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徳川斉荘

索引 徳川斉荘

徳川 斉荘(とくがわ なりたか)は、江戸時代の大名。天保7年(1836年)に田安徳川家4代当主、天保10年(1839年)に尾張徳川家12代当主となった。.

82 関係: 参議大名大納言天保尊王攘夷尾張徳川家尾張国尾張藩中納言一橋徳川家幼名幕末広大院建中寺弘化佐幕征夷大将軍御三卿御附家老徳川家斉徳川家慶徳川将軍家徳川将軍家御台所徳川匡時徳川虎千代徳川氏徳川昌丸徳川斉彊徳川斉匡徳川斉順徳川斉温徳川斉朝徳川斉明徳川敦之助徳川慶勝徳川慶臧従三位従二位元服竹腰正富田安徳川家衛門府裏千家高須藩近衛府蜂須賀斉裕長栄寺 (名古屋市北区)速成院松平乗寛...松平乗命松平義建松平斉宣松平斉善松平斉省松平斉良松平斉民正室水野忠邦江戸城江戸幕府江戸時代池田斉衆末期養子成瀬正住浅野慶熾文化 (元号)文政支藩1810年1812年1813年1820年1829年1836年1837年1839年1845年6月13日 (旧暦)7月14日7月6日 (旧暦)8月8日 インデックスを展開 (32 もっと) »

参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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大名

大名(だいみょう)は、大名主より転じた語。大いに名の轟く者のことを指す。対義語は小名である。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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天保

天保(てんぽう)は日本の元号の一つ。文政の後、弘化の前。1831年から1845年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉、徳川家慶。.

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尊王攘夷

尊王攘夷(そんのうじょうい)、尊皇攘夷(そんのうじょうい)とは、君主を尊び、外敵を斥けようとする思想である。江戸時代末期(幕末)の水戸学や国学に影響を受け、維新期に昂揚した政治スローガンを指している。.

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尾張徳川家

尾張徳川家(おわりとくがわけ)は、徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。尾張中納言家、単に尾張家、尾州家とも言う。御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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一橋徳川家

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に一橋家ともいう。.

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幼名

幼名(ようみょう/ようめい)は、幼少時の名前の事。おさな名・童名・小字とも言う。 主に平安時代~江戸時代にかけて、武士や貴族の子が幼児である期間につけられる名前で、だいたい元服して諱をつけるまでその名前でいる。江戸期では、多くの慈善活動をした豪商が、その活動を認められ、公での苗字帯刀を許された場合、その商人の子も幼名を持つ例がある。農民の名前も幼名と呼ばれるが、武士とは違って諱をつける事は無い。 現在でも幼少時に改名した場合は、以前の名前を幼名と呼ぶ。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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広大院

広大院(こうだいいん、安永2年6月18日(1773年8月6日) - 天保15年11月10日(1844年12月19日))は、江戸幕府の11代将軍・徳川家斉の正室(御台所)。実父は薩摩藩8代藩主・島津重豪、実母は側室・市田氏(お登勢の方(慈光院))。市田氏は薩摩藩大坂蔵屋敷の足軽から下級武士階級に昇進したとされるが異説もある。養父は近衛経熙。実名は寧姫、篤姫、茂姫。後に天璋院が「篤姫」を名乗ったのは広大院にあやかったものである。弟に奥平昌高(実の生母は鈴木氏の娘)、姉に敬姫(奥平昌男婚約者)がいる。.

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建中寺

建中寺(けんちゅうじ)は、愛知県名古屋市東区にある浄土宗の寺院。江戸時代を通じて代々の尾張藩主の廟が置かれていた。 1651年(慶安4年) に第2代尾張藩主徳川光友が、父である第1代藩主徳川義直の菩提を弔うために建立した。創建当時は周囲は石垣と堀で囲まれ、四万八千坪(158,400m2)の境内に多数の堂が立ち並ぶ規模を誇った。境内の東側には大きな松林があり、鬼門の方角は京都御所の「猿が辻」のように凹ませてあった。1785年(天明5年)の大火災で総門・三門などを除く多数の建物が焼失したが、翌1786年(天明6年)から1787年(天明7年)にかけて再建された。現在では境内の規模は創建当時よりも小さくなっている。.

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弘化

弘化(こうか)は日本の元号の一つ。天保の後、嘉永の前。1845年から1848年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇、孝明天皇。江戸幕府将軍は徳川家慶。.

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佐幕

佐幕(さばく)とは、動乱の幕末期によく使われた言葉で、「幕府を補佐する」の意。しばしば倒幕派と対比するために佐幕派とも呼ばれる。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御三卿

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家である。以下の三家を指す。.

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御附家老

御附家老(おつけがろう)は、江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。江戸時代には、将軍から附けられたことから「御附家老」と呼ばれたが、現在では単に附家老(つけがろう)ということが多い。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。附家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家が特に知られている。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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徳川家慶

徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代征夷大将軍(在職:1837年 - 1853年)。11代将軍・徳川家斉の次男。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川将軍家御台所

徳川将軍家御台所(とくがわしょうぐんけみだいどころ)では、徳川将軍家の御台所について扱う。 御台所とは大臣や将軍の妻に対して用いられる敬称で、江戸時代においては主に江戸幕府将軍の正室の呼称として用いられていた。.

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徳川匡時

徳川 匡時(とくがわ まさとき、文化2年閏8月13日(1805年10月5日) - 天保10年10月12日(1839年11月17日))は、徳川御三卿の一つ田安徳川家の世嗣。第3代当主・徳川斉匡の次男。母は斉匡の正室・裕宮貞子女王(閑院宮美仁親王の娘)。 田安徳川家の嫡子であったが、父・斉匡は兄の将軍徳川家斉の子である斉荘を養子に迎える。このため、匡時は病弱を理由に天保7年(1836年)8月、廃嫡された。天保10年(1839年)、35歳で没した。 まさとき Category:御三卿家の人物 Category:廃嫡された人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1805年生 Category:1839年没.

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徳川虎千代

徳川 虎千代(とくがわ とらちよ)は、第11代将軍徳川家斉の九男で、紀州徳川家当主徳川治寶の養子。兄弟姉妹は多数で、成人した同母弟妹に尾張藩主徳川斉荘と長州藩主毛利斉広正室の和姫がいる。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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徳川昌丸

徳川 昌丸(とくがわ まさまる)は、江戸時代の御三卿・一橋徳川家の8代当主。官位は贈従三位左近衛権中将。 弘化3年(1846年)1月8日、すでに死去していた尾張藩主・徳川斉荘の次男として生まれる。なお、従兄弟にあたる徳川家茂は同じ年、同じく実父死後に出生している。弘化4年(1847年)5月7日に先代当主・徳川慶壽の末期養子となり、一橋家の家督を相続した。当時、一橋家の当主になるということは事実上、将軍家世子に継ぐ将軍候補になるということであった。 しかし就任からわずか3ヵ月後の8月20日、2歳で夭折した。法号は馨明院。嘉永元年(1848年)4月10日に従三位左近衛権中将が追贈された。墓地は芝増上寺にある。 当然嗣子が無かったため、没後に水戸藩主・徳川斉昭の七男・慶喜が跡を継いだ。これにより曽祖父・徳川治済の血筋は、一橋家では絶えた。 まさまる まさまる Category:1846年生 Category:1847年没.

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徳川斉彊

徳川 斉彊(とくがわ なりかつ)は、江戸時代後期の紀伊紀州藩の第12代藩主。もとは清水徳川家第5代当主。 11代将軍・徳川家斉の二十一男。母は吉江左門の娘・本性院。12代将軍・徳川家慶は異母兄であり、13代将軍・徳川家定は甥にあたる。.

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徳川斉匡

徳川 斉匡(とくがわ なりまさ)は、徳川御三卿の一つ田安徳川家第3代当主。 一橋徳川家2代当主徳川治済の五男。母は丸山氏。江戸幕府11代将軍徳川家斉の異母弟にあたる。.

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徳川斉順

徳川 斉順(とくがわ なりゆき)は、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の7男。清水徳川家第3代当主を経て、第11代紀州藩主に転出した。.

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徳川斉温

徳川 斉温(とくがわ なりはる、文政2年5月29日(1819年7月20日) - 天保10年3月20日(1839年5月3日))は、尾張藩11代藩主。従二位権大納言。 11代将軍・徳川家斉の十九男。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。母は側室・お瑠璃の方(青蓮院)。正室は田安斉匡の娘で従姉妹にあたる愛姫(俊恭院)、継室は近衛基前の養女(鷹司政煕の娘)・福君(琮樹院)。幼名は直七郎。 文政5年(1822年)6月13日、従兄にあたる徳川斉朝の養子になった。文政10年(1827年)8月15日、養父斉朝が35歳の若さで隠居したことにより、9歳で家督を相続した。 倹約令を出して尾張藩の財政の建て直しなどに尽力し、凶作に苦しんだ領民に救恤米を施したといわれる。しかし、天保7年(1836年)に福君の入輿の際に華美な行列を行ったことや、天保9年(1838年)に江戸城西の丸再建に際して9万両と木曾檜を献上したことなどにより、財政が更に悪化した。また、無類の鳩好きで、江戸藩邸に数百匹の鳩を飼育し、全ての鳩に名前をつけており、世話役の藩士は苦しみ藩費も浪費した。餌代を誤魔化して不正を働く家臣もいた。侍読の石川魯庵は斉温を諌め、物に執着して志を失う義を申し立てたところ、斉温は即座に鳩を解き放ったという。斉温には諫言を聞き入れる素直さがあり、また家臣とともに講義を聞くほど学問好きであった。 病弱の故をもって江戸藩邸に常住し、襲封後21歳で死去するまでの12年間、尾張藩領内に一度も入ることがなかった。 死去に際して実子がなく、異母兄の斉荘が養子となって家督を相続した。.

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徳川斉朝

徳川 斉朝(とくがわ なりとも、1793年9月27日(寛政5年8月23日)- 1850年5月11日(嘉永3年3月30日))は、尾張藩の第10代藩主。第11代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男。母は二条治孝の娘・乗蓮院。正室は家斉の長女で従姉にあたる淑姫。官位は従二位・権大納言。.

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徳川斉明

徳川 斉明(とくがわ なりのり、文化6年12月5日(1810年1月10日) - 文政10年6月10日(1827年8月2日))は、江戸幕府11代将軍徳川家斉の十一男。母は家斉側室のお八重の方(皆春院)。12代将軍徳川家慶の異母弟。同母兄弟は池田斉衆、松平斉民や蜂須賀斉裕。幼名は保之丞。正室は一品兵部卿伏見宮貞敬親王の娘、教宮(みちのみや)英子女王。 先代当主の異母兄斉順が紀州藩主徳川治宝の養嗣子になったため、清水徳川家第4代当主となる。.

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徳川敦之助

徳川 敦之助(とくがわ あつのすけ、寛政8年3月19日(1796年4月26日) - 寛政11年5月7日(1799年6月10日))は、御三卿の清水徳川家第2代当主。11代将軍徳川家斉の五男。母は家斉の御台所(正室)の近衛寔子。官位はなし。松平敦之助とも。 江戸城大奥で誕生した。敦之助の誕生に、家斉・寔子夫妻のみならず、祖父の徳川(一橋)治済、外祖父の島津重豪(薩摩藩前藩主)らの喜びも絶大であったという。御台所が男子を出生するのは2代将軍徳川秀忠の正室のお江与(崇源院)以来であった。ただし、その3年前に側室のお楽(香琳院)が産んだ敏次郎(後の12代将軍・家慶)が将軍家世子と定められていたため、初代当主重好が嗣子を残さずに死亡して空跡となっていた清水徳川家を、敦之助を当主として寛政10年(1798年)に再興させた。しかしその翌年、敦之助はわずか4歳で病没した。院号は体門院。嗣子があるはずもなく、清水徳川家は再び当主を欠き、文化2年(1805年)になって異母弟の斉順が継いだ。.

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徳川慶勝

徳川 慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名、政治家。尾張藩14代藩主、尾張徳川家第14代・第17代当主。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。 弟に15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称される。 維新後、茂徳とともに朝敵となった容保、定敬の助命に奔走した。明治11年(1878年)、この四兄弟は再会している。 幼名は秀之助、元服後(高須松平家時代)は松平義恕(まつだいら よしくみ)を名乗る。尾張徳川家相続後は将軍徳川家慶より偏諱の授与を受けて、初めは徳川慶恕(よしくみ)、のち慶勝と改名した。なお、本項ではすべて慶勝に統一する。.

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徳川慶臧

徳川 慶臧(とくがわ よしつぐ)は、江戸時代の尾張藩の第13代藩主。田安徳川家第3代当主徳川斉匡の10男。官位は従三位権中納言。紀州藩主徳川斉彊の養女(尾張藩第12代藩主徳川斉荘の娘)と婚約していた。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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従二位

従二位(じゅにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。正二位の下、正三位の上に位する。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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竹腰正富

竹腰 正富(たけのこし まさとみ、文政元年6月30日(1818年8月1日)- 明治17年(1884年)7月24日)は、尾張藩の附家老、美濃国今尾藩の第9代当主。 第8代当主正定の長男。子はなく尾張藩において徳川義直の血筋の生き残りであったこの系統も正富の代で途絶えることとなった。養子として竹腰正厚、竹腰正旧を迎える。官位は従五位下兵部少輔。名は正諟、正美とも。幼名は鉄太郎、万丸。号は篷月(ほうげつ)。生年は文政2年(1819年)とも。 天保3年(1832年)11月、将軍の徳川家斉に初御目見得し、12月27日に従五位下壱岐守に叙任。後に山城守、兵部少輔に改める。天保8年(1837年)11月21日、父正定が隠居したため跡を継いだ。 尾張徳川家の後継者問題については、将軍家から養子を迎えるなど、成瀬正住ととも幕府寄りな立場をとった。幕末期の藩政のなかでは「ふいご党」に近く、安政の大獄で尾張藩14代藩主徳川慶勝が隠居すると、正富は15代藩主徳川茂徳の下で藩政を取り仕切った。 文久2年(1862年)9月10日、幕府から隠居を命じられた。それにともない、養子正旧に家督を譲った。さらに、同年9月14日、幕府から領地に戻ること、そして差控を命じられた。前藩主徳川慶勝の政治的な復権にともなう措置であった。 慶応4年(1868年)4月、旧幕府支持の態度により新政府から蟄居を命じられた。明治2年(1869年)3月10日、罪を赦された。ただし、藩政にたずさわことは禁止された。 明治17年(1884年)7月24日に死去した。法号は正五位竹腰正美君神儀。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。 詩文、和歌、書道、茶道にも通じていた。.

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田安徳川家

安徳川家(たやすとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿の一つ。単に田安家とも言う。.

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衛門府

衛門府(えもんふ)とは、律令制における官司。当初は1つであったが、大同3年(808年)に(左右)衛士府と統合されて一旦廃止され、弘仁3年(811年)に左右衛士府の改称に伴って復置された際、左衛門府と右衛門府の2つが置かれた。和訓にて「ゆげひのつかさ」と呼び、「靫負」という漢字をあてる場合がある。「ゆげひ」とは「ゆぎおひ(靫負ひ)」の転訛で「靫」とは弓を入れる容器のこと。「ゆげひ」がさらに訛って「ゆぎえ」とも称される。唐名は金吾。監門。監府。長は衛門督 (後に左衛門督・右衛門督)である。「柏木」は王朝和歌における衛門府、衛門督の雅称である。 ※当初、(左右)衛士府、(左右)兵衛府とあわせて「五衛府」と呼ばれ、復置後は(左右)近衛府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。ここでは便宜上、衛士府統合以前を「前期」、衛士府の改称による復置以後を「後期」と表記する。.

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裏千家

裏千家(うらせんけ)は、茶道流派の一つ。「裏千家」の語は、家元とその家族らで構成される宗家を指すことも、「一般財団法人今日庵」などの法人組織を指すことも、弟子・門下生を含む流派組織を指すこともある。茶道諸流派中最大の流派である。 裏千家の名称は、千利休からの家督を継いだ本家の表千家(不審菴)に対し、今日庵が通りからみて裏にある意。宗家は京都市上京区小川寺之内上ルにあり、表千家宗家と隣接している。その茶室・今日庵(こんにちあん)は裏千家の代名詞でもある。なお、今日庵の由来は、宗旦が亭主をつとめた茶席に遅れた清巌和尚に、所用があるとして留守にした宗旦が明日の来席を請うた際に残した清巌和尚の「懈怠比丘不期明日」の書き付けから。「千家」といえば本来、本家の表千家のことであったが、裏千家の活躍もあり、近年になって分家である武者小路千家と併せて「三千家」というようになった。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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高須藩

藩(たかすはん)は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。一時期、駒野館(宝暦13年(1763年)- 安永7年(1778年))。江戸中期以降は尾張藩支藩。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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蜂須賀斉裕

蜂須賀 斉裕(はちすか なりひろ)は、江戸時代末期の大名。阿波国徳島藩の第13代藩主。 11代将軍・徳川家斉の二十二男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。13代将軍・徳川家定(家慶の子)は甥にあたるが、僅か3歳年下である。父の家斉より偏諱を賜って斉裕と名乗る。.

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長栄寺 (名古屋市北区)

長栄寺(ちょうえいじ)は、愛知県名古屋市北区柳原二丁目にある天台宗の寺院。山号は洞松山。本尊は準提観音(準提仏母)、地元では開山の豪潮律師を偲んで、「豪潮長栄寺」とも呼ばれる。.

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速成院

速成院(そくせいいん、生年不詳 - 嘉永5年6月7日(1852年7月23日))は、江戸時代の女性。徳川家斉の側室。父は曽根重辰。母は太田林庵の3女で天野正方の養女。名はお蝶。初名は八百、伊野。.

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松平乗寛

松平 乗寛(まつだいら のりひろ)は、江戸時代後期の老中、三河西尾藩第3代藩主。大給松平家宗家13代。 2代藩主松平乗完の長男。寛政5年(1793年)10月、17歳で家督を相続した。乗寛が襲封した当時、藩財政は極度に悪化しており、藩士に対して高100石につき1割の上米と、増手当米の支給を停止した。農民に対しては、先納金の借り置きや調達金の元利の据え置き、支払うべき先納金の5年間の再延期を命じた。しかし、天保の飢饉のため効果を上げることはなかった。幕府では寺社奉行を2期務め、京都所司代を経て老中に就任した。天保10年(1839年)に死去し、家督は長男の乗全が継いだ。.

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松平乗命

松平 乗命(まつだいら のりとし)は、美濃岩村藩の第7代(最後)の藩主。岩村藩大給松平家8代。.

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松平義建

松平 義建(まつだいら よしたつ)は、美濃高須藩の第10代藩主。自身に特筆すべき治績は少ないが、息子は高須四兄弟を筆頭に多くが幕末期に活躍した。.

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松平斉宣

松平 斉宣(まつだいら なりこと)は、播磨明石藩第8代藩主。直良系越前松平家9代。 11代将軍・徳川家斉の二十六男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。家斉の末息子であり、甥にあたる13代将軍・徳川家定よりも年下である。同母兄に越前福井藩主となった松平斉善、武蔵川越藩の嫡子である松平斉省がいる。.

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松平斉善

松平 斉善(まつだいら なりさわ)は、江戸時代後期の大名。福井藩の第15代藩主一般的には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第13代となる。。江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の二十二男。第12代将軍・徳川家慶の異母弟であり、同父の兄弟は多数。同母弟に越前松平家の分家筋の直基系の武蔵川越藩養子松平斉省(家斉二十五男)、同じく直良系にあたる播磨明石藩主の松平斉宣(家斉二十六男)。.

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松平斉省

松平 斉省(まつだいら なりさだ)は、武蔵川越藩の嫡子。11代将軍徳川家斉の二十五男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。.

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松平斉良

松平 斉良(まつだいら なりよし)は、石見国浜田藩の世嗣。江戸幕府第11代将軍徳川家斉の二十男で、第12代将軍徳川家慶の異母弟にあたる。 上野国館林藩主・松平武厚の養子となり、武厚の娘を正室とする。元服し、父・家斉から偏諱を受けて斉良と名乗り、養父武厚も斉厚と改名した。天保7年(1836年)には斉厚が石見浜田に国替えとなったが、斉良は3年後の天保10年(1839年)に死去した。代わって高松松平家出身の武揚(正室は斉良正室の妹)が斉厚の養子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 なりよし なりよし Category:浜田藩の人物 Category:1819年生 Category:1839年没.

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松平斉民

松平 斉民(まつだいら なりたみ)は、江戸時代後期から幕末の大名。美作国津山藩の第8代藩主。11代将軍徳川家斉の十四男で、12代将軍徳川家慶の異母弟。確堂の号で知られる。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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水野忠邦

水野 忠邦(みずの ただくに)は、江戸時代後期の大名・老中。肥前唐津藩主、のち遠州浜松藩主。.

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江戸城

江戸城(えどじょう)は、武蔵国豊嶋郡江戸(現在の東京都千代田区千代田)にあった日本の城である。江戸時代においては江城(こうじょう)という呼び名が一般的だったと言われ、また千代田城(ちよだじょう)とも呼ばれる。 江戸城は麹町台地の東端に、扇谷上杉氏の家臣太田道灌が築いた平山城である。近世に徳川氏によって段階的に改修された結果、総構周囲約4里と、日本最大の面積の城郭になった。 徳川家康が江戸城に入城した後は徳川家の居城、江戸幕府の開幕後は幕府の政庁となる。明治維新後の東京奠都で宮城(きゅうじょう)となった。以後は吹上庭園が御所、旧江戸城西ノ丸が宮殿の敷地となっている。その東側にある旧江戸城の中心部である本丸・二ノ丸と三ノ丸の跡は皇居東御苑として開放されている。南東側の皇居外苑と北側の北の丸公園は常時開放され、それらの外側は一般に利用できる土地になっている。 国の特別史跡に指定されている。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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池田斉衆

池田 斉衆(いけだ なりひろ) は、因幡国鳥取藩の世嗣。江戸幕府11代将軍徳川家斉の十三男。12代将軍徳川家慶の異母弟。 文化14年(1817年)鳥取藩主・池田斉稷の婿養子となり、文政7年(1824年)元服・叙任する。しかし、文政9年(1826年)疱瘡のため家督を相続することなく早世した。享年15。代わって、養父斉稷の次男・斉訓が嫡子となった。 なりひろ Category:鳥取藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 なりひろ Category:天然痘で死亡した人物 Category:1812年生 Category:1826年没.

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末期養子

末期養子(まつごようし)は、江戸時代、武家の当主で嗣子のない者が事故・急病などで死に瀕した場合に、家の断絶を防ぐために緊急に縁組された養子のことである。これは一種の緊急避難措置であり、当主が危篤状態から回復した場合などには、その縁組を当主が取り消すことも可能であった。当主が既に死亡しているにもかかわらず、周囲の者がそれを隠して当主の名において養子縁組を行う場合も指す。.

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成瀬正住

成瀬 正住(なるせ まさずみ)は、尾張藩の附家老、尾張犬山藩の第8代当主。 文化9年(1812年)9月30日、第7代当主・成瀬正壽の長男として生まれる。文政11年12月に従五位下主殿頭に叙任。天保9年(1838年)10月27日、父の死去により家督を継いで当主となる。同年、隼人正に転任。尾張藩主の斉温、斉荘、慶臧、慶勝の四代に仕えた。 安政4年(1857年)9月18日(または9月19日)に死去した。享年46。二男四女があったが男子が早世したため、跡を養子で娘婿の正肥(青山忠良の三男)が継いだ。.

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浅野慶熾

浅野 慶熾(あさの よしてる、天保7年11月12日(1836年12月19日) - 安政5年9月10日(1858年10月16日))は、安芸広島藩の第10代藩主。浅野家宗家11代。 第9代藩主・浅野斉粛の長男。正室は徳川斉荘の娘(徳川斉彊の養女)・利姫。官位は従四位上、侍従、上総介、安芸守。幼名は定吉、定之丞、善次郎。初名は長裕。 嘉永4年(1851年)3月25日、元服し、伯父で将軍の徳川家慶より偏諱を賜って慶熾に改名する。また、従四位上侍従・上総介に任官する。安政5年(1858年)4月12日、父の隠居により跡を継ぐ。通称を安芸守に改める。幼少期から聡明で知られており、その力量は時の名君と呼ばれた島津斉彬や山内豊信、松平慶永らからも一目置かれるほどであったが、家督を継いでから半年足らずの同年9月10日に23歳の若さで江戸にて他界してしまった。跡を養嗣子の長訓が継いだ。 法号は大光院。墓所は広島県広島市の神田山墓地。 よしてる Category:幕末の大名 よしてる 主10 Category:1836年生 Category:1858年没.

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文化 (元号)

文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.

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文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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支藩

支藩(しはん)は、江戸時代の藩主家の一族が、弟や庶子など、家督相続の権利の無い者に所領を分与する(分知)などして新たに成立させた藩のことである。このほか有力家臣の所領も支藩という場合がある。 幕府からの朱印状が本家とは別に発給されている場合は、本藩-支藩関係にはないという考え方もある。.

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1810年

記載なし。

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1812年

記載なし。

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1813年

記載なし。

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1820年

記載なし。

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1829年

記載なし。

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1836年

記載なし。

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1837年

記載なし。

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1839年

記載なし。

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1845年

記載なし。

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6月13日 (旧暦)

旧暦6月13日は旧暦6月の13日目である。六曜は赤口である。.

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7月14日

7月14日(しちがつじゅうよっか、しちがつじゅうよんにち)は、グレゴリオ暦で年始から195日目(閏年では196日目)にあたり、年末まであと170日ある。誕生花はノウゼンカズラ、ハナトラノオ。.

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7月6日 (旧暦)

旧暦7月6日(きゅうれきしちがつむいか)は旧暦7月の6日目である。六曜は赤口である。.

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8月8日

8月8日(はちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から220日目(閏年では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。.

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