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池田斉衆

索引 池田斉衆

池田 斉衆(いけだ なりひろ) は、因幡国鳥取藩の世嗣。江戸幕府11代将軍徳川家斉の十三男。12代将軍徳川家慶の異母弟。 文化14年(1817年)鳥取藩主・池田斉稷の婿養子となり、文政7年(1824年)元服・叙任する。しかし、文政9年(1826年)疱瘡のため家督を相続することなく早世した。享年15。代わって、養父斉稷の次男・斉訓が嫡子となった。 なりひろ Category:鳥取藩の人物 Category:江戸時代の大名の嫡男 なりひろ Category:天然痘で死亡した人物 Category:1812年生 Category:1826年没.

37 関係: 天然痘家督侍従徳川家斉徳川家慶徳川将軍家徳川虎千代徳川斉彊徳川斉荘徳川斉順徳川斉温徳川斉明徳川敦之助従四位因幡国皆春院鳥取藩蜂須賀斉裕松平斉宣松平斉善松平斉省松平斉良松平斉民江戸幕府池田氏池田斉稷池田斉訓文化 (元号)文政1812年1817年1824年1826年3月14日 (旧暦)4月20日4月4日 (旧暦)5月14日

天然痘

天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。1805年にはナポレオンが、全軍に種痘を命じた。以降は羊毛の流通に乗って発疹チフスが猛威をふるった。.

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家督

家督(かとく)とは、家父長制における家長権を意味する。鎌倉時代に家督の嫡子単独相続、遺産の分割相続が原則とされた。室町時代に両者とも嫡子相続を原則としたが、現実には完全な制度として確立しておらず、内紛が発生した。のち江戸幕府の絶対的な権力を背景として、家督の嫡子単独相続が確立した。 なお、主に武家においては、断絶した家名を他氏の者が相続することを名跡を継ぐといい、実子または血縁者が相続する場合の家督継承と区別された。主な例としては平姓畠山氏を源氏の足利義純が相続し、源姓畠山氏に変わった事などが知られている。 また、鎌倉時代には家督権は財産権とあわせて跡職(跡式)・跡目と称して嫡子が継いだが、庶子に分割する相続財産をも跡職と称した。その後、江戸時代には先代の死亡にともなう相続の場合を跡目相続、先代の隠居による場合を家督相続と呼び分けた。 明治憲法下においても家制度の一環として法制度として存続したが、日本国憲法施行直後の民法大改正によって廃止された。とはいえそれから70年以上経った今日でも家督を重んじる社会通念が西日本を中心に残っている。.

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侍従

服をまとった侍従(大阪歴史博物館) 侍従(じじゅう)とは、広義では(しばしば高貴な立場の)ある人物に付き従い、身の回りの世話などをする行為、または従う者そのものを指す。日本においては、特に天皇に側近奉仕する文官や位を意味するため、この項目ではこれについて解説する。なお、武官による侍従武官や皇太子に付される東宮侍従については、それぞれ項目を参照のこと。.

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徳川家斉

徳川 家斉(とくがわ いえなり)は、江戸幕府の第11代征夷大将軍(在任:1787年 - 1837年)。 御三卿一橋家の第2代当主徳川治済の長男。母は側室のお富の方。.

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徳川家慶

徳川 家慶(とくがわ いえよし)は、江戸幕府の第12代征夷大将軍(在職:1837年 - 1853年)。11代将軍・徳川家斉の次男。.

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徳川将軍家

徳川将軍家の略系図 徳川将軍家(德川將軍家、とくがわしょうぐんけ)は、江戸幕府の征夷大将軍を世襲した徳川氏の宗家(徳川宗家、とくがわそうけ)。明治維新後の1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられて徳川公爵家となった。華族制度廃止後は、単に徳川宗家と呼ばれる。.

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徳川虎千代

徳川 虎千代(とくがわ とらちよ)は、第11代将軍徳川家斉の九男で、紀州徳川家当主徳川治寶の養子。兄弟姉妹は多数で、成人した同母弟妹に尾張藩主徳川斉荘と長州藩主毛利斉広正室の和姫がいる。.

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徳川斉彊

徳川 斉彊(とくがわ なりかつ)は、江戸時代後期の紀伊紀州藩の第12代藩主。もとは清水徳川家第5代当主。 11代将軍・徳川家斉の二十一男。母は吉江左門の娘・本性院。12代将軍・徳川家慶は異母兄であり、13代将軍・徳川家定は甥にあたる。.

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徳川斉荘

徳川 斉荘(とくがわ なりたか)は、江戸時代の大名。天保7年(1836年)に田安徳川家4代当主、天保10年(1839年)に尾張徳川家12代当主となった。.

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徳川斉順

徳川 斉順(とくがわ なりゆき)は、江戸幕府11代将軍・徳川家斉の7男。清水徳川家第3代当主を経て、第11代紀州藩主に転出した。.

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徳川斉温

徳川 斉温(とくがわ なりはる、文政2年5月29日(1819年7月20日) - 天保10年3月20日(1839年5月3日))は、尾張藩11代藩主。従二位権大納言。 11代将軍・徳川家斉の十九男。12代将軍・徳川家慶は異母兄。13代将軍・徳川家定、14代将軍・徳川家茂の叔父にあたる。母は側室・お瑠璃の方(青蓮院)。正室は田安斉匡の娘で従姉妹にあたる愛姫(俊恭院)、継室は近衛基前の養女(鷹司政煕の娘)・福君(琮樹院)。幼名は直七郎。 文政5年(1822年)6月13日、従兄にあたる徳川斉朝の養子になった。文政10年(1827年)8月15日、養父斉朝が35歳の若さで隠居したことにより、9歳で家督を相続した。 倹約令を出して尾張藩の財政の建て直しなどに尽力し、凶作に苦しんだ領民に救恤米を施したといわれる。しかし、天保7年(1836年)に福君の入輿の際に華美な行列を行ったことや、天保9年(1838年)に江戸城西の丸再建に際して9万両と木曾檜を献上したことなどにより、財政が更に悪化した。また、無類の鳩好きで、江戸藩邸に数百匹の鳩を飼育し、全ての鳩に名前をつけており、世話役の藩士は苦しみ藩費も浪費した。餌代を誤魔化して不正を働く家臣もいた。侍読の石川魯庵は斉温を諌め、物に執着して志を失う義を申し立てたところ、斉温は即座に鳩を解き放ったという。斉温には諫言を聞き入れる素直さがあり、また家臣とともに講義を聞くほど学問好きであった。 病弱の故をもって江戸藩邸に常住し、襲封後21歳で死去するまでの12年間、尾張藩領内に一度も入ることがなかった。 死去に際して実子がなく、異母兄の斉荘が養子となって家督を相続した。.

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徳川斉明

徳川 斉明(とくがわ なりのり、文化6年12月5日(1810年1月10日) - 文政10年6月10日(1827年8月2日))は、江戸幕府11代将軍徳川家斉の十一男。母は家斉側室のお八重の方(皆春院)。12代将軍徳川家慶の異母弟。同母兄弟は池田斉衆、松平斉民や蜂須賀斉裕。幼名は保之丞。正室は一品兵部卿伏見宮貞敬親王の娘、教宮(みちのみや)英子女王。 先代当主の異母兄斉順が紀州藩主徳川治宝の養嗣子になったため、清水徳川家第4代当主となる。.

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徳川敦之助

徳川 敦之助(とくがわ あつのすけ、寛政8年3月19日(1796年4月26日) - 寛政11年5月7日(1799年6月10日))は、御三卿の清水徳川家第2代当主。11代将軍徳川家斉の五男。母は家斉の御台所(正室)の近衛寔子。官位はなし。松平敦之助とも。 江戸城大奥で誕生した。敦之助の誕生に、家斉・寔子夫妻のみならず、祖父の徳川(一橋)治済、外祖父の島津重豪(薩摩藩前藩主)らの喜びも絶大であったという。御台所が男子を出生するのは2代将軍徳川秀忠の正室のお江与(崇源院)以来であった。ただし、その3年前に側室のお楽(香琳院)が産んだ敏次郎(後の12代将軍・家慶)が将軍家世子と定められていたため、初代当主重好が嗣子を残さずに死亡して空跡となっていた清水徳川家を、敦之助を当主として寛政10年(1798年)に再興させた。しかしその翌年、敦之助はわずか4歳で病没した。院号は体門院。嗣子があるはずもなく、清水徳川家は再び当主を欠き、文化2年(1805年)になって異母弟の斉順が継いだ。.

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従四位

従四位(じゅしい)とは、日本の位階及び神階における位のひとつ。正四位の下、正五位の上に位する。贈位の場合、贈従四位という。.

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因幡国

因幡国(いなばのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。山陰道に属する。.

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皆春院

春院(かいしゅんいん、? - 天保14年5月10日(1843年6月7日))は、江戸時代後期の女性で11代将軍・徳川家斉の側室。俗名は八重。父は御三卿・清水徳川家の家臣・牧野多門忠克。養父は土屋弥三郎知光。 家斉との間に徳川斉明、盛姫(鍋島直正室)、池田斉衆、松平斉民、信之進、喜代姫(酒井忠学室)、松平斉良、蜂須賀斉裕の6男2女がいる。.

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鳥取藩

鳥取藩(とっとりはん)は、因幡国・伯耆国(現在の鳥取県)の2国を領有した大藩である。石高は32万5千石。藩庁は因幡の鳥取城(鳥取市東町)に置いた。久松山城とも称した。.

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蜂須賀斉裕

蜂須賀 斉裕(はちすか なりひろ)は、江戸時代末期の大名。阿波国徳島藩の第13代藩主。 11代将軍・徳川家斉の二十二男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。13代将軍・徳川家定(家慶の子)は甥にあたるが、僅か3歳年下である。父の家斉より偏諱を賜って斉裕と名乗る。.

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松平斉宣

松平 斉宣(まつだいら なりこと)は、播磨明石藩第8代藩主。直良系越前松平家9代。 11代将軍・徳川家斉の二十六男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。家斉の末息子であり、甥にあたる13代将軍・徳川家定よりも年下である。同母兄に越前福井藩主となった松平斉善、武蔵川越藩の嫡子である松平斉省がいる。.

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松平斉善

松平 斉善(まつだいら なりさわ)は、江戸時代後期の大名。福井藩の第15代藩主一般的には福井藩第3代と数える松平忠昌以降を別系統(別藩)と捉える学説・主張もあり、それに従えば第13代となる。。江戸幕府第11代将軍・徳川家斉の二十二男。第12代将軍・徳川家慶の異母弟であり、同父の兄弟は多数。同母弟に越前松平家の分家筋の直基系の武蔵川越藩養子松平斉省(家斉二十五男)、同じく直良系にあたる播磨明石藩主の松平斉宣(家斉二十六男)。.

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松平斉省

松平 斉省(まつだいら なりさだ)は、武蔵川越藩の嫡子。11代将軍徳川家斉の二十五男で、12代将軍・徳川家慶の異母弟。.

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松平斉良

松平 斉良(まつだいら なりよし)は、石見国浜田藩の世嗣。江戸幕府第11代将軍徳川家斉の二十男で、第12代将軍徳川家慶の異母弟にあたる。 上野国館林藩主・松平武厚の養子となり、武厚の娘を正室とする。元服し、父・家斉から偏諱を受けて斉良と名乗り、養父武厚も斉厚と改名した。天保7年(1836年)には斉厚が石見浜田に国替えとなったが、斉良は3年後の天保10年(1839年)に死去した。代わって高松松平家出身の武揚(正室は斉良正室の妹)が斉厚の養子となった。 Category:江戸時代の大名の嫡男 なりよし なりよし Category:浜田藩の人物 Category:1819年生 Category:1839年没.

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松平斉民

松平 斉民(まつだいら なりたみ)は、江戸時代後期から幕末の大名。美作国津山藩の第8代藩主。11代将軍徳川家斉の十四男で、12代将軍徳川家慶の異母弟。確堂の号で知られる。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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池田氏

池田氏(いけだし)は、日本の氏族の一つ。諸国の「池田」の地名(池田荘・池田郷など)を発祥とする氏族。.

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池田斉稷

池田 斉稷(いけだ なりとし、天明8年7月10日(1788年8月11日) - 文政13年5月2日(1830年6月22日))は、因幡国鳥取藩8代藩主。鳥取藩池田家宗家10代。 6代藩主池田治道の次男。母は側室の佃氏(浦の方)。正室は米沢藩主上杉治広の三女・演姫(天殊院)。異母兄に池田斉邦、子に池田斉訓(次男)、長女・月鏡院素姫(ただひめ、佐竹義厚継室)、娘(池田斉衆正室)、娘(松平忠彦正室)など4男3女、養子に池田斉衆がいる。幼名、永之進。初名は道稷(みちとし)。官位は従四位下のち従四位上、侍従、因幡守、左近衛少将のち左近衛中将。.

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池田斉訓

池田 斉訓(いけだ なりみち、文政3年7月25日(1820年9月2日) - 天保12年5月16日(1841年7月4日))は、因幡国鳥取藩9代藩主。鳥取藩池田家宗家11代。 8代藩主・池田斉稷の次男。母は高沢氏。正室は将軍徳川家斉の娘・泰姫。官位は従四位上、侍従、因幡守、左近衛権少将。.

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文化 (元号)

文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.

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文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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1812年

記載なし。

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1817年

記載なし。

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1824年

記載なし。

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1826年

記載なし。

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3月14日 (旧暦)

旧暦3月14日は旧暦3月の14日目である。六曜は仏滅である。.

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4月20日

4月20日(しがつはつか、しがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から110日目(閏年では111日目)にあたり、年末まではあと255日ある。誕生花はシバザクラ、ルピナス。.

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4月4日 (旧暦)

旧暦4月4日(きゅうれきしがつよっか)は旧暦4月の4日目である。六曜は先勝である。.

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5月14日

5月14日(ごがつじゅうよっか、ごがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から134日目(閏年では135日目)にあたり、年末まではあと231日ある。誕生花はシラン。.

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