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尾張徳川家

索引 尾張徳川家

尾張徳川家(おわりとくがわけ)は、徳川氏の支系徳川御三家の一つで、尾張藩主の家系。尾張中納言家、単に尾張家、尾州家とも言う。御三家の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。.

157 関係: 加藤高明このわた十五銀行南麻布南満州鉄道名古屋城名古屋市堀田氏堀鉞之丞大角岑生大阪大曽根家司尾張国尾張藩山城国中村修 (名古屋市長)一橋徳川家平岩親吉井上正国井上氏廃藩置県佐幕佐藤鋼次郎征夷大将軍御三卿御連枝御附家老侯爵徳川吉宗徳川吉通徳川家康徳川家継徳川家斉徳川宗勝徳川宗睦徳川宗春徳川将軍家徳川五郎太徳川御三家徳川園徳川光友徳川綱誠徳川継友徳川美術館徳川義宣徳川義宜徳川義寛徳川義崇徳川義知...徳川義礼徳川義直徳川義親徳川義恭徳川義恕徳川生物学研究所徳川黎明会徳川茂徳徳川林政史研究所徳川氏徳川治休徳川治保徳川治行徳川治興徳川斉荘徳川斉温徳川斉朝徳川慶勝徳川慶臧北海道ヤクルト本社内藤頼多内藤政脩八代六郎八雲産業八雲町元服勤王秩禄処分竹腰勝起紀州徳川家美濃国田安徳川家田中不二麿甲斐国男爵片桐助作 (1851年生)目白遊楽部遠藤胤昌華族青松葉事件西武グループ駿府城高岡藩高須藩高松松平家豊島区財産税法越前松平家鸚鵡籠中記麻布区農地法鈴木信吉阪本さん之助間島弟彦蓬左文庫金禄公債東区 (名古屋市)東成郡松平友著松平定敬松平容保松平容敬松平忠吉松平義孝松平義居松平義建松平義当松平義和松平義勇松平義端松平義真松平義生松平義行松平義裕松平義昌松平義方松平義敏松平通温松平武雅松平武成松井石根梁川藩櫛羅藩武家水戸藩永井久一郎永井氏江戸時代河文津軽義孝渡辺錠太郎清和源氏戊辰戦争成瀬氏明治維新昭和天皇海部昂蔵摂津国愛知県愛知県立明和高等学校1603年1606年1799年1801年19世紀 インデックスを展開 (107 もっと) »

加藤高明

加藤 高明(かとう たかあき、安政7年1月3日(1860年1月25日) - 大正15年(1926年)1月28日)は、日本の外交官、政治家。外務大臣(第15・18・25・27代)、貴族院議員、内閣総理大臣(第24代)などを歴任した。 位階勲等爵位は正二位大勲位伯爵。学位は法学士(東京大学・1881年)。幼名は総吉(そうきち)。.

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このわた

このわた(海鼠腸)は、ナマコの内臓の塩辛である。寒中に製した、また腸の長いものが良品であるとされる。尾張徳川家が師崎のこのわたを徳川将軍家に献上したことで知られ、ウニ、からすみ(ボラの卵巣)と並んで日本三大珍味の一つに数えられる。 古くから能登半島・伊勢湾・三河湾が産地として知られてきたが、今日では、瀬戸内海など各地で製造されている。.

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十五銀行

十五銀行(じゅうごぎんこう)はかつて日本に存在した銀行である。1944年、帝国銀行に吸収合併された。.

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南麻布

南麻布(みなみあざぶ)は、東京都港区の地名。麻布地区総合支所管内にあたり、現行行政地名は南麻布一丁目から南麻布五丁目。郵便番号は106-0047(芝局管区)。.

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南満州鉄道

南満洲鉄道株式会社(みなみまんしゅうてつどう、、The South Manchuria Railway Co., Ltd.)は、1906年(明治39年)に設立され、1945年(昭和20年)にポツダム宣言の受諾に伴って閉鎖された大日本帝国の特殊会社。南満州において鉄道運輸業を営んでいた。略称は満鉄(まんてつ)。 鉄道事業を中心として広範囲にわたる事業を展開し、日本軍による満洲経営の中核となった。本社は関東州大連市であるが、のちに満州国が成立すると満州国首都の新京特別市に本部が置かれ、事実上の本社となった。また、東京市麻布区麻布狸穴町に東京支社が置かれた。最盛期には80余りの関連企業を持った。.

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名古屋城

名古屋城(なごやじょう)は、尾張国愛知郡名古屋(現在の愛知県名古屋市中区・北区)にあった日本の城。「名城(めいじょう)」、「金鯱城(きんこじょう、きんしゃちじょう)」、「金城(きんじょう)」の異名を持つ。日本100名城に選定されており、国の特別史跡に指定されている。.

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名古屋市

名古屋市(なごやし)は愛知県西部(尾張地方)にある市。政令指定都市であり、同県の県庁所在地である。全16区から構成される。.

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堀田氏

堀田氏(ほったし)は、日本の氏族。.

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堀鉞之丞

堀 鉞之丞(ほり えつのじょう、生没年不明)は、愛知英語学校出身の理学士。儒学者・堀杏庵の子孫にあたる。1891年(明治24年)、衛生試験所技師。第一高等学校教授。1908年10月30日から1914年4月30日まで尾張徳川家の御相談人、1914年9月から同家の家令を務め、1917年に明倫中学校と附属博物館を愛知県に譲渡し、名古屋の同家所有地の整理・処分を進めるなど、家政改革を推し進めた。.

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大角岑生

大角 岑生(おおすみ みねお、明治9年(1876年)5月1日 - 昭和16年(1941年)2月5日)は、大正から昭和にかけての日本の海軍軍人、政治家、華族。海軍大将。男爵。愛知県出身で本籍は高知県。.

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大阪

大阪(おおさか、Ōsaka)は、日本の近畿地方(関西地方)の地名である。日本第二の都市・西日本最大の都市である大阪市(狭義の大阪)と、大阪市を府庁所在地とする大阪府を指す地域名称であり、広い意味では大阪市を中心とする京阪神(近畿地方、大阪都市圏、近畿圏)を漠然と総称することにも使われる。近畿の経済・文化の中心地で、古くは大坂と表記し、古都・副都としての歴史を持つ。.

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大曽根

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家司

家司(けいし、いえのつかさ)とは、親王・内親王家および職事三位以上の公卿・将軍家などの家に設置され、家政を掌る職員。 本来は律令制で定められた職員であったが、平安時代中期以後は公卿・官人・地下の中から私的に任用され、国政機関の職員が権門の私的な家政職員である家司を兼ねる仕組が形成された。.

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尾張国

尾張国(おわりのくに/をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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尾張藩

尾張名古屋藩屋敷跡(東京都千代田区)の石碑 名古屋城(1979年) 尾張藩(おわりはん)は、愛知県西部にあって尾張一国と美濃、三河及び信濃(木曽の山林)の各一部を治めた親藩。徳川御三家中の筆頭格であり、諸大名の中で最高の格式(家格)を有した。尾張国名古屋城(愛知県名古屋市)に居城したので、明治の初めには「名古屋藩」とも呼ばれた。藩主は尾張徳川家。表石高は61万9500石。.

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山城国

山城国(やましろのくに)は、日本の地方行政区分である令制国の一つ。畿内に属する。.

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中村修 (名古屋市長)

中村 修(なかむら おさむ、天保14年11月25日(1844年1月14日) - 大正4年(1915年)6月6日『尾張の勤王』P.29-37)は、初代名古屋市長。初名は修之進。.

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一橋徳川家

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿のひとつ。単に一橋家ともいう。.

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平岩親吉

平岩 親吉(ひらいわ ちかよし)は、戦国時代から江戸時代初期の武将・大名。徳川氏の家臣。上野厩橋藩(前橋藩)、のちに尾張犬山藩の藩主。徳川十六神将の一人に数えられる。『三河後風土記』の著者というが、著者不詳ともされはっきりしない。.

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井上正国

井上 正国(いのうえ まさくに)は、下総国高岡藩の6代藩主。 元文4年(1739年)9月7日、尾張藩の8代藩主・徳川宗勝の十男として江戸で生まれる。はじめ父の「勝」の偏諱を受けて松平勝斯と名乗った。宝暦5年(1755年)3月22日、高岡藩の5代藩主・井上正森の養子となって井上正国と名乗り、正森の娘を娶った。宝暦10年(1760年)12月7日、正森と隠居にともない家督を継いだ。12月8日に従五位下、筑後守に叙位・任官する。 宝暦11年(1761年)7月、大坂加番に任じられる。明和4年(1767年)11月8日、大坂定番に任じられ、天明8年(1788年)3月22日に奏者番に任じられるなど、諸役を歴任するが、寛政元年(1789年)3月24日に病気を理由に辞任した。 寛政3年(1791年)3月7日、養子・正紀(実兄竹腰勝起の次男)に家督を譲って隠居し、8月13日に死去した。享年53。 まさくに *06 Category:徳川宗勝の子女 Category:1739年生 Category:1791年没.

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井上氏

井上氏(いのうえし)は日本の氏族のうちのひとつ。.

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廃藩置県

廃藩置県(はいはんちけん)とは、明治維新期の明治4年7月14日(1871年8月29日)に、明治政府がそれまでの藩を廃止して地方統治を中央管下の府と県に一元化した行政改革である。 各藩の武装解除の過程については「鎮台」を参照。.

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佐幕

佐幕(さばく)とは、動乱の幕末期によく使われた言葉で、「幕府を補佐する」の意。しばしば倒幕派と対比するために佐幕派とも呼ばれる。.

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佐藤鋼次郎

佐藤 鋼次郎(さとう こうじろう、文久2年4月9日(1862年5月7日) - 大正12年(1923年)9月18日)は、大日本帝国陸軍の軍人。 尾張国出身。陸軍士官学校卒。明治26年(1893年)ドイツに留学。日清戦争、日露戦争に従軍。旅順要塞参謀長を経て、明治45年(1912年)清国駐屯軍司令官に就任。第一次世界大戦にも従軍した。大正5年(1916年)中将に進む。予備役編入後は軍事評論家に転身し、また関東國粹会総長も務めた。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御三卿

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期に徳川氏の一族から分立した大名家である。以下の三家を指す。.

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御連枝

御連枝(ごれんし)は、貴人の兄弟を指した敬称。根幹を同じくする枝々が連なっている様子を表した「連枝」がその語源。歴史的には以下の意味を持つ。 広義には、天皇家・将軍家・大名家など高貴な支配階級の顕職を世襲する権門において、当主の兄弟のうち仏門に入らずに特に取り立てられて一家を興した者、およびその者を祖とする家系をいう。天皇家からの宮家、徳川将軍家からの御三家・御両典・御三卿、藩主家からの支藩家などがこれにあたる。いずれの場合も、本家筋に嗣子を欠く場合にはそれを継承することもあり得る存在として知られた。 狭義には、江戸時代に御三家からさらに分家して立藩した親藩大名家を指して特にこう呼ぶことがあった。.

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御附家老

御附家老(おつけがろう)は、江戸幕府初期、将軍家の連枝を大名として取り立てた際に、特に将軍から直接の命令を受けてその者の家老に附属された家臣のことをいう。江戸時代には、将軍から附けられたことから「御附家老」と呼ばれたが、現在では単に附家老(つけがろう)ということが多い。多い場合は十数人付けられたらしいが、通常はそのうちの筆頭家老を指す。附家老家の中でも徳川御三家の筆頭附家老5家が特に知られている。.

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侯爵

侯爵(こうしゃく)とは、公爵の下位、伯爵の上位に相当する爵位。近代日本では華族の階級としても用いられたほか、英語でmarquessまたはmarquisと呼ばれるヨーロッパ各国の爵位や、ドイツの爵位としてのFürstの訳語にも充てられる。古代中国の爵位(五爵)の第2位。 公爵と発音が同じことから、俗に字体が似ている「候」から「そうろう-こうしゃく」と呼ばれ、区別される。.

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徳川吉宗

徳川 吉宗(とくがわ よしむね)は、江戸幕府第8代将軍。将軍就任以前は越前国葛野藩主、紀州藩第5代藩主を務めた。 徳川御三家の紀州藩第2代藩主・徳川光貞の四男として生まれる。初代将軍・徳川家康は曾祖父に当たる。父と2人の兄の死後、紀州藩主を継ぎ藩財政の再建に努め、成果を挙げた。第7代将軍・徳川家継の死により秀忠の血をひく徳川将軍家の男系男子が途絶えると、6代将軍家宣の正室・天英院の指名により御三家出身では初の養子として宗家を相続し、江戸幕府の第8代将軍に就任した。紀州藩主時代の藩政を幕政に反映させ、将軍家宣時代の正徳の治を改める幕政改革を実施。幕府権力の再興に務め、増税と質素倹約による幕政改革、新田開発など公共政策、公事方御定書の制定、市民の意見を取り入れるための目安箱の設置などの享保の改革を実行した。徳川家重に将軍の座を譲った後も大御所として権力を維持し、財政に直結する米相場を中心に改革を続行していたことから米将軍(八十八将軍)と呼ばれた。 この幕府改革で破綻しかけていた財政の復興などをしたことから中興の祖と呼ばれる。年貢率を引き上げるなど農民を苦しめた上で成り立った改革だったため、百姓一揆の頻発を招いた。また、庶民にも倹約を強いたため、景気は悪化し、文化は停滞した。.

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徳川吉通

徳川 吉通(とくがわ よしみち)は、尾張藩の第4代藩主。.

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徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

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徳川家継

徳川 家継(とくがわ いえつぐ)は、江戸幕府の第7代将軍(在任:1713年 - 1716年)。 第6代将軍・徳川家宣の四男。母は側室で浅草唯念寺住職の娘・お喜代(月光院)。一時期、徳川家の旧苗字「世良田」を用いて世良田 鍋松(せらた なべまつ)と呼ばれていた。婚約者は霊元天皇の皇女・八十宮吉子内親王。史上最年少で任官し、また史上最年少で死去した征夷大将軍である。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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徳川宗勝

徳川 宗勝(とくがわ むねかつ)は、尾張徳川家の尾張藩第8代藩主。御連枝川田久保松平家第2代当主、高須藩四谷松平家の第3代藩主でもあった。 川田久保松平家初代・松平友著(尾張徳川家第2代当主・徳川光友の十一男)の長男。母は側室湯本氏(繁、円珠院)。尾張徳川家第4・6・7代当主である吉通・継友・宗春兄弟の従弟に当たる。正室は第4代藩主・徳川吉通の次女・三姫(宝蓮院)。側室は倉林氏(すめ・寿光院)・馬場氏(とせ・清光院)・寺嶋氏(そよ・仙宥院)と多数。.

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徳川宗睦

徳川 宗睦(とくがわ むねちか/むねよし、1733年10月27日(享保18年9月20日)- 1800年1月14日(寛政11年12月20日))は、尾張藩の第9代藩主。尾張藩中興の名君と称された。.

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徳川宗春

徳川 宗春(とくがわ むねはる)は、江戸時代中期の大名。尾張徳川家第7代当主・第7代尾張藩主。尾張藩主前は御連枝である大久保松平家当主(陸奥梁川藩主)。 尾張藩主就任時に規制緩和政策をとった宗春は、質素倹約策の8代将軍徳川吉宗とよく対比されるが、幕府が元文の改鋳で金融緩和をした際には、尾張藩では引き締め政策を行っており、単純な規制緩和ではなかった。 歴代藩主と同様、尾張藩主就任後に吉宗から「宗」の偏諱を授かって「宗春」と改名した(後述)。改名前の諱は兄徳川吉通の「通」の字を得て通春。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川五郎太

徳川 五郎太(とくがわ ごろうた、正徳元年1月9日(1711年2月25日) - 正徳3年10月18日(1713年12月5日))は、尾張藩の第5代藩主。第4代藩主徳川吉通の長男。母は吉通の正室である九条輔実の娘・瑞祥院輔子。輔子の実母益子内親王は後西天皇の息女。吉通の父の第3代藩主徳川綱誠は、第2代藩主徳川光友と3代将軍徳川家光の長女の霊仙院千代の嫡男である。つまり、五郎太は尾張徳川家・徳川将軍家と皇室・五摂家の血を引いていた。 父・吉通が25歳の若さで死去したために跡を継いだが、相続から2ヶ月ほど後に数え3歳で死去した。家督は叔父の継友が継いだ。 官位は生前にはなく、1713年(正徳3年)11月3日、贈従三位参議。法名は贈三品宰相眞巌院源譽法仙性蓬大居士。墓所は名古屋市東区筒井の徳興山建中寺にあったが、第二次世界大戦の空襲で破却されてしまい、現在は位牌が祀られるのみである。.

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徳川御三家

徳川御三家(とくがわごさんけ)は、江戸時代において徳川氏のうち徳川将軍家に次ぐ地位を持っていた3家のこと。単に御三家(ごさんけ)とも呼ばれる。.

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徳川園

徳川園(とくがわえん)は、愛知県名古屋市東区徳川町にある日本庭園。 隣接して、国宝の「源氏物語絵巻」を展示する事で有名な徳川美術館や、河内本『源氏物語』を所蔵する名古屋市蓬左文庫がある.

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徳川光友

徳川 光友(とくがわ みつとも)は、江戸時代前期の大名。尾張藩2代藩主。新陰流第6世。初名は光義(みつよし)で、こちらを名乗った期間の方が長い。.

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徳川綱誠

徳川 綱誠(とくがわ つなのぶ/つななり、承応元年8月2日(1652年9月4日) - 元禄12年6月5日(1699年7月1日))は、尾張藩の第3代藩主。新陰流第7世。元服後の初名は徳川綱義(つなよし)。号は誠公。字は子明。官位は正三位、権中納言。 第2代藩主・徳川光義(のち光友)の次男(正室の子であるため長男とされた)。母は徳川家光の娘・霊仙院(千代姫)。幼名は五郎太。徳川家綱、徳川綱重、徳川綱吉からは甥であり、又従兄弟でもある。正室は広幡忠幸の娘・新君(にいぎみ)。側室13名。40人の子女(22男18女)をもうけるも、正室との間に子はできず、また、その大半は夭折した。 子に徳川吉通(十男)、徳川継友(十一男)、松平義孝(十五男)、松平通温(十八男、喜之進・安房守)、徳川宗春(十九男)、松姫(十七女、前田吉徳正室)、喜知姫(叔父徳川綱吉養女)らがいる子女の出生順や数は系図によって多少異なる。胎死や流産で名前が付けられる前に死んだ子供がいるからである。。.

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徳川継友

徳川 継友(とくがわ つぐとも、元禄5年2月8日(1692年3月25日) - 享保15年11月27日(1731年1月5日))は、江戸時代中期の第6代尾張藩主である。.

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徳川美術館

徳川美術館(とくがわびじゅつかん)は、愛知県名古屋市東区徳川町の徳川園内にある、公益財団法人 徳川黎明会が運営する私立美術館。1935年に開設された。収蔵品は駿府御分物(徳川家康の遺品)など尾張徳川家伝来の大名道具や他の大名家の売立てでの購入品、名古屋の豪商らからの寄贈品など。2016年現在で、国宝9件、重要文化財59件を収蔵する。国宝・源氏物語絵巻のほか、西行物語絵巻、豊国祭図屏風、「初音の調度」などの所蔵品で知られる。.

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徳川義宣

徳川 義宣(とくがわ よしのぶ、1933年12月24日 - 2005年11月23日)は、尾張徳川家第21代当主。美術史家、財団法人徳川黎明会会長、徳川美術館長。養子のため徳川家の直系の血筋ではないが、多数の著作や講演でのアピールで、他の御三家以上に露出度を高めた。徳川家康の遺訓だとされていた「人の一生は重荷を負て遠き道をゆくがごとし」は、家康のものではなく、徳川光圀のものであると確認した。.

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徳川義宜

徳川 義宜(とくがわ よしのり、1858年7月4日(安政5年5月24日)- 1875年(明治8年)11月24日)は、江戸時代末期の大名。尾張国尾張藩の第16代藩主(藩主としては最後の人物)。.

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徳川義寛

徳川 義寛(とくがわ よしひろ、1906年11月7日 - 1996年2月2日)は、昭和天皇の側近、侍従長。尾張(名古屋)藩主徳川慶勝の孫で、実弟津軽義孝は常陸宮正仁親王妃華子の父であり、妹祥子は北白川宮永久王の妃。.

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徳川義崇

徳川 義崇(とくがわ よしたか、1961年8月 - )は、尾張徳川家第22代当主で、公益財団法人徳川黎明会会長、名古屋徳川美術館館長、八雲産業代表取締役社長。名古屋市博物館協議会委員、全国美術館会議副会長、日本博物館協会理事、名古屋大学参与。 IT技術の研究にも携わり、WIDEプロジェクトメンバー。「お殿様はスーパーICTエンジニア」と題して講演。徳川美術館のキャラクター「トクさん」のモデル。.

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徳川義知

徳川 義知(とくがわ よしとも、1911年5月22日 - 1992年4月14日)は尾張徳川家第20代当主。日本赤十字社常任理事。 養子の義宣(堀田正恒の六男、娘・三千子の夫)は美術史家。.

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徳川義礼

徳川 義礼(とくがわ よしあきら、文久3年9月19日(1863年10月31日) - 明治41年(1908年)5月17日)は、明治時代の侯爵、貴族院議員。尾張徳川家第18代当主。正字体では德川 義禮。 讃岐高松藩主松平頼聰の次男。幼名は晨若。明治9年(1876年)5月9日、最後の尾張藩主徳川慶勝の養子となり、明治13年(1880年)9月27日に家督を相続する。明治17年(1884年)7月、華族令制定にともない侯爵となる。同年9月からイギリスに留学。明治20年(1887年)10月に帰国する。留学によりキリスト教に惹かれるようになったようである。 明治23年(1890年)10月、貴族院議員となる。明治24年(1891年)、芸妓に入れ込むようになったとされる義礼の不品行をめぐり、旧尾張藩士らが養子縁組解消を要求し、大きな騒動となったが、徳川家達ら徳川一門の仲裁によって取り静められる。神奈川県中郡大磯町の別荘跡地は、現在は大磯町立大磯中学校となっている。 正妻は慶勝の四女・登代姫(離婚)。後妻は慶勝の七女・良子。 明治41年(1908年)に徳川義親(松平春嶽の五男)を長女・米子の婿養子とし、同年に義礼が死去すると義親が家督を相続した。.

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徳川義直

徳川 義直(とくがわ よしなお)は、江戸時代初期の大名。徳川家康の9男。尾張藩の初代藩主で、尾張徳川家の始祖である。新陰流第4世。.

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徳川義親

徳川 義親(とくがわ よしちか/ぎしん、1886年10月5日 - 1976年9月6日)は、尾張徳川家第19代当主、政治家、植物学者、狩猟家。戦前の侯爵・貴族院議員で、第25軍軍政顧問。戦後は社会党を支援して党顧問となるが、公職追放を受けた。日ソ交流協会会長。戦前マレー半島で虎狩りをしたことから虎狩りの殿様として親しまれた。自伝に「最後の殿様」がある。.

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徳川義恭

徳川 義恭(とくがわ よしやす、1921年(大正10年)1月18日 - 1949年(昭和24年)12月12日)は日本の美術研究者、装幀家。.

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徳川義恕

徳川 義恕(とくがわ よしくみ、1878年11月1日 - 1946年11月4日)は日本の陸軍軍人、侍従、男爵。.

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徳川生物学研究所

徳川生物学研究所(とくがわせいぶつがくけんきゅうじょ、略称:徳研)は、1917年(大正6年)に生物学の研究奨励を目的として、尾張徳川家第19代当主の徳川義親侯爵により設立された私立の生物学研究所。1914年9月に麻布富士見町の自邸内に設置された植物学研究室に由来し、1918年5月に東京府荏原郡平塚村小山(現・品川区武蔵小山)に開所、1932年(昭和7年)に東京府東京市豊島区目白に移転した。戦後の研究所長・田宮博らによるクロレラの大量培養研究で知られる。1970年(昭和45年)に閉鎖され、研究所はヤクルト本社に譲渡された。.

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徳川黎明会

公益財団法人 徳川黎明会(こうえきざいだんほうじん とくがわれいめいかい)は、東京都豊島区目白三丁目に本部・総務部を置く公益財団法人。尾張徳川家伝来の美術品・文献資料等の収集・保管や一般公開を行い、美術や史学の研究に資することを目的とし、徳川美術館と徳川林政史研究所とを運営している。1931年(昭和6年)に財団法人 尾張徳川黎明会として設立され、2011年(平成23年)に公益財団法人に移行した。.

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徳川茂徳

徳川 茂徳(とくがわ もちなが)は、幕末の高須藩の第11代藩主、尾張藩第15代藩主、一橋徳川家第10代当主。 高須藩時代は松平 義比(まつだいら よしちか)、尾張藩時代は徳川茂徳、一橋家時代は徳川 茂栄(とくがわ もちはる)を名乗った。.

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徳川林政史研究所

徳川林政史研究所(とくがわりんせいしけんきゅうじょ)は、東京都豊島区目白にある財団法人徳川黎明会に属する研究機関。日本の林業の歴史に関する研究や、尾張徳川家所蔵だった文献資料の保存・公開などを行なっている。尾張徳川家・19代当主徳川義親が1923(大正12)年に私邸内に設置した林政史研究室に由来し、1931年に徳川黎明会の蓬左文庫附属歴史研究室に改組され、1950年に蓬左文庫から独立した徳川林政史研究所となった。.

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徳川氏

徳川氏(とくがわし/とくがわうじ、)は、徳川家康が創始した日本の氏族。新田氏系得河氏・得川氏の末裔を称した際に嘉字を用いて徳川と称したことが始まりとなり、江戸幕府将軍家と親族の家名とした。しかし『徳川家譜』に記される家系に関しては『尊卑分脈』の該当記録に似通った流れはあるものの、当代史料による検証がならず、得川氏と家康の家系との同一性は実証できていない。.

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徳川治休

徳川 治休(とくがわ はるよし、宝暦3年10月7日(1753年11月1日) - 安永2年6月14日(1773年8月2日))は江戸時代の大名。御三家筆頭 尾張徳川家第9代藩主・徳川宗睦の長男。母は近衛家久の娘。官位は従三位左近衛権中将、右兵衛督。幼名は熊五郎。 尾張藩嫡子として生まれ、明和2年(1765年)に将軍徳川家治に拝謁し叙任する。明和5年(1768年)には家治の次女・万寿姫と婚約した。しかし、婚姻成立前に万寿姫は死去し、治休も家督相続前の安永2年(1773年)、当時の流行病にかかって早世した。21歳。代わって弟の治興が嫡子となった。 法号は紹隆院。墓所は建中寺(愛知県名古屋市)。 はるよし Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1753年生 Category:1773年没.

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徳川治保

徳川 治保(とくがわ はるもり)は、常陸国水戸藩の第6代藩主。水戸藩中興の祖といわれる。.

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徳川治行

徳川 治行(とくがわ はるゆき)は、美濃高須藩の第5代藩主で、後に尾張徳川家世子となる。高須藩時代の名乗りは松平 義柄(まつだいら よしえ)。.

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徳川治興

徳川 治興(とくがわ はるおき、宝暦6年11月25日(1756年12月16日) - 安永5年7月8日(1776年8月21日))は、尾張藩の世嗣。第9代藩主・徳川宗睦の次男。母は近衛家久の娘。幼名は慶之助。元服後、初めは父・宗睦より1字を賜って睦篤(ちかあつ/よしあつ)と名乗っていた。 安永元年(1772年)、将軍徳川家治に拝謁し、従四位下左近衛権少将・兵部大輔に叙任する。翌安永2年(1773年)、兄の徳川治休が早世したため嫡子となり、家治の偏諱を賜って治興に改名し、従三位左近衛権中将に叙任する。安永5年(1776年)には鷹司輔平の娘・房君と婚約した。しかし治興も兄同様、当時の流行病にかかって早世した。21歳。代わって、支藩美濃高須藩の藩主で治興の従弟にあたる松平義柄(徳川治行と改名)が養子に迎えられ、嫡子となった。 法号は天祐院。墓所は建中寺(愛知県名古屋市)。 はるおき Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:1756年生 Category:1776年没.

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徳川斉荘

徳川 斉荘(とくがわ なりたか)は、江戸時代の大名。天保7年(1836年)に田安徳川家4代当主、天保10年(1839年)に尾張徳川家12代当主となった。.

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徳川斉温

徳川 斉温(とくがわ なりはる、文政2年5月29日(1819年7月20日) - 天保10年3月20日(1839年5月3日))は、尾張藩11代藩主。従二位権大納言。 11代将軍・徳川家斉の十九男。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。母は側室・お瑠璃の方(青蓮院)。正室は田安斉匡の娘で従姉妹にあたる愛姫(俊恭院)、継室は近衛基前の養女(鷹司政煕の娘)・福君(琮樹院)。幼名は直七郎。 文政5年(1822年)6月13日、従兄にあたる徳川斉朝の養子になった。文政10年(1827年)8月15日、養父斉朝が35歳の若さで隠居したことにより、9歳で家督を相続した。 倹約令を出して尾張藩の財政の建て直しなどに尽力し、凶作に苦しんだ領民に救恤米を施したといわれる。しかし、天保7年(1836年)に福君の入輿の際に華美な行列を行ったことや、天保9年(1838年)に江戸城西の丸再建に際して9万両と木曾檜を献上したことなどにより、財政が更に悪化した。また、無類の鳩好きで、江戸藩邸に数百匹の鳩を飼育し、全ての鳩に名前をつけており、世話役の藩士は苦しみ藩費も浪費した。餌代を誤魔化して不正を働く家臣もいた。侍読の石川魯庵は斉温を諌め、物に執着して志を失う義を申し立てたところ、斉温は即座に鳩を解き放ったという。斉温には諫言を聞き入れる素直さがあり、また家臣とともに講義を聞くほど学問好きであった。 病弱の故をもって江戸藩邸に常住し、襲封後21歳で死去するまでの12年間、尾張藩領内に一度も入ることがなかった。 死去に際して実子がなく、異母兄の斉荘が養子となって家督を相続した。.

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徳川斉朝

徳川 斉朝(とくがわ なりとも、1793年9月27日(寛政5年8月23日)- 1850年5月11日(嘉永3年3月30日))は、尾張藩の第10代藩主。第11代将軍徳川家斉の弟で一橋家嫡子だった徳川治国の長男。母は二条治孝の娘・乗蓮院。正室は家斉の長女で従姉にあたる淑姫。官位は従二位・権大納言。.

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徳川慶勝

徳川 慶勝(とくがわ よしかつ)は、日本の幕末から明治初期にかけての大名、政治家。尾張藩14代藩主、尾張徳川家第14代・第17代当主。尾張藩支藩(御連枝)であった美濃高須藩主・松平義建の次男。 弟に15代藩主・徳川茂徳、会津藩主・松平容保、桑名藩主・松平定敬などがあり、慶勝を含めて高須四兄弟と併称される。 維新後、茂徳とともに朝敵となった容保、定敬の助命に奔走した。明治11年(1878年)、この四兄弟は再会している。 幼名は秀之助、元服後(高須松平家時代)は松平義恕(まつだいら よしくみ)を名乗る。尾張徳川家相続後は将軍徳川家慶より偏諱の授与を受けて、初めは徳川慶恕(よしくみ)、のち慶勝と改名した。なお、本項ではすべて慶勝に統一する。.

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徳川慶臧

徳川 慶臧(とくがわ よしつぐ)は、江戸時代の尾張藩の第13代藩主。田安徳川家第3代当主徳川斉匡の10男。官位は従三位権中納言。紀州藩主徳川斉彊の養女(尾張藩第12代藩主徳川斉荘の娘)と婚約していた。.

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北海道

北海道(ほっかいどう)は、日本の北部に位置する島。また、同島および付随する島を管轄する地方公共団体(道)である。島としての北海道は日本列島を構成する主要4島の一つである。地方公共団体としての北海道は47都道府県中唯一の「道」で、道庁所在地は札幌市。.

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ヤクルト本社

株式会社ヤクルト本社(ヤクルトほんしゃ)は、日本の飲料・食品・化粧品・医薬品メーカーである。乳酸菌飲料メーカーとしては国内最大手。1980年代までは非上場会社だった。国外売上比率は4割。 プロ野球チーム「東京ヤクルトスワローズ」(株式会社ヤクルト球団)の親会社である。そのため、杉浦享や青柳進、萩原多賀彦、五十嵐貴章、花田真人、加藤幹典等の元スワローズの選手が何人か社員として在籍している。 また、陸上部も有名。2007年(平成19年)からはbjリーグ(現B3.LEAGUE)「埼玉ブロンコス」のオフィシャルパートナーも務める。2013年からは日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)「ジェフユナイテッド市原・千葉」のオフィシャルパートナーを務める。 マスコットキャラクターにヤックンとビッフィーがいる。コーポレート・スローガンは「人も地球も健康に」。.

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内藤頼多

内藤 頼多(ないとう よりた、寛保元年3月10日(1741年4月25日) - 明和8年11月18日(1771年12月23日))は、信濃国高遠藩内藤家の嫡子。尾張藩主徳川宗勝の十二男。正室は秋田定季の娘。子は長好(長男)。官位は従五位下、駿河守。 内藤頼寛が早世したため、宝暦11年(1761年)に内藤頼由の養子となる。しかし、頼寛同様に家督を継ぐことなく夭逝した。代わって、越後国村上藩から内藤頼尚が養子として迎えられ、嫡子となった。 よりた Category:徳川宗勝の子女 Category:江戸時代の大名の嫡男 Category:高遠藩の人物 Category:1741年生 Category:1771年没.

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内藤政脩

内藤 政脩(ないとう まさのぶ)は、日向延岡藩の第3代藩主。延岡藩内藤家宗家8代。.

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八代六郎

八代 六郎(やしろ ろくろう、安政7年1月3日(1860年1月25日)- 昭和5年(1930年)6月30日)は明治~大正期の日本海軍軍人。政治家。海軍大将。男爵。愛知県犬山市出身。兄は衆議院議員の松山義根。.

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八雲産業

八雲産業株式会社(やくもさんぎょう)は、尾張徳川家の資産管理運営を目的として、1948年に設立された会社である。 本社所在地は東京都豊島区目白にあり、旧尾張徳川家邸宅跡地を徳川ビレッジとして、外国人用高級賃貸住宅及び女子学生寮「徳川ドーミトリー」の管理運営をしている。また北海道二海郡八雲町には、尾張徳川家が運営していた旧徳川農場を引き継いだ八雲事業所があり、植林事業を行なっている。 社長は代々、尾張徳川家当主が務める。現在の社長は尾張徳川家第22代当主である徳川義崇。.

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八雲町

八雲町(やくもちょう)は、北海道渡島総合振興局にある町。.

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元服

元服(げんぶく、げんぷく)とは、奈良時代以降の日本で成人を示すものとして行われた儀式。通過儀礼の一つである。 「元」は首(=頭)、「服」は着用を表すので、「頭に冠をつける」という意味。加冠とも初冠(ういこうぶり)とも言われる。なお、公家の女子の成人式は裳着(もぎ)と言う。民間においては褌親(へこおや・ふんどしおや)の元で、初めてふんどしを付け、性に関する知識を授かる褌祝(ふんどしいわい)と呼ばれる儀式がある。.

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勤王

勤王(きんのう、勤皇とも言う)とは、王や天皇に忠義を尽くすことである。.

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秩禄処分

秩禄処分(ちつろくしょぶん)は、明治政府が1876年(明治9年)に実施した秩禄給与の全廃政策である。秩禄とは、華族や士族に与えられた家禄と維新功労者に対して付与された賞典禄を合わせた呼称。経過措置として公債が支給された。支配層がほぼ無抵抗のまま既得権を失ったという点で、世界史的にも稀な例とされる(落合、1999)。.

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竹腰勝起

竹腰 勝起(たけのこし かつおき、元文3年9月6日(1738年10月18日)- 寛政元年8月19日(1789年10月7日))は、尾張藩の附家老、美濃今尾藩の第6代当主。 尾張藩主徳川宗勝の五男。母は妙観院。初名は勝紀(かつのり)。正室は脇坂安興の娘。子に竹腰睦群(長男)、井上正紀(次男)。官位は従五位下、山城守。 藩主の子として生まれたが竹腰正武の養子となり、宝暦4年(1754年)4月に将軍の徳川家重に初めて拝謁し、12月には従五位下壱岐守に叙任。先代の正武が宝暦9年(1759年)12月8日に死去したため、同年12月28日に3万石の跡を継ぎ、山城守に転任。明和2年(1765年)4月に徳川家康の150年忌のため、尾張藩主徳川宗睦の名代として日光山に参詣 。天明4年(1748年)8月、美濃国で3,000石を預けられる。天明5年(1785年)3月1日、長男の睦群に家督を譲って隠居し、寛政元年(1789年)8月19日に死去した。法号は映徳院殿朝散大夫諦誉豊堂聴音大居士。墓所は東京都港区虎ノ門の天徳寺。.

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紀州徳川家

紀州徳川家(きしゅうとくがわけ)は、江戸時代に紀伊国・伊勢国を治めた徳川氏の一支系で、徳川御三家のひとつ。紀伊徳川家、紀伊中納言家ともいい、単に紀州家、紀伊家ともいう。また、初代頼宣が常陸国に封じられて常陸介に叙任された故事にちなみ、紀伊国へ移封された後も、頼宣の子孫は代々常陸介に叙任された。このため、徳川常陸介家(とくがわひたちのすけけ)という。.

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美濃国

美濃国(みののくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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田安徳川家

安徳川家(たやすとくがわけ)は、徳川氏の一支系で、御三卿の一つ。単に田安家とも言う。.

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田中不二麿

中 不二麿(たなか ふじまろ、弘化2年6月12日(1845年7月16日) - 明治42年(1909年)2月1日)は、日本の幕末・明治期の武士、官僚、政治家。位階爵位は正二位子爵。号は夢山。名前は「不二麻呂」とも表記され、幕末には寅三郎(とらさぶろう)、国之輔と称した。明治維新期の著名人物としては非常に稀少な尾張藩士の一人。 尾張国名古屋城下出身。慶応3年12月(1868年1月)、新政府の参与となる。明治4年(1871年)、文部省出仕と同時に岩倉使節団理事官となり、欧米に渡って教育制度の調査に当たった。帰国後は文部大輔まで進み、学制実施と教育令制定を主導したが、明治13年(1880年)に司法卿に転じた。以後、参事院副議長、駐伊特命全権公使、駐仏特命全権公使、枢密顧問官、司法大臣を歴任し、晩年は再び枢密顧問官を務めた。 明六社会員。島崎藤村の長編小説『夜明け前』や、井上ひさしの戯曲『國語元年』に登場する。.

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甲斐国

斐国(かいのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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男爵

男爵(だんしゃく、)は、爵位の一つである。古代中国と近代日本で用いられ、子爵の下位に相当する。ヨーロッパ諸国の最下位の貴族称号の日本語・中国語訳にも用いられ、イギリスのbaronの訳にはこの語が用いられる。.

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片桐助作 (1851年生)

片桐 助作(かたぎり すけさく、1851年6月26日-1918年2月11日)は、尾張藩士、尾張徳川家の家職。同家第14代当主・徳川慶勝に見出されて、同家の北海道開拓地を選定、1884年から現地・八雲村に赴任して開拓の指導にあたったことで知られる。1891年に名古屋に戻り、以後も同家事務所の中心人物として、世襲財産・所有地の管理や名古屋大曽根の徳川義礼邸の建設を行い、退職後は同家の御相談人として、什宝の整理に携わった。.

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目白

白(めじろ)は、東京都豊島区の町名。現行行政地名は目白一丁目から目白五丁目。郵便番号は171-0031。.

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遊楽部

遊楽部(ゆうらっぷ)は、北海道渡島総合振興局管内二海郡八雲町の地名。.

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遠藤胤昌

遠藤 胤昌(えんどう たねまさ、文化元年10月4日(1804年11月5日) - 安政3年6月27日(1856年7月28日))は、近江三上藩第5代藩主・遠藤胤統の養嗣子である。官位は式部少輔。正室は遠藤胤統の娘。養子に胤城。 美濃高須藩の第9代藩主・松平義和の事実上四男として生まれる。幼名は邦之丞。なお、享和3年生まれ(都合により文化3年生まれと公年を詐称している)の松平容敬は公式上は会津松平家で生まれて、水戸徳川家にいなかったことになっているので、公式上は三男ということになっている。天保3年(1832年)5月2日、遠藤胤統の養子となるが、胤統に先立って安政3年(1856年)6月27日に死去した。享年53。戒名は直諒院素温。 Category:江戸時代の大名の嫡男 たねまさ たねまさ Category:1804年生 Category:1856年没.

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華族

華族(かぞく)は、明治2年(1869年)から昭和22年(1947年)まで存在した近代日本の貴族階級のことである。公家の堂上家に由来する華族を堂上華族、江戸時代の大名家に由来する華族を大名華族、国家への勲功により華族に加えられたものを新華族(勲功華族)、臣籍降下した元皇族を皇親華族と区別することがある。.

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青松葉事件

名古屋城内に立つ「青松葉事件之遺跡」碑 青松葉事件(あおまつばじけん)は、慶応4年(1868年)1月20日から25日にかけて尾張藩で発生した佐幕派の弾圧事件。それまで京都で大政奉還後の政治的処理を行っていた14代藩主徳川慶勝が「姦徒誅鋤」の勅命を受けて同月20日に帰国した直後に弾圧命令が出された。対象者は重臣から一般藩士にまで及び、斬首14名、処罰20名にのぼった。勅命が下った背景については諸説ある。.

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西武グループ

左側・グループ企業の本社が多数入居している西武第2ビル右側・西武鉄道本社ビル(所沢市・くすのき台) 西武グループ(せいぶグループ)は、西武ホールディングスを持株会社とし、西武鉄道およびプリンスホテルを中心とする企業グループである。コーポレート・スローガンは「でかける人を、ほほえむ人へ。」。.

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駿府城

駿府城の航空写真(1988年撮影)国土航空写真 城郭図 駿府城(すんぷじょう)は駿河国安倍郡府中、現在の静岡県静岡市葵区にあった日本の城である。別名は府中城や静岡城など。 江戸時代には駿府藩や駿府城代が、明治維新期には再び駿府藩(間もなく静岡藩に改称)が置かれた。.

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高岡藩

岡藩(たかおかはん)は、下総国高岡村(現在の千葉県成田市高岡)に存在した藩。.

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高須藩

藩(たかすはん)は、江戸時代、美濃国石津郡高須(岐阜県海津市)付近を領有した藩。藩庁は高須陣屋(初期は高須城)。一時期、駒野館(宝暦13年(1763年)- 安永7年(1778年))。江戸中期以降は尾張藩支藩。.

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高松松平家

松松平家(たかまつまつだいらけ)は、徳川御三家水戸徳川家の支系で、親藩・御連枝のひとつ。水戸藩初代徳川頼房の長男松平頼重を家祖とする。讃岐国高松藩の藩主家。明治以後は伯爵。.

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豊島区

豊島区(としまく)は、東京都西部に位置する特別区の一つ。.

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財産税法

財産税法(ざいさんぜいほう;昭和21年11月11日法律第52号)は、1946年(昭和21年)3月3日午前0時において国内に在住した個人の財産の全額、および国外在住の個人が国内に所有した財産に対して財産税を課す日本の法律。.

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越前松平家

越前松平家(えちぜんまつだいらけ)は、越前国を発祥とする徳川氏の支流で、御家門のひとつ。単に越前家ともいう。越前松平家または越前家という呼称は、徳川家康の次男秀康を家祖とする一門全体を指す場合と、その領地の場所から福井松平家(福井藩)のみを指す場合とがある。幕末の福井藩主と津山藩主は徳川将軍家から養子を迎えたため、御家門筆頭とほぼ同等の扱いを受けた。.

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鸚鵡籠中記

『鸚鵡籠中記』(おうむろうちゅうき)は、元禄の頃、尾張藩の尾張徳川家の家臣であった朝日重章の日記である。.

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麻布区

麻布区(あざぶく)は、かつて東京都にあった区。.

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農地法

農地法(のうちほう)は、農地及び採草放牧地の取り扱いについて定めた日本の法律である。.

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鈴木信吉

鈴木 信吉(すずき しんきち、1860年頃-没年不詳)は、日本の銀行家。名古屋の尾張藩の旧臣の家に生まれる。1898年に愛知銀行に入行し、営業部長、査業部長、常務取締役を歴任。1929年に尾張徳川家の家令となり、1931年の財団法人尾張徳川黎明会設立に尽力。第2次世界大戦後、財産税の適用により尾張徳川家と黎明会が財務危機を迎えた際に、東京都豊島区目白の尾張徳川家本邸の賃貸物件化、八雲産業株式会社の設立などにより、2016年現在まで続く同家と財団の財務基盤を整備した。.

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阪本さん之助

阪本 釤之助(さかもと さんのすけ、安政4年6月24日(1857年8月13日) - 昭和11年(1936年)12月16日)は、日本の官僚、政治家、詩人。俳号・三橋、雅号・蘋園(ひんえん)。.

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間島弟彦

間島 弟彦(まじま おとひこ/つぎひこ、1871年 - 1928年)は、明治〜昭和時代前期の銀行家、歌人である。.

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蓬左文庫

蓬左文庫(ほうさぶんこ)、名古屋市蓬左文庫(なごやしほうさぶんこ、英称:Hosa Library, City of Nagoya)は、愛知県名古屋市東区徳川町の徳川園にある、尾張徳川家の旧蔵書などの文献資料を所蔵する公開文庫。1616年に名古屋城(別名「蓬左城」)内に設けられた同家の書物庫「御文庫」を起源とし、1912年頃徳川義親により「蓬左文庫」と命名。1950年に名称と蔵書の一部が名古屋市に売却譲渡され、1978年以降は名古屋市博物館の分館として書籍の収集・保管、一般公開を行っている。2016年現在の蔵書数は約11万点。.

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金禄公債

金禄公債(きんろくこうさい)は、明治維新で、秩禄処分の一環として、禄制の廃止により強制的に禄を廃止したすべての華族・士族にその代償として交付された公債である。数年前に、自主的に禄を返上したものに交付された秩禄公債とは異なる。.

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東区 (名古屋市)

東区(ひがしく)は、名古屋市を構成する行政区16区のうちの一つ。1908年(明治41年)の区成立時の名古屋市において東部に位置した地域であったことからこの名がついた。.

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東成郡

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松平友著

松平 友著(まつだいら ともあき、延宝6年10月7日(1678年11月20日) - 享保13年3月30日(1728年5月8日))は、川田久保松平家初代当主。尾張藩第2代藩主徳川光友の十一男。母は梅香院(鈴木氏または大橋氏)、幼名は大蔵、初名は友親。徳川宗勝の実父。官位は従四位下但馬守。.

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松平定敬

四兄弟(1878年9月撮影)左から定敬、容保、茂栄、慶勝 松平 定敬(まつだいら さだあき)は、幕末の伊勢桑名藩の藩主(藩主在任:安政6年(1859年) - 慶応4年(1868年)。京都所司代。定綱系久松松平家13代。 兄に尾張藩主徳川慶勝、一橋家当主徳川茂栄、会津藩主松平容保などがいる。いわゆる「高須四兄弟」の末弟である。.

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松平容保

松平 容保(まつだいら かたもり)は、幕末の大名。陸奥国会津藩の第9代藩主(実質的に最後の藩主容保の隠居後に、養嗣子の松平喜徳が家督を継ぎ会津藩主になったとみなすかどうかについては、見方が分かれる。)。京都守護職。高須四兄弟の一人で、血統的には水戸藩主・徳川治保の子孫。現在の徳川宗家は容保の男系子孫である。.

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松平容敬

松平 容敬(まつだいら かたたか)は、陸奥会津藩の第8代藩主。会津松平家第8代。.

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松平忠吉

松平 忠吉(まつだいら ただよし)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将・大名。東条松平家第4代当主・尾張国清洲藩主。 徳川家康の四男。江戸幕府2代将軍徳川秀忠の同母弟。徳川四天王の一人・井伊直政の娘婿にあたる。.

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松平義孝

松平 義孝(まつだいら よしたか)は、美濃高須藩の第2代藩主。徳川宗春の兄に当たる。.

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松平義居

松平 義居(まつだいら よしすえ)は、美濃高須藩第8代藩主。.

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松平義建

松平 義建(まつだいら よしたつ)は、美濃高須藩の第10代藩主。自身に特筆すべき治績は少ないが、息子は高須四兄弟を筆頭に多くが幕末期に活躍した。.

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松平義当

松平 義当(まつだいら よしまさ)は、美濃高須藩の第7代藩主。.

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松平義和

松平 義和(まつだいら よしなり)は、美濃高須藩の第9代藩主。 水戸藩の第6代藩主・徳川治保の次男。母は前田氏。幼名は泰之丞。第7代藩主・徳川治紀は兄。初め父より偏諱を受けて保右(もりすけ)、保友(もりとも)と名乗る。.

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松平義勇

松平 義勇(まつだいら よしたけ)は、美濃高須藩の第13代藩主。のち藩知事。.

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松平義端

松平 義端(まつだいら よしまさ)は、美濃高須藩の第12代藩主。.

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松平義真

松平 義真(まつだいら よしざね、正徳4年(1714年) - 享保14年5月10日(1729年6月6日))は、陸奥国梁川藩の第3代藩主。第2代藩主・松平義方の長男。母は浅野綱長の娘。正室なし。官位は従五位下、従四位下、式部大輔、侍従。名は義貞(よしさだ)とも。幼名は求馬。 享保6年(1721年)、父の死去により跡を継ぐ。しかし幼少のため、藩政は家老によって執り行なわれた。享保13年(1728年)12月に叙任するが、翌年5月10日にもともと病弱だったことから16歳で早世する。正室はなく嗣子もおらず、梁川藩は改易となる。同年8月11日に本家の尾張藩から松平通春(後の徳川宗春)が再興することとなる。墓所は東京都文京区小石川の伝通院。 Category:親藩 Category:梁川藩主 よしさね Category:1714年生 Category:1729年没.

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松平義生

松平 義生(まつだいら よしなり)は、明治時代初期の大名。美濃高須藩の第14代藩主。.

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松平義行

松平 義行(まつだいら よしゆき)は、信濃高井藩主、のち美濃高須藩の初代藩主。.

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松平義裕

松平 義裕(まつだいら よしひろ)は、美濃高須藩の第6代藩主。.

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松平義昌

松平 義昌(まつだいら よしまさ)は、江戸時代前期から中期にかけての大名。陸奥国梁川藩初代藩主。.

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松平義方

松平 義方(まつだいら よしかた)は、江戸時代中期の大名。陸奥国梁川藩2代藩主。.

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松平義敏

松平 義敏(まつだいら よしとし)は、美濃国高須藩の第4代藩主。.

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松平通温

松平 通温(まつだいら みちまさ、元禄9年5月28日(1696年6月27日) - 享保15年5月19日(1730年7月3日))は、尾張徳川家3代当主・尾張藩主徳川綱誠の十九男。母は側室唐橋(里見氏・卓然院)で、同母兄に義孝(美濃高須藩主)がある。幼名喜之進。従四位下、侍従、安房守、左近衛権少将。.

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松平武雅

松平 武雅(まつだいら たけまさ、元禄15年(1702年) - 享保13年7月28日(1728年9月2日))は、上野館林藩第2代藩主。越智松平家2代。 美濃高須藩主・松平義行の四男。母は側室・上月氏。幼名は新之助。初名は行高。官位は従五位下、肥前守。 元禄16年(1703年)8月14日生まれとも伝わる。義行には6人の男子がいたが多くは早世し、武雅だけが生き残った。 元服の際、父から偏諱を与えられて行高と名乗った。本来なら義行の世子となり、高須藩主になるはずであったが、義行は元禄14年(1701年)に本家から兄・徳川綱誠の十五男・万三郎(のちの松平義孝)を養子に迎えていたため、武雅は享保9年(1724年)、越智松平家の松平清武の養子とされ、同年家督を相続し館林藩主となる。 享保13年(1728年)に27歳で死去した。法名は顕徳院。子女を残さなかったため養嗣子として常陸府中藩から武元が迎えられ跡を継いだ。 Category:館林藩主 Category:親藩 たけまさ たけまさ Category:1702年生 Category:1728年没.

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松平武成

松平 武成(まつだいら たけなり / たけしげ)は、石見浜田藩の第3代藩主。越智松平家7代。 美濃高須藩主松平義建の三男。母は徳川治紀の娘。正室は田安斉匡の娘。官位は従五位下、右近将監。 尾張藩主徳川慶勝の同母弟で、一橋徳川家当主徳川茂徳、会津藩主松平容保、桑名藩主松平定敬、高須藩主松平義勇の兄に当たる。 天保13年(1842年)、先代藩主の松平武揚(血統上は母方の従弟にあたる)が早世したため、その跡を継ぐ。藩財政再建のために天保14年(1843年)より倹約令を出し、さらに弘化3年(1846年)には横井小楠の意見を用いて山林の藩経営化や瓦・陶器の製造、養蚕業や製鉄業、製糸業、鉱山開発などの産業奨励に尽力することで藩政再建を目指したが、弘化4年(1847年)9月20日に23歳で早世した。跡を養嗣子(武揚と同じく母方の従弟にあたる)の武聰が継いだ。法号は鋭岳大憲院。墓所は東京都荒川区東日暮里の善性寺。.

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松井石根

松井 石根(まつい いわね、明治11年(1878年)7月27日 - 昭和23年(1948年)12月23日)は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍大将。荒尾精の信奉者として、「日中提携」「アジア保全」の運動に生涯をかけたが、ポツダム宣言受諾後、「南京事件」の責任を問われて極東国際軍事裁判(東京裁判)にて死刑判決(B級戦犯)を受け、処刑された。.

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梁川藩

梁川藩(やながわはん)は、江戸時代の一時期、陸奥国伊達郡に存した藩。現在の福島県伊達市梁川町鶴ヶ岡の梁川城跡に陣屋を置いた。当初は尾張藩徳川家の支藩(御連枝)。後には一時、松前氏が入封した。.

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櫛羅藩

櫛羅藩(くじらはん)は、幕末に大和国(現在の奈良県御所市櫛羅)に存在した藩。藩庁は櫛羅陣屋。大和新庄藩の後身であり、領地は同じで、同じく永井氏が治めた。.

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武家

武家(ぶけ)とは、日本における軍事を主務とする官職を持った家系・家柄の総称。江戸時代には武家官位を持つ家系をいう。広義的に現代では武士一般を指すこともある。.

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水戸藩

水戸藩邸跡石碑(京都市上京区下長者町通烏丸西入北側) 水戸藩(みとはん)は、常陸にあって現在の茨城県中部・北部を治めた藩。藩庁は水戸城(水戸市)に置かれた。.

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永井久一郎

永井 久一郎(ながい きゅういちろう、嘉永5年8月2日(1852年9月15日) - 大正2年(1913年)1月2日)は、日本の漢詩人、官僚。文部省、内務省、帝国大学などに勤め、のち日本郵船に転じた。正四位。諱は匡温(まさはる)また温、字は伯良・耐甫、号は禾原(かげん)・来青。久一郎は元来は通称。 永井荷風の父である。.

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永井氏

永井氏(ながいし)は、日本の氏族のうちのひとつ。松平氏・徳川氏に仕えた。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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河文

表門 河文(かわぶん)は、名古屋市中区丸の内にある名古屋最古の老舗高級料亭。.

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津軽義孝

津軽 義孝(つがる よしたか、1907年12月18日 - 1994年8月22日)は、日本の馬事関係者。旧弘前藩津軽家第14代当主・伯爵。正仁親王妃華子の父。.

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渡辺錠太郎

渡辺 錠太郎(わたなべ じょうたろう、1874年4月16日 - 1936年2月26日)は、日本の昭和初期の陸軍軍人で、二・二六事件の犠牲者である。.

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清和源氏

清和源氏(せいわげんじ)は、第56代清和天皇の皇子・諸王を祖とする源氏氏族で、賜姓皇族の一つ。姓(カバネ)は朝臣。.

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戊辰戦争

戊辰戦争(ぼしんせんそう、慶応4年/明治元年 - 明治2年(1868年 - 1869年))は、王政復古を経て明治政府を樹立した薩摩藩・長州藩・土佐藩らを中核とした新政府軍と、旧幕府勢力および奥羽越列藩同盟が戦った日本の内戦。名称は慶応4年/明治元年の干支が戊辰であることに由来する。 明治新政府が同戦争に勝利し、国内に他の交戦団体が消滅したことにより、これ以降、同政府が日本を統治する政府として国際的に認められることとなった。 以下の日付は、断りのない限り旧暦でしるす。.

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成瀬氏

成瀬氏(なるせし)は、日本の氏族のひとつ。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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昭和天皇

昭和天皇(しょうわてんのう、1901年〈明治34年〉4月29日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)は、日本の第124代天皇(在位: 1926年〈昭和元年〉12月25日 - 1989年〈昭和64年〉1月7日)。 幼少時の称号は迪宮(みちのみや)・諱は裕仁(ひろひと)。お印は若竹(わかたけ)。.

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海部昂蔵

海部 昂蔵(かいふ こうぞう、1850年 - 1927年)は、尾張徳川家の家職 。弟の荘蔵ら兄弟と養鶏業を営み、名古屋コーチンの元となる海部種を開発する。弟らに養鶏業を任せ、1882年(明治15年)から、同家の開墾場が置かれた北海道・八雲村で開拓代表委員となり、指導にあたった。1900年から1904年まで私立明倫中学校初代校長。1903年(明治36年)12月19日から1914年(大正3年)5月1日まで、尾張徳川家の家令、同年から同家の御相談人を務めた。海部俊樹の曽祖父にあたる。.

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摂津国

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)は、日本の令制国の一つ。畿内に属する。現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。.

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愛知県

愛知県(あいちけん)は、太平洋に面する日本の県の一つ。県庁所在地は名古屋市。.

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愛知県立明和高等学校

愛知県立明和高等学校(あいちけんりつ めいわこうとうがっこう, Aichi Prefectural Meiwa High School)は、愛知県名古屋市東区白壁二丁目に所在する県立高等学校。.

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1603年

記載なし。

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1606年

記載なし。

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1799年

記載なし。

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1801年

19世紀最初の年である。.

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19世紀

19世紀に君臨した大英帝国。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。.

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