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松平親良

索引 松平親良

松平 親良(まつだいら ちかよし)は、豊後杵築藩の第9代藩主。杵築藩能見松平家12代。 第8代藩主・松平親明の長男。母は側室といわれている。文政8年(1825年)12月29日、父の死去により跡を継ぐ。文政9年11月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下河内守に叙任する。後に対馬守、大隅守に改める。天保13年(1842年)7月25日、奏者番に就任する。 文久2年(1862年)閏8月23日、奏者番の役職が廃止となる。同年12月16日、従四位下中務大輔に昇進する。文久3年10月22日、奏者番に再び就任する。元治元年(1864年)11月19日、寺社奉行の兼任を命じられる。慶応2年(1866年)6月15日、寺社奉行を解任される。慶応4年2月22日、奏者番を辞職する。 親良自身は幕閣に加わったことから佐幕派であり、慶応2年(1866年)の第2次長州征伐においても協力的であったが、藩内では尊王攘夷派と佐幕派で分裂して対立が続いた。そのため、慶応4年(1868年)3月24日、ようやく上洛し、明治天皇に拝謁した。そして、同年4月9日、長男の親貴に家督を譲って隠居した。明治24年(1891年)2月3日、82歳で死去した。 ちかよし *09 Category:幕末の大名 Category:江戸幕府寺社奉行 Category:幕末幕府の人物 Category:1810年生 Category:1891年没.

35 関係: 台東区奏者番寺社奉行尊王攘夷徳川家斉従五位元治西尾忠篤豊後国能見松平家長州征討東京都松が谷 (台東区)松平乗全松平親貴松平親明杵築藩永井直矢江戸幕府江戸時代河内国司明治海禅寺文化 (元号)文政慶応1810年1825年1864年1866年1868年1891年2月23日 (旧暦)2月3日3月27日

台東区

台東区(たいとうく)は、東京都の特別区の一つ。23区東部に区分される。 面積は23区の中で最も狭い。.

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奏者番

奏者番(そうじゃばん/そうしゃばん)は江戸幕府および藩の役職の一つである。城中における武家の礼式を管理する。.

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寺社奉行

延暦寺根本中堂 寺社奉行(じしゃぶぎょう)は、室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代の諸藩における職制の1つで、宗教行政機関。鎌倉幕府以降、寺社の領地・建物・僧侶・神官のことを担当した武家の職名。江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置し、楽人(雅楽演奏者)・陰陽師・囲碁将棋師に関する事項をも扱った。.

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尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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従五位

従五位(じゅごい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正五位の下、正六位の上に位する。贈位の場合、贈従五位という。近代以前の日本における位階制度では、従五位下以上の位階を持つ者が貴族とされている。また、華族の嫡男が従五位に叙せられることから、華族の嫡男の異称としても用いられた。.

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元治

元治(げんじ)は日本の元号の一つ。文久の後、慶応の前。1864年から1865年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂。.

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西尾忠篤

西尾 忠篤(にしお ただあつ)は、遠江横須賀藩の第8代藩主。のちに安房花房藩主。横須賀藩西尾家11代。子爵。.

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豊後国

豊後国(ぶんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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能見松平家

能見松平家(のみまつだいらけ)は、三河国の松平氏の庶流。松平信光の八男・光親を祖とする。三河国額田郡能見(現在の愛知県岡崎市能見町)を領したことから能見松平家と称す。.

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長州征討

長州征討(ちょうしゅうせいとう)は、元治元年(1864年)と慶応2年(1866年)の2回にわたり、江戸幕府が長州藩の処分をするために長州藩領のある周防国、長門国(以下、防長二州と記す)へ向け征討の兵を出した事件を指す。長州征伐、長州出兵、幕長戦争、長州戦争などとも呼ばれる。 特に慶応元年(1865年)5月の江戸幕府14代将軍徳川家茂の進発(出陣)に始まり、慶応3年(1867年)1月23日の解兵令に至る第二次長州征討は「長州再征」とも呼ばれ幕末政治史上の一大事件となったが、長州側の立場から当該事件を歴史的に捉えた場合は四境戦争と呼ぶ向きもある。.

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東京都

東京都シンボルマーク。1989年(平成元年)に旧東京市の成立100周年を記念して同年6月1日に制定。「東京都の頭文字の「T」を中央に秘めている『都政 2012』東京都生活文化局広報広聴部広報課 編集・発行、2012年3月発行。東京都が作成した、240ページほどの冊子。」と解説されている。(都の木はイチョウではあるが)イチョウの葉の形を象ったわけではない、という。 東京都(とうきょうと)は、日本の首都事実上の首都。詳細後述であり、関東地方に位置する東京都区部(東京23区)、多摩地域(市部、西多摩郡)、島嶼部(大島支庁・三宅支庁・八丈支庁・小笠原支庁)を管轄する広域地方公共団体(都道府県)の一つである。都庁所在地は新宿区(東京と表記する場合もある)。 都公認の英語の表記はTokyo Metropolis (Tokyo Met.) 。他にはTokyo PrefectureとTokyo Metropolitan Prefectureがある。.

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松が谷 (台東区)

松が谷(まつがや)は、東京都台東区の地名。現行行政地名は松が谷一丁目から松が谷四丁目。郵便番号は111-0036。.

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松平乗全

松平 乗全(まつだいら のりやす)は、幕末の大名、老中。三河西尾藩第4代藩主。大給松平家宗家14代。3代藩主松平乗寛の長男。母は阿部正倫の娘。弟に越後長岡藩に養子入りし、老中を務めた牧野忠恭がいる。同じく老中の阿部正弘は母方の従弟で、老中で日本赤十字社創設者の一人でもある松平乗謨(後の大給恒)は外孫にあたる。 幕府では寺社奉行、大坂城代を経て老中を務めた。同列の松平忠優(後の忠固)と歩調を合わせ、対外問題では開国・和親を、将軍継嗣問題では南紀派に与して紀州藩の徳川慶福(後の家茂)を推し、海防参与の水戸藩主徳川斉昭と対立したため、安政2年(1855年)、斉昭に譲歩した阿部正弘の命令で忠優と共に老中を免職され、閣外に放逐された。 しかしその後、正弘死後に幕政の実権を握った老中首座堀田正睦により、名誉回復の意味をこめて、帝鑑間席より溜詰格に栄転している。また、安政5年(1858年)には大老井伊直弼の推挙により老中に再任している。しかし直弼の暗殺(桜田門外の変)後は閣内での影が薄くなり、万延元年(1860年)に辞任、文久2年(1862年)に1万石減封の上で隠居を命じられ、末弟の乗秩が養子として家督を継いだ。幕府滅亡を経て乗秩の死後、末子の乗承が大給松平家の家督を継承している。 明治3年(1870年)に死去、享年76。墓所は愛知県西尾市の盛巌寺。.

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松平親貴

松平 親貴(まつだいら ちかたか、天保9年5月15日(1838年7月6日) - 明治15年(1882年)8月20日)は、豊後杵築藩の第10代(最後)の藩主。杵築藩能見松平家13代。 第9代藩主松平親良の長男。母は側室松崎氏。正室は松平乗懿の娘。子は松平親信(長男)。官位は従五位下、河内守。幼名は録之助。 嘉永6年(1853年)2月15日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年12月7日、従五位下河内守に叙任する。慶応4年(1868年)2月13日、父親良に代わり上洛し、恭順の姿勢を示した。同年4月9日、親良の隠居により家督を継ぐ。父が佐幕派であったのに対し、親貴は新政府派であり、同年の戊辰戦争では新政府に与して会津にまで出兵した。明治2年(1869年)6月20日、版籍奉還により知藩事となる。明治4年(1871年)7月15日、廃藩置県で免官された。同年9月23日、東京に移った。明治6年(1873年)1月22日、権少教正に就任する。明治15年(1882年)8月20日、父に先立って45歳で死去した。法号は泰岳院。墓所は東京都台東区谷中の谷中共同墓地。 *10 ちかたか Category:幕末の大名 Category:日本の華族 Category:1838年生 Category:1882年没.

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松平親明

松平 親明(まつだいら ちかあきら)は、豊後杵築藩の第8代藩主。杵築藩能見松平家11代。 第6代藩主・松平親貞の次男。享和元年(1801年)4月13日、松平親賢の養子となる。同年5月15日、将軍徳川家斉に拝謁する。同年12月16日、従五位下備前守に叙任する。後に志摩守に改める。享和2年(1802年)11月20日、養父親賢の死去により、家督を相続する。文政元年(1818年)8月24日、奏者番に就任する。親明自身は能楽に秀でていたと言われているが、藩政においては百姓の逃散や一揆、打ちこわしが相次ぐなど多難を極めた。文政8年(1825年)11月12日、41歳で死去し、跡を長男の親良が継いだ。 ちかあきら *08 Category:1785年生 Category:1825年没.

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杵築藩

杵築藩(木付藩、きつきはん)は、江戸時代の豊後国国東郡・速見郡内を領した藩。藩庁は杵築城(大分県杵築市)。.

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永井直矢

永井 直矢(ながい なおつら)は、摂津高槻藩の第12代藩主。 天保13年(1842年)、豊後杵築藩主松平親良の次男として生まれる。文久元年(1861年)9月25日、第11代藩主永井直輝の隠居により家督を相続した。幕領3万2300石を預かった。同年9月晦日、京都火消役を命じられる。同年12月16日、従五位下飛騨守に叙任する。文久3年(1863年)2月29日、上洛する。同年3月2日、二条城の警備を命じられる。同年3月30日、京都警備を命じられる。同年7月19日、京都火消役を命じられる。同年8月18日、二条城の警備を命じられる。元治元年(1864年)5月5日、従五位上に昇進する。 幕末期には佐幕派として大坂・京都の警備を担当した。慶応元年(1865年)4月17日に死去した。享年24。跡を養子の直諒が継いだ。 なおつら Category:能見松平氏 Category:高槻藩主 Category:幕末の大名 Category:杵築藩の人物 Category:1842年生 Category:1865年没.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河内国司

河内国司(かわちこくし)は河内国の国司で、大国であるため、養老律令の職員令にて守・介・大掾・少掾・大目・少目の各1名が定員とされたが、それぞれの権官が置かれることもあった。官位相当は守(従五位上)、介(正六位下)、大掾(正七位下)、少掾(従七位上)、大目(従八位上)、少目(従八位下)。このほか、官位相当外の下級官人として史生3名が定められた。 河内国は藤原京、平城京、長岡京、平安京などの各時代の都の隣国という位置にあり、都と海を繋ぐ要衝の地であったために重要視され、都に近いことから権力の中枢にある権力者の与党が任命されたり兼務することが多かった。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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海禅寺

海禅寺(かいぜんじ)は、東京都台東区松が谷三丁目にある臨済宗系の単立寺院。振袖火事の後、現在の浅草に移る。蜂須賀氏の庇護あつく、世に「阿波様寺」と呼ばれた。 かつては、臨済宗妙心寺派に属する禅宗寺院で、大雄山と号し、寛永元年(1624年)神田明神の北、妻恋に草創。江戸における妙心寺派触頭のひとつであった。 本尊・釈迦如来、開山・覚印周嘉、開基・曽我主計頭尚祐。海禅寺の称は、下総 守谷の高野(現在、茨城県守谷市高野)に現存する大雄山 海禅寺(平将門が創建したとされる(同寺の寺紋は、平将門に由来する九曜紋)の同名の寺の山号 寺名を引き継いだものである。(守谷の海禅寺の現住職は、浅草の海禅寺を うちの分家寺であると言っている)。梅田雲浜の墓があることでも知られる。 なお 覚印は、後に 元禄九年三月 無疑浄光禅師を諡られた。(無疑の疑は、正しくは疑の左に石が付く) 覚印は、常陸国真壁(現 茨城県桜川市真壁)の生まれであると江戸幕府に寺籍調査票の開創由緒にて上申している。 更に 覚印は 那須、黒羽の 東山 雲厳寺 中興開山の 無住妙徳禅師の 法孫にあたる。 また 海禅寺は 正法山 妙心寺 東海派の 江戸府内における最初の寺院であった。海禅寺は、前述のとおり、現在は単立ではあるが、最大時には、三浦半島、甲斐国など広範囲に子院および塔頭を配し、その数 40ヶ寺をこえる 大寺院であった。開山忌は12月である。 関東大震災で大被害、また東京大空襲では時の住職以下九名が死亡した。.

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文化 (元号)

文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.

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文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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1810年

記載なし。

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1825年

記載なし。

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1864年

記載なし。

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1866年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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1891年

記載なし。

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2月23日 (旧暦)

旧暦2月23日は旧暦2月の23日目である。六曜は赤口である。.

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2月3日

2月3日(にがつみっか)はグレゴリオ暦で年始から34日目に当たり、年末まであと331日(閏年では332日)ある。.

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3月27日

3月27日(さんがつにじゅうななにち、さんがつにじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から86日目(閏年では87日目)にあたり、年末まであと279日ある。.

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