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久明親王

索引 久明親王

久明親王(ひさあきしんのう/ひさあきらしんのう)は、鎌倉幕府8代征夷大将軍。第89代後深草天皇の第六皇子。.

59 関係: 吉川弘文館坊門姫 (一条能保室)大納言天台座主宮将軍守邦親王宗尊親王三条公親一品親王一条能保平安京久良親王延慶 (日本)建治式部省征夷大将軍後嵯峨天皇後深草天皇得宗従一位北条守時北条宗政北条師時北条久時北条義宗北条貞時北条氏北条氏 (赤橋流)北条時宗嘉暦和歌冷泉為相出家勅撰集玉葉和歌集細川重男続千載和歌集烏帽子親鎌倉幕府西園寺実氏西園寺公経親王臣籍降下正応歌合永仁源宗明源義朝惟康親王新後撰和歌集...10月14日 (旧暦)10月19日11月16日1276年1289年1297年1308年1328年9月11日 (旧暦) インデックスを展開 (9 もっと) »

吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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坊門姫 (一条能保室)

後藤実基と坊門姫/明治時代『前賢故実』より。画:菊池容斎 坊門姫(ぼうもんひめ、久寿元年(1154年)または久安元年(1145年) - 建久元年4月20日(1190年5月25日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。『平治物語』で坊門の姫と呼ばれる。本名は不明。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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天台座主

天台座主(てんだいざす)は、日本の天台宗の総本山である比叡山延暦寺の貫主(住職)で、天台宗の諸末寺を総監する役職。「山の座主」とも呼ばれた。ただし、比叡山に居住することは少なく、重要な修法、儀式の時のみ入山する座主が多かった。.

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宮将軍

宮将軍(みやしょうぐん)は、鎌倉時代後期に征夷大将軍に任じられた宗尊親王・惟康親王・久明親王・守邦親王の4親王を指す歴史用語。現代では皇族将軍(こうぞくしょうぐん)、親王将軍(しんのうしょうぐん)とも呼ぶ。また彼らを総称して鎌倉宮家(かまくらのみやけ)と表現することもある。 なお、建武の新政期に後醍醐天皇より任じられた護良親王と成良親王も宮将軍と呼ぶことがある。しかし前者の4親王は鎌倉政権の形式上の長で実権を持たないのに対し、後者の2親王は建武政権において短期間ではありながら重要なその一翼を担った実務者だったことが根本的に異なる。.

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守邦親王

守邦親王(もりくにしんのう)は、鎌倉幕府9代(最後の)征夷大将軍で、鎌倉幕府将軍の中で24年9カ月と在職期間が最長であった。8代将軍久明親王の子。.

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宗尊親王

宗尊親王(むねたかしんのう)は、鎌倉幕府6代将軍(在任:建長4年(1252年)4月 - 文永3年(1266年)6月、皇族で初めての征夷大将軍)。後嵯峨天皇の第一皇子。.

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三条公親

三条 公親(さんじょう きんちか)は鎌倉時代の公卿。後三条入道内府または白川前内府と号す。正二位内大臣。父は従一位右大臣三条実親。母は従一位太政大臣西園寺公経の女。.

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一品親王

一品親王(いっぽんしんのう)とは、律令制において皇親に対して与えられた最も高い品位である一品を与えられた親王のこと。広義では一品を与えられた内親王(一品内親王)も含まれる。.

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一条能保

一条 能保(いちじょう よしやす)は平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿。藤原北家中御門流、藤原通重の長男。一条二位入道と号す。.

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平安京

平安京復元模型写真(大内裏付近) 平安京(へいあんきょう/たいらのみやこ)は、延暦13年10月22日(西暦794年11月22日)から、一説には明治2年(1869年)まで日本の首都であった都市である。平安城ともいい、桓武天皇によって長岡京からの遷都地に選ばれ、唐の首都長安城に倣って計画都市として建設された。現在の京都府京都市・京都市街であり、当時の街路をほぼそのままに主要都市として現存している。明治2年(1869年)に政府(太政官)が東京(旧江戸)に移転して首都機能を失った。平安京が置かれてから鎌倉幕府が成立するまでの約400年間を日本史では「平安時代」という。.

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久良親王

久良親王(ひさながしんのう/ひさよししんのう)は鎌倉時代末期から南北朝時代の公卿・皇族。土御門入道親王と称される。式部卿久明親王(鎌倉幕府第8代将軍)の二男。母は権中納言冷泉為相の娘。異母兄に守邦親王(鎌倉幕府第9代将軍)。無品王から従三位左中将を経て親王に復した。子は従一位・権大納言に至った源宗明。.

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延慶 (日本)

延慶(えんきょう、えんぎょう、えんけい)は、日本の元号の一つ。徳治の後、応長の前。1308年から1310年までの期間を指す。この時代の天皇は花園天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、守邦親王、執権は北条師時。.

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建治

建治(けんじ)は、日本の元号の一つ。文永の後、弘安の前。1275年から1277年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗。.

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式部省

式部省(しきぶしょう)は、日本の律令制における八省のひとつ。和名は「のりのつかさ」。天平宝字2年(758年)から同8年(764年)の間のみ文部省(ぶんぶしょう)に改称された。大学寮・散位寮の二寮を管掌していた。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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後嵯峨天皇

後嵯峨天皇(ごさがてんのう、承久2年2月26日(1220年4月1日) - 文永9年2月17日(1272年3月17日))は、鎌倉時代の第88代天皇(在位:仁治3年1月20日(1242年2月21日) - 寛元4年1月29日(1246年2月16日))。諱は邦仁(くにひと)。 土御門天皇の皇子。母は、源通宗の娘、通子。.

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後深草天皇

後深草天皇(ごふかくさてんのう)は、鎌倉時代中期の第89代天皇(在位:寛元4年1月29日(1246年2月16日) - 正元元年11月26日(1260年1月9日))。諱は久仁(ひさひと)。 後嵯峨天皇の皇子。母は西園寺実氏女、中宮・西園寺姞子(大宮院)。持明院統の祖。父母が自身より弟の亀山天皇を寵愛し、亀山天皇を治天の君としたことに不満を抱き、やがて後深草系の持明院統と亀山系の大覚寺統との対立が生じる端緒となった。.

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得宗

得宗(とくそう)は、鎌倉幕府の北条氏惣領の家系。徳崇、徳宗とも(読みは同じ)。幕府の初代執権の北条時政を初代に数え、2代義時からその嫡流である泰時、時氏、経時、時頼、時宗、貞時、高時の9代を数える。「得宗」とは2代義時に関係する言葉で、研究者によって義時の別称、戒名、追号など意見が異なる。近年では「徳崇」の当て字・略字で、禅宗に帰依した5代時頼が、浄土宗系の宗派を信仰していた義時に贈った禅宗系の追号の可能性が指摘されている。義時流、得宗家という呼び方もある。史料においては北条氏嫡流の当主を「得宗」と指した例は少なく、行政用語であったとも考えられている。.

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従一位

従一位(じゅいちい)は、日本の位階及び神階の位の一つ。正一位の下に位し、正二位の上位にあたる。.

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北条守時

州崎古戦場蹟に建てられた石碑 北条 守時(ほうじょう もりとき)は、鎌倉時代末期の武将。北条氏の一門。鎌倉幕府第16代・最後の執権(在職:正中3年4月24日(1326年5月26日) - 正慶2年/元弘3年5月18日(1333年6月30日))。赤橋 守時(あかはし もりとき)とも呼ばれる。 鎌倉幕府第6代執権・北条長時の曾孫にあたる。父は赤橋流の北条久時。同幕府を滅ぼし、室町幕府初代将軍となった足利尊氏は妹婿(義弟)にあたる。.

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北条宗政

北条 宗政(ほうじょう むねまさ)は、鎌倉時代中期の北条氏(得宗家)の一門。.

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北条師時

北条 師時(ほうじょう もろとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。鎌倉幕府第10代執権(在職:正安3年8月22日(1301年9月24日) - 応長元年9月22日(1311年11月3日))。.

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北条久時

北条 久時(ほうじょう ひさとき)は、鎌倉時代後期の北条氏の一門。父は赤橋流の北条義宗。赤橋 久時(あかはし ひさとき)とも。.

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北条義宗

北条 義宗(ほうじょう よしむね)は、鎌倉時代中期の北条氏一門。赤橋 義宗(あかはし よしむね)とも称される。鎌倉幕府第6代執権・北条長時の嫡男。赤橋流北条氏第2代当主。.

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北条貞時

北条 貞時(ほうじょう さだとき)は、鎌倉時代後期の北条氏一門の武将。北条氏得宗家当主、鎌倉幕府第9代執権(在職:弘安7年(1284年) - 正安3年(1301年))。 第8代執権・北条時宗の嫡男。母は安達義景の娘・堀内殿(覚山尼)。.

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北条氏

北条氏(ほうじょうし、)は、伊豆国出身の豪族で、鎌倉幕府の執権職を世襲した一族である。戦国大名後北条氏との混同を避けるため、代々鎌倉幕府執権職を継承したことから執権北条氏もしくは鎌倉北条氏と呼ばれることもある。通字は時(とき)。.

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北条氏 (赤橋流)

赤橋流北条氏(あかはしりゅうほうじょうし)は、鎌倉時代の北条氏の一族。赤橋家ともいう。.

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北条時宗

北条 時宗(ほうじょう ときむね)は、鎌倉時代中期の武将・政治家。鎌倉幕府第8代執権。 鎌倉幕府執権職を世襲する北条氏の嫡流得宗家に生まれ、世界帝国であったモンゴル帝国(大元朝)の圧力が高まるなかで執権に就任。内政にあっては得宗権力の強化を図る一方、モンゴル帝国(大元朝)の2度にわたる侵攻を退け(元寇)、戦前までは日本の国難を救った英雄と評された。官位は、正五位下相模守。贈従一位。.

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嘉暦

嘉暦(かりゃく)は、日本の元号の一つ。正中の後、元徳の前。1326年から1329年までの期間を指す。この時代の天皇は後醍醐天皇。鎌倉幕府将軍は守邦親王、執権は北条高時、北条貞顕、北条守時。.

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和歌

和歌(わか)とは、短歌型式の古典詩。古典短歌。広義には『万葉集』に所収される歌体の総称。 「和歌」の訓は「やまとうた」である。「和」の代わりに「倭」の字が、「歌」の代わりに「謌」、「哥」の字が宛てられたこともある。なお、歌謡と混同されるおそれがない文脈においては「歌」「うた」と表記され、呼ばれることもある。 長連歌、俳諧、狂歌、川柳風狂句は定型の古典詩であるが、和歌には含まれない。また、明治の和歌革新家とその後継者の短歌作品、すなわち近現代短歌は「短歌」と称され、「和歌」とは称されない。近現代短歌はこの項では取り上げない。.

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冷泉為相

冷泉 為相(れいぜい ためすけ)は、鎌倉時代中期から後期にかけての公卿・歌人。冷泉家の祖。権大納言民部卿・藤原為家の晩年の子。母は『十六夜日記』作者として知られる阿仏尼(安嘉門院四条)。官位は正二位・権中納言。.

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出家

出家(しゅっけ、pabbajja、pravrajyaa、प्रव्रज्या) とは、師僧から正しい戒律である『沙弥戒』や『具足戒』を授かって世俗を離れ、家庭生活を捨て仏教に入ることである。落飾(らくしょく)ともいう。対義語は還俗(げんぞく、“俗界に還る”の意)。 在家(ざいけ)と対比される。インドでは、紀元前5世紀頃、バラモン教の伝統的権威を認めない沙門(しゃもん)と呼ばれる修行者が現れ、解脱(げだつ)への道を求めて禅定や苦行などの修行にいそしんだ。有力な沙門の下には多くの弟子が集まり、出家者集団を形成したが、釈迦もその沙門の1人であった。 仏教における出家の伝統はこれに由来する。仏教教団において剃髪(ていはつ)して袈裟を被い、「正式に受戒(じゅかい)して入門した沙弥や沙弥尼」になることを言うが、その後、「具足戒を受けて正規の僧となった比丘や比丘尼」を呼ぶ場合にも使う。.

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勅撰集

勅撰集(ちょくせんしゅう)は、帝王(日本においては天皇や上皇)の命によって編纂された書物、もしくは帝王が記した書物のうち特に公式のものとして認められているものを指す。 勅撰集に対して帝王の命によらずに編纂されたものを私撰集(しせんしゅう)と呼ぶ。.

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玉葉和歌集

『玉葉和歌集』(ぎょくようわかしゅう)は、鎌倉時代後期の勅撰和歌集である。和歌数約2800首と勅撰和歌集中最大であり、中世和歌に新風を吹き込んだ京極派和歌を中核とした和歌集として知られる。.

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細川重男

細川 重男(ほそかわ しげお、1962年『鎌倉幕府の滅亡』ISBN 978-4-642-05716-5 より - )は、日本の歴史学者。東洋大学・國學院大學非常勤講師。博士(文学)(立正大学、1997年)。東京都出身。 専門は日本中世政治史、古文書学。金本正之・百瀬今朝雄に師事。.

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続千載和歌集

『続千載和歌集』(しょくせんざいわかしゅう)は、文保2年(1318年)、後宇多法皇の命によって編纂された15番目の勅撰和歌集。20巻。二条為世撰。主な歌人は、二条為氏、西園寺実兼、藤原為家、藤原定家など。歌数はおよそ2100首。 Category:鎌倉時代の歌集 Category:14世紀の書籍 Category:14世紀の詩.

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烏帽子親

烏帽子親(えぼしおや)とは、元服儀式の際に加冠を行う者のこと。 中世武家社会においては、男子が成人に達して元服を行う際に特定の人物に依頼して仮親に為って貰い、当人の頭に烏帽子を被せる役を務めることが通例とされていた。この仮親を烏帽子親と呼び、被せられた成人者を烏帽子子と呼んだ。また、この際に童名を廃して、烏帽子親が新たな諱を命名する場合があったその諱を烏帽子名という。その名は烏帽子親からの偏諱を受けることが多くなった。 『吾妻鏡』によれば、治承4年10月2日(1180年10月22日)、源頼朝が乳母である寒河尼の息子(小山朝光)の烏帽子親を務めている。このように、烏帽子親には主君や一門の棟梁、信頼の置ける地域の有力者などに委嘱する例が多かった。鎌倉幕府においては、烏帽子親と烏帽子子は実際の血縁関係が無くてもこれに准じるものとされ、文暦2年(1235年)の追加法における評定の際の退座分限(参加禁止者)として親族と並んで烏帽子子が含まれている。 室町時代以後の元服の儀では烏帽子を被せる代わりに前髪をそり落とす事例が増えるが、それを行うのが烏帽子親の役目とされていた。また、武家社会以外でも王朝時代から続く公家社会での冠礼における引入及び裳着における腰結、近世民間における親方・子方制や女子の鉄漿親(筆親・歯黒親)なども烏帽子親の類似した仮親による成人儀式であり、こうした仮親による成人儀式は現在でも日本の一部地域にて残されている。 また幼くして即位した天皇が在位中に元服の儀式を執り行う場合は皇族の長老などではなく、幼帝在位時にその政務を代行する摂政の職と天皇の師範である太政大臣の職を兼ねる者が加冠役を務めた。.

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鎌倉幕府

鎌倉幕府(かまくらばくふ)は、日本の武家政権。同幕府の約150年間を鎌倉時代と呼び、源頼朝を創設者とし、北条時政・北条義時らを中心とした坂東武士が鎌倉に設立した幕府である。頼朝の死後、御家人の権力闘争によって頼朝の嫡流は断絶し、その後は義時の嫡流である得宗家が同幕府の支配者となった。武家政権は室町幕府・江戸幕府へと継承された。.

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西園寺実氏

西園寺 実氏(さいおんじ さねうじ)は、鎌倉時代前期の公卿。従一位太政大臣。常盤井相國と号す。父は准三宮太政大臣西園寺公経。旧字で實氏。.

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西園寺公経

小倉百人一首より 西園寺 公経(さいおんじ きんつね、正字体:西園寺公經)は、平安時代末期から鎌倉時代前期にかけての公卿・歌人。西園寺家の実質的な祖とされている。鎌倉幕府4代将軍藤原頼経・関白二条良実・後嵯峨天皇の中宮姞子の祖父、四条天皇・後深草天皇・亀山天皇・5代将軍藤原頼嗣の曾祖父となった稀有な人物である。また、姉は藤原定家の後妻で、定家の義弟でもある。 小倉百人一首では入道前太政大臣。.

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親王

親王(しんのう)は、東アジアにおいて、嫡出の皇子や最高位の皇族男子に与えられる称号。もともと中国諸王朝(晋以後)において用いられ、日本や、朝鮮(大韓帝国期)、ベトナムにおいても採用された。 これらに倣って、非漢字圏の君主の親族男子を親王と呼ぶことや、プリンスの訳語として用いることもままある。.

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臣籍降下

臣籍降下(しんせきこうか)は、皇族がその身分を離れ、姓を与えられ臣下の籍に降りることをいう。賜姓降下(しせいこうか)とも言い、そのような皇族を俗に賜姓皇族という。皇族女子が臣下に嫁すことで皇族でなくなる場合は臣籍降嫁(しんせきこうか)とも言った。また日本国憲法施行後は皇籍離脱(こうせきりだつ)の語が用いられる。.

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正応

正応(しょうおう)は、日本の元号の一つ。弘安の後、永仁の前。1288年から1292年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、久明親王、執権は北条貞時。.

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歌合

歌合(うたあわせ)とは、歌人を左右二組にわけ、その詠んだ歌を一番ごとに比べて優劣を争う遊び及び文芸批評の会。.

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永仁

永仁(えいにん)は、日本の元号の一つ。正応の後、正安の前。1293年から1298年までの期間を指す。この時代の天皇は伏見天皇、後伏見天皇。鎌倉幕府将軍は久明親王、執権は北条貞時。.

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源宗明

源 宗明(みなもと の むねあきら)は南北朝時代の公卿。従一位、権大納言。宮大納言と号す。 父は久良親王(鎌倉幕府第8代将軍久明親王の息子)。母は不詳。 『玉英記』や『師守記』の内容から判断すると、宗明が元服する頃に実父の久良親王は既に出家していたため二条家が後見となったのではないかと推測できる。.

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源義朝

源 義朝(みなもと の よしとも)は、平安時代末期の河内源氏の武将。源為義の長男。母は白河院近臣である藤原忠清の娘。源頼朝・源義経らの父。 源義家の死後、河内源氏は内紛によって都での地位を凋落させていた。都から東国へ下向した義朝は、在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平治の乱で藤原信頼方に与して敗北し、都を落ち延びる道中尾張国で家人に裏切られ謀殺された。.

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惟康親王

惟康親王(これやすしんのう)は、鎌倉幕府第7代征夷大将軍。6代将軍宗尊親王の嫡男。.

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新後撰和歌集

『新後撰和歌集』(しんごせんわかしゅう)は、正安3年(1301年)に、後宇多天皇の命により編纂された13番目の勅撰和歌集。津守集とも。20巻。二条為世撰。歌人は藤原定家、藤原為家、藤原俊成、亀山上皇などで、歌数はおよそ1600首。なお、異称「津守集」は、津守氏の歌が多いことに由来するという。 Category:鎌倉時代の歌集 Category:14世紀の書籍 Category:14世紀の詩.

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10月14日 (旧暦)

旧暦10月14日(きゅうれきじゅうがつじゅうよっか)は、旧暦10月の14日目である。六曜は大安である。.

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10月19日

10月19日(じゅうがつじゅうくにち)は、グレゴリオ暦で年始から292日目(閏年では293日目)にあたり、年末まであと73日ある。.

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11月16日

11月16日(じゅういちがつじゅうろくにち)は、グレゴリオ暦で年始から320日目(閏年では321日目)にあたり、年末まであと45日ある。.

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1276年

記載なし。

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1289年

記載なし。

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1297年

記載なし。

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1308年

記載なし。

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1328年

記載なし。

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9月11日 (旧暦)

旧暦9月11日は旧暦9月の11日目である。六曜は先勝である。.

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