽差大臣(きんさだいじん、ᡥᡝᠰᡝ ᡳᠲᠠᡣᡡᠷᠠᡥᠠᠠᠮᠪᠠᠨ 転写:hese i takūraha amban)は、清朝の官職名。特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のものを指す。 ただ本来は臨時官であったが、中には時代の変遷と共に常設化したものもある。たとえば総督や巡撫といった官は明代の欽差官が定着したものである。すなわち欽差大臣と呼称されるものには、臨時と常設のものとの2種類があるといって良い。以下に挙げるのは本来の意味での臨時の欽差大臣である。.

40 関係: 南京条約南洋通商大臣台湾出兵向栄天津条約 (1858年)太平天国の乱巡撫左宗棠両広総督両江総督下関条約北京条約北洋通商大臣ヤクブ・ベクの乱アロー戦争キシャン総督直隷総督袁世凱趙爾巽露清密約阿片戦争葉名チン耆英林則徐李鴻章東三省東三省総督武昌起義沈葆テイ清仏戦争湖広総督新疆ウイグル自治区日清戦争愛新覚羅奕キン1844年1859年1870年

南京条約

南京条約(なんきんじょうやく)は、1842年にアヘン戦争を終結させるため清とイギリスの間で結ばれた講和条約。江寧条約ともいう。南京条約を記した原本は、のちに中華民国が受け継ぎ、香港返還直前は台北で一時期展示されていた。.

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南洋通商大臣

南洋通商大臣は清朝の欽差大臣。略して南洋大臣ともいう。 阿片戦争後の道光24年(1844年)に、南京条約で開港された5港(広州・福州・アモイ・寧波・上海)での対外通商と外交事務を担当する五口通商大臣が広州に設置され、両広総督が兼任した。アロー戦争後の咸豊11年(1861年)に五口通商大臣の役所は上海に移され、総理各国事務衙門の管轄下に置かれた。この時期の五口通商大臣は薛煥であった。 同治5年(1866年)に五口通商大臣は南洋通商大臣と改称され、両江総督が兼任することとなり、南京に移された。歴代の南洋大臣には曽国藩、李鴻章、左宗棠、沈葆楨、張之洞、劉坤一、端方らがいる。.

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台湾出兵

台湾出兵(たいわんしゅっぺい)は、1874年(明治7年)に明治政府が行った台湾への出兵である。.

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向栄

向 栄(しょう えい、Xiang Rong、1792年(乾隆57年) - 1856年8月9日(咸豊6年7月9日))、字は欣然は、清の軍人。 四川省大寧(現在の重慶市巫渓県)出身。提督楊遇春の部に属し、青海・新疆の戦いに従軍した。その後、直隷総督キシャン(琦善)に才能を評価され、1833年に開州協副将となった。1847年に四川提督となり、1851年に広西提督となった。太平天国の乱が発生すると、広西省から太平天国軍の追撃にあたり、欽差大臣に任命された。1853年、太平天国軍が南京を占領し、天京と改称して都とすると、向栄は江南大営を築き、天京を包囲する体制を取った。対峙を続けること3年、1856年6月に太平天国軍が第一次江南大営攻略に成功し、向栄は敗北して江南大営は破壊された。向栄は丹陽に退き、太平天国軍の秦日綱軍と激戦を繰り広げた。8月に死去。自殺という説もある。後任の欽差大臣には江南提督の和春が就任した。 Category:清代の人物 Category:重慶出身の人物 Category:1792年生 Category:1856年没.

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天津条約 (1858年)

条約の調印の様子 条約の締結 天津条約(てんしんじょうやく、Treaty of Tianjin)は、中国の天津において、清国と諸外国間に締結された17条約の通称。 1856年に始まったアロー戦争で英仏連合軍が広州を占領し、その後さらに北上して天津を制圧したため、清朝が天津でロシア・アメリカ・イギリス・フランスの4国と結んだものである。この条約は広範囲な外国の特権を規定しており、それ以後の不平等条約の根幹となった。.

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太平天国の乱

太平天国の玉璽。 天王の玉座 天王府のミニチュア 長江での太平天国軍と清軍との戦い 太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。長髪賊の乱ともいわれる。.

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巡撫

巡撫(じゅんぶ)は、中国の明代及び清代に存在した官職名。 明の洪武年間(1368年 - 1398年)から永楽年間(1403年 - 1424年)にかけては中央から地方に派遣される臨時官であったが、宣徳年間(1426年 - 1435年)から常設され、明代末期には1省あるいはその一部を管轄する地方官として20人を超えた。都御史を兼ね、しばしば軍事も兼務し、布政使・按察使・都指揮使の上位として、地方を管轄した。 清代には明の制度を踏襲して巡撫(giyarime dasara amban)は省(golo)の長官とされ、総督(uheri kadalara amban)とほぼ同格として皇帝に直属した(総督は複数の省を管轄するが巡撫は総督同様皇帝直属であった)。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した。.

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左宗棠

左宗棠 左宗棠 左 宗棠(さ そうとう、1812年11月10日 - 1885年9月5日)は、清朝末期の著名な大臣。太平天国の乱の鎮圧に活躍し、洋務派官僚としても有名。中国では「清代最後の大黒柱」と非常に高い評価を受けている(文化大革命期に太平天国が持ち上げられると、逆に評価が下がったこともある)。字は季高、湖南省湘陰県出身。老亮と号する。.

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両広総督

両広総督(りょうこうそうとく、guwangdong guwangsi uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。広東省・広西省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。 外国貿易都市である広州を管轄するため対外事案を扱う事も多く、19世紀には三角貿易による銀流出を食い止める難しいポストになった。1840年のアヘン戦争・1856年のアロー戦争では広州は主戦場となるなど外国との衝突も多かったため、1844年には全国に先駆けてそれまで臨時官だった欽差大臣(諸外国との交渉のための全権大使)を常設し、両広総督に兼任させた。.

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両江総督

両江総督(りょうこうそうとく、giyangnan giyangsi uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。江蘇省・安徽省・江西省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。地方長官として最高位に当たる総督の中でも管轄下に南京を有する両江総督は非常に重要なポストであったが、同時に管轄下で起こった太平天国の乱に対応しなければならない等、「非常に難しいポスト」でもあった。この「両江」とは、江蘇・安徽省が清初には「江南省」と呼ばれていたため、「江南省と江西省を統括する総督」と呼んだことに由来する。 1866年からは華中の外国貿易港の監督も両江総督の管轄となったため、両江総督が南洋通商大臣を兼任することになった。.

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下関条約

下関条約(しものせきじょうやく)は、日清戦争で日本が清国に戦勝したことにより、1895年4月17日に下関の春帆楼(しゅんぱんろう)での講和会議を経て調印された条約である。正式名称は日清講和条約(にっしんこうわじょうやく)。 会議が開かれた山口県の赤間関市(現下関市)の通称だった「馬関」をとって、一般には馬関条約(ばかんじょうやく)と呼ばれた。「下関条約」は、日本で戦後定着した呼称である。もう一方の当事国である中国では、現在でも「馬関条約」()という。.

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北京条約

北京条約 北京条約(ペキンじょうやく、Convention of Peking)は、1860年(咸豊10年)に清朝とイギリス(10月24日)・フランス(10月25日)連合軍、および清朝とロシア帝国(11月14日)が締結した条約。天津条約の批准交換と追加条約である。.

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北洋通商大臣

北洋通商大臣は清朝の欽差大臣。略して北洋大臣ともいう。 アロー戦争後の1861年に清朝は総理各国事務衙門を設置し、その下に三口通商大臣と五口通商大臣を置き、対外通商と外交事務を担当させた。このうち三口通商大臣は天津に駐在し、天津条約と北京条約で開港された牛荘(現在の営口市)・天津・登州(現在の威海市と煙台市北部)の通商事務を担当した。初代の三口通商大臣は崇厚だった。 1870年に三口通商大臣は北洋通商大臣と改称され、直隷総督が兼任し、直隷省(現在の河北省)・山東省・奉天省(現在の遼寧省)三省の通商・洋務・外交・海防などを担当した。歴代の北洋大臣には李鴻章、王文韶、栄禄、袁世凱らがいる。.

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ヤクブ・ベクの乱

ヤクブ・ベクの乱(ヤクブ・ベクのらん)は、清末の1860年代から1870年代にかけての、東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦乱。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的に清の左宗棠に敗れ、その死によって崩壊した京大東洋史辞典編纂会『東洋史辞典』、東京創元社、1990年、P842。。.

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アロー戦争

アロー戦争(アローせんそう、Arrow War)は、1856年から1860年にかけて、清とイギリス・フランス連合軍との間で起こった戦争である。最終的に北京条約で終結した。戦争の理由の一つであった、中国人による多くの外国人排斥事件のうち、もっとも象徴的な出来事がアロー号事件であったため、日本ではアロー戦争と呼称される場合が多い。また、この戦争がアヘン戦争に続いて起きたために、第二次アヘン戦争(Second Opium War)と呼ぶこともある。.

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キシャン

ャン(ᡣᡞᡧᠠᠨ 転写:kišan、琦善、きぜん、1786年1月18日(乾隆50年12月19日) - 1854年8月3日(咸豊4年閏7月10日))は、清の官僚。字は静庵。ボルジギト氏、満州正黄旗人。.

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総督

総督(そうとく)とは、以下のことを指す。.

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直隷総督

隷総督(ちょくれいそうとく、ᡷᡞᠯᡞᡠᡥᡝᠷᡞᡣᠠᡩᠠᠯᠠᠷᠠᠠᠮᠪᠠᠨ 転写:jyli uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。直隷省・河南省・山東省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。地方長官として最高位に当たる総督の中でも、特に首都北京近辺を統括した直隷総督は筆頭格であった。 1870年からは華北の外国貿易港の監督も直隷総督の管轄となったため、直隷総督が北洋通商大臣を兼任することになった。.

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袁世凱

袁 世凱(えん せいがい、 ユエン・シーカイ 1859年9月16日(咸豊9年8月20日) - 1916年6月6日)は、中国清末民初期の軍人・政治家。北洋軍閥の総帥。大清帝国第2代内閣総理大臣を務めたが、清朝崩壊後は第2代中華民国臨時大総統、初代中華民国大総統に就任。一時期中華帝国皇帝として即位し、その際に使用された元号より洪憲皇帝と呼ばれることもある。字は慰亭(いてい)、号は容菴(ようあん)。.

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趙爾巽

趙 爾巽(ちょう じそん)は清末民初の政治家。漢軍正藍旗人。祖先は盛京(現在の遼寧省)・鉄嶺の人。字は公鑲、号は次珊。清末に地方官を歴任し、特に東三省総督時代は辛亥革命勢力の押さえ込みに成功した。辛亥革命後は袁世凱・段祺瑞政権下で『清史稿』編纂の主幹を担った。 父趙文穎は進士出身だったが、地方官として赴任していた際に太平天国軍の侵攻を受け殉職している。兄に趙爾震、弟趙爾豊、趙爾萃の四人兄弟で、弟趙爾豊は辛亥革命の際に四川総督として成都に赴任中に革命側に殺害されている。.

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露清密約

露清密約(ろしんみつやく、カシニー密約、李鴻章-ロバノフ協定、中俄密約、禦敵互相援助條約、防禦同盟條約、Li-Lobanov Treaty, Sino-Russian Secret Treaty、Союзный договор между Российской империей и Китаем)は1896年6月3日にモスクワでロシア帝国と清の間で締結された秘密条約。 ロシア側は外務大臣と財務大臣セルゲイ・ヴィッテ、清側は欽差大臣李鴻章が立ち会った。この条約は、日本がロシアと清のいずれかへ侵攻した場合に互いの防衛のため参戦するという相互防御同盟の結成が目的であったが、同時に、清に対してロシアの満州における権益を大幅に認めさせるという不平等条約の側面もあり、日露戦争を惹起した原因の一つとされる。.

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阿片戦争

阿片戦争(アヘンせんそう、第一次鴉片戰爭、First Opium War)は、19世紀前半に清へのアヘン密輸販売で巨利を得ていたイギリスと、アヘンを禁止していた清の間で1840年から2年間にわたり行われた戦争である。 イギリスは、インドで栽培し製造したアヘンを、清に密輸して広く組織的に販売し収益を得ていたため、アヘンの流通販売や摂取を禁止していた清との間で戦争となり、イギリスの勝利に終わり、1842年に南京条約が締結され、イギリスへの香港の割譲他、清にとって不平等条約となった。 なお、アロー戦争を第二次とみなして第一次アヘン戦争とも呼ばれる。.

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葉名チン

葉 名琛(しょう めいちん、、1807年12月21日(嘉慶12年11月23日) - 1859年4月9日(咸豊9年3月7日))は清の官僚。字は崑臣。 湖北省漢陽出身。1835年に進士となり、1838年に陝西省漢中の知府となり、その後山西雁平道、雲南按察使、湖南布政使、江寧布政使、広東布政使を歴任し、1847年に広東巡撫に昇進した。当時の清朝では朝野ともに排外的な雰囲気が高揚してきており、最強硬派であった葉名琛は重用され、1852年には両広総督に昇進した。またこの年には凌十八の蜂起を鎮圧している。1854年には陳開・李文茂・周春・陳金釭らが率いる天地会の蜂起軍に広州を包囲されるが、これを撃退し、数万人を処刑した。1855年には両広総督に協弁大学士と体仁閣大学士を兼ねた。 1856年9月10日、アロー号事件が発生するとイギリス領事ハリー・パークスが抗議したが、葉名琛は強硬な態度をとってイギリスと妥協しなかった。これにより事態はアロー戦争へと発展していった。イギリス軍は10月1日に広州を陥落させたが、人数が少なかったためにすぐに撤退した。葉名琛は大勝利を収めたと朝廷に上奏し、広州市民に各国の商館と貿易会社を焼き討ちさせた。 1857年、パークスは大軍を要請し、9月にはイギリス・フランス連合軍が広東に到達した。11月14日、連合軍は広州を占領し、葉名琛は捕らえられ、香港のイギリス軍艦に連行された。当時の人々は葉名琛を六不総督、すなわち「不戦・不和・不守・不死・不降・不走」とそしった。 48日後、軍艦は香港を離れ、葉名琛はインドのカルカッタに幽閉された。葉名琛は自らを「海上の蘇武」と称し、絶食して、翌年の4月9日に餓死した。 Category:清代の人物 Category:清代の進士 Category:アロー戦争の人物 Category:武漢出身の人物 Category:餓死した人物 Category:1807年生 Category:1859年没.

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耆英

耆英(きえい、キイェン、満州語:、転写:Kiyeng、1787年3月21日(乾隆52年2月3日) - 1858年6月29日(咸豊8年5月19日))は、清朝の人物。アイシンギョロ氏。 アヘン戦争で清朝が劣勢に陥ると、道光帝の命で和平交渉にあたった。1842年、清国全権として南京条約を締結した。その後、五港通商章程・虎門寨追加条約(虎門条約)の締結や、アメリカ合衆国との望厦条約、フランスとの黄埔条約の締結に臨んだ。アロー戦争に際して対英交渉が錯綜する中で責任を問われ、1858年、北京で自殺に追い込まれた。.

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林則徐

林 則徐(りん そくじょ、Lín Zéxú、1785年8月30日(乾隆50年7月26日) - 1850年11月22日(道光30年10月19日))は、中国清代の官僚、政治家。欽差大臣を2回務めている。 字は少穆(しょうぼく、Shǎomù)。諡は文忠(ぶんちゅう、Wénzhōng)。イギリスによる阿片密輸の取り締まりを強行し、これに対する制裁としてイギリスは阿片戦争を引き起こした。.

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李鴻章

李 鴻章(り こうしょう、、1823年2月15日(道光3年1月5日) - 1901年11月7日(光緒27年9月27日))は、中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことでも知られる。.

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東三省

東三省(とうさんしょう)は、中国東北部に対して、20世紀半ばまで使われていた呼称である。満州も狭義には同範囲を表す同義語であるが、満州が広義に内蒙古東部・東シベリア地域(外満州)までを指す場合もあるので、区別が必要である。 東三省は、現在の遼寧省・吉林省・黒竜江省から成るが、清朝期とは範囲がわずかに異なる。現在の中国では「東北三省」と呼ぶことが多い。.

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東三省総督

東三省総督(とうさんしょうそうとく、dergi ilan goloi uheri kadalara amban)は、清朝末期の地方長官の官職である。東三省(遼寧省・吉林省・黒竜江省)の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。当初、清朝では満州族の故地満州に当たる東三省には総督を置かず、奉天府と呼ばれる独自の行政制度を持っていたが、光緒33年(1907年)の東北改制を機に、他の省に合わせて東三省総督を設置した。 地方長官として最高位に当たる総督の中でも、満州族の故地である満州を管轄する上に、当時満州進出を企図していた日本・ロシアと相対する東三省総督は難しい職務であり、そのため総督の筆頭格である直隷総督と同様に重要なポストであった。.

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武昌起義

武昌市街図・各隊の進攻 武昌起義(ぶしょうきぎ)または武昌蜂起(ぶしょうほうき)は、1911年10月10日に清(中国)の武昌で起きた兵士たちの反乱。辛亥革命の幕開けとなる事件である。.

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沈葆テイ

沈葆楨(1870年頃) 沈 葆楨(しん ほてい、1820年 - 1879年、字は翰宇・幼丹)は、清末の官僚。妻の林普晴は林則徐の娘。沈瑋慶、沈瑩慶、沈瑜慶、沈璘慶、沈璿慶、沈瑤慶、沈琬慶の父。変法運動の支持者の1人林旭は孫娘沈鵲応の夫で、中華民国の外交官沈覲鼎は曾孫に当たる。福建省閩侯県(現在の福州市鼓楼区)出身。 清末の洋務運動で中心的な役割を果たし、総理船政大臣及び南洋通商大臣を歴任した。台湾出兵(牡丹社事件)の際には欽差大臣として台湾に赴任し軍務を監督した。また任期内に台南市二鯤鯓砲台の修復を行なうと共に、漢人の渡台禁令を解除している。.

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清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

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清仏戦争

清仏戦争(しんふつせんそう、、、Chiến tranh Pháp-Thanh/戰争法清、Guerre franco-chinoise)は、1883年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスと清との間の戦争。 フランスが領土領有を達成したためフランスの勝利と考えられているが、士気旺盛な黒旗軍との戦いでは軽視できない損害も被った。.

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湖広総督

湖広総督(ここうそうとく、満州語: 転写:hūguwang ni uheri kadalara amban)は、中国清王朝の地方長官の官職である。湖広省(湖北省・湖南省)の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。 正式な官職名は後に湖北湖南総督に改称されるが、明代に湖北省・湖南省も湖広省に属していたことから湖広総督が当初の名称として使われた。.

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明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

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新疆ウイグル自治区

新疆ウイグル自治区(新疆維吾爾自治区)(しんきょうウイグルじちく)(شىنجاڭ ئۇيغۇر ئاپتونوم رايونی / Shinjang Uyghur Aptonom Rayoni)は、中華人民共和国の西端にある自治区である。1955年に設立され、首府はウルムチである。 民族構成はウイグル族のほか、漢族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族(本来はオイラト族である)などさまざまな民族が居住する多民族地域であり、自治州、自治県など、様々なレベルの民族自治区画が置かれている。中華民国時代には、1912年から新疆省という行政区分が置かれていた。 本来中国には時差が設定されていないが、新疆では非公式に北京時間(UTC+8)より2時間遅れの新疆時間(UTC+6)が使われている。.

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日清戦争

日清戦争(にっしんせんそう)は、1894年(明治27年)7月25日(光緒20年6月)から1895年(明治28年)3月(光緒21年2月)にかけて行われた主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる日本と大清国の戦争である。前者がイギリス帝国に接近し、治外法権を撤廃させる実質的な外交材料となった。日清講和条約を結ばせた日本は戦勝国であったが、多くの兵を病死させている。また、利率の高い国内軍事公債も戦後に借り替えた。条約により台湾を譲り受けた日本は、台湾総督府や台湾製糖を設置し、民間からは大日本製糖などの製糖会社が台湾に進出した。また日清汽船(大阪商船)などの水運会社が上海に進出した。.

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愛新覚羅奕キン

愛新覚羅 奕訢(あいしんかくら えききん、アイシンギョロ・イヒン、満州語:、転写:aisin-gioro i-hin、1833年1月11日 - 1898年5月29日)は、清の皇族。道光帝の第6子で母は静皇貴妃(のちの孝静成皇后)。兄に咸豊帝、惇親王奕誴、弟に醇親王奕譞。妃は桂良の娘ほか。子に載澂、載瀅。爵位は恭親王。諡は忠。.

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1844年

記載なし。

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1859年

記載なし。

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1870年

記載なし。

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