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張休

索引 張休

張 休(ちょう きゅう)は、中国三国時代の呉の人物。字は叔嗣。徐州彭城国の人。父は張昭。兄は張承。

目次

  1. 41 関係: 大懿皇后孫弘孫和孫登孫覇孫魯班孫権中国三国志 (歴史書)三国時代 (中国)交州二宮事件建安 (漢)張奮 (孫呉)張震 (孫呉)張昭張承 (孫呉)彭城郡侍中徐州嘉禾呉 (三国)几帳全琮全端全緒王淩羽林芍陂の役顧譚顧雍顧承諸葛恪魏 (三国)黄龍 (呉)都尉赤烏陳寿陳表漢書

  2. 205年生
  3. 245年没

大懿皇后

大懿皇后(だいいこうごう、? - 240年代)は、三国時代の呉の大帝孫権の夫人(側室)。徐州琅邪郡の出身。姓は王。王夫人と呼ばれた。孫休の母の王夫人(敬懐皇后)とは別人である。父は王盧九。子は孫和。呉の第4代皇帝である孫晧の祖母。

見る 張休と大懿皇后

孫弘

孫 弘(そん こう、? - 252年)は、中国三国時代の呉に仕えた人物。揚州会稽郡の出身。

見る 張休と孫弘

孫和

孫 和(そん か/そん わ、224年 - 253年)は、中国三国時代の呉の皇族。字は子孝。父は孫権。母は王夫人(大懿皇后)。異母兄は孫登。異母姉は孫魯班(全公主)。異母弟は孫覇・孫休・孫亮。妻は張妃・何姫・他一人(孫謙の母)。子は孫晧・孫徳・孫謙・孫俊。娘は陸景の妻。『三国志』呉志 呉主五子伝 に記録がある。

見る 張休と孫和

孫登

孫 登(そん とう)は、中国三国時代の呉の皇太子。字は子高。父は孫権。妻は周妃・芮妃(芮玄の娘)。弟は孫慮・孫和など多数。子は孫璠・孫英・孫希。諡は宣太子。

見る 張休と孫登

孫覇

孫 覇(そん は)は、中国三国時代の人物。呉の初代皇帝である孫権の庶子。字は子威。揚州呉郡富春県の人。母は謝姫。妻は劉基の娘。子は孫基・孫壱。 兄で皇太子の孫和との間に二宮事件と呼ばれる後継者争いを起こした末、孫権より自害を命じられた。

見る 張休と孫覇

孫魯班

孫 魯班(そん ろはん、生没年不詳)は、三国時代の呉の公主・長公主。字は大虎。父は孫権。母は歩皇后。同母妹は孫魯育。異母弟に孫和・孫覇・孫亮など多数。夫は周循、後に全琮。子は全懌・全呉。大公主と呼ばれる。

見る 張休と孫魯班

孫権

孫 権(そん けん)は、三国時代の武将、呉の初代皇帝。字は仲謀(ちゅうぼう)。

見る 張休と孫権

字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。昔、中国で成人男子と女子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれを用いた。

見る 張休と字

中国

中国(ちゅうごく、中國)は、ユーラシア大陸(アジア大陸)の東部を占める地域、及びそこで成立した国家をさす用語。日本では、1972年の日中国交正常化以降、中華人民共和国の略称としても使用されている。 中国統一問題を参照)。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。

見る 張休と中国

三国志 (歴史書)

『三国志』(さんごくし)は、中国三国時代について書かれた歴史書。著者は陳寿。後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う。二十四史の一つ。

見る 張休と三国志 (歴史書)

三国時代 (中国)

三国の勢力圏とその地方行政区分の変遷 三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の勃発(184年)から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡(220年)あるいは三国が分立した229年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。当項目では広義の三国時代について記載する。(後漢末) 215年に曹操(華北地域)、劉備(巴蜀・荊州地域)、孫権(江南地域)によって後の三国のそれぞれの勢力範囲が概ね確立した。220年に曹操の子の曹丕が漢の献帝から禅譲を受けて'''魏'''を建国し、221年に劉備が漢(蜀漢)、229年に孫権が'''呉'''の皇帝としてそれぞれ即位し、三国が正式に鼎立した。

見る 張休と三国時代 (中国)

交州

交州(こうしゅう)は、中国の漢から唐にかけて置かれた行政区域。現在のベトナム北部および中華人民共和国・広西チワン族自治区の一部などが含まれる。名称は前漢の武帝が置いた十三刺史部の一つ、交趾に由来する。

見る 張休と交州

二宮事件

二宮事件(にきゅうじけん)、二宮の変(にきゅうのへん)、または南魯党争(なんろとうそう)は、三国時代の呉における約10年間に及ぶ政治闘争の総称。孫和と孫覇の太子廃立争いであるが、その裏に江南の貴族社会的性質を見出す向きもある。両者の父親であり、呉の皇帝であった孫権が問題の解決を先延ばしにしていたことがこの事件の一般的な原因とされる。

見る 張休と二宮事件

建安 (漢)

建安(けんあん)は、後漢の献帝(劉協)の治世に行われた3番目(永漢を除く)の元号。196年 - 220年。

見る 張休と建安 (漢)

張奮 (孫呉)

張 奮(ちょう ふん、生没年不詳)は、中国三国時代の人物。呉の重臣である張昭の甥。本貫は徐州彭城国。 20歳の時に攻城用の大攻車を造り、歩騭の推挙を受けた。年少にして軍に入ることを張昭からは反対されたが、それに対し張奮は「昔、童汪(童子だった汪踦)は国難に死し、子奇は(若くして)阿の地を治めました。私は確かに不才の身ですが、年齢に不足はありません」と答えた。そうして兵を預かって将軍となり、続けて功績を挙げ、半州都督・楽郷亭侯の位に昇った。

見る 張休と張奮 (孫呉)

張震 (孫呉)

張 震(ちょう しん)は、中国三国時代の呉の人物。本貫は徐州彭城国。祖父は張昭。父は張承。母は諸葛瑾の娘。

見る 張休と張震 (孫呉)

張昭

張 昭(ちょう しょう)は、中国後漢末期から三国時代の呉にかけての政治家・武将。字は子布。諡は文侯。徐州彭城国の人。妻は孫氏。子は張承・張休・他一名。

見る 張休と張昭

張承 (孫呉)

張 承(ちょう しょう、178年 - 244年)は、中国三国時代の呉の武将・政治家。字は仲嗣。父は張昭。弟は張休・他一名。子は張震・女子二人(張妃・陸抗妻)。

見る 張休と張承 (孫呉)

彭城郡

彭城郡(ほうじょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の江蘇省徐州市および安徽省淮北市にまたがる地域に設置された。

見る 張休と彭城郡

侍中

侍中(じちゅう)は、皇帝の側近で皇帝の質問に備え、身辺に侍する役職である - goo国語辞書。 中国においては秦代に始まり、丞相の属官として殿中の奏事を司り、漢代に入ると加官(本職の他の兼任専用の役職)となって皇帝の乗輿・服飾をも扱った。漢から魏にかけて荀彧が守尚書令に侍中を兼ね、続いて太尉司馬懿と大将軍曹爽が侍中を兼ねている。 魏以後は、専任の侍中も設置され、概して4名が置かれた。枢機に参与する重職となった。南朝の梁や北朝の北魏では、宰相と同等の官となった。 隋代には納言と改称されたが、唐代に旧に復した。唐以後は門下省の長官を兼ねて2名が任命され、事実上の丞相となる。だが、時代の変遷に伴って、その権限は縮小された。門下省は貴族勢力の権益を代表して皇帝権と対抗する部局であったが、唐の中期以降は帝権が強まるにつれて門下省の権威は低下し、中書省に吸収されるに至る。

見る 張休と侍中

徐州

徐州(じょしゅう)は、中国の行政区分の一つ。

見る 張休と徐州

嘉禾

嘉禾(かか)は、呉の大帝孫権の治世に行われた元号。232年 - 238年。

見る 張休と嘉禾

呉 (三国)

呉(ご、、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江以南の揚州・荊州・交州に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉(そんご)、東呉(とうご)とも呼ばれる。 222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父の孫堅・兄の孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。

見る 張休と呉 (三国)

几帳

几帳 上は表、下は裏几帳風俗博物館 几帳(きちょう)は、平安時代以降公家の邸宅に使われた、二本のT字型の柱に薄絹を下げた間仕切りの一種。 簾の内側に立てて二重の障壁とするほか、可動式の間仕切り・目隠しとして大きな部屋の仕切りに使ったり、参拝の折など高貴の婦人の身を衆目から隠す障壁、荷物などを見苦しくないよう隠しておく目隠しなどとしてわりに広い用途に用いられた。 変わった用途としては、女房が街道を歩くときに傍仕えの女の童二人に小型の几帳を持たせて顔を隠す「差几帳(さしきちょう)」がある。

見る 張休と几帳

全琮

全 琮(ぜん そう、198年? - 249年?)は、中国後漢時代末期から、三国時代の呉にかけての武将・政治家。字は子璜。揚州呉郡銭唐県の人。父は全柔。妻は孫権の娘の孫魯班(全公主)。子は全緒・全奇・全懌・全呉。孫は全禕・全静・全儀。従子は全端・全翩・全緝。族子は全尚。族孫は全紀・全皇后。一族に全煕。『三国志』呉志に伝がある。

見る 張休と全琮

全端

全 端(ぜん たん、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。呉に仕えた。揚州呉郡銭唐県の人。父の名は不詳。叔父は全琮。従兄弟は全緒・全奇・全懌・全呉。従子は全禕・全静・全儀。

見る 張休と全端

全緒

全 緒(ぜん しょ、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。揚州呉郡銭唐県の人。父は全琮。子は全禕・全静・全儀。弟は全奇・全懌・全呉。従兄弟は全端ら。

見る 張休と全緒

王淩

王 淩(おう りょう)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将・政治家。字は彦雲。并州太原郡祁県(現在の山西省晋中市祁県)の人。 皇帝曹芳の廃位及び楚王曹彪の擁立を画策するが、事が露見し自殺を遂げた(王淩の乱)。

見る 張休と王淩

羽林

羽林(うりん)は、前漢に設立された皇帝直属の部隊名で、明代まで置かれた。

見る 張休と羽林

芍陂の役

芍陂の役(しゃくひのえき)は、中国三国時代の241年(魏の正始2年、呉の赤烏4年)に、魏と呉の間で行われた戦い。呉帝孫権は、四路から魏を攻めたが、芍陂が主要な戦場であったことから芍陂の役と呼ばれている。実態としては揚州方面と荊州方面の二正面攻撃であり、戦場は広範囲に渡った。

見る 張休と芍陂の役

顧譚

顧 譚(こ たん、205年 - 246年)は、中国三国時代の武将、政治家。呉に仕えた。字は子黙。祖父は顧雍。父は顧邵。弟は顧承。生母は陸氏(陸遜・陸瑁の姉妹)。『三国志』呉志「顧雍伝」などに記述がある。

見る 張休と顧譚

顧雍

顧 雍(こ よう)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。字は元歎。揚州呉郡呉県(現在の蘇州市)の人。曾祖父は顧奉(潁川太守。『呉録』による)。祖父と父の名は不明。同母弟は顧徽。妻は陸康の娘。子は顧邵・顧裕(顧穆)・顧済。孫は顧譚・顧承・顧栄。『三国志』呉志に伝がある。 孫権に仕えて、呉の2代目の丞相となった。顧家は呉郡呉県の名家の出で、一族や子孫からは多数の人材を輩出している。

見る 張休と顧雍

顧承

顧 承(こ しょう、生没年不詳)は、三国時代の呉の武将。字は子直。顧邵の子。生母は陸氏(陸遜・陸瑁の姉妹)。兄に顧譚がいる。妻は張温の妹。

見る 張休と顧承

諸葛恪

諸葛 恪(しょかつ かく、)は、中国の三国時代の政治家。呉に仕えた。字は元遜。徐州琅邪郡陽都県の人。諸葛瑾の長男で、蜀(蜀漢)の丞相の諸葛亮の甥にあたる。弟に諸葛喬・諸葛融。子は諸葛綽・諸葛竦・諸葛建。

見る 張休と諸葛恪

魏 (三国)

魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏(そうぎ)、あるいは北魏に対して前魏(ぜんぎ)とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、成立の基礎を作った曹操の時期の政権である「曹操政権」と合わせて論じられることも多い。魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。

見る 張休と魏 (三国)

黄龍 (呉)

黄龍(こうりゅう)は、呉の大帝孫権の治世に行われた元号。229年 - 231年。

見る 張休と黄龍 (呉)

都尉

都尉(とい)は、中国の秦・漢の官職名。郡の軍事を掌る。 前漢においては、元は郡尉と呼ばれていたが、景帝中元2年(紀元前148年)に郡守を郡太守と改称し、郡尉は郡都尉と改称した。都尉は太守を補佐し、郡内の武職や兵卒を掌った。官秩は比二千石であった。役所は太守とは別の場所に置かれた。通常は郡に一名だが、辺境などでは一郡に複数の都尉が置かれることもあり、その場合には「西部都尉」「中部都尉」などと呼ばれる。副官に丞(官秩比六百石)がいた。 後漢の光武帝の建武6年(30年)、辺境を除いて都尉は廃止され、太守が職務を兼任し、必要に応じ臨時に置かれることがあるだけとなった。蜀漢においても辺境には郡都尉の配置は続いた。

見る 張休と都尉

赤烏

赤烏(せきう)は、呉の大帝孫権の治世に行われた元号。238年 - 251年。 及び中国の伝説に登場する「太陽の中にいる三本足の烏」と言う意味で、日本では八咫烏に相当する。日本書紀にも登場し、持統6年の秋7月に「與獲赤烏者鹿嶋臣櫲樟」と、捕らえたことが記されている。 日本では、兵庫県宝塚市の安倉高塚古墳や山梨県市川三郷町の鳥居原狐塚古墳から赤烏の元号を持つ神獣鏡が発見されている。

見る 張休と赤烏

陳寿

陳 寿(ちん じゅ、建興11年〈233年〉? - 元康7年〈297年〉?)は、中国の三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者として知られる。甥は陳符・陳蒞・陳階。

見る 張休と陳寿

陳表

陳 表(ちん ひょう、建安9年(204年) - 嘉禾6年(237年))は、中国三国時代の武将。字は文奥。呉に仕えた。父は陳武。子は陳敖。異母兄は陳脩。甥は陳延・陳永。

見る 張休と陳表

漢書

天一閣に保管されている、明の時代の版である漢書 『漢書』(かんじょ)は、中国後漢の章帝の時に班固・班昭らによって編纂された前漢のことを記した歴史書。二十四史の一つ。「本紀」12巻・「列伝」70巻・「表」8巻・「志」10巻の計100巻から成る紀伝体で、前漢の成立から王莽政権までについて書かれた。『後漢書』との対比から前漢書ともいう。 『史記』が通史であるのに対して、漢書は初めて断代史の形式をとった歴史書である。『漢書』の形式は、後の正史編纂の規範となった。 『史記』と並び、二十四史の中の双璧と称えられ、故に元号の出典に多く使われた。『史記』と重なる時期の記述が多いので、比較されることが多い。特徴として、あくまで歴史の記録に重点が多いので、『史記』に比べて物語の記述としては面白みに欠けるが、詔や上奏文をそのまま引用しているため、正確さでは『史記』に勝る。また思想的に、儒教的な観点により統一されている。『史記』と比較すると『漢書』には載道の意識が、やや硬直した形で現れている。

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参考情報

205年生

245年没