150 関係: 劉典、劉錦棠、劉松山、南下政策、南洋通商大臣、史念祖、同治、士大夫、太平天国の乱、宋慶、屯田、岡本隆司、岩波新書、崇厚、巡撫、左宗棠鶏、不平等条約、両江総督、並木頼寿、中央公論新社、久保書店、康国器、井上裕正、今谷明、張宗禹、張曜、彭玉麟、徐宗幹、ムスリム、ヤクブ・ベク、ヤクブ・ベクの乱、ロシア帝国、トルファン市、ビン浙総督、フランス第二帝政、ドンガン人、呉棠、咸豊、イリ将軍、イリ地方、イリ条約、イギリス帝国、イスラム教、ウルムチ市、カシュガル市、クムル市、コーカンド・ハン国、内閣大学士、光緒、回民蜂起、...、回族、王徳榜、王有齢、福州市、福州船政局、福建省、科挙、紹興市、総理各国事務衙門、瑞麟、甘粛省、白彦虎、道光、袁保恒、裕禄、西安市、西寧市、饒応祺、馬化龍、馬桂源、馬文禄、駱秉章、諸葛亮、譚鍾麟、魏光トウ、鮑超、趙秉鈞、軍機大臣、胡雪巌、胡林翼、蘭州市、蒋益レイ、臨夏市、金華市、金順、長沙市、酒泉市、集英社、進士、耆齢、陝甘総督、陝西省、陳ショク、林則徐、林文察、捻軍、李世賢、李鴻章、杭州市、梁啓超、楊岳斌、楊乃武と小白菜、楚勇、楊昌濬、欽差大臣、江南機器製造総局、汪海洋、河西回廊、洋務運動、淮軍、清、清仏戦争、湘軍、湘陰県、湖南省、挙人、海防・塞防論争、浙江省、新疆ウイグル自治区、新疆省、文化大革命、文祥、曽国セン、曽国藩、曽紀沢、11月10日、1812年、1832年、1849年、1850年、1861年、1863年、1864年、1866年、1867年、1868年、1869年、1871年、1873年、1874年、1875年、1876年、1877年、1878年、1879年、1880年、1881年、1884年、1885年、9月5日。 インデックスを展開 (100 もっと) »
劉典
劉 典(りゅう てん、Liu Dian、1820年 - 1879年)、字は伯敬または克庵は、湘軍の将帥。 湖南省寧郷灰湯出身。左宗棠の部隊の指揮官となり、江西省で太平天国軍と戦った。左宗棠が浙江巡撫となると、浙江省を転戦し、1862年には李世賢を破って、浙江按察使となった。1864年、李世賢と汪海洋が福建省で勢力を伸ばすと、高連昇らと鎮圧に向かい、福建省と広東省を平定した。 1866年、左宗棠が陝甘総督に任命されると、劉典も甘粛按察使に起用され、後に陝西巡撫に昇進した。1875年左宗棠がヤクブ・ベクの乱を鎮圧するために新疆に遠征したのに従い、3年間開墾を行って成果をあげた。1879年、在職中に甘粛省で死去し、果敏の諡号を贈られた。著作に『劉果敏公遺書』がある。 Category:清代の人物 Category:寧郷市出身の人物 Category:1820年生 Category:1879年没.
劉錦棠
劉 錦棠(りゅう きんとう、Liu Jintang、1844年 - 1894年)、字は穀斎。清末の軍人・官僚。 湖南省湘郷出身。父の劉厚栄、叔父の劉松山は湘軍の軍人であった。10歳の時に父親は岳州での太平天国軍との戦いで戦死した。成長すると江西省に展開していた叔父の部隊に入り、湘軍の司令部があった祁門の護衛に功績があり、劉松山ともども曽国藩から賞賛を受けた。1864年の太平天国滅亡後は、捻軍との戦いで劉松山とともにしばしば戦功をあげた。 その後、劉松山と劉錦棠は左宗棠に従って陝西省・甘粛省の回民蜂起鎮圧に向かい、金積堡で馬化龍を包囲した。しかし1870年に劉松山は戦死したため、劉錦棠がその部隊を合わせて、1871年に金積堡を陥落させた。1872年には西寧を攻撃して、白彦虎らの回民軍を敗走させた。 ヤクブ・ベクの乱に際しては、劉錦棠は1876年2月に司令部を甘州から粛州に移し、7月に湘軍25営1万3000人を率いて、満州八旗の金順率いる40営2万1000人とともに先鋒となって新疆に入り、ウルムチを攻略した。ウルムチ占領後、金順は北部を掃討し、劉錦棠は天山南路の掃討にあたった。 1884年に新疆省が設置されると初代巡撫となり、1889年までその職にあった。 死後、襄勤の諡号を贈られた。著作として『劉襄勤公奏稿』が残されている。 Category:清代の人物 Category:回民蜂起の人物 Category:ヤクブ・ベクの乱の人物 Category:湘潭出身の人物 Category:1844年生 Category:1894年没.
劉松山
劉 松山(りゅう しょうざん、Liu Songshan、1833年 - 1870年)、字は寿卿。清末の軍人。 湖南省湘郷出身。湘軍に入り、王錱の部に属した。永州・郴州・株洲で天地会の蜂起を鎮圧し、千総に任命された。1857年より、太平天国軍と戦って江西省から安徽省を転戦し、祁門の防衛や景徳鎮の攻略や寧国の防衛に活躍し、守備・都司・参将と昇進し、曽国藩配下の猛将としてその名を轟かせた。 1865年、総兵となり、捻軍の鎮圧にあたった。河南省で捻軍を破ったが、張宗禹率いる西捻軍が陝西省に転進して回民蜂起軍と合流すると、西へ追撃を開始した。1867年、広東陸路提督に就任。西捻軍と回民軍が西安を包囲していたが、救援に駆けつけて包囲を解いた。その後、西捻軍が北京に向かうのを追撃して、河南省・直隷省で激戦を繰り広げた。 張宗禹が水死し捻軍が平定されると、再び陝西省に戻り陝甘総督左宗棠のもとで回民蜂起の鎮圧にあたることになった。綏徳周辺を鎮圧した後、甘粛省に入って霊州を陥落させた。そして馬化龍の拠る金積堡を包囲したが、砲弾にあたり戦死した。 死後、太子少保と忠壮の諡号が贈られた。その後、部衆は甥の劉錦棠が引き継いだ。.
南下政策
南下政策(なんかせいさく)とは、ある国家が南方に進出しようとする政策。単に南下政策といった場合はロシア帝国の南下政策を指すことが多い。.
南洋通商大臣
南洋通商大臣は清朝の欽差大臣。略して南洋大臣ともいう。 阿片戦争後の道光24年(1844年)に、南京条約で開港された5港(広州・福州・アモイ・寧波・上海)での対外通商と外交事務を担当する五口通商大臣が広州に設置され、両広総督が兼任した。アロー戦争後の咸豊11年(1861年)に五口通商大臣の役所は上海に移され、総理各国事務衙門の管轄下に置かれた。この時期の五口通商大臣は薛煥であった。 同治5年(1866年)に五口通商大臣は南洋通商大臣と改称され、両江総督が兼任することとなり、南京に移された。歴代の南洋大臣には曽国藩、李鴻章、左宗棠、沈葆楨、張之洞、劉坤一、端方らがいる。.
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史念祖
史 念祖(し ねんそ、Shi Nianzu、? - 1910年)、字は縄之は、清朝の官僚。 江蘇省江都出身。刑部尚書を務めた史致儼の孫。幼時より兵法を好み、捻軍の蜂起が発生すると通判の地位を買った。喬松年に従って蒙城の包囲を解くのに功績をあげた。1865年、捻軍の根拠地であった雉河集には安徽布政使の英翰が駐屯していたが、捻軍に包囲されていた。史念祖は防衛戦に貢献し、道員に昇進した。1867年、鳳陽に移り捻軍の李允謀を破り、バトゥルの称号を得た。1869年、山西按察使に任命されたが、30歳に達していなかったため解任された。 1871年、甘粛安粛道として、回民蜂起の鎮圧にあたっていた左宗棠軍の補給を担当し、左宗棠から高く評価された。1878年、甘粛按察使となったが、降伏した回民を殺害した者の裁判で左宗棠の意に逆らったため解任された。1884年、雲南按察使となり、さらに雲南布政使に昇進した。1895年に広西巡撫となり、匪賊討伐に成果をあげたが、部下の汚職に連座して罷免された。 1905年、副都統待遇で盛京将軍の趙爾巽に随行し、東三省の塩務・財政局を担当した。行財政改革に成果をあげたが、趙爾巽が四川総督に異動して徐世昌に代わると、弾劾されて職を去った。死後、趙爾巽が生前の功績を上奏して、巡撫の地位に戻された。.
同治
1871年9月13日の日清修好条規。左頁の右側に明治の日付と伊達宗城の花押、左側に同治の日付と李鴻章の花押が見える。 同治(どうち、満州語:、転写:yooningga dasan)は清の穆宗の治世中に使われた元号。1862年 - 1874年。一世一元の制を採用していたため穆宗は同治帝と称される。.
士大夫
士大夫(したいふ)は、中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者である。.
太平天国の乱
太平天国の玉璽。 天王の玉座 天王府のミニチュア 長江での太平天国軍と清軍との戦い 太平天国の乱(たいへいてんごくのらん)は、清朝の中国で、1851年に起こった大規模な反乱。洪秀全を天王とし、キリスト教の信仰を紐帯とした組織太平天国によって起きた。長髪賊の乱ともいわれる。.
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宋慶
宋 慶(そう けい、Song Qing、1820年 - 1902年)、字は祝三は清末の軍人。 山東省蓬莱県出身。24歳のとき同郷の亳州知州宮国勛の衛士となり、宮の推薦で千総となった。以後、宋慶の部隊は河南省南部から安徽省北部にかけて捻軍と戦った。1862年、功績により総兵に昇進し、バトゥルの称号を得た。その後淮軍に編入されて三営を統括し、宋慶の軍は「毅軍」と称されるようになった。 毅軍成立後も功績をあげ、1864年にはセンゲリンチン(僧格林沁)が苗沛霖を滅ぼすのを助けた。1865年から1868年の間、河南省・安徽省・直隷省・湖北省・山東省で捻軍と戦っている。その間に宋慶は南陽鎮総兵となって、河南省に毅軍の根拠地を置き、捻軍鎮圧後も解散されることなく、河南省に駐屯した。1869年、左宗棠が回民蜂起の鎮圧に向かうとこれに従った。その後、湖南提督・四川提督に任命されたが実際には赴いていない。 1880年、ロシアとの関係が緊張すると、清朝は旅順を軍港として経営することを始め、毅軍に旅順の防衛にあたらせた。宋慶は十数年にわたって旅順に駐屯し、日清戦争の直前には九営の軍を擁するまでになった。 1894年、日清戦争が勃発すると、李鴻章の命により九連城に赴き、葉志超に代わって前方各軍を指揮した。しかし諸将を統率できず、軍紀も乱れていたため旅順の陥落を招くこととなった。その後、劉坤一を補佐して営口を守っていたが、再び日本軍に敗れ、遼河以東の領土を失ったため処罰された。 1898年、毅軍は武衛左軍と改称され、錦州に駐屯した。1900年の義和団の乱の際は天津から北京に進撃する八カ国連合軍に北倉で敗北した。 1902年、病死。 Category:清代の人物 Category:日清戦争の人物 Category:北清事変の人物 Category:煙台出身の人物 Category:1820年生 Category:1902年没.
屯田
屯.
岡本隆司
岡本 隆司(おかもと たかし、1965年(昭和40年)12月13日 -)は、日本の歴史学者。専門は中国近代史、東アジア国際関係史。京都府立大学教授。.
岩波新書
岩波新書(いわなみしんしょ)は、1938年(昭和13年)11月20日に岩波書店が創刊した新書赤版として。創刊の辞は、「岩波新書創刊50年、新版の発足に際して」(1998年1月)に「道義の精神に則らない日本の行動を深慮し、権勢に媚び偏狭に傾く風潮と他を排撃する驕慢な思想を戒め、批判的精神と良心的行動に拠る文化日本の躍進を求めての出発である」と引用されている。シリーズである。.
崇厚
崇厚(すうこう、チュンホウ、ᠴᡠᠩ ᡥᡝᠣ 転写:cung-heo、Chonghou, 1826年10月7日 - 1893年3月26日)は、清朝の官僚。字は地山。満州鑲黄旗人で、金の皇室ワンギャ氏(wanggiya hala、完顔氏)の末裔。河道総督麟慶の子で盛京将軍崇実(チュンシ)は兄。 道光29年(1849年)に挙人となり、咸豊8年(1858年)に正四品永定河道に任命、同年から起こったアロー戦争の戦後処理を務め、咸豊10年(1860年)に正二品長蘆塩運使、翌11年(1861年)1月20日に三口通商大臣に任命され、天津条約で開港した牛荘(現在の営口市)・天津・登州(現在の威海市と煙台市北部)の三口を管轄、外国交渉を担当した。これは恭親王奕訢の抜擢があり、彼が推進した洋務運動にも加わり天津に天津機器製造局を設立した。 しかし、民衆の外国人に対する敵対感情から同治9年(1870年)にフランス領事アンリ・フォンタニールが暴徒に射撃、激怒した暴徒に殺害され外国人も多数殺される事件(天津教案)が発生すると、手に負えないとみた崇厚は直隷総督曽国藩に応援を要請して交渉を任せ、自身は謝罪使として10月25日にフランスの首都パリへ赴いた。交渉は曽国藩の尽力で纏まり、人事異動で曽国藩が両江総督となり、李鴻章が後任の直隷総督となった。合わせて11月12日に北洋通商大臣と改称された三口通商大臣が李鴻章の兼任となり、崇厚は帰国後は兵部左侍郎と総理各国事務衙門大臣に転任、光緒2年(1876年)に急死した兄崇実の盛京将軍も継承した。 光緒4年(1878年)11月、北方のイリ地方がロシアに占領されていたため、打開のため全権大使としてロシアの首都サンクトペテルブルクへ派遣され、翌5年(1879年)10月2日にクリミア半島のリヴァディア宮殿でリヴァディア条約を締結した。しかし、内容はイリ地方のロシアへの大幅な割譲とロシアの経済特権などを認めた不平等条約で、清からは左宗棠・張之洞らが非難の声を挙げ、激怒した西太后は光緒6年(1880年)に帰国した崇厚を死刑にしようとした。イギリス公使トーマス・ウェードの助命嘆願で赦免され、代わりにロシアへ派遣された曽紀沢が光緒7年(1881年)にリヴァディア条約を修正したイリ条約を締結したことで清は面目を保ったが、以後活動の場を与えられず光緒19年(1893年)に66歳で没した。.
巡撫
巡撫(じゅんぶ)は、中国の明代及び清代に存在した官職名。 明の洪武年間(1368年 - 1398年)から永楽年間(1403年 - 1424年)にかけては中央から地方に派遣される臨時官であったが、宣徳年間(1426年 - 1435年)から常設され、明代末期には1省あるいはその一部を管轄する地方官として20人を超えた。都御史を兼ね、しばしば軍事も兼務し、布政使・按察使・都指揮使の上位として、地方を管轄した。 清代には明の制度を踏襲して巡撫(giyarime dasara amban)は省(golo)の長官とされ、総督(uheri kadalara amban)とほぼ同格として皇帝に直属した(総督は複数の省を管轄するが巡撫は総督同様皇帝直属であった)。上奏・属官の任免・軍隊指揮・地方財政の監督・裁判・渉外などを権有した。.
左宗棠鶏
左宗棠鶏(さそうとうどり、General Tso's chicken)またはツォ将軍のチキンは、揚げた鶏肉に甘辛いタレをかけた、アメリカ合衆国やカナダの中華料理店もしくはアジア料理店で一般的な中華料理である。この料理は一般的に湖南料理と捉えられている。 料理名は清朝末期の政治家、左宗棠から名付けられているものの、左宗棠と料理の関連を示す記録は上がっていない。.
不平等条約
不平等条約(ふびょうどうじょうやく、unequal treaty)とは、条約の性質に基づいてなされた分類の一種で、ある国家が他の国家に、自国民などに対する権力作用を認めない条約である。.
両江総督
両江総督(りょうこうそうとく、giyangnan giyangsi uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。江蘇省・安徽省・江西省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。地方長官として最高位に当たる総督の中でも管轄下に南京を有する両江総督は非常に重要なポストであったが、同時に管轄下で起こった太平天国の乱に対応しなければならない等、「非常に難しいポスト」でもあった。この「両江」とは、江蘇・安徽省が清初には「江南省」と呼ばれていたため、「江南省と江西省を統括する総督」と呼んだことに由来する。 1866年からは華中の外国貿易港の監督も両江総督の管轄となったため、両江総督が南洋通商大臣を兼任することになった。.
並木頼寿
並木 頼寿(なみき よりひさ、1948年4月27日 - 2009年8月4日)は、日本の歴史学者、東京大学教授。専門は中国史。新潟県南魚沼市(旧大和町)出身2009年8月7日付新潟日報 29面。。新潟県立六日町高等学校卒。2009年8月4日、胃がんにより東京都内の病院にて死去。.
中央公論新社
株式会社中央公論新社(ちゅうおうこうろんしんしゃ)は、日本の出版社である。読売新聞グループ本社の傘下。略称は中公(ちゅうこう)。 本項では、旧法人の株式会社中央公論社(ちゅうおうこうろんしゃ)についても述べる。.
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久保書店
久保書店(くぼしょてん)は日本の出版社。この項では共同で同一サイトを運営している関連会社のあまとりあ社(あまとりあしゃ)についても記述する。.
康国器
康 国器(こう こくき、Kang Guoqi、1811年 - 1884年)は、清末の軍人。初名は以泰、字は交修。 広東省南海出身。若くして吏員となった。道光末に軍に入り、江西贛県桂源司巡検を授かった。咸豊年間に太平天国が江西省に進軍して、土匪が蜂起すると、鎮圧のために転戦し、1861年には知府に昇格した。1862年、浙江省に援軍に赴き、蒋益澧に従って湯渓を包囲して、翌年に陥落させ、道員に昇進した。1864年、余杭を攻略した際には、最も功績が大きかったと評価され、福建延建邵道に抜擢された。これにより一軍を率いるようになった。さらに、左宗棠の命で福建省に拠っていた李世賢と汪海洋を他の諸将とともに打ち破った。その後、1866年に福建按察使となり、1868年には広西布政使となり、1871年には巡撫代理となったが翌年、病で郷里に帰った。 康国器は少数の兵で多数を撃破するのを得意とした。足の怪我から跛をひいており軍中では「康拐子」と呼ばれ、敵に恐れられた。 Category:清代の人物 Category:仏山出身の人物 Category:1811年生 Category:1884年没.
井上裕正
井上 裕正(いのうえ ひろまさ、1948年 - )は、日本の東洋史学者、奈良女子大学名誉教授。 横浜市生まれ。1971年、京都大学東洋史学科卒。1977年、同大学院文学研究科博士課程単位取得満期退学。1978年、島根大学法文学部講師。1982年、助教授。1984年、奈良女子大学文学部助教授。1996年、教授。文学部長を務めた。2001年、「清代アヘン政策史の研究 アヘン戦争前における」で京都大学文学博士。 2013年奈良女子大定年退任、名誉教授。.
今谷明
今谷 明(いまたに あきら、 1942年 - )は、日本の歴史学者。帝京大学文学部特任教授、国際日本文化研究センター名誉教授。専門は中世日本史。 京都市出身。官僚を経験した後に歴史学者に転じた。戦国時代における天皇の権威が、従来の説で論じられていたよりも強かったと主張する一連の著作で知られる。近年は、ヨーロッパ・オリエントの封建制と日本中世の封建制との比較研究もおこなっている。.
張宗禹
張 宗禹(ちょう そうう、Zhang Zongyu、? - 1868年?)は、清末の捻軍の反乱の指導者。清史稿の中では蔑称として「張総愚」と表記される。 安徽省雉河集出身。初め叔父で大漢盟主の張楽行の捻軍蜂起に従う。江蘇省・河南省・安徽省・湖北省を転戦し、太平天国から梁王に封ぜられる。1863年に張楽行が清に殺されると余党を率いて作戦を継続した。1864年から太平天国の遵王頼文光とともに捻軍を再編し、騎兵を主とした流動作戦をとる。1865年、高楼寨の戦いで清のセンゲリンチン(僧格林沁)軍を壊滅させ、曽国藩の包囲を突破した。1866年、西捻軍を率いて河南省から陝西省に入り、回民蜂起軍と連合。1867年1月には西安の灞橋で清軍を破った。12月に頼文光の東捻軍を救援するために、山西省を経て直隷省に入った。東捻軍が滅亡したと知ると陝西省に戻ろうとしたが、清軍に阻まれて果たせなかった。直隷省・河南省・山東省一帯で活動し、天津に迫ったが、清軍の包囲にあう。転戦の末、翌年8月に駭河のほとりに至るが、以後の行方は杳として知れない。追い詰められて投身自殺したともいわれる。 Category:清代の人物 Category:亳州出身の人物 Category:消息不明となった人物 Category:生没年不詳.
張曜
張 曜(ちょう よう、Zhang Yao、1832年 - 1891年)、字は朗斎。清末の軍人・官僚。 直隷省大興出身。捻軍の蜂起が発生すると団練300人を率いて戦う。知謀をセンゲリンチン(僧格林沁)に評価され、清軍に招かれて固始知県となった。知県在任中に太平天国軍の李秀成に城を70日余りの間包囲されたが、耐え抜いて、バトゥルの称号を得た。1860年に知府、さらに道員に昇格。1861年には河南按察使となった。その後、山東省・河南省・直隷省を転戦して捻軍と戦い、平定に貢献した。 1869年、左宗棠の要請で陝西省・甘粛省の回民蜂起の鎮圧に参加。1876年には左宗棠に従ってヤクブ・ベクの乱の鎮圧のため新疆に赴き、トゥルファンを陥落させる功績をあげた。その後カシュガルに駐屯し、1884年からは直隷省北部の防衛にあたった。 1885年、広西巡撫に任命されたが、赴任する前に山東巡撫に転任となった。当時山東省では黄河の氾濫が深刻だったが、張曜は治水に乗り出し、大いに効果を上げた。1888年には海軍の軍務の補佐を命じられた。 死後、勤果の諡号を贈られた。.
彭玉麟
彭 玉麟(ほう ぎょくりん、Peng Yulin、1816年 - 1890年)、字は雪琴は、湘軍の指揮官。 安徽省安慶出身。1832年、父に従って本籍の湖南省衡陽に戻る。太平天国軍が湖南省に進出すると団練を組織した。1853年、曽国藩が湘軍水師を創設すると、水師提督に任命され、楊岳斌とともに水軍を率いて太平天国との戦いに当たり、長江沿岸を転戦した。1861年、広東布政使に抜擢された。さらに安徽巡撫に指名され袁甲三の軍務を補佐するように命ぜられたが、水軍の指揮が専門であるからと固辞し、改めて水師提督に任ぜられた。1862年、兵部右侍郎となり、水軍を率いて南京を包囲する曽国荃を補佐した。1868年に曽国藩とともに長江水師営制を上奏し、防衛体制の策定を訴えた。翌年に郷里に戻るが、1872年から長江水師の巡閲を命じられ、毎年巡閲を行った。1883年、兵部尚書に抜擢された。清仏戦争の際には広東省の防衛に派遣されたが、病のために辞職した。死後、剛直の諡号を贈られた。 軍務の余暇によく絵画と詩文をたしなんだ。彼の詩は後に『彭剛直詩集』としてまとめられた。 Category:清代の人物 Category:安慶出身の人物 Category:1816年生 Category:1890年没.
徐宗幹
徐 宗幹(じょ そうかん、Xu Zonggan、1796年 - 1866年)は清の官僚。字は樹人。 江蘇省通州出身。1820年に進士となり、武城・泰安などで知県を務めた。その後高唐知州に昇進した。1848年、按察使銜分巡台湾兵備道に任命され、1853年には林恭の蜂起を鎮圧した。彼の統治期は広建書院が設立されるなど、治績が上がった。1854年、福建按察使となったが、巡撫の王懿徳と合わずに解任された。その後、河南省・安徽省で捻軍との戦いにあたり、1857年には浙江按察使・浙江布政使に昇進した。1862年に福建巡撫に抜擢され、戴潮春の乱の鎮圧にあたった。また1864年には太平天国の李世賢・汪海洋が広東省から福建省に入り、漳州に迫ったが、閩浙総督左宗棠と協力して、これを撃退した。1866年、在任中に死去。左宗棠と福州将軍英桂は徐宗幹をたたえる上奏を行っている。清恵の諡号が贈られた。.
ムスリム
ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.
ヤクブ・ベク
ヤクブ・ベク ヤクブ・ベク(Yakub Beg、阿古柏、1820年 - 1877年5月30日) は、コーカンド・ハン国出身のウズベク人軍人・指導者。イラン系のタジク人とする説もある。清末の混乱に乗じて東トルキスタンに入り、タリム盆地一帯を制圧した(ヤクブ・ベクの乱)が、左宗棠に討伐された。ヤークーブ・ベクとも表記される。.
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ヤクブ・ベクの乱
ヤクブ・ベクの乱(ヤクブ・ベクのらん)は、清末の1860年代から1870年代にかけての、東トルキスタン(現在の新疆ウイグル自治区)をめぐる戦乱。ムスリムの蜂起の結果、ヤクブ・ベクによって東トルキスタンは統一されたが、最終的に清の左宗棠に敗れ、その死によって崩壊した京大東洋史辞典編纂会『東洋史辞典』、東京創元社、1990年、P842。。.
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ロシア帝国
ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.
トルファン市
トルファン市(-し、トゥルパンし、ウイグル語:تۇرپان ۋىلايىتى, 転写:Turpan Wilayiti、吐魯番市)は、中国新疆ウイグル自治区に位置する地級市。市名は、ウイグル語で「人と物が豊かな地域」を意味する。.
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ビン浙総督
閩浙総督(びんせつそうとく、fugiyan jegiyang ni uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。浙江省・福建省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。.
フランス第二帝政
フランス第二帝政(フランスだいにていせい、Second Empire Français)は、1852年から1870年まで存在した君主政体。ナポレオン・ボナパルトの甥であるルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)が1851年12月2日にによって議会を解散し、新たな憲法を制定した上で国民投票によってフランス皇帝に即位した。 第二共和政期において、とりわけ六月蜂起後に保守・反動化した議会は、幅広い民衆の支持を得ることに失敗していた。こうして反議会に傾いた民衆をルイ=ナポレオン大統領は取り込むことに成功した。クーデターによる議会打倒を経て成立した第二帝政(第二帝国)は、権威主義的・反議会主義的な統治体制である一方、国民投票によって指導者を選出し、幅広い民衆に支持基盤をおいた点で、人民主権的、民主主義的な性格も有していた。.
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ドンガン人
ドンガン人(, Dungan, 東干)は、主に中央アジアのカザフスタン、キルギス領内のフェルガナ盆地に居住する中国系ムスリム(イスラム教徒)の民族。トゥンガンとも。.
呉棠
呉 棠(ご とう、Wu Tang、1813年 - 1876年)、字は仲宣。清末の官僚。 安徽省明光出身。1845年に挙人となった。江蘇省の桃源県や清河県の知県となり、山東省からの捻軍の侵入に郷勇を率いて撃退した。1853年に太平天国軍が揚州を陥落させると、郷勇数万人を集めて、近隣諸県の防衛にあたった。1860年に淮徐道に任命され、長江の北で団練を組織してしばしば捻軍を破った。1861年、江寧布政使・漕運総督となり長江の北の食糧補給を担当した。この間、漕運総督府のある清江浦を修築して、捻軍からの防衛に成功している。1865年に両広総督となったが捻軍に対処するために実際には就任せず、漕運総督に留まった。1866年、閩浙総督に異動。 1867年、四川総督となり、貴州省のミャオ族の反乱の鎮圧の助力にあたり、1871年からは成都将軍も兼任した。総督として民力休養と飢民の救済に尽力した。1875年、病で辞任。死後、勤恵の諡号が贈られた。.
咸豊
咸豊(かんぽう、満州語:、転写:gubci elgiyengge)は清の文宗の治世中に使われた元号。1851年 - 1861年。一世一元の制を採用していたため文宗は咸豊帝と称される。.
イリ将軍
イリ将軍(ᡞᠯᡞᠵᡞᠶᠠᠩᡤᡞᠶᡡᠨ 転写:ili jiyanggiyūn、総統伊犁等処将軍、そうとういりとうしょしょうぐん、簡体字中国語:总统伊犁等处将军、ピンイン:Zŏngtŏng Yīlí dĕngchù Jiāngjūn)は、清朝期に設置された新疆の最高軍政長官。天山山脈北部の恵遠城(現在の新疆ウイグル自治区霍城県)に駐箚した。.
イリ地方
イリ地方は、中央アジアの中央部、イリ川畔の地域。イリ渓谷、イリ河谷、イリ盆地などとも称される。現在は中華人民共和国新疆ウイグル自治区北部のイリ・カザフ自治州の中にある。.
イリ条約
イリ条約(イリじょうやく、伊犁條約, Договор об Илийском крае)は、1881年2月24日にロシア帝国と清朝の間で結ばれた条約。サンクトペテルブルク条約(Treaty of Saint Petersburg)とも。.
イギリス帝国
イギリス帝国(イギリスていこく、British Empire)は、イギリスとその植民地・海外領土などの総称である。大英帝国(だいえいていこく)ともいう。 帝国は時代ごとの性質により、以下のように区分できる。.
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イスラム教
イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.
ウルムチ市
ウルムチ市(-し、中国語:烏魯木齊市、ウイグル語:ئۈرۈمچى、英語:Ürümqi)は、新疆ウイグル自治区に位置する地級市、自治区首府。自治区人民政府が設置される中国西部最大の都市である。市区人口は135万人、都市圏人口は183万人。 言語・文化・経済の面などにおいて、中国の東部よりもタシュケントのようなはるか西方の各地とより強く結びついている。.
カシュガル市
ュガル市(カシュガルし、ウイグル語:قەشقەر 転写:Qeşqer、ケシケル市、喀什市)は中華人民共和国新疆ウイグル自治区カシュガル地区に位置する県級市である。同地区の首府が設置される。人口の80%は土着のウイグル族など少数民族が占める。カシュガル大都市圏人口は120万人に達する。古くからシルクロードの要衝として、またイスラームの拠点都市としても発展し、国家歴史文化名城に指定されている。.
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クムル市
ムル市(クムルし)は、中華人民共和国新疆ウイグル自治区に位置する地級市。哈密市(ハミし)ともいう。.
コーカンド・ハン国
ーカンド・ハン国(ウズベク語: Qo'qon xonligi)は、18世紀後半から19世紀前半にかけて、フェルガナ盆地を中心に中央アジアに栄えたテュルク系イスラム王朝。現ウズベキスタン領フェルガナ州西部のコーカンド(ホーカンド)を都としてカザフスタン、キルギス、タジキスタンの一部に及ぶ西トルキスタンの東南部に君臨する強国に成長、一時は清朝の支配する東トルキスタンにまで勢力を伸ばしたが、内紛と周辺諸国の圧力から急速に衰え、ロシア帝国に併合されて滅んだ。 ウズベクと称されるジョチ・ウルス系の遊牧民が中心となって建設されたいわゆる「ウズベク3ハン国」のひとつであるが、他の2ハン国と異なり建国時から一貫して君主はチンギス・ハーンの血を引かないミング部族の出身である。.
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内閣大学士
内閣大学士(ないかくだいがくし、満州語:dorgi yamun i aliha bithei da)は、中国明朝および清朝に存在した官職名。殿閣大学士とも呼称され、任官者は中堂という尊称を受けていた。 なお、日本と現代中華圏の内閣制度の呼称はここに由来する。.
光緒
光緒(こうしょ、こうちょ、満州語:、転写:badarangga doro、)は清の徳宗の治世中に使われた元号。1875年 - 1908年。一世一元の制を採用していたため徳宗は光緒帝と称される。.
回民蜂起
清代に回族の蜂起は何度かおこっているが、.
回族
道を行く回族の男女 清真)に従った食品を出すと書かれている。左上にはモスクの絵がある。 回族の老人 祈りを捧げる人々(寧夏回族自治区) 回族の一家。新年を祝っている(寧夏回族自治区)。 回族(かいぞく、ホウェイ族あるいはフェイ族、、 حواري)は、中国の少数民族の一つで、中国最大のムスリム(イスラム教徒)民族集団である。回族とされる人々は、言語・形質等は漢民族(漢族)と同じだが、イスラム教(イスラーム)を信仰する。中国全土に広く散らばって住んでおり、人口は2000年の時点で約980万人で、中国に住むムスリム人口のおよそ半数を占める。.
王徳榜
王 徳榜(おう とくぼう、Wang Debang、1837年 - 1893年)は、清末の軍人。字は朗青。 湖南省江華出身。1852年、太平天国軍が湖南省に進攻すると、兄の吉昌とともに団練を組織して戦った。1855年から江西省・浙江省・安徽省を転戦し、1860年より湘軍の左宗棠の部に属した。その後、江西省・福建省・広東省方面で李世賢・汪海洋軍と戦って功績をあげ、1865年には福建按察使ついで福建布政使に昇進した。 1871年、左宗棠に従って陝西省・甘粛省の回民蜂起の鎮圧にあたった。1880年、新疆と張家口に駐屯した。翌年に北京に入り、火器の教練や水利事業にあたった。 1884年、清仏戦争が勃発すると広西省で兵を集めてベトナムのランソンに駐屯し、翌年には鎮南関の戦いで馮子材とともにフランス軍に大勝した。 1889年、貴州布政使に任命され、在職中に死去した。.
王有齢
王 有齢(おう ゆうれい、Wang Youling、1810年 ‐ 1861年)、字は雪軒、清朝末の官僚。 福建省侯官出身。挙人となったが進士となることができず、胡雪巌の出資の下、浙江塩大使の官職を金で買った。その後、慈渓・定海・鄞・仁和の県令を歴任したが、民衆からの評判がよく、1855年に杭州知府に抜擢され、浙江巡撫の何桂清にその才幹を評価された。何桂清が両江総督に就任すると江蘇按察使、ついで布政使に抜擢された。王有齢は財政に明るく、何桂清に頼りにされていたのである。 杭州知府の時代に胡雪巌を助力し、阜康銭荘の設立に多大なる支援を行っている。胡雪巌の官商としての出発は、このことから始まる。特に捐輸局を設置し、資金の管理と糧食の運搬をまかせる。捐輸局の資金は、阜康銭荘に一括管理されることとなる。 1860年、太平天国軍が杭州を陥落させ、浙江巡撫羅遵殿は自殺した。これに対し何桂清は王有齢を後任の浙江巡撫に推薦した。咸豊帝は速やかに杭州を奪還するように命じたが、王有齢は福建軍を率いて太平天国軍を破り、杭州を回復した。 同年、太平天国軍10万が徽州から浙江省に入り、厳州を陥落させて杭州に迫ったが、将軍の瑞昌とともにこれを撃退し、厳州を回復した。 1861年10月、蕭山・諸曁・紹興が陥落し、糧食が途絶えるようになった。王有齢は李元度を按察使に任命して湘軍8千人を招いたが、援軍は龍游で阻まれて到着できなかった。杭州は太平天国の李秀成軍によって完全に包囲された。杭州城は食糧が尽き、士気が低下し、ついに12月に陥落した。王有齢は毒を仰いだが死にきれず、縊死した。 死後、壮愍の諡号が贈られた。 Category:清代の人物 Category:福州出身の人物 Category:1810年生 Category:1861年没.
福州市
福州市の衛星画像 19世紀後半の福州市の様子 金山寺(1871年頃) 台江区の夜景 福州市(ふくしゅうし、、、、閩東語: フッチュ)は、中華人民共和国福建省の省都である。榕城(ようじょう、)とも称される歴史の古い町で、国家歴史文化名城に指定されている。明清代には琉球館が設置され、琉球王国との交易指定港であった。.
福州船政局
福州船政局(ふくしゅうせんせいきょく)または馬尾船政局は李鴻章や左宗棠の指導下行なわれた洋務運動により設立された、中国の造船所のうちの一つである。福州馬尾の閩江を僅かに遡った場所に位置した。.
福建省
福建省(ふっけんしょう、中国語:福建省、拼音:Fújiàn Shěng、英語:Fujian)は、中国の省の一つで、大部分を中華人民共和国が統治し、一部の島嶼を中華民国(台湾)が統治している。省都は福州市。.
科挙
科挙の合格者発表(放榜) 貢院の号舎 科挙(かきょ、)とは、中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。.
紹興市
紹興市(しょうこうし)は中華人民共和国浙江省に位置する地級市。.
総理各国事務衙門
総理各国事務衙門(そうりかっこくじむがもん、通称:総理衙門、満州語:、転写:geren gurun i baita be uherileme icihiyara yamun)は、清朝後期、外交や洋務(鉱山や鉄道に関する政策等)を管轄するために設立された官庁。1861年1月20日から1901年9月7日まで存在した。「総署」、「訳署」とも略称される。以下の解説では総理衙門と簡称する。時代が下るにつれて中国外交における影響力は低下したが、それまでの歴代中国王朝の外交手法を一変させる作用があった。 総理衙.
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瑞麟
麟(ずいりん、ジュイリン、ᡰᡠᡞᠯᡞᠨ 転写:žuilin、? - 1874年)は、清末の官僚。字は澄泉。満州正藍旗人で氏族はイェヘナラ氏(yehe nara hala、葉赫那拉氏)。 太常寺少卿、内閣学士、礼部侍郎を歴任し、咸豊3年(1853年)に戸部侍郎に異動して軍機大臣上行走を兼ねた。時に太平天国の北伐軍は静海県と独流鎮に拠って北京をうかがっていたが、瑞麟はホルチン郡王センゲリンチン(Sengerinchen、僧格林沁)に従って独流を攻め落とした。静海の太平天国軍は阜城を落とし、連鎮と山東省の高唐州に兵を分けたが、咸豊5年(1855年)に瑞麟は連鎮を陥落させ、指揮官の林鳳祥を捕えた。瑞麟はバトゥルの称号を与えられ、西安将軍となったが、就任しないうちに礼部尚書に任命され、鑲白旗蒙古都統を兼ねた。 アロー戦争中の咸豊8年(1858年)に大沽砲台の修築を命じられ、北京に戻ると戸部尚書・文淵閣大学士に任命された。咸豊10年(1860年)、勝保と共に通州の守りについていたが、イギリス・フランス軍に敗北して免職となった。その後北京条約が成立すると、センゲリンチンに従って山東省で捻軍と戦ったが鉅野の羊山集で敗北したため再び免職となった。 咸豊11年(1861年)、鑲黄旗漢軍都統に任ぜられ復帰、翌同治元年(1862年)に熱河都統に任命され荒野の開墾を進めた。同治2年(1863年)に広州将軍に任命され、同治4年(1865年)には両広総督代理を兼ねた。太平天国の康王汪海洋が福建省から広東省への侵入をうかがっていたが、これを撃退した上、閩浙総督左宗棠らと協力して汪海洋を包囲し、完全に攻め滅ぼした。 同治5年(1866年)、正式に両広総督となり匪賊の鎮圧と広東艦隊設立に手腕を発揮した。同治10年(1871年)、再び文淵閣大学士に任命された。死後、文荘の諡号を贈られた。.
甘粛省
粛省(かんしゅくしょう、中国語:甘肃省、拼音:Gānsù Shěng、英語:Gansu)は、中華人民共和国北西部にある省級行政区である。省都は蘭州市。.
白彦虎
白 彦虎(はく げんこ、Bai Yanhu、ドンガン語:Бай Яньху、1830年2月8日 - 1882年7月26日)、ムスリム名はムハンマド・アイユーブ。陝西省涇陽県出身。回民蜂起の指導者で十八大営元帥の一人。中央アジアのドンガン人からは民族の父とされている。 清の同治(1862年 - 1874年)年間は太平天国や捻軍などの蜂起があって、大量の軍費が必要とされ、各省に対する税の負担が重くなった。もともと土地がやせて貧しい陝西省・甘粛省での重税に官吏の腐敗と回民への侮蔑が重なり、回民の蜂起がおこった。アホンであった白彦虎らは1862年から西安を包囲し、清の欽差大臣勝保(シンポ)の軍を破った。しかし後任の欽差大臣ドロンガ(多隆阿)に敗れ、鳳翔に逃れた。 その後陝西回民軍は藍朝柱と連合してドロンガと対抗したが、1864年に甘粛省寧州の董志塬に逃れ、十八大営を組織して、白彦虎は元帥の一人に選ばれた。陝西回民軍は捻軍の張宗禹と連合して清朝に対抗したが、1868年3月に十八大営を四大営に編成しなおして董志塬を撤退した。 白彦虎は金積堡に拠る馬化龍の回民軍を救援しようとしたが失敗し、西寧に逃れ、馬桂源・馬本源兄弟と連合して清軍と戦ったが1872年に敗北した。西寧での敗北後、河西回廊を転戦し、カシュガルのヤクブ・ベクのもとに逃れた。1877年、欽差大臣左宗棠の大軍がヤクブ・ベクを滅ぼすと、5千人の兵とともにロシアに逃れて再起を図った。しかし再び陝西に戻ることなく、ビシュケクで肺炎のため42歳の生涯を閉じた。.
道光
道光(どうこう、満州語:、転写:doro eldengge)は清の宣宗の治世中に使われた元号。1821年 - 1850年。一世一元の制を採用していたため宣宗は道光帝と称される。.
袁保恒
袁 保恒(えん ほこう、Yuan Baoheng、1827年 - 1878年)、字は小午。清末の官僚。袁甲三の子で袁世凱の従父に当たる。 河南省項城出身。1850年に進士となり、庶吉士に選ばれ、編修となった。父が太平天国・捻軍との戦いに赴くと、袁保恒も従軍した。1857年、亳州の包囲を解き、捻軍の根拠地の雉河集を攻撃し、功績をあげた。1858年、捻軍の李大喜や孫葵心を相次いで破り、バトゥルの称号を得た。1859年に北京に戻るが、翌年にふたたび袁甲三軍に入り、定遠を攻略した。1862年、侍読・侍講・庶子に連続して昇進し、1863年に袁甲三が死去すると侍講学士に補せられた。 1868年、捻軍が北京に迫ると袁保恒は李鴻章から軍を委ねられて、平定にあたった。その後、陝甘総督左宗棠の回民蜂起制圧に従軍し、食糧補給を担当した。1874年に内閣学士・戸部侍郎に昇進し、翌年に北京に戻った。1876年、刑部侍郎に異動。 1877年、河南省で旱魃が発生し、その対策にあたっていたが、翌年に視察の途上で疫病にかかって死去した。文誠の諡号が贈られた。.
裕禄
裕禄(ゆうろく、ユイル、ᡞᠣᡞ ᠯᡠ 転写:ioi-lu、Yulu、1844年? - 1900年)は、清朝の官僚・軍人。字は寿山。満州正白旗人で氏族はヒタラ(喜塔臘)氏(hitara hala)。湖北巡撫崇綸の子。 熱河兵備道、安徽布政使を経て、同治13年(1874年)に30歳の若さで安徽巡撫となった。以後も両江総督、湖広総督、盛京将軍、四川総督を歴任。盛京将軍在任中の光緒15年(1889年)には熱河の金丹道教の蜂起を鎮圧している。光緒24年(1898年)、軍機大臣・礼部尚書・総理各国事務衙門大臣に任命後、栄禄(ジュンル)と交代する形で直隷総督となった。 直隷総督として勢力を拡大してきた義和団を当初は弾圧しようとしたが、やがて利用する姿勢を取った。光緒26年(1900年)、義和団の乱で8ヶ国連合軍が天津を陥落させると、清軍が勝利したとの虚偽の報告を行って、敗残兵を率いて北倉に退いた。8月に楊村にまで逃れ、そこで服毒自殺した。 Category:清代の人物 Category:日清戦争の人物 Category:北清事変の人物 Category:総理各国事務衙門大臣 Category:喜塔臘氏 Category:19世紀生 Category:1900年没.
西安市
西安市(せいあんし/シーアンし、、、)は中華人民共和国陝西省の省都であり、古くは中国古代の諸王朝の都となった長安である。国家歴史文化名城に指定され、世界各国からの観光客も多い。経済的重要性から大幅な自主権をもつ副省級市にも指定されている。.
西寧市
西寧市(せいねいし、中国語:西宁市、英語:Xining)は中華人民共和国青海省の省都。五区からなる市区と三つの県から構成される地級市のひとつ。チベット名はཟི་ལིང་(シリン)。省人民政府は本市の城中区にある。人口205万人、青海省全人口518万人の40%に当り、漢族、回族、チベット族、モンゴル族などの民族が住む。 現在西寧市に住んでいる人は近年他省から移住した人が多いため、普通話(中国語)を話す者が多い。また、チベット語話者も住んでいる。.
饒応祺
饒 応祺(じょう おうき、Rao Yingqi、1837年 - 1903年)、字は子維。清末の官僚。 湖北省恩施出身。1859年、太平天国の石達開軍が侵攻すると、団練を率いて城の防衛に協力し、その功で訓導に任命された。1862年、挙人となり、知県、刑部主事を歴任した。その後、陝甘総督左宗棠の幕府に入り、回民蜂起軍と戦って、金積堡で馬化龍を破るなど功績を立てた。1877年に陝西省の同州知府となり、食糧の増産に成功した。1884年、甘粛省の甘州知府となり、ここでも産業の振興に成果をあげた。1885年に蘭州道となり、1889年に新疆省のカシュガル道に転任となり、1891年に新疆布政使に昇進した。1895年、甘粛省でまたも回民の蜂起が発生すると、饒応祺は新疆巡撫代理に任命され、鎮圧にあたった。鎮圧後、功績により正式に巡撫となった。巡撫として土地の開墾と産業の振興に尽力した。1900年、義和団の乱が発生すると陝甘総督魏光燾・イリ将軍長庚とともに東南互保に参加して領事館の保護を約束し、ロシアに侵攻の隙を与えなかった。1902年に安徽巡撫に転任となったが任地に赴く途中で病死した。.
馬化龍
馬 化龍(ば かりゅう、Ma Hualong、1810年 - 1871年)は回民蜂起の指導者の一人。ムスリム名はタブアトゥッラー、道号はサイード・シュハダー(殉教者の領袖)。 寧夏霊州の出身。スーフィズムの一派であるジャフリーヤ教団のイマームであり、1862年に甘粛省で回民が蜂起するとその指導者となった。金積堡を拠点とし、1865年に清の提督雷正綰を包囲するなど、たびたび清軍を撃退した。しかし1869年から陝甘総督左宗棠とその配下の総兵劉松山の包囲を受けた。包囲を16ヶ月間耐え抜き、1870年には劉松山を戦死させたが、劉松山の甥の劉錦棠の猛攻を受け、1871年3月に降伏し、処刑された。 馬化龍の墓は霊武市にあり、1985年に記念式典が行われると、一万人以上の人々が中国各地から集まった。 Category:清代の人物 Category:回族 Category:回民蜂起の人物 Category:寧夏回族自治区出身の人物 Category:刑死した人物 Category:1810年生 Category:1871年没.
馬桂源
桂源(ば けいげん、Ma Guiyuan、1843年 - 1873年)は回民蜂起の指導者の一人。 甘粛省西寧(現在の青海省西寧市)出身。イスラム教のフフィー教団を創設した馬来遅の4世の子孫にあたり、1860年に教主だった兄の死去により、教主となった。1862年に回民と漢民族との衝突をきっかけに、馬文義率いる回民とサラール族が蜂起し、馬桂源が宗教的指導者に推された。清朝は鎮圧することができず、1868年に馬桂源を西寧府知府、兄弟の馬本源を西寧鎮総兵代理に任命した。こうして西寧地方はほぼ清から独立した状態となった。1871年、馬文義が病死したが、このとき陝西回民軍の白彦虎・禹得彦・崔偉が西寧に逃れてきており、清への徹底抗戦を説いていた。1872年、清軍を率いる左宗棠は部下の劉錦棠に西寧攻撃を命じ、ここに至って馬桂源は「統領陝湟兵馬大元帥」を名乗り、防衛にあたることになった。8月より戦闘が開始し、2カ月の戦闘の後に劉錦棠軍は西寧に入り、禹得彦・崔偉と馬桂源の叔父の馬永福は投降した。馬桂源兄弟はパエンロンゴ(巴燕戎格)に逃れて抵抗を続けた。しかし1873年2月には白彦虎軍が大通で敗れて粛州に逃れ、パエンロンゴは孤立無援となった。3月に馬桂源兄弟はさきに清軍に投降していた河州の回民指導者馬占鰲にだまされて捕らえられ、蘭州に送られ処刑された。.
馬文禄
文禄(ば ぶんろく、Ma Wenlu、? - 1873年)は回民蜂起の指導者の一人。 甘粛省粛州出身。西寧の馬文義の蜂起に参加した後、1865年に回民を率いて粛州を占拠した。粛州は堅固な城郭を有していたので清軍は手出しができなかった。やがて金積堡・河州・西寧などの他の回民蜂起軍の根拠地が次々と陥落し、回民軍は続々と粛州に逃れてきて、馬文禄は「兵馬大元帥」に推された。1872年3月に清軍を率いる左宗棠は徐占彪・楊世俊に命じて粛州を攻撃させた。楊世俊軍は包囲に失敗し、兵力の大半を失ったため、左宗棠は金順と宋慶を派遣して粛州城郊外の塔爾湾を占拠した。さらに左宗棠は張曜らを援軍に送り粛州城を包囲した。しかし馬文禄軍は包囲を耐え抜いたため、1873年8月についに左宗棠が自ら督戦に赴いて、劉錦棠も援軍にやってきた。こうして60余営の清軍の包囲を受け、馬文禄軍の食糧の不足は深刻なものとなった。さらに馬文禄軍と協力していた陝西回民蜂起軍の白彦虎が戦闘に敗北して、東トルキスタンのヤクブ・ベクのもとに逃れた。こうして馬文禄は投降に追い込まれ、処刑された。.
駱秉章
駱 秉章(らく へいしょう、Luo Bingzhang、1793年 - 1867年)、字は籲門、号は儒斎。清朝の官僚。 広東省花県(現在の広州市花都区)出身。1832年、進士となって翰林院庶吉士となる。1848年、湖北按察使となり、1850年には貴州布政使から湖南巡撫に昇進した。1852年、太平天国軍が湖南に入ると駱秉章は兵を率いて抵抗し、長沙を80日間にわたって包囲されたがついに守りきった。1853年、曽国藩が団練を結成するのを支持し、左宗棠を幕僚に招いた。 1861年、四川総督に任命され雲南省の藍朝鼎の蜂起軍を鎮圧した。1863年、大渡河に進軍し太平天国の石達開の退路を断った。石達開は包囲され、部下の命を助けるために投降し成都で処刑された。1867年、四川総督在任のまま死去。文忠の諡号を贈られた。 Category:清代の人物 Category:広州出身の人物 Category:1793年生 Category:1867年没 Category:清代の進士.
諸葛亮
諸葛 亮(しょかつ りょう、、181年 - 234年)は、中国後漢末期から三国時代の蜀漢の政治家・軍師。字は。 司隷校尉諸葛豊の子孫。泰山郡丞諸葛珪の子。諡は。蜀漢の建国者である劉備の創業を助け、その子の劉禅の丞相としてよく補佐した。伏龍、臥龍とも呼ばれる。今も成都や南陽には諸葛亮を祀る武侯祠があり、多くの観光客が訪れている。 妻は黄夫人。子は蜀漢に仕え綿竹(成都付近)で戦死した諸葛瞻。孫には同じく蜀漢に仕え父と共に綿竹で戦死した諸葛尚や、西晋の江州刺史になった諸葛京がいる。親族として従父(叔父)の豫章太守諸葛玄、同母兄で呉に仕えた諸葛瑾とその息子の諸葛恪、同母弟で同じく蜀漢に仕えた諸葛均などが知られる。一族には、魏に仕えた諸葛誕などがいる。.
譚鍾麟
譚鍾麟(たん しょうりん、Tan Zhonglin、1822年 - 1905年)は、清末の官僚。字は文卿。湖南省茶陵出身。譚延闓の父。 咸豊6年(1856年)、進士及第により翰林院編修に任じられ、同治年間は地方官を歴任した。同治10年(1871年)、左宗棠の推挙により陝西布政使に任じられ、間もなく陝西巡撫代理に昇進している。左宗棠が新疆においてヤクブ・ベクと交戦した際には、軍糧輸送に従事し勝利に貢献するなどの功績を挙げ、光緒元年(1875年)に正式に陝西巡撫に任じられている。光緒5年(1879年)に浙江巡撫に任命、在任期間中に文瀾閣を整備している。光緒7年(1881年)には陝甘総督に任じられ現地での農業の発展に尽力した。 光緒14年(1888年)に病を理由に官を辞したが、3年後に再び呼び戻され光緒18年(1892年)には工部尚書、次いで閩浙総督に任じられている。光緒21年(1895年)に両広総督に任じられ、在任中に孫文が指導する広州蜂起を鎮圧して陸皓東らの革命党人を処刑した。また戊戌の変法に反対する上奏を行い、保守派の西太后に高く評価されている。 光緒25年(1899年)、イギリスに対する香港の新界地区租借に反対し病と称して辞職した。光緒31年(1905年)に病死したが、生前の功績により文勤の諡号を贈られた。息子に中華民国期の政治家の譚延闓がいる。 Category:清代の人物 Category:株洲出身の人物 Category:1822年生 Category:1905年没.
魏光トウ
魏 光燾(ぎ こうとう)は清末の政治家。別名は午庄、字は光邴、号は湖山老人。 1856年、湘軍に入り、江西省・広西省・浙江省・福建省などで太平天国軍と戦った。1868年より左宗棠に従って、陝西省・甘粛省で回民蜂起軍と戦った。さらに左宗棠がヤクブ・ベクの乱鎮圧に向かうと、これに従い軍事と政治の両面で支えた。ヤクブ・ベクの乱の平定後に新疆省が設置されると初代の新疆布政使に任命された。 その後、陝西巡撫、陝甘総督、雲貴総督、両江総督、南洋大臣、総理各国事物大臣の職を歴任した。両江総督の在任中には劉坤一、張之洞の後を継いで三江師範学堂(現在の南京大学)を開校させた。1905年に引退し郷里に帰った。辛亥革命発生後に湖広総督に起用されたが就任しなかった。 著書には『勘定新疆記』『湖山老人自述』がある。 Category:清代の人物 Category:邵陽出身の人物 Category:回民蜂起の人物 Category:ヤクブ・ベクの乱の人物 Category:1837年生 Category:1915年没.
鮑超
鮑 超(ほう ちょう、Bao Chao、1828年 ‐ 1886年)、字は春霆は、清末の湘軍の指揮官。 四川省奉節県出身。1852年、広西提督向栄が湖北省宜昌で兵を募って「川勇営」を組織したときに参加した。勇猛でしばしば戦功を立てたため、曽国藩に目をかけられ、副将に昇進した。その活躍ぶりはドロンガ(多隆阿)とともに「北多南超」と賞賛された。1856年に胡林翼から自分の部隊を持つことを認められ、長沙で1万5千の兵を集めて「霆字営」を組織した。安徽省南部に駐屯し、1860年に祁門にある湘軍の司令部の守備にあたって、太平天国軍の包囲を撃退し、大いに恐れられた。1862年に浙江提督に昇った。1864年、江蘇省・浙江省で敗れた太平天国軍が江西省に逃れると、その掃討にあたり、南京攻略後の論功行賞で一等軽車都尉を授かった。その後、太平天国の余党の汪海洋・譚体元を広東省で破った。 1866年より捻軍の鎮圧にあたり、湖北省・河南省・陝西省の境界を転戦した。1867年1月、尹隆河の戦いで劉銘伝が苦戦しているところに応援に駆けつけて捻軍を撃破し、捻軍の任柱と頼文光を逃亡させる勝利をおさめた。しかし李鴻章に救援に駆けつけるのが遅かったと弾劾されると、憤慨して職を辞して霆字営を解散させた。 郷里にもどった後は病と称して11年間復職しなかった。1880年になって湖南提督に起用され、ロシアに対する防衛にあたるが、2年後に病として辞職した。清仏戦争がおきると軍を率いて雲南省の防衛にあたるが、和議が成立するとまた郷里に戻った。 死後、太子少保を贈られ、忠壮の諡号を贈られた。.
趙秉鈞
趙 秉鈞(ちょう へいきん)は清末民初の政治家。袁世凱の腹心的存在で、北京政府で国務総理をつとめた。字は智庵。.
軍機大臣
軍機大臣(ぐんきだいじん、満州語:、転写:coohai nashūn i amban、 正式名称は「弁理軍機大臣」)とは、中国の清朝中後期(1732年-1911年)における主要な役職名である。軍機処で働く高級官僚であった事からこの名が付いたが、軍機大臣は公式の官職ではなく、高級文官の中から選抜された官吏の役職名である。軍機処にあって事務を処理する軍機章京(coohai nashūn i jiyanggiyūn)を「小軍機」と言ったのに対応して、軍機大臣を「大軍機」とも呼ぶ。.
胡雪巌
胡雪巌 胡 雪巌(こ せつがん、、1823年 - 1885年)は、清末期の実業家。名は光墉、字が雪巌(「巖」は「岩」に通ずるため、「胡雪岩」と書かれることも多い)。 安徽省の績渓の出身で、清朝の末期に杭州で起業し上海にまで活動の範囲を広げる。当時、官商として巨万の富を得る一方、清朝政府に対する功績が認められる。官にしか認められていなかった紅頂の帽子と官服を、商人の身分で極少数の特例として拝領したことから、「紅頂商人」の呼称で呼ばれることが多い。.
胡林翼
胡 林翼(こ りんよく、Hu Linyi、1812年 - 1861年)、字は潤之は、湖南省益陽の人。 1836年、進士となり翰林院編修となった。その後、貴州省安順・鎮遠の知府となり、ミャオ族蜂起や湖南省の李沅発の乱を鎮圧した。湖南巡撫張亮基・駱秉章に評価されて招聘されたが、貴州にとどまった。 1854年、貴東道となり、貴州の郷勇千人を率いて湖南省・江西省で太平天国軍と戦い、1855年に湖北布政使に任命された。その直後、 太平天国が再び武昌を陥落させたため、胡林翼と曽国藩が奪回にあたり、1856年に奪回に成功して湖北巡撫に任命された。1857年には黄州に侵入した陳玉成の軍を破った。1858年、九江を陥落させ、安慶を包囲した。しかし、11月に胡林翼軍の主力の李続賓の部隊が三河の戦いで壊滅し、勢力を後退させた。翌年、曽国藩とともに兵を四分し安徽省に侵攻した。1861年春、太平天国軍が湖北省に入ると部隊を率いて救援に向かい、その間に曽国荃が安慶に向かって9月に陥落させた。しかし胡林翼は同月末に武昌で病死した。 曽国藩・李鴻章・左宗棠と並んで「中興の名臣」とされ、文忠の諡号を贈られた。著書に『読史兵略』がある。 Category:清代の人物 Category:湖南省出身の人物 Category:1812年生 Category:1861年没 Category:清代の進士.
蘭州市
蘭州市(らんしゅうし、兰州市、、Lanzhou)は中華人民共和国甘粛省の省都。雅名を金城といい、石油工業が発達している。.
蒋益レイ
蒋 益澧(しょう えきれい、Jiang Yili、1825年 - 1874年)、字は薌泉は清朝の官僚、湘軍の指揮官。 湖南省湘郷出身。若い時から保守的な郷里と合わず、四方を旅する生活を送ったが、咸豊の初めに湘軍に加入した。最初は曽国藩の直属部隊にいたが、1854年に羅沢南の部隊に転じ、江西省・湖北省で太平天国軍と戦い、戦功により知府に任命された。 1857年、広西巡撫駱秉章の招きで、広西省で大成国の鎮圧に加わり、道員に昇進してバトゥルの称号を得た。1858年には大成国から柳州を奪回した。1859年、太平天国の石達開軍が湖南省から広西省に進出したが、援軍として桂林を守ったため、広西按察使、さらに広西布政使となった。その後弾劾されて降格となったが、石達開の部将の石鎮吉や賀県の陳金釭を破り、1861年に広西按察使に戻された。さらに同年、大成国を滅ぼした功により広西布政使となった。 その後、浙江布政使に転任となって閩浙総督左宗棠のもと、杭州を奪回するなど太平天国との戦いで数々の功績を立てた。1864年に左宗棠が福建省に太平天国軍を追撃すると蒋益澧を浙江巡撫代理に推薦した。蒋益澧は巡撫として減税や水利事業や学校の創設を行った。1866年、広東巡撫となって洋務運動を進め、造船工場を設立した。しかし両広総督瑞麟と合わずに弾劾され、降格された。その後、左宗棠の軍中にあって西北遠征の計画と連絡にあたった。 死後、広西省時代の功績によって巡撫の官位に戻され、果敏の諡号を贈られた。 Category:清代の人物 Category:湘潭出身の人物 Category:1825年生 Category:1874年没.
臨夏市
臨夏市(りんか-し)は中国甘粛省臨夏回族自治州に位置する県級市。臨夏自治州の行政中心で、かつての河州にあたる。イスラム教徒である回族や少数民族東郷族が多く居住し、人口の55パーセントが少数民族である。.
金華市
金華市(きんか-し)は中華人民共和国浙江省に位置する地級市。気候は亜熱帯季節風気候に属し、四季がはっきりとしている。 金華ハムで名が知られている金華市は、豚のほか鶏や鴨も盛んに飼育されている。.
金順
金順(きんじゅん、ギンシュン、満州語:ginšūn、1831年 - 1886年)、字は和甫。清末の軍人。 イルゲンギョロ氏(irgen-gioro hala、伊爾根覚羅氏)、満州鑲藍旗人。吉林出身で、ドロンガ(多隆阿)の部隊に属して山東省に駐屯した。湖北省での太平天国軍との戦いに功績があった。その後1863年から回民蜂起の鎮圧にあたった。 1875年に都統となって、翌年に阜康に駐屯した。軍機大臣左宗棠の命を受けて劉錦棠とともに、ヤクブ・ベクの乱鎮圧にあたった。ウルムチ、サンジ・シャヒリ、クトゥビを陥落させ、マナスに迫り、その功でイリ将軍に任命された。1881年にイリ地方を接収し、ロシアとの国境を画定させた。その後北京に呼び戻され、帰途粛州で病死した。死後、太子太保の位と忠介の諡号が贈られた。 Category:清代の人物 Category:伊爾根覚羅氏 Category:吉林省出身の人物 Category:回民蜂起の人物 Category:ヤクブ・ベクの乱の人物 Category:1831年生 Category:1886年没.
長沙市
長沙市(ちょうさし、、)は中華人民共和国湖南省の省都。古い歴史をもつ国家歴史文化名城であり、経済的にも湖南省の中心として発展している。株洲市・湘潭市とともに、中国の製造業の中心の一つである「長株潭都市群」を構成する。華中地域において、武漢に次いで2番目の大都市となる。.
酒泉市
酒泉市(しゅせんし)は中華人民共和国甘粛省に位置する地級市。 2002年6月18日に「酒泉地区」と県級の「酒泉市」を撤廃して地級市となり県級行政区画の粛州区を増設した。.
集英社
株式会社集英社(しゅうえいしゃ)は、日本の総合出版社。『週刊少年ジャンプ』『週刊プレイボーイ』『non-no』『すばる』 『Myojo』などの雑誌を発行している。社名は「英知が集う」の意味。.
進士
明代の進士服 進士(しんし、満州語:dosikasi)とは、隋から北宋中期にかけては科挙の六科の一つ。王安石の改革で進士科以外が廃止された後は、科挙の登第者(合格者)を指し、以降の南宋から清まで続いた制度である。.
耆齢
耆齢(きれい、チリン、満州語:Ciling、Qiling、? ‐ 1863年)、字は九峰。清朝の官僚。 満州正黄旗人。工部の筆帖式(満州語と中国語の翻訳官)出身。1837年に挙人となり、刑部主事、郎中を歴任した。その後、江西省各地の知府を歴任した。1853年、太平天国軍が南昌を攻撃した際には防衛にかけつけた。1855年に吉南贛寧道に昇進し、太平天国軍が義寧を攻撃すると救援にあたった。1856年、江西布政使に昇進し、饒州に駐屯した。働きぶりを曽国藩に評価され、1857年に江西巡撫となった。 当時の江西省の大半は太平天国軍の手に落ち、清朝には南昌・贛州など数郡しか残されていなかった。耆齢は湘軍と協力して太平天国軍にあたり、1859年までに江西省全域を奪回した。 その後、広東巡撫に異動し、侵入してきた太平天国軍の撃退にあたった。1862年、閩浙総督となり、福建省から浙江省に入り、浙江省東部を平定した。1863年、福州将軍に転任したが間もなく死去した。恪慎の諡号が贈られた。.
陝甘総督
陝甘総督(せんかんそうとく、šansi g'ansu i uheri kadalara amban)は、中国清朝の地方長官の官職である。陝西省・甘粛省の総督として管轄地域の軍政・民政の両方を統括した。.
陝西省
陝西省(せんせいしょう、中国語:陕西省、拼音:Shǎnxī Shěng(シャンシーシェン)、英語では山西省と区別するため「Shaanxi」と表記)は、中華人民共和国の行政区画の一つ。略称は秦、または三秦。古代中国の長安一帯を含む地域。.
陳ショク
陳 湜(ちん しょく、Chen Shi、1831年 - 1896年)は、清末の軍人。字は舫仙。 湖南省湘郷出身。1856年、湘軍に参加し、曽国荃に従って江西省で太平天国軍と戦った。1858年、蒋益澧に従って広西省で大成国と戦った。1859年、石達開軍が宝慶を包囲した時には、数千人を率いて救援に赴き、李続宜とともにこれを破った。1860年より安慶を包囲している曽国荃軍に加わり、翌年に安慶が陥落すると道員に抜擢され一軍を率いることを許された。1862年から南京の包囲に参加し、バトゥルの称号を得た。1864年、南京の陥落時には、脱出した李秀成を捕らえる功をあげた。 1865年、陝西按察使となったが山西按察使に移された。張宗禹率いる捻軍と戦ったが、1868年に防衛体制の不備を咎められ解任された。1870年に復職し、左宗棠の回民蜂起鎮圧に従い功績をあげた。 1882年、両江総督になった曽国荃の要請で呉淞に駐屯して、水陸両軍を統率して海防にあたったが、不行跡を理由に免職となった。1886年、再び召し出されて南洋水軍・湘軍・淮軍を統括し、江蘇按察使を兼ねた。 1894年、日清戦争が発生すると山海関の防衛にあたり、翌年には鞍山に駐屯した。終戦後、江西布政使に抜擢された。その後、再び山海関の防衛にあたった。 曽国荃に最も長く従い、しばしば失敗はしたものの、宿将と称された。.
林則徐
林 則徐(りん そくじょ、Lín Zéxú、1785年8月30日(乾隆50年7月26日) - 1850年11月22日(道光30年10月19日))は、中国清代の官僚、政治家。欽差大臣を2回務めている。 字は少穆(しょうぼく、Shǎomù)。諡は文忠(ぶんちゅう、Wénzhōng)。イギリスによる阿片密輸の取り締まりを強行し、これに対する制裁としてイギリスは阿片戦争を引き起こした。.
林文察
林 文察(りん ぶんさつ、Lin Wencha、1828年3月4日 - 1864年12月1日)は、清末の軍人。字は密卿。小刀会の乱、戴潮春の乱の鎮圧に尽力し、福建省・浙江省・江西省で太平天国軍と戦った。子に林朝棟がいる。.
捻軍
捻軍(ねんぐん)は太平天国の乱と同時期に清に反抗した華北の武装勢力。「捻」とは「ひねる」「こよる」という意味の語であるが、淮河北方の方言では「一本一本の糸をよりあげる」ことから転じて「人々の集まり」を示す。捻軍の起源は「捻子」という遊民の集団で安徽省・河南省一帯に広がっていった。.
李世賢
李 世賢(り せいけん、Li Shixian、1834年 - 1865年)は、太平天国の指導者の1人。広西省藤県出身。忠王李秀成の従兄弟に当たる。 太平天国は天京事変と翼王石達開の離脱で、深刻な人材の不足に陥った。李世賢は勇壮をもって重用され、咸豊8年(1858年)に左軍主将に任命され、咸豊10年(1860年)に侍王に封ぜられた。同年の第二次江北大営攻略・第二次江南大営攻略に参加し、翌11年(1861年)には浙江省に進軍して金華を陥落させ、ここを太平天国の浙江の根拠地とした。しかし同治元年(1862年)に天京が湘軍に包囲されたため、金華には部下の李尚揚を残して、天京へと向かった。 同治3年(1864年)、天京の食糧不足が深刻となり、食糧確保のため江西省を転戦していたが、7月に天京が陥落した。幼天王洪天貴福は李世賢軍に合流しようとしたが、李世賢は広東省にいたため果たすことができず清軍に捕らわれた。李世賢は福建省を転戦し、10月には漳州を占領して根拠地にしようとしたが、左宗棠の猛攻にあい、同治4年(1865年)5月に壊滅し、部下の劉肇鈞や潘起亮を失った。8月に広東省鎮平の康王汪海洋の率いる太平天国軍の下に逃れたが、数日後に汪海洋に殺害されてしまった。 Category:太平天国の人物 Category:梧州出身の人物 Category:1834年生 Category:1865年没.
李鴻章
李 鴻章(り こうしょう、、1823年2月15日(道光3年1月5日) - 1901年11月7日(光緒27年9月27日))は、中国清代の政治家。字は少荃(しょうせん)。洋務運動を推進し清後期の外交を担い、清朝の建て直しに尽力した。日清戦争の講和条約である下関条約で清側の欽差大臣(全権大使)となり、調印を行ったことでも知られる。.
杭州市
杭州市(こうしゅうし、中国語:杭州市、、英語:Hangzhou)は中華人民共和国浙江省の省都(副省級市)。浙江省の省人民政府の所在地。中国八大古都の一であり、国家歴史文化名城に指定されている。13世紀は世界最大の都市であった。 隋代以降、江南運河の終着点として経済文化が発達し、「上に天国あり、下に蘇州・杭州あり。(上有天堂、下有蘇杭。)」とたたえられた。また、五代十国の時代、呉越国の都となり、南宋時代には事実上の首都、臨安府が置かれた。市中心部の西には世界遺産の西湖という湖があり、国の内外より多くの観光客が訪れる。 一般に「こうしゅう」と日本語読みされるが、広州市との区別が必要な場合に「くいしゅう」と湯桶読みされることがある。.
梁啓超
梁 啓超(りょう けいちょう)は清末民初の政治家、ジャーナリスト、歴史学者。字は卓如、号は任公、飲冰室主人など。さらに中国之新民他きわめて多数のペンネームをもつ。 建築家・建築史家の梁思成は長男、考古学者の梁思永は次男にあたる。.
楊岳斌
楊 岳斌(よう がくひん、Yang Yuebin、1822年 - 1889年)は、清末の軍人。字は厚庵。元の名は載福といったが、同治帝の名(載淳)を避けて岳斌と改名した。 湖南省善化(現在の長沙市)出身。幼時より騎射に優れ、新寧の反乱の鎮圧に参加した。1852年、湘陰の防衛に功績があり、千総に抜擢された。1853年、曽国藩が湘軍を創設すると、水軍の指揮官となった。湘潭・岳州・武昌・田家鎮を転戦し、鄖陽鎮総兵・湖北提督代理に任命された。1858年、李続賓とともに江西省の九江を攻め、太平天国軍の林啓栄を捕らえた。1859年から安慶包囲に加わり、陳玉成や李世賢らと戦い、他の諸将とともに1861年に陥落させた。1863年から曽国荃の南京包囲に加わった。1864年、江西省・安徽省の軍務の統括を命じられ、陝甘総督に抜擢された。1865年、江西省・安徽省を平定した後に陝西省に赴任したが、回民蜂起に苦戦し、1866年に辞職した。1875年、彭玉麟とともに長江水師の巡閲を命じられた。1883年、清仏戦争が起きると福建省の軍務を命じられ、さらに江南の軍務についた。1885年、12営を率いて台湾に赴き、劉銘伝とともにフランス軍の上陸を阻止した。死後、勇悫の諡号を贈られた。.
楊乃武と小白菜
楊乃武と小白菜」は清末に楊乃武と畢秀姑(小白菜)が姦通して夫を殺害したと疑惑をかけられた冤罪事件である。清末四大疑案の1つに数えられる。.
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楚勇
楚勇は太平天国の乱の時期に活動した湖南省出身の郷勇である。楚軍・宝勇ともいう。.
楊昌濬
楊 昌濬(よう しょうしゅん、Yang Changjun、1825年 - 1897年)は、清末の官僚。字は石泉。湖南省湘郷県(現在の婁底市)出身。 太平天国の乱が起こると、師であった羅沢南に従って団練を組織し、湖北省に援軍に赴き訓導に任命され江西省・安徽省を転戦、知県に昇進した。同治元年(1862年)、左宗棠軍に属して浙江省に入り、李世賢を破り、衢州府知府に任ぜられた。その後湖州を奪回し、浙江省西部を平定し、塩運使、浙江布政使と昇進を重ねた。 同治9年(1870年)に浙江巡撫に任命され7年在任、光緒4年(1878年)、左宗棠のヤクブ・ベクの乱鎮圧の補佐にあたり、光緒6年(1880年)に陝甘総督に昇進、光緒9年(1883年)に漕運総督に転任した。翌10年(1884年)、清仏戦争で左宗棠が欽差大臣に任命されるとここでも補佐にあたり、閩浙総督となった。光緒14年(1888年)に陝甘総督に再任し光緒21年(1895年)まで務めた。.
欽差大臣
欽差大臣(きんさだいじん、ᡥᡝᠰᡝ ᡳᠲᠠᡣᡡᠷᠠᡥᠠᠠᠮᠪᠠᠨ 転写:hese i takūraha amban)は、清朝の官職名。特定の事柄について皇帝の全権委任を得て対処する臨時の官を欽差官というが、その中でも特に三品以上のものを指す。 ただ本来は臨時官であったが、中には時代の変遷と共に常設化したものもある。たとえば総督や巡撫といった官は明代の欽差官が定着したものである。すなわち欽差大臣と呼称されるものには、臨時と常設のものとの2種類があるといって良い。以下に挙げるのは本来の意味での臨時の欽差大臣である。.
江南機器製造総局
江南機器製造総局(こうなんききせいぞうそうきょく, 1865年(同治4年)9月20日 - 1917年)は清朝の洋務運動の中で成立した軍事生産機構である。晩清期の中国では最も先進的で重要な軍事工場の1つであり、後の江南造船廠の前身である。 略称は江南製造局あるいは江南製造総局、また上海機器局と別称される事もある。.
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汪海洋
汪 海洋(おう かいよう、Wang Haiyang、1830年 - 1866年)は、太平天国の指導者の一人。 安徽省全椒出身。翼王石達開が天京を離れて独自行動に出るとそれに従ったが、1860年、 広西省で彭大順らとともに部下を率いて離脱し、翌年に江西省で忠王李秀成軍と合流した。その後李秀成に従って浙江省に進軍し、功績を立てて康王に封じられた。 清軍が浙江省の失地を次々と回復すると汪海洋は1864年に江西省に転戦し、侍王李世賢のもとで戦った。天京が陥落すると汪海洋は李世賢に従って福建省に入った。1865年5月、李世賢軍が大敗すると汪海洋軍は広東省鎮平に退いた。8月になって李世賢は汪海洋のもとに逃れてきたが、汪海洋は李世賢に罪に問われることを恐れて殺害してしまった。その後汪海洋は北上して捻軍と合流しようとしたが、江西省の清軍に阻まれて広東省に引き返さざるを得なかった。12月、嘉応州(現在の梅州市)を占領した。しかし左宗棠の派遣した康国器・王徳榜・劉典・高連升・鮑超・黄少春らの湘軍に包囲され、翌年に戦死した。余党は譚体元に率いられ南に逃れた。 Category:太平天国の人物 Category:滁州出身の人物 Category:戦死した人物 Category:1830年生 Category:1866年没.
河西回廊
河西回廊(かせいかいろう、河西走廊、甘粛走廊)は、東は烏鞘嶺からはじまり、西は玉門関、南北は南山(祁連山脈と阿爾金山脈)と北山(馬鬃山、合黎山および龍首山)の間の長さ約900km、幅数kmから近100kmと不規則な、西北-東南方向に走る狭く長い平地である。回廊の形を為し、黄河の西にあるために河西回廊と呼ばれる。地域では甘粛省の蘭州と、6,500m級の祁連山脈を水源とする、砂漠河川に潤されるオアシス都市群、「河西四郡:武威(かつての涼州)、張掖(甘州)、酒泉(粛州)、敦煌(瓜州)」を包括する。民族では漢族、回族、モンゴル族、ユグル族、チベット族など多くの民族が居住する。漢の武帝が河西を開闢し、武威、張掖、酒泉、敦煌の四郡を列して以来、内陸の新疆に連なる重要な通路であり、古代のシルクロードの一部分として、古代中国と西方世界の政治・経済・文化的交流を進めた重要な国際通路であった。 Category:中国の平野 Category:甘粛省の地形 Category:回廊地帯.
洋務運動
洋務運動(ようむうんどう)は、中国の清朝末期(1860年代前半 - 1890年代前半)、ヨーロッパ近代文明の科学技術を導入して清朝の国力増強を目指した運動。自強運動(じきょううんどう)とも。清朝の高級官僚であった曽国藩・李鴻章・左宗棠・劉銘伝・張之洞らが推進者。 福建省福州の造船所・福州船政局.
淮軍
淮軍(わいぐん)は、清朝の重臣李鴻章が同治元年(1862年)に編成した地方軍である。湘軍と並べて湘淮と称される。.
清
清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.
清仏戦争
清仏戦争(しんふつせんそう、、、Chiến tranh Pháp-Thanh/戰争法清、Guerre franco-chinoise)は、1883年8月と1885年4月にかけて起きた、ベトナム(越南)領有を巡るフランスと清との間の戦争。 フランスが領土領有を達成したためフランスの勝利と考えられているが、士気旺盛な黒旗軍との戦いでは軽視できない損害も被った。.
湘軍
湘軍(しょうぐん)は、清末の湖南地方の軍の呼称で、湘勇ともいう。太平天国の乱を清朝の正規軍(八旗・緑営)は鎮圧できず、やむを得ず清朝政府の命により各地の郷紳に臨時の軍隊を組織させた。これを郷勇と呼び湘軍はその一つであった。.
湘陰県
湘陰県(しょういん-けん)は、中国湖南省岳陽市に位置する県。洞庭湖の南の農漁業の盛んな地域である。左宗棠、郭嵩燾、范源濂といった近代中国の重要人物の出身地でもある。.
湖南省
湖南省(こなんしょう、中国語:湖南省、拼音:Húnán Shěng、湘語(雙峰語):/ɣəu13 læ̃ 13/、英語:Hunan)は、中華人民共和国の省の一つ。省都は長沙市。略称は湘。.
挙人
挙人(きょじん、満州語:tukiyesi)は中華圏の人材登用に関する称号。時代によって概念が異なる。.
海防・塞防論争
海防・塞防論争(かいぼう・さいぼうろんそう)とは、1870年代の中国(清朝)において、国防方針をめぐってたたかわされた論争である。.
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浙江省
浙江省(せっこうしょう、中国語:浙江省、拼音:Zhèjiāng Shěng、英語:Zhejiang)は、中華人民共和国の省の一つ。略称は浙。華東地区中部に位置し、東シナ海に面す。省都は杭州市。浙とは省内最大の河川・銭塘江を指す。銭塘江は蛇行が激しいことから曲江・之江・折江・浙江などと呼ばれてきた。.
新疆ウイグル自治区
新疆ウイグル自治区(新疆維吾爾自治区)(しんきょうウイグルじちく)(شىنجاڭ ئۇيغۇر ئاپتونوم رايونی / Shinjang Uyghur Aptonom Rayoni)は、中華人民共和国の西端にある自治区である。1955年に設立され、首府はウルムチである。 民族構成はウイグル族のほか、漢族、カザフ族、キルギス族、モンゴル族(本来はオイラト族である)などさまざまな民族が居住する多民族地域であり、自治州、自治県など、様々なレベルの民族自治区画が置かれている。中華民国時代には、1912年から新疆省という行政区分が置かれていた。 本来中国には時差が設定されていないが、新疆では非公式に北京時間(UTC+8)より2時間遅れの新疆時間(UTC+6)が使われている。.
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新疆省
新疆省(しんきょうしょう)は、清末から中華人民共和国初期にかけて、現在の新疆ウイグル自治区に設置された行政区画である。清代には現在の新疆ウイグル自治区のアルタイ地区を除く区域を管轄し、民国時代もそれが踏襲されたが、1919年(民国8年)6月にアルタイ地区が編入された。1933年(民国22年)にはモンゴル人民共和国軍により布爾根等が占拠されている。 清朝支配下の新疆は、在地有力者を通した間接支配であったが、1860-70年代に起きたヤクブ・ベクの乱の結果、1884年に中国内地と同様の省制が敷かれ、新疆省が設置された。辛亥革命後は、中華民国の地方行政区分として位置づけられたが、ソ連の強い影響の下、漢民族の官僚による独裁的な体制が維持され、事実上の独立状態となっていた。国共内戦終結後、1949年に中華人民共和国政府の支配下に入り、1955年に新疆ウイグル自治区に改組された。.
文化大革命
文化大革命(ぶんかだいかくめい)は、中華人民共和国で1966年から1976年まで続き、1977年に終結宣言がなされた社会的騒乱である。全称はプロレタリア文化大革命(簡体字: 无产阶级文化大革命, 繁体字: 無產階級文化大革命)、略称は文革(ぶんかく)。 名目は「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」という政治・社会・思想・文化の改革運動だった。しかし実際は、大躍進政策の失敗によって国家主席の地位を劉少奇党副主席に譲った毛沢東共産党主席が自身の復権を画策し、紅衛兵と呼ばれた学生運動を扇動して政敵を攻撃させ、失脚に追い込むための、中国共産党の権力闘争であった。 これにより1億人近くが何らかの損害を被り、国内の大混乱と経済の深刻な停滞をもたらした。.
文祥
文祥(ぶんしょう、ウェンシャン、ᠸᡝᠨᠰᡞᠶᠠᠩ 転写:wensiyang、1818年 - 1876年)は、清末の政治家。字は博川、号は子山。洋務運動を推進した。盛京(現在の瀋陽)出身。満洲鑲黄旗の氏族グワルギャ氏(gūwalgiya hala、瓜爾佳氏)出身の正紅旗人。同族に栄禄がいる。.
曽国セン
曽 国荃(そう こくせん、Zeng Guoquan、1824年10月12日 - 1890年11月13日)は、中国清朝の軍人、政治家。字は沅甫。湖南省長沙府湘郷県(現在の双峰県荷葉鎮)出身。清朝の著名な大臣曽国藩と曽国華の弟で曽貞幹の兄。湘軍の指揮官の1人。 太平天国との戦いでは長兄の補佐を行い、咸豊6年(1856年)に江西省で兄が苦戦していると聞くと湖南巡撫駱秉章に請うて3千人の兵を集め、吉安に救援に向かい翌7年(1857年)に陥落、功績で知府に抜擢された。咸豊8年(1859年)には江西省全土を掌握し、道員に昇進した。その後九江を出発し、黄州から安徽省に入った。 咸豊10年(1860年)から安慶を包囲し、陳玉成の援軍にしばしば敗れるも、翌11年(1861年)に安慶を陥落させた。同治元年(1862年)に浙江按察使、ついで江蘇布政使に任命され、雨花台から天京の攻撃を開始した。同治3年(1864年)、天京攻防戦で激戦の末に天京を陥落させ太平天国を滅亡させたが、安慶と南京で殺戮を行い、財物を略奪したことで非難を浴びた。 同治4年(1865年)に湖北巡撫に任命、同治6年(1867年)、李鴻章と共に捻軍の鎮圧にあたったが、作戦の失敗で病と称して退職した。光緒元年(1875年)、官界に復帰し陝西巡撫、山西巡撫、両広総督を歴任し、光緒10年(1884年)からは両江総督を務めた。 光緒16年(1890年)、66歳で死去。死後、忠襄公の諡号を贈られた。また、同年に甥の曽紀沢も没している。 category:清代の人物 Category:婁底出身の人物 Category:1824年生 Category:1890年没.
曽国藩
曽 国藩(そう こくはん、、嘉慶16年10月11日(1811年11月26日) - 同治11年2月4日(1872年3月12日))は、中国清代末期の軍人、政治家。字は伯函、号は滌生(てきせい)、諡は文正。湖南省湘郷県の出身。弱体化した清朝軍に代わり、湘軍を組織して太平天国の乱鎮圧に功績を挙げた。.
曽紀沢
曽 紀沢(そう きたく、Zeng Jize、1839年12月7日 - 1890年4月12日)は、清末の外交官。曽国藩の長男で曽紀鴻の兄。子に曽広鈞など。字は劼剛、号は夢瞻。湖南省湘郷県(現在の双峰県荷葉鎮)出身。 1870年、父の功で戸部員外郎に任ぜられる。1877年、父の爵位を継いで一等毅勇侯となる。1878年、駐英公使兼駐仏公使に任命され、太常寺卿に補任される。 当時新疆はコーカンド・ハン国の軍人ヤクブ・ベクが占領していたが、清の陝甘総督左宗棠によって滅ぼされた。ロシアはこの混乱に乗じてイリ地方を占領した。清朝は戸部右侍郎兼盛京将軍代理の崇厚を派遣して交渉にあたらせたが、崇厚はロシアにイリ地方をすべて割譲し賠償金を支払うというリヴァディア条約を結ぶ。清の朝廷はこれを認めず、曽紀沢に駐露公使を兼任させて改めて交渉にあたらせた。結局、1881年にイリ条約を結び、イリ地方の一部の返還に成功した。このため曽紀沢の評価は国内外で高まった。 その後曽紀沢はイギリスとのアヘン貿易問題や朝鮮・ミャンマーなどの問題の交渉にあたる。1884年、清仏戦争の際にはフランスに強硬姿勢をとったため、和平論が主流になった朝廷により駐仏公使を解任された。1885年には駐英公使を免ぜられ帰国した。帰国前に清の内政外交と列強の対清政策を論じた『China, the Sleep and the Awakening』(『中国先睡後醒論』)を発表した。帰国後は戸部右侍郎、総理各国事務衙門大臣などを歴任し、外交政策の改革と不平等条約の改正に尽力した。死後、恵敏の諡号が贈られた。同年、叔父の曽国荃も没している。.
11月10日
11月10日(じゅういちがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から314日目(閏年では315日目)にあたり、年末まであと51日ある。.
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1812年
記載なし。
1832年
記載なし。
1849年
記載なし。
1850年
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1861年
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1863年
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1864年
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1866年
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1867年
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1868年
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1869年
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1871年
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1873年
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1874年
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1875年
記載なし。
1876年
記載なし。
1877年
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1878年
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1879年
記載なし。
1880年
記載なし。
1881年
記載なし。
1884年
記載なし。
1885年
記載なし。
9月5日
9月5日(くがついつか)はグレゴリオ暦で年始から248日目(閏年では249日目)にあたり、年末まであと117日ある。.