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杵築藩

索引 杵築藩

杵築藩(木付藩、きつきはん)は、江戸時代の豊後国国東郡・速見郡内を領した藩。藩庁は杵築城(大分県杵築市)。.

82 関係: 大友義統大友氏大分県天明太閤検地子爵宮部継潤宮津市寛永小倉城小倉藩小笠原忠知小笠原忠真中津城丹後国三河吉田藩三河国三浦梅園享保の大飢饉廃藩置県北島正元イグサ児玉幸多八幡和郎光文社新書前田玄以国東郡知藩事細川忠利熊本藩版籍奉還華族高田藩 (豊後国)譜代大名豊後国豊前国豊臣秀吉能見松平家関ヶ原の戦い藩校速見郡松平親純松平親盈松平親貞 (能見松平家)松平親貴松平親賢松平親良松平親明松平重休...松平重栄松平英親松井康之杵築城杵築市杉原長房正徳 (日本)正保江戸幕府朱印状明治明治維新新人物往来社新田文禄文春新書早川長政慶長1593年1599年1600年1632年1645年1712年1781年1789年1871年1884年1977年1997年2003年2004年 インデックスを展開 (32 もっと) »

大友義統

大友 義統(おおとも よしむね)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての豊後の戦国大名。大友氏の第22代当主。大友宗麟の嫡男。.

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大友氏

大友氏(おおともし)は、鎌倉時代から戦国時代にかけて、九州の豊後国(現大分県)を本拠とした一族。豊後・筑後など北九州を支配した守護職・守護大名で、戦国時代には戦国大名に成長し、最盛期には豊後・筑後に加え豊前・肥前・肥後・筑前の6ヶ国と日向・伊予の各半国を領有したが、豊臣政権期に除封された。江戸時代には江戸幕府の旗本(高家)や大名家の家臣となって存続した。.

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大分県

大分県(おおいたけん)は、日本の九州地方東部に位置する県。県庁所在地は大分市である。 全国的に知名度が高い別府温泉や、由布院温泉をはじめとする温泉は源泉数(4,538ヶ所)、湧出量(291,340L/分)ともに日本一で、また地熱発電の発電量でも日本一でありさらに栽培、養殖などの産業、食文化、美容やと医療に至るまで豊かな温泉の恵みが幅広く活かされている。「日本一のおんせん県おおいた」をキャッチフレーズに温泉をアピールしている。.

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天明

天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.

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太閤検地

太閤検地(たいこうけんち)は、羽柴秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。.

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子爵

子爵(ししゃく、 )は、中国で儒教の経典によって古代より用いられたと主張された爵位(五爵)の第4位。伯爵の下位、男爵の上位に相当する。近代日本の華族の爵位にも取り入れられた。ヨーロッパ諸国の貴族の爵位の訳語にも使われる。.

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宮部継潤

宮部 継潤(みやべ けいじゅん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名、豊臣秀吉の側近。豊臣政権の五奉行の一人。 初代豊岡城主、鳥取城主。 秀吉による九州征伐において、島津家久軍を撃退し大軍を防いだことから、「日本無双」の感謝状を与えられた。 「豊後国にて防備を固めよ」という秀吉の命令を順守せず、独断で会戦(戸次川の戦い)に望んだ上で敗北した仙石秀久の失態を挽回、秀吉による九州平定を盤石なものにし、窮地に陥っている大友義鎮を救った。.

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宮津市

宮津市(みやづし)は、京都府北部に位置する市。日本海の若狭湾に面しており、日本三景の天橋立がある。.

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寛永

寛永(かんえい)は日本の元号の一つ。元和の後、正保の前。1624年から1645年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇、明正天皇、後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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小倉城

小倉城(こくらじょう)は、現在の福岡県北九州市小倉北区に築かれた鎌倉時代または戦国時代から江戸時代の日本の城である。勝山城、勝野城、指月城、湧金城、鯉ノ城などの別名がある。.

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小倉藩

小倉藩(こくらはん)は、江戸時代の豊前国にあった藩。藩庁は小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)、のち豊津藩(とよつはん)となった。.

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小笠原忠知

小笠原 忠知(おがさわら ただとも、慶長4年7月21日(1599年9月10日)- 寛文3年7月29日(1663年8月31日))は、豊後杵築藩主、のち三河吉田藩の初代藩主。忠知系小笠原家初代。 信濃松本藩主・小笠原秀政の三男。母は登久姫(松平信康の娘)。正室は多賀光定の娘。子は長矩(長男)、長敦(次男)、長定(三男)、長秋(四男)。官位は従五位下、壱岐守。幼名は虎松丸。 慶長15年(1614年)から寛永8年(1631年)まで旗本として信濃国高井郡5000石に入封した。寛永2年(1625年)に書院番頭、翌年12月に大番頭、寛永9年(1632年)4月には奏者番となった。同年9月、兄の小笠原忠真が豊前小倉藩主になったとき、杵築に4万石を与えられ大名に列した。以後、竹中重義改易時の府内藩在番、寛永14年(1637年)の島原の乱出陣と島原城在番などで功を挙げた。藩政においても植林政策に功を挙げている。正保2年(1645年)7月14日、5,000石加増の上で三河吉田に加増移封された。侘び茶を求め「茶の湯」の千家を再興させた千宗旦を招請したが、明暦元年(1655年)、高齢の宗旦に代わって遣わされた「千宗旦四天王」と言われる高弟で後に茶道宗徧流を興した山田宗徧を小笠原家に召し抱える。 三河吉田藩主時代、豊橋向山の大池を郡代長谷川太郎左衛門に掘削させ、この大池より水を引いて吉田城の惣濠(外堀)を水堀にした。その水は堀を通り、豊橋吉田方地区の灌漑用にも用いたと言う。 寛文3年(1663年)7月29日、65歳で死去し、跡を長男・長矩が継いだ。法号は一峰定水天真院。墓所は豊橋市の臨済寺。 たたとも Category:三河吉田藩主 小 Category:松本藩の人物 Category:1599年生 Category:1663年没.

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小笠原忠真

小笠原 忠真(おがさわら ただざね)は、江戸時代前期の大名、茶人。信濃松本藩2代藩主、播磨明石藩主、豊前小倉藩の初代藩主。.

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中津城

本丸の南西部にあった水門の跡。 中津城(なかつじょう)/中津川城(なかつがわ(の)じょう)は、豊前国中津(現在の大分県中津市二ノ丁)にあった日本の城。黒田孝高(如水)が築城し、細川忠興が完成させた。江戸時代の大半は、奥平氏が居城としていた(中津藩も参照)。.

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丹後国

丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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三河吉田藩

三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.

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三河国

三河国(みかわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。三の大字を用いて参河国(參河國)とも表記する。現在の愛知県東半部。.

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三浦梅園

三浦 梅園(みうら ばいえん、享保8年8月2日(1723年9月1日) - 寛政元年3月14日(1789年4月9日))は、日本の江戸時代の思想家、自然哲学者、本職は医者。豊後国(大分県国東市安岐町富清)の出身。諱は晋(すすむ)。.

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享保の大飢饉

享保の大飢饉(きょうほうのだいききん)とは、江戸時代中期に起こった飢饉である。江戸四大飢饉の一つに数えられる。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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北島正元

北島 正元(きたじま まさもと、1912年8月7日 - 1983年11月1日)は、日本の歴史学者。専門は日本近世史。.

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イグサ

ムネイル イグサ(藺草、Juncus effusus L. var.

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児玉幸多

児玉 幸多(こだま こうた、1909年〈明治42年〉12月8日 - 2007年〈平成19年〉7月4日)は、「日本近世農村・交通史の泰斗」と呼ばれた文学博士。学習院大学名誉教授、学習院大学元学長、学習院女子短期大学元学長、品川区立品川歴史館名誉館長、千曲市名誉市民。.

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八幡和郎

八幡 和郎(やわた かずお、1951年 - )は、日本の元官僚、評論家。徳島文理大学教授とコーポレートガバナンス協会理事を務める。.

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光文社新書

光文社新書(こうぶんしゃしんしょ)は、株式会社光文社が発行する新書レーベル。.

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前田玄以

前田 玄以(まえだ げんい)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての僧侶・武将・大名。豊臣政権の五奉行の1人。.

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国東郡

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知藩事

知藩事(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(都道府県知事)の前身に当たる。藩知事とも言う。.

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細川忠利

水前寺成趣園内にある細川忠利の像 細川 忠利(ほそかわ ただとし)は、江戸時代前期の大名、豊前小倉藩の第2代藩主。後に肥後熊本藩の初代藩主。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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版籍奉還

籍奉還(はんせきほうかん)は明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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高田藩 (豊後国)

藩(たかだはん)は、江戸時代初期に豊後国国東郡の一部を領した藩。杵築藩入封前の能見松平氏が領していた藩。藩庁は高田城(大分県豊後高田市)。.

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譜代大名

譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊前国

豊前国(ぶぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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能見松平家

能見松平家(のみまつだいらけ)は、三河国の松平氏の庶流。松平信光の八男・光親を祖とする。三河国額田郡能見(現在の愛知県岡崎市能見町)を領したことから能見松平家と称す。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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藩(はん)は、諸侯が治める領地、およびその統治組織のことである。.

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藩校

弘道館(水戸藩) 藩校(はんこう)は、江戸時代に、諸藩が藩士の子弟を教育するために設立した学校。、、藩学校ともいう。 内容や規模は多様だが、藩士の子弟は皆強制的に入学させられた。後に、皆に開放された藩校もある。広義では医学校・洋学校・皇学校(国学校)・郷学校・女学校など、藩が設立したあらゆる教育機関を含む。藩校は、藩の費用負担により藩地に設立されたが、一部の例外として江戸藩邸に併設された学校もあった。藩士に月謝の支払い義務はない上に、成績優秀者には藩から就学支援金を給し、江戸等に遊学させることがあった。 全国的な傾向として、藩校では武芸も奨励され、7〜8歳で入学して第一に文を習い、後に武芸を学び、14〜15歳から20歳くらいで卒業する。教育内容は、四書五経の素読と習字を中心として、江戸後期には蘭学や、武芸として剣術等の各種武術などが加わった。 藩校の入学における主な試業(試験)は素読吟味であり、四書(儒学の基本文献。「大学」「中庸」「論語」「孟子」の総称)のうち、抜粋した漢文を日本語訳で3回読み上げる。内容の解釈はともかく、読みの誤謬(読み間違い)、遺忘(忘れてしまうこと)の多少で合否が決まる。江戸幕府では10月頃に行われていた。藩校の入学試験に合格しても、次から次へと試験を行わなければならず、落第した者には厳罰が課せられる。特に三度の落第者には厳しい厳罰が設けられている。それは藩校によって様々だが、主な厳罰として、嫡男なら相続の際、家禄の減俸。更に親の役職を継ぐにもままならず無役のまま生涯を送ることもなりかねない。.

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速見郡

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松平親純

松平 親純(まつだいら ちかずみ)は、豊後杵築藩の第4代藩主。杵築藩能見松平家7代。 常陸麻生藩主・新庄直詮の十三男。早くから外祖父重栄の養嗣子となり、正徳5年(1715年)におじで先代藩主の重休が早世したため、その跡を継いだ。藩政においては享保9年(1724年)から天候不順、享保の大飢饉による大被害を受け、幕府から3,000両を借用してしのぐほどであったと言われている。元文4年(1739年)2月16日、37歳で死去し、跡を長男の親盈が継いだ。 ちかすみ Category:新庄氏 *04 Category:1703年生 Category:1739年没.

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松平親盈

松平 親盈(まつだいら ちかみつ)は、豊後杵築藩の第5代藩主。杵築藩能見松平家8代。 第4代藩主・松平親純の長男。元文4年(1739年)、父の死去により家督を継ぐ。藩財政を再建するために銀札を発行し、倹約令を出したが、宝暦年間に凶作が相次いだため、効果はほとんどなく、むしろ藩財政は悪化していった。明和4年(1767年)8月14日、長男の親貞に家督を譲って隠居し、寛政12年(1800年)12月26日に75歳で死去した。 ちかみつ *05 Category:1726年生 Category:1801年没.

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松平親貞 (能見松平家)

松平 親貞(まつだいら ちかさだ)は、豊後杵築藩の第6代藩主。杵築藩能見松平家9代。 第5代藩主・松平親盈の長男。明和4年(1767年)8月14日、父の隠居により家督を継いだ。大坂加番役を務めた。明和9年(1772年)の明和の大火により江戸屋敷が全焼し、その再建の費用により藩の財政は更に窮乏した。天明3年(1783年)、親貞と改名した。天明5年(1785年)5月23日、病を理由に弟で養嗣子の親賢に家督を譲って隠居し、寛政12年(1800年)7月29日に50歳で死去した。 ちかさた *06 Category:1751年生 Category:1800年没.

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松平親貴

松平 親貴(まつだいら ちかたか、天保9年5月15日(1838年7月6日) - 明治15年(1882年)8月20日)は、豊後杵築藩の第10代(最後)の藩主。杵築藩能見松平家13代。 第9代藩主松平親良の長男。母は側室松崎氏。正室は松平乗懿の娘。子は松平親信(長男)。官位は従五位下、河内守。幼名は録之助。 嘉永6年(1853年)2月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月7日、従五位下河内守に叙任する。慶応4年(1868年)2月13日、父親良に代わり上洛し、恭順の姿勢を示した。同年4月9日、親良の隠居により家督を継ぐ。父が佐幕派であったのに対し、親貴は新政府派であり、同年の戊辰戦争では新政府に与して会津にまで出兵した。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で免官された。同年9月23日、東京に移った。明治6年(1873年)1月22日、権少教正に就任する。明治15年(1882年)8月20日、父に先立って45歳で死去した。法号は泰岳院。墓所は東京都台東区谷中の谷中共同墓地。 *10 ちかたか Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1838年生 Category:1882年没.

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松平親賢

松平 親賢(まつだいら ちかかた)は、豊後杵築藩の第7代藩主。杵築藩能見松平家10代。 第5代藩主・松平親盈の次男。天明5年(1785年)5月23日、先代藩主で兄の親貞が隠居したため、その養嗣子となって跡を継いだ。天明6年(1786年)から大学者として知られる三浦梅園を三顧の礼をもって家臣に迎え、行き詰まった藩政を再建するための藩政改革を行なった。寛政11年(1799年)、幕府の命により湯島聖堂再建費用として4858両を献金した。享和2年(1802年)9月28日、50歳で死去した。跡を甥で養嗣子の親明が継いだ。 ちかかた *07 Category:1753年生 Category:1802年没.

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松平親良

松平 親良(まつだいら ちかよし)は、豊後杵築藩の第9代藩主。杵築藩能見松平家12代。 第8代藩主・松平親明の長男。母は側室といわれている。文政8年(1825年)12月29日、父の死去により跡を継ぐ。文政9年11月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下河内守に叙任する。後に対馬守、大隅守に改める。天保13年(1842年)7月25日、奏者番に就任する。 文久2年(1862年)閏8月23日、奏者番の役職が廃止となる。同年12月16日、従四位下中務大輔に昇進する。文久3年10月22日、奏者番に再び就任する。元治元年(1864年)11月19日、寺社奉行の兼任を命じられる。慶応2年(1866年)6月15日、寺社奉行を解任される。慶応4年2月22日、奏者番を辞職する。 親良自身は幕閣に加わったことから佐幕派であり、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐においても協力的であったが、藩内では尊王攘夷派と佐幕派で分裂して対立が続いた。そのため、慶応4年(1868年)3月24日、ようやく上洛し、明治天皇に拝謁した。そして、同年4月9日、長男の親貴に家督を譲って隠居した。明治24年(1891年)2月3日、82歳で死去した。 ちかよし *09 Category:幕末の大名 Category:江戸幕府寺社奉行 Category:幕末幕府の人物 Category:1810年生 Category:1891年没.

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松平親明

松平 親明(まつだいら ちかあきら)は、豊後杵築藩の第8代藩主。杵築藩能見松平家11代。 第6代藩主・松平親貞の次男。享和元年(1801年)4月13日、松平親賢の養子となる。同年5月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下備前守に叙任する。後に志摩守に改める。享和2年(1802年)11月20日、養父親賢の死去により、家督を相続する。文政元年(1818年)8月24日、奏者番に就任する。親明自身は能楽に秀でていたと言われているが、藩政においては百姓の逃散や一揆、打ちこわしが相次ぐなど多難を極めた。文政8年(1825年)11月12日、41歳で死去し、跡を長男の親良が継いだ。 ちかあきら *08 Category:1785年生 Category:1825年没.

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松平重休

松平 重休(まつだいら しげやす)は、豊後杵築藩の第3代藩主。杵築藩能見松平家6代。 第2代藩主・松平重栄の次男。宝永5年(1708年)11月23日、父の隠居により家督を継ぐ。正徳2年(1712年)、幕府から与えられた朱印状で「木付」を「杵築」と誤記されていたことを機に、「杵築」に改めた。民政に尽力し、領民に慕われる善政を布いたといわれているが、正徳5年(1715年)8月10日に25歳の若さで死去した。跡を甥で養嗣子の親純が継いだ。 しけやす *03 Category:1691年生 Category:1715年没.

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松平重栄

松平 重栄(まつだいら しげよし)は、豊後杵築藩の第2代藩主。杵築藩能見松平家5代。 杵築藩初代藩主・松平英親の長男。元禄5年(1692年)12月4日、父の隠居により跡を継ぐ。奏者番、寺社奉行を務めた。元禄10年(1697年)、近隣の日出藩の百姓が逃散してきたとき、それを保護しながら日出藩と交渉し、無難に解決している。宝永5年(1708年)11月23日、次男の重休に家督を譲って隠居し、享保5年(1720年)2月18日に76歳で死去した。 しけよし *02 Category:江戸幕府寺社奉行 Category:1645年生 Category:1720年没.

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松平英親

松平 英親(まつだいら ひでちか)は、豊後高田藩の第2代藩主、のち豊後杵築藩の初代藩主。杵築藩能見松平家4代。 高田藩初代藩主・松平重直の長男。寛永20年(1643年)正月に家督を継ぐ。正保2年(1645年)、高田から杵築3万2000石に移封された。藩政を確立するために25か条の法令をはじめ、寛文2年(1662年)からは検地を実施して新田開発などに尽力した。明暦2年(1656年)の日根野吉明改易時の府内城受け取り役も務めている。 元禄5年(1692年)12月4日、長男の重栄に家督を譲って隠居し、宝永3年(1706年)3月10日に82歳で死去した。 江戸(台東区竜泉)の正燈寺の開基。法号は瑞竜院殿大宙宗閑大居士。 ひてちか Category:譜代大名 *01 Category:1625年生 Category:1706年没.

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松井康之

松井 康之(まつい やすゆき)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将。松井正之の次男。子に興之、興長。幼名は新助、胃助。官位は佐渡守。.

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杵築城

杵築城(きつきじょう)は、大分県杵築市杵築にあった城郭。.

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杵築市

杵築市(きつきし)は、大分県の北東部に位置する市。.

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杉原長房

杉原 長房(すぎはら ながふさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。但馬豊岡藩の初代藩主。.

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正徳 (日本)

正徳(しょうとく)は日本の元号の一つ。宝永の後、享保の前。1711年から1716年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇。江戸幕府将軍は徳川家宣、徳川家継。.

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正保

正保(しょうほう)は日本の元号の一つ。寛永の後、慶安の前。1645年から1648年までの期間を指す。この時代の天皇は後光明天皇。江戸幕府将軍は徳川家光。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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朱印状

織田信長朱印状/兵庫県立歴史博物館蔵 朱印状(しゅいんじょう)とは、日本において(花押の代わりに)朱印が押された公的文書(印判状)のことである。主に戦国時代から江戸時代にかけて戦国大名・藩主や将軍により発給された。 特に、江戸時代において将軍が公家・武家・寺社の所領を確定させる際に発給したものは、領地朱印状とも呼ばれる。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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新人物往来社

株式会社新人物往来社(しんじんぶつおうらいしゃ)は、かつて存在した日本の出版社。雑誌『歴史読本』の発行元として知られる歴史図書専門の出版社である。 2008年(平成20年)11月26日に中経出版の子会社になり、その後2009年(平成21年)4月7日に中経出版が角川グループホールディングスの子会社となったことにより、新人物往来社も角川グループの1つとなった。さらに2013年(平成25年)4月1日に中経出版に吸収合併され、社名が消滅することとなった。.

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新田

新田(しんでん)とは、新たに田や畑などとするため開墾して出来た農地のことである。また、その地名。その開墾までの流れを新田開発といい、本項では新田開発も含めて解説する。.

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文禄

文禄(ぶんろく)は日本の元号の一つ。天正の後、慶長の前。1593年から1596年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、将軍は不在。.

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文春新書

文春新書(ぶんしゅんしんしょ、Bunshun shinsho)は、1998年10月に創刊した文藝春秋発行の新書レーベルである。 創刊第1号は高橋紘・所功共著『皇位継承』である。通常月4点刊行だが、6点や8点の月もある。新書の中では比較的重版の率が高い。 2012年1月20日に発刊した阿川佐和子著『聞く力』は、160万部を超えるベストセラーとなった。通巻1000点目となる池上彰・佐藤優共著『新・戦争論 僕らのインテリジェンスの磨き方』は、2015年1月時点で31万部を突破している。2015年、ISILの組織の台頭を歴史的背景から解き明かした『イスラーム国の衝撃』(池内恵著)が話題になり、10万5000部を超えるヒット作となる。.

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早川長政

早川 長政(はやかわ ながまさ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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1593年

記載なし。

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1599年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1632年

記載なし。

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1645年

記載なし。

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1712年

記載なし。

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1781年

記載なし。

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1789年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1884年

記載なし。

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1977年

記載なし。

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1997年

この項目では、国際的な視点に基づいた1997年について記載する。.

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2003年

この項目では、国際的な視点に基づいた2003年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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