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知藩事

索引 知藩事

知藩事(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(都道府県知事)の前身に当たる。藩知事とも言う。.

665 関係: 加納久宜加納藩加賀藩加藤泰令加藤泰秋加藤明実南部信順南部信方南部利恭古河藩吹上藩吉川経健吉井信謹吉井藩堀之美堀田正倫堀田正頌堀田正養堀直弘堀直明堀親広堀江藩増山正同壬生藩多胡藩大垣藩大多喜藩大岡忠貫大岡忠敬大久保忠順大久保忠良大久保教義大給恒大田原一清大田原藩大聖寺藩大関増勤大野藩大村純熈大村藩大沢基寿大河内信古大河内輝声大河内正質大洲藩大溝藩天童藩太田資美奥平昌邁奥殿藩...姫路藩宮津藩守山藩官報宗義達宇和島藩宇都宮藩安中藩安志藩安部信発安藤信勇安藤直裕安房勝山藩安房国対馬府中藩対馬国富山藩小幡藩小久保藩小出英尚小倉藩小笠原忠忱小笠原貞孚小笠原貞正小笠原長守小笠原長国小田原藩小見川藩小諸藩小野藩小松藩小泉藩小浜藩尼崎藩尾張藩山口弘達山名義路山名義済山家藩山崎藩山崎治祇山崎治敏山上藩山形藩山内豊範岡山藩岡崎藩岡田藩岡部藩岡部長職岡藩岩城隆彰岩国藩岩村田藩岩村藩岩槻藩岸和田藩峰山藩島原藩島津忠寛島津忠義川越藩上山藩上田藩上杉茂憲与板藩中央集権中山信徴中川久成中川久昭中津藩丸岡藩丸亀藩常陸宍戸藩常陸府中藩常陸松岡藩丹南藩丹後田辺藩丹羽長裕丹羽氏中丹波亀山藩七日市藩市橋長和三宅康保三上藩三田藩三草藩三根山藩三池藩三河吉田藩三春藩三浦顕次三日市藩三日月藩下妻藩下館藩一宮藩一関藩一柳頼紹一柳頼明一柳末徳九鬼隆備九鬼隆義平野長裕平戸藩久世広業久保田藩久留島通靖久留米藩久留里藩久松勝行久松勝慈京極高厚京極高典京極高陳京極朗徹庭瀬藩人吉藩府内藩府藩県三治制二本松藩広島藩五島盛徳庄内藩井上正巳井上正直井上正順井伊直安井伊直憲亀井茲監亀田藩今尾藩今治藩仁正寺藩延岡藩建部政世廃藩置県仙台藩仙石久利仙石政固伊予松山藩伊勢崎藩伊勢亀山藩伊達宗基伊達宗徳伊達宗敦伊達宗敬伊東祐帰伊東長とし会津藩伯太藩弘前藩佐伯藩佐倉藩佐竹義堯佐竹義理佐貫藩佐賀藩佐野藩彦根藩徳山藩徳島藩徳島新聞徳川家達徳川義宜徳川茂承徳川昭武忍藩保科正益信濃飯田藩志筑藩土屋挙直土岐頼知土井利与土井利恒土井利教土佐藩土浦藩土方雄志土方雄永北条氏恭園部藩刈谷藩分部光謙分部光貞喜連川藩備中松山藩備後福山藩唐津藩内田正学内藤信美内藤頼直内藤正誠内藤文成内藤政挙内藤政憲出石藩六郷政鑑六浦藩前田利同前田利鬯前田利豁前田利昭前田慶寧前橋藩犬山藩矢島藩石川総管石川成之磐城平藩神戸藩福岡藩福井藩福知山藩福江藩福本藩秋元礼朝秋田映季秋月種殷稲垣太祥稲垣長敬稲葉久通稲葉正善稲葉正邦竹腰正旧立花種恭立花鑑寛笠間藩篠山藩米倉昌言米沢藩米津政敏糸魚川藩細川韶邦細川護久細川興貫紀州藩紀伊田辺藩紀伊新宮藩綾部藩織田寿重丸織田信及織田信親織田信敏織田長易美作勝山藩美作国真田幸民県令烏山藩結城藩生実藩生駒親敬田原藩田原本藩田村崇顕田沼意尊田沼意斉熊本藩牧野康済牧野弼成牧野忠毅牧野忠泰牧野貞寧版籍奉還片桐貞篤牛久藩狭山藩相馬中村藩相馬誠胤相良頼基盛岡藩芝村藩花房藩遠山友禄遠藤胤城荻野山中藩鍋島直大鍋島直彬鍋島直紀鍋島直虎菊間藩華族菰野藩青山幸宜青山忠敏青木重義須坂藩飫肥藩飯山藩飯野藩館山藩館林藩西大平藩西尾忠篤西尾藩西端藩西条藩駿府藩駿河国諏訪忠礼諏訪藩高取藩高富藩高岡藩高崎藩高徳藩高田藩高遠藩高鍋藩高須藩高松藩高槻藩高木正坦高木正善請西藩鯖江藩谷田部藩谷衛滋豊岡藩鳥取藩鳥居忠宝鳥居忠文鳥羽藩越後国越後長岡藩越前勝山藩足守藩足利聡氏足利藩鶴牧藩鶴舞藩麻生藩麻田藩黒川藩黒羽藩黒田直養黒田長徳黒田長知龍野藩近江宮川藩蜂須賀茂韶郡山藩郡上藩都道府県知事阿部正功阿部正恒阿部正桓赤穂藩関宿藩関長克薩摩藩間部詮道藤堂高猷藤堂高邦藤堂高潔蒔田広孝脇坂安斐膳所藩野村藩重原藩臼杵藩長尾藩長島藩長州藩長府藩長瀞藩長門国酒井忠宝 (庄内藩主)酒井忠彰酒井忠匡酒井忠美酒井忠義 (若狭国小浜藩主)酒井忠経酒井忠邦苗木藩柏原藩柳生俊益柳生藩柳沢徳忠柳沢保申柳沢光邦柳河藩柳本藩林田藩松尾藩松平定安松平定法松平定昭松平定教松平容大松平宗武松平乗命松平乗秩松平康載松平忠和 (島原藩主)松平忠礼松平忠興松平忠恕 (小幡藩主)松平忠敬松平信安松平信正 (丹波亀山藩主)松平光則松平勝成松平義勇松平義生松平直巳松平直哉松平直克松平直静松平直致松平直方 (前橋藩主)松平頼升松平頼之松平頼位松平頼策松平頼聰松平頼英松平親貴松平近説松平茂昭松平武聰松平慶倫松代藩松前修広松前藩松江藩松本藩松浦詮板倉勝弼板倉勝弘板倉勝達板倉勝殷杵築藩村岡藩村上藩村松藩桑名藩棚倉藩森川俊方森俊滋森忠儀森藩椎谷藩植村家壷榊原政敬櫛羅藩武蔵国毛利元徳毛利元純毛利元蕃毛利元敏毛利高謙水口藩水野忠幹 (紀伊新宮藩主)水野忠弘水野忠順水野忠敬水野勝寛水戸藩永井尚服永井直哉永井直諒池田徳潤池田章政池田輝知池田政保池田政礼池田慶徳沼田藩泉藩津山藩津和野藩津軽承叙津軽承昭津藩淀藩渡辺章綱清末藩湯長谷藩溝口直正滝脇信敏木下俊愿木下利恭本堂親久本多助実本多助寵本多康穣本多忠伸本多忠直 (三河国岡崎藩主)本多忠貫本多忠鵬本多忠明本多正訥本多正憲本庄道美本荘藩朽木為綱有馬道純有馬頼咸有馬氏弘有栖川宮熾仁親王挙母藩成羽藩成瀬正肥戸田忠友戸田忠綱戸田忠行戸田氏共戸田氏良戸沢正実明石藩明治浜田藩浅尾藩浅野長勲新庄直敬新庄藩新発田藩新見藩日出藩敦賀藩10月11日10月19日10月23日 (旧暦)10月24日10月25日 (旧暦)10月27日10月29日 (旧暦)11月18日11月18日 (旧暦)11月22日11月26日11月2日 (旧暦)12月14日 (旧暦)12月20日12月4日12月7日 (旧暦)1869年1870年1871年1月12日 (旧暦)1月28日 (旧暦)1月4日 (旧暦)1月8日2005年2月11日 (旧暦)2月12日2月15日2月22日2月22日 (旧暦)2月24日 (旧暦)2月28日2月3日3月23日3月25日3月31日4月10日 (旧暦)4月12日 (旧暦)5月12日5月15日 (旧暦)5月28日5月8日 (旧暦)6月13日6月17日 (旧暦)6月19日 (旧暦)6月20日 (旧暦)6月22日 (旧暦)6月23日 (旧暦)6月24日 (旧暦)6月25日 (旧暦)6月27日 (旧暦)6月28日 (旧暦)6月29日 (旧暦)6月6日7月14日 (旧暦)7月19日 (旧暦)7月22日 (旧暦)7月25日7月25日 (旧暦)7月27日7月27日 (旧暦)7月28日7月2日 (旧暦)7月30日7月31日7月4日 (旧暦)8月11日8月13日 (旧暦)8月14日8月14日 (旧暦)8月17日8月17日 (旧暦)8月19日 (旧暦)8月1日8月21日8月26日8月28日8月29日8月2日8月2日 (旧暦)8月4日8月6日8月7日 (旧暦)9月12日9月17日 (旧暦)9月18日9月19日9月1日9月20日 (旧暦)9月23日 (旧暦)9月24日9月25日 (旧暦)9月3日9月7日 インデックスを展開 (615 もっと) »

加納久宜

加納 久宜(かのう ひさよし、嘉永元年3月19日(1848年4月22日) - 大正8年(1919年)2月26日)は、幕末の上総国一宮藩主、明治・大正時代の政治家である。鹿児島県知事、千葉県一宮町長、貴族院議員。十五銀行取締役。日本体育会会長、日本体育会体操学校(現日本体育大学)校長。全国農事会幹事長、帝国農会初代会長。産業組合中央会副会長。日本競馬会創設に尽力、「日本農政の父」と仰がれる。官位は従二位勲二等子爵、遠江守。第92代内閣総理大臣・麻生太郎の曾祖父にあたる。.

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加納藩

加納藩(かのうはん)は、江戸時代の日本で、美濃国厚見郡加納(現在:岐阜県岐阜市加納)を本拠地にして、美濃国中部(現在の岐阜県中南部)を領土とした藩である。藩庁は加納城。.

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加賀藩

金沢城石川門(重文) 加賀藩(かがはん)は、江戸時代に加賀、能登、越中の3国の大半を領地とした藩。藩祖前田利家の妻である芳春院(まつ)の死後、芳春院の化粧料(婦女に対して生活補助として与えられた領地(石高))だった近江弘川村(現在の滋賀県高島市今津町)を飛び地として加える。.

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加藤泰令

加藤 泰令(かとう やすのり、天保9年3月18日(1838年4月12日)- 大正2年(1913年)2月23日)は、日本の華族。伊予新谷藩の第9代(最後の)藩主。新谷藩知事。 第8代藩主・加藤泰理の長男。母は慶寿院。正室は加藤泰幹の娘。子は加藤泰成(次男)。官位は正三位、山城守、出雲守。幼名は真之助。爵位は子爵。.

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加藤泰秋

加藤 泰秋(かとう やすあき、弘化3年8月12日(1846年10月2日)- 大正15年(1926年)6月17日)は、伊予大洲藩の最後(第13代)の藩主、のち宮内官僚。正二位子爵。江戸時代の官位は、従四位下遠江守。幼名を廉之進、実名は泰輔。.

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加藤明実

加藤 明実(かとう あきざね)は、近江水口藩の第9代(最後)の藩主。水口藩加藤家13代。.

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南部信順

南部 信順(なんぶ のぶゆき)は、陸奥八戸藩の第9代(最後)の藩主。.

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南部信方

南部 信方(なんぶ のぶかた、安政5年5月12日(1858年6月22日) - 大正12年(1923年)7月29日)は、陸奥国七戸藩の第4代(最後)の藩主。父は本家盛岡藩の藩主・南部利剛(信方は三男)。正室は土井利善の娘・亀、継室は細川行真の娘・澄子。.

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南部利恭

南部 利恭(なんぶ としゆき、安政2年10月9日(1855年11月18日) - 明治36年(1903年)10月19日)は、陸奥国盛岡藩第15代(最後の)藩主。第14代藩主・南部利剛の長男。官位は従二位、甲斐守。伯爵。 幼名は彦太郎、初名は剛毅。文久3年(1863年)9月、幕府に丈夫届を提出する。明治元年(1868年)10月9日、戊辰戦争に際し、南部信民とともに官軍に降伏を申し入れる。同年12月2日、父利剛とともに東京に護送されて、金地院で謹慎する。同年12月17日、父利剛が明治新政府から隠居を命じられたため、家督を相続した。同年12月24日、戊辰戦争で官軍と交戦したため、陸奥国白石13万石に減転封された。明治2年6月18日、版籍奉還により、白石藩知事に就任する。同年6月28日、従五位下甲斐守に叙任する。 明治2年7月22日、盛岡藩知事に転任する。盛岡復帰のため、政府に70万両の献金を約束した。しかし、大半は調達できず、政府は廃藩の圧力をかけて、利恭は辞表を提出するにいたった。明治3年7月、政府は辞表を受理し、盛岡県を設置した。明治17年7月、伯爵となる。 正室は伊達宗城の娘、継室は溝口直溥の娘、浅野懋昭(としてる)の娘・喜久子(1856-1902、長勲の実妹にあたる)。子は、長男・南部利祥(南部家第42代当主)、次男・南部利淳(南部家第43代当主)、庸子(毛利元秀室)。.

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古河藩

古河藩(こがはん)は、下総(現在の茨城県古河市)に存在した藩。藩庁は古河城。.

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吹上藩

吹上藩(ふきあげはん)は、下野都賀郡吹上(現在の栃木県栃木市吹上町)の吹上陣屋を藩庁とし、江戸時代後期の約30年間存在した藩。摂津有馬家が2代にわたって治めた。石高は1万石。.

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吉川経健

吉川 経健(きっかわ つねたけ、安政2年8月26日(1855年10月6日) - 明治42年(1909年)6月4日))は、日本の華族。周防岩国藩の第2代(最後)の藩主。 初代藩主・吉川経幹の長男。母は井上円治の娘。正室は毛利元純の娘・磯子。継室は堤功の娘・松子、加藤泰秋の娘・直子、千家尊澄の娘・喜佐子(千家尊福の妹)。子は娘(吉川元光正室)。弟・吉川重吉の長男・元光を婿養子として迎えた。官位は贈従二位、子爵、正四位駿河守。幼名は菊川芳之助。 慶応3年(1867年)、父の死去により跡を継ぐが、毛利敬親の命令でその死去が隠されたため、正式に跡を継いだのは明治元年(1868年)12月28日である。明治2年(1869年)1月に叙任し、同年6月には戊辰戦争の東北戦争で功績を挙げたことから、永世5000石を与えられた。同年、版籍奉還により藩知事となる。 明治3年(1870年)に本家の長州藩で脱退兵騒動が起こると、その鎮圧に努めた。明治4年(1871年)に廃藩置県で免官となり、東京へ移る。以後は旧藩士に対して義済堂を創設して、その自立を助けた。明治17年(1884年)に男爵を受爵、明治24年(1891年)には子爵に陞爵(しょうしゃく)する。明治42年(1909年)6月4日に死去した。享年55。墓所は山口県岩国市横山の洞泉寺山墓地。.

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吉井信謹

松平 信謹(まつだいら のぶのり) / 吉井 信謹(よしい のぶのり)は、江戸時代末期の大名。上野国吉井藩第10代(最後)の藩主。鷹司松平家12代。.

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吉井藩

吉井藩(よしいはん)は、上野多胡郡吉井(現在の群馬県高崎市吉井町吉井)に存在した藩。藩府は吉井陣屋に営まれた。.

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堀之美

堀 之美(ほり ゆきよし、弘化3年12月12日(1847年1月28日) - 明治15年(1882年)8月27日)は、江戸時代の大名で、越後椎谷藩第13代藩主(最後の藩主)。直之系堀家15代。12代藩主・堀之敏の次男。正室は安藤信正の娘。通称は外之助。従五位下、備中守、右京亮。 文久元年(1861年)3月11日、将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下備中守に叙任する。後に右京亮に改める。文久3年2月1日、父之敏の死により家督を相続した。元治元年(1864年)7月8日、奏者番に就任する。 慶応4年(1868年)3月2日に江戸に滞在中であった藩主・之美に代わって重臣が北陸道鎮撫総督に出頭して恭順の意向を伝え、翌日に之美も江戸を出て帰国するが、途中の岩鼻陣屋で東山道鎮撫総督に遭遇し、恭順の証として金1000両と米700俵を献上の上、北陸道鎮撫総督の命があるまで領国に留まるように命令を受けた。ところが、領国に戻ると今度は北陸道鎮撫総督から上洛の催促を受けて、同月26日に急遽、京都へ出発する。結果的に、管轄外である筈の東山道鎮撫総督からは金と米を徴収されるだけで見返りを得られなかったという一種の災難に出くわす形になった。 4月11日、上洛し、閏4月1日、参内する。戊辰戦争では、椎谷藩領は北越戦争の激戦地となり、多大な被害を受けた。同年9月、戦災が甚だしく2万両の拝借を願うものの、認められなかった。明治2年(1869年)の版籍奉還により椎谷知藩事に任じられる。明治10年(1877年)2月、政府に対し、同族の堀直弘、堀直明とともに奥田姓へ改めることを願う。明治15年(1882年)に死去したが、子がなく、同族の旧村松藩主家奥田家から直紹(堀直賀の嫡男)を養子に迎えて跡を継がせた。.

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堀田正倫

堀田 正倫(ほった まさとも)は、江戸時代末期の大名。明治時代の伯爵。下総佐倉藩第6代(最後)の藩主。正俊系堀田家10代。.

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堀田正頌

堀田 正頌(ほった まさつぐ、天保13年11月13日(1842年12月14日) - 明治29年(1896年)5月11日)は、下野国佐野藩の第3代(最後)の藩主。佐倉藩堀田家分家8代。 堀田正修の長男。官位は従五位下、左京亮、摂津守、信濃守。.

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堀田正養

堀田 正養(ほった まさやす、嘉永元年2月28日(1848年4月1日)- 明治44年(1911年)5月9日)は、近江宮川藩の第9代(最後)の藩主。堀田家宗家11代。 出羽亀田藩主・岩城隆喜の九男。正室は堀田正誠の娘。子は錫(堀田正亨正室)、娘(五島盛光正室)。幼名は三四郎、駒之助。官位は従五位下、正五位、従四位、正四位、従三位。豊前守、出羽守、豊前守。.

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堀直弘

堀 直弘(ほり なおひろ、万延2年2月14日(1861年3月24日) - 大正8年(1919年)12月6日)は、越後村松藩の第12代で最後の藩主。直寄系支流堀家12代。第9代藩主・堀直央の三男。正室は澤宣嘉の娘、継室は武田利安の娘。従五位下。 万延2年(1861年)の誕生直後に父が死去した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争に際し、新政府を支持する正義党の近藤安五郎一派と対立した先代藩主・直賀が奥羽越列藩同盟に参加して米沢藩に逃れたため、正義党から新藩主として擁立された。村松藩は新政府軍に降伏し、所領安堵された。 明治元年(1868年)12月7日、先代藩主直賀の隠居処分により、家督を相続した。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還にともない、村松知藩事に任じられた。同年9月5日、従五位になった。明治4年7月14日、廃藩置県にともない、免職となった。明治10年(1877年)2月、同族の堀直明、堀之美とともに奥田姓へ改めることを願う。大正8年(1919年)死去。 なおひろ *12 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1861年生 Category:1919年没.

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堀直明

堀 直明(ほり なおあきら)は、江戸時代末期の大名。信濃須坂藩の第14代(最後)の藩主。直重系堀家14代。.

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堀親広

堀 親広(ほり ちかひろ)は、幕末の大名。信濃飯田藩第12代(最後)の藩主。信濃飯田藩堀家13代。.

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堀江藩

堀江藩(ほりえはん)は、明治維新期の短期間、遠江国に存在した藩。藩庁は遠江国敷知郡の堀江陣屋(現在の浜松市西区舘山寺町)。もともと高家旗本大沢氏の知行地(堀江領)であったが、大政奉還後の明治元年(1868年)に実高が1万石以上あると届け出、明治政府から藩として認められた。明治4年(1871年)の廃藩置県により堀江県(ほりえけん)となるが、石高の虚偽申告が発覚して知事(元藩主)の処罰に発展した(万石事件)。.

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増山正同

増山 正同(ましやま まさとも)は、江戸時代末期の大名。伊勢長島藩の第8代(最後)の藩主。長島藩増山家9代。明治維新後に子爵。.

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壬生藩

壬生藩(みぶはん)は、下野国都賀郡壬生に存在した藩。藩庁は壬生城(現在の栃木県下都賀郡壬生町本丸一丁目)。.

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多胡藩

多胡藩(たこはん)は、下総国(現在の千葉県香取郡多古町)に存在した藩。.

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大垣藩

大垣藩(おおがきはん)は、美濃国大垣周辺を支配した藩。藩庁は大垣城(現在の岐阜県大垣市郭町2丁目)に置かれた。 江戸時代初期には短期間で藩主として4家が交替したが、寛永12年(1635年)以降は戸田氏が10万石で入り、幕末・明治維新期まで存続した。.

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大多喜藩

大多喜藩(おおたきはん)は、上総国に存在した藩。藩庁を大多喜城(現在の千葉県夷隅郡大多喜町大多喜四八一)に置いた。.

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大岡忠貫

大岡 忠貫(おおおか ただつら)は、江戸時代後期の大名。武蔵国岩槻藩第8代藩主。大岡忠房家11当主。大岡忠恕の長男。.

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大岡忠敬

大岡 忠敬(おおおか ただたか)は、三河国西大平藩第7代(最後)の藩主。大岡忠世家9代藩主。.

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大久保忠順

大久保 忠順(おおくぼ ただより、安政4年4月26日(1857年5月19日) - 大正3年(1914年)5月11日)は、江戸時代末期の大名、下野烏山藩の第8代(最後)の藩主。烏山藩大久保家9代。貴族院議員、子爵。 第7代藩主大久保忠美の長男。正室は慈光寺有仲の娘。継室は稲垣長明の娘。子は大久保忠春(長男)、大久保忠誠(次男)、大久保忠篤(三男)、桜井忠正(四男)、娘(諫早家興室のち森俊六郎室)。官位は従五位下佐渡守。.

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大久保忠良

大久保 忠良(おおくぼ ただよし)は、相模小田原藩の第10代(最後)の藩主。小田原藩大久保家12代。.

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大久保教義

大久保 教義(おおくぼ のりよし)は、相模荻野山中藩の第3代(最後)の藩主。荻野山中藩大久保家7代。.

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大給恒

大給 恒(おぎゅう ゆずる)は、日本の大名、政治家、華族。三河奥殿藩の第8代藩主、のちに信濃田野口藩(竜岡藩)の藩主。奥殿藩大給松平家10代で最後の藩主。江戸幕府の老中格、老中、若年寄。明治維新後は伯爵となる。日本赤十字社の創設者の一人として知られる。旧名は松平 乗謨(まつだいら のりかた)。.

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大田原一清

大田原 一清(おおたわら かずきよ)は、下野大田原藩の第14代(最後)の藩主。.

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大田原藩

大田原城址 大田原藩(おおたわらはん)は、下野国那須郡に存在した藩。藩庁は大田原城(現在の栃木県大田原市)に置かれた。.

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大聖寺藩

大聖寺藩(だいしょうじはん)は、江戸時代に加賀国江沼郡にあって江沼郡及び能美郡の一部を領した藩である。加賀藩の支藩であり、石高は初め7万石、後に10万石となった。家紋は棒梅鉢。第三代藩主前田利直が宝永6年(1709年)に築いた別邸長流亭は国の重要文化財に指定されている。藩庁は大聖寺陣屋である。.

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大関増勤

大関 増勤(おおぜき ますとし)は、江戸時代末期の大名。下野国黒羽藩16代(最後の)藩主。維新後は子爵。.

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大野藩

大野藩(おおのはん)は、越前国大野(現在の福井県大野市)に存在した藩。居城は大野城(亀山城)。.

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大村純熈

大村 純熈(おおむら すみひろ)は、肥前大村藩の第12代(最後)の藩主。.

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大村藩

大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵地方を領した藩。藩庁は玖島城(現在の長崎県大村市)。.

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大沢基寿

大沢 基寿(おおさわ もとすみ、おおさわ もとひさ、おおさわ もととし、旧字体:大澤 基壽、弘化4年(1847年)? -)は、江戸時代の高家旗本。別名は基輔。父は大沢基暢。妻は鯖江藩主・間部詮勝の娘福聚。通称は七助、采女。従四位下侍従、右京大夫。.

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大河内信古

大河内 信古(おおこうち のぶひさ)は、三河吉田藩の第7代(最後)の藩主。松平伊豆守系大河内松平家11代。はじめ松平信古と名乗る。.

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大河内輝声

大河内輝声 大河内 輝声(おおこうち てるな、嘉永元年10月15日(1848年11月10日) - 明治15年(1882年)8月15日(グレゴリオ暦))は、幕末の上野国高崎藩の最後の藩主。高崎藩大河内松平家11代。はじめ松平姓を称した。.

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大河内正質

松平 正質(まつだいら まさただ)または大河内 正質(おおこうち まさただ、弘化元年4月11日(1844年5月27日) - 明治34年(1901年)6月2日(グレゴリオ暦))は、幕末の上総国大多喜藩の第9代(最後)の藩主。奏者番・若年寄・老中格。大河内松平宗家11代。.

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大洲藩

大洲藩(おおずはん)は、伊予国大洲(現在の愛媛県大洲市)を中心に南予地方北東部から中予地方西部の伊予郡(現在の伊予市を中心とした地域)などを領有した藩。藩庁は大洲城。支藩として新谷藩があった。.

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大溝藩

大溝藩(おおみぞはん)は、近江国高島郡(現在の滋賀県高島市勝野)に存在した藩。藩庁は大溝陣屋。.

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天童藩

天童藩(てんどうはん)は、羽前国(旧出羽国)高畠藩から移転した織田氏が同国天童周辺(現在の山形県天童市)を支配した藩。藩庁は天童陣屋。.

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太田資美

太田 資美(おおた すけよし)は、江戸時代末期の大名。遠江掛川藩第7代藩主。上総松尾藩知事。掛川藩太田家11代。.

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奥平昌邁

奥平昌邁 奥平 昌邁(おくだいら まさゆき、安政2年4月1日(1855年5月16日) - 明治17年(1884年)11月26日)は、豊前中津藩の最後(第9代)の藩主。中津藩奥平家13代。官位は従五位下、美作守。伯爵。.

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奥殿藩

奥殿藩(おくとのはん)は、三河国額田郡の奥殿陣屋(愛知県岡崎市奥殿町)に藩庁を置いた藩。領地は三河国額田郡・加茂郡(現在の愛知県岡崎市)のほか信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市)に存在し、信濃国の領地の方が大きかった。藩庁は何度か移転しており、江戸時代初期の立藩時には加茂郡の大給陣屋、幕末期には信濃国の龍岡城(田野口陣屋)に置かれた。大給藩(おぎゅうはん)、田野口藩(たのくちはん)・龍岡藩(たつおかはん)についても、実質的に同一の藩であることからこの項目で記述する。 大給藩としての立藩より幕末まで石高(1万6000石)は変わらず、一貫して松平家(大給松平家)が支配した。.

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姫路藩

姫路藩歴代藩主居城姫路城 姫路藩(ひめじはん)は、播磨国飾東郡にあって現在の兵庫県西南部を治めた藩。藩庁は姫路城(姫路市)。藩主ははじめ外様の池田氏で、のち譜代大名が転々とした末に、1749年(寛延2年)から廃藩置県までは徳川譜代の名門酒井氏があった。石高ははじめ52万石、のち15万石。.

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宮津藩

宮津藩(みやづはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。京極高知の代は丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれた。藩庁は宮津城(現在の京都府宮津市)に置かれた。.

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守山藩

守山藩(もりやまはん)は、陸奥国南部(磐城国)田村郡(現在の福島県郡山市)に存在した藩。水戸藩の御連枝で支藩である。藩庁は守山陣屋である。また、常陸国にも所領を有し、松川陣屋を置いた。.

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官報

官報を販売していた霞が関政府刊行物サービス・センター 『官報』(かんぽう)は、日本国の機関紙である。国としての作用に関わる事柄の広報および公告をその使命とする。.

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宗義達

宗 義達(そう よしあきら、1847年12月13日〈旧暦:弘化4年11月6日〉 - 1902年5月25日)は、対馬府中藩の第16代(最後)の藩主。明治維新後は、初代当主・宗重尚より1字を取って宗 重正(しげまさ)と改名した。.

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宇和島藩

宇和島城天守 竹輪笹に阿吽の向かい雀の宇和島紋 宇和島藩(うわじまはん)は、伊予国宇和島(現在の愛媛県宇和島市)周辺を治めた藩。藩庁は宇和島城に置かれた。.

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宇都宮藩

宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。.

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安中藩

安中藩(あんなかはん)は、上野に存在した藩。藩庁は安中城(現在の群馬県安中市安中3丁目)。.

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安志藩

旧安志藩陣屋表門 安志藩(あんじはん)は、播磨国宍粟郡周辺を領有した譜代大名の藩。藩庁として安志(兵庫県姫路市安富町安志)に安志陣屋が置かれた。.

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安部信発

安部 信発(あんべ のぶおき)は、江戸時代後期の大名。安部氏24代当主。武蔵国岡部藩13代藩主、後三河国半原藩主。維新後、半原知藩事。.

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安藤信勇

安藤 信勇(あんどう のぶたけ)は、陸奥(後の磐城国)磐城平藩第7代(最後)の藩主。安藤家12代。.

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安藤直裕

安藤 直裕(あんどう なおひろ)は、紀伊田辺藩の第16藩・第18代藩主。第14代藩主・安藤直則の次男。初名を直承とも名乗る。通称は帯刀、飛騨守。竹堂、墨堂と号する。 文政9年(1826年)5月25日、家督を継ぐ。天保6年(1835年)12月27日、従五位下飛騨守に叙任する。紀州藩において藩主・徳川慶福(のちの将軍徳川家茂)や徳川茂承などの補佐を務めた。慶応2年(1866年)、第2次長州征伐では幕府軍の石州口の総督を務め、1080名を率いて出陣したが、弾薬を使い果たして江津まで退却した。同年12月3日、罷免、謹慎を命じられる。慶応3年9月27日、謹慎を解かれる。 慶応4年(1868年)1月24日、「維新立藩」で独立の大名となった。同年5月5日、上洛する。明治2年6月20日、田辺藩知事に就任する。明治4年(1871)10月10日、藩主の地位を長男の直行に譲って隠居したが、ほどなくして再任している。 明治18年(1885年)、65歳で死去した。.

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安房勝山藩

安房勝山藩(あわかつやまはん)は、安房国平郡の勝山陣屋(現・千葉県安房郡鋸南町勝山)に藩庁を置いた藩。 1668年以降、酒井氏(若狭小浜藩の分家)が藩主を務め、廃藩置県まで9代約200年にわたって存続した。これは安房国に藩庁を置いた藩の中で最長である。酒井家時代の石高は1万2000石で、所領は越前国・上野国にも存在した。明治維新後は加知山藩(かちやまはん)に改称した。.

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安房国

安房国(あわのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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対馬府中藩

対馬府中藩(つしまふちゅうはん)は、江戸時代に対馬国(長崎県対馬市)全土と肥前国田代(佐賀県鳥栖市東部及び基山町)及び浜崎(佐賀県唐津市浜玉町浜崎)を治めていた藩で、別名厳原藩(いづはらはん)。一般には単に対馬藩(つしまはん)と呼称される事が多い。「府中」は当時厳原の城下町をこう称していたことに由来する。藩庁は当初金石城(対馬市厳原町西里)、のち桟原城(対馬市厳原町桟原)。藩主は宗氏で初代藩主義智以来、位階は従四位下を与えられ、官職は主に対馬守・侍従を称した。 対馬府中藩の在郷支配は近世諸藩のなかでも特殊な性格を有しており、兵農分離はあまり明確でなく、多くの地方給人があり、給人の下に名子・被官がいて、多くの点で中世的性格を保った。.

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対馬国

対馬国(つしまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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富山藩

富山藩(とやまはん)は、江戸時代に越中国の中央部(おおむね神通川流域)を領有した藩である。石高は10万石、加賀藩の支藩であった。藩主は前田氏で家格は従四位下・大広間詰・外様・城主。藩庁は富山城(富山市)。家紋は宗藩の剣梅鉢に対して丁字梅鉢紋を使用した。.

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小幡藩

藩邸御殿跡 楽山園 小幡藩(おばたはん)は、上野甘楽郡小幡に存在した藩。藩庁は小幡陣屋(のち小幡城、現在の群馬県甘楽郡甘楽町小幡)に営まれた。.

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小久保藩

小久保藩(こくぼはん)は、明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。1868年に遠江相良藩の田沼家が移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。石高は1万石余、藩庁は上総国天羽郡小久保(現在の千葉県富津市小久保)の小久保陣屋。.

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小出英尚

小出 英尚(こいで ふさなお)は、丹波園部藩の第10代(最後)の藩主。吉親系小出家10代。.

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小倉藩

小倉藩(こくらはん)は、江戸時代の豊前国にあった藩。藩庁は小倉城(福岡県北九州市小倉北区)に置かれた。幕末から明治維新にかけては香春藩(かわらはん)、のち豊津藩(とよつはん)となった。.

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小笠原忠忱

小笠原 忠忱(おがさわら ただのぶ)は、江戸時代末期の大名。豊前国小倉藩の第10代(最後の)藩主。小笠原家宗家11代。 第9代藩主・小笠原忠幹の次男。正室は上杉斉憲の娘。子に小笠原長幹(長男)、小笠原長丕(次男、兄・小笠原貞孚の養子)、小笠原豊(三男)、照子(津軽英麿正室)、百子(尚昌室)。幼名は豊千代丸。号は錦陵。官位は従三位。兄に貞孚(安志藩主)。.

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小笠原貞孚

小笠原 貞孚(おがさわら さだざね / さだちか)は、播磨安志藩の第7代(最後)の藩主。忠脩系小笠原家12代。.

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小笠原貞正

小笠原 貞正(おがさわら さだまさ)は、豊前小倉新田藩(千束藩)の第9代(最後)の藩主。.

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小笠原長守

小笠原 長守(おがさわら ながもり)は、越前勝山藩の第8代(最後)の藩主。信嶺系小笠原家10代。.

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小笠原長国

小笠原 長国(おがさわら ながくに、文化9年(1812年) - 明治10年(1877年)4月23日)は、肥前国唐津藩の第5代(最後)の藩主。忠知系小笠原家13代。 信州松本藩主・松平光庸の長男。正室は土屋彦直の娘。子に娘(小笠原長行正室)、娘(藤井松平信庸正室)。官位は従五位下、佐渡守、中務大輔。文政7年(1824年)7月9日生まれとも言われている。幼名は賢之進。.

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小田原藩

小田原藩(おだわらはん)は、江戸時代に相模国足柄下郡を治めた藩。藩庁は小田原城(神奈川県小田原市)。.

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小見川藩

小見川藩(おみがわはん)は、下総国香取郡に存在した藩。藩庁は小見川の小見川陣屋(現在の千葉県香取市)に置かれた。.

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小諸藩

小諸藩(こもろはん)は、信濃国小諸(現在の長野県小諸市)に存在した藩。藩庁は小諸城に置かれた。.

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小野藩

小野藩(おのはん)は、播磨国加東郡を領した藩。藩庁は王子村敷地(現在の兵庫県小野市)の小野陣屋にある。 外様大名の一柳氏が、江戸時代初期から廃藩置県まで治めた。.

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小松藩

小松藩(こまつはん)は、伊予国東部に所在した藩。藩庁は周布郡新屋敷村(現・愛媛県西条市小松町)の小松陣屋に置かれた。 石高1万石の小藩で、江戸時代初期の1636年から廃藩置県まで、外様大名の一柳氏が9代約230年にわたって治めた。.

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小泉藩

小泉藩(こいずみはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は小泉陣屋(現在の奈良県大和郡山市小泉町)。.

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小浜藩

小浜城に現存する本丸 小浜藩(おばまはん)は、若狭国一国および越前敦賀郡を領した藩。藩庁は小浜城。.

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尼崎藩

尼崎藩(あまがさきはん)は、摂津国川辺郡・武庫郡・菟原郡・八部郡(現在の兵庫県尼崎市・宝塚市・西宮市・芦屋市・神戸市南部・伊丹市の一部・川西市・猪名川町)を領した藩。藩庁は尼崎城。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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山口弘達

山口 弘達(やまぐち ひろよし)は、常陸牛久藩の第12代(最後)の藩主。のちに子爵。.

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山名義路

山名 義路(やまな よしみち、万延元年11月4日(1860年12月15日)- 昭和15年(1940年)11月22日)は、但馬村岡藩の第2代(最後)の藩主。従五位下因幡守、のち正三位。男爵。陸軍軍人。.

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山名義済

山名 義済(やまな よしなり)は、但馬村岡藩の初代藩主。 安政6年(1859年)7月28日、父義問の隠居により交代寄合である山名氏の家督を継ぐ。幕末期の動乱の中で、義済は早くから尊王論者として官軍側に協力していたため、慶応4年(1868年)6月20日、かねてから請願していた維新立藩(新規取立て)が認められて所領を1万1,000石とされ、翌明治2年(1869年)には藩主に取り立てられて諸侯に列し、ここに村岡藩が成立した。明治3年(1870年)6月23日には知藩事となるが、翌明治4年(1871年)2月11日、長男の義路に家督を譲って隠居した。.

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山家藩

山家藩(やまがはん)は、丹波国何鹿郡山家周辺を領有した藩。藩庁は山家陣屋(現在の京都府綾部市広瀬町)。藩主家の谷家は公家の園家を通して皇室との縁が深く、現皇室にも谷家の血が入っている。.

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山崎藩

山崎藩(やまさきはん)は、播磨国宍粟郡周辺を知行した藩。藩庁として山崎(現在の兵庫県宍粟市山崎町)に山崎陣屋が置かれた。宍粟藩(しそうはん)とも呼ばれる。.

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山崎治祇

山崎 治祇(やまざき はるよし、安政2年4月12日(1855年5月27日)- 明治42年(1909年)12月5日)は、備中国成羽藩の第2代藩主。父は初代藩主・山崎治正(治祇は長男)。母は細川行芬の娘。官位は従五位下。志摩守。幼名は寿丸。 明治2年(1869年)正月晦日、父治正の隠居により、家督を継ぐ。同年2月8日、従五位下志摩守に叙任する。同年6月23日、版籍奉還により藩知事となる。同年7月4日、明治天皇に拝謁する。明治4年(1871年)4月10日、藩知事を辞職する。同年4月12日、隠居し、弟の山崎治敏に家督を譲った。明治42年(1909年)12月5日に55歳で死去した。 はるよし Category:成羽藩主 Category:幕末の大名 Category:1855年生 Category:1909年没.

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山崎治敏

山崎 治敏(やまざき はるとし)は、備中成羽藩の第3代知藩事。.

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山上藩

山上藩(やまかみはん)は、近江国(現在の滋賀県東近江市山上町)に存在した藩。藩庁は山上陣屋。.

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山形藩

山形藩(やまがたはん)は、出羽(羽前)村山郡山形(現在の山形県山形市)に居城(山形城)を置いた藩。本項目では山形藩と関係の深い大森藩(おおもりはん)、朝日山藩(あさひやまはん)についても記述する。.

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山内豊範

山内 豊範(やまうち とよのり)は、江戸時代末期の大名。土佐藩の第16代(最後の)藩主。爵位は侯爵。三条実美の従弟にあたる。.

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岡山藩

後楽園と岡山城 岡山藩(おかやまはん)は、備前一国及び備中の一部を領有した外様の大藩である。藩庁は岡山城(備前国御野郡、現 岡山県岡山市北区)。ほとんどの期間を池田氏が治めた。国主、本国持。支藩に鴨方藩と生坂藩、また短期間児島藩があった。.

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岡崎藩

岡崎城 岡崎藩(おかざきはん)は、三河国(現在の愛知県東部)を領有した藩。藩庁は岡崎城に置かれた。.

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岡田藩

岡田藩(おかだはん)は、備中国下道郡岡田(岡山県倉敷市真備町岡田)の岡田陣屋に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期から廃藩置県まで伊東氏が一貫して10代にわたり藩主を務めた。石高は1万石余。陣屋は幾度かの移転を経ており、元禄年間には西国街道川辺宿(倉敷市真備町川辺)に陣屋を置いたことから川辺藩(かわべはん)とも呼ばれる。.

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岡部藩

岡部藩(おかべはん)は、武蔵国榛沢郡岡部(現在の埼玉県深谷市(旧大里郡岡部町))に存在した藩。藩庁は岡部陣屋。.

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岡部長職

岡部 長職(おかべ ながもと、1855年1月3日(嘉永7年11月15日) - 1925年(大正14年)12月27日)は、和泉岸和田藩の第13代(最後)の藩主で、明治・大正時代の政治家・外交官。英国公使館参事官、外務次官、司法大臣、東京府知事、枢密顧問官、法律取調委員会会長などを歴任。岸和田藩岡部家14代。官位は正二位勲一等子爵。.

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岡藩

岡藩(おかはん)は、江戸時代の豊後国(現在の大分県の一部)にあった藩。藩庁は岡城(現在の大分県竹田市)。領地は豊後国の大野郡・直入郡・大分郡にまたがり、小藩が分立した豊後国内では石高が最大の藩であった。竹田藩と呼ばれることもある。.

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岩城隆彰

岩城 隆彰(いわき たかあき)は、出羽国亀田藩13代(最後の)藩主。維新後は亀田藩知事。 文久3年(1863年)10月8日、近江国宮川藩主・堀田正誠の三男として生まれる。明治元年(1868年)12月7日、戊辰戦争で新政府軍と交戦したため隠居を命じられていた12代藩主・岩城隆邦には、子はおらず他家に養子を求めざるを得なかった。隆邦の実弟・堀田正養は、堀田正誠の婿養子となり宮川藩主となっていたが、正誠没後に実子である隆彰が生まれた。そうした縁から、隆彰が堀田家から岩城家に養子入りした。 明治2年(1869年)3月13日、隆彰は養父・隆邦の隠居により、家督を継いで13代藩主となる。6月22日、亀田藩知事に任命されて、7月5日に領地に赴任する許可を得る。8月5日には、従五位に叙任された。明治4年(1871年)7月廃藩置県により、藩知事を免官された。同年9月24日には、明治天皇に拝謁した。 明治12年(1879年)10月15日、死去。享年17。正室・子女共になく、岩城家の家督は養父・隆邦の長男・隆治が相続した。 たかあき Category:堀田氏 *13 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1863年生 Category:1879年没.

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岩国藩

岩国城天守閣(復元) 岩国藩(いわくにはん)は、周防国大島郡の一部(鳴門村・神代村)及び玖珂郡南部を領地とした藩。藩庁は岩国陣屋(現在の山口県岩国市)岩国領の支配拠点は当初岩国城だったが、元和元年(1615年)の一国一城令で破却されて岩国陣屋となった。慶応4年(1868年)まで岩国領は「藩」ではないと長州藩によって主張されていたため、正式な「藩庁」としては岩国陣屋となる。。江戸時代を通じて長州藩毛利氏一門の吉川氏が領主だったため、吉川藩(きっかわはん)という通称もある。 長州藩の支藩とみなされるが、長州藩では幕府に岩国領(いわくにりょう)を支藩とする届けを出しておらず、吉川家は毛利家の家臣であり、徳川家の陪臣であるによって諸侯に非ず(大名ではない)と主張していた。その一方で幕府からは3万石の外様大名格として扱われるという、極めて変則的な存在が江戸時代を通じて続いた。正式に岩国藩が認められたのは、大政奉還後の慶応4年(1868年)3月、新政府によってのことである。 本項では、岩国藩とその前身である岩国領について合わせて述べる。.

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岩村田藩

岩村田藩(いわむらだはん)は、信濃国佐久郡・小県郡の一部(現在の佐久市)を支配した藩で藩庁は岩村田陣屋。藩主家は内藤氏。.

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岩村藩

岩村藩(いわむらはん)は、美濃国(現在の岐阜県)の岩村城を拠点として美濃国と駿河国の一部を支配した藩。.

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岩槻藩

岩槻藩(いわつきはん)は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)に存在した藩。居城は岩槻城。.

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岸和田藩

和泉国岸和田城絵図/国立公文書館内閣文庫所蔵 岸和田藩(きしわだはん)は、かつて和泉国南郡・日根郡などを領有した藩。藩庁は南郡岸和田(現在の大阪府岸和田市)の岸和田城。.

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峰山藩

峰山藩(みねやまはん)は、丹後国に存在した藩。小藩とはいえ、戦国大名の京極高知が関ヶ原の戦いの戦功で得た丹後一国の領土の一部を受け継いてきた藩である。.

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島原藩

島原藩(しまばらはん)は、肥前国島原周辺を支配した藩。初期は日野江藩(ひのえはん)と呼ばれる。藩庁は初期は日野江城(長崎県南島原市)、のち島原城(長崎県島原市)。.

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島津忠寛

島津 忠寛(しまづ ただひろ)は、日向国佐土原藩の第11代(最後の)藩主。通称は又之進、徳次郎、佐嘉郎。号は蠖堂。.

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島津忠義

島津 忠義(しまづ ただよし)は、幕末から明治時代の大名、華族。薩摩藩の第12代(最後)の藩主で、島津氏第29代当主。官位は従一位参議。勲等は勲一等、公爵。 幼名は壮之助。通称は又次郎。元服後の初名は忠徳(ただのり)だったが、藩主在任中は茂久(もちひさ)を名乗る。なお、忠義は維新後の慶応4年(1868年)1月16日に改名した諱である。 第125代天皇・明仁の曽祖父である。.

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川越藩

川越藩(かわごえはん)は、武蔵国入間郡(現在の埼玉県川越市)周辺を領した藩。武蔵国一の大藩。藩庁は川越城に置かれた。.

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上山藩

上山藩(かみのやまはん)は、江戸時代,出羽国(羽前国)村山郡の上山(現在の山形県上山市)周辺を領有した藩。藩庁は上山城に置かれた。.

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上田藩

上田藩(うえだはん)は、江戸時代に信濃国小県郡上田(現在の長野県上田市)周辺を支配した藩。藩庁は上田城。.

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上杉茂憲

上杉 茂憲(うえすぎ もちのり、- )は、出羽国米沢藩最後の(13代)藩主。12代藩主・上杉斉憲の長男。母は於盤。維新後は正二位伯爵に叙せられ、沖縄県令、貴族院伯爵議員、侍従、錦鶏間祗候を歴任した。.

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与板藩

与板藩(よいた はん、旧字体:與板)は、越後国三島郡(現在の新潟県長岡市与板地域周辺)に所在した藩。藩庁は与板陣屋。藩主は初め牧野氏、その後幕領を経て井伊氏。家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高(表高)は初め1万石、1705年(宝永2年)井伊氏が藩主となった際に2万石となっている。.

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中央集権

中央集権(ちゅうおうしゅうけん、centralization)とは.

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中山信徴

中山 信徴(なかやま のぶあき、弘化3年4月10日(1846年5月5日)- 大正6年(1917年)1月29日)は、常陸松岡藩の初代藩主(幕藩体制下では藩主として認められず、第14代当主)。常陸水戸藩附家老・中山家14代。 第3代当主・中山信守の四男。正室は挙母藩主・内藤政成の四女・鶴子。子は信実(長男)、信矼(次男)、信輝(三男)、青木信光(四男)、信之(五男)、信篤(六男)、娘(久留島通簡正室)、娘(久留島通簡継室)、娘(春田某室)、娘(大川某養女)、娘(対木某室)、娘(辰沢某室)、久(松平直平正室)、娘(辰沢某室)、娘(大川某養女)、娘(仲子、大舘某養女のち高橋某室)。官位は従五位下、備中守、備後守。.

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中川久成

中川 久成(なかがわ ひさなり)は、豊後岡藩の第13代(最後)の藩主。 嘉永3年(1850年)8月4日、第12代藩主・中川久昭の長男として生まれる。明治2年(1869年)9月23日、父久昭の隠居により、家督を継いだ。同時に藩知事に就任した。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官された。明治8年(1875年)7月、司法省に出仕する。明治9年(1876年)10月、退職する。 明治17年(1884年)に伯爵に叙された。明治23年(1890年)7月10日、貴族院議員に選ばれて、死亡するまで在職した。明治30年(1897年)5月3日、48歳で死去した。.

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中川久昭

中川 久昭(なかがわ ひさあき)は、豊後岡藩の第12代藩主。 文政3年(1820年)4月4日、伊勢津藩主・藤堂高兌の次男として生まれる。天保11年(1840年)12月6日、第11代藩主・中川久教の死去により久教の養女・栄子の婿養子として跡を継ぎ、同年12月28日には従五位下、修理大夫に叙任された。 幕末の動乱の中で岡藩は尊王派の勢力が大きかったが、親徳川家の藤堂家から養子として入った久昭は天保12年(1841年)に柳井藻次郎、小河一敏ら尊王思想家を岡藩の中枢から排斥した(岡藩七人衆の変)。後に小河は真木保臣らと結託して寺田屋騒動にも関与し、久昭に対しても尊王を訴えたが、久昭は動乱を傍観するのみにとどまった。また、藩でも大火や風雨による被害が相次ぎ、藩財政は困窮した。 慶応4年(1868年)3月11日、上洛した。明治2年(1869年)2月18日、駿府への派兵の遅れから謹慎を命じられた。同年6月19日、版籍奉還を行い、知藩事に就任した。同年9月23日、隠居し、長男・久成に家督を譲った。明治22年(1889年)11月30日に死去した。享年70。.

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中津藩

中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。.

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丸岡藩

丸岡藩(まるおかはん)は、越前国(現在の福井県)坂井郡などを支配した藩。居城は丸岡城(現在の福井県坂井市丸岡町霞)。.

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丸亀藩

丸亀藩(まるがめはん)は、讃岐国(香川県)の西部を領し、丸亀城(丸亀市)を本城とした藩。藩主は生駒氏、山崎氏、京極氏と続きそれぞれ藩主独特の城下町を形成し廃藩置県を迎えた。 なお生駒氏は、高松城を本城とし讃岐一国を領したため、生駒氏が領した西讃を丸亀藩と呼ぶには適さないとも考えられるが、現在ではその頃も丸亀藩の歴史の一部として語られることが多いため、ここにも含める。.

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常陸宍戸藩

常陸宍戸藩(ひたちししどはん)は、常陸国茨城郡宍戸(現在の茨城県笠間市平町)に存在した藩。藩庁は宍戸陣屋に置かれた。.

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常陸府中藩

常陸府中藩(ひたちふちゅうはん)は、常陸国(現在の茨城県石岡市)に存在した藩。別名は石岡藩(いしおかはん)、長沼藩(ながぬまはん)。藩庁は府中陣屋。.

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常陸松岡藩

松岡藩(まつおかはん)は、江戸時代に常陸国に存在した藩。藩庁は多賀郡下手綱(現在の茨城県高萩市下手綱)の松岡城に置かれた。越前松岡藩との区別から常陸松岡藩とも呼ばれる。 江戸時代初期に戸沢氏が4万石で入部し、約20年間存続した。戸沢氏転封後、松岡周辺は水戸藩領となり、附家老中山家(2万石)が居館を置いた。明治維新後の1868年、中山氏を藩主とする松岡藩が立藩され、廃藩置県まで続いた。.

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丹南藩

丹南藩(たんなんはん)は、河内国丹南郡などに1万石を領有した藩。藩主は譜代大名の高木氏。藩庁は丹南郡丹南村(現在の大阪府松原市丹南)の丹南陣屋。.

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丹後田辺藩

丹後田辺藩の藩庁がおかれた田辺城(舞鶴城) 田辺藩(たなべはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。明治維新後に舞鶴藩(まいづるはん)と改称した。藩庁は田辺城(京都府舞鶴市)。.

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丹羽長裕

丹羽 長裕(にわ ながひろ、安政6年3月15日(1859年4月17日) - 明治19年(1886年)7月29日)は、陸奥二本松藩の最後(第11代)の藩主。丹羽家第12代。のち子爵。.

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丹羽氏中

丹羽 氏中(にわ うじのり)は、幕末の大名。播磨三草藩の第6代(最後)の藩主。氏次系丹羽家12代。 天保7年(1836年)2月18日、第5代藩主丹羽氏賢の弟・丹羽氏謙の三男として生まれる。嘉永6年(1853年)3月25日、伯父・氏賢の養子となる。同年10月15日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月8日、氏賢の隠居により家督を継いだ。同年12月16日、従五位下長門守に叙任する。 文久3年(1863年)9月10日、大番頭に就任する。慶応3年3月1日、大番頭を解任される。慶応4年(1868年)2月26日、新政府に勤王誓書を提出、3月22日上洛し、恭順の姿勢を示す。戊辰戦争では新政府に軍資金を提供するなどして協力した。明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官される。明治17年(1884年)4月21日に死去した。享年49。墓所は東京都港区西麻布の長谷寺。 うしのり *06 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1836年生 Category:1884年没.

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丹波亀山藩

亀山藩(かめやまはん)は、江戸時代に丹波国にあった藩のうちの一つ。現在の京都府亀岡市を拠点とした。山陰道の入り口に当たるため、江戸幕府から特に重要視された。伊勢亀山藩との区別から丹波亀山藩とも呼ばれる。明治時代に亀山の地名を亀岡に改称したため、これ以降は亀岡藩(かめおかはん)と呼ばれる。藩庁は亀山城。.

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七日市藩

七日市藩(なのかいちはん)は、上野甘楽郡(現在の群馬県富岡市七日市)に存在した藩。藩庁は七日市陣屋(現在、跡地は群馬県立富岡高等学校となっている)。遺構として正面玄関付近1棟、中門1棟が現地に現存する。以下はすべて個人宅に移築されている。大手門(下仁田町)、裏門(富岡市七日市)、伝承南門(富岡市内)である。.

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市橋長和

市橋 長和(いちはし ながかず、文政4年5月8日(1821年6月7日) - 明治15年(1882年)1月17日)は、近江仁正寺藩(西大路藩)の第10代(最後)の藩主。仁正寺藩市橋家11代。 出羽庄内藩主・酒井忠器の四男で、酒井忠発の弟に当たる。子は長寿(次男)、長女鋼子(市橋長道正室)など。養子に市橋長道(実父市橋長賢)。官位は従五位下。正五位。正四位。壱岐守。下総守。幼名は鋼三郎。はじめ長和と名乗っていたが、後に長義と改名する。 天保14年(1843年)5月16日、先代藩主市橋長富の養子となる。養父長冨の男子は早世していた。弘化元年(1844年)8月15日、将軍・徳川家慶に拝謁した。同年10月7日、養父長富の隠居により、家督を相続した。同年12月16日、従五位下下総守に叙任した。後に壱岐守に改めた。嘉永6年(1853年)、ペリー来航から国内が政情不安に陥ると、軍備の増強の必要性を感じ取って火薬の製造を行なっている。文久2年(1862年)4月28日、仁正寺藩を西大路藩と改名した。 慶応3年(1867年)12月22日、上洛し、新政府を支持する姿勢を示した。明治元年(1868年)1月27日、新政府に敵対姿勢を示す武蔵川越藩主・松平康英の近江国内の領地の支配を命じられる。同年2月20日、藩兵の少なさを理由として、東山道鎮撫総督府軍の食料補給の任務の辞退を願うものの、認められなかった。明治元年(1868年)の東京奠都では、明治天皇の守護と京都警備に務めた。明治2年(1869年)4月22日、版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官されて東京へ移った。明治15年(1882年)正月17日、62歳で死去した。 なかかす Category:酒井氏 Category:幕末の大名 *10 Category:庄内藩の人物 Category:日本の華族 Category:1821年生 Category:1882年没.

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三宅康保

三宅 康保(みやけ やすよし、天保2年2月1日(1831年3月14日) - 明治28年(1895年)1月23日)は、三河国田原藩の第12代(最後)の藩主。田原藩三宅家15代。 第10代藩主・三宅康明の弟・三宅友信(毅斎、8代藩主・三宅康友の四男)の長男。正室は第11代藩主・三宅康直の娘・おけい、継室は船越景之の娘。子は三宅康寧(長男)など。官位は従五位下、備前守。子爵。号は橘堂。 第11代藩主を姫路藩酒井家からの養子である康直が継いだ際、重臣の渡辺崋山の尽力で次の藩主の座を約束され、嘉永元年(1848年)12月16日、従五位下対馬守に叙任する。その後、備前守、備後守、備前守と改めた。嘉永3年(1850年)11月11日、養父康直の隠居により、家督を相続した。嘉永6年、大坂城在番を務める。文久2年(1862年)、大坂城在番を務める。幕末・維新の動乱期に際しては、家老であり、砲術家として全国で著名もあった村上範致の補佐を得て、難局を乗り切った。 明治2年(1869年)6月、田原藩知事に就任する。明治4年7月、廃藩置県により、藩知事を解任される。明治維新後は久能山東照宮宮司などを務めた。1883年(明治16年)3月24日に隠居し、家督を長男康寧が継承した。明治28年(1895年)正月23日、65歳で死去した。法号は大康院殿寿岳保亀大居士。墓所は愛知県田原市田原町北番場の霊巌寺。.

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三上藩

三上藩(みかみはん)は、現在の滋賀県野洲市三上に存在した藩。藩庁は三上陣屋(城主格)。.

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三田藩

三田藩(さんだはん)は、摂津国有馬郡三田(現在の兵庫県三田市)周辺を領有した藩。藩庁は当初三田城、のち三田陣屋。.

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三草藩

三草藩(みくさはん)は、播磨国加東郡周辺を領有した譜代大名の藩。藩庁として三草(兵庫県加東市上三草)に陣屋が置かれた。.

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三根山藩

三根山藩(みねやまはん)は、江戸時代末の越後国蒲原郡三根山(のちの西蒲原郡巻町嶺岡→峰岡、現在の新潟市西蒲区峰岡)にあった藩。藩主は譜代大名の牧野氏。.

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三池藩

三池藩(みいけはん)は、筑後国三池郡を領した藩。藩庁として三池(現在の福岡県大牟田市)に三池陣屋を構えた。藩主家は三池立花氏であり、柳河藩の立花氏とは一族であるが、互いに独立した藩であり、同藩は柳河藩の支藩ではない。.

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三河吉田藩

三河吉田藩(みかわよしだはん)は、三河国吉田(現在の愛知県豊橋市今橋町)を領した藩。藩庁は吉田城。明治維新後に豊橋藩(とよはしはん)と改称された。譜代大名が歴代藩主を務め、吉田藩に入部することは、幕閣になるための登竜門のひとつであった。.

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三春藩

三春藩(みはるはん)は、磐城国田村郡(旧陸奥国南部、現在の福島県田村郡三春町)に存在した藩の一つ。藩庁は三春城である。.

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三浦顕次

三浦 顕次(みうら たかつぐ/あきつぐ)は、江戸時代幕末期の大名。美作勝山藩(真島藩)の第10代(最後の)藩主。美作勝山藩三浦家15代。.

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三日市藩

三日市藩(みつかいちはん)は、越後国蒲原郡三日市組館村に存在した藩。藩庁は三日市陣屋(現在の新潟県新発田市上館・新発田市立七葉中学校)。.

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三日月藩

三日月藩(みかづきはん)は播磨国佐用郡三日月(兵庫県佐用郡佐用町三日月)周辺を領した藩。藩庁は三日月陣屋。別名・乃井野藩(のいのはん)。.

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下妻藩

下妻藩(しもつまはん)は、常陸国(現在の茨城県下妻市下妻甲)に存在した藩。藩庁は下妻陣屋に置かれた。.

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下館藩

下館藩(しもだてはん)は、常陸国西北部(現在の茨城県筑西市、かつての下館市)に存在した藩。居城は下館城。.

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一宮藩

一宮藩(いちのみやはん)は、上総国長柄郡の一宮陣屋(現在の千葉県長生郡一宮町字城内)に藩庁を置いた藩。江戸時代後期の1826年、伊勢国八田藩が飛び地領であった当地に藩庁を移転して成立。以後、譜代大名の加納氏が4代約50年にわたって治め、廃藩置県を迎えた。石高は1万3000石。.

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一関藩

一関藩(いちのせきはん)は、江戸時代の藩の一つ。陸奥磐井郡一関(現在の岩手県一関市)に藩主居館を置いた。この地に陣屋を置いた大名家は、いずれも仙台藩・伊達氏の内分分知の分家に当たる一関伊達家と田村家の2家である。前者は11年で改易・廃藩となったが、後者は180年余り続いて明治維新を迎えた。以下、後者の田村家一関藩を主として記述する。.

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一柳頼紹

一柳 頼紹(ひとつやなぎ よりつぐ)は、江戸時代後期・幕末期の大名。伊予小松藩の第8代藩主。.

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一柳頼明

一柳 頼明(ひとつやなぎ よりあき)は、伊予小松藩の第9代(最後の)藩主(知藩事)。.

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一柳末徳

一柳 末徳(ひとつやなぎ すえのり、嘉永3年7月19日(1850年8月26日) - 大正11年(1922年)3月7日)は、播磨小野藩の第11代(最後)の藩主。 丹波綾部藩主・九鬼隆都の五男。正室は栄子(一柳頼紹の娘)。継室志乃。妾蓉子他。子は長男一柳譲二、次男広岡恵三(加島銀行、大同生命、大阪電気軌道。広岡浅子の女婿)、三男一柳剛、長女(大井光衛室)、次女喜久子(森忠恕室)、三女満喜子(ウィリアム・メレル・ヴォーリズ夫人)、四女(筏井寿夫室)ほか。官位は従二位、対馬守。幼名は包五郎。.

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九鬼隆備

九鬼 隆備(くき たかとも、天保5年5月11日(1834年6月17日) - 明治30年(1897年)7月13日)は、丹波綾部藩の第10代(最後)の藩主。 第9代藩主・九鬼隆都の長男。正室は戸田光庸の娘、継室は中西荘八郎の娘。子に九鬼隆治(長男)、娘(木村勝務室)、娘(山室某室)、娘(舟橋遂賢室)、娘(致津公煕室)、娘(野崎彦左衛門室)。官位は従五位上、大隅守。.

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九鬼隆義

九鬼 隆義(くき たかよし、天保8年4月5日(1837年5月9日) - 明治24年(1891年)1月24日)は、日本の大名・摂津三田藩の第13代(最後)の藩主。九鬼家宗家14代。官位は従五位下、長門守。子爵、貴族院議員、宮内省準奏御用掛を歴任。贈従四位。.

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平野長裕

平野長裕 平野 長裕(ひらの ながひろ、弘化2年11月2日(1845年11月30日)- 明治5年6月24日(1872年7月29日))は、大和田原本藩の初代かつ最後の藩主。平野長発の次男。母は松平直寛の娘。正室は山崎治正の娘徳子。官位は従五位下、内蔵助、遠江守。妹に万寿子(鷲尾隆聚室、池田徳潤室、戸田氏良室)。子に平野長祥、平野鑒吉、鷲尾花(鷲尾隆聚養女、三河産治夫人)。 幼名は亀松丸。次男だったが、長兄の平野亀丸が早世したため、跡を継いで5000石の旗本となる。幕末期においては佐幕派と尊王派の間を巧みに立ち回り、慶応4年(1868年)7月14日、新政府の計らいで実高に高直しされ1万石で大名に列し、ここに田原本藩を立藩した。 その後は明治天皇に拝謁して京都の警備を勤めた。また、明治2年(1869年)7月20日には藩知事となる。そして姫嶋無適を執政として藩政改革を断行したが、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官となった。翌年6月24日、東京で死去した。享年28。墓所は東京都港区高輪の泉岳寺。 なかひろ Category:幕末の旗本 Category:幕末の大名 Category:大和国の藩主 Category:日本の華族 Category:1845年生 Category:1872年没.

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平戸藩

平戸藩(ひらどはん)は、肥前国松浦郡と彼杵郡の一部、および壱岐国を領した藩。藩庁は平戸城(現在の長崎県平戸市)。.

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久世広業

久世 広業(くぜ ひろなり)は、下総関宿藩の第9代(最後)の藩主。関宿藩久世家9代。.

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久保田藩

『天保国絵図』より「出羽国秋田領」 久保田藩(くぼたはん)は、江戸時代の藩の一つである。秋田藩(あきたはん)とも呼ばれる「秋田市史 第四巻」7頁。。久保田城を居城とした。藩主は佐竹氏で、室町時代以来の常陸守護の家柄であったが、関ヶ原の戦いにおける挙動を咎められて出羽国(後の羽後国)秋田へ移封された。石高は約20万石(実高は約40万石)。家格は大広間詰国持大名。 支藩として、新田分知された家が2家有る他、2代義隆の実家亀田藩(岩城氏)が事実上の支藩となっていた時期もあった。.

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久留島通靖

久留島 通靖(くるしま みちやす、1851年6月13日(嘉永4年5月14日)- 1879年(明治12年)2月23日)は、豊後国森藩の第12代(最後)の藩主。 第11代藩主久留島通胤の長男。正室は黒田長元の四女・毛登子(離婚)。子に久留島通寛(みちひろ、児童文学者・久留島武彦の父)。官位は従五位下。伊予守。 安政7年(1860年)閏3月11日、父の死去により家督を継いだ。文久3年(1863年)12月26日、従五位下伊予守に叙任する。慶応2年(1866年)2月21日、藩主就任以来一度もお国入りをしていないため、幕府に帰藩を願う。同年5月19日、幕府から江戸警備を命じられる。同年12月23日、幕府はようやく帰藩を許可する。 幕末期において薩摩藩と密かに接近して尊王論に傾倒し、藩論を尊王論で取りまとめた。そして慶応3年(1867年)の大政奉還後の12月13日、入京して新政府側に与している。ちなみにこれは、豊後国内で唯一の行動である。慶応4年(1868年)、西国筋郡代窪田鎮勝が日田の西国筋郡代代官所を放棄するとこれを占拠し、のちに朝廷より岡藩とともに警備を任された。 明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により知藩事に就任する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で免官された。同年9月23日、東京に移住した。明治12年(1879年)2月23日、29歳で死去した。法号は舜岳院。 通靖の嫡男・通寛は病弱だったため、弟の通簡が家督を継いでいる。 みちやす *12 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1851年生 Category:1879年没.

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久留米藩

久留米藩(くるめはん)は、筑後国御井郡の久留米城(現在の福岡県久留米市)に藩庁を置いた藩。1620年以降幕末まで摂津有馬氏が藩主を務め、21万石を領した。 米藩(べいはん)とも称される。.

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久留里藩

久留里藩(くるりはん)は、上総国望陀郡久留里(現在の千葉県君津市久留里)に存在した藩。.

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久松勝行

松平 勝行(まつだいら かつゆき)または久松 勝行(ひさまつ かつゆき)は、下総多胡藩の第7代藩主。.

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久松勝慈

久松 勝慈(ひさまつ かつなり)は、下総多胡藩の第8代(最後)の藩主(知藩事)。 安政2年(1855年)4月20日、第7代藩主松平勝行の長男として生まれる。慶応4年(1868年)2月に父と共に姓を松平から久松に改める。明治2年(1869年)6月19日に従五位下・豊前守に叙位・任官する。8月に父が死去したため家督を継ぎ、多胡藩知事に任じられた。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で知藩事職を免ぜられる。 明治8年(1875年)の多古小学校創立に際し、旧藩庁を校舎として提供する。明治17年(1884年)の華族令で子爵となる。明治21年(1888年)6月、初代多古村長となる。明治37年(1904年)11月2日に死去した。享年50。.

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京極高厚

京極 高厚(きょうごく たかあつ)は、但馬豊岡藩の第9代(最後)の藩主。豊岡藩京極家11代。 文政12年(1829年)5月29日、第8代藩主京極高行の長男として江戸麹町邸で生まれる。弘化4年(1847年)、父の死去により家督を継ぎ、同時に従五位下、飛騨守に叙任する。嘉永2年(1849年)、駿府加番となり、嘉永4年(1851年)に大坂加番になった。 文久2年(1862年)、幕末の海防政策として、津居山港に御台場を築き、11インチ砲や10貫砲を備えた。文久3年(1863年)の生野の変では幕府方として活躍し、平野国臣や横田友次郎らを逮捕するという功績を挙げている。 明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により豊岡藩知事となる。明治3年(1870年)、藩校の稽古堂を女学校に改めて、藩士子女の教育化に努めた。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により藩知事を廃されて東京へ移った。明治17年(1884年)、華族令によって子爵となる。明治18年(1885年)に正五位に叙され、その後も従三位、勲四等に叙された。明治30年(1897年)7月、貴族院子爵議員に選出され、明治37年(1904年)7月まで在任した。 明治38年(1905年)12月27日、東京本所邸にて死去した。享年77。 俳人としても優れていたと言われている。.

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京極高典

京極 高典(きょうごく たかまさ、天保7年10月19日(1836年11月27日) - 明治39年(1906年)1月10日)は、日本の大名・華族。讃岐多度津藩の第6代(最後)の藩主。多度津藩京極家6代。 京極高宝(第5代藩主・京極高琢の庶弟)の次男。母は伊勢屋勘兵衛の娘。正室は幸(阿部正備の娘)、継室は鈺子(安藤信正の娘)。子は鈺子との間に梅子(坂本近敬のちに御牧現随妻)、京極高備(長男)、靏丸、竹三郎、富士高茂(富士重本養子)、恵三郎 、京極高頼(旧峰山藩主家、京極高致養子)。養子に京極寿吉(山崎治正六男治礼)。幼名は於菟之助。官位は従三位子爵、壱岐守、下総守、河内守。初名、高徳。.

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京極高陳

京極 高陳(きょうごく たかのぶ、天保9年(1838年)9月22日 - 明治26年(1893年)5月13日?)は、丹後峰山藩の第12代(最後)の藩主。幕臣500石で御小姓の京極高紀の次男。正室は笹田氏。官位は従五位下。備中守。通称は采女、右近。.

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京極朗徹

京極 朗徹(きょうごく あきゆき)は、讃岐丸亀藩の第7代(最後)の藩主。丸亀藩京極家9代。.

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庭瀬藩

庭瀬陣屋跡(石垣と堀) 庭瀬藩(にわせはん)は、備中国賀陽郡庭瀬村(岡山県岡山市北区庭瀬)に藩庁(庭瀬陣屋)を構えた藩である。庭瀬陣屋は旧庭瀬城二の丸を使用して築かれた。.

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人吉藩

人吉藩(ひとよしはん)は、肥後国南部の球磨(くま)地方を領有した藩。藩庁は人吉城(現在の熊本県人吉市)に置かれた。.

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府内藩

府内藩(ふないはん)は、豊後国大分郡府内周辺を支配した藩の一つ。藩庁は府内城(現在の大分県大分市)。.

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府藩県三治制

府藩県三治制(ふはんけんさんちせい)は、明治初年の地方行政制度。.

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二本松藩

二本松藩(にほんまつはん)は、陸奥国南部(岩代国)安達郡(現在の福島県二本松市郭内三丁目)に存在した藩。居城は二本松城(霞ヶ城)。.

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広島藩

広島藩(ひろしまはん)は、安芸国一国と備後国の半分を領有した大藩で、現在の広島県の概ね半分にあたる。藩庁は広島城(現在の広島市)に置かれた。芸州藩(または安芸藩)と呼ばれることも多い。.

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五島盛徳

五島 盛徳(ごとう もりのり)は、肥前福江藩の第11代(最後の)藩主。五島家第31代当主である。.

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庄内藩

庄内藩または荘内藩(しょうないはん)は、江戸時代の日本で、出羽国田川郡庄内(現在の山形県鶴岡市)を本拠地として、現在の庄内地方を知行した藩である。 譜代大名の酒井氏が一貫して統治した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を置おいた。支藩に大山藩・松山藩がある。.

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井上正巳

井上 正巳(いのうえ まさおと、安政3年1月5日(1856年2月10日)- 大正10年(1921年)9月14日)は、江戸時代の大名。常陸下妻藩の第14代(最後)の藩主、子爵。第13代藩主・井上正兼の次男。母は飯田氏。正室は戸田忠綱の娘。子は井上正国(長男)、井上正義(次男)、横田正頼(三男)、平田甫(四男)、娘(飯田某室)、娘(西尾勝順正室)。官位は従五位下、伊予守。幼名は辰次郎。辰若丸。.

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井上正直

井上 正直(いのうえ まさなお)は、江戸時代後期から明治時代の大名、老中。遠江浜松藩第2代藩主、上総鶴舞藩主、鶴舞藩知事。浜松藩井上家10代。.

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井上正順

井上 正順(いのうえ まさより)は、下総国高岡藩最後の(11代)藩主。子爵。 嘉永7年(1854年)7月21日、10代藩主・井上正和の長男として生まれる。慶応3年(1867年)3月28日、父の隠居により家督を継いだ。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に従う。同年5月8日、従五位下、宮内少輔に叙位・任官する。版籍奉還により高岡藩知事、廃藩置県で藩知事を免職となった。 明治8年(1875年)、警視庁15等を拝命し、翌9年(1876年)には警部補に昇進した。明治17年(1884年)の華族令で、同年7月8日、子爵に叙された。 明治37年(1904年)1月6日、死去。享年51。.

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井伊直安

井伊 直安(いい なおやす)は、越後与板藩の第10代(最後の)藩主。直勝系井伊家14代。.

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井伊直憲

井伊 直憲(いい なおのり)は、江戸時代末期の大名で、近江国彦根藩第16代(最後)の藩主(17代藩主、14代当主という数え方もある。参照:彦根藩)。明治維新後に華族(伯爵)となった。 安政の大獄で有名な大老・井伊直弼の二男。母は側室の西村氏・里和。幼名は愛麿。号は稲香軒。最初の妻は有栖川宮幟仁親王の王女・宜子女王。2番目の妻は鍋島直紀の娘。子は井伊直忠(二男)。孫に昭和28年(1953年)から36年間にわたって彦根市長を務めた井伊直愛がいる。.

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亀井茲監

亀井 茲監(かめい これみ)は、石見津和野藩の第11代(最後)の藩主。津和野藩亀井家12代。.

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亀田藩

亀田藩(かめだはん)は、出羽国(羽後国)由利郡亀田(現在の秋田県由利本荘市岩城亀田)の亀田城に政庁を置いた藩。藩主は岩城氏。.

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今尾藩

今尾藩(いまおはん)は、美濃国安八郡(現在の岐阜県海津市平田町今尾)に存在した藩。藩庁は今尾陣屋に置かれた。.

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今治藩

今治藩(いまばりはん)は、伊予国北中部と島嶼を領有した藩。藩庁は今治城(現在の愛媛県今治市)。.

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仁正寺藩

仁正寺藩(にしょうじはん)は、近江国蒲生郡仁正寺(現在の滋賀県蒲生郡日野町)に存在した藩。別名を西大路藩(にしおおじはん)とも言う。藩庁は仁正寺陣屋。.

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延岡藩

延岡藩(のべおかはん)は、日向国北部と現在の宮崎市の北部を領有した藩で、牧野氏以降明治維新までは豊後国等の一部をも領有した。また、有馬氏期までの延岡は縣(県)と称していたので縣(県)藩(あがたはん)とも呼ばれる。藩庁は縣城(延岡城)(宮崎県延岡市)。.

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建部政世

建部 政世(たけべ まさよ、安政元年12月10日(1855年1月27日) - 明治10年(1877年)6月16日)は、播磨国林田藩の第10代(最後の)藩主。 第9代藩主・建部政和の長男だが、祖父の第8代藩主・建部政醇の三男とされた。官位は従五位下、内匠頭。幼名は三二郎。 文久3年(1863年)4月18日、父政和の死去により、家督を継いだ。慶応3年(1867年)12月20日、上洛する。明治元年(1868年)1月15日、新政府から華頂宮博経親王などの警備を命じられる。また、戊辰戦争では新政府側に与して、姫路藩征伐に参加した。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還で藩知事に就任した。明治4年(1871年)8月18日、廃藩置県により免官となる。明治5年7月3日、叔父揆に家督を譲った。明治10年(1877年)6月16日、24歳で死去した。墓所は京都市北区紫野の大徳寺芳春院。 まさよ *10 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1855年生 Category:1877年没.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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仙台藩

仙台藩(せんだいはん)は、江戸時代に陸奥国の仙台城(現・宮城県仙台市)に藩庁を置いた、表高62万石の藩である。現在の岩手県南部から宮城県全域までと福島県新地町の約60万石を一円知行で治め、現在の茨城県および滋賀県に合計約2万石の飛び地があった。 江戸時代を通じて外様大名の伊達氏本家が治めた藩であり、伊達藩(だてはん)と呼ばれることもある。.

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仙石久利

仙石 久利(せんごく ひさとし)は、但馬出石藩の第7代藩主。出石藩仙石家10代。.

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仙石政固

仙石 政固(せんごく まさかた)は、但馬出石藩の第8代(最後の)知藩事。出石藩仙石家11代。.

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伊予松山藩

伊予松山藩(いよまつやまはん)は、江戸時代、伊予国温泉郡(現在の愛媛県松山市)を中心に久米郡・野間郡・伊予郡などを知行した藩。藩庁は松山城。 松山城大天守(国の史跡・重要文化財).

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伊勢崎藩

伊勢崎藩(いせさきはん)は、かつて上野国佐位郡(現:群馬県伊勢崎市曲輪町)を治めた藩。藩庁は伊勢崎陣屋に置かれた。.

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伊勢亀山藩

伊勢亀山藩(いせかめやまはん)は、伊勢国に存在した藩の一つ。藩庁は伊勢亀山城(三重県亀山市)。.

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伊達宗基

伊達 宗基(だて むねもと、1866年8月24日(慶応2年7月15日) - 1917年(大正6年)1月27日)は、陸奥国仙台藩の第14代藩主。藩主(大名)としては最後となる。伊達氏第30代当主。官位は仙台藩知事、従二位、伯爵。第13代藩主・伊達慶邦の四男。母は仙台藩士松岡静吉時良の娘、お勝の方。正室は松浦詮の娘。.

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伊達宗徳

伊達 宗徳(だて むねえ、文政13年閏3月27日(1830年5月19日) - 明治39年(1906年)11月29日)は、伊予国宇和島藩の第9代(最後)の藩主。華族令施行により伯爵、その後明治24年(1891年)4月23日に、養父伊達宗城の勲功により侯爵陞爵。.

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伊達宗敦

伊達 宗敦(だて むねあつ、1852年7月14日(嘉永5年5月27日) - 1911年(明治44年)1月6日)は、仙台藩知事(在任中の伊達氏の当主は30世14代伊達宗基のまま)で、13代仙台藩主・伊達慶邦の養嗣子(のち廃嫡)、男爵。伊予国宇和島藩主・伊達宗城の次男(五男とも)。正室は広幡基豊の娘、継室は松根三楽の娘。官位は左京大夫、侍従、正四位。.

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伊達宗敬

伊達 宗敬(だて むねよし)は、伊予吉田藩の第9代(最後)の藩主。.

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伊東祐帰

伊東 祐帰(いとう すけより)は、日向飫肥藩の第14代(最後の)藩主。飫肥藩知事。.

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伊東長とし

伊東 長(いとう ながとし、「とし」の表記は下記の特記事項参照)は、備中岡田藩の第10代(最後)の藩主。第8代藩主・伊東長寛の十五男・伊東長生の次男。 万延元年(1860年)12月18日、従兄で第9代藩主の長裕が死去したため、その養子となって家督を継いだ。文久元年(1861年)10月1日、将軍徳川家茂に拝謁した。同年12月16日、従五位下播磨守に叙任した。 慶応4年(1868年)1月23日、上洛し、新政府支持の姿勢を示す。戊辰戦争では岡山藩と共に新政府軍に与して、幕府軍に与した備中松山藩の討伐を担当する。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により岡田藩知事となる。明治4年(1871年)7月、廃藩置県により藩知事を免官となり、東京に移った。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。 明治33年(1900年)12月21日に死去した。享年57。.

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会津藩

若松城 会津藩(あいづはん)は、陸奥(後の岩代)会津郡を中心に現在の福島県西部と新潟県および栃木県の一部を治めた藩。藩庁は若松城(会津若松市)。最大版図は陸奥国北会津郡、耶麻郡、河沼郡、大沼郡及び越後国東蒲原郡、下野国塩谷郡の一部(三依村)。.

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伯太藩

伯太藩御殿跡 伯太藩屋敷跡 伯太藩(はかたはん)は、かつて和泉国大鳥郡・和泉郡などを領有した藩。藩庁は和泉郡伯太村(現在の大阪府和泉市伯太町)の伯太陣屋。藩主は譜代大名の渡辺氏。藩領は和泉国の他に河内国と近江国に点在した。 当初は藩庁所在地が異なり、大庭寺藩(おばでらはん)と称した。なお、本稿では前身の野本藩(のもとはん)についても述べる。.

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弘前藩

弘前藩の拠点であった弘前城 弘前藩(ひろさきはん)は、陸奥国にあった藩である。通称は津軽藩(つがるはん)。弘前改称以前を鷹岡藩(高岡藩)、鷹岡移転以前を堀越藩ともいう。藩主は津軽氏で、家格は柳間詰め外様大名、幕末に家格向上して大広間詰めもある国主に準ずる扱いを受けた。藩庁は 弘前城(青森県弘前市下白銀町)に置いた。.

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佐伯藩

佐伯藩(さいきはん佐伯藩の仮名表記については、『国史大辞典』第6巻(吉川弘文館、1985)135頁「佐伯藩」の項などに見える通り、大分県佐伯市の現行地名表記(大正5年(1916年)制定)と同様に「さいき」と表記するのが通例だが、『日本歴史大事典』第5巻(河出書房新社、1979)46頁「佐伯藩」の項のように、改編前の「さえき」表記を用いる例も見られる。)は、江戸時代に豊後海部郡に存在した藩の一つ。藩祖は毛利高政。藩庁は佐伯城(現在の大分県佐伯市)に置かれた。.

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佐倉藩

佐倉藩(さくらはん)は、下総国印旛郡佐倉に存在した藩である。藩庁は佐倉城(現在の千葉県佐倉市)。石高はおおむね11万石。.

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佐竹義堯

佐竹 義堯(さたけ よしたか)は、出羽岩崎藩の第7代藩主。後に出羽久保田藩第12代(最後)の藩主となった。.

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佐竹義理

佐竹 義理(さたけ よしただ(よしさとの説もある)、安政5年9月4日(1858年10月10日) - 大正3年(1914年)4月26日)は、出羽秋田新田藩(岩崎藩)の第9代(最後)の藩主。陸奥相馬中村藩主・相馬充胤の三男。正室は佐竹義堯の娘。幼名は常丸。子に佐竹義立、佐竹義種。 慶応2年(1866年)2月1日、秋田新田藩主佐竹義諶との養子縁組の話が持ち込まれる。同年2月5日、中村を出発、同年2月13日、江戸の中村藩邸に到着。同年3月2日、秋田新田藩主佐竹義諶の養子となる。佐竹義理は佐竹義諶の甥に当たる。同年3月28日、江戸の秋田新田藩邸に移る。戊辰戦争では養父義諶と行動を共にした。そのため、戦後に恩賞として2000両を与えられた。明治2年(1869年)5月25日、養父義諶の隠居により家督を継ぐ。同年6月に版籍奉還で知藩事となり、居館を岩崎村(湯沢市)に移して藩を岩崎藩と改めた。明治4年(1871年)、廃藩置県で免官された。 明治9年(1876年)9月、司法省から法学生徒を命じられた。明治10年1月、病気を理由に法学生徒を辞退する。明治17年(1884年)7月、子爵を授けられた。同年7月、学習院別則研修科を卒業。明治23年(1890年)7月、貴族院議員に選ばれた。また。国光生命保険会社社長となり、実業家として活躍した。大正3年(1914年)4月26日、57歳で死去。墓所は東京都板橋区小豆沢3丁目の総泉寺にある。.

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佐貫藩

佐貫藩(さぬきはん)は、江戸時代の上総国に存在した藩。藩庁は天羽郡佐貫(現在の千葉県富津市佐貫字城山)の佐貫城に置かれた。 徳川家康の関東入部時に内藤氏が佐貫を与えられて以降、幕府領となった時期を挟みつつ譜代大名が交代して治めた。1710年以降は阿部氏が藩主となり、廃藩置県を迎えている。.

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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佐野藩

佐野藩(さのはん)は、下野国に存在した藩。最初は佐野城(現:栃木県佐野市若松町)、再興後は佐野陣屋(現:同市植下町)に藩庁が置かれた。.

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彦根藩

近江彦根藩井伊家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 彦根藩邸址、京都市中京区木屋町 彦根藩(ひこねはん)は、近江国の北部を領有した藩。藩庁は彦根城(滋賀県彦根市)に置かれた(入封当初は佐和山城)。藩主は譜代大名筆頭の井伊氏。支藩として一時、彦根新田藩があった。.

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徳山藩

徳山藩(とくやまはん)は、江戸時代の藩。長州藩(萩藩)の支藩。当初の名称は下松藩(くだまつはん)。 藩庁は最初は周防国下松(現在の山口県下松市)、後に同国徳山(改称前は野上村。現在の山口県周南市)。藩庁の置かれた徳山陣屋(徳山城)は、飯野陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる。.

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徳島藩

徳島藩(とくしまはん)は、阿波国(徳島県)・淡路国(兵庫県淡路島)の2国を領有した藩。藩庁は徳島城(徳島県徳島市)に置かれた。藩主は外様大名の蜂須賀氏。支藩として一時、富田藩があった。.

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徳島新聞

徳島新聞(とくしましんぶん)は、徳島県の県域新聞。新聞社としては珍しく社団法人の一般社団法人徳島新聞社が発行している。.

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徳川家達

德川 家達(徳川 家達、とくがわ いえさと、1863年8月24日 - 1940年6月5日)は、徳川宗家の16代当主。もとは田安徳川家の7代当主で、静岡藩の初代藩主。幼名は亀之助といった。号は静岳。位階、勲等、爵位は従一位大勲位公爵。世間からは「十六代様」と呼ばれた。第4代から第8代までの貴族院議長、ワシントン軍縮会議全権大使、1940年東京オリンピックの組織委員会の委員長、第6代日本赤十字社社長、華族会館館長、学習院評議会議長、日米協会会長などを歴任した。大正期には組閣の大命も受けた(拝辞)。.

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徳川義宜

徳川 義宜(とくがわ よしのり、1858年7月4日(安政5年5月24日)- 1875年(明治8年)11月24日)は、江戸時代末期の大名。尾張国尾張藩の第16代藩主(藩主としては最後の人物)。.

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徳川茂承

徳川 茂承(とくがわ もちつぐ)は、幕末の大名。紀州藩第14代(最後)の藩主。紀州藩第8代藩主・徳川重倫の実弟で伊予国西条藩第6代藩主となった松平頼謙の曾孫。初名は松平 頼久(まつだいら よりひさ)。.

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徳川昭武

京都時代(1866年)の昭武 徳川昭武(1867年) ベルギーでの幕府使節団、中央左が昭武 徳川 昭武(とくがわ あきたけ)は、清水徳川家第6代当主、のち水戸藩第11代(最後)の藩主。 第9代水戸藩主・徳川斉昭の十八男で、第10代藩主・徳川慶篤、第15代将軍・徳川慶喜の異母弟にあたる。生母は側室・万里小路建房の六女・睦子(ちかこ)。 初名は松平 昭徳。字は子明。号は鑾山。諡号は節公。子は徳川武定など。正仁親王妃華子の曽祖父。.

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忍藩

忍藩(おしはん)は、武蔵国埼玉郡に存在した藩の一つ。藩庁は忍城(現在の埼玉県行田市本丸)に置かれた。.

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保科正益

保科 正益(ほしな まさあり)は、上総飯野藩の第10代(最後)の藩主。江戸幕府の幕末の若年寄。.

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信濃飯田藩

飯田藩(いいだはん、信濃飯田藩)は、信濃国伊那郡南部(現在の長野県飯田市追手町)に存在した藩。藩庁は飯田城に置かれた。.

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志筑藩

志筑藩(しづくはん)は、常陸国新治郡志筑(現在の茨城県かすみがうら市)周辺を知行した小藩。藩庁は志筑陣屋に置かれた。厳密には藩(大名領)として存在したのは明治維新後の短期間であり、それまでは江戸時代の全期を通じて旗本領であった。.

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土屋挙直

土屋 挙直(つちや しげなお)は、常陸土浦藩の第11代(最後)の藩主。水戸藩主徳川斉昭の子で、徳川慶喜の弟に当たる。 嘉永5年(1852年)9月19日、徳川斉昭の十七男として江戸小石川の水戸屋敷で生まれる。斉昭の従弟である土浦藩の第10代藩主土屋寅直の養子となり、慶応4年(1868年)5月6日の寅直の隠居により家督を継いだ。5月15日に従五位下・相模守に叙位・任官する。 明治2年(1869年)6月19日、版籍奉還により土浦藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で知藩事を免官された。その後、東京へ移り、内務省御用掛と勧農局事務取扱役を兼任し、下総牧羊場で勤務した。全ての職を辞任した後は、没落していく士族のために農地開発、開拓を積極的に推し進めたといわれる。 明治25年(1892年)10月24日に死去した。享年41。.

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土岐頼知

土岐 頼知(とき よりおき、嘉永元年(1848年) - 明治44年(1911年)10月4日)は、上野国沼田藩の第12代(最後)の藩主。沼田藩土岐家15代。.

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土井利与

土井 利与(どい としとも)は、下総古河藩の第7代(最後)の藩主。土井家宗家14代。.

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土井利恒

土井 利恒(どい としつね、嘉永元年7月19日(1848年8月17日) - 明治26年(1893年)3月29日)は、越前国大野藩の第8代(最後)の藩主。利房系土井家8代。第7代藩主・土井利忠の三男。正室は古河藩主土井利則の娘。子は土井利剛(長男)ほか。従五位上、能登守。明治に至って正四位、子爵。.

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土井利教

土井 利教(どい としのり)は、三河刈谷藩の第9代(最後)の藩主。刈谷藩土井家12代。.

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土佐藩

土佐藩(とさはん)は、廃藩置県以前に土佐国(現在の高知県)一円を領有した外様藩。明治初年の正称は高知藩(こうちはん)。藩庁は高知城(高知市)にあった。大広間詰国持大名。一貫して山内氏が支配した。 高知城 土佐藩邸跡 京都三条木屋町下ル 山之内氏が用いた家紋『土佐柏(とさかしわ)』 伏見土佐藩邸跡 京都市伏見区.

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土浦藩

土浦藩(つちうらはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は土浦城(現在の茨城県土浦市)。.

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土方雄志

土方 雄志(ひじかた かつゆき)は、伊勢菰野藩の第13代(最後)の藩主。.

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土方雄永

土方 雄永(ひじかた かつなが)は、伊勢菰野藩の第12代藩主。 嘉永4年(1851年)3月21日、第11代藩主・雄嘉の長男として生まれる。安政5年(1858年)10月19日、父の死去により、家督を継いだ。しかし、父同様に病弱の上、幼少であったため、大叔父の土方義行が引き続いて補佐した。幕末期、はじめ菰野藩は佐幕派、尊王派で分裂して争った。慶応4年(1868年)2月27日、上洛し、新政府の支持姿勢を明らかにした。その後、戊辰戦争では新政府の東征軍に協力している。 明治2年(1869年)6月23日の版籍奉還で藩知事となる。しかし病気のため、明治3年(1870年)9月17日、家督を養子の雄志に譲って隠居した。明治4年(1871年)10月15日、東京へ移る。 明治27年(1884年)5月10日に死去した。享年34。 かつなか *12 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1851年生 Category:1884年没.

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北条氏恭

北条 氏恭(ほうじょう うじゆき)は、河内狭山藩の第12代(最後)の藩主。.

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園部藩

園部藩(そのべはん)は、丹波国船井郡(現在の京都府南丹市園部町小桜町)に存在した藩。.

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刈谷藩

刈谷藩(かりやはん)は、三河国に存在した藩の一つ。江戸時代の名称は刈屋藩。藩庁は刈谷城(亀城。現在の愛知県刈谷市城町)に置かれた。.

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分部光謙

分部 光謙(わけべ みつのり)は、江戸時代末期の大名。近江国大溝藩12代(最後の)藩主(厳密には藩主は4日間でほとんどの治世期間は知藩事として)。分部家13代。維新後、知藩事・子爵。.

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分部光貞

分部 光貞(わけべ みつさだ)は、江戸時代後期の大名。近江国大溝藩11代藩主。分部家12代。維新後は藩知事。.

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喜連川藩

喜連川藩(きつれがわはん)は、関ヶ原の戦いの後に下野国塩谷郡喜連川(現在の栃木県さくら市喜連川)に立藩された藩。藩庁は喜連川陣屋。藩主は足利国朝(正室は古河公方・足利氏姫)を藩祖とする喜連川氏。喜連川氏は足利尊氏の次男・足利基氏の後裔であり、名族足利氏のなかで唯一明治維新まで大名格で存続した家である(分家を入れると細川氏も含まれる)。.

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備中松山藩

松山城御根小屋正門(現・岡山県立高梁高等学校) 備中松山藩(びっちゅうまつやまはん)は、備中国(岡山県)の一部を領有した藩。藩庁は松山城(高梁市)に置かれた。明治維新後に高梁藩(たかはしはん)と改名される。.

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備後福山藩

福山城再建天守 正保城絵図「備後国福山城図」 福山藩(ふくやまはん)は、主に備後国(広島県東部)南部、備中国南西部周辺を領有した藩。藩庁は福山城(福山市)。石高(表高)は10万石で、阿部家7代藩主阿部正弘から11万石。.

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唐津藩

唐津藩(からつはん)は、肥前国唐津を支配した藩。居城は唐津城(佐賀県唐津市)。.

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内田正学

内田 正学(うちだ まさのり / まさあきら)は、下総小見川藩の第10代(最後)の藩主。小見川藩内田家13代。明治時代の政治家・陸軍軍人、子爵。.

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内藤信美

内藤 信美(ないとう のぶとみ、安政4年7月12日(1857年8月31日)- 大正14年(1925年)1月20日)は、越後村上藩の第9代(最後)の藩主。和泉岸和田藩主・岡部長寛の長男。正室は深溝松平忠精の娘珓子。官位は従五位下。豊前守。正三位。幼名は小三郎。初名は岡部長美(おかべ ながとみ)。 慶応4年(1868年)7月11日に先代藩主の内藤信民が自害すると、村上藩は大混乱となり、8月11日には村上城も新政府軍によって落城した。それでも信民の遺志を継いだ家老の鳥居和祚が抗戦したが、鳥居も9月末には降伏した。その後、第7代藩主であった内藤信思は長美を養嗣子として「内藤信美」と名乗らせ、明治2年(1869年)2月3日に信民の跡を継がせた。 明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により藩知事となる。藩内で版籍奉還への反発が強く、藩知事就任が遅れた。同年6月28日、従五位下豊前守に叙任する。同年11月9日、戊辰戦争の影響が収まらず、藩内の対立は続き、信思を政務の補佐に迎える。明治3年(1870年)6月9日、藩内の対立により、政府に進退伺を提出する。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県により罷免されて、東京に移った。明治12年(1879年)10月、隠居して彼の長女と結婚した婿養子に家督を譲った。その後、内藤家を去って岡部家に戻ったという。そのため信美の子孫は岡部姓に戻ったという。 大正14年(1925年)正月20日、69歳で死去した。墓所は東京都渋谷区広尾の東北寺。 のふとみ Category:岡部氏 Category:村上藩主 Category:譜代大名 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:岸和田藩の人物 Category:1857年生 Category:1925年没.

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内藤頼直

内藤 頼直(ないとう よりなお)は、幕末の大名。信濃高遠藩の第8代(最後)の藩主。高遠藩内藤家13代。.

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内藤正誠

内藤 正誠(ないとう まさのぶ)は、江戸時代後期(幕末)の大名。信濃岩村田藩の第7代で最後の藩主。岩村田藩内藤家8代。 弘化2年(1845年)9月10日、第6代藩主・内藤正縄の長男で岩村田藩の嫡子だった正義の長男として生まれる。父正義が家督を継ぐことなく死去したため、代わって嫡子となった。万延元年(1860年)閏3月25日、祖父正縄の死去により、家督を相続する。また、雁間詰めを命じられる。同年4月15日将軍徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下志摩守に叙任する。文久元年(1861年)4月13日、日光祭礼奉行を命じられる。同年8月20日、奏者番に就任する。文久2年(1862年)閏8月23日、文久の改革により奏者番が廃止され、職を辞する。ちなみに、同年に老中を罷免された磐城平藩主安藤信正は正誠の母方の伯父であるが、正誠は信正の娘を正室としており、正誠の弟安藤信勇は安藤家に養子入りして最後の磐城平藩主となっている。 元治元年(1864年)2月16日、幕領である御影陣屋の警備を命じられる。同年7月28日、奏者番に再任される。慶応元年(1865年)4月13日、長州征討にともない、先鋒総督に従って出陣することを命じられる。同年8月7日、大坂警備を命じられる。慶応3年(1867年)10月29日、寺社奉行の兼任を命じられる。慶応4年(1868年)2月26日、奏者番兼寺社奉行を辞任する。 慶応4年(1868年)2月15日、病気を理由に老臣を上洛させる。同年3月5日、長く江戸に留まり、恭順という立場をはっきりしなかったことを理由に明治新政府から謹慎を命じられる。そのため、今後は新政府軍に協力し、藩兵を出すことを願い出る。以降、新政府軍に与して北越戦争などに出兵した。同年3月18日、謹慎を解かれる。同年9月14日、上洛した。同年9月16日、明治天皇に拝謁する。明治2年(1869年)6月2日、新政府から慰労金2000両を賜る。 明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還で岩村田藩知事となる。明治4年(1871年)7月13日、廃藩置県にともない藩知事を免職された。明治10年(1877年)6月、経済的に行きづまり、身代限りとなる。同年10月、隠居し、養子の正愨に家督を譲った。明治13年(1880年)8月25日に死去した。享年36。 なお、正愨は土佐新田藩主・山内豊誠の次男で、明治17年(1884年)に子爵となった。本来なら土佐新田藩山内家の当主となるはずだったが、男子のなかった正誠の養子となり、正誠の娘・鋠と結婚して内藤家を継いだ。このため、土佐新田藩山内家の家督は豊誠の三男・豊英が継いだ。 *07 Category:江戸幕府寺社奉行 Category:幕末幕府の人物 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 まさのふ Category:1845年生 Category:1880年没.

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内藤文成

内藤 文成(ないとう ふみしげ)は、三河挙母藩の第7代(最後)の藩主。挙母藩内藤家11代。.

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内藤政挙

内藤 政挙(ないとう まさたか)日向延岡藩の第8代(最後)の藩主。延岡藩内藤家宗家13代。.

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内藤政憲

内藤 政憲(ないとう まさのり)は、江戸時代の大名。陸奥湯長谷藩の第14代(最後)の藩主。.

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出石藩

出石藩(いずしはん)は、但馬国に存在した藩。藩庁は出石城(兵庫県豊岡市出石町)。 出石城本丸から城下町を俯.

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六郷政鑑

六郷 政鑑(ろくごう まさかね/まさあきら)は、江戸時代末期の大名。出羽国本荘藩11代(最後の)藩主。維新後、知藩事・子爵。.

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六浦藩

米倉宗家の家紋「隅切り花菱」 六浦藩(むつうらはん)は、武蔵国にかつてあった藩。久良岐郡の一部(現在の神奈川県横浜市金沢区)、相模国大住郡の一部(現在の神奈川県平塚市・秦野市)などが含まれる。現在の横浜市内にあった唯一の藩である。.

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前田利同

前田 利同(まえだ としあつ)は、越中富山藩の第13代(最後)の藩主。のち伯爵。.

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前田利鬯

前田 利鬯(まえだ としか)は、加賀大聖寺藩の第14代(最後)の藩主。.

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前田利豁

前田 利豁(まえだ としあきら)は、上野七日市藩の第11代藩主。七日市藩前田家11代。.

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前田利昭

前田 利昭(まえだ としあき)は、上野七日市藩の第12代(最後)の藩主。七日市藩前田家12代。子爵。.

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前田慶寧

前田 慶寧(まえだ よしやす)は、加賀藩の第13代(最後)の藩主、のち加賀藩知事。加賀前田家14代。第12代藩主前田斉泰の長男。.

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前橋藩

前橋藩(まえばしはん)は、上野国群馬郡厩橋(現在の群馬県前橋市)に置かれた藩。はじめ厩橋藩(うまやばし/まやばし はん)といい、藩庁は厩橋城に置かれた。後に酒井家第5代藩主・酒井忠挙の時代に地名・藩名・城名を一括して前橋・前橋藩・前橋城と改めた。.

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犬山藩

山藩(いぬやまはん)は、尾張国に存在した藩(ただし、藩と正式に認められて立藩したのは慶応4年(1868年)1月の新政府の計らいによるものであり、江戸幕府の幕藩体制のもとでは、藩として認められていなかった)。居城は犬山城(白帝城)であり、現在の愛知県犬山市犬山北古券を支配した。.

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矢島藩

島藩(やしまはん)は、江戸時代初期、および明治時代初期の藩の一つ。羽後国(旧出羽国)由利郡矢島(現在の秋田県由利本荘市矢島町)の矢島陣屋(別称:八森陣屋)に政庁を置いた。藩主は生駒氏。.

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石川総管

石川 総管(いしかわ ふさかね)は、常陸下館藩の第9代(最後)の藩主。伊勢亀山藩石川家支藩11代。.

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石川成之

石川 成之(いしかわ なりゆき / しげゆき)は、伊勢亀山藩の第11代(最後)の藩主。伊勢亀山藩石川家16代。.

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磐城平藩

城平藩(いわきたいらはん)は、江戸時代に旧陸奥国の菊多郡から楢葉郡まで(現在の福島県浜通り南部)を治めた藩である。藩庁は磐城平城(いわき市平)。.

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神戸藩

戸藩(かんべはん)は伊勢国河曲郡周辺を領有した藩。藩庁は神戸城(三重県鈴鹿市神戸)。.

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福岡藩

福岡藩(ふくおかはん)は、筑前国のほぼ全域を領有した大藩。筑前藩とも呼ばれる。藩主が黒田氏であったことから黒田藩という俗称もある。藩庁は福岡城(現在の福岡県福岡市)に置かれた。歴代藩主は外様大名の黒田氏。支藩として秋月藩、また一時、東蓮寺藩(直方藩)があった。 福岡藩領域図(慶長期).

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福井藩

松平忠昌上屋敷(龍ノ口屋敷)模型 福井城(現在は福井県庁) 福井藩(ふくいはん)は、越前国にあって現在の福井県嶺北中心部を治めた藩。藩庁は福井城(福井市)。藩主は越前松平家(福井藩主家)。家格は親藩・御家門で、32万石。越前藩(えちぜんはん)とも呼ばれる。また、北の庄(北ノ荘)という地名が「福井(福居)」と改称される以前の、つまり第3代忠昌以前の結城(松平)秀康・忠直時代を故に北ノ荘藩(きたのしょうはん)と称することがある。.

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福知山藩

福知山藩(ふくちやまはん)は、丹波国天田郡(現在の京都府福知山市内記)に存在した藩。居城は福知山城。.

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福江藩

福江藩(ふくえはん)は、江戸時代の肥前国において、五島列島全域を治めた藩。五島藩(ごとうはん)とも呼ばれる。藩の成立から版籍奉還まで外様大名の五島氏が藩主を務めた。石高は1万5000余石(一時、富江領に3000石を分知し1万2000余石となる)で、藩庁は石田城(当初は江川城。現在の長崎県五島市)で城主大名だった。.

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福本藩

福本陣屋跡の回遊式庭園遺構 福本藩(ふくもとはん)は、播磨国神東郡の福本陣屋(現在の兵庫県神崎郡神河町福本)に藩庁を置いた藩。ただし、藩(大名の所領)であったのは江戸時代初期および明治維新期のごく短期間であり、その間は交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)池田家の知行地であった。 鳥取藩に預けられた池田輝澄を祖に持つ経緯から、鳥取藩との関係が強く、その支藩的立場であった。1870年、鳥取藩に吸収された。.

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秋元礼朝

秋元 礼朝(あきもと ひろとも)は、江戸時代末期(幕末)の大名。上野館林藩の第2代(最後)の藩主。館林藩秋元家11代。.

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秋田映季

秋田 映季(あきた あきすえ)は、江戸時代末期から明治時代の大名、政治家。陸奥三春藩の第11代(最後の)藩主。秋田家第13代当主。.

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秋月種殷

秋月 種殷(あきづき たねとみ)は、幕末期の大名。日向国高鍋藩第10代(最後)の藩主。第9代藩主・秋月種任の長男。 天保14年(1843年)8月21日、父・種任から家督を譲られて当主となる。治世は30年に及び、教育の振興に尽力した。 明治2年(1869年)の版籍奉還後は高鍋知藩事となり、明治7年(1874年)に廃藩置県が行われて高鍋藩は終焉を迎える。男子がなかったため、弟の種樹を養子とした。明治7年(1874年)、58歳で没した。 たねとみ *10 Category:幕末の大名 Category:幕末高鍋藩の人物 Category:日本の華族 Category:1817年生 Category:1874年没.

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稲垣太祥

垣 太祥(いながき もとよし、安政6年6月11日(1859年7月10日)- 昭和7年(1932年)1月27日)は、近江山上藩の第9代(最後)の藩主、子爵。第8代藩主稲垣太清の長男。正室は藤波教忠の娘。継室は渡辺潔綱の娘。子は稲垣重厚(長男)。通称は藤五郎。名は太良とも。日本画を滝和亭に師事し、号は蘭圃。.

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稲垣長敬

垣 長敬(いながき ながひろ)は、志摩鳥羽藩の第8代(最後)の藩主。明治維新後は子爵。鳥羽藩稲垣家12代。.

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稲葉久通

葉 久通(いなば ひさみち)は、豊後国臼杵藩の第15代(最後の)藩主。 旗本・岡野知英の五男。母は山内容堂(豊信)の娘と言われている(養母との説もある)。.

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稲葉正善

葉 正善(いなば まさよし、嘉永元年6月28日(1848年7月28日) - 明治35年(1902年)3月19日)は、江戸時代末期の大名。安房国館山藩第5代(最後)の藩主。館山藩知事。館山県知事。子爵。正室は中川久昭の娘。官位は従五位下、備後守。.

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稲葉正邦

葉 正邦(いなば まさくに)は、幕末の大名・老中・京都所司代で、山城淀藩12代目(最後)の藩主。正成系稲葉家宗家16代。.

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竹腰正旧

竹腰 正旧(たけのこし まさもと、旧字体:正舊、嘉永4年2月2日(1851年3月4日) - 明治43年(1910年)8月22日)は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第10代当主で初代藩主。 三河国田原藩主三宅康直の四男。正室は中勘弥の養女。長男が竹腰正己。官位は従五位下、伊予守。.

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立花種恭

立花 種恭(たちばな たねゆき、1836年 - 1905年)は幕末の大名。陸奥下手渡藩の第3代藩主、のち筑後三池藩藩主として廃藩を迎えた。 称は鐘之助(しょうのすけ)、官位は出雲守、廉斎(れんさい)と号した。 明治時代に子爵を授爵する。貴族院議員。.

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立花鑑寛

立花 鑑寛(たちばな あきとも)は、筑後柳河藩の第12代(公式第11代、最後の)藩主。 第8代藩主・立花鑑寿の次男である一門家立花右京家の立花寿俶の子。母は立花通厚(7代藩主・立花鑑通の三男)の娘。正室は徳川斉匡の娘・純子(松齢院)。側室が多数いる。子に立花鑑良(長男)、立花寛治(次男)、立花寛正(三男)、立花寛篤(四男)ら。.

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笠間藩

間藩(かさまはん)は、江戸時代に常陸国茨城郡笠間(現在の茨城県笠間市)に存在した藩。藩庁は笠間城。.

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篠山藩

再建された篠山城篠山藩(ささやまはん)は、丹波国(現在の兵庫県篠山市北新町城内)に存在した藩。藩庁は篠山城。.

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米倉昌言

米倉 昌言(よねくら まさこと)は、江戸時代後期の大名。武蔵国六浦藩8代(最後の)藩主。維新後、六浦知藩事。子爵。六浦藩米倉家11代。.

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米沢藩

戦国時代から江戸時代初期にかけての上杉氏系図。米沢藩の初代藩主・上杉景勝から第3代藩主・上杉綱勝まで。 江戸時代中期から昭和時代までの上杉氏系図。4代藩主・上杉綱憲から現当主まで。 米沢藩(よねざわはん)は、出羽国(明治維新以降の羽前国)置賜郡(現在の山形県東南部置賜地方)を治めた藩。藩庁は米沢城(米沢市)。藩主は上杉氏。家格は外様で国主、石高は30万石、のち15万石から18万7千石。.

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米津政敏

米津 政敏(よねきつ まさとし)は、江戸時代後期の大名。出羽国長瀞藩5代藩主。上総国大網藩知藩事、常陸国龍ヶ崎藩知藩事。子爵。.

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糸魚川藩

糸魚川藩(いといがわはん)は、越後国(現在の新潟県糸魚川市)に存在した藩。糸魚川陣屋に藩庁が置かれた。別称として清崎藩(きよさきはん)。.

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細川韶邦

細川 韶邦(ほそかわ よしくに)は、幕末の大名。肥後国熊本藩の第11代藩主。熊本藩細川家12代。 第10代藩主・細川斉護の次男。母は比企氏。兄に細川慶前、弟に細川護久、津軽承昭、長岡護美。正室は一条忠香の養女(三条実万の娘)。官位は正四位、越中守、左中将。幼名は訓三郎、六之助。初め父・斉護の偏諱を取って護順(もりゆき)、のち藩主就任時に兄・慶前と同じく第12代将軍・徳川家慶から偏諱を授与されて慶順(よしゆき)と名乗る。.

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細川護久

細川 護久(ほそかわ もりひさ)は、肥後熊本藩の第12代(最後の)藩主(藩知事)。熊本藩細川家13代。.

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細川興貫

細川 興貫(ほそかわ おきつら)は、常陸谷田部藩の第9代藩主。後に下野茂木藩主となる。.

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紀州藩

紀伊和歌山藩徳川家屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 和歌山城 紀州藩(きしゅうはん)は、江戸時代に紀伊国一国と伊勢国の南部(現在の和歌山県と三重県南部)を治めた藩。紀伊藩(きいはん)とも呼ばれる。 版籍奉還後に定められた正式名称は和歌山藩(わかやまはん)。藩庁は和歌山城(和歌山県和歌山市)。藩主は紀州徳川家。紀州家は徳川御三家の一つで、石高は55万5千石。紀伊一国37万石のほか、伊勢国内の17万9千石を統括するために松坂城に城代を置いた。その他、大和国に約1千石の所領があった(石高には御附家老の水野家新宮領と安藤家田辺領を含む)。.

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紀伊田辺藩

紀伊田辺藩(きいたなべはん)は、紀州徳川家の御付家老だった安藤氏が治めた藩。代々紀州藩主を補佐し、紀伊国に3万8千石の所領を与えられたが、紀州徳川家の家臣であることから徳川将軍家の陪臣となり、江戸時代を通じて独立した藩としては扱われなかった。藩主が諸侯に列し正式に藩として認められたのは明治維新後のことである。.

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紀伊新宮藩

新宮藩(しんぐうはん)は、現在の和歌山県新宮市(紀伊国)を治めた藩。ただし、藩として正式に立藩されたのは明治元年(1868年)のことである。藩庁は新宮城(和歌山県新宮市)。藩主は紀州藩の御附家老だった水野家で、石高は3万5千石。.

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綾部藩

綾部藩(あやべはん)は、丹波国(現在の京都府綾部市青野町、または同本宮町)に存在した藩。藩庁は綾部陣屋に置かれた。.

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織田寿重丸

織田 寿重丸(おだ すえまる)は、出羽国天童藩の第4代藩主。第2代藩主・織田信学の6男。.

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織田信及

織田 信及(おだ のぶひろ(のぶつぐ)、天保14年(1843年) - 明治22年(1889年)8月2日)は、日本の華族。大和柳本藩の第13代(最後)の藩主。尚長流織田家13代。 第11代藩主・織田信陽の十男。正室は片桐貞信の八女謙子。子は長男信愛、次男織田秀実など3男2女。通称は元丸、修理。初名は長依。官位は従五位下大和守。.

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織田信親

織田 信親(おだ のぶちか)は、丹波柏原藩第10代藩主、柏原藩知事。高長系織田家13代。爵位は子爵。.

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織田信敏

織田 信敏(おだ のぶとし)は、出羽天童藩の第3代藩主、のち藩知事。第2代藩主・織田信学の四男。正室は松前崇広の娘・増子(のち離婚)。子は次女・栄子(織田信恒妻)など。養子は寿重丸(信学の六男)、信恒(相馬誠胤の長男)がある。幼名は富久之助。官位は従五位下兵部大輔。後に従三位。爵位は子爵。.

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織田長易

織田 長易(おだ ながやす、文政7年(1824年) - 明治6年(1873年)1月31日)は、大和国芝村藩第11代藩主。長政流織田家11代。 美濃国苗木藩主遠山友寿の五男。正室は織田長恭の長女勝子。子は織田長猷(長男)、渡会易簡(次男、渡会喬久養子)、織田長純(三男、兄長猷養子)、遠山友悌(四男、遠山友禄養子)、織田長表(六男)、次女鈴子(内藤政挙継室)ら8男2女。初名は友祝。通称は主水、弾正。官位は従五位下豊前守、摂津守。.

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美作勝山藩

勝山藩(かつやまはん)は、美作国真島郡勝山(岡山県真庭市勝山)に拠点を置いた藩。藩庁は勝山城に置かれた。高田藩(たかだはん、たかたはん)、美作高田藩(みまさか たかだはん、みまさか たかたはん)とも称される。藩主家は三浦氏。.

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美作国

美作国(みまさかのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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真田幸民

真田 幸民(さなだ ゆきもと、嘉永3年4月17日(1850年5月28日)- 明治36年(1903年)9月8日)は、信濃松代藩の第10代(最後)の藩主。 伊予宇和島藩主・伊達宗城の長男。正室は大村純熈の次女・隆子(利宇・真隆院)。継室は伊東祐相の娘・宏子、島津久光の養女(竹内治則の娘)・輯子(おさこ、真浄院)。官位は従二位、信濃守。子は真田幸正(長男)、真田幸久(次男)、清棲幸保(三男)、松子(島津忠麿正室)、田鶴子(大村純英正室)、信子(藤堂高紹正室)など。.

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県令

令(けんれい)は、.

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烏山藩

烏山藩(からすやまはん)は、下野国那須郡烏山(現在の栃木県那須烏山市城山)に存在した藩。藩庁は烏山城に置かれた。また、大久保家が藩主となった享保年間以降は相模国の鎌倉郡・高座郡・大住郡・愛甲郡の一部も支配し、愛甲郡厚木町(現神奈川県厚木市)に厚木役所(厚木陣屋)を置き、相模国内支配の拠点とした。.

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結城藩

結城藩(ゆうきはん)は、江戸時代の藩の一つで、下総国結城(現在の茨城県結城市)にある結城城を本拠とした。.

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生実藩

生実藩(おゆみはん)は、下総国千葉郡(現在の千葉県千葉市中央区生実町および同市緑区おゆみ野)に存在した藩。藩庁は生実陣屋に置かれた。房総の諸藩のうちで、転封がなかった数少ない藩の一つである。.

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生駒親敬

生駒 親敬(いこま ちかゆき)は、幕末の交代寄合旗本、明治初期の大名、出羽矢島藩主。.

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田原藩

原藩(たはらはん)は、三河国田原(現在の愛知県東部・渥美半島)にあった譜代大名の藩である。本拠は室町時代末期に築かれた田原城。.

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田原本藩

原本藩(たわらもとはん)は、大和国十市郡田原本(現在の奈良県磯城郡田原本町田原本)の田原本陣屋に藩庁を置いた藩。ただし、正式に藩(大名の所領)であったのは明治維新期のごく短期間であり、江戸時代を通じては交代寄合(参勤交代を行う格式の旗本)平野家の知行地であった。平野氏は鎌倉幕府の執権北条氏の庶流の子孫という。.

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田村崇顕

村 崇顕(たむら たかあき)は、江戸時代から明治時代の大名・華族(子爵)。陸奥一関藩第11代藩主。.

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田沼意尊

沼 意尊(たぬま おきたか)は、幕末の江戸幕府の若年寄。遠江相良藩主、上総小久保藩初代藩主。相良藩田沼家8代。曾祖父は田沼意次。.

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田沼意斉

沼 意斉(たぬま おきなり)は、上総小久保藩の第2代(最後)の藩主。相良藩田沼家9代。.

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熊本藩

本藩(くまもとはん)は、1600年から1871年まで存在した藩。52万石。1871年肥後国(熊本県)の球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国(大分県)の一部(鶴崎・佐賀関等)を知行した。肥後藩(ひごはん)とも呼ばれる。藩庁は熊本城(熊本市)に置かれた。.

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牧野康済

牧野 康済(まきの やすまさ)は、信濃小諸藩の第10代(最後)の藩主。越後長岡藩分家牧野家12代。別名康民。.

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牧野弼成

牧野 弼成(まきの すけしげ)は、丹後田辺藩の第10代(最後)の藩主。丹後田辺藩牧野家11代。.

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牧野忠毅

牧野 忠毅(まきの ただかつ)は、越後長岡藩の第13代(最後)の藩主。長岡藩系牧野家宗家14代。.

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牧野忠泰

牧野 忠泰(まきの ただひろ)は、越後三根山藩(嶺岡藩)主。.

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牧野貞寧

牧野 貞寧(まきの さだやす)は、常陸笠間藩の第9代(最後)の藩主。成貞系牧野家12代。.

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版籍奉還

籍奉還(はんせきほうかん)は明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された。.

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片桐貞篤

片桐 貞篤(かたぎり さだあつ、天保12年9月19日(1841年11月2日) - 明治16年(1883年)6月26日)は、大和小泉藩の第12代(最後)の藩主。 松平頼功(常陸府中藩主・松平頼縄の弟)の長男。正室は第8代藩主・片桐貞信の娘、継室は栗原某の娘。子は貞健(長男)。官位は従五位下。主膳正。弟に越前福井藩家老となった本多副元がいる。 文久2年(1862年)、先代藩主の貞利が死去したために、貞信の娘の入婿となって家督を継いだ。このとき、貞篤は貞利の養嗣子になったとも、先々代の貞照の養子として跡を継いだとも言われている。幕末期の動乱の中では天誅組の変鎮圧などで功を挙げた。明治元年(1868年)、戊辰戦争では新政府側に与して京都の守備を担った。 明治2年(1869年)の版籍奉還で小泉藩知事となる。明治16年(1883年)、43歳で死去した。 さたあつ さたあつ *12 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1841年生 Category:1883年没.

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牛久藩

牛久藩(うしくはん)は、常陸国河内郡に存在した藩。藩庁は牛久陣屋(現在の茨城県牛久市)。.

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狭山藩

狭山藩(さやまはん)は、河内国に存在した藩。藩主家は外様大名の後北条氏(北條氏)。藩庁として丹南郡池尻村および半田村(現・大阪府大阪狭山市狭山)に狭山陣屋を構えた。.

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相馬中村藩

中村藩(そうまなかむらはん)は、江戸時代の日本で、旧陸奥国の標葉郡から宇多郡まで(現在の福島県浜通り北部)を治めた藩である。藩主の姓から相馬藩(そうまはん)、本拠地名から中村藩(なかむらはん)とも呼ばれるが、外の「中村藩」と区別する際には「相馬中村藩」や「陸奥中村藩」という。 藩政府は中村城(相馬市、旧中村町)であった。藩主は一貫して相馬氏で、家格は柳間詰め外様大名、後に帝鑑間詰め譜代大名に列せられる。.

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相馬誠胤

誠胤(そうま ともたね、嘉永5年8月5日(1852年9月18日) - 明治25年(1892年)2月22日)は、幕末の大名。陸奥中村藩の末代(第13代)藩主。相馬氏第29代当主。前藩主・相馬充胤の次男。初名は季胤(すえたね)。通称は吉次郎、吉太郎。官位は従五位下因幡守。明治に入り、贈正四位子爵。.

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相良頼基

良 頼基(さがら よりもと)は、肥後人吉藩の第15代(最後の)藩主。.

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盛岡藩

盛岡藩(もりおかはん)は、陸奥国北部(明治以降の陸中国および陸奥国東部)、すなわち現在の岩手県中部から青森県東部にかけての地域を治めた藩。一般に南部藩とも呼ばれるが、後に八戸藩と七戸藩が分かれるなどの変遷を経る。藩主は南部氏で、居城は盛岡城(陸中国岩手郡、現在の岩手県盛岡市)である。家格は外様大名で、石高は長らく表高10万石であったが、内高はこれより大きく、幕末に表高20万石に高直しされた。 同じ南部氏領の八戸藩、支藩の七戸藩(盛岡新田藩)があるが、八戸藩の詳細を除き、ここにまとめて記述する。.

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芝村藩

芝村藩(しばむらはん)は、大和国式上郡芝村(現在の奈良県桜井市芝)に存在した藩。もとは戒重村(現在の奈良県桜井市戒重)に芝村陣屋を構えていたため、戒重藩(かいじゅうはん)とも呼ばれるが、第7代藩主・織田輔宜の代に移転した。.

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花房藩

花房藩(はなぶさはん)は、明治維新期の短期間、安房国・上総国に領地を有した藩。1868年に遠江横須賀藩の西尾家が3万5000石で移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。仮藩庁を安房国長狭郡横渚(よこすか)村(現在の鴨川市横渚)に置き、同郡花房村(現在の鴨川市花房)に築城を開始したが、間もなく廃藩となった。.

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遠山友禄

遠山 友禄(とおやま ともよし、文政2年9月2日〈1819年10月20日〉 - 明治27年〈1894年〉4月4日)は、美濃苗木藩の第12代(最後)の藩主。 第11代藩主・遠山友寿の三男。母は於由賀。正室は島津忠徹の娘・美子。子は遠山友享(長男)、荻原某(次男)、娘(遠山友悌正室)。養子に遠山友悌(弟大和芝村藩第11代藩主織田長易の四男)。官位は従五位下。刑部少輔、豊前守、信濃守、美濃守。初名は遠山友詳(ともあき)。.

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遠藤胤城

遠藤 胤城(えんどう たねき、天保9年6月5日(1838年7月25日)- 明治42年(1909年)11月9日)は、近江三上藩の第6代藩主、和泉吉見藩主、三上藩遠藤家11代。明治11年(1878年)正月、遠藤氏の旧姓である東氏(とうし)を名乗った『平成新修旧華族家系大成』下巻、135-136頁。。第5代藩主・遠藤胤統の三男。母は小谷氏。正室は堀親寚六女・教子。子に東胤禄(長男)、東常任(次男)、娘・鍈子(酒井忠宝正室)、娘・富貴子(居初富三郎室)、娘・昭子(山田軍太郎室)。官位は従五位下、美濃守、備前守、但馬守。死後に正三位。.

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荻野山中藩

荻野山中藩(おぎのやまなかはん)は、相模国愛甲郡(現在の神奈川県厚木市中荻野)に存在した藩。藩庁は荻野山中陣屋に置かれた。.

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鍋島直大

鍋島 直大(なべしま なおひろ)は、幕末期の大名。肥前国佐賀藩第11代(最後の)藩主。明治・大正時代の政府高官。侯爵。 佐賀藩第10代藩主・鍋島斉正(直正)の長男。初名は直縄(なおただ)で、明治維新以前(藩主在任中)は将軍徳川家茂の偏諱を冠し茂実(もちざね)と名乗っていた。.

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鍋島直彬

鍋島 直彬(なべしま なおよし)は、肥前鹿島藩の第13代(最後の)藩主。佐賀藩主・鍋島直正(閑叟)の甥。.

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鍋島直紀

鍋島 直紀(なべしま なおただ)は、肥前蓮池藩の第9代(最後の)藩主。.

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鍋島直虎

鍋島 直虎(なべしま なおとら、安政3年2月9日(1856年3月15日)- 大正14年(1925年)10月30日)は、肥前小城藩の第11代(最後の)藩主。明治時代から大正時代にかけての政治家。 肥前佐賀藩主・鍋島直正の七男。母は側室・木村矩欽の娘。正室は第10代小城藩主鍋島直亮の娘・春子、継室は南部利剛の娘。子は鍋島直庸(長男)、鍋島直顕(次男)、娘(本多忠昭正室)、娘(毛利元良室)。官位は従二位、紀伊守、子爵。幼名は欽八郎。 先代藩主の直亮に男児が無かったため、文久元年(1861年)9月にその婿養子となる。元治元年(1864年)、直亮の死去により跡を継いだ。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府軍に与して秋田の戦いなどで武功を挙げ、その恩賞として明治2年(1869年)8月に5000両を与えられた。それより2か月前の6月には版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されている。 明治6年(1873年)7月、明治政府からイギリス留学を許可される。同年8月、実兄・鍋島直大や実弟・鍋島直柔と共にロンドンへ遊学する。明治8年6月、2年間の留学予定であったものの、1年の延長を願い出ている。帰国後に外務省御用掛となった。 明治17年(1884年)7月8日、子爵を叙爵した。明治23年(1890年)7月、貴族院議員に当選した。5期連続で当選した。大正14年(1925年)10月30日に死去した。享年70。法号は威徳院殿全機直雄大居士。墓所は佐賀県小城市鷺原の祥光山星巌寺。.

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菊間藩

菊間藩(きくまはん)は、明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。1868年に駿河沼津藩の水野家が移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。石高は5万石で、越後国や三河国にも領地があった。藩庁は上総国市原郡菊間村(現在の千葉県市原市菊間)の菊間陣屋。.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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菰野藩

菰野藩(こものはん)は、伊勢国三重郡(現在の三重県三重郡菰野町菰野)に存在した藩。.

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青山幸宜

青山 幸宜(あおやま ゆきよし)は、江戸時代末期の大名。美濃国郡上藩7代(最後の)藩主。郡上藩青山家11代。明治維新後は華族(子爵)に列し、貴族院議員を務めた。.

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青山忠敏

青山 忠敏(あおやま ただゆき)は、幕末の大名。丹波国篠山藩6代(最後の)藩主。青山家宗家12代。.

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青木重義

青木 重義(あおき しげよし)は、江戸時代末期の大名。摂津国麻田藩の第14代(最後の)藩主。維新後、子爵。.

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須坂藩

坂藩(すざかはん)は、信濃国高井郡(現在の長野県須坂市常盤町)にあった藩。政庁は須坂陣屋。.

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飫肥藩

飫肥藩(おびはん)は、日向国那珂郡と宮崎郡の一部(現在の宮崎県日南市の全域および宮崎市南部)を支配した藩。藩庁は飫肥城。藩主は伊東氏。家格は外様大名である。なお藩主家の日向伊東氏は備中国岡田藩主家の備中伊東氏と同族である。.

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飯山藩

飯山藩(いいやまはん)は、信濃国(現在の長野県飯山市飯山)を支配した藩。藩庁は飯山城。.

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飯野藩

飯野藩(いいのはん)は、上総国周淮郡飯野(現在の千葉県富津市下飯野)の飯野陣屋に藩庁を置いた藩。江戸時代初期に保科氏が藩主となり、廃藩置県まで10代にわたって存続した。江戸時代の領地は上総国のほか、摂津国を中心とする関西地方に分散していた。 飯野陣屋は、徳山陣屋、敦賀陣屋と共に日本三大陣屋の一つに数えられる。.

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館山藩

山藩(たてやまはん)は、安房国に存在した藩。藩庁は館山城・館山陣屋(現在の千葉県館山市城山)に置かれた。江戸時代初期、戦国大名を出自とする里見氏を藩主として安房一国を統治していた時期と、江戸時代後期に稲葉氏を藩主とする譜代の小藩であった時期の2つに分かれる。.

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館林藩

林藩(たてばやしはん)は、上野邑楽郡にあった徳川家と関わりが深い藩。石高は、短い一時期を除いておおむね5万石から11万石の中藩で、御両典のひとつとして御三家に継ぐ高い家格を持った徳川綱吉とその子・徳松の時代は例外的に25万石だった。藩庁は館林城(現在の群馬県館林市城町)。.

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西大平藩

西大平藩(にしおおひらはん)は、現在の愛知県岡崎市大平町(三河国額田郡西大平)を治めた藩。藩庁は西大平陣屋。石高は1万石。.

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西尾忠篤

西尾 忠篤(にしお ただあつ)は、遠江横須賀藩の第8代藩主。のちに安房花房藩主。横須賀藩西尾家11代。子爵。.

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西尾藩

西尾藩(にしおはん)は、江戸時代に三河国に存在した藩。西尾城(現愛知県西尾市)を居城とした。藩主は、本多氏(膳所)、松平氏 (大給府内)、太田氏、井伊氏(与板)、増山氏、土井氏(刈谷)、三浦氏、松平氏(大給西尾)が就封した。.

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西端藩

西端藩(にしばたはん)は、三河国に存在した藩。藩庁は西端陣屋(現在の愛知県碧南市湖西町)に置かれた。江戸時代初期から大身旗本・本多家の所領であったが、1864年に高直しによって諸侯に列して藩となり、廃藩置県まで存続した。.

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西条藩

西条藩(さいじょうはん)は、江戸時代に伊予国に存在した藩。藩庁は伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)の西条陣屋。 江戸時代初期には外様大名の一柳氏が治めたが3代約30年で改易。その後徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。.

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駿府藩

駿府藩(すんぷはん)は、駿府城(現在の静岡県静岡市葵区)を中心に静岡県の駿河・遠江・愛知県の三河・山梨県の甲斐の地域に江戸時代初期に存在した藩である。駿河府中藩もしくは府中藩とも呼ばれる。なお明治2年8月7日(1869年9月12日)に成立した藩は静岡藩(しずおかはん)と呼ぶ。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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諏訪忠礼

諏訪 忠礼(すわ ただあや)は、信濃諏訪藩の第10代(最後)の藩主。 嘉永6年(1853年)正月13日に諏訪頼威(第8代藩主諏訪忠恕の三男)の次男に生まれる。慶応4年(1868年)2月8日、先代藩主で伯父に当たる忠誠の養嗣子となる。同年5月15日の養父の隠居により家督を継いだ。明治2年(1869年)の版籍奉還で知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で高島県知事となる。同年11月20日、高島県廃止と共に免官され、東京へ移った。明治11年(1878年)10月10日に死去した。享年26。家督は養父の忠誠が再び相続した。.

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諏訪藩

諏訪藩(すわはん)は、信濃国諏訪郡周辺を領有した藩。高島藩(たかしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高島城(長野県諏訪市)。.

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高取藩

取藩(たかとりはん)は、大和国(現在の奈良県高市郡高取町)に存在した藩。藩庁は高取城。.

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高富藩

富藩(たかとみはん)は、美濃国(現在の岐阜県山県市高富)に存在した藩。藩庁は高富陣屋に置かれた。.

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高岡藩

岡藩(たかおかはん)は、下総国高岡村(現在の千葉県成田市高岡)に存在した藩。.

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高崎藩

崎城 高崎藩(たかさきはん)は、上野群馬郡(群馬県高崎市)周辺を領した藩。藩庁は高崎城に置かれた。.

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高徳藩

徳藩(たかとくはん)は、江戸時代幕末期に下野国に存在した藩。藩庁は高徳陣屋(現在の栃木県日光市高徳)に置かれた。成立は1866年で、江戸幕府のもとで最後に生まれた藩である坂本『シリーズ藩物語、宇都宮藩・高徳藩』、P132。明治維新後に下総国曽我野陣屋(現在の千葉市中央区蘇我)に移封、曽我野藩となる。.

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高田藩

藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。 高田城三重櫓(新潟県上越市).

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高遠藩

遠藩(たかとおはん)は、信濃国南部(現在の長野県伊那市高遠町)に存在した藩。居城は高遠城。.

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高鍋藩

鍋藩(たかなべはん)は、日向国に存在した藩。現在の宮崎県児湯郡の東部(高鍋町、川南町、木城町、都農町、日向市の美々津)と串間市、宮崎市(瓜生野・倉岡の一部)、国富町(木脇)を領有していた。藩庁は高鍋城(宮崎県児湯郡高鍋町)。高鍋の地は初期には財部といったため財部藩(たからべはん)とも呼ばれていた。.

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高須藩

藩(たかすはん)は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。一時期、駒野館(宝暦13年(1763年)- 安永7年(1778年))。江戸中期以降は尾張藩支藩。.

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高松藩

松城月見櫓 高松藩(たかまつはん)は、江戸時代に讃岐国(現在の香川県)を領有した藩。生駒氏の代は讃岐一国を領していたが、松平氏(高松松平家)の代になり半国の東讃地域を領した。藩庁は高松城(現在の高松市)。.

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高槻藩

槻藩(たかつきはん)は、摂津国に存在した藩の一つ。藩庁は高槻城(現在の大阪府高槻市)。本項目では関係のある山城長岡藩についても記述する。.

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高木正坦

高木 正坦(たかぎ まさひら、文政12年3月13日(1829年4月16日) - 明治24年(1891年)1月31日)は、河内丹南藩の第12代藩主。 美作津山藩主・松平康哉の四男・松平維賢(これかた)の四男。姉に敏(維賢の兄・斉孝の養女、斉孝の養子・松平斉民継室)、兄に松平信発(鷹司松平家を継ぐ)がいる。 正室は小野藩主・一柳末延の娘。子は堀田正亨(長男、堀田正養養子)、高木正秋(次男)。官位は従五位下、主水正。 先代藩主の正明に嗣子が無かったためその養嗣子となり、嘉永元年(1848年)5月15日、将軍・徳川家慶に拝謁する。同年8月23日、養父正明の隠居により、家督を継いだ。同年12月16日、従五位下主水正に叙任した。文久3年(1863年)9月10日、大番頭となる。慶応元年(1865年)10月24日、辞任する。慶応4年3月16日、上洛する。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により藩知事に就任する。同年11月18日、隠居し、養嗣子正善に家督を譲った。明治24年(1891年)正月31日、63歳で死去した。法号は高樹院殿風誉様堂正坦大居士。墓所は東京都杉並区永福の栖岸院。 まさひら Category:津山松平氏 *12 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1829年生 Category:1891年没.

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高木正善

木 正善(たかぎ まさよし、嘉永6年(1853年)9月 - 大正9年(1920年)1月27日)は、河内丹南藩の第13代(最後)の藩主、明治維新後は子爵。.

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請西藩

請西藩庁が置かれた真武根陣屋遺址 請西藩(じょうざいはん)は、江戸時代後期に上総国に所在した藩。石高は1万石で、藩庁は上総国望陀郡請西村(現在の千葉県木更津市請西)の真武根陣屋(まふねじんや。請西陣屋とも)に置かれた。戊辰戦争によって改易された唯一の藩として知られる。当初藩庁は望陀郡貝淵村(現在の木更津市貝渕)の貝淵陣屋に置かれていたために貝淵藩(かいふちはん)とも呼ばれる。 明治維新後、名義上は望陀郡桜井村を藩庁所在地として桜井藩(さくらいはん)が設置されたが、この藩庁(桜井陣屋)は貝淵陣屋を転用したものである。実質は貝淵藩と同一とみなすことができるため、本項では同藩についても併せて解説する。 ちなみに貝淵・桜井・請西村は隣接関係にあり、貝淵(桜井)陣屋は貝淵・桜井両村の境界線に沿った貝淵村側にあった。藩士の邸宅は3村内に点在していたようである。.

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鯖江藩

鯖江藩(さばえはん)は、越前国(現在の福井県の敦賀市から北部分)に存在した藩。鯖江陣屋に藩庁が置かれた。.

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谷田部藩

谷田部藩(やたべはん)は、常陸国(現在の茨城県つくば市谷田部)に存在した藩。藩庁は谷田部陣屋。.

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谷衛滋

谷 衛滋(たに もりしげ)は、丹波山家藩の第13代(最後)の藩主。.

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豊岡藩

豊岡藩(とよおかはん)は、但馬国城崎郡周辺を領有した藩。藩庁は当初、豊岡城(現在の兵庫県豊岡市)のち豊岡陣屋。 豊岡県庁正門と豊岡市立図書.

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鳥取藩

鳥取藩(とっとりはん)は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。久松山城とも称した。.

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鳥居忠宝

鳥居 忠宝(とりい ただとみ、1845年 - 1885年)は、幕末の大名。下野壬生藩の第7代藩主。壬生藩鳥居家11代。.

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鳥居忠文

鳥居 忠文(とりい ただぶみ)は、江戸時代の大名。下野壬生藩の第8代(最後)の藩主。壬生藩鳥居家12代。.

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鳥羽藩

鳥羽藩(とばはん)は、志摩国答志郡(現在の三重県鳥羽市鳥羽)に存在した藩。藩庁は鳥羽城に置かれた。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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越後長岡藩

長岡藩(ながおかはん)は、越後国の古志郡全域及び三島郡北東部、蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた藩。現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩であった。近年は、山城長岡藩と区別するため、越後長岡藩(えちごながおかはん)と国名を冠して呼ばれることもある。 藩庁は長岡城(長岡市)。藩主は初めに堀氏(80,000石)、のちに牧野氏に交替した。牧野氏の家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高ははじめ62,000石、後に加増されて74,000石になった。正徳2年(1712年)の内高は約115,300石、。.

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越前勝山藩

越前勝山藩(えちぜんかつやまはん)は、越前国勝山周辺を支配した藩。居城は勝山城。.

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足守藩

陣屋遺構 藩主庭園・近水園(おみずえん) 足守藩(あしもりはん)は、備中国賀陽郡及び上房郡の一部を領有した藩。一時は領地の大半が陸奥国に移された。藩庁を足守陣屋(岡山県岡山市北区足守)に置いた。.

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足利聡氏

足利 聡氏(あしかが さとうじ)は、幕末・明治初期の大名。下野喜連川藩の第12代(最後)の藩主・知藩事。.

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足利藩

足利藩(あしかがはん)は、下野国足利郡足利に存在した藩。藩庁は足利陣屋(栃木県足利市雪輪町)。.

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鶴牧藩

牧藩(つるまきはん)は、上総国(現在の千葉県市原市椎津)に存在した藩。.

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鶴舞藩

舞藩(つるまいはん)は、明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。1868年に遠江浜松藩の井上家が6万石で移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。藩庁は上総国市原郡(現在の千葉県市原市鶴舞)の鶴舞陣屋。.

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麻生藩

麻生藩(あそうはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は麻生陣屋(現在の茨城県行方市麻生)。.

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麻田藩

麻田藩(あさだはん)は、江戸時代、摂津国豊島郡・川辺郡などを領有した藩。藩庁は豊島郡麻田村(現在の大阪府豊中市蛍池)の麻田陣屋。藩主は外様大名の青木氏。初代藩主は青木一重。表高は元和元年(1615年)の立藩時には1万2千石で、元和3年(1617年)の分知後は1万石である。.

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黒川藩

黒川藩(くろかわはん)は、越後国蒲原郡黒川(現在の新潟県胎内市黒川)に黒川陣屋を構え付近を領有した藩。.

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黒羽藩

黒羽藩(くろばねはん)は、下野国那須郡に存在した藩の一つ。藩庁は黒羽陣屋(現在の栃木県大田原市前田)に置かれた。.

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黒田直養

黒田 直養(くろだ なおたか)は、上総久留里藩の第9代(最後)の藩主。久留里藩黒田家10代。.

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黒田長徳

黒田 長徳(くろだ ながのり、1848年4月2日(嘉永元年2月29日)- 1892年(明治25年)6月15日)は、日本の華族。筑前秋月藩の第12代(最後)の藩主で、明治に入り子爵。 第10代藩主・黒田長元の八男。母は今村氏。正室は秋月種殷の娘、継室は新政信の娘。養子に黒田長敬(黒田長知の子)。官位は従五位下。甲斐守。幼名は岩虎、通称は篤之允。.

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黒田長知

黒田 長知(くろだ ながとも)は、筑前福岡藩の第12代藩主、初代知藩事。.

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龍野藩

龍野藩(たつのはん)は、播磨国龍野周辺を領有した藩。藩庁は龍野城(現兵庫県たつの市)に置かれた。.

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近江宮川藩

近江宮川藩(おうみみやがわはん)は、近江国坂田郡宮川(現在の滋賀県長浜市宮司町)に存在した藩。藩庁は宮川陣屋。.

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蜂須賀茂韶

蜂須賀 茂韶(はちすか もちあき)は、江戸時代末期の大名、明治・大正時代の華族。阿波国徳島藩の第14代(最後)の藩主。文部大臣、東京府知事、貴族院議長を歴任した。.

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郡山藩

郡山藩(こおりやまはん)は、大和国に存在した藩。藩庁は郡山城(奈良県大和郡山市)に置かれた。.

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郡上藩

郡上藩(ぐじょうはん)は、江戸時代に美濃国(現在の岐阜県郡上市八幡町)に存在し郡上郡の大半と越前国の一部を統治した藩。藩庁は八幡城。八幡藩(はちまんはん)とも。.

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都道府県知事

都道府県知事(とどうふけんちじ)は、日本の地方公共団体である都道府県の首長である。単に知事ともいう。都道府県知事のもとに置かれる部局を知事部局という。 以下、地方自治法については条数のみ記載する。.

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阿部正功

阿部 正功(あべ まさこと、安政7年1月23日(1860年2月14日) - 大正14年(1925年)9月11日)は、日本の武士、大名、華族。陸奥棚倉藩阿部家の第2代藩主。白河藩主阿部正耆の次男。正室は徳大寺公純の娘。子に要子(阿部正寛室)学習院大学史料館、P395。、直子(阿部正直室)。忠秋系阿部家17代。幼名は光之助、基之助。官位は棚倉藩知事従二位子爵。.

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阿部正恒

阿部 正恒(あべ まさつね)は、上総佐貫藩の第8代(最後)の藩主。備後福山藩阿部家分家9代。.

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阿部正桓

阿部 正桓(あべ まさたけ、嘉永4年12月29日(1852年1月20日) - 大正3年(1914年)8月19日)は、備後福山藩の第10代(最後の)藩主。阿部家宗家14代。 浅野懋昭(安芸広島藩主・浅野重晟の孫)の三男。官位は従二位、爵位は伯爵。.

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赤穂藩

赤穂城 赤穂藩(あこうはん)は、播磨国赤穂郡(兵庫県赤穂市、相生市、上郡町)周辺を領有した藩。藩庁は同郡加里屋の赤穂城。 浅野氏の『元禄赤穂事件』で有名だが、池田氏でも輝興が狂乱し正室などを殺す『正保赤穂事件』、森氏でも攘夷派が敵対する家老の森主税を暗殺するという『文久赤穂事件』が起きている。 なお、武鑑では元禄以前は藩主居城を「播州加里屋」「播州かりや」「播州之内苅屋」と表記するものもあった。.

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関宿藩

関宿藩(せきやどはん)は、下総国(現在の千葉県野田市関宿三軒家)に存在した藩。藩庁は関宿城にあったが、現在の茨城県猿島郡境町にあたる地域をも城下町とした。 利根川と江戸川の分岐点にあたり、利根川水運の要衝であることから、江戸幕府にとっては重要拠点だった。そのため信頼の厚い譜代大名がその藩主に任じられた。.

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関長克

関 長克(せき ながかつ)は、備中新見藩の第9代(最後)の藩主。新見藩関家10代。 天保11年(1840年)10月26日、第6代藩主・関長輝の次男(または三男)である関長吉の長男として生まれる。 安政4年(1857年)に第8代藩主・長道の婿養子となり、安政5年(1858年)10月16日、長道の死により家督を継いだ。安政6年8月15日、将軍・徳川家茂に拝謁する。同年12月16日、従五位下備前守に叙任する。後に民部少輔、伊勢守に改める。元治元年(1864年)5月13日、従五位上に昇進する。幕末期は大坂城の加番や京都の守備役を務めた。 慶応4年(1868年)2月6日、上洛し、新政府側に与した。同年2月22日、新政府から備中国内の幕領管理を命じられたのにともない、帰藩を願い出る。同年4月25日、備中国内の幕領管理の任務を解かれる。また、備前岡山藩と共に伊予松山藩征伐に参加した。明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により藩知事となった。明治4年(1871年)の廃藩置県で免官となった。明治10年(1877年)3月17日に死去した。享年38。関家の家督は妻の亭以が相続した。 なかかつ *09 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1840年生 Category:1877年没.

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薩摩藩

薩摩藩庁が置かれた鹿児島城 薩摩藩(さつまはん)は、江戸時代に薩摩・大隅の2か国及び日向国諸県郡の大部分を領有し、琉球王国を支配下に置いた藩。現在の鹿児島県全域と宮崎県の南西部を領有したほか、間接的に沖縄県の大部分を服属させた。.

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間部詮道

間部 詮道(まなべ あきみち、嘉永6年9月6日(1853年10月8日)- 明治25年(1892年)4月6日)は、越前鯖江藩の第9代(最後)の藩主。間部家10代。第7代藩主・間部詮勝の八男。母は家臣・田子氏の娘。正室は大河内正和(松平正和)の娘・貴子。子は間部詮信(長男)、間部詮敦(次男)、娘(横尾某室)、娘(山後勝義室)。官位は正五位。下総守。 江戸で生まれる。幼名は卍治。文久3年(1863年)、先代藩主で兄の詮実が死去したため、翌年3月29日にその養嗣子として跡を継ぎ、雁の間詰になった。慶応元年(1865年)2月1日、将軍徳川家茂に拝謁。同年12月25日に従五位下・下総守に叙任された。慶応3年(1867年)3月23日に元服し正式に詮道と名乗る。慶応4年(1868年)4月5日、上洛する。明治2年(1869年)3月、版籍奉還を建白し、同年6月20日、鯖江藩の藩知事となる。明治4年の廃藩置県で免官されて東京へ移る。明治15年(1882年)12月23日、隠居し、長男・詮信に家督を譲っている。同25年(1892年)東京で死去。享年40。法号は霊光院殿祐誉啓覚詮道大居士。墓所は東京都台東区花川戸の九品寺。.

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藤堂高猷

藤堂 高猷(とうどう たかゆき)は、伊勢津藩の第11代藩主。藤堂家宗家11代。.

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藤堂高邦

藤堂 高邦(とうどう たかくに)は、伊勢久居藩の第16代(最後)の藩主。久居藩藤堂家16代。久居陣屋最期の主。.

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藤堂高潔

藤堂 高潔(とうどう たかきよ)は、伊勢津藩の第12代(最後)の藩主。藤堂家宗家12代。正室は蜂須賀斉昌養女で蜂須賀昭順の娘・量子。.

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蒔田広孝

蒔田 広孝(まいた ひろたか)は、江戸時代末期の寄合旗本、大名。備中浅尾藩主。.

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脇坂安斐

脇坂 安斐(わきさか やすあや)は、江戸時代後期の大名。播磨国龍野藩10代(最後の)藩主。龍野藩脇坂家12代。維新後藩知事・子爵。.

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膳所藩

膳所藩(ぜぜはん)は、近江国滋賀郡膳所の膳所城(現在の滋賀県大津市)に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期には短期間で藩主家が交替したが、そのうちの本多家が1651年に再封され、以後廃藩置県まで藩主を務めた。京都への入口を押さえる役割を担い、歴代藩主家はいずれも譜代大名である。本多氏(再封)時代の石高は7万石で、これは近江国では彦根藩(井伊家)に次ぐ規模である。.

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野村藩

野村藩(のむらはん)は、美濃国(現在の岐阜県揖斐郡大野町)に存在した藩。.

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重原藩

重原藩(しげはらはん)は、明治改元後から廃藩置県までの間に存在した藩。石高は2万8000石。藩庁は重原陣屋に置かれた。.

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臼杵藩

臼杵藩(うすきはん)は、豊後国に存在した藩。藩主は稲葉氏。藩庁は海部郡臼杵城(現在の大分県臼杵市)に置かれた。.

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長尾藩

長尾藩(ながおはん)は、明治維新期の短期間、安房国に存在した藩。1868年に駿河田中藩主本多家が4万石で移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。藩庁ははじめ長尾陣屋(現・千葉県南房総市白浜町滝口)に置かれ、のち北条陣屋(現・館山市北条)に移転した。.

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長島藩

長島藩(ながしまはん)は、伊勢国桑名郡長島(現在の三重県桑名市長島町)に存在した藩。居城は長島城。.

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長州藩

長州藩邸跡、碑文は屋敷址、京都河原町御池東入ル 長州藩(ちょうしゅうはん)は、江戸時代に周防国と長門国を領国とした外様大名・毛利氏を藩主とする藩。家格は国主・大広間詰。 藩庁は長く萩城(萩市)に置かれていたため、萩藩(はぎはん)とも呼ばれた。幕末には周防山口の山口城(山口政事堂)に移ったために、周防山口藩(すおうやまぐちはん)と呼ばれる事例もでてきた。一般には、萩藩・(周防)山口藩時代を総称して「長州藩」と呼ばれている。 幕末には討幕運動・明治維新の中心となり、明治時代には明治新政府に政治家を多数輩出した(2014年8月5日時点のアーカイブ)。.

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長府藩

藩庁である櫛崎城跡(現・関見台公園) 長府藩(ちょうふはん)は、江戸時代の藩のひとつである。長州藩の支藩で、長門府中藩(ながとふちゅうはん)ともいう。須原屋武鑑の居城・在所表記では当初は長門長府で、宝暦年中より長門府中に改称されている。藩庁は櫛崎城(長府城、長府陣屋)に置かれた。.

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長瀞藩

長瀞藩(ながとろはん)は、出羽国(明治以降は羽前国)村山郡(現在の山形県東根市大字長瀞)に存在した藩。藩庁は長瀞陣屋。.

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長門国

長門国(ながとのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陽道に属する。.

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酒井忠宝 (庄内藩主)

酒井 忠宝(さかい ただみち)は、江戸時代末期の大名。出羽庄内藩第12代藩主で最後の藩主、大泉藩知事、左衛門尉酒井家第14代当主。第9代藩主・酒井忠発の六男。正室は遠藤胤城の娘。官位は従五位。.

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酒井忠彰

酒井 忠彰(さかい ただあきら)は、江戸時代末期の大名。上野伊勢崎藩の第9代(最後)の藩主。雅楽頭系酒井家支流9代。.

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酒井忠匡

酒井 忠匡(さかい ただまさ)は、出羽松山藩8代で最後の藩主。左衛門尉酒井家分家8代。7代藩主・酒井忠良の三男。 安政3年(1856年)12月19日生まれ。明治元年(1868年)12月、父が戊辰戦争で幕府側に与したために強制隠居処分となったため、家督を継いだ。明治2年(1869年)、版籍奉還により知藩事となる。このとき、松山を松嶺と改名した。明治4年(1871年)7月、廃藩置県で免官される。明治17年(1884年)華族に列して子爵となる。 明治44年(1911年)4月30日、56歳で死去した。 *08 Category:幕末の大名 たたまさ Category:日本の子爵 Category:明治時代の人物 Category:1857年生 Category:1911年没.

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酒井忠美

酒井 忠美(さかい ただよし)は、安房勝山藩の第9代(最後)の藩主。 安政5年(1858年)10月29日、第8代藩主・酒井忠一の長男として生まれる。万延元年(1860年)に父が死去したため、3歳で家督を継いだ。藩内は佐幕派と尊王派に分裂して抗争し、戊辰戦争でも抗争した上で新政府に恭順し、木更津に出兵している。慶応4年(1868年)5月、従五位下、大和守に叙任する。 明治2年(1869年)5月、同名の藩(越前勝山藩)が他にあるため、加知山藩と改名する。6月には版籍奉還により知藩事となるが、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免官され、新たに加知山県知事となる。しかし11月の廃県により免職となった。 明治12年(1879年)、嫡男の忠勇に家督を譲って隠居する。大正12年(1923年)3月13日に死去、享年66。なお、明治17年(1884年)に忠勇は子爵となるものの、明治30年(1897年)に子爵の位を返上している。 たたよし Category:安房勝山藩主 Category:幕末の大名 Category:廃止された府県の知事 Category:日本の華族 Category:1858年生 Category:1923年没.

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酒井忠義 (若狭国小浜藩主)

酒井 忠義(さかい ただあき)は、江戸時代後期から末期の大名。若狭小浜藩の第12代、第14代藩主。小浜藩酒井家13代、15代。.

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酒井忠経

酒井 忠経(さかい ただつね、嘉永元年8月29日(1848年9月26日) - 明治17年(1884年)12月5日)は、越前敦賀藩の第8代(最後)の藩主。忠稠系小浜藩酒井家別家8代。第7代藩主・酒井忠眦の四男。正室は板倉勝顕の娘。継室は斉藤桜門の娘。子は酒井忠亮(長男)、娘(上杉某室)。官位は従五位下、右京亮。 慶応3年(1867年)6月17日、佐幕派の立場に苦しんだ父の隠退により家督を継ぐ。翌年の戊辰戦争では本家の小浜藩が幕府側に与したのに対して、忠経は父と180度方向を転換して新政府側に与した。明治2年(1869年)には版籍奉還により藩知事となる。明治3年(1870年)5月、敦賀藩を鞠山藩と改称した。 同年9月、小浜藩との合併に伴って小浜藩知事となるが、翌年7月の廃藩置県で廃藩となった。明治17年(1884年)12月5日、37歳で死去した。 *08 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 たたつね Category:1848年生 Category:1884年没.

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酒井忠邦

酒井 忠邦(さかい ただくに)は、播磨姫路藩の第10代(最後の)藩主。雅楽頭系酒井家宗家18代当主。.

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苗木藩

苗木藩(なえぎはん)は、現在の岐阜県中津川市苗木に存在した、最小の城持ちの藩。居城は苗木城。美濃国の恵那郡の一部と加茂郡の一部を領地としていた。.

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柏原藩

柏原藩(かいばらはん)は、丹波国氷上郡柏原(現在の兵庫県丹波市柏原)に存在した藩。藩庁は柏原陣屋に置かれた。 柏原藩織田家旧邸長屋.

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柳生俊益

柳生 俊益(やぎゅう とします)は、大和柳生藩の第13代(最後)の藩主。.

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柳生藩

柳生藩(やぎゅうはん)は、大和国添上郡柳生郷(現奈良市柳生地区)を治めた藩。石高1万石程度の小藩であったが、藩主家の柳生氏は代々将軍家の剣術指南役として幕閣に重きをなした。藩庁は柳生陣屋。.

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柳沢徳忠

柳沢 徳忠(やなぎさわ のりただ、嘉永7年閏7月11日(1854年9月3日) - 昭和11年(1936年1月16日)は、越後三日市藩の第8代・最後の藩主。7代藩主・柳沢泰孝の長男。母は松浦皓の娘。正室は堀直休の娘浪。子は柳沢徳鄰(長男)、娘(立花鑑寛の四男・立花寛篤の正室)、娘(米田国臣室)。官位は従五位下、信濃守。幼名は彰太郎。 安政3年(1856年)4月4日、父泰孝の死により家督を相続した。3歳であった。慶応4年(1868年)3月18日江戸を出発し、4月6日三日市に到着した。藩財政が破綻を迎える中での歴代藩主で初めて入部であった、明治元年(1868年)7月28日、官軍に降伏した。同年8月21日、新潟で官軍を率いる小松宮彰仁親王に拝謁した。恭順後は新発田藩と軍事行動を共にしている。同年12月3日、従五位下信濃守に叙任する。明治2年(1869年)6月21日、版籍奉還により三日市藩知事に就任する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。昭和11年(1936年)に死去した。.

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柳沢保申

柳沢 保申(やなぎさわ やすのぶ)は、幕末から明治期の大名、華族。大和郡山藩の第6代(最後)の藩主。郡山藩柳沢家7代。藩主としてよりの事蹟より、明治以降の奈良県の繁栄に貢献した業績のほうが高く評価されている人物である。.

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柳沢光邦

柳沢 光邦(やなぎさわ みつくに)は、越後黒川藩の第8代(最後)の藩主。.

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柳河藩

柳河藩(柳川藩、やながわはん)は、筑後国に存在した藩。藩庁は柳川城(現:福岡県柳川市)。当初は筑後一国を支配する大藩であったが、のちに久留米藩の成立により筑後南部のみを領有する中藩となった。.

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柳本藩

柳本藩(やなぎもとはん)は、大和国式上郡・山辺郡・宇陀郡を領有した藩。藩庁は柳本陣屋(現在の奈良県天理市柳本町黒塚古墳)。なお、藩庁は陣屋であるが、家格は城主格大名であった。.

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林田藩

林田藩(はやしだはん)は、江戸時代、播磨国揖東郡にあった藩。藩庁として林田(現・兵庫県姫路市林田町聖岡)に林田陣屋が置かれた。表高は1万石。.

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松尾藩

松尾藩(まつおはん)は、明治維新期の短期間、上総国に存在した藩。1868年に遠江掛川藩の太田家が5万3000余石で移封され、1871年の廃藩置県まで存続した。藩庁ははじめ上総国武射郡柴山(現在の千葉県山武郡芝山町)に置かれ「柴山藩(しばやまはん)」と称したが、のちに武射郡松尾(山武市松尾町)に松尾城を築いて移転した。.

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松平定安

松平 定安(まつだいら さだやす)は、幕末の大名。出雲松江藩の第10代(最後)の藩主。直政系越前松平家宗家第10代・12代当主。.

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松平定法

松平 定法(まつだいら さだのり)は、伊予今治藩の第10代(最後)の藩主。定房系久松松平家10代。.

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松平定昭

松平 定昭(まつだいら さだあき、1845年12月7日(弘化2年11月9日) - 1872年8月22日(明治5年7月19日))は、幕末の大名・老中。伊予松山藩第14代藩主、知藩事。定勝系久松松平家宗家15代・17代。明治維新後は久松 定昭(ひさまつ さだあき)を名乗った。.

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松平定教

松平 定教(まつだいら さだのり)は、伊勢桑名藩の知藩事、明治時代の官僚、華族である。定綱系久松松平家14代。.

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松平容大

松平 容大(まつだいら かたはる)は、明治時代の知藩事、華族。会津松平家11代で陸奥斗南藩主。.

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松平宗武

松平 宗武(まつだいら むねたけ)は、丹後宮津藩の第7代(最後の)藩主。本庄松平家10代。明治維新後に本庄氏に復し、本庄(または本荘) 宗武(ほんじょう むねたけ)と改めた。.

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松平乗命

松平 乗命(まつだいら のりとし)は、美濃岩村藩の第7代(最後)の藩主。岩村藩大給松平家8代。.

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松平乗秩

松平 乗秩(まつだいら のりつね)は、三河西尾藩の第5代(最後)の藩主。大給松平家宗家10代。.

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松平康載

松平 康載(まつだいら やすとし)は、武蔵川越藩の第2代(最後)の藩主。松井松平家13代。 嘉永7年(1854年)10月11日、信濃松本藩主松平光庸の九男として生まれる。慶応4年(1868年)8月29日、川越藩主松平康英の養子となる。明治2年(1869年)4月10日、養父の隠居により家督を相続し、版籍奉還を願い出た。同年6月10日、従五位下・周防守に叙任される。同年6月25日、版籍奉還にともない、川越藩知事に任じられた。藩政改革に着手し、また、康英の代に収公された2万石の返還がなったが、財政難を克服することは出来なかった。 明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で知藩事職を免官された。明治12年(1879年)3月15日、隠居し、家督を養子の松井康義(松平康英の次男)に譲った。明治13年(1880年)4月14日、位記を返上し、実家の戸田家に戻った。実家に復籍後、戸田央と称した。 明治19年(1886年)2月9日、板倉花子(上野安中藩主板倉勝殷の三女。前板倉勝任夫人)と結婚し、板倉家に入籍する。同年4月6日、板倉家の家督を相続する。同年4月9日、板倉勝観と改名する。板倉家は花子が女戸主のため、授爵が遅れていたが、同年4月10日に従五位に、同年4月24日に子爵に叙せられた。.

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松平忠和 (島原藩主)

松平 忠和(まつだいら ただかず)は、肥前島原藩の第8代(最後)の藩主。江戸幕府の第15代将軍・徳川慶喜の実弟。島原藩深溝松平家14代。.

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松平忠礼

松平 忠礼(まつだいら ただなり)は、江戸時代幕末から明治期の大名・華族(子爵)。信濃上田藩の第7代(最後)の藩主、伊賀守系藤井松平家9代。明治維新後はアメリカ合衆国に留学し、外務省に勤務。また、式部官を務めた。.

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松平忠興

松平 忠興(まつだいら ただおき)は、幕末の譜代大名。摂津尼崎藩の第7代(最後の)藩主。尼崎藩桜井松平家10代。.

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松平忠恕 (小幡藩主)

松平 忠恕(まつだいら ただゆき)は、上野小幡藩の第4代(最後)の藩主。忠尚系奥平松平家6代。.

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松平忠敬

松平 忠敬(まつだいら ただのり、安政2年7月14日(1855年8月26日) - 大正8年(1919年)11月15日)は、武蔵忍藩の第5代(最後)の藩主。奥平松平家13代。 出羽米沢藩主・上杉斉憲の六男。母は松平頼恕の娘。正室は伏見宮邦家親王の十二女・節宮。子は松平忠寿(長男)。官位は従三位。 安政2年(1855年)7月14日生まれ。幼名は篤之助。明治2年(1869年)4月、先代藩主の忠誠の養嗣子となる。同年8月19日、養父忠誠の死去により家督を相続し、藩知事に就任した。同年8月24日、従五位に叙任する。その後、藩政改革を行なう。明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官されて東京へ移る。 明治5年(1872年)1月、明治政府からイギリスの許可を得る。当初は2年間の自費留学の予定であった。明治7年2月、イギリスへの滞在延長を願い出ている。明治17年(1884年)1月、滋賀県御用掛に就任する。同年7月、子爵となる。しかし、旧藩士の不正事件などがあってその地位を追われ、故郷の米沢に戻って中学校教師を務めた。明治28年(1895年)に東京へ戻り、大正8年(1919年)11月15日に65歳で死去した。墓所は東京都台東区谷中の天眼寺。 たたのり Category:米沢上杉氏 Category:親藩 Category:忍藩主 Category:幕末の大名 Category:幕末米沢藩の人物 Category:日本の子爵 Category:1855年生 Category:1919年没.

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松平信安

松平 信安(まつだいら のぶやす)は、幕末から明治時代の大名、華族。出羽上山藩の第10代(最後)の藩主。藤井松平家嫡流16代。.

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松平信正 (丹波亀山藩主)

松平 信正(まつだいら のぶまさ)は、丹波亀山藩の第8代(最後)の藩主。丹波亀山藩形原松平家13代。 嘉永5年(1852年)4月29日、第6代藩主松平信豪の七男として生まれる。はじめ家督は兄の信敏が継ぐ予定だったが、信敏が慶応元年(1865年)に死去したため、信正が第7代藩主信義の養子となって、慶応2年(1866年)に家督を継いだ。 幕末期は佐幕派だったが、慶応4年(1868年)の戊辰戦争で新政府の圧力を受けて降伏し、東征に参加している。明治2年(1869年)の版籍奉還で亀山藩知事となり、伊勢亀山藩との混同を避けるために亀山を亀岡と改称した。明治4年(1871年)、廃藩置県で知藩事を免官される。 明治12年(1879年)に大蔵省御用掛、明治14年(1881年)に四等検査官、明治22年(1889年)に帝室制度取調掛、明治23年(1890年)に元老院書記官となった。また、1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵し、明治23年(1890年)7月から明治30年(1897年)7月まで貴族院子爵議員を務めている。 明治42年(1909年)10月28日に死去した。享年58。.

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松平光則

松平 光則(まつだいら みつひさ)は、信濃松本藩の第9代(最後)の藩主。戸田松平家14代。明治維新後に戸田 光則(とだ みつのり)と改めた。.

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松平勝成

松平 勝成(まつだいら かつしげ、1832年7月21日(天保3年6月24日) - 1912年(明治45年)2月8日)は、幕末の大名。伊予松山藩第13代および第15代(再勤)の藩主。定勝系久松松平家宗家14代・16代。明治維新後は久松 勝成(ひさまつ かつしげ)を名乗った。 讃岐高松藩主松平頼恕の三男。母は側室正林院殿(浅田氏の娘)。正室は第11代藩主松平定通の娘・令姫(松平勝善養女、清亮院殿、嘉永7年(1854年)卒去)。継室は姫路藩主・酒井忠学の娘。第15代将軍徳川慶喜の従兄にあたる。幼名は増之助。官位は正三位・刑部大輔・式部大輔・侍従・隠岐守・左近衛権少将。.

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松平義勇

松平 義勇(まつだいら よしたけ)は、美濃高須藩の第13代藩主。のち藩知事。.

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松平義生

松平 義生(まつだいら よしなり)は、明治時代初期の大名。美濃高須藩の第14代藩主。.

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松平直巳

松平 直巳(まつだいら なおおき、天保3年2月23日(1832年3月25日) - 大正6年(1917年)3月23日)は、出雲広瀬藩の第10代(最後)の藩主。直政系越前松平家広瀬藩分家10代。 第8代藩主・松平直寛の十一男。母は側室の安達氏。正室は内藤正誠の姉(内藤正義の娘)・幸姫、継室は松平信順の娘・愛姫、継々室は吉田良熙の娘・錦姫。官位は従五位下、佐渡守。 文久元年(1861年)、兄の死去によりその養子として家督を継いだ。しかし兄のように有能ではなく、幕末期の政局に耐えられる人物ではなかったため、藩は混乱したという。しかし家老の岩崎広勤の手腕により、医学所や洋学所を設置して人材育成に努めた。明治2年(1869年)の版籍奉還で広瀬藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で東京に移住した。明治9年(1876年)、養子の直平(松江藩主松平定安の四男)に家督を譲る。大正6年(1917年)3月23日、86歳で死去した。 なおおき *10 Category:幕末の大名 Category:幕末松江藩の人物 Category:日本の華族 Category:1832年生 Category:1917年没.

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松平直哉

松平 直哉(まつだいら なおとし)は、出雲母里藩の第10代(最後)の藩主。直政系越前松平家母里藩分家10代。 嘉永元年(1848年)2月29日、第9代藩主・松平直温の長男として生まれる。安政3年(1856年)に父が死去したため家督を継いだ。元治元年(1864年)の第1次長州征伐に藩は消極的な立場をとった。後に幕府に懇願して10万石の格式を許されている。 明治2年(1869年)6月25日、版籍奉還により母里藩知事に任じられ、明治3年(1870年)の藩政改革では士族の帰農政策を推進したが失敗した。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で藩知事を免職されて東京へ移ろうとしたが、領民の反対にあっている。明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵となった。 明治30年(1897年)12月31日に死去した。享年50。 なおとし *10 Category:幕末の大名 Category:幕末松江藩の人物 Category:貴族院子爵議員 Category:1848年生 Category:1897年没.

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松平直克

松平 直克(まつだいら なおかつ)は、幕末期の大名。武蔵川越藩の第7代藩主で、江戸幕府の政事総裁職を務めた。のちに所領の上野国前橋に前橋城を修復して移り、前橋藩主となっている。直基系越前松平家11代。.

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松平直静

松平 直静(まつだいら なおやす)は、幕末の大名、明治時代の華族。越後糸魚川藩の第8代(最後)の藩主。福井藩越前松平家分家10代。子爵。.

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松平直致

松平 直致(まつだいら なおむね、嘉永2年8月4日(1849年9月20日) - 明治17年(1884年)6月28日)は、明治時代初期の知藩事。播磨国明石藩第10代(最後)の藩主。直良系越前松平家11代。 正室は岸和田藩12代藩主岡部長寛の娘・鎮姫。官位官職は従四位上のち従四位、侍従、左兵衛督。.

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松平直方 (前橋藩主)

松平 直方(まつだいら なおかた)は、上野前橋藩の第2代(最後)の藩知事。直基系越前松平家12代。.

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松平頼升

松平頼升(まつだいら よりのり、天保3年7月3日(1832年7月29日) - 明治5年9月23日(1872年10月25日))は、陸奥守山藩の第6代藩主。水戸支流頼元系松平家7代。守山藩5代藩主・松平頼誠の三男。母は松平頼説(常陸府中藩主)の娘。 正室はなし。子は鏘(頼升の従弟、府中藩主・松平頼策の継室)。官位は従四位下、侍従、掃部頭、大学頭。 文久2年(1862年)、父の死により家督を相続した。元治元年(1864年)の天狗党の乱発生の際には藩内でも動揺が広がったが、忠孝の道を誤らないように説得し、事を収めた。鳥羽・伏見の戦い後は勤王論に傾き、奥羽越列藩同盟には参加しているものの出兵延期願いを提出して動かず、新政府軍が進軍した際には降伏して二本松藩の攻撃に加わった。明治2年(1869年)、賞典禄として9300石を受領。同年の版籍奉還で藩知事となるが、8月に病気のため隠居し、養子に迎えた頼之(水戸藩主徳川斉昭の二十二男、最後の将軍徳川慶喜の弟)が跡を継いだ。明治5年(1872年)死去。.

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松平頼之

松平頼之(まつだいら よりゆき)は、幕末の大名。陸奥守山藩(常陸松川藩)の第7代(最後)の藩主。水戸支流(連枝)頼元系松平家8代。水戸藩主・徳川斉昭の二十二男で、最後の将軍・徳川慶喜の弟。初名は昭鄰(あきちか)。 明治2年(1869年)、先代藩主の隠居により、養子となって家督を相続した。明治6年(1873年)に夭折し、会津松平家との養子縁組を解消していた実兄の喜徳(斉昭の十九男)が家督を継いだ。 *07 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 よりゆき Category:徳川斉昭の子女 Category:1858年生 Category:1873年没.

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松平頼位

松平 頼位(まつだいら よりたか)は、常陸宍戸藩の第8代藩主、第10代藩主。第5代藩主・松平頼救の四男。三島由紀夫の高祖父にあたる。.

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松平頼策

松平 頼策(まつだいら よりふみ、嘉永元年9月3日(1848年9月29日) - 明治20年(1887年)9月10日)は、常陸府中藩の第10代(最後)の藩主。第9代藩主・松平頼縄の三男。正室は松平頼胤の娘、継室は松平頼升の娘。子に頼孝(長男)、頼忠(次男)。官位は従四位下、播磨守。幼名は勇次郎。.

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松平頼聰

松平 頼聰(まつだいら よりとし)は、讃岐高松藩の第11代(最後の)藩主。.

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松平頼英

松平 頼英(まつだいら よりひで)は、伊予国西条藩の第10代(最後の)藩主。第9代藩主・松平頼学の5男(6男との説もある)。母は山野井氏。.

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松平親貴

松平 親貴(まつだいら ちかたか、天保9年5月15日(1838年7月6日) - 明治15年(1882年)8月20日)は、豊後杵築藩の第10代(最後)の藩主。杵築藩能見松平家13代。 第9代藩主松平親良の長男。母は側室松崎氏。正室は松平乗懿の娘。子は松平親信(長男)。官位は従五位下、河内守。幼名は録之助。 嘉永6年(1853年)2月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月7日、従五位下河内守に叙任する。慶応4年(1868年)2月13日、父親良に代わり上洛し、恭順の姿勢を示した。同年4月9日、親良の隠居により家督を継ぐ。父が佐幕派であったのに対し、親貴は新政府派であり、同年の戊辰戦争では新政府に与して会津にまで出兵した。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で免官された。同年9月23日、東京に移った。明治6年(1873年)1月22日、権少教正に就任する。明治15年(1882年)8月20日、父に先立って45歳で死去した。法号は泰岳院。墓所は東京都台東区谷中の谷中共同墓地。 *10 ちかたか Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1838年生 Category:1882年没.

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松平近説

松平 近説(まつだいら ちかよし)は、豊後国府内藩の第10代(最後)の藩主。一生系大給松平家12代。幕末に大給(おぎゅう)姓に改名し、大給近説となる。.

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松平茂昭

松平 茂昭(まつだいら もちあき)は、幕末から明治初期の大名、華族。越後糸魚川藩第7代藩主(越前松平家分家9代)、越前福井藩第17代の藩主であり一般には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第15代となる。、維新後は福井藩知事、侯爵となる。.

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松平武聰

松平 武聰(まつだいら たけあきら)は、石見浜田藩の第4代藩主、美作鶴田藩主。越智松平家第8代。徳川慶喜の異母弟に当たる。新字体では武聡。.

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松平慶倫

松平 慶倫(まつだいら よしとも、文政10年閏6月5日(1827年7月28日) - 明治4年7月26日(1871年9月10日))は、江戸時代末期の大名。美作国津山藩の第9代(最後)の藩主。 第7代藩主・松平斉孝の四男。生母は中西氏。正室は黒田長溥の養女(奥平昌暢の娘)。官位は正四位下左近衛中将、三河守。.

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松代藩

松代城 旧松代藩藩邸。昭和初期に神奈川県藤沢市の竜口寺へ移築された(現在の竜口寺大書院) 松代藩(まつしろはん)は、江戸時代、信濃国埴科郡松代町(現在の長野県長野市松代町松代)にあった藩。信濃国内の藩では最高の石高を有した。長野県長野市の松代城を居城とし川中島四郡を領した。藩主は、酒井家(左衛門尉)、越前松平家、真田家が就封した。なお本項では、城地は異なるが同じ領地を支配した川中島藩についても記載する。.

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松前修広

松前 修広(まつまえ ながひろ)は、江戸時代末期の大名。蝦夷地松前藩(館藩)最後の(14代)藩主。子爵。.

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松前藩

松前藩(まつまえはん)は、渡島国津軽郡(現在の北海道松前郡松前町)に居所を置いた藩である。藩主は江戸時代を通じて松前氏であった。後に城主となり同所に松前福山城を築く。居城の名から福山藩とも呼ばれる。慶応4年、居城を領内の檜山郡厚沢部町の館城に移し、明治期には館藩と称した。家格は外様大名の1万石格、幕末に3万石格となった。 江戸時代初期の領地は、現在の北海道南西部。渡島半島の和人地に限られた。残る北海道にあたる蝦夷地は、しだいに松前藩が支配を強めて藩領化した。藩と藩士の財政基盤は蝦夷地のアイヌとの交易独占にあり、農業を基盤にした幕藩体制の統治原則にあてはまらない例外的な存在であった。江戸時代後期からはしばしば幕府に蝦夷地支配をとりあげられた。.

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松江藩

藩庁松江城 松江藩(まつえはん)は、出雲1国または隠岐国を加えた2国を領有した藩。藩庁は松江城(島根県松江市殿町)。藩主は外様大名の堀尾氏、京極氏と続き、親藩の越前系松平氏が廃藩置県まで支配した。.

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松本藩

松本城(現存天守) 松本藩(まつもとはん)は、江戸時代に信濃国に存在した藩。藩庁は松本城。延宝年間の人口は90,000人。.

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松浦詮

松浦 詮(まつら あきら、天保11年10月18日(1840年11月11日) - 明治41年(1908年)4月13日)は、肥前国平戸藩第12代(最後の)藩主。松浦家第37代当主、茶人。書家。麝香間祗候、伯爵。 松浦秋(第10代藩主・松浦熈の三男。母は政野氏)の長男。正室は松浦晧の娘、継室は青山幸哉の娘。子は松浦厚(長男、伯爵家を継ぐ)、松浦靖(次男、分家の子爵家を継ぐ)、稲葉正縄(三男)、佐竹義準(四男)、大隈信常(五男、侯爵)、本多正復(六男、子爵)、松浦廉(七男)、井上勝純(八男、子爵)、長女・宣子(前田利嗣夫人)、次女・逸子(松平頼温夫人)、三女・都子(伊達宗基夫人)、正子(松井康義夫人)、冏子(伊達武四郎夫人)。官位は従五位下、肥前守。.

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板倉勝弼

板倉 勝弼(いたくら かつすけ、弘化3年5月6日(1846年5月30日) - 明治29年(1896年)10月21日)は、備中松山藩(高梁藩)の第8代(最後)の藩主、子爵。板倉家宗家14代。 第4代藩主板倉勝政の十一男・板倉勝喬の四男。母は石田氏。夫人は掛川藩主・太田資功の娘。側妻に森嶋氏。子は勝功(長男)、勝貞(次男)、勝宣(七男)、益子(牧野忠篤夫人)など。官位は従五位、のち正四位。.

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板倉勝弘

板倉 勝弘(いたくら かつのり)は、幕末 - 明治時代の大名、華族。位階は従五位下。.

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板倉勝達

板倉 勝達(いたくら かつさと、天保10年5月1日(1839年6月11日) - 大正2年(1913年)7月1日)は、江戸時代末期の大名で、最後の(第12代)陸奥福島藩主。重昌流板倉家第15代。明治期の裁判官、政治家、子爵。貴族院議員。板倉勝定(板倉家第11代板倉勝長の次男)の長男。正室は松原氏、継室は宇土藩細川行芬の娘・稲子。従五位下、内膳正。.

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板倉勝殷

板倉 勝殷(いたくら かつまさ)は、上野安中藩の第6代(最後)の藩主。重形系板倉家8代。諱は「かつまさ」とも「かつたか」とも。.

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杵築藩

杵築藩(木付藩、きつきはん)は、江戸時代の豊後国国東郡・速見郡内を領した藩。藩庁は杵築城(大分県杵築市)。.

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村岡藩

村岡藩(むらおかはん)は、明治時代初期の藩の一つ。但馬国七美郡を領した。藩庁は村岡陣屋に置かれた。 室町時代には全国の6分の1を支配した守護大名山名氏の末裔である山名豊国が、関ヶ原の戦いの戦功により、徳川家康から七美郡6700石を与えられたのが藩の始まりである。その後の領主は新田開発や産業の振興などをすすめて実高を増やしていき、1868年、明治政府によって1万1000石への高直しが認められて立藩した。.

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村上藩

村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。 豊臣政権下の1598年に村上氏が当地に入ったが1618年に改易。外様大名の堀氏3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年に内藤氏が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤氏が5万石の藩を統治した。.

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村松藩

村松藩(むらまつはん)は、越後国蒲原郡のうち、村松・下田・七谷・見附地方を支配した藩。藩庁は村松城(現在の新潟県五泉市)に置かれた。.

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桑名藩

桑名城の石垣 桑名藩(くわなはん)は、江戸時代に伊勢国に存在した藩。藩庁は桑名城(現在の三重県桑名市吉之丸)。.

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棚倉藩

棚倉藩(たなぐらはん)は、陸奥国(磐城国)白河郡・菊多郡・磐前郡・磐城郡などを支配した藩。藩庁は白河郡棚倉城に置かれた(現在の福島県東白川郡棚倉町)。.

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森川俊方

森川 俊方(もりかわ としかた)は、下総生実藩の第12代(最後)の藩主。 嘉永3年(1850年)1月、出羽松山藩の第6代藩主酒井忠方の六男として生まれる。文久2年(1862年)12月16日、生実藩の第11代藩主森川俊徳が死去したため、その末期養子となって家督を継いだ。12月23日、将軍徳川家茂に拝謁する。12月28日、従五位下・内膳正に叙位・任官する。 慶応4年(1868年)の戊辰戦争では、2月に家臣を上京させて新政府に恭順を誓い、4月16日に上洛した。閏4月29日に帰国の許可を得た。10月7日に東京に入り、12月には市中取締役を務めている。明治2年(1869年)6月24日の版籍奉還で生実藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で藩知事を免職された。 明治10年(1877年)11月7日に死去した。享年28。 Category:酒井氏 Category:森川氏 *12 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1850年生 Category:1877年没.

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森俊滋

森 俊滋(もり とししげ、天保4年(1833年)? - 明治12年(1879年)6月9日)は、播磨国三日月藩の第9代(最後)の藩主。 第8代藩主・森長国の次男。母は側室林氏。子に森長祥(長男)、伊代子(大田原一清正室)、娘(藤堂高義正室)。官位は従五位下、伊豆守、対馬守。幼名は松之助。 天保4年(1833年)、もしくは天保6年(1835年)5月生まれと言われている。妾腹の息子であったが、正室との間に生まれていた虎松丸が早世したため、天保14年(1843年)に世子となった。弘化4年(1847年)2月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。嘉永元年(1848年)9月10日、父長国の隠居により跡を継ぐ。同年12月16日、従五位下伊豆守に叙任する。 慶応4年(1868年)1月18日、上洛し、新政府支持の姿勢を示す。同年2月4日、新政府から二条城の守備を命じられる。明治2年(1869年)6月23日、版籍奉還により藩知事となり、明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免官された。明治12年(1879年)6月9日、三日月で死去した。法号は俊滋院殿光山日明大居士。墓所は兵庫県佐用郡佐用町東大畑の常勝院。.

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森忠儀

森 忠儀(もり ただのり)は、播磨赤穂藩の第12代(最後)の藩主。赤穂藩森家19代。 嘉永3年(1850年)4月24日、第10代藩主・森忠徳の三男として生まれる。慶応4年(1868年)3月19日、同母兄で第11代藩主の忠典が隠居したため、その養子として家督を継ぎ、従五位下・越後守に叙位・任官する。戊辰戦争では新政府に与して姫路藩攻撃に参加した。 明治2年(1869年)6月22日、版籍奉還により赤穂藩知事に任じられ、明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で藩知事を免官された。明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵に叙せられた。明治18年(1885年)10月15日に死去した。享年36。 たたのり 森13 Category:幕末の大名 Category:日本の子爵 Category:1850年生 Category:1885年没.

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森藩

森藩(もりはん)は、江戸時代に豊後国日田郡・玖珠郡・速見郡内を領した藩。藩庁として森(現在の大分県玖珠郡玖珠町)に森陣屋が置かれた。.

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椎谷藩

椎谷藩(しいやはん)は、越後国刈羽郡椎谷(現在の新潟県柏崎市椎谷)に陣屋を構え、周辺を領有した藩。藩庁は椎谷陣屋に置かれた。.

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植村家壷

植村 家壷(うえむら いえひろ)は、大和高取藩の第14代(最後)の藩主。 弘化4年(1847年)10月15日、播磨山崎藩主・本多忠鄰の六男として生まれる。慶応3年(1867年)12月5日、第13代高取藩主・植村家保の養子となる。明治元年(1868年)閏4月14日、家保の隠居にともない家督を継いだ。明治2年(1869年)2月から藩政改革に着手する。6月17日に版籍奉還により、植村藩知事に任じられる。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県で免職され、9月に東京へ移った。明治17年(1884年)7月8日、華族令により子爵となる。明治25年(1892年)9月、御陵墓守長となる。 大正9年(1920年)6月29日に死去した。享年74。.

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榊原政敬

榊原 政敬(さかきばら まさたか、天保14年(1843年)2月 - 昭和2年(1927年)3月7日)は、幕末の大名で、明治時代の華族。越後高田藩第6代(最後)の藩主。のち子爵。榊原家14代当主。 榊原政礼(高勝院・伊織・3代藩主・榊原政令の三男)の長男。正室は有馬温純の娘・久仁子。継室は前田慶寧の娘・禮子。子は重子(伊藤忠寿室)、彜子(榊原政和正室)、鑒子(榊原政和継室)。兵部大輔、式部大輔。.

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櫛羅藩

櫛羅藩(くじらはん)は、幕末に大和国(現在の奈良県御所市櫛羅)に存在した藩。藩庁は櫛羅陣屋。大和新庄藩の後身であり、領地は同じで、同じく永井氏が治めた。.

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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毛利元徳

毛利 元徳 / 定広(もうり もとのり / さだひろ)、天保10年9月22日(1839年10月28日) - 明治29年(1896年)12月23日)は、長州藩の第14代(最後の)藩主。のち公爵。位階は従一位。勲等は勲一等。.

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毛利元純

毛利 元純(もうり もとずみ)は、長門清末藩の第8代(最後)の藩主。.

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毛利元蕃

毛利 元蕃(もうり もとみつ、文化13年7月25日(1816年8月18日) - 明治17年(1884年)7月22日)は、周防徳山藩の第9代(最後)の藩主。就隆系毛利家9代。.

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毛利元敏

毛利 元敏(もうり もととし、嘉永2年5月3日(1849年6月22日)- 明治41年(1908年)4月2日)は、長門長府藩の第14代(最後)の藩主。 第12代藩主・毛利元運の六男。母は土屋彦直の娘・欽麗院。同母姉に毛利宗家の長州藩主・毛利元徳の正室・安子がいる。正室は正親町三条実愛の娘(毛利敬親の養女)・保子。側室に美濃子がいる。官位は従二位。幼名は宗五郎。子に毛利元雄、乃木希典の養子となった乃木元智、毛利邦樹、多栄子(三条公輝室)らがいる。.

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毛利高謙

毛利 高謙(もうり たかあき、1840年(天保11年)5月 - 1876年(明治9年)7月11日)は、豊後国佐伯藩の第12代(最後)の藩主。 第11代藩主毛利高泰の長男。正室は細川立則の娘。養子毛利高範は細川行真の次男。官位は従五位下、伊勢守。幼名は岩之助。 安政元年(1855年)10月、将軍徳川家定にお目見えする。同年12月、従五位下伊勢守に叙任する。文久2年(1862年)12月9日、父が病を理由に隠居したため、その跡を継いだ。翌年から軍備の近代化、海防の強化などを行なった。高謙は外交に巧みな人物で、幕命を受けて江戸佃島などの守備を行なう一方、朝廷の孝明天皇に対しても特産の和紙を献上して気脈を通じていた。慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いで幕府軍が敗れた後、新政府軍に恭順を誓った。明治元年(1868年)10月2日、豊国神社再建のために瓦を献上する。明治2年(1869年)の版籍奉還により知藩事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により免官となる。明治9年(1876年)7月11日、37歳で死去した。法号は温良院。 たかあき *12 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1840年生 Category:1876年没.

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水口藩

水口藩(みなくちはん)、近江国水口周辺(現在の滋賀県甲賀市)を領した藩。藩庁は水口城。.

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水野忠幹 (紀伊新宮藩主)

水野 忠幹(みずの ただもと)は、紀伊新宮藩(紀州藩附家老)第10代藩主。第9代藩主・水野忠央の長男。.

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水野忠弘

水野 忠弘(みずの ただひろ、安政3年6月18日(1856年7月19日) - 明治38年(1905年)12月7日)は、江戸時代末期の大名。出羽国山形藩第3代(最後)の藩主。近江国朝日山藩知事。忠元系水野家13代。先代藩主・水野忠精の長男。正室は水野忠制の娘(水野忠幹の養女)。継室は伊達宗城の娘。和泉守。従三位勲四等、子爵。.

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水野忠順

水野 忠順(みずの ただより、文政7年9月17日(1824年11月7日) - 明治17年(1884年)12月9日)は|江戸時代後期(幕末)の上総鶴牧藩の第3代(最後)の藩主。忠位系水野家6代。従五位下、山城守、壱岐守、周防守、肥前守、子爵。正室は前田利之の三女・建子。養子に水野忠義、水野忠宝。.

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水野忠敬

水野 忠敬(みずの ただのり)は、駿河沼津藩の第8代藩主。のちに上総菊間藩主。沼津藩水野家15代。.

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水野勝寛

水野 勝寛(みずの かつひろ)は、下総結城藩の第11代(最後)の藩主。水野宗家16代。.

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水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

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永井尚服

永井 尚服(ながい なおこと、1834年1月16日(天保4年12月7日) - 1885年(明治18年)6月11日)は、美濃加納藩の第6代(最後)の藩主。尚庸系永井家9代。.

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永井直哉

永井 直哉(ながい なおや〈なおちか〉、嘉永3年9月4日(1850年10月9日) - 明治45年(1912年)1月11日)は、大和櫛羅藩の第2代藩主。永井家宗家13代当主。子爵。 下総高岡藩主井上正瀧の五男。正室は飛鳥井雅典の娘・芳子。子は房子(長女)、直厚(次男)、千鶴雄、貞子(秋山定輔室、次女)、誠など。官位は従五位下、信濃守。幼名は伝八郎。慶応元年(1865年)10月、先代の永井直壮が死去した際、その養嗣子として跡を継いだ。同年12月19日、大坂加番を命じられる。慶応2年、従五位下信濃守に叙任する。慶応4年(1868年)1月19日、上洛する。明治2年(1869年)6月24日、版籍奉還により藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県により免官された。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した。明治45年(1912年)1月11日、63歳で死去した。.

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永井直諒

永井 直諒(ながい なおまさ)は、摂津高槻藩の第13代(最後)の藩主。子爵。 嘉永2年(1849年)11月24日、永井家一門で7000石を領した大身旗本・永井直次の三男として生まれる。慶応元年(1865年)閏5月16日、第12代藩主永井直矢の死去により、末期養子として家督を相続した。幕領3万2300石を預かった。同年12月15日、従五位下日向守に叙任する。慶応3年(1867年)11月17日、土屋寅直、土井利与ら雁間詰の大名たちと朝廷へ出仕しないことを申し合わせる。同年12月21日、京都火消役を命じられた。また、孝明天皇の一周忌に際し、泉涌寺の警備も命じられた。慶応4年(1868年)1月8日、上洛する。同年3月4日、明治政府から帰藩を許可される。同年閏4月10日、再び上洛する。戊辰戦争でははじめ日和見し、やがて新政府が有利になると、新政府に与した。高槻は京都から河内に通じる重要な拠点であり、このため直諒は明治維新の洞ヶ峠とまで言われた。 藩政においては打ちこわし、村方騒動、大洪水が起こり、藩財政は悪化した。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還により知藩事となる。明治3年(1870年)6月13日、高槻城の城門・櫓の破却を願い出る。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県で藩知事を免職となる。明治15年(1882年)、宮中祇候となる。明治17年(1884年)、子爵となる。明治18年(1885年)、賢所勤番となる。大正8年(1919年)12月14日に死去した。享年71。 なおまさ Category:高槻藩主 Category:幕末の大名 Category:日本の子爵 Category:1850年生 Category:1919年没.

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池田徳潤

池田 喜延(いけだ よしのぶ)または池田 徳潤(いけだ のります)は、幕末維新期の大名。播磨福本藩主。維新後は男爵。.

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池田章政

池田 章政(いけだ あきまさ)は、備中鴨方藩の第9代藩主、のち備前岡山藩の第10代(最後の)藩主。岡山藩池田家宗家の第12代当主。栄典は従一位勲一等侯爵、麝香間祗候。 肥後人吉藩の第13代藩主相良頼之の次男。正室は戸田氏正の娘鑑子。子は政保(長男)、詮政(次男)。備前守、侍従、左近衛権少将。幼名は満次郎。鴨方藩主時代の名乗りは池田 政詮(いけだ まさのり)。 頼之の祖父の相良長寛は岡山藩の第4代藩主池田宗政と正室(宝源院・黒田継高の長女)の次男であり、章政は宗政の男系の玄孫にあたることから、鴨方藩池田家、のちには岡山藩池田宗家の養子に迎えられることになった。.

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池田輝知

池田 輝知(いけだ てるとも、万延元年12月21日(1861年1月31日) - 明治23年(1890年)4月30日)は、旧因幡国鳥取藩主家池田氏第13代当主。最後の藩主池田慶徳の次男。正室は鍋島直正の娘・幸子。子は亨子(二女、池田仲博正室)、嚴子(三女、南部利淳正室)。 明治8年(1875年)5月27日、父・慶徳の隠居により家督を継ぎ、13代当主となる。明治17年(1884年)7月、華族令により侯爵を授与された。 明治23年(1890年)に死去した。30歳。男子がなかったため、叔父にあたる徳川慶喜(15代将軍)の五男・池田仲博(輝知の従弟)を婿養子に迎え、跡を継がせた。 墓所は鳥取県鳥取市立川町の大雲院にあり、神号は池田輝知命という。.

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池田政保

池田 政保(いけだ まさやす、元治元年12月10日(1865年1月7日) - 昭和14年(1939年)2月10日)は、備中国鴨方藩の第10代(最後)の藩主、子爵。 第9代鴨方藩主で岡山藩の第10代藩主となった池田章政(政詮)の長男。正室は池田慶政の娘、継室は戸田氏良の娘。養子に池田政鋹(弟・詮政の次男)。官位は従五位。幼名は満次郎。 慶応4年(1868年)3月15日、父・章政が宗家の岡山藩を継承したため、その跡を受けて幼くして鴨方藩主となる。明治2年(1869年)の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官され、9月に東京へ移った。明治17年(1884年)7月には華族令により子爵となる。 昭和14年(1939年)2月10日、満74歳で死去した。法名は高雲院。 まさやす *10 Category:幕末の大名 Category:幕末岡山藩の人物 Category:日本の子爵 Category:1865年生 Category:1939年没.

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池田政礼

池田 政礼(いけだ まさのり、嘉永2年12月17日(1850年1月29日) - 明治40年(1907年)10月7日)は、備中生坂藩の第8代(最後)の藩主。名の表記は池田政禮とも(旧字体)。 第7代藩主・池田政和の次男。正室は上杉斉憲の娘。養子に池田政時(本家岡山藩主池田慶政の子)。官位は従五位下、丹波守。幼名は日升丸。 安政2年(1855年)12月27日、父の隠居により家督を継ぐ。文久3年(1863年)、上京して御所の警備を務めた。慶応3年(1867年)12月に再び上京して、翌慶応4年(1868年)からの戊辰戦争では本家の岡山藩と共に、新政府軍に与した。そして大津口の警備や尾張藩への進軍などで功を挙げている。明治3年(1870年)正月、生坂藩知事となる。明治4年(1871年)7月14日、廃藩置県により免職され、9月に東京に移った。後に子爵となり、明治40年(1907年)に死去。養子の政時が跡を継いだ。政時は実子の政良が早世したため、養子として政英(姉小路公政の子)を迎えた。政時、政英もまた子爵となっている。.

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池田慶徳

池田 慶徳(いけだ よしのり)は、幕末の大名。因幡国鳥取藩12代(最後)の藩主、のち鳥取知藩事。鳥取藩池田家宗家14代。 常陸水戸藩主・徳川斉昭の五男で、母は側室の松波春子。15代将軍・徳川慶喜の異母兄にあたる。.

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沼田藩

沼田藩(ぬまたはん)は、上野利根郡(現在の群馬県沼田市西倉内町)に存在した藩。沼田城に藩庁を置いた。.

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泉藩

泉藩(いずみはん)は、陸奥国南部(磐城国)菊多郡(現在の福島県いわき市泉)に存在した藩。藩庁は泉陣屋(ただし、歴代藩主は城主格に列せられた)。.

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津山藩

津山城古写真(撮影:松平国忠) 津山藩(つやまはん)は、美作国の大半を領有した藩。藩庁は津山城(岡山県津山市)に置かれた。.

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津和野藩

津和野藩(つわのはん)は、江戸時代に石見国津和野(島根県鹿足郡津和野町)周辺を治めていた藩。藩庁は津和野城に置かれた。.

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津軽承叙

津軽 承叙(つがる つぐみち、津輕承敍、天保11年8月29日(1840年9月24日)- 明治36年(1903年)12月7日)は、陸奥黒石藩の第4代(最後)の藩主、のち華族(子爵)。官位は正三位。江戸幕府では従五位下式部少輔。.

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津軽承昭

津軽 承昭(つがる つぐあきら)は、陸奥国弘前藩の第12代(最後)の藩主。和歌にも優れていたと言われている。.

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津藩

津藩(つはん)は伊勢安濃郡安濃津(現在の三重県津市)に置かれた藩。安濃津藩(あのつはん)と呼ばれることもある。藩庁は安濃津城(津城)。石高は伊勢・伊賀2国を合わせた22万石(大坂の陣後、32万3,000石に加増で大和国などにも飛び地領が存在)。.

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淀藩

淀藩(よどはん)は、山城国(現在の京都府京都市伏見区淀本町)に存在した藩。.

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渡辺章綱

渡辺 章綱(わたなべ あきつな)は、江戸時代後期の大名。和泉伯太藩最後(第9代)の藩主。伯太藩渡辺家11代。維新後、藩知事・子爵。.

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清末藩

清末藩(きよすえはん)は、長門国に存在した藩。藩庁は清末陣屋(現在の山口県下関市清末)。 長州藩の支藩である長府藩のさらに支藩であり、長州藩の孫藩にあたる。長府新田藩(ちょうふしんでんはん)とも称する。江戸武鑑では当初「長門新田」と表記されていたが、毛利政苗による再興以降は「清末」と表記されるようになる。.

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湯長谷藩

湯長谷藩(ゆながやはん)は、陸奥国南部(磐城国)磐前郡の湯長谷陣屋(現在の福島県いわき市常磐下湯長谷町家中跡)に藩庁を置いた藩。 江戸時代前期に磐城平藩の支藩として成立して以降、廃藩置県まで譜代大名の内藤氏(一時期遠山氏を称した)が14代にわたって続いた。石高は時期によって変遷があるものの1万石台の小藩で、丹波国などにも飛び地領があった。本稿では、湯長谷に陣屋を移すまでの湯本藩(ゆもとはん)についても併せ述べる。.

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溝口直正

溝口直正 溝口 直正(みぞぐち なおまさ、安政2年2月25日(1855年4月11日) - 大正8年(1919年)10月17日)は、幕末維新期の大名。華族。越後新発田藩の第12代(最後)の藩主。第11代藩主溝口直溥の四男。幼名は誠之進。大名としての官位は従五位下伯耆守。維新後は伯爵。位階はのち従二位まで昇進した。母は側室で西村氏の娘。正室は旧近江大溝藩主分部光貞の娘久爾子、継室は某氏。.

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滝脇信敏

滝脇 信敏(たきわき のぶとし)は、駿河小島藩第11代藩主、のち上総桜井藩主。明治維新後に華族に列した。小島藩滝脇松平家11代。維新後に松平から滝脇へ改姓しており、藩主時代の名乗りは松平信敏(まつだいら のぶとし)であった(江戸時代後期から末期には同名の人物が多く存在する。松平信敏を参照)。.

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木下俊愿

木下 俊愿(きのした としまさ、天保8年4月27日(1837年5月31日)- 明治13年(1880年)4月15日)は、豊後日出藩の第16代(最後)の藩主。 第13代藩主・木下俊敦の七男。兄に俊方(第14代藩主)、俊程(第15代藩主)がいる。正室は伏原宣諭の娘。子は木下俊忠(長男)、木下俊哲(次男)、木下俊義(三男)、柳沢俊信(四男)、恒子(大谷光瑩室)、娘(堀直紹正室)。官位は従五位下、大和守。 慶応3年(1867年)5月29日、養父俊程の隠居により家督を継いだ。幕末の動乱の中で、藩内では佐幕派と尊皇派に分裂して対立が起こったが、俊愿は藩論を尊皇派にまとめて戊辰戦争では新政府に与することにした。慶応4年(1868年)1月13日上洛、16日参内し、新政府支持の姿勢を示した。明治元年(1868年)9月2日、木下利恭とともに新政府に対し豊国神社造営を申し付けを願う。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還で藩知事となる。その後、藩の行政改革を行なったが、重税を強いたために領民による一揆が起こった。明治4年(1871年)、廃藩置県により日出藩は廃藩となった。 明治13年(1880年)4月15日、44歳で死去した。墓所は東京都港区の青山墓地。 としまさ *16 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1837年生 Category:1880年没.

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木下利恭

木下 利恭(きのした としやす、天保3年7月24日(1832年8月19日)- 明治23年(1890年)3月29日)。備中足守藩の第12代(最後)の藩主。足守藩木下家12代。 第11代藩主・木下利愛の次男。母は山内豊策の娘。正室は二本松藩主・丹羽長富の娘。官位は従五位下。石見守。備中守。幼名は三之丞。明治期には子爵に列せられる。養嗣子に、大正時代の歌人として有名な木下利玄がいる。.

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本堂親久

本堂 親久(ほんどう ちかひさ)は、江戸時代後期の旗本・大名、明治時代の華族。常陸志筑藩主。男爵。.

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本多助実

本多 助実(ほんだ すけざね)は、信濃飯山藩の第7代藩主。一時期、家督を譲って隠居するが、続く2代の早世により、第10代として再任する。広孝系本多家11代。.

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本多助寵

本多 助寵(ほんだ すけたか)は、信濃飯山藩の第9代藩主。広孝系本多家13代。.

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本多康穣

本多 康穣(ほんだ やすしげ)は、近江膳所藩の第14代(最後)の藩主。康俊系本多家宗家14代。.

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本多忠伸

本多 忠伸(ほんだ ただのぶ)は、陸奥泉藩の第7代(最後)の藩主。忠以系本多家10代。 嘉永5年(1852年)1月22日、本多忠行の長男として生まれる。第6代藩主本多忠紀が戊辰戦争において旧幕府軍に与して新政府軍に抵抗したため、明治元年(1868年)12月に忠紀は強制隠居処分に処された。このため、養子である忠伸が家督を相続した。このとき、所領も2万石から1万8000石に減封された。 明治2年(1869年)の版籍奉還で泉藩知事となる。明治4年(1871年)の廃藩置県で藩知事を免職された。明治36年(1903年)3月5日に死去した。享年52。 たたのふ category:泉藩主 Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1852年生 Category:1903年没.

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本多忠直 (三河国岡崎藩主)

本多 忠直(ほんだ ただなお)は、三河岡崎藩の第6代(最後)の藩主。忠勝系本多家宗家16代。.

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本多忠貫

本多 忠貫(ほんだ ただつら)は、伊勢神戸藩の第7代(最後)の藩主。神戸藩本多家8代。.

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本多忠鵬

本多 忠鵬(ほんだ ただゆき)は、三河西端藩の第2代藩主。.

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本多忠明

本多 忠明(ほんだ ただあき、天保4年4月23日(1833年6月10日) - 明治34年(1901年)12月17日)は、播磨国山崎藩の第9代(最後)の藩主。政信系本多家10代。.

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本多正訥

本多 正訥(ほんだ まさもり)は、幕末・明治維新期の大名。駿河田中藩第7代藩主、安房長尾藩初代藩主(知藩事)。正重系本多家12代。.

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本多正憲

本多 正憲(ほんだ まさのり)は、明治維新期の安房長尾藩第2代知藩事、のち華族(子爵)・貴族院議員。正重系本多家13代。.

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本庄道美

本庄 道美(ほんじょう みちよし)は、美濃高富藩の第10代(最後)の藩主。 文政3年(1820年)2月17日、第9代藩主・本庄道貫の長男として生まれる。安政5年(1858年)、父の死去により家督を継ぐ。安政6年(1859年)に大番頭、文久3年(1863年)に二条御定番、慶応3年(1867年)に雉子橋御門番などを歴任した。慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に協力した。 明治2年(1869年)6月の版籍奉還で藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県で免官された。明治9年(1876年)7月17日に死去した。享年57。三男道行が病弱であったため、四女久米を後継者として、婿養子を迎えることにした。 *10 みちよし Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1820年生 Category:1876年没.

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本荘藩

本荘藩(ほんじょうはん)は、出羽国(後の羽後国)の由利郡にあった藩。藩庁は本荘城(現在の秋田県由利本荘市)に置かれた。.

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朽木為綱

朽木 為綱(くつき もりつな)は、丹波福知山藩の第13代(最後)の藩主。福知山藩朽木家14代。.

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有馬道純

有馬 道純(ありま みちずみ、天保8年9月9日(1837年10月8日) - 明治36年(1903年)5月24日)は、日本の華族。子爵。江戸時代末期の大名、老中。越前丸岡藩の第8代(最後)の藩主。晴信系有馬家11代。官位は従四位下侍従、左兵衛佐、遠江守。.

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有馬頼咸

有馬 頼咸(ありま よりしげ)は、筑後久留米藩の第11代(最後)の藩主。久留米藩有馬家12代。 幕末期、久留米藩主としての時期の諱は慶頼(よしより)であるが、本項の記述では明治元年(1868年)改名以後の頼咸で統一する。.

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有馬氏弘

有馬 氏弘(ありま うじひろ)は、下野吹上藩の第2代(最後)の藩主。氏倫系有馬家10代。.

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有栖川宮熾仁親王

有栖川宮 熾仁親王(ありすがわのみや たるひとしんのう、天保6年2月19日(1835年3月17日) - 明治28年(1895年)1月15日)は、江戸時代後期~明治時代の日本の皇族、政治家、軍人。号は初め「泰山」、後に「霞堂」。階級・勲等・功級は陸軍大将大勲位功二級。 有栖川宮幟仁親王の第1王子で、幼名は歓宮(よしのみや)。生母は家女房の佐伯祐子。官職は任命順に、大宰帥、国事御用掛、政府総裁、東征大総督、兵部卿、福岡藩知事(のちに県知事、県令)、元老院議官(後に議長)、鹿児島県逆徒征討総督、左大臣、陸軍参謀本部長、参謀総長、神宮祭主。 和宮親子内親王と婚約していたことで知られる#三島由紀夫のニ・ニ六事件76-77頁。だが和宮との婚約は徳川幕府の権力失墜に伴い公武合体を余儀なくされた幕府が公武合体を国内外に誇示するための実績として和宮は降嫁し、徳川将軍第14代徳川家茂と結婚した。主旧水戸藩主・徳川斉昭の娘で徳川慶喜の妹の徳川貞子を、明治維新後に最初の妃として迎える。貞子は婚儀の2年後、熾仁親王の福岡赴任中に23歳で病没。明治6年(1873年)7月に旧越後新発田藩主・溝口直溥の七女・董子と再婚した。 明治維新後は陸軍軍人として明治天皇を支え、王政復古による天皇中心の明治政府樹立において、政務を統括する最高官職である三職の総裁を務めた。明治28年(1895年)に61歳で薨去。有栖川宮は跡を継いだ異母弟の有栖川宮威仁親王の代で断絶した。.

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挙母藩

七州城復興隅櫓 挙母藩(ころもはん)は、三河国の北西部、現在の愛知県豊田市中心部を治めた2万石の譜代大名の小藩。藩庁は挙母城(別名七州城)。挙母藩の歴史は領主により大きく4つに分かれる。.

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成羽藩

成羽陣屋跡 成羽藩(なりわはん)は、備中国成羽郷(現在の岡山県高梁市成羽町)周辺を領有した藩。江戸時代の大半は交代寄合(旗本)領であった。藩庁は成羽城(後期は成羽陣屋と呼ばれる)に置かれた。.

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成瀬正肥

成瀬 正肥(なるせ まさみつ)は、江戸時代末期の尾張藩・附家老。尾張国犬山藩9代(最後の)藩主。明治維新後、子爵。.

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戸田忠友

戸田 忠友(とだ ただとも)は、下野宇都宮藩の第7代(最後)の藩主。宇都宮藩戸田家13代。.

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戸田忠綱

戸田 忠綱(とだ ただつな)は、下野高徳藩の第2代藩主。後に下総曾我野藩知事。.

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戸田忠行

戸田 忠行(とだ ただゆき)は、下野足利藩の第8代(最後)の藩主。宇都宮藩戸田家分家8代。.

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戸田氏共

戸田 氏共(とだ うじたか)は、江戸時代末期(幕末)の大名、明治から昭和期の華族。美濃国大垣藩第11代藩主。大垣藩戸田家12代。位階勲等爵位は従一位勲一等伯爵。官職はオーストリア=ハンガリー全権公使、式部長官など。.

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戸田氏良

戸田 氏良(とだ うじよし)は、美濃大垣新田藩(三河畑村藩)の第8代藩主。のち美濃野村藩主。大垣藩戸田家分家8代。.

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戸沢正実

戸沢 正実(とざわ まさざね)は、出羽新庄藩の第11代藩主。.

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明石藩

明石藩(あかしはん)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区など)を領した藩。藩庁は明石城に置かれた。 明石城跡.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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浜田藩

浜田藩(はまだはん)は、石見国浜田(現在の島根県浜田市)周辺を領有した藩。藩庁は浜田城に置かれた。.

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浅尾藩

浅尾藩(あさおはん)は江戸時代、備中・河内・山城・摂津に知行地のあった藩。藩庁は浅尾陣屋(現在の岡山県総社市)。.

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浅野長勲

浅野 長勲(あさの ながこと)は、日本の江戸時代末から昭和初期の大名、政治家、外交官、実業家、社会事業家。 安芸広島新田藩第6代藩主、のち広島藩第12代(最後の)藩主。浅野宗家13代当主。勲等爵位は勲一等侯爵。.

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新庄直敬

新庄 直敬(しんじょう なおたか)は、常陸麻生藩の第15代(最後)の藩主。.

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新庄藩

新庄藩(しんじょうはん)は、出羽国(羽前国)最上郡全域(現在の山形県新庄市周辺)と村山郡の一部(現在の北村山郡大石田町・村山市・河北町)を統治した藩。居城は新庄城。.

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新発田藩

新発田藩(しばたはん)は、越後国蒲原郡新発田(現在の新潟県新発田市)を中心に現在の下越地方の一部などを治めた藩。藩庁は新発田城。藩主は溝口氏。家格は外様大名で、石高は 6万石(のち 5万石 → 10万石と推移)。.

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新見藩

新見藩(にいみはん)は、江戸時代中期より廃藩置県まで備中国にあった藩。藩庁は阿賀郡(現:岡山県新見市)の新見陣屋。立藩以来、外様大名の関氏が藩主を務め、石高は1万8千石であった。.

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日出藩

日出城跡(本丸石垣) 日出藩(ひじはん)は、豊後国速見郡に存在した藩。拠点は速見郡日出。居城は日出城。藩主は木下氏であった。.

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敦賀藩

敦賀藩(つるがはん)は、越前国敦賀郡(現在の福井県敦賀市)を支配した藩。別名を鞠山藩(まりやまはん)と言う。 敦賀藩の前史は結城秀康、松平忠直の越前松平家の領地の一部である敦賀領であった。この敦賀領は後に松平家を離れ、若狭京極家の小浜藩領となった。敦賀藩の創設は小浜藩第2代藩主・酒井忠直が死に臨んで次男・酒井忠稠に1万石を分与していたことから始まった。小浜藩の支藩である。藩庁は敦賀郡最東に築かれた鞠山陣屋に置かれ、同陣屋は千葉県の飯野陣屋、山口県の徳山陣屋と共に、日本三大陣屋の一つに数えられる。.

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10月11日

10月11日(じゅうがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から284日目(閏年では285日目)にあたり、年末まであと81日ある。.

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10月19日

10月19日(じゅうがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から292日目(閏年では293日目)にあたり、年末まであと73日ある。.

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10月23日 (旧暦)

旧暦10月23日は旧暦10月の23日目である。六曜は友引である。.

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10月24日

10月24日(じゅうがつにじゅうよっか、じゅうがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から297日目(閏年では298日目)にあたり、年末まであと68日ある。.

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10月25日 (旧暦)

旧暦10月25日は旧暦10月の25日目である。六曜は仏滅である。.

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10月27日

10月27日(じゅうがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から300日目(閏年では301日目)にあたり、年末まであと65日ある。.

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10月29日 (旧暦)

旧暦10月29日は旧暦10月の29日目である。年によっては10月の最終日となる。六曜は友引である。.

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11月18日

11月18日(じゅういちがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から322日目(閏年では323日目)にあたり、年末まであと43日ある。.

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11月18日 (旧暦)

旧暦11月18日は旧暦11月の18日目である。六曜は仏滅である。.

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11月22日

11月22日(じゅういちがつにじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から326日目(閏年では327日目)にあたり、年末まであと39日ある。.

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11月26日

11月26日(じゅういちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から330日目(閏年では331日目)にあたり、年末まであと35日ある。.

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11月2日 (旧暦)

旧暦11月2日(きゅうれきじゅういちがつふつか)は旧暦11月の2日目である。六曜は赤口である。.

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12月14日 (旧暦)

旧暦12月14日(きゅうれきじゅうにがつじゅうよっか)は、旧暦12月の14日目である。六曜は先勝である。.

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12月20日

12月20日(じゅうにがつはつか、じゅうにがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から354日目(閏年では355日目)にあたり、年末まであと11日ある。.

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12月4日

12月4日(じゅうにがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から338日目(閏年では339日目)にあたり、年末まであと27日ある。.

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12月7日 (旧暦)

旧暦12月7日(きゅうれきじゅうにがつなのか)は旧暦12月の7日目である。六曜は赤口である。.

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1869年

記載なし。

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1870年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1月12日 (旧暦)

旧暦1月12日は旧暦1月の12日目である。六曜は赤口である。.

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1月28日 (旧暦)

旧暦1月28日は旧暦1月の28日目である。六曜は仏滅である。.

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1月4日 (旧暦)

旧暦1月4日(きゅうれきいちがつよっか)は旧暦1月の4日目である。六曜は仏滅である。.

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1月8日

1月8日(いちがつようか)は、グレゴリオ暦で年始から8日目に当たり、年末まであと357日(閏年では358日)ある。誕生花はアザレア。.

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2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

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2月11日 (旧暦)

旧暦2月11日(きゅうれきにがつじゅういちにち)は、旧暦2月の11日目である。六曜は赤口である。.

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2月12日

2月12日(にがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から43日目にあたり、年末まであと322日(閏年では323日)ある。.

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2月15日

2月15日(にがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から46日目にあたり、年末まであと319日(閏年では320日)ある。.

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2月22日

2月22日(にがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から53日目にあたり、年末まであと312日(閏年では313日)ある。.

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2月22日 (旧暦)

旧暦2月22日は旧暦2月の22日目である。六曜は大安である。.

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2月24日 (旧暦)

旧暦2月24日は旧暦2月の24日目である。六曜は先勝である。.

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2月28日

2月28日(にがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦においては年始から59日目にあたり、年末まであと306日(閏年では307日)ある。平年では、この日が2月の末日になる。 日本においては冬であり、本朝七十二候においては多く「霞始めてたなびく」(「かすみが たなびき始める」)に当たる。誕生花はフリージア(アヤメ水仙)とされる。.

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2月3日

2月3日(にがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から34日目に当たり、年末まであと331日(閏年では332日)ある。.

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3月23日

3月23日(さんがつにじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から82日目(閏年では83日目)にあたり、年末まであと283日ある。.

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3月25日

3月25日(さんがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から84日目(閏年では85日目)にあたり、年末まであと281日ある。.

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3月31日

3月31日(さんがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から90日目(閏年では91日目)にあたり、年末まであと275日ある。3月の最終日。 日本では前年4月始まりの年度最終日とされている。.

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4月10日 (旧暦)

旧暦4月10日(きゅうれきしがつとおか)は、旧暦4月の10日目である。六曜は先勝である。.

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4月12日 (旧暦)

旧暦4月12日は旧暦4月の12日目である。六曜は先負である。.

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5月12日

5月12日(ごがつじゅうににち)は、グレゴリオ暦で年始から132日目(閏年では133日目)にあたり、年末まではあと233日ある。誕生花はアスチルベ。.

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5月15日 (旧暦)

旧暦5月15日は旧暦5月の15日目である。六曜は先勝である。.

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5月28日

5月28日(ごがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から148日目(閏年では149日目)にあたり、年末まではあと217日ある。誕生花はアマリリス。.

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5月8日 (旧暦)

旧暦5月8日は旧暦5月の8日目である。六曜は赤口である。.

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6月13日

6月13日(ろくがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から164日目(閏年では165日目)にあたり、年末まであと201日ある。誕生花はトケイソウ、クチナシ。.

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6月17日 (旧暦)

旧暦6月17日は旧暦6月の17日目である。六曜は仏滅である。.

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6月19日 (旧暦)

旧暦6月19日は旧暦6月の19日目である。六曜は赤口である。.

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6月20日 (旧暦)

旧暦6月20日は旧暦6月の20日目である。六曜は先勝である。.

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6月22日 (旧暦)

旧暦6月22日は旧暦6月の22日目である。六曜は先負である。.

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6月23日 (旧暦)

旧暦6月23日は旧暦6月の23日目である。六曜は仏滅である。.

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6月24日 (旧暦)

旧暦6月24日は旧暦6月の24日目である。六曜は大安である。.

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6月25日 (旧暦)

旧暦6月25日は旧暦6月の25日目である。六曜は赤口である。.

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6月27日 (旧暦)

旧暦6月27日は旧暦6月の27日目である。六曜は友引である。.

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6月28日 (旧暦)

旧暦6月28日は旧暦6月の28日目である。六曜は先負である。.

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6月29日 (旧暦)

旧暦6月29日は旧暦6月の29日目である。年によっては6月の最終日となる。六曜は仏滅である。.

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6月6日

6月6日(ろくがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から157日目(閏年では158日目)にあたり、年末まであと208日ある。誕生花はジギタリス、スターチス。.

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7月14日 (旧暦)

旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.

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7月19日 (旧暦)

旧暦7月19日(きゅうれきしちがつじゅうくにち)は、旧暦7月の19日目である。六曜は先勝である。.

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7月22日 (旧暦)

旧暦7月22日は旧暦7月の22日目である。六曜は仏滅である。.

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7月25日

7月25日(しちがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から206日目(閏年では207日目)にあたり、年末まであと159日ある。誕生花はインパチェンス、スイセンノウ。.

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7月25日 (旧暦)

旧暦7月25日は旧暦7月の25日目である。六曜は先勝である。.

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7月27日

7月27日(しちがつにじゅうななにち、しちがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から208日目(閏年では209日目)にあたり、年末まであと157日ある。誕生花はフウロソウ、ホオズキ。.

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7月27日 (旧暦)

旧暦7月27日は旧暦7月の27日目である。六曜は先負である。.

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7月28日

7月28日(しちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から209日目(閏年では210日目)にあたり、年末まであと156日ある。誕生花はオシロイバナ、グロリオーサ。.

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7月2日 (旧暦)

旧暦7月2日(きゅうれきしちがつふつか)は旧暦7月の2日目である。六曜は友引である。.

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7月30日

7月30日(しちがつさんじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から211日目(閏年では212日目)にあたり、年末まであと154日ある。誕生花はニチニチソウ、ホウセンカ。.

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7月31日

7月31日(しちがつさんじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から212日目(閏年では213日目)にあたり、年末まであと153日ある。7月の最終日である。誕生花はカボチャ、ビヨウヤナギ。.

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7月4日 (旧暦)

旧暦7月4日(きゅうれきしちがつよっか)は旧暦7月の4日目である。六曜は仏滅である。.

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8月11日

8月11日(はちがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から223日目(閏年では224日目)にあたり、年末まであと142日ある。.

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8月13日 (旧暦)

旧暦8月13日は旧暦8月の13日目である。六曜は友引である。.

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8月14日

8月14日(はちがつじゅうよっか、はちがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から226日目(閏年では227日目)にあたり、年末まであと139日ある。.

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8月14日 (旧暦)

旧暦8月14日(きゅうれきはちがつじゅうよっか)は、旧暦8月の14日目である。六曜は先負である。.

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8月17日

8月17日(はちがつじゅうななにち、はちがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から229日目(閏年では230日目)にあたり、年末まであと136日ある。.

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8月17日 (旧暦)

旧暦8月17日は旧暦8月の17日目である。六曜は赤口である。.

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8月19日 (旧暦)

旧暦8月19日(きゅうれきはちがつじゅうくにち)は、旧暦8月の19日目である。六曜は友引である。.

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8月1日

8月1日(はちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から213日目(閏年では214日目)にあたり、年末まではあと152日ある。.

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8月21日

8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。.

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8月26日

8月26日(はちがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から238日目(閏年では239日目)にあたり、年末まであと127日ある。.

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8月28日

8月28日(はちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から240日目(閏年では241日目)にあたり、年末まであと125日ある。.

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8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.

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8月2日

8月2日(はちがつふつか)はグレゴリオ暦で年始から214日目(閏年では215日目)にあたり、年末まではあと151日ある。.

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8月2日 (旧暦)

旧暦8月2日(きゅうれきはちがつふつか)は旧暦8月の2日目である。六曜は先負である。.

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8月4日

8月4日(はちがつよっか)はグレゴリオ暦で年始から216日目(閏年では217日目)にあたり、年末まであと149日ある。.

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8月6日

8月6日(はちがつむいか)は、グレゴリオ暦で年始から218日目(閏年では219日目)にあたり、年末まであと147日ある。.

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8月7日 (旧暦)

旧暦8月7日(きゅうれきはちがつなのか)は、旧暦8月の7日目である。六曜は友引である。.

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9月12日

9月12日(くがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から255日目(閏年では256日目)にあたり、年末まであと110日ある。.

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9月17日 (旧暦)

旧暦9月17日(きゅうれきくがつじゅうななにち、きゅうれきくがつじゅうしちにち)は、旧暦9月の17日目である。六曜は先勝である。.

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9月18日

9月18日(くがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から261日目(閏年では262日目)にあたり、年末まであと104日ある。.

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9月19日

9月19日(くがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から262日目(閏年では263日目)にあたり、年末まであと103日ある。.

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9月1日

9月1日(くがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から244日目(閏年では245日目)にあたり、年末まではあと121日ある。.

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9月20日 (旧暦)

旧暦9月20日(きゅうれきくがつはつか)は旧暦9月の20日目である。六曜は仏滅である。.

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9月23日 (旧暦)

旧暦9月23日は旧暦9月の23日目である。六曜は先勝である。.

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9月24日

9月24日(くがつにじゅうよっか、くがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から267日目(閏年では268日目)にあたり、年末まであと98日ある。.

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9月25日 (旧暦)

旧暦9月25日は旧暦9月の25日目である。六曜は先負である。.

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9月3日

9月3日(くがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から246日目(閏年では247日目)にあたり、年末まであと119日ある。.

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9月7日

9月7日(くがつなのか)はグレゴリオ暦で年始から250日目(閏年では251日目)にあたり、年末まであと115日ある。.

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