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丹後国

索引 丹後国

丹後国(たんごのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

410 関係: 加佐郡加悦町原市藩ちりめん南丹市古墳時代名神大社吉備国坂戸藩堀直堯堀直寄堀直庸堀直利堀直政堀直時大同 (日本)大宮売神社大岡忠烈大川神社大虫神社 (与謝野町)大村喜前大村純忠大村純信大村純熈大村純顕大村純昌大村藩大村氏大浦半島大日本古文書天火明命天領天正天永天明外様大名奥平昌成奥平昌敦奈良時代宝暦室町時代宮津城宮津市宮津藩宇都宮藩安田広春安田氏安政寛弘寛文...小原継忠小島藩小田原藩小野木重勝小虫神社山城国山名師義山名義幸山名氏山名満幸山名時氏山陰道岡田藩岩槻藩峰山藩川成島藩上山藩上野頼兼上杉謙信上杉朝定 (二橋上杉家)与謝郡両丹中国 (令制国)中郡 (京都府)中津藩丹後 (戦艦)丹後ちりめん丹後国の式内社一覧丹後王国論丹後田辺藩丹波国七日市藩万寿三田藩三淵光行下野国一宮一色義定一色義幸一色義秀一色義直一色義道一色義貫一色義清 (左京大夫)一色義清 (越前守)一色義有一色義春一色氏一色満範一色教親一柳直重九鬼隆抵平忠房平正盛久安久美浜代官所久美浜県久美浜町享保京丹後市京都府京都府北部地域京都所司代京極高三京極高広京極高国京極高知京極高盛京極高通 (峰山藩主)京極氏亀岡市亀岡盆地仁木頼章令制国令制国一覧延宝延久延喜式神名帳延暦廃藩置県伊勢国伊豆水軍伊東長実伯太藩佐倉藩佐賀藩但馬国信濃国志摩国土岐頼稔土岐頼殷土浦藩土方豊義土方雄高土方雄貞土方雄氏土方雄房北陸道北条高広北条氏政北条景広ヤマト王権和名類聚抄和銅和泉国内藤忠勝内藤清枚六浦藩元和 (日本)元禄元永先代旧事本紀前田利理前田利豁前田茂勝前方後円墳国府国造四道将軍知藩事王莽神戸藩稲葉正のぶ稲葉正守稲葉正往稲葉正備稲葉正勝稲葉正知稲葉正益稲葉正誼稲葉正成稲葉氏竹中重門竹中重治竹野郡 (京都府)立花道雪立花貞則籠神社米倉昌寿米倉昌俊米倉昌由米倉昌言米倉昌晴細川幽斎細川忠興続日本紀総社織田信長織田輔宜織田長恭織田長清織田長政 (大名)織田氏真岡藩生野県田中藩田辺城 (丹後国)田辺城の戦い熊野郡牧野親成白井藩芝村藩遠山友明遠江国荒川詮頼鍋島吉茂鍋島宗教鍋島光茂鍋島氏菰野藩青山幸秀飯山藩西尾忠照西尾忠永西陣西条藩駿河国角川日本地名大辞典高師詮高田藩高遠藩請西藩譜代大名鯖江藩豊岡県豊岡藩豊臣秀吉貞観 (日本)鳥羽藩越後北条氏越後長岡藩足利直冬転封近国近衛府郡司舞鶴市鈴木繁定阿部正邦関ヶ原の戦い間部詮方藤原仲実藤原俊成藤原保昌藤原兼房 (中宮亮)藤原顕頼藤原敦基藩庁肥前国膳所藩長岡氏長井貞秀長和長元良岑安世若狭国苗木藩陸奥国陸奥国 (1869-)陸中国陸前国柿岡藩東海道松平信友 (小島藩主)松平信賢松平信進松平信書松平直泰松平資昌松平重忠松平重直村上藩村松藩桑田郡横須賀藩武田二十四将武田信賢武田元信武田国信武蔵国水本邦彦永井尚征永井尚長永承江戸時代治暦沼田藩淀藩渡辺伊綱渡辺章綱渡辺綱渡辺登綱渡辺潔綱源経相滝脇信敏本多康桓本多忠升本多忠興本多忠永本庄氏本郷泰固朱色戦国時代 (日本)明石藩明治明治維新明智光秀浜松藩日本日本国現報善悪霊異記日本書紀旧高旧領取調帳改易慶応慶長承暦1004年1012年1024年1028年1032年1036年1048年1068年1073年1078年1110年1118年1149年11月2日 (旧暦)1293年12月13日1336年1337年1338年1339年1341年1350年1351年1352年1353年1360年1363年1364年1370年1375年1381年1385年1391年1392年1409年1440年1451年1467年1468年1469年1471年1474年1484年1487年1498年1506年1509年1519年1521年1558年1579年1582年1600年1622年1666年1668年1680年1697年1717年1735年1758年1784年1857年1868年1869年1871年1876年4月19日 (旧暦)4月28日 (旧暦)4月3日 (旧暦)5月21日6月18日6月20日 (旧暦)709年713年783年7月14日 (旧暦)7月28日866年8月21日8月29日 インデックスを展開 (360 もっと) »

加佐郡

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加悦町

加悦町(かやちょう)は、京都府の丹後半島内陸部に位置していた町である。 2006年3月1日、隣接の与謝郡岩滝町、野田川町と新設合併し、与謝郡与謝野町となった。町役場は支所及び議会棟となっている。 以下は加悦町があった当時の記述である。 ---- 古くから丹後ちりめんの町として知られ、また、背後の大江山から太平洋戦争中に、兵器に不可欠なニッケルを採鉱し、日本海に面した岩滝町の精錬場まで運搬した加悦鉄道があったところである。.

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原市藩

原市藩(はらいちはん)は、武蔵国原市(現在の埼玉県上尾市原市)に存在した藩。.

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ちりめん

ちりめん(レーヨン製)の表面を拡大したところ。 ちりめん(縮緬、クレープ織り、)は、絹を平織りにして作った織物。 縦糸にはほとんど撚り(より)のない糸を使い、横糸に強い撚りをかけた右より(右回りにねじる)と左より(左回りにねじる)の糸を交互に織ったものである。そのため精練すると布が縮み生地の表面にシボ(凹凸)が現れる。主に高級な呉服や風呂敷に使われる。 絹・レーヨンで織られたちりめんは、水に付けると縮むので水分を避けること。ポリエステルで織られたちりめんは、水に付けても縮まない。 日本のちりめんの主なものに、京都府丹後地方の丹後ちりめん、滋賀県長浜市の浜ちりめんがある。現在、京都府丹後地方では原料の糸を絹から綿・化合繊に変えた丹後ちりめんも織られている。越後ちりめんを産する現在の新潟県(上越市高田など)もちりめんの主な生産地の一つである。テレビドラマ『水戸黄門』では、主人公水戸光圀は「越後の縮緬問屋の隠居で光右衛門」と名乗っている。.

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南丹市

南丹市(なんたんし)は、京都府中部の丹波地方に位置する市である。.

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古墳時代

古墳時代(こふんじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つである。古墳、特に前方後円墳が盛んに造られた時代を意味する。縄文時代、弥生時代に次ぐ考古学上の時期区分である。ほぼ同時代を表している「大和時代」は日本書紀や古事記による文献上の時代区分である。現在は研究が進んだこともあって、この時代の呼び方は「古墳時代」がより一般的となっている。 古墳時代の時期区分は、古墳の成り立ちとその衰滅をいかに捉えるかによって、僅かな差異が生じる。例えば、前方後円墳が造営され始めた年代に関しても、議論が大きく揺れ動いてきた。現在のところ一般的に、古墳時代は3世紀半ば過ぎから7世紀末頃までの約400年間を指すことが多い。中でも3世紀半ば過ぎから6世紀末までは、前方後円墳が北は東北地方南部から南は九州地方の南部まで造り続けられた時代であり、前方後円墳の時代と呼ばれることもある。 前方後円墳が造られなくなった7世紀に入っても、方墳・円墳、八角墳などが造り続けられるが、この時期を古墳時代終末期と呼ぶこともある。 西暦266年から413年にかけて中国の歴史文献における倭国の記述がなく詳細を把握できないため、この間は「空白の4世紀」とも呼ばれている。日本国家の成立を考察すれば、倭国のヤマト王権が拡大し、王権が強化統一されていった時代と考えられている。古墳時代終末期に倭国から日本国へ国名を変更した。.

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名神大社

名神大社(みょうじんたいしゃ)とは、日本の律令制下において、名神祭の対象となる神々(名神)を祀る神社である。古代における社格の1つとされ、その全てが大社(官幣大社・国幣大社)に列していることから「名神大社」と呼ばれる。『延喜式』巻3の「臨時祭」の「名神祭」の条下(以下「名神祭式」という)と、同巻9・10の「神名式」(「延喜式神名帳」)に掲示され、後者の記載に当たっては「名神大」と略記されている。.

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吉備国

吉備国(きびのくに)は、古代日本の地方国家である。現在の岡山県全域と広島県東部と香川県島嶼部および兵庫県西部(佐用郡の一部と赤穂市の一部など)にまたがり、筑紫、出雲、大和などと並ぶ有力な勢力の一つだった。 別名は、吉備道(きびのみち、きびどう)、備州(びしゅう)。.

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坂戸藩

坂戸藩(さかとはん)は、越後国魚沼郡(現在の新潟県南魚沼市)に存在した藩。居城は坂戸城。.

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堀直堯

堀 直堯(ほり なおたか、享保2年9月23日(1717年10月27日) - 天明5年10月29日(1785年11月30日))は、越後村松藩の第5代藩主。直寄系支流堀家5代。第4代藩主・堀直為の長男。正室は水戸支流松平頼貞の娘・津治姫。子は堀直泰(長男)、滝脇松平信義(次男)、浅野長致(三男)、堀直行(四男)、本多成孝(五男)、堀直教(六男)、娘(堀直堅正室)。従五位下、丹波守、丹後守。 元文元年(1736年)、父の隠居により藩主に就任した。天明5年(1785年)死去。長男・直泰は先だって死去していたため、家督は末子の六男・直教が継いだ。 *05 なおたか Category:1717年生 Category:1785年没.

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堀直寄

堀 直寄(ほり なおより)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。越後坂戸藩、信濃飯山藩、越後長岡藩、越後村上藩主。堀直政の次男(または三男)。兄に直清、弟に直之、直重ら。正室は長沢松平家出身の松平近清の娘。子に直次、直時、娘(池田長常正室)、娘(岡部行隆正室)。官位は従五位下丹後守。.

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堀直庸

堀 直庸(ほり なおやす、寛政3年11月10日(1791年12月5日) - 文政2年10月10日(1819年11月27日))は、越後村松藩の第8代藩主。直寄系支流堀家8代。第7代藩主・堀直方の次男。正室は稲葉弘通の娘。子は娘(大関増儀継室、のち織田信貞正室)、娘(柳沢里顕正室)、娘(大久保教業正室)、娘(堀直寛室)、娘(堀俊信室)。従五位下、丹後守。 享和2年(1802年)、父の隠居により家督を継いだが、文政2年(1819年)に死去した。家督は弟の直央が継いだ。 *08 なおやす Category:1791年生 Category:1819年没.

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堀直利

堀 直利(ほり なおとし、明暦4年1月1日(1658年2月3日) - 享保元年7月10日(1716年8月26日))は、越後村松藩の第3代藩主。直寄系支流堀家3代。第2代藩主・堀直吉の次男。母は堀直清の娘。正室は戸田光永の娘。子は堀直道(長男)、堀直為(次男)、堀直英(三男)、酒井忠刻(四男)、娘(成瀬正幸正室)、娘(福原資祇正室)。従五位下、左京亮、丹後守。 延宝4年(1676年)、父の死去により家督を相続した。宝永2年(1705年)、奏者番兼寺社奉行に就任した。正徳元年(1711年)、廃嫡した長男・直道に代わって世子となっていた次男・直為に家督を譲り隠居した。享保元年(1716年)に死去した。 *03 なおとし Category:江戸幕府寺社奉行 Category:1658年生 Category:1716年没.

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堀直政

堀 直政(ほり なおまさ)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。従弟の堀秀政の家老となり、堀姓を与えられたが、奥田 直政(おくだ なおまさ)と呼ばれることもある。近世大名としては秀政の家系よりも直政の家系のほうが有力となった。.

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堀直時

堀 直時(ほり なおとき)は、越後安田藩(村松藩)の初代藩主。直寄系支流堀家初代。 元和2年(1616年)、信濃飯山藩主・堀直寄の次男として生まれる。寛永16年(1639年)、父の死去に際し、3万石を分与されて大名となり、安田藩を立藩した。寛永19年(1642年)、甥の直定が早世して本家の村上藩が断絶すると、村上藩遺臣によって跡継ぎに擁立されたが、幕府からは認められなかった。同年12月、従五位下、丹後守に叙任する。 寛永20年(1643年)2月29日に死去。享年28。跡を次男の直吉が継いだ。 *01 なおとき Category:飯山藩の人物 Category:1616年生 Category:1643年没.

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大同 (日本)

大同(だいどう)は、日本の元号の一つ。延暦の後、弘仁の前。806年から810年までの期間を指す。この時代の天皇は平城天皇、嵯峨天皇。 桓武天皇崩御後践祚した平城天皇が即座に改元したことについて「日本後紀」は、「臣子の心、一年に二君あるにしのびず」と非難している。.

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大宮売神社

境内入り口 大宮売神社(おおみやめじんじゃ)は、京都府京丹後市大宮町周枳(すき)にある神社である。式内社(名神大・二座)、丹後国二宮。.

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大岡忠烈

大岡 忠烈(おおおか ただやす)は、江戸時代中期から後期の大名、武蔵国岩槻藩第4代藩主。大岡忠房家7代当主。大岡忠喜の次男。.

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大川神社

大川神社(おおかわじんじゃ)は、京都府舞鶴市大川にある神社である。社格は式内社(名神大)、府社。.

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大虫神社 (与謝野町)

大虫神社(おおむしじんじゃ)は、京都府与謝郡与謝野町温江(あつえ)に鎮座する神社。式内社(名神大社)で、社格は旧府社。鎮座地は野田川の中流域で加悦谷(かやだに)と称される地の東方台地上、大江山連峰の西山裾に位置する。加悦谷には国の史跡に指定されている蛭子山古墳や作山古墳などの古墳や遺跡が密集し、古代丹後地方における最先進地帯であったと見られている。.

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大村喜前

大村 喜前(おおむら よしあき、永禄12年(1569年) - 元和2年8月8日(1616年9月18日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。肥前国大村藩初代藩主。大村純忠の長男。母は西郷純久の娘。正室は有馬義純の娘。子に大村純頼。官位は従五位下丹後守。嘉前とも表記される。.

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大村純忠

大村 純忠(おおむら すみただ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての大名。三城城主。大村氏の第18代当主。 永禄6年(1563年)に日本初のキリシタン大名となり、長崎港を開港した人物として知られる。同じくキリシタン大名の有馬晴信は甥にあたる。.

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大村純信

大村 純信(おおむら すみのぶ、元和4年10月9日(1618年11月25日) - 慶安3年5月26日(1650年6月24日))は、肥前大村藩3代藩主。 2代藩主大村純頼の長男。母は大村頼直の娘。正室は伊丹勝長の娘・松。官位は従五位下、丹後守。 父・純頼が元和5年(1619年)に早世したとき、純信はまだ2歳であり、大村藩はいきなり改易の危機となる。この時、家臣の奔走により幕府に純信の襲封を認めさせることに成功し、元和6年(1620年)に藩主となる。しかし、純信も慶安3年(1650年)に子のないまま33歳で早世し、再び改易の危機に瀕することとなる。正室・松の兄弟である大村純長が末期養子となることでその危機を脱した。 *03 すみのふ Category:1618年生 Category:1650年没.

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大村純熈

大村 純熈(おおむら すみひろ)は、肥前大村藩の第12代(最後)の藩主。.

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大村純顕

大村 純顕(おおむら すみあき)は、肥前大村藩の第11代藩主。.

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大村純昌

大村 純昌(おおむら すみよし)は、肥前大村藩の第10代藩主。.

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大村藩

大村藩(おおむらはん)は、肥前国彼杵地方を領した藩。藩庁は玖島城(現在の長崎県大村市)。.

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大村氏

大村氏(おおむらし)は、日本の氏族のひとつ。戦国時代の戦国大名。江戸時代の肥前大村藩主。.

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大浦半島

大浦半島(おおうらはんとう)は京都府北部と福井県若狭地方にまたがって、若狭湾に突き出た半島。 大浦半島は京都府舞鶴市と福井県大飯郡高浜町の一部にまたがっている。北端が成生岬、北西端が博奕岬。半島の南西に舞鶴湾を囲い込む。また、一帯は若狭湾国定公園に指定され風光明媚なことから、主に夏季には観光客で賑わう。 福井県側には、関西電力の高浜原子力発電所が立地している。また、南東部には五色山公園や難波江海水浴場がある。 京都府側の舞鶴市では、東大浦と西大浦に分かれており、それぞれ地勢が異なる。東大浦では、三浜・小橋両地区で構成される竜宮浜漁港・竜宮浜海水浴場と、野原地区の野原漁港・野原海水浴場、田井・成生地区の田井漁港・水ヶ浦漁港があるほか、両地区へのアクセス道路である大山峠は市内有数の豪雪地帯である。 西大浦では、舞鶴発電所が立地しているほか、舞鶴親海公園などの観光施設が複数整備されている。 なお、半島基部の京都府側には、西国三十三所第29番の松尾寺がある。.

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大日本古文書

『大日本古文書』(だいにほんこもんじょ)は、東京大学史料編纂所が編纂・刊行している日本史の古文書集。明治34年(1901年)に刊行が開始された。.

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天火明命

天火明命(アメノホアカリ)は、日本神話に登場する神のひとつ。天火明命の子孫は「天孫族」とよばれる。一般的には火明命と呼ばれることが多い。.

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天領

天領(てんりょう)は、江戸時代における江戸幕府の直轄地の俗称で、このほか幕府直轄領、徳川幕府領、徳川支配地、幕府領、幕領など様々な呼称があり、必ずしも絶対的な単一の歴史用語ではない村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。幕府直轄領は元禄以降、全国で約400万石あった。その領地は日本全国に散らばっており、江戸時代を通じて何らかの形で幕府直轄地が存在した国は51ヶ国と1地域(蝦夷地)に及び、年貢収取の対象となる田畑以外に交通・商業の要衝と港湾、主要な鉱山、城郭や御殿の建築用材の産出地としての山林地帯が編入され江戸幕府の主要な財源であった村上直, 「天領の成立と代官の位置について」, 法政史学48号, 1996年。 幕府直轄地が「天領」と呼ばれるようになったのは明治時代である。大政奉還後に幕府直轄地が明治政府に返還された際に、「天朝の御料(御領)」などの略語として「天領」と呼ばれたのがはじまり。その後、この呼称が江戸時代にもさかのぼって使われるようになった。よって、江戸時代に使われていた呼称ではない。江戸幕府での正式名は御料・御領(ごりょう)であり、その他、江戸時代の幕府法令には御料所(ごりょうしょ、ごりょうじょ)、代官所、支配所(しはいしょ、しはいじょ)とある。江戸時代の地方書では大名領や旗本領を私領としたのに対して公領・公料、また公儀御料所(こうぎごりょうしょ)とある。 大政奉還後の慶応4年(1868年、同年明治元年)には徳川支配地を天領と呼んだ布告があるが、同時期の別の布告では「これまで徳川支配地を天領と称し居候は言語道断の儀に候、総て天朝の御料に復し、真の天領に相成候間」とある。 幕府の直轄地についての呼称については、従来は「天領」と表記していたが、この「天領」という呼称が明治以降の俗称であるという点から、近年では「幕領」と呼ぶ傾向になっており、全国の歴史教科書なども「幕領」への表記の変更が進められている。.

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天正

天正(てんしょう)は日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。ユリウス暦1573年からグレゴリオ暦1593年(ユリウス暦1592年)。 この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。.

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天永

天永(てんえい)は、日本の元号の一つ。天仁の後、永久の前。1110年から1112年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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天明

天明(てんめい)は日本の元号の一つ。安永の後、寛政の前。1781年から1789年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇。江戸幕府将軍は徳川家治、徳川家斉。.

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外様大名

外様大名(とざまだいみょう)は、譜代大名に対して、関ヶ原の戦い前後に新しく徳川氏の支配体系に組み込まれた大名を指す。.

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奥平昌成

奥平 昌成(おくだいら まさしげ)は、下野宇都宮藩の第2代藩主、丹後宮津藩主を経て、豊前中津藩の初代藩主。中津藩奥平家5代。.

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奥平昌敦

奥平 昌敦(おくだいら まさあつ)は、豊前中津藩の第2代藩主。中津藩奥平家6代。.

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奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.

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宝暦

宝暦(ほうれき、ほうりゃく、旧字体: 寶曆)は日本の元号の一つ。寛延の後、明和の前。1751年から1764年までの期間を指す。この時代の天皇は桃園天皇、後桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川家重、徳川家治。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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宮津城

宮津城(みやづじょう)は、京都府宮津市にある日本の城跡。.

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宮津市

宮津市(みやづし)は、京都府北部に位置する市。日本海の若狭湾に面しており、日本三景の天橋立がある。.

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宮津藩

宮津藩(みやづはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。京極高知の代は丹後一国を領したため丹後藩とも呼ばれた。藩庁は宮津城(現在の京都府宮津市)に置かれた。.

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宇都宮藩

宇都宮藩(うつのみやはん)は、下野国宇都宮周辺を支配した藩である。藩庁は宇都宮城に置かれた。.

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安田広春

安田 広春(やすだ ひろはる)は、戦国時代の武将。越後安田氏及び越後北条氏当主。通称は弥九郎。官途は丹後守。.

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安田氏

安田氏(やすだし).

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安政

安政(あんせい)は日本の元号の一つ。嘉永の後、万延の前。1855年嘉永から安政への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1855年1月15日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。安政元年は西暦1855年1月15日から同2月16日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、嘉永7年=安政元年=西暦1854年、安政2年=西暦1855年となって実際とはずれが生じる。から1860年までの期間を指す。この時代の天皇は、孝明天皇。江戸幕府将軍は、徳川家定、徳川家茂。.

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寛弘

寛弘(かんこう)は、日本の元号の一つ。長保の後、長和の前。1004年から1011年までの期間を指す。この時代の天皇は一条天皇、三条天皇。.

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寛文

寛文(かんぶん)は日本の元号の一つ。万治の後、延宝の前。1661年から1673年までの期間を指す。この時代の天皇は後西天皇、霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱。.

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小原継忠

小原 継忠(おはら つぐただ、生年不詳丸島(2015)、p.211 - 天正10年3月11日(1582年4月3日))は戦国時代の武将。甲斐武田氏の家臣。武田勝頼の側近の一人。甲斐国栗原筋小原郷領主で武田家に仕えた。丹後守。『甲乱記』によれば、兄に小原下野守がいる。『武田三代軍記』によれば子息に忠五郎がいたという。.

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小島藩

陣屋跡石垣 小島藩(おじまはん)は、駿河国庵原郡・有渡郡・安倍郡に存在した藩。現在の静岡県静岡市清水区小島地区が中心地にあたる。 小島藩は2万石以下であったため、城を構えることが許されず、藩主の居所は陣屋として構築された。陣屋跡の遺構があり、石垣が残っている。 なお、松會版や山泉堂、須原屋版の武鑑での在所(陣屋所在地)の記載は、立藩以降から少なくとも享保3年(1718年)までは駿州阿部入であったが、享保17年(1732年)の武鑑では駿州小島となり、以降は駿州小島や駿州庵原郡小島となる。.

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小田原藩

小田原藩(おだわらはん)は、江戸時代に相模国足柄下郡を治めた藩。藩庁は小田原城(神奈川県小田原市)。.

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小野木重勝

小野木 重勝(おのぎ しげかつ)は、安土桃山時代の武将。豊臣氏の家臣。丹波国福知山城主。別名に公郷、重次など。.

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小虫神社

小虫神社(こむしじんじゃ)は、京都府与謝郡与謝野町温江(あつえ)に鎮座する神社。式内社(名神大社)で近代社格制度における社格は村社。鎮座地は野田川の中流域で加悦谷(かやだに)と称される地の東方台地上、大江山連峰の西山裾に位置する。加悦谷には国の史跡に指定されている蛭子山古墳や作山古墳などの古墳や遺跡が密集し、古代丹後地方における最先進地帯であったと見られている。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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山名師義

山名 師義(やまな もろよし)は、南北朝時代の武将・守護大名。室町幕府小侍所所司、丹後国・伯耆国・但馬国守護。.

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山名義幸

山名 義幸(やまな よしゆき)は南北朝時代の守護大名。室町幕府侍所頭人、丹後・出雲・隠岐守護。山名師義の長男、氏之、義熙、満幸の兄。子に師幸。日野屋形家(日野山名氏)の始祖となった。.

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山名氏

日本の氏族。幾つかの流れがある。.

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山名満幸

山名 満幸(やまな みつゆき、生年不詳 - 応永2年3月10日(1395年3月31日))は、室町時代の武将、守護大名。丹後・出雲・隠岐・伯耆守護。山名師義の4男で、義幸、氏之、義熙の弟。妻は叔父の山名氏清の娘。官称は播磨守、弾正少弼。室町幕府第3代将軍足利義満より偏諱を賜い満幸と名乗る。.

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山名時氏

山名 時氏(やまな ときうじ)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将・守護大名。室町幕府侍所頭人、引付頭人。伯耆国・出雲国・隠岐国・因幡国・若狭国・丹波国・丹後国守護。足利尊氏・直義兄弟の母である上杉清子は母方の従姉妹に当たる。.

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山陰道

山陰道(さんいんどう、せんいんどう、そとものみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の西部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。.

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岡田藩

岡田藩(おかだはん)は、備中国下道郡岡田(岡山県倉敷市真備町岡田)の岡田陣屋に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期から廃藩置県まで伊東氏が一貫して10代にわたり藩主を務めた。石高は1万石余。陣屋は幾度かの移転を経ており、元禄年間には西国街道川辺宿(倉敷市真備町川辺)に陣屋を置いたことから川辺藩(かわべはん)とも呼ばれる。.

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岩槻藩

岩槻藩(いわつきはん)は、武蔵国埼玉郡(現在の埼玉県さいたま市岩槻区大字太田)に存在した藩。居城は岩槻城。.

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峰山藩

峰山藩(みねやまはん)は、丹後国に存在した藩。小藩とはいえ、戦国大名の京極高知が関ヶ原の戦いの戦功で得た丹後一国の領土の一部を受け継いてきた藩である。.

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川成島藩

川成島藩(かわなりじまはん)は、駿河国富士郡川成島村(現在の静岡県富士市川成島)に存在した藩。.

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上山藩

上山藩(かみのやまはん)は、江戸時代,出羽国(羽前国)村山郡の上山(現在の山形県上山市)周辺を領有した藩。藩庁は上山城に置かれた。.

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上野頼兼

上野 頼兼(うえの よりかね『鎌倉・室町人名事典コンパクト版』P.80「上野頼兼」の項(執筆:伊藤一美)より。、? - 観応2年/正平6年(1351年)9月3日)は、南北朝時代の武将。本姓は源氏、家系は清和源氏の一家系河内源氏の流れを汲む足利氏の支流上野氏である。 父は上野頼遠(のち頼勝)『尊卑分脉』第3篇 P.261。で、上野氏勝の兄にあたる。子に上野詮兼がいる。法名は以紹。官職は左馬助、右京権大夫。丹後・石見両国の守護。.

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上杉謙信

上杉 謙信(うえすぎ けんしん) / 上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)は、戦国時代の越後国の大名。関東管領(1561年 - 1578年)。山内上杉家16代当主。最強の戦国武将の1人といわれ、後世、軍神や越後の虎、越後の龍と称された。 越後守護・上杉家に仕える越後守護代・長尾為景(三条長尾家)の四男として生まれ、初名は長尾 景虎(ながお かげとら)。1561年(景虎31歳)、関東管領・上杉憲政の養子となり山内上杉氏の家督を譲られ(「上杉」姓と憲政の「政」の1字を与えられ)上杉 政虎(うえすぎ まさとら)と改名し、上杉氏が世襲していた室町幕府の重職関東管領を引き継いだ。後に室町幕府の将軍・足利義輝より偏諱(「輝」の1字)を受けて、最終的には上杉 輝虎(うえすぎ てるとら)と名乗った。謙信は、さらに後に称した法号である。 内乱続きであった越後国を統一し、戦や政だけではなく、産業を振興して国を繁栄させた。他国から救援を要請されると秩序回復のために幾度となく出兵し、武田信玄、北条氏康、織田信長、越中一向一揆、蘆名盛氏、能登畠山氏、佐野昌綱、神保長職、椎名康胤らと合戦を繰り広げた。特に宿敵武田信玄との5回にわたる川中島の戦いはよく知られている。さらに足利将軍家からの要請を受けて上洛を試み、越後国から北陸路を西進して越中国・能登国・加賀国へ勢力を拡大したが48歳で志半ばで死去した。兜は、飯綱明神前立鉄錆地張兜。謙信には実子がおらず、謙信の死後、上杉家の家督の後継をめぐって御館の乱が勃発した。 謙信は、「義」を重んじ、戦乱の世にあっても侵略のための戦いはしない一方、他国から救援を要請されると出兵し、「依怙(えこ)によって弓矢は取らぬ。ただ筋目をもって何方(いずかた)へも合力す」(私利私欲で合戦はしない。ただ、道理をもって誰にでも力を貸す)『白河風土記』と述べている。また、謙信が敵将武田信玄の領国甲斐が塩不足に苦しんでいるのを知り、塩を送った逸話から、「敵に塩を送る」という故事も生まれた。.

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上杉朝定 (二橋上杉家)

上杉 朝定(うえすぎ ともさだ)は、南北朝時代の武将。二橋上杉家当主。丹後国守護。.

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与謝郡

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両丹

両丹(りょうたん)、両丹地方は、丹後国(丹後地方)と丹波国(丹波地方、ただし、多くの場合、京都府中部の南丹は含まない)を一体的に指すときに用いられる用語。 また両国は中国風の別称で丹州(たんしゅう)と呼ばれた。 京都府福知山市、綾部市と兵庫県にまたがる丹波地方と京都府北部の舞鶴市や宮津市を中心とする丹後地方は歴史的にも経済的にも強い繋がりをもっており、現在でもスポーツ大会や新聞等によって両丹という用語が頻繁に使われている。 また、隣接する兵庫県北部の但馬国(但馬地方)と併せて「三丹」(三たん)や「北近畿」と呼ばれることもある。.

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中国 (令制国)

中国(ちゅうごく)とは、律令国の等級区分の一つである。国力(規模)による分類と、畿内からの距離による分類の2種類の分け方が存在した。.

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中郡 (京都府)

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中津藩

中津藩(なかつはん)は、豊前国下毛郡中津(現在の大分県中津市)周辺を領有した藩。藩庁は中津城に置かれた(一時、藩庁は小倉城に移る)。.

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丹後 (戦艦)

丹後(たんご)は、大日本帝国海軍に所属した戦艦#達明治38年8月p.8『達第百十一號 戰利軍艦「ペレスウエート」外四隻左ノ通命名セラル 明治三十八年八月二十二日 海軍大臣男爵山本権兵衛|戰艦「ペレスウエート」 相摸/戰艦「ポルタワ」 丹後/一等巡洋艦「バヤーン」 阿蘇/二等巡洋艦「ワリヤーグ」 宗谷/二等巡洋艦「パルラダ」 津輕』。 元は、ロシア帝国海軍が建造したペトロパブロフスク級戦艦(ポルタヴァ級艦隊装甲艦)の1隻ポルタワ#福井戦艦物語壱108頁『◇丹後―ポルタワ』、ポルタヴァ(Полтава)である#幕末以降帝国軍艦写真と史実コマ67(原本101頁)『丹後(たんご) 艦種一等戰艦 二檣(戰闘檣あり) 艦名考國名なり、丹後國に採る。艦歴舊露國軍艦、原名「ボルタワ」。明治31年進水、露國聖彼得堡造船所にて建造。日露戰役中露國太平洋艦隊として明治39年8月10日黄海々戰に参加、後ち旅順港打ちに於て破壊沈没。同38年1月1日(旅順の露軍降伏開城の日)我が海軍之が収容引揚に着手、同年8月22日帝國軍艦と定め「丹後」と命名、同年12月戰艦の等級を廢せらる。大正元年一等海防艦に編入、同年3年乃至9年戰役(日獨)從軍:同3年8月第二艦隊第二戰隊に属し青島戰に参加(艦長大佐秋澤芳馬)、同5年4月5日露國政府へ譲渡す。―要目― 長367呎/幅69呎/吃水25.6呎/排水量10,960噸/機關 直立三汽筩三聯成汽機2基、宮原式罐/馬力11,000/速力16/乗組人員750/船材 鋼(甲帶406粍)/兵装 12吋砲 4/6吋砲 12/3吋砲 10/47粍砲 4/發射管 4/起工 明治25/進水 同27-11-6/竣工 同31/建造所 露國セント・ピータースブルグ』。 姉妹艦にペトロパブロフスクとセヴァストポリがあるが、ともに日露戦争において沈没。本艦も旅順攻囲戦で大破、着底した。 その後、旅順要塞降伏時に日本海軍によって鹵獲され、戦利艦として「丹後」と改名してから再就役した。艦名は丹後国に由来する。 明治天皇に奏聞した候補艦名に「讃岐」があった。.

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丹後ちりめん

丹後ちりめん(たんごちりめん)は、京都府北部の丹後地方特有の撚糸技術を用いた後染め絹織物であり、広義では丹後地方の絹織物全般の代名詞である松岡憲司編『地域産業とネットワーク 京都府北部を中心として』 新評論、2010年、82頁。主な産地は京丹後市、与謝郡与謝野町。丹後地方は、日本国内の約1/3の絹糸を消費して和装・洋装生地に使用し、和装地では、国内に流通する6~7割を生産する日本最大の絹織物産地である。近畿経済産業局「パワフルかんさい」№415、2004年4月号、53頁。.

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丹後国の式内社一覧

丹後国の式内社一覧(たんごのくにのしきないしゃいちらん)は、『延喜式』第9巻・第10巻「神名帳上下」(延喜式神名帳)に記載のある神社、いわゆる「式内社」およびその論社のうち、丹後国に分類されている神社の一覧。 また『延喜式』神名帳の編纂当時に存在したが同帳に記載の無い神社、いわゆる「式外社」についても付記する。.

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丹後王国論

丹後王国論(たんごおうこく ろん)は、日本古代史が専門の歴史学者・門脇禎二が提唱した古代王国説。古墳時代に丹後地方(今日の京都府京丹後市辺り)を中心に栄え、ヤマト王権や吉備国などと並ぶ独立性があったと考えられる勢力を丹後王国(たんご おうこく)と呼んだもの。ただし丹後国は和銅6年(713年)に丹波国の北部5郡を割いて分国したものであることから、これを丹波王国(たんば おうこく)と呼ぶこともある。 門脇は、丹後王国は4世紀中頃ないし4世紀末頃から5世紀にかけてが最盛期で、6世紀中頃にヤマト王権による出雲征討に伴いヤマト王権の支配下に入っていったと推定している。.

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丹後田辺藩

丹後田辺藩の藩庁がおかれた田辺城(舞鶴城) 田辺藩(たなべはん)は、江戸時代、丹後国にあった藩の一つ。明治維新後に舞鶴藩(まいづるはん)と改称した。藩庁は田辺城(京都府舞鶴市)。.

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丹波国

丹波国(たんばのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。山陰道に属する。.

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七日市藩

七日市藩(なのかいちはん)は、上野甘楽郡(現在の群馬県富岡市七日市)に存在した藩。藩庁は七日市陣屋(現在、跡地は群馬県立富岡高等学校となっている)。遺構として正面玄関付近1棟、中門1棟が現地に現存する。以下はすべて個人宅に移築されている。大手門(下仁田町)、裏門(富岡市七日市)、伝承南門(富岡市内)である。.

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万寿

万寿(まんじゅ、正字体:萬壽)は、日本の元号の一つ。治安の後、長元の前。1024年から1028年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇。.

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三田藩

三田藩(さんだはん)は、摂津国有馬郡三田(現在の兵庫県三田市)周辺を領有した藩。藩庁は当初三田城、のち三田陣屋。.

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三淵光行

三淵 光行(みつぶち みつゆき、元亀2年(1571年) - 元和9年9月16日(1623年11月8日))は、江戸幕府旗本。光之とも呼ばれる。三淵藤英(細川藤孝の異母兄)の次男。従五位下。伯耆守。兄に三淵秋豪。弟に朽木昭貞、朽木昭知(三淵昭知)、朽木昭長。室は郡宗保の四女(慶寿院)。子に長男の三淵藤利、次男の郡藤正(兵衞、弥四郎。形庵と号する)、三男の三淵山入(『寛政譜』では三入)がいる。 天正2年(1574年)織田信長に疎まれ追放された父が身柄を預けられた明智光秀の居城・坂本城で兄秋豪とともに自刃した。幼かった光行は叔父の細川藤孝に養われ成長した。 関ヶ原の戦いの前哨戦である田辺城の戦いにおいて、藤孝を助けたことを知った徳川家康に高く評価されて、慶長9年6月22日に従五位下伯耆守に叙任され、慶長14年10月に近江国神崎郡1000石を賜り、江戸幕府直参の旗本となった。 家督は子の藤利が継いだ。.

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下野国

下野国(しもつけのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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一宮

一宮(いちのみや)とは、ある地域の中で最も社格の高いとされる神社のことである。一の宮・一之宮などとも書く。.

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一色義定

一色 義定(いっしき よしさだ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。丹後国守護。弓木城主。.

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一色義幸

一色 義幸(いっしき よしゆき)は、戦国時代の大名。丹後国守護。丹後一色氏15代当主。加佐郡建部山城主。 13代当主一色義有の子、または9代当主一色教親の子(または末裔)で義有の養子ともされる。 前代までの一色氏は、隣国である山名氏と友好関係にあり応仁元年(1467年)からの応仁の乱においても西軍に与したため、管領細川氏により丹後の守護職を一時期隣国の若狭武田氏に奪われるなど没落し、さらに守護代延永氏を初めとする国人達の離反により衰退していた。 先代当主は義幸の兄ともされる義清(左京大夫、子の越前守義清とは別人)か、一色義貫の末裔・一色義有(義道の子・義定とは別人)と思われるが、戦国の混乱期であり記録が乏しいため義幸が当主に就任する直前の時期の一色氏の動向ははっきりせず、また伝わる系譜も多種あるために詳細は不明。 義幸の父とされる一色義有は幕府の御供衆にも列する一色氏一門で、また丹後一色氏の元、郡代も務めていた。しかし、義有及び次代・義清(左京大夫)が没し一色氏本家(一色義貫流)の血筋が絶えると、一色教親の子(末裔)である義幸が一色宗家を継承し、幕府より丹後守護職に任命された(若狭武田氏より丹後守護を奪還)という。また義幸は若狭武田氏の勢力を追い、加佐郡の丹後守護所(八田守護所)及び建部山城に入ったとされる。 守護代延永氏との関係も良好であり、若狭にも度々攻め入り若狭守護武田元光と丹後・若狭の領有をめぐって争ったという。 義幸は永禄元年(1558年)には隠居し、家督を子義道に譲った。.

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一色義秀

一色 義秀(いっしき よしひで)は、室町時代後期から戦国時代前期にかけての守護大名。.

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一色義直

一色 義直(いっしき よしなお)は、室町時代から戦国時代にかけての守護大名。.

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一色義道

一色 義道(いっしき よしみち)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。丹後国守護。加佐郡建部山城主。.

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一色義貫

一色 義貫(いっしき よしつら)は、室町時代の武将、守護大名。丹後一色氏の当主。 室町幕府第4代将軍・足利義持より偏諱を受け、初めは父の1字と合わせて義範を名乗り、のち義貫と改名する。尚、上の「義」の字を与えられていることから、下の「持」の字を与えられた兄・持範、弟・持信に比べ、良い待遇を受けていたものと推測される。.

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一色義清 (左京大夫)

一色 義清(いっしき よしきよ)は、戦国時代の武将、守護大名。 永正6年(1509年)、丹後国守護に補任されたが、一色義有との続柄ははっきりせず、子や弟、あるいは従兄弟ともいわれる。義清が守護となった頃の丹後は若狭武田氏の介入や守護代延永氏の下克上などで国内は混乱していた。永正13年(1516年)から翌年にかけて同族と思われる一色九郎と争う。義清は加悦城主石川直経と、一色九郎は守護代延永春信と結び戦いを繰り広げたが、加悦城を攻め落とされ一時没落したこともあったらしい(『東寺過去帳』)。 義清の動静は永正16年(1519年)まで判明している。義清以後の一色義貫流の血脈は断絶する。 また、土岐頼芸、次いで斎藤道三の側室となった深芳野の父ともいうが詳細は不明。なお、深芳野の生んだ斎藤義龍は一色左京大夫と称し、一色氏を名乗っている。.

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一色義清 (越前守)

一色 義清(いっしきよしきよ)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。丹後一色氏最後の当主。 丹後国の吉原城を領し、当初は姓を吉原と称していたが、天正10年(1582年)に甥で一色氏の当主であった一色義定が細川藤孝に謀殺されたため、弓木城において一色氏の家督を継ぎ再興した。 しかし、細川方の追討軍により一色軍は壊滅し、義清は細川軍の本陣に斬り込みをかけて、下宮津の海辺で壮烈な最期を遂げたという。 義清の死により、室町幕府における四職の一角である丹後守護家一色氏は滅亡した。 丹後守護家は滅亡したが、別系に古河公方に仕えた幸手城主幸手一色氏がある。この系統は幕臣・水戸藩士として存続した。 よしきよ Category:戦国武将 Category:丹後国の人物 Category:安土桃山時代に戦死した人物 Category:生年不明 Category:1582年没.

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一色義有

一色 義有(いっしき よしあり)は、戦国時代の武将、守護大名。.

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一色義春

一色 義春(いっしき よしはる)は、室町時代の守護大名。.

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一色氏

一色氏(いっしきし)は、日本の氏族(武士)。清和源氏義国流で足利氏の一門。足利泰氏の子一色公深は、三河国吉良荘一色(愛知県西尾市一色町)を本貫とし、一色氏を名乗った。 室町幕府開府当初は九州探題として筑前国にあったが、後には侍所所司に任ぜられる四職の筆頭となり、また若狭国・三河国・丹後国などの守護職を世襲した。戦国時代にも丹後の大名として続いたが、安土桃山時代に至り細川藤孝・忠興らの侵攻によって滅亡した。 他に.

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一色満範

一色 満範(いっしき みつのり)は、室町時代の武将、守護大名。丹後一色氏当主。.

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一色教親

一色 教親(いっしき のりちか)は、室町時代中期の武将、守護大名。.

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一柳直重

一柳 直重(ひとつやなぎ なおしげ)は、伊予西条藩の第2代藩主。初代藩主・一柳直盛の長男。.

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九鬼隆抵

九鬼隆抵の墓。(兵庫県三田市心月院) 九鬼 隆抵(くき たかやす、元禄3年(1690年)- 享保18年11月9日(1733年12月14日))は、摂津三田藩の第6代藩主。九鬼家宗家7代。 大身旗本戸田忠章の次男。正室は植村家言の娘。子に娘(九鬼隆由正室)。官位は従五位下、丹後守。幼名は兵助。初名は隆休。 実父戸田忠章は宇都宮藩主戸田忠昌の五男、実兄に宇都宮藩主戸田忠余がいる。元禄15年(1702年)6月18日、先代藩主の九鬼隆久の養嗣子となる。同年12月15日、将軍徳川綱吉にお目見えする。宝永4年(1707年)4月16日、養父隆久の隠居で跡を継いだ。同年12月13日に叙任する。享保18年(1733年)11月9日、44歳で死去し、跡を婿養子の隆由が継いだ。墓所は東京都豊島区駒込の泰宗寺。 Category:三田藩主 Category:外様大名 たかやす Category:戸田氏 Category:1690年生 Category:1733年没.

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平忠房

平 忠房(たいら の ただふさ)は平安時代末期の平家一門の武将。平重盛の六男(五男という説もある)。母は正室の藤原経子。丹後侍従と呼ばれる。.

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平正盛

平 正盛(たいら の まさもり)は、平安時代後期の伊勢平氏の武将。北面武士。父は平正衡。平清盛の祖父にあたる。.

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久安

久安(きゅうあん)は、日本の元号の一つ。天養の後、仁平の前。1145年から1150年までの期間を指す。この時代の天皇は近衛天皇。.

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久美浜代官所

久美浜代官所(くみはまだいかんしょ)は、現在の京都府京丹後市久美浜町西本町城山の久美浜小学校付近にあった代官所。 久美浜が寛文6年(1666年)に天領となり、当時の代官所は京都府加佐郡にあった。 その後寛文9年(1669年)宮津藩領、延宝8年(1680年)天領、天和元年(1681年)宮津藩領天領とめまぐるしく変わり、従来あった湊宮船見番所を代官の海上弥兵衛が、享保20年(1735年)天領になった際に久美浜に移転し陣屋と改めた。丹後、但馬2ヶ国に亘る7万石余りを管轄した、明治元年(1868年)置県の制が設けられ、久美浜県となり県庁所在地となった。.

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久美浜県

旧久美浜縣庁舎・玄関棟(現:参考館) 久美浜県(くみはまけん)は、1868年(慶応4年)に丹後国、丹波国、但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は、当初は現在の京都府北部、兵庫県西部、岡山県東北部、のちに京都府北部に分布していた。.

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久美浜町

久美浜町(くみはまちょう)は、京都府北部(丹後地方)、兵庫県との県境に位置し、日本海に面して存在した町。2004年4月1日の市町村合併で京丹後市となり、消滅した。本項では町制前の名称である久美浜村(くみはまむら)についても述べる。.

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享保

享保(きょうほう、きょうほ)は日本の元号の一つ。正徳の後、元文の前。1716年から1736年までの期間を指す。この時代の天皇は中御門天皇、桜町天皇。江戸幕府将軍は徳川吉宗。.

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京丹後市

京丹後市(きょうたんごし)は、京都府北部に位置する市。丹後半島の大部分を占めている。.

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京都府

京都府(きょうとふ)は、日本の近畿地方の都道府県の一つ。延暦13年(794年)の平安京遷都以来、天皇の御所がある。令制国でいう山城国の全域、丹波国の東部および丹後国の全域を府域とする。府庁所在地は京都市。.

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京都府北部地域

京都府北部地域とは京都府の日本海側地域及びその周辺地域を指し、旧国制度では丹後国及び丹波国の一部に該当する。 市町村では舞鶴市、宮津市、京丹後市、与謝野町、伊根町(3市2町は旧丹後国)及び福知山市、綾部市(2市は旧丹波国)であり、ごくまれに京丹波町(ただし旧和知町のみ)も該当する場合がある。気象庁の分類でも上記5市2町が京都府北部にあたる。本地域を総括的に扱うしくみには、京都府北部地域連携都市圏形成推進協議会や京都府北部地域連携都市圏振興社(海の京都DMO)などがある。2015年10月時点の域内人口は294,282人である。 京都府北部地域を細分化すると、舞鶴市、福知山市、綾部市を中丹。宮津市、京丹後市、与謝野町、伊根町を丹後に分けられ、京都府の出先機関である広域振興局も中丹と丹後で分かれている。.

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京都所司代

京都所司代(きょうとしょしだい)は、近世の日本において、京都に設置された行政機関である。 1568年(永禄11年)に織田信長が設置したものと、江戸時代に江戸幕府が設置したものがある。.

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京極高三

京極 高三(きょうごく たかみつ)は、丹後田辺藩(舞鶴藩)の初代藩主。但馬豊岡藩京極家初代。 慶長12年(1607年)3月17日、丹後国主・京極高知の三男として丹後田辺城で生まれる。慶長16年(1611年)、京都二条城で大御所の徳川家康と、江戸幕府第2代将軍・徳川秀忠に拝謁した。 元和8年(1622年)に父が死去すると、その所領は高知の息子2人と婿養子の高通で分割相続されることとなり、高三は加佐郡3万5000石を相続し、田辺藩(舞鶴藩)の初代藩主となった。寛永13年(1636年)9月13日に死去した。享年30。跡を長男の高直が継いだ。その後、京極家は孫高盛の代で豊岡に転封となったが、娘婿にあたる牧野富成の子孫が田辺藩を継承した。 たかみつ Category:外様大名 Category:丹後田辺藩主 Category:1607年生 Category:1636年没.

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京極高広

京極 高広(きょうごく たかひろ)は、丹後宮津藩の第2代藩主。国持大名。.

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京極高国

京極 高国(きょうごく たかくに)は、丹後宮津藩の第3代藩主。国持大名。.

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京極高知

京極 高知(きょうごく たかとも)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての大名。丹後宮津藩(宮津城)初代藩主。高知流京極家の祖。.

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京極高盛

京極 高盛(きょうごく たかもり)は、丹後田辺藩の第3代藩主、のち但馬豊岡藩の初代藩主。豊岡藩京極家3代。 田辺藩第2代藩主京極高直の長男として、江戸向柳原邸で生まれる。寛文3年(1663年)、父の死去により跡を継ぐ。このとき、弟の高門に2,000石を分与した。寛文8年(1668年)5月3日、田辺藩から豊岡藩に移封される。しかしもともと病弱だったため、寛文7年(1667年)から養嗣子に迎えていた弟の高住に延宝2年(1674年)3月18日、家督を譲って隠居した。 宝永6年(1709年)2月1日、60歳で死去した。.

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京極高通 (峰山藩主)

京極 高通(きょうごく たかみち、慶長8年9月9日(1603年10月13日) - 寛文5年12月14日(1666年1月19日))は、丹後峰山藩の初代藩主。 朽木宣綱の次男。母は京極高吉の娘。京極高知の甥で養子。正室は京極高知の娘。子に京極高供(長男)、京極高昌(次男)、京極高成(三男)、娘(溝口宣知正室)、娘(柳生宗冬正室)、娘(村上正直室)。官位は従五位下、主膳正。 元和2年(1616年)、徳川秀忠の小姓となり3,000石を賜う。元和8年(1622年)には丹後宮津藩主の養父高知の遺領のうち中郡1万石を分与され、旧領と併せて峰山1万3,000石を領することとなり、峰山に立藩した。峰山藩京極家は宗家の宮津藩京極家が改易に、同じ支藩である田辺藩(舞鶴藩)京極家が但馬豊岡へと転封になる中、高知が徳川家康から関ヶ原の戦いの戦功で拝領した丹後の地を、一部とはいえ廃藩置県まで守り続けた。 *01 たかみち みねやま Category:朽木氏 Category:宮津藩の人物 Category:近江国の人物 Category:1603年生 Category:1666年没.

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京極氏

京極氏(きょうごくし)は、日本の武家の一つ。本姓は源氏。宇多源氏の流れを汲む近江源氏、佐々木氏の別家である。.

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亀岡市

亀岡市(かめおかし)は、京都府の中西部に位置する市である。京都府内では京都市・宇治市に次ぐ人口を有する都市である。.

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亀岡盆地

八木城より)中央には八木の町並み 亀岡盆地(かめおかぼんち)は、京都府南部にある盆地。 盆地内には亀岡市と南丹市園部・八木両地区があり、国道9号及び嵯峨野線沿いに人口・産業・商業が集中している。.

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仁木頼章

仁木 頼章(にっき よりあき)は、鎌倉時代後期から室町時代前期の武将で、室町幕府初代将軍足利尊氏の執事。.

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令制国

北海道11か国(ただし、千島を除く)追加を反映した。 令制国(りょうせいこく)とは、日本の律令制に基づいて設置された日本の地方行政区分である。律令国(りつりょうこく)ともいう。奈良時代から明治初期まで、日本の地理的区分の基本単位だった。 令制国の行政機関を国衙(こくが)または国庁(こくちょう)といい、国衙の所在地や国衙を中心とする都市域を国府(こくふ)といった。また、国府は府中と呼ばれることもあった。.

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令制国一覧

大宝元年)から702年(大宝2年)まで。黄色で示す地域が制度の及ぶ範囲。 鎌倉時代から1868年(明治元年)まで 明治初期の令制国の配置 令制国一覧(りょうせいこくいちらん)は、7世紀後半からの日本国内の地方行政区分、国(令制国)の一覧である。 令制国の改廃は、奈良時代までと明治時代になされ、その間の平安時代から江戸時代には長期にわたって変更がなかった。.

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延宝

延宝(えんぽう、旧字体: 延寳)は日本の元号の一つ。寛文の後、天和の前。1673年から1681年までの期間を指す。この時代の天皇は霊元天皇。江戸幕府将軍は徳川家綱、徳川綱吉。.

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延久

延久(えんきゅう)は、日本の元号の一つ。治暦の後、承保の前。1069年から1073年までの期間を指す。この時代の天皇は後三条天皇、白河天皇。.

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延喜式神名帳

延喜式神名帳(えんぎしき じんみょうちょう)は、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』の巻九・十のことで、当時「官社」に指定されていた全国の神社一覧である。.

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延暦

延暦(えんりゃく、正字体:延曆)は、日本の元号の一つ。昭和、明治、応永、平成に次いで、歴代で5番目に長い元号である。天応の後、大同の前。782年から806年までの期間を指す。この時代の天皇は桓武天皇。 1418年(応永25年)までの600年以上にわたって、最も長い日本の元号であった。その後1892年(明治25年)まで、日本で2番目に長い元号であった。1950年(昭和25年)までは3番目、2013年(平成25年)までは4番目に長い日本の元号であり、2014年(平成26年)以降は歴代で5番目に長い元号となっている。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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伊勢国

伊勢国(いせのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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伊豆水軍

伊豆水軍(いずすいぐん)は、伊豆国の伊豆半島に面した地域を拠点とした水軍。後に戦国大名・後北条氏の配下に組み込まれたことから、北条水軍とも。 甲斐武田氏の武田水軍と駿河湾で幾度も海戦を繰り広げたことで知られるが、小田原征伐で豊臣水軍に敗れ離散した。.

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伊東長実

伊東 長実(いとう ながざね)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名(外様大名)。備中岡田藩初代藩主。.

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伯太藩

伯太藩御殿跡 伯太藩屋敷跡 伯太藩(はかたはん)は、かつて和泉国大鳥郡・和泉郡などを領有した藩。藩庁は和泉郡伯太村(現在の大阪府和泉市伯太町)の伯太陣屋。藩主は譜代大名の渡辺氏。藩領は和泉国の他に河内国と近江国に点在した。 当初は藩庁所在地が異なり、大庭寺藩(おばでらはん)と称した。なお、本稿では前身の野本藩(のもとはん)についても述べる。.

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佐倉藩

佐倉藩(さくらはん)は、下総国印旛郡佐倉に存在した藩である。藩庁は佐倉城(現在の千葉県佐倉市)。石高はおおむね11万石。.

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佐賀藩

佐賀藩(さがはん)は、肥前国佐賀郡にあった外様藩。肥前藩(ひぜんはん)ともいう。鍋島氏が藩主であったことから鍋島藩(なべしまはん)と呼ばれることもある。明治維新を推進した薩長土肥のひとつである。現在の佐賀県、長崎県の一部にあたる。藩庁は佐賀城(現在の佐賀市)。 藩主ははじめ龍造寺氏、後に鍋島氏。石高は35万7千石。支藩として蓮池藩、小城藩、鹿島藩があった。.

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但馬国

但馬国(たじまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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信濃国

信濃国(しなののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。 『万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる )」。.

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志摩国

志摩国(しまのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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土岐頼稔

土岐 頼稔(とき よりとし)は、駿河田中藩の第2代藩主、上野沼田藩の初代藩主。沼田藩土岐家4代。.

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土岐頼殷

土岐 頼殷(とき よりたか)は、出羽上山藩の第2代藩主。のちに越前野岡藩を経て、駿河田中藩の初代藩主となった。沼田藩土岐家3代。.

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土浦藩

土浦藩(つちうらはん)は、常陸国に存在した藩。藩庁は土浦城(現在の茨城県土浦市)。.

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土方豊義

土方 豊義(ひじかた とよよし)は、伊勢菰野藩の第4代藩主。 元禄2年(1689年)8月3日、第3代藩主・土方雄豊の嫡男・豊高の長男として江戸で生まれる。父が1698年に早世したため祖父の養子となり、宝永2年(1705年)の祖父の死去で跡を継いだ。ただし、若年のために叔父の久長が後見人とした。このとき、久長に1000石を分与したため、菰野藩は1万1000石となった。 享保3年(1718年)、大坂加番となったが、まもなく発病して享保4年(1719年)7月1日、在任中のまま大坂城で死去した。享年31。跡を長男の雄房が継いだ。 とよよし *04 Category:1689年生 Category:1719年没.

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土方雄高

土方 雄高(ひじかた かつたか)は、伊勢国菰野藩の第2代藩主。 初代藩主土方雄氏の長男。初名は雄春。通称は勝五郎、杢助。 江戸で生まれたが、幼い頃に菰野へ送られ、そこで育てられた。寛永9年(1632年)に将軍徳川家光に初御目見する。寛永12年(1635年)3月に父の隠居により家督を相続する。 馬場や焔硝倉などを設置したり、家臣団の住居を定めたり、また商工業者を集めるなどして菰野陣屋やその城下の設備をすすめ、菰野藩諸法の制定も積極的に行った。また領内に見性寺を建立して、以後ここを土方家の菩提寺とした。さまざまな面で菰野藩政の基礎を築いたといえる。幕府の仕事としては院使や朝鮮通信使の饗応役をしばしば勤めている。 慶安4年(1651年)9月8日に死去した。享年40。家督は弟氏久の三男・雄豊が継いだ。 *02 かつたか Category:1612年生 Category:1651年没.

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土方雄貞

土方 雄貞(ひじかた かつさだ)は、伊勢菰野藩の第8代藩主。 宝暦13年(1763年)9月18日、徳川家治時代に老中として権勢を振るった遠江相良藩主田沼意次の六男として江戸で生まれる。安永8年(1779年)12月19日、第7代菰野藩主・土方雄年の養女(雄年の妹)を娶って養子となる。これは雄年が幕府との関係を強化したかったためと言われている。安永9年(1780年)10月8日、雄年が隠居したため、その跡を継いで菰野藩1.1万石の藩主となった。しかし若年の上、藩政の実権は雄年がなおも握っていたため、雄貞は藩主としての主体性をほとんど発揮することがなかった。 天明2年(1782年)11月4日、家督相続から2年で死去した。享年20。実子が無かったため、養子の義苗が跡を継いだ。.

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土方雄氏

土方 雄氏(ひじかた かつうじ、天正11年(1583年)- 寛永15年6月28日(1638年8月8日))は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。伊勢菰野藩の初代藩主。.

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土方雄房

土方 雄房(ひじかた かつふさ)は、伊勢菰野藩の第5代藩主。 宝永8年(1711年)4月1日、第4代藩主・土方豊義の長男として菰野で生まれる。享保4年(1719年)に父が死去したためその跡を継ぐ。しかし幼少のため、先代からの重臣で大叔父にあたる土方久長の補佐を受けた。藩政においては武芸より文治政策を採用し、学問を奨励している。 寛延3年(1750年)1月25日に弟で養子の雄端に家督を譲って隠居する。 宝暦8年(1758年)11月20日、直前に死去した雄端の後を追うように江戸で死去した。享年48。 かつふさ *05 Category:1711年生 Category:1758年没.

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北陸道

北陸道 北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、五畿七道の一つ。本州日本海側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

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北条高広

北条 高広(きたじょう たかひろ)は、戦国時代の武将。越後国刈羽郡北条(新潟県柏崎市北条)の領主、北条城主。 娘に沼田朝憲室がいたと伝わるが、朝憲死去の年代から否定されている。.

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北条氏政

北条 氏政(ほうじょう うじまさ)は、戦国時代の相模国の戦国大名・武将。後北条氏の第4代当主。父は北条氏康、母は今川氏親の娘・瑞渓院。子に北条氏直など。正室の黄梅院は武田信玄の娘で、武田義信や武田勝頼とは義兄弟にあたる。通称は新九郎で、官位の左京大夫または相模守も同様に称した。号は截流斎。 氏康の後を継いで北条氏の勢力拡大に務め最大版図を築くが、豊臣秀吉が台頭すると小田原征伐を招き、数ヶ月の籠城の末に降伏して切腹し、後北条氏による関東支配は終結した。.

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北条景広

北条 景広(きたじょう かげひろ、天文17年(1548年) - 天正7年2月3日(1579年2月28日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。上杉氏の家臣。北条高広の嫡男。通称は丹後守。.

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ヤマト王権

ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、大伴氏が本拠を置いた難波 (なにわ) に都を定めた仁徳天皇など、3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国 (わこく) の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。今の大阪平野や奈良盆地を中心とする大倭地方の国がまわりの国を従えたことからこう呼ばれる。旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。 本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説をする。 呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代での天皇を中心とした日本国の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。 ヤマト王権の語彙は「大阪平野や奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方では出雲を代表格とする「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。.

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和名類聚抄

和名類聚抄(わみょうるいじゅしょう)は、平安時代中期に作られた辞書である。承平年間(931年 - 938年)、勤子内親王の求めに応じて源順(みなもとのしたごう)が編纂した。略称は和名抄(わみょうしょう)。.

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和銅

和銅(わどう)は、日本の元号のひとつで慶雲の後、霊亀の前。708年から715年までの期間を指す。この時代の天皇は女帝元明天皇である。.

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和泉国

和泉国(いずみのくに/いづみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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内藤忠勝

内藤 忠勝(ないとう ただかつ)は、志摩鳥羽藩の第3代藩主。第2代藩主内藤忠政の次男。.

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内藤清枚

内藤 清枚(ないとう きよかず)は、江戸時代初期から中期の旗本、のち大名。河内富田林藩第2代藩主、後に信濃高遠藩の初代藩主。高遠藩内藤家第6代(第7代とする説あり)。.

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六浦藩

米倉宗家の家紋「隅切り花菱」 六浦藩(むつうらはん)は、武蔵国にかつてあった藩。久良岐郡の一部(現在の神奈川県横浜市金沢区)、相模国大住郡の一部(現在の神奈川県平塚市・秦野市)などが含まれる。現在の横浜市内にあった唯一の藩である。.

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元和 (日本)

元和(げんな)は日本の元号の一つ。慶長の後、寛永の前。1615年から1624年までの期間を指す。この時代の天皇は後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川秀忠、徳川家光。.

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元禄

元禄(げんろく、旧字体: 元祿)は日本の元号の一つ。貞享の後、宝永の前。1688年から1704年までの期間を指す。この時代の天皇は東山天皇。江戸幕府将軍は徳川綱吉。.

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元永

元永(げんえい)は、日本の元号の一つ。永久の後、保安の前。1118年から1119年までの期間を指す。この時代の天皇は鳥羽天皇。.

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先代旧事本紀

『先代旧事本紀』(せんだいくじほんぎ、先代舊事本紀)は、日本の史書であり、神道における神典である。『旧事紀』(くじき)、『旧事本紀』(くじほんぎ)ともいう。全10巻からなり、天地開闢から推古天皇までの歴史が記述されている。 序文に聖徳太子、蘇我馬子らが著したとあるが、江戸時代の国学者である多田義俊、伊勢貞丈、本居宣長らによって偽書とされた。現在では大同年間(806年~810年)以後、延喜書紀講筵(904年~906年)以前に成立したとみられている。 物部氏の氏族伝承など部分的に資料価値があると評価する立場の者もいる。.

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前田利理

前田 利理(まえだ としただ)は、上野七日市藩の第6代藩主。七日市藩前田家6代。.

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前田利豁

前田 利豁(まえだ としあきら)は、上野七日市藩の第11代藩主。七日市藩前田家11代。.

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前田茂勝

前田 茂勝(まえだ しげかつ)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての大名。丹波亀山藩のち八上藩主。前田玄以の三男(次男とも)。.

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前方後円墳

前方後円墳 (ぜんぽうこうえんふん)は、古墳の形式の1つ。円形の主丘に方形の突出部が接続する形式で、双丘の鍵穴形をなす。 主に日本列島で3世紀中頃から7世紀初頭頃(畿内大王墓は6世紀中頃まで)にかけて築造され、日本列島の代表的な古墳形式として知られる。.

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国府

国府(こくふ、こう)は、日本の奈良時代から平安時代に、令制国の国司が政務を執る施設(国庁)が置かれた都市。 国府付近には国庁のほかにも国分寺・国分尼寺、総社(惣社)が設置され、各国における政治的中心都市であるとともに司法・軍事・宗教の中心部であった。なお『和名抄』によると、古くは「国」ではなく「島」とされた壱岐や対馬には「島府」が置かれたとされる(まだ確定はされていない)。 律令制の衰退にともない立地の優位性を失い廃れたり所在不明になった国府もある一方、いくつかの国府所在地は、現在でも静岡市・姫路市・岡山市・大分市など大きな都市として発展している。.

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国造

国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。 訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。.

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四道将軍

四道 四道将軍(しどうしょうぐん、古訓:よつのみちのいくさのきみ)は、『日本書紀』に登場する皇族(王族)の将軍で、大彦命(おおびこのみこと)、武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)、吉備津彦命(きびつひこのみこと)、丹波道主命(たんばみちぬしのみこと)の4人を指す「以大彦命遣北陸。武渟川別遣東海。吉備津彦遣西道。丹波道主命遣丹波。因以詔之曰。若有不受教者。乃挙兵伐之。既而共授印綬為将軍。」。.

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知藩事

知藩事(ちはんじ)は、明治時代初期に置かれた地方行政官の名称。県令(都道府県知事)の前身に当たる。藩知事とも言う。.

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王莽

王莽が発行した貨幣。小刀を模した形状である 王 莽(おう もう)は、新朝の皇帝。字は巨君。『漢書』などに記されている「」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。 前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で、成帝の母方の従弟に当たる。王曼(おうまん)の次男で、王宇・王獲・王安・王臨・王興・王匡らの父。孫(王宇の子)は王宗。娘に平帝の皇后王氏、王曄、王捷らがいる。正妻は宜春侯王咸の娘。また、王永の弟で、王光の叔父。.

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神戸藩

戸藩(かんべはん)は伊勢国河曲郡周辺を領有した藩。藩庁は神戸城(三重県鈴鹿市神戸)。.

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稲葉正のぶ

葉 正諶(いなば まさのぶ、寛延2年9月29日(1749年11月8日) - 文化3年8月24日(1806年10月5日))は、山城淀藩の第7代藩主。正成系稲葉家宗家11代。.

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稲葉正守

葉 正守(いなば まさもり、享和4年1月29日(1804年3月10日) - 明治11年7月29日(1878年))は、山城淀藩の第10代藩主。正成系稲葉家宗家14代。.

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稲葉正往

葉 正往 / 正通(いなば まさみち)は、江戸時代の譜代大名、老中。相模小田原藩3代藩主、越後高田藩主、下総佐倉藩初代藩主。稲葉正則の長男、母は毛利秀元の娘。正成系稲葉家宗家4代。.

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稲葉正備

稲葉 正備(いなば まさなり、安永4年11月15日(1775年12月7日) - 文化12年3月8日(1815年4月17日))は、山城淀藩の第8代藩主。正成系稲葉家宗家12代。 第7代藩主・稲葉正諶の次男。母は松平宗衍の娘。正室は阿部正倫の娘。子は稲葉正発(長男)。官位は従五位下、従四位下、長門守、丹後守。幼名は定之助。 長兄が早世したため、世子となる。文化3年(1806年)、父の死去により跡を継いだ。 文化12年(1815年)3月8日、41歳で死去し、跡を長男の正発が継いだ。 まさなり Category:淀藩主 Category:譜代大名 Category:1775年生 Category:1815年没.

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稲葉正勝

葉 正勝(いなば まさかつ)は、江戸時代前期の大名・老中。常陸国柿岡藩主、下野国真岡藩2代藩主、相模国小田原藩初代藩主。正成系稲葉家宗家2代。甥に堀田正盛。.

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稲葉正知

葉 正知(いなば まさとも、貞享2年(1685年) - 享保14年5月29日(1729年6月25日))は、下総佐倉藩の第2代藩主、山城淀藩の初代藩主。正成系稲葉家宗家5代。.

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稲葉正益

葉 正益(いなば まさよし、享保3年(1718年) - 明和8年9月28日(1771年11月4日))は、山城淀藩の第5代藩主。正成系稲葉家宗家9代。.

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稲葉正誼

稲葉 正誼(いなば まさよし、文政10年3月2日(1827年3月28日) - 嘉永元年10月22日(1848年11月17日))は、山城淀藩の第11代藩主。正成系稲葉家宗家15代。 越後国高田藩主榊原政令の七男。官位は従五位下。丹後守。幼名は栄之進。 天保12年(1841年)9月27日、稲葉正守の養子となる。天保13年6月18日、将軍徳川家慶に拝謁する。同年7月20日、養父正守の隠居により、家督を継いだ。同年10月29日、従五位下丹後守に叙任する。嘉永元年(1848年)10月22日、22歳で死去し、養嗣子の正邦が跡を継いだ。 まさよし Category:榊原氏 Category:淀藩主 Category:譜代大名 Category:高田藩の人物 Category:1827年生 Category:1848年没.

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稲葉正成

葉 正成(いなば まさなり)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将、大名。美濃国十七条藩主、下野国真岡藩初代藩主。正成系稲葉家宗家初代。.

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稲葉氏

葉氏(いなばし)は、日本の氏族。.

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竹中重門

竹中 重門(たけなか しげかど)は、安土桃山時代から江戸時代の武将。戦国期の軍師として知られる竹中重治(竹中半兵衛)の嫡子。.

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竹中重治

岐阜県垂井町にある銅像 竹中 重治(たけなか しげはる)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。初名は重虎、のちに重治。通称は半兵衛(はんべえ)。父は竹中重元、弟に重矩。子に重門。従弟に竹中重利(府内藩初代藩主)。 羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)の参謀として活躍し、黒田孝高(黒田官兵衛)とともに「両兵衛」「二兵衛」と称された。しかし、軍功に関する逸話や美談の多くは後世の創作によるものと見られ、史実上の実像が不明瞭な人物である。.

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竹野郡 (京都府)

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立花道雪

立花 道雪 / 戸次 鑑連(たちばな どうせつ/べっき あきつら)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。豊後の戦国大名・大友氏の家臣。臼杵鑑速や吉弘鑑理らと共に大友家の三宿老に数えられた。 大友義鑑・大友義鎮の2代に仕えた大友家の宿将で、北九州各地を転戦し、その勇猛は諸国に知られて恐れられた。本人は立花姓を名乗っておらず、戸次鑑連または戸次道雪で通している。.

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立花貞則

立花 貞則(たちばな さだのり)は、筑後国柳河藩の第6代藩主。第5代藩主・立花貞俶の次男。母は側室・涼体院(柴田喜右衛門の娘)。福岡藩主黒田継高の娘と婚約。幼名は虎之進、虎吉。.

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籠神社

(このじんじゃ)は、京都府宮津市大垣にある神社。式内社(名神大社)、丹後国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。 元伊勢の一社で「元伊勢籠神社」とも称し、また「元伊勢根本宮」「内宮元宮」「籠守大権現」「籠宮大明神」とも称する。現在まで海部氏が神職を担当している。丹後国総社は不詳だが、当社が総社を兼ねたとする説がある。.

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米倉昌寿

米倉 昌寿(よねくら まさなが)は、江戸時代後期の大名。武蔵国金沢藩7代藩主。六浦藩米倉家10代。.

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米倉昌俊

米倉 昌俊(よねくら まさのり)は、江戸時代後期の大名。武蔵国金沢藩6代藩主。六浦藩米倉家9代。.

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米倉昌由

米倉 昌由(よねくら まさよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。武蔵国金沢藩5代藩主。六浦藩米倉家8代。.

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米倉昌言

米倉 昌言(よねくら まさこと)は、江戸時代後期の大名。武蔵国六浦藩8代(最後の)藩主。維新後、六浦知藩事。子爵。六浦藩米倉家11代。.

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米倉昌晴

米倉 昌晴(よねくら まさはる)は、江戸時代中期の大名。武蔵国金沢藩3代藩主。江戸幕府の若年寄を務めた。六浦藩米倉家6代。.

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細川幽斎

細川 幽斎(ほそかわ ゆうさい)/ 細川 藤孝(ほそかわ ふじたか)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。歌人。幽斎は雅号。法名を玄旨という。 初め室町幕府13代将軍・足利義輝に仕え、その死後は15代将軍・足利義昭の擁立に尽力するが、後に織田信長に従い、長岡 藤孝(ながおか ふじたか)を名乗って丹後宮津11万石の大名となった。本能寺の変の後、主君・信長の死に殉じて剃髪し、家督を忠興に譲るが、その後も豊臣秀吉、徳川家康に仕えて重用され、近世大名肥後細川家の礎となった。また、二条流の歌道伝承者・三条西実枝から古今伝授を受け、近世歌学を大成させた当代一流の文化人でもあった。.

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細川忠興

九曜紋 細川 忠興(ほそかわ ただおき)/長岡 忠興(ながおか ただおき)は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。丹後国宮津城主を経て、豊前小倉藩の初代藩主。肥後細川家初代。 足利氏の支流・細川氏の出身である。正室は明智光秀の娘・玉子(通称細川ガラシャ)。室町幕府将軍・足利義昭追放後は長岡氏を称し、その後は羽柴氏も称したが、大坂の陣後に細川氏へ復した。 足利義昭、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康と、時の有力者に仕えて、現在まで続く肥後細川家の基礎を築いた。また父・幽斎と同じく、教養人・茶人(細川三斎(さんさい))としても有名で、利休七哲の一人に数えられる。茶道の流派三斎流の開祖である。.

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続日本紀

『続日本紀』(しょくにほんぎ)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『日本書紀』に続く六国史の第二にあたる。菅野真道らが延暦16年(797年)に完成した。文武天皇元年(697年)から桓武天皇の延暦10年(791年)まで95年間の歴史を扱い、全40巻から成る。奈良時代の基本史料である。編年体、漢文表記である。略称は続紀(しょっき)。.

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総社

備中国総社宮(岡山県総社市)創祀当時に備中国にあった神社計304社を合祀する。 総社、惣社(そうじゃ、そうしゃ、すべやしろ)とは、日本で、特定地域内の神社の祭神を集めて祀った(.

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織田信長

織田 信長(おだ のぶなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。三英傑の一人。 尾張国(現在の愛知県)の古渡城主・織田信秀の嫡男。 尾張守護代の織田氏の中でも庶流・弾正忠家の生まれであったが、父の代から主家の清洲織田氏(織田大和守家)や尾張守護の斯波氏(斯波武衛家)をも凌ぐ力をつけて、家督争いの混乱を収めて尾張を統一し、桶狭間の戦いで今川義元を討ち取ると、婚姻による同盟策などを駆使しながら領土を拡大した。足利義昭を奉じて上洛すると、将軍、次いでは天皇の権威を利用して天下に号令した。後には義昭を追放して室町幕府を事実上滅ぼして、畿内を中心に強力な中央集権的政権(織田政権)を確立して天下人となった。これによって他の有力な大名を抑え、戦国乱世の終焉に道筋をつけた。 しかし天正10年6月2日(1582年6月21日)、重臣・明智光秀に謀反を起こされ、本能寺で自害した。すでに家督を譲っていた嫡男・織田信忠も同日に二条城で自刃し、信長の政権は、豊臣秀吉による豊臣政権、徳川家康が開いた江戸幕府へと引き継がれていくことになる。.

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織田輔宜

織田 輔宜(おだ すけよし、享保17年(1732年) - 寛政11年8月29日(1799年9月28日))は、大和国芝村藩第7代藩主。長政流織田家7代。 第6代藩主織田長亮の長男。母は正室・細川有孝の養女(細川利昌の娘)。正室は土岐頼稔の娘。継室は毛利政苗の娘(のち離婚)。子はなし。通称は幸次郎。官位は従五位下丹後守。.

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織田長恭

織田 長恭(おだ ながやす、寛政13年1月5日(1801年2月17日) - 明治12年(1879年)3月7日)は、大和国芝村藩第10代藩主。長政流織田家10代。 第9代藩主・織田長宇の三男。母は阿部正保の娘(長宇正室、阿部正賀養女)。正室は本庄宗允の娘貞子。継室も本庄宗允の娘。子は長女勝子(織田長易正室)など8女。幼名は愛之助。官位は従五位下丹後守。.

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織田長清

織田 長清(おだ ながきよ、寛文2年9月25日(1662年11月5日) - 享保7年10月7日(1722年11月15日))は、大和国戒重藩第4代藩主。同国芝村藩(初代)藩主。長政流織田家4代。 宇陀松山藩主織田長頼の三男。正室は織田政時の長女。継室は内田正衆の長女。子は織田衛保(次男)、織田長弘(三男)、織田長善(四男、高家旗本織田信門の養子)、織田長亮(五男、兄長弘の養子)、藤助(七男、近江総見寺住職)、娘(宝寿院行快室)など8男2女。通称は安千代、内匠。官位は従五位下丹後守。.

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織田長政 (大名)

織田長政(おだ ながまさ、天正15年(1587年) - 寛文10年2月18日(1670年4月7日))は、大和戒重藩初代藩主。長政流織田家初代。 織田長益(有楽斎)の四男。正室は高田藩主・松平重直の娘。子は長定(長男)、政時(次男)、長女(大田原政清正室)、次女(高家旗本織田貞置室)の2男2女。通称は荘蔵、ト斎。官位は従五位下、丹後守、左衛門佐。.

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織田氏

家紋あげはちょう'''揚羽蝶''' 織田氏(おだし)は、日本の氏族・武家。斯波氏の家臣の家柄。家紋は揚羽蝶、織田木瓜など。通し字は嫡流・伊勢守家の「広」、大和守家の「定」、後に近世大名となる弾正忠家の「信」など。.

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真岡藩

真岡藩(もおかはん)は、下野芳賀郡真岡郷(現在の栃木県真岡市)に存在した藩。.

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生野県

生野県(いくのけん)は、1869年(明治2年)に但馬国、播磨国、美作国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された県。管轄地域は現在の兵庫県北部、岡山県北東部に分布していた。本項では前身である府中裁判所についても記す。.

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田中藩

中藩(たなかはん)は、駿河国益津郡の田中城(現在の静岡県藤枝市)に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期に酒井忠利が入り、城下町・藤枝宿の整備を行ったが、以後藩主はめまぐるしく変わった。享保15年(1730年)に本多家が4万石で入り、明治維新まで7代約130年続いた。本多家時代には水戸藩の弘道館とともに武道の二関と呼ばれた藩校・日知館を有した。なお、田中藩の歴代藩主のほとんどは幕閣入りを果たしており、田中藩主になることは幕政参加への登竜門のひとつであったといえる。.

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田辺城 (丹後国)

舞鶴城(田辺城)大手門 田辺城(たなべじょう)は京都府舞鶴市にある戦国時代から江戸時代にかけての日本の城。別名は舞鶴城(ぶがくじょう)。鎌倉幕府・室町幕府の八田守護所(丹後守護所)の後身ともされる。.

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田辺城の戦い

辺城の戦い(たなべじょうのたたかい)は、慶長5年7月19日(1600年8月27日) から9月6日(10月12日)にかけて、丹後田辺城(現在の京都府舞鶴市)をめぐり起こった戦い。広義の関ヶ原の戦いの一環として戦われ、丹波福知山城主小野木重次、同亀岡城主前田茂勝らの西軍が、田辺城に籠城する細川幽斎(東軍)を攻めた。.

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熊野郡

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牧野親成

牧野 親成(まきの ちかしげ)は、江戸時代前期の大名。下総関宿藩の第2代藩主、後に丹後田辺藩の初代藩主。江戸幕府京都所司代。丹後田辺藩牧野家2代。.

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白井藩

白井藩(しろいはん)は、上野国に存在した藩。藩庁は白井城(現在の群馬県渋川市白井)にあった。.

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芝村藩

芝村藩(しばむらはん)は、大和国式上郡芝村(現在の奈良県桜井市芝)に存在した藩。もとは戒重村(現在の奈良県桜井市戒重)に芝村陣屋を構えていたため、戒重藩(かいじゅうはん)とも呼ばれるが、第7代藩主・織田輔宜の代に移転した。.

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遠山友明

遠山 友明(とおやま ともあきら、享保2年1月11日(1717年2月21日) - 宝暦3年6月1日(1753年7月1日))は、美濃苗木藩の第8代藩主。 常陸府中藩第3代藩主・松平頼明の三男。母は林氏。子に友随(長男)、相良福将(次男)。初名は友張。通称は丹下、越之進。官位は従五位下、丹後守、のち佐渡守。 享保18年(1733年)3月11日、第8代藩主・遠山友央の養嗣子となり、その長女と結婚する。同年5月1日、将軍徳川吉宗にお目見えする。同年12月18日、従五位下丹後守に叙任する。元文5年(1740年)8月27日、友央が隠居したため家督を継ぐ。呉服橋や日比谷、常盤橋などの門番役を務めた。 宝暦3年(1753年)6月1日、江戸で死去し、跡を友央の長男で養嗣子の友清が継いだ。享年37。墓所は岐阜県中津川市苗木の雲林寺。.

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遠江国

遠江国(とおとうみのくに/とほたふみのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。東海道に属する。.

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荒川詮頼

荒川 詮頼(あらかわ あきより)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の武将。吉良氏または戸賀崎(戸崎氏)の支族の荒川頼直の子。将軍足利義詮から偏諱を受け「詮頼」を名乗る。.

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鍋島吉茂

鍋島 吉茂(なべしま よししげ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。肥前国佐賀藩4代藩主。.

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鍋島宗教

鍋島 宗教(なべしま むねのり、享保3年4月20日(1718年5月19日) - 安永9年2月2日(1780年3月7日))は、肥前国佐賀藩の第6代藩主。 第5代藩主・鍋島宗茂の長男。母は久世通夏の娘・貞姫(貞樹院)。正室は中院通躬の娘・綱姫。子は娘(伊達村俊室)。幼名は萬吉。初名は教茂(のりしげ)。官位は従四位下、丹後守。 元文3年(1738年)、父の隠居により家督を相続し、第6代藩主となる。父と同じく将軍徳川吉宗より偏諱の授与を受けたが、父と同名になるのを避け、二文字目には「茂」ではなくもう一方の「教」をあてる形で諱を「宗教」とした。財政難は深刻で借銀高は増加、家中の献米・献銀に依存した。寛延3年(1750年)には諫早一揆が起こる。従四位下侍従丹後守に叙せられ、宝暦10年(1760年)隠居し、家督を弟の鍋島重茂に譲った。安永9年(1780年)に63歳で死去した。法名は光徳院殿瑞章良麟大居士。 むねのり むねのり Category:1718年生 Category:1780年没.

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鍋島光茂

鍋島 光茂(なべしま みつしげ)は、江戸時代前期の大名・歌人。肥前国佐賀藩2代藩主。二条流の歌道の宗匠である三条西実教より古今伝授を受けた。.

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鍋島氏

鍋島氏(なべしまし)は、近世の佐賀藩藩主の氏族。血縁的には武藤氏の一族・少弐氏の男系である(系譜を参照)。.

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菰野藩

菰野藩(こものはん)は、伊勢国三重郡(現在の三重県三重郡菰野町菰野)に存在した藩。.

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青山幸秀

青山 幸秀(あおやま よしひで)は、江戸時代中期の大名。摂津尼崎藩4代藩主、信濃飯山藩主、丹後宮津藩初代藩主。郡上藩青山家4代。.

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飯山藩

飯山藩(いいやまはん)は、信濃国(現在の長野県飯山市飯山)を支配した藩。藩庁は飯山城。.

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西尾忠照

西尾 忠照(にしお ただてる)は、江戸時代前期の大名。忠昭とも。常陸土浦藩第2代藩主、駿河田中藩初代藩主。横須賀藩西尾家3代。 慶長18年(1613年)、西尾忠永の長男として駿河国に生まれ、元和6年(1620年)の忠永死去にともない、家督を相続し常陸国土浦藩主となる。元和6年(1620年)から元和7年(1621年)にかけ、日光東照宮参拝帰路の2代将軍徳川秀忠を迎えるにあたり、城の威容を整えるために東櫓、西櫓を築造した。慶安2年(1649年)2月11日、5000石を加増され、駿河国田中藩に転封した。承応3年(1654年)、忠照が死去すると嫡子・忠成が遺領を継いだ。.

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西尾忠永

西尾 忠永(にしお ただなが)は、安土桃山時代から江戸時代前期にかけての徳川氏の家臣。江戸時代前期の大名。武蔵原市藩第2代藩主、上野白井藩主、常陸土浦藩初代藩主。横須賀藩西尾家2代。 天正12年(1584年)、酒井重忠の三男として生まれる。大老・酒井忠世の実弟である。徳川家康に仕え、2000石の所領を与えられた。慶長4年(1599年)、武蔵国内に5000石の所領を与えられていた西尾吉次の娘を娶り、吉次の養嗣子となった。慶長11年(1606年)、養父・吉次が死去したため、家督と原市藩の所領を継いで藩主となる。 慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では大和国の守備を任じられ、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では大坂城を攻めて戦功を挙げた。その後、上野国白井藩、そして元和4年(1618年)には常陸国土浦藩2万石に移封された。 元和6年(1620年)1月14日死去。享年37。跡を長男・忠昭が継いだ。 Category:酒井氏 たたなか Category:戦国武将 Category:譜代大名 Category:土浦藩主 Category:白井藩主 Category:武蔵国の藩主 Category:1584年生 Category:1620年没.

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西陣

西陣(にしじん)とは京都府京都市上京区から北区にわたる地域の名称。「西陣」という行政区域はない。高級絹織物の西陣織発祥の地であり、織物産業が集中する地域である。.

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西条藩

西条藩(さいじょうはん)は、江戸時代に伊予国に存在した藩。藩庁は伊予国新居郡西条(現在の愛媛県西条市)の西条陣屋。 江戸時代初期には外様大名の一柳氏が治めたが3代約30年で改易。その後徳川御三家の一つ紀州徳川家(紀州藩)の一族が入り、その支藩として廃藩置県まで存続した。.

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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角川日本地名大辞典

『角川日本地名大辞典』(かどかわにほんちめいだいじてん)は、角川書店の出版による日本の地名辞典である。 著者は「角川日本地名大辞典」編纂委員会で、委員長を務めた竹内理三は本書を制作する目的として「民族遺産としての地名を将来に伝えること」、現代の地名を収録したことについては「現代の社会生活上の必要を満たし、地域の現状を歴史として後世に伝えること」としている(それぞれ本書冒頭の「編纂のことば」より引用)。.

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高師詮

師詮(こう の もろあきら)は、南北朝時代の武将。足利氏の家臣。.

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高田藩

藩(たかだはん)は、越後国に存在した藩。福嶋藩(ふくしまはん)とも呼ばれる。藩庁は高田城(現在の新潟県上越市)にあった。 高田城三重櫓(新潟県上越市).

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高遠藩

遠藩(たかとおはん)は、信濃国南部(現在の長野県伊那市高遠町)に存在した藩。居城は高遠城。.

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請西藩

請西藩庁が置かれた真武根陣屋遺址 請西藩(じょうざいはん)は、江戸時代後期に上総国に所在した藩。石高は1万石で、藩庁は上総国望陀郡請西村(現在の千葉県木更津市請西)の真武根陣屋(まふねじんや。請西陣屋とも)に置かれた。戊辰戦争によって改易された唯一の藩として知られる。当初藩庁は望陀郡貝淵村(現在の木更津市貝渕)の貝淵陣屋に置かれていたために貝淵藩(かいふちはん)とも呼ばれる。 明治維新後、名義上は望陀郡桜井村を藩庁所在地として桜井藩(さくらいはん)が設置されたが、この藩庁(桜井陣屋)は貝淵陣屋を転用したものである。実質は貝淵藩と同一とみなすことができるため、本項では同藩についても併せて解説する。 ちなみに貝淵・桜井・請西村は隣接関係にあり、貝淵(桜井)陣屋は貝淵・桜井両村の境界線に沿った貝淵村側にあった。藩士の邸宅は3村内に点在していたようである。.

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譜代大名

譜代大名(ふだいだいみょう)は、江戸時代の大名の出自による分類の一つである。もともと「譜第(譜代)の臣」と言うように、数代にわたり主家に仕え(譜第/譜代)、家政にも関わってきた家臣のことをさす。主家との君臣関係が強く、主家滅亡時に離反すると、世間から激しく非難されることが多かった。 譜代大名のはじまりは徳川家康が豊臣政権のもとで関東地方に移封された際に、主要な譜代の武将に城地を与えて大名格を与えて徳川氏を支える藩屏としたことに由来する。それに対してそれ以外の家臣は徳川氏の直轄軍に編成されて後の旗本や御家人の元となった。.

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鯖江藩

鯖江藩(さばえはん)は、越前国(現在の福井県の敦賀市から北部分)に存在した藩。鯖江陣屋に藩庁が置かれた。.

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豊岡県

豊岡県庁正門 豊岡県(とよおかけん)とは、丹後国、但馬国および丹波国西部を範囲とした県である。県庁所在地は豊岡。1871年8月29日(旧暦7月14日)に設置され、1876年8月21日に分割されて廃止された。現在の京都府北部と兵庫県北部に当たる。.

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豊岡藩

豊岡藩(とよおかはん)は、但馬国城崎郡周辺を領有した藩。藩庁は当初、豊岡城(現在の兵庫県豊岡市)のち豊岡陣屋。 豊岡県庁正門と豊岡市立図書.

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豊臣秀吉

豊臣 秀吉(とよとみ ひでよし / とよとみ の ひでよし、)、または羽柴 秀吉(はしば ひでよし)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。天下人、(初代)武家関白、太閤。三英傑の一人。 初め木下氏を名字とし、羽柴氏に改める。本姓としては、初め平氏を自称するが、近衛家の猶子となり藤原氏に改姓した後、正親町天皇から豊臣氏を賜姓された。 尾張国愛知郡中村郷の下層民の家に生まれたとされる(出自参照)。当初、今川家に仕えるも出奔した後に織田信長に仕官し、次第に頭角を現した。信長が本能寺の変で明智光秀に討たれると「中国大返し」により京へと戻り山崎の戦いで光秀を破った後、信長の孫・三法師を擁して織田家内部の勢力争いに勝ち、信長の後継の地位を得た。大坂城を築き、関白・太政大臣に就任し、朝廷から豊臣の姓を賜り、日本全国の大名を臣従させて天下統一を果たした。天下統一後は太閤検地や刀狩令、惣無事令、石高制などの全国に及ぶ多くの政策で国内の統合を進めた。理由は諸説あるが明の征服を決意して朝鮮に出兵した文禄・慶長の役の最中に、嗣子の秀頼を徳川家康ら五大老に託して病没した。秀吉の死後に台頭した徳川家康が関ヶ原の戦いで勝利して天下を掌握し、豊臣家は凋落。慶長19年(1614年)から同20年(1615年)の大坂の陣で豊臣家は江戸幕府に滅ぼされた。 墨俣の一夜城、金ヶ崎の退き口、高松城の水攻め、中国大返し、石垣山一夜城などが機知に富んだ功名立志伝として広く親しまれ、農民から天下人へと至った生涯は「戦国一の出世頭」と評される。.

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貞観 (日本)

貞観(じょうがん)は、日本の元号の一つ。天安の後、元慶の前。859年から877年までの期間を指す。この時代の天皇は清和天皇、陽成天皇。.

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鳥羽藩

鳥羽藩(とばはん)は、志摩国答志郡(現在の三重県鳥羽市鳥羽)に存在した藩。藩庁は鳥羽城に置かれた。.

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越後北条氏

越後北条氏(きたじょうし)は、大江系毛利氏の系統を受け継ぐ日本の氏族。 大江広元から、毛利季光―毛利経光と続く大江毛利氏系があるが、 毛利経光の長男、毛利基親は越後国系毛利氏の祖となり、 毛利経光の四男、毛利時親は安芸国系毛利氏の祖となる。 その後、基親の家系は毛利時元―毛利経高と続き、越後北条氏、安田氏へとさらに枝分かれした。 ただし、時親の家系の毛利貞親の子である毛利道幸から分かれたとされることもある。一時は佐橋庄南条を拠点としたので南条氏と称していたが、のちに北条の地へ拠点を移したので北条氏と呼ばれるようになり、安田に移転した別の一族から安田氏が派生したともされる。越後毛利氏の発生の詳細は不明な点も多い。 越後北条氏は大江広元の「広」の字を名に使用している。.

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越後長岡藩

長岡藩(ながおかはん)は、越後国の古志郡全域及び三島郡北東部、蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)を治めた藩。現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩であった。近年は、山城長岡藩と区別するため、越後長岡藩(えちごながおかはん)と国名を冠して呼ばれることもある。 藩庁は長岡城(長岡市)。藩主は初めに堀氏(80,000石)、のちに牧野氏に交替した。牧野氏の家格は帝鑑間詰めの譜代大名で、石高ははじめ62,000石、後に加増されて74,000石になった。正徳2年(1712年)の内高は約115,300石、。.

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足利直冬

足利 直冬(あしかが ただふゆ)は、南北朝時代の武将。 室町幕府将軍・足利尊氏の落胤尊氏の庶長子(長男)とする説もあるが、竹若丸に次いで次男であったとされる。。尊氏に実子として認知されず、尊氏の同母弟・直義の養子となる。観応の擾乱を機に尊氏と徹底して対立・抗争を繰り広げて南北朝時代を激化させたが、尊氏の死後は勢力が衰え、消息不明となった。.

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転封

転封(てんぽう)は、知行地、所領を別の場所に移すことである。国替(くにがえ)、移封(いほう)とほぼ同義である。 史料上は「国替」、「所替」(ところがえ)、「得替」(とくたい)等が使用された。.

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近国

近国(きんごく)とは、律令国の等級区分の一つである。 律令制のもとで国家体制を整えていた古代の日本において、地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。その結果、「近い位置にある国」が近国とされた(畿内の国は分類されない)。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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郡司

郡司(ぐんじ、こおりのつかさ)は、律令制下において、中央から派遣された国司の下で郡を治める地方官である。.

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郷(ごう、きょう、さと)とは田舎または里を意味し、地方行政の単位(村の集合体)である。.

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舞鶴市

舞鶴市(まいづるし)は、 京都府北部(旧:丹後国) に属する市。中丹地域圏に属し、舞鶴都市圏を形成している。 日本海に面する港湾都市として知られる。.

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鈴木繁定

鈴木 繁定(すずき しげさだ)は、戦国時代の武将。穂積氏流・江梨鈴木氏の当主で、鈴木繁朝の子。戦国大名、後北条氏の重臣。属伊豆水軍。官位は丹後守。通称は小次郎。.

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阿部正邦

阿部 正邦(あべ まさくに、万治元年4月19日(1658年5月21日) - 正徳5年1月27日(1715年3月2日))は、江戸時代前期の大名。武蔵国岩槻藩5代藩主、丹後国宮津藩主、下野国宇都宮藩主、備後国福山藩初代藩主。阿部家宗家5代。 岩槻藩第3代藩主阿部定高の次男。正室は山内豊昌の娘、継室は春日氏。子に阿部正羽(三男)、阿部正福(四男)、阿部正容(五男)、娘(榊原政倫と婚約、早世)、娘(土井利実正室)、娘(丹羽秀延正室)、娘(井伊直矩正室)、娘(六郷政長正室)。幼名は作十郎。.

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閏(うるう、じゅん)とは、暦において一年の日数や月数が普段の年(平年)よりも多いこと、または一日の秒数が普段の日よりも多いことをいう。またはその余分な日・月・秒のこと。.

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関ヶ原の戦い

関ヶ原の戦い(せきがはらのたたかい)は、安土桃山時代の慶長5年9月15日(西暦1600年10月21日)に、美濃国不破郡関ヶ原(岐阜県不破郡関ケ原町)を主戦場として行われた野戦。関ヶ原における決戦を中心に日本の全国各地で戦闘が行われ、関ヶ原の合戦、関ヶ原合戦とも呼ばれる。合戦当時は南北朝時代の古戦場・「青野原」や「青野カ原」と書かれた文献もある近衛前久書状(慶長5年9月20日付)、三河物語には「青野カ原ニテノ合戦」となっている。東照宮御実紀においては「関原青野が原に陣取て、関原の戦」と記載されている。また、吉川広家の書状や「慶長記略抄」所収の狂歌でも「青野か原」と記されている( 毎日新聞 2016年4月4日)。近衛前久書状では「大垣表」という記載もある。。 主戦場となった関ヶ原古戦場跡は国指定の史跡となっている。.

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間部詮方

間部 詮方(まなべ あきみち)は、越前鯖江藩の第2代藩主。間部家3代。間部詮貞(西田清貞の次男、初代藩主・間部詮言の実兄)の長男。母は家臣・田中氏の娘。正室は間部詮言の娘・見知。継室は有馬一準の娘。.

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藤原仲実

藤原 仲実(ふじわら の なかざね、康平7年(1064年) - 保安2年12月23日(1122年2月1日))は、平安時代後期の公卿。大納言藤原実季の三男。桟敷または高松を号す。官位は正二位・権大納言。.

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藤原俊成

藤原俊成歌碑「又や見む交野の御野の桜狩 花の雪散る春の曙」(枚方市) 愛知県蒲郡市竹島園地の藤原俊成卿像。『吾妻鏡』(元暦二年二月十九日条)に竹谷・蒲形荘(現在の蒲郡市)の開発領主として「散位俊成」の名がある蒲郡市ホームページ(http://www.city.gamagori.lg.jp/site/museum/shunzei.html)久曽神昇「特別展『藤原俊成の古典』に寄せて」(蒲郡市博物館『特別展 藤原俊成の古典』、1991年 p.62-64) 藤原 俊成(ふじわら の としなり)は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家・歌人。名は有職読みで「しゅんぜい」とも読む。藤原北家御子左流、権中納言・藤原俊忠の子。はじめ勧修寺流・藤原顕頼の猶子となり顕広(あきひろ)を名乗ったが、後に実家の御子左家に戻り、俊成と改名した。法名は釈阿。最終官位は正三位・皇太后宮大夫。『千載和歌集』の撰者として知られる。.

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藤原保昌

藤原 保昌(ふじわら の やすまさ)は、平安時代中期の貴族。藤原南家巨勢磨流、右京大夫・藤原致忠の子。官位は正四位下・摂津守。摂津守となり同国平井に住したことから平井 保昌とも呼ばれる。.

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藤原兼房 (中宮亮)

藤原 兼房 (ふじわら の かねふさ)は、平安時代中期から後期にかけての貴族・歌人。藤原北家、中納言・藤原兼隆の長男。官位は正四位下・讃岐守。.

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藤原顕頼

藤原 顕頼(ふじわら の あきより)は平安時代後期の公卿。藤原北家勧修寺流、権中納言・藤原顕隆の長男。正二位・権中納言。九条民部卿を号す。.

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藤原敦基

藤原 敦基(ふじわら の あつもと)は、平安時代後期の貴族・漢詩人。藤原式家、文章博士・藤原明衡の子。官位は正四位下・上野介。.

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藩庁

藩庁(はんちょう)とは、江戸時代の幕藩体制から明治初期の府藩県制にかけての、藩の役所を表す用語。語としては県の「県庁」等にあたる。 江戸時代の藩政の拠点のことを、明治時代以降に当てた用語である。類義語に藩府(はんぷ)があるが、この語は、江戸時代に藩が江戸に置いた役所をさすことがある。また、明治時代の府藩県三治制下で地方行政の区画として設置された、藩の知藩事が政務を行う役所のこと。 江戸時代の藩の藩庁は、大名の居城や居所のことで、城や屋敷に設置して大名が支配する領内の行政業務を執り行う。城持大名以上の藩は城に、城主格以下の城主格と無城大名の藩は城を構えることが許されなかったことから、領内に屋敷を置いて藩庁とした。こうした無城大名の屋敷のことを俗に陣屋というが、江戸時代では居所や在所と称した。なかには、藩庁を設けない藩もあった。藩庁を中心に栄えた町を陣屋町といい、城の場合は城下町と呼ばれた。.

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肥前国

肥前国(ひぜんのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。西海道に属する。.

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膳所藩

膳所藩(ぜぜはん)は、近江国滋賀郡膳所の膳所城(現在の滋賀県大津市)に藩庁を置いた藩。 江戸時代初期には短期間で藩主家が交替したが、そのうちの本多家が1651年に再封され、以後廃藩置県まで藩主を務めた。京都への入口を押さえる役割を担い、歴代藩主家はいずれも譜代大名である。本多氏(再封)時代の石高は7万石で、これは近江国では彦根藩(井伊家)に次ぐ規模である。.

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長岡氏

長岡氏(ながおかし)は、武家のひとつ。.

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長井貞秀

長井 貞秀(ながい さだひで)は、鎌倉時代後期の政治家・武将。.

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長和

長和(ちょうわ)は、日本の元号の一つ。寛弘の後、寛仁の前。1012年から1016年までの期間を指す。この時代の天皇は三条天皇、後一条天皇。.

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長元

長元(ちょうげん)は、日本の元号の一つ。万寿の後、長暦の前。1028年から1036年までの期間を指す。この時代の天皇は後一条天皇、後朱雀天皇。.

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良岑安世

良岑 安世(よしみね の やすよ)は、平安時代初期の皇族・貴族。桓武天皇の皇子。官位は正三位・大納言、贈従二位。.

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若狭国

若狭国(わかさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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苗木藩

苗木藩(なえぎはん)は、現在の岐阜県中津川市苗木に存在した、最小の城持ちの藩。居城は苗木城。美濃国の恵那郡の一部と加茂郡の一部を領地としていた。.

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陸奥国

奥国(むつのくに)は、かつて存在した令制国の一つ。東山道に属する。 明治維新後、出羽国とともに分割された後の陸奥国については、陸奥国 (1869-)を参照。.

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陸奥国 (1869-)

旧陸奥:従前の陸奥国(むつのくに)の範囲 陸奥国(りくおうのくに(岩手大学教育学部)、むつのくに)は、東北戦争終結直後に従前の陸奥国(むつのくに)から分立した、日本の地方区分の国の一つ。東山道に位置する。領域は現在の青森県および岩手県二戸郡にあたる。現代仮名遣いの「りくおうのくに」は、歴史的仮名遣いでは「りくあうのくに」となる(発音同じ)。 陸奥国は、7世紀に設置された地方区分としての令制国の1つであり、その範囲は変遷してきたが、分割直前は現在の福島県・宮城県・岩手県・青森県および秋田県鹿角郡にあたる。.

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陸中国

中国(りくちゅうのくに)は、東北戦争終結直後に陸奥国から分立した、日本の地方区分の国の一つ。東山道に位置する。領域はほぼ現在の岩手県にあたるが、岩手県南東部の気仙郡、陸前高田市、大船渡市、釜石市南部及び岩手県西北の二戸郡を欠き、秋田県北東部の鹿角市と小坂町を含む。.

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陸前国

前国(りくぜんのくに)は、東北戦争終結直後に陸奥国から分立した、日本の地方区分の国の一つ。東山道に位置する。領域はほぼ現在の宮城県にあたるが、宮城県南部の亘理郡、伊具郡、刈田郡、角田市、白石市を欠き、岩手県南東部の気仙郡、陸前高田市、大船渡市、釜石市南部を含む。.

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柿岡藩

柿岡藩(かきおかはん)は、常陸国新治郡柿岡(現在の茨城県石岡市柿岡)に存在した藩。居城は柿岡城。.

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東海道

東海道(とうかいどう、うみつみち)は、五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。.

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松平信友 (小島藩主)

松平 信友(まつだいら のぶとも、寛政9年(1797年) - 嘉永元年3月6日(1848年4月9日))は、駿河小島藩の第7代藩主。小島藩滝脇松平家7代。 第6代藩主・松平信圭の長男。母は大岡忠喜の娘。正室は青山幸孝の娘。子に松平信書(長男)、娘(松平信賢正室)。官位は従五位下、丹後守。 文化12年(1815年)、父の隠居により跡を継いだ。窮乏した藩財政の再建のため、「君臣百姓和同一致」を自ら制定して、領民に藩財政再建への理解を求めた。天保7年(1836年)5月14日、病を理由に娘婿で養嗣子の信賢に家督を譲って隠居し、嘉永元年(1848年)3月6日に52歳で死去した。墓所は東京都台東区下谷の英信寺。 のふとも *07 Category:1797年生 Category:1848年没.

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松平信賢

松平 信賢(まつだいら のぶます、文化5年6月17日(1808年7月10日) - 明治6年(1873年)9月11日)は、駿河小島藩の第8代藩主。小島藩滝脇松平家8代。 丹波亀山藩主・松平信志の六男。松平信豪の兄。正室は松平信友の娘。子は松平信成(長男、第11代藩主滝脇信敏養子)。官位は従五位下、丹後守。 先代・信友の娘婿となり、天保7年(1836年)5月14日に養父が隠居したため跡を継いだ。天保の大飢饉で藩財政に苦しんだ。嘉永4年(1851年)4月27日、養嗣子の信進に家督を譲って隠居し、明治6年(1873年)9月11日に66歳で死去した。墓所は東京都台東区下谷の英信寺。 のふます のふます *08 Category:丹波亀山藩の人物 Category:1808年生 Category:1873年没.

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松平信進

松平 信進(まつだいら のぶゆき、文化10年8月14日(1813年9月8日) - 文久3年1月24日(1863年3月13日))は、駿河小島藩の第9代藩主。小島藩滝脇松平家9代。 出雲松江藩主・松平斉恒の次男。正室は松平信豪の長女。子に娘(松平信敏正室)。官位は従五位下、丹後守。 誕生は文政元年(1818年)7月14日とする説もある。幼名は敬次郎。嘉永4年(1851年)4月27日、先代の信賢の隠居により、その養嗣子として跡を継いだ。ペリー来航で政情不安が高まる中、軍制改革や専売制などを行なって藩政を再建した。 文久3年(1863年)正月24日、51歳で死去し、跡を養嗣子の信書が継いだ。墓所は東京都台東区下谷の英信寺。 のふゆき のふゆき *09 Category:幕末の大名 Category:1813年生 Category:1863年没.

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松平信書

松平 信書(まつだいら のぶふみ、弘化3年6月8日(1846年7月30日) - 元治元年6月27日(1864年7月30日))は、駿河小島藩の第10代藩主。小島藩滝脇松平家10代。 第7代藩主・松平信友の三男(次男とも)。官位は従五位下、丹後守。 父の隠居後に生まれる。文久3年(1863年)、先代藩主の信進の死去により、その養嗣子となって跡を継いだ。元治元年(1864年)6月27日、19歳で死去し、跡を養嗣子の信敏が継いだ。墓所は東京都台東区下谷の英信寺。 のふふみ *10 Category:幕末の大名 Category:1846年生 Category:1864年没.

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松平直泰

松平 直泰(まつだいら なおひろ)は、江戸時代中期から後期の大名。播磨明石藩第4代藩主。直良系越前松平家5代。.

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松平資昌

松平 資昌(まつだいら すけまさ)は、遠江浜松藩の第2代藩主。後に丹後宮津藩の初代藩主となる。本庄松平家4代。.

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松平重忠

松平 重忠(まつだいら しげただ)は、安土桃山時代から江戸時代初期の武将、大名。遠江国横須賀藩2代藩主、出羽国上山藩初代藩主。杵築藩能見松平家2代。.

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松平重直

松平 重直(まつだいら しげなお)は、江戸時代前期の譜代大名。出羽上山藩第2代藩主、摂津三田藩主、豊後竜王藩主、豊後高田藩初代藩主。杵築藩能見松平家3代。.

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村上藩

村上藩(むらかみはん)は、越後国に存在した藩。藩庁は村上城(現在の新潟県村上市)。 豊臣政権下の1598年に村上氏が当地に入ったが1618年に改易。外様大名の堀氏3代を経て、譜代・親藩の大名家が次々に入れ替わった。1720年に内藤氏が入り、以後廃藩置県まで9代150年にわたって内藤氏が5万石の藩を統治した。.

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村松藩

村松藩(むらまつはん)は、越後国蒲原郡のうち、村松・下田・七谷・見附地方を支配した藩。藩庁は村松城(現在の新潟県五泉市)に置かれた。.

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桑田郡

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横須賀藩

横須賀藩(よこすかはん)は、遠江国に存在した藩。藩庁は横須賀城(静岡県掛川市西大渕)。.

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武田二十四将

武田二十四将図(武田神社所蔵品) 武田二十四将の旗印 武田二十四将(たけだにじゅうししょう、たけだにじゅうよんしょう)は、武田信玄に仕えた武将のうち、後世に講談や軍記などで一般的な評価が特に高い24人をさして呼ばれるようになった武田家家臣団の呼称。.

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武田信賢

武田 信賢(たけだ のぶかた)は、室町時代の武将、守護大名。若狭・丹後守護、安芸佐東郡・安南郡・山県郡守護。若狭武田氏第2代当主。安芸武田氏の武田信繁の次男。兄に信栄、弟に国信、元綱。家系には異説がある。.

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武田元信

武田 元信(たけだ もとのぶ)は、戦国時代の守護大名。若狭国・丹後国守護、安芸国分郡守護。若狭武田氏の第5代当主。武田国信の次男。妻は伊勢貞祐(政所執事伊勢貞宗の弟)の娘。.

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武田国信

武田国信(たけだ くにのぶ).

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武蔵国

武蔵国(むさしのくに、)は、かつて日本の地方行政区分であった令制国の一つ。東山道のち東海道に属する。.

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水本邦彦

水本邦彦(みずもと くにひこ、1946年- )は、日本の歴史学者、京都府立大学・長浜バイオ大学名誉教授。日本近世史専攻。.

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永井尚征

永井 尚征(ながい なおゆき)は、山城淀藩の第2代藩主、後に丹後宮津藩の初代藩主となる。永井家宗家3代。.

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永井尚長

永井 尚長(ながい なおなが)は、丹後宮津藩の第2代藩主。永井家宗家4代。.

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永承

永承(えいしょう)は、日本の元号の一つ。寛徳の後、天喜の前。1046年から1052年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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治暦

治暦(じりゃく)は、日本の元号の一つ。康平の後、延久の前。1065年から1068年までの期間を指す。この時代の天皇は後冷泉天皇、後三条天皇。.

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沼田藩

沼田藩(ぬまたはん)は、上野利根郡(現在の群馬県沼田市西倉内町)に存在した藩。沼田城に藩庁を置いた。.

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淀藩

淀藩(よどはん)は、山城国(現在の京都府京都市伏見区淀本町)に存在した藩。.

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渡辺伊綱

渡辺 伊綱(わたなべ これつな)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。和泉国伯太藩の第4代藩主。伯太藩渡辺家6代。.

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渡辺章綱

渡辺 章綱(わたなべ あきつな)は、江戸時代後期の大名。和泉伯太藩最後(第9代)の藩主。伯太藩渡辺家11代。維新後、藩知事・子爵。.

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渡辺綱

渡辺 綱(わたなべ の つな)は、平安時代中期の武将。嵯峨源氏の源融の子孫で、正式な名のりは源綱(みなもと の つな)。通称は渡辺源次。頼光四天王の筆頭として知られる。渡辺氏の祖。.

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渡辺登綱

渡辺 登綱(わたなべ のりつな)は、江戸時代中期の大名。和泉国伯太藩の第2代藩主。伯太藩渡辺家4代。.

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渡辺潔綱

渡辺 潔綱(わたなべ きよつな)は、江戸時代後期の大名。和泉伯太藩の第8代藩主。伯太藩渡辺家10代。.

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源経相

源 経相(みなもと の のりすけ、生年不詳 - 長暦3年10月7日(1039年10月26日))は、平安時代中期の官人。初名為能あるいは惟能。宇多源氏出身。左大臣源雅信の孫。源時中の八男。母は参議藤原安親女。子に参議藤原資房室らがいる。 源倫子(藤原道長室)の甥にあたり、彼自身も道長一族と深い関係にあった。備前守・丹後守等地方官を歴任したが、長暦3年(1039年)に従四位下三河守で卒去した。.

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滝脇信敏

滝脇 信敏(たきわき のぶとし)は、駿河小島藩第11代藩主、のち上総桜井藩主。明治維新後に華族に列した。小島藩滝脇松平家11代。維新後に松平から滝脇へ改姓しており、藩主時代の名乗りは松平信敏(まつだいら のぶとし)であった(江戸時代後期から末期には同名の人物が多く存在する。松平信敏を参照)。.

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本多康桓

本多 康桓(ほんだ やすたけ)は、近江膳所藩の第7代藩主。康俊系本多家宗家7代。諱ははじめ忠邦だったが、膳所藩主家養子入り後に康祖、康桓と改めた。.

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本多忠升

本多 忠升(ほんだ ただたか)は、伊勢神戸藩の第5代藩主。 寛政3年(1791年)10月9日、本家の近江膳所藩の嫡子本多忠薫の四男として生まれる。享和2年(1802年)7月に神戸藩の第4代藩主本多忠奝の養子となる。享和3年(1803年)、忠奝の死去により家督を継いだ。 大坂加番代、江戸城各門番、日光祭祀奉行代などを歴任した。藩政では藩学を朱子学に統一し、藩校を教倫堂と改めた。天保11年(1840年)9月20日、病気を理由に家督を次男の忠寛に譲って隠居する。安政4年(1857年)4月に剃髪して昧翁と号した。安政6年(1859年)8月22日に死去した。享年69。 たたたか Category:神戸藩主 Category:譜代大名 Category:1791年生 Category:1859年没.

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本多忠興

本多 忠興(ほんだ ただおき)は、伊勢神戸藩の第3代藩主。神戸藩本多家4代。 寛保2年(1742年)11月25日、初代藩主本多忠統の三男で嫡子だった本多忠篤の長男として生まれる。宝暦3年(1753年)、叔父の第2代藩主忠永の養子となる。宝暦10年(1760年)10月13日、忠永の隠居により家督を継ぎ、12月に江戸城馬場先門番に任じられる。宝暦12年(1762年)8月、江戸城一橋門番に任じられ、宝暦13年(1763年)2月に大坂加番代に任じられる。明和2年(1765年)2月に江戸城和田倉門番に任じられた。 明和3年(1766年)7月15日に死去した。享年25。跡を養子の忠奝(忠永の次男)が継いだ。 たたおき Category:神戸藩主 Category:譜代大名 Category:1742年生 Category:1766年没.

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本多忠永

本多 忠永(ほんだ ただなが)は、伊勢神戸藩の第2代藩主。神戸藩本多家3代。.

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本庄氏

本庄氏(ほんじょうし)は、日本の氏族の一つ。.

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本郷泰固

本郷 泰固(ほんごう やすかた、生没年未詳)は、江戸時代後期(幕末)の旗本。一時は大名(駿河国川成島藩主)にもなった。江戸幕府の若年寄。従五位下、丹後守。.

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朱色

朱色(しゅいろ、しゅしょく)は色の一つ。日本の伝統色名である。単に朱(しゅ)ともいう。やや黄を帯びた赤色について呼ばれる。赤とオレンジ色の中間色。暖色のひとつ。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明石藩

明石藩(あかしはん)は、播磨国明石郡(兵庫県明石市、神戸市西区、神戸市垂水区など)を領した藩。藩庁は明石城に置かれた。 明石城跡.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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明智光秀

明智 光秀(あけち みつひで)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将、大名。 戦国大名・織田信長に見出されて重臣に取り立てられるが、本能寺の変を起こして主君を自害させた。直後に中国大返しにより戻った羽柴秀吉に山崎の戦いで敗れる。一説では、落ちていく途中、小栗栖において落ち武者狩りで殺害されたとも致命傷を受けて自害したともされる。これは光秀が信長を討って天下人になってからわずか13日後のことであり、その短い治世は「三日天下」ともいう。 光秀の本姓は源氏、清和源氏(摂津源氏)の家系で、美濃源氏土岐氏支流である明智氏の出身。通称は十兵衛。雅号は咲庵(しょうあん)。官途は日向守。朝廷より惟任(これとう)の姓を賜ったので惟任光秀ともいう。妻は妻木煕子。その間には、細川忠興室・珠(洗礼名:ガラシャ)、嫡男・光慶(十五郎)、津田信澄室がいる。 領地で善政を行ったとされ、光秀を祭神として忌日に祭事を伝える地域(光秀公正辰祭・御霊神社)もある。江戸時代の文楽「絵本太功記」や歌舞伎「時桔梗出世請状」をはじめ、後世、小説・映画・テレビドラマなど様々な作品でとりあげられている。.

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浜松藩

浜松藩(はままつはん)は、江戸時代の藩の一つであり、遠江国の浜松宿(現在の静岡県浜松市中区)の浜松城を居城とした。.

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新(しん、8年 - 23年)は、中国の王朝。前漢の外戚であった王莽が前漢最後の皇太子の孺子嬰より禅譲を受けて立てた。成帝の時、王莽は新都侯(新都は荊州南陽郡に在る)に封じられたことにより国号を新とした。 周の時代を理想とした政策を行なったが、その理想主義・復古主義的な政策は当時の実情に合っておらず、国内は混乱。また、匈奴や高句麗に対して高圧的な態度を取ったためにこれらの離反を招くなど、 具体的な政策としては、古代の名称にあわせた地名や役職名の頻繁な改名、小作農民のための農地の国有化、奴隷売買の禁止、高利貸しに対し、国家による安い金利での融資などを行った。また新貨幣を鋳造し(制度が複雑で経済が混乱したあげく、私銭鋳造を認めるまでになった)、塩や鉄を国が専売制とするなどの政策があったが、経済政策では地主や高利貸し等から、貨幣鋳造や塩鉄の統制では民衆から、大きく不満と反対が起きた。 遠征も繰り返しており、匈奴には30万人、西南の句町国には20万人の兵を派遣し、 やがて赤眉・緑林の乱が起こり、更始帝の軍により長安を落とされて王莽は殺され、1代限りで滅んだ。 新から後漢への移り変わりは新末後漢初を参照。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本国現報善悪霊異記

『日本国現報善悪霊異記』(にほんこくげんほうぜんあくりょういき)は、平安時代初期に書かれ、伝承された最古の説話集で『日本霊異記』と略して呼ぶことが多い。著者は景戒。上・中・下の三巻。変則的な漢文で表記されている。.

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日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

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旧高旧領取調帳

旧高旧領取調帳(きゅうだかきゅうりょうとりしらべちょう)とは、明治時代初期に政府が各府県に作成させた、江戸時代における日本全国の村落の実情を把握するための台帳である。.

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改易

改易(かいえき)は、律令制度では現職者の任を解き新任者を補任することを、鎌倉時代・室町時代には守護・地頭の職の変更を意味した。江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。除封ともいう。所領を削減されることを減封という。.

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慶応

慶応(けいおう、旧字体: 慶應)は日本の元号の一つ。元治の後、明治の前。1865年から1868年までの期間。この時代の天皇は孝明天皇、明治天皇。江戸幕府将軍は徳川家茂、徳川慶喜。日本での「一世一元の詔」発布以前では最後の元号。.

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慶長

慶長(けいちょう)は日本の元号の一つ。文禄の後、元和の前。1596年から1615年までの期間を指す。この時代の天皇は後陽成天皇、後水尾天皇。江戸幕府将軍は徳川家康、徳川秀忠。.

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承暦

承暦(じょうりゃく、しょうりゃく)は、日本の元号の一つ。承保の後、永保の前。1077年から1080年までの期間を指す。この時代の天皇は白河天皇。.

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1004年

記載なし。

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1012年

記載なし。

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1024年

記載なし。

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1028年

記載なし。

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1032年

記載なし。

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1036年

記載なし。

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1048年

記載なし。

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1068年

記載なし。

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1073年

記載なし。

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1078年

記載なし。

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1110年

記載なし。

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1118年

記載なし。

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1149年

記載なし。

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11月2日 (旧暦)

旧暦11月2日(きゅうれきじゅういちがつふつか)は旧暦11月の2日目である。六曜は赤口である。.

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1293年

記載なし。

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12月13日

12月13日(じゅうにがつじゅうさんにち)はグレゴリオ暦で年始から347日目(閏年では348日目)にあたり、年末まであと18日ある。.

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1336年

記載なし。

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1337年

記載なし。

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1338年

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1339年

記載なし。

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1341年

記載なし。

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1350年

記載なし。

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1351年

記載なし。

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1352年

記載なし。

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1353年

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1360年

記載なし。

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1363年

記載なし。

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1364年

記載なし。

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1370年

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1375年

記載なし。

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1381年

記載なし。

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1385年

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1391年

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1392年

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1409年

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1440年

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1451年

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1467年

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1468年

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1469年

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1471年

記載なし。

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1474年

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1484年

記載なし。

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1487年

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1498年

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1506年

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1509年

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1519年

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1521年

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1558年

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1579年

記載なし。

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1582年

記載なし。

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1600年

400年に一度の世紀末閏年(16世紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年となる(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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1622年

記載なし。

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1666年

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1668年

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1680年

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1697年

記載なし。

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1717年

記載なし。

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1735年

記載なし。

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1758年

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1784年

記載なし。

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1857年

記載なし。

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1868年

記載なし。

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1869年

記載なし。

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1871年

記載なし。

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1876年

記載なし。

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4月19日 (旧暦)

旧暦4月19日は旧暦4月の19日目である。六曜は仏滅である。.

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4月28日 (旧暦)

旧暦4月28日(きゅうれきしがつにじゅうはちにち)は、旧暦4月の28日目である。六曜は先勝である。.

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4月3日 (旧暦)

旧暦4月3日(きゅうれきしがつみっか)は旧暦4月の3日目である。六曜は赤口である。.

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5月21日

5月21日(ごがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から141日目(閏年では142日目)にあたり、年末まではあと224日ある。誕生花はボリジ。.

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6月18日

6月18日(ろくがつじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から169日目(閏年では170日目)にあたり、年末まであと196日ある。誕生花はスイセンノウ、サギソウ。.

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6月20日 (旧暦)

旧暦6月20日は旧暦6月の20日目である。六曜は先勝である。.

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709年

記載なし。

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713年

記載なし。

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783年

記載なし。

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7月14日 (旧暦)

旧暦7月14日(きゅうれきしちがつじゅうよっか)は、旧暦7月の14日目である。六曜は友引である。.

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7月28日

7月28日(しちがつにじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から209日目(閏年では210日目)にあたり、年末まであと156日ある。誕生花はオシロイバナ、グロリオーサ。.

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866年

記載なし。

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8月21日

8月21日(はちがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から233日目(閏年では234日目)にあたり、年末まであと132日ある。.

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8月29日

8月29日(はちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から241日目(閏年では242日目)にあたり、年末まであと124日ある。.

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