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全琮

索引 全琮

全 琮(ぜん そう、198年? - 249年?)は、中国後漢時代末期から、三国時代の呉にかけての武将・政治家。字は子璜。揚州呉郡銭唐県の人。父は全柔。妻は孫権の娘の孫魯班(全公主)。子は全緒・全奇・全懌・全呉。孫は全禕・全静・全儀。従子は全端・全翩・全緝。族子は全尚。族孫は全紀・全皇后。一族に全煕。『三国志』呉志に伝がある。

目次

  1. 112 関係: 劉基 (呉)劉備劉繇ちくま学芸文庫士大夫大司馬太守太平 (呉)孝廉孫亮孫和孫策孫綝孫登孫覇孫魯班孫権寿県富陽区尚書省小南一郎尹礼山越中原中国中郎将丹陽郡 (江蘇省)三国志 (歴史書)三国時代 (中国)九江郡交州二宮事件井波律子今鷹真建安 (漢)建康実録会稽郡張休張昭徐州徐盛後漢嘉禾周瑜周魴周胤呂岱呂蒙呉 (三国)... インデックスを展開 (62 もっと) »

劉基 (呉)

劉 基(りゅう き、184年 - 232年)は、後漢末期から三国時代の政治家。呉に仕えた。字は敬輿。後漢の揚州刺史劉繇の長子。漢の宗族の一人。弟に劉鑠、劉尚。娘は孫覇の妻。『三国志』呉志「劉繇伝」に記録がある。

見る 全琮と劉基 (呉)

劉備

劉 備(りゅう び、延熹4年(161年) - 章武3年4月24日(223年6月10日))は、後漢末期から三国時代の武将、蜀漢の初代皇帝。字は。 黄巾の乱の鎮圧で功績を挙げ、その後は各地を転戦した。諸葛亮の天下三分の計に基づいて益州の地を得て勢力を築き、後漢の滅亡を受けて皇帝に即位して、蜀漢を建国した。その後の蜀、魏、呉による三国鼎立の時代を生じさせた。 明代の小説『三国志演義』では中心人物として登場する。

見る 全琮と劉備

劉繇

劉 繇(りゅう よう)は、中国後漢末期の政治家。字は正礼。青州東萊郡牟平県(山東省煙台市牟平区)の人。漢の宗族の一人で、前漢の高祖の孫である斉の孝王劉将閭(劉肥の子)の末子の牟平共侯劉渫の直系末孫にあたる。祖父は劉本(劉丕とも、平原郡県令)。父は劉輿(劉方とも、山陽太守)。伯父は劉寵(字は祖栄、会稽太守。陳王劉寵とは別人)・劉韙。兄は劉岱ら。子は劉基・劉鑠・劉尚。『三国志』呉志に伝がある。

見る 全琮と劉繇

ちくま学芸文庫

ちくま学芸文庫(ちくまがくげいぶんこ)は、筑摩書房による学術部門の文庫判レーベルである。

見る 全琮とちくま学芸文庫

士大夫

士大夫(したいふ)は、中国の北宋以降で、科挙官僚・地主・文人の三者を兼ね備えた者である。

見る 全琮と士大夫

大司馬

大司馬(だいしば)は、中国の王朝の官職の一つ。主に軍事を取り仕切り、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職が設けられる場合もあった。

見る 全琮と大司馬

太守

太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。尊称として「明府」または「府君」と呼ばれる。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。

見る 全琮と太守

太平 (呉)

太平(たいへい)は、呉の廃帝会稽王孫亮の治世に行われた元号。256年 - 258年。

見る 全琮と太平 (呉)

孝廉

孝廉(こうれん)は、中国前漢の武帝が制定した秀才などと並ぶ郷挙里選の察挙科目の一つ。孝廉とは父母への孝順及び物事に対する廉正な態度を意味する。孝廉は察挙常科の中で最も重要視された科目である。

見る 全琮と孝廉

孫亮

孫 亮(そん りょう)は、三国時代の呉の第2代皇帝。廃立後は会稽王・侯官侯。初代皇帝孫権(大帝)の子(七男)。第3代皇帝孫休の異母弟。母は皇后の潘淑。皇后は全尚の娘の全氏。少帝と呼ばれることがある。

見る 全琮と孫亮

孫和

孫 和(そん か/そん わ、224年 - 253年)は、中国三国時代の呉の皇族。字は子孝。父は孫権。母は王夫人(大懿皇后)。異母兄は孫登。異母姉は孫魯班(全公主)。異母弟は孫覇・孫休・孫亮。妻は張妃・何姫・他一人(孫謙の母)。子は孫晧・孫徳・孫謙・孫俊。娘は陸景の妻。『三国志』呉志 呉主五子伝 に記録がある。

見る 全琮と孫和

孫策

孫 策(そん さく)は、中国後漢末期の武将。字は伯符(はくふ)。揚州呉郡富春県現在の浙江省杭州市富陽区。 の人。 若くして父の孫堅を亡くし、19歳のとき、袁術の将軍となった。袁術軍に組み込まれていた孫堅の兵1000人余りをまとめて軍を編成し、劉繇を倒して勢力を拡大。その後、袁術の元から独立し大きく躍進するが、建安5年(200年)に刺客に襲撃された際に負った傷が原因で26歳で死亡。後継を孫権に定めた。後に孫権によって長沙王に封じられ、桓と諡された。

見る 全琮と孫策

孫綝

孫 綝(そん ちん/そん りん、232年 - 259年)は、中国三国時代の呉の武将・政治家。字は子通。『三国志』呉志に伝がある。 呉の皇族である孫氏の一族。曾祖父は孫静。祖父は孫暠。父は孫綽。叔父は孫超・孫恭。従兄は孫峻・孫憲。弟は孫拠・孫恩・孫幹・孫闓。従姉は全尚の妻。

見る 全琮と孫綝

孫登

孫 登(そん とう)は、中国三国時代の呉の皇太子。字は子高。父は孫権。妻は周妃・芮妃(芮玄の娘)。弟は孫慮・孫和など多数。子は孫璠・孫英・孫希。諡は宣太子。

見る 全琮と孫登

孫覇

孫 覇(そん は)は、中国三国時代の人物。呉の初代皇帝である孫権の庶子。字は子威。揚州呉郡富春県の人。母は謝姫。妻は劉基の娘。子は孫基・孫壱。 兄で皇太子の孫和との間に二宮事件と呼ばれる後継者争いを起こした末、孫権より自害を命じられた。

見る 全琮と孫覇

孫魯班

孫 魯班(そん ろはん、生没年不詳)は、三国時代の呉の公主・長公主。字は大虎。父は孫権。母は歩皇后。同母妹は孫魯育。異母弟に孫和・孫覇・孫亮など多数。夫は周循、後に全琮。子は全懌・全呉。大公主と呼ばれる。

見る 全琮と孫魯班

孫権

孫 権(そん けん)は、三国時代の武将、呉の初代皇帝。字は仲謀(ちゅうぼう)。

見る 全琮と孫権

字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。昔、中国で成人男子と女子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれを用いた。

見る 全琮と字

寿県

寿県(じゅ-けん)は、中華人民共和国安徽省淮南市に位置する県。 安徽省の中央部、淮河の南岸に位置しており、国家歴史文化名城に指定される古い街である。旧称は郢(えい、Yǐng)、寿春(じゅしゅん、壽春、Shòu Chūn)といい、南北交通の要衝であり、古くから兵家必争の地であった。楚の首都であり淝水の戦いの古戦場ともなっている。

見る 全琮と寿県

富陽区

富陽区(ふよう-く)は中華人民共和国浙江省杭州市に位置する市轄区。

見る 全琮と富陽区

尚書省

尚書省(しょうしょしょう)は、中国で後漢から元代まで存在した省。唐の三省六部体制の元で中書省・門下省の取り決めた事を六部に伝える役割を果たした。

見る 全琮と尚書省

小南一郎

小南 一郎(こみなみ いちろう、1942年3月13日 - )は、日本の中国文学者。専門は中国史。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・2001年)(学位論文「楚辞とその注釈者たち」)。京都大学名誉教授。泉屋博古館名誉館長。

見る 全琮と小南一郎

尹礼

尹 礼(いん れい、生没年不詳)は、中国後漢末期の武将。出身地は不明だが、臧覇・孫観らと初期から行動を共にしているため、兗州泰山郡の人である可能性が高い。『三国志』魏書臧覇伝の注に引く『魏略』によれば、「盧児」という別名も有していたという。

見る 全琮と尹礼

山越

山越(さんえつ)とは、古代中国の異民族、不服従民である。揚州丹陽郡周辺を本拠とし、同地を領有した孫策・孫権、及び彼らの興した呉に対してしばしば反乱を起こした。

見る 全琮と山越

中原

中原 冬の華北平原 中原(ちゅうげん)は中華文化の発祥地である黄河中下流域にある平原のこと。狭義では春秋戦国時代に周の王都があった現在の河南省一帯を指していたが、後に漢民族の勢力拡大によって広く黄河中下流域を指すようになり、河南省を中心として山東省の西部から、河北省・山西省の南部、陝西省の東部にわたる華北平原を指すようにもなった。 古代でいわゆる「中国」や「中州」、「中土」と同義で、異民族から隔てられる文明の中心地という意味があった。その後、南方へと発展していった漢族にとって中原は民族の発祥の地とされてきた。また、周王のいたこの地域は権力の象徴とみられることがあり、即ち覇権争いの場、または覇権そのものを指す言葉として用いられ、魏徴の詩から「中原に鹿を逐う」という成語が生まれた。

見る 全琮と中原

中国

中国(ちゅうごく、中國)は、ユーラシア大陸(アジア大陸)の東部を占める地域、及びそこで成立した国家をさす用語。日本では、1972年の日中国交正常化以降、中華人民共和国の略称としても使用されている。 中国統一問題を参照)。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。

見る 全琮と中国

中郎将

中郎将(ちゅうろうしょう)は、中国の前漢以降の官職名。

見る 全琮と中郎将

丹陽郡 (江蘇省)

丹陽郡(たんよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。丹楊郡とも書かれる。漢代から唐代にかけて、現在の江蘇省の長江以南に設置された。

見る 全琮と丹陽郡 (江蘇省)

三国志 (歴史書)

『三国志』(さんごくし)は、中国三国時代について書かれた歴史書。著者は陳寿。後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う。二十四史の一つ。

見る 全琮と三国志 (歴史書)

三国時代 (中国)

三国の勢力圏とその地方行政区分の変遷 三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の勃発(184年)から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡(220年)あるいは三国が分立した229年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。当項目では広義の三国時代について記載する。(後漢末) 215年に曹操(華北地域)、劉備(巴蜀・荊州地域)、孫権(江南地域)によって後の三国のそれぞれの勢力範囲が概ね確立した。220年に曹操の子の曹丕が漢の献帝から禅譲を受けて'''魏'''を建国し、221年に劉備が漢(蜀漢)、229年に孫権が'''呉'''の皇帝としてそれぞれ即位し、三国が正式に鼎立した。

見る 全琮と三国時代 (中国)

九江郡

九江郡(きゅうこう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代に現在の安徽省中部に設置されたが、三国時代に廃止され、隋代に現在の江西省北部に再設置された。

見る 全琮と九江郡

交州

交州(こうしゅう)は、中国の漢から唐にかけて置かれた行政区域。現在のベトナム北部および中華人民共和国・広西チワン族自治区の一部などが含まれる。名称は前漢の武帝が置いた十三刺史部の一つ、交趾に由来する。

見る 全琮と交州

二宮事件

二宮事件(にきゅうじけん)、二宮の変(にきゅうのへん)、または南魯党争(なんろとうそう)は、三国時代の呉における約10年間に及ぶ政治闘争の総称。孫和と孫覇の太子廃立争いであるが、その裏に江南の貴族社会的性質を見出す向きもある。両者の父親であり、呉の皇帝であった孫権が問題の解決を先延ばしにしていたことがこの事件の一般的な原因とされる。

見る 全琮と二宮事件

井波律子

井波 律子(いなみ りつこ、1944年2月11日 - 2020年5月13日)は、日本の中国文学者。『三国志』、『三国志演義』の著述・翻訳などで知られる。国際日本文化研究センター名誉教授。

見る 全琮と井波律子

今鷹真

今鷹 真(今鷹 眞、いまたか まこと、1934年2月28日 - )は、日本の中国文学者。名古屋大学名誉教授。

見る 全琮と今鷹真

建安 (漢)

建安(けんあん)は、後漢の献帝(劉協)の治世に行われた3番目(永漢を除く)の元号。196年 - 220年。

見る 全琮と建安 (漢)

建康実録

『建康実録』(けんこうじつろく)は、中国魏晋南北朝時代に建康に都した6つの王朝(いわゆる「六朝」)の歴史について記述した地方志。書名は六朝の都の名前が建康であったことによる。作者は唐代(『四庫全書総目提要』によれば粛宗時期)の。許嵩については伝が残っていないため、詳しい事績や本書の成立の経緯は不明である。

見る 全琮と建康実録

会稽郡

会稽郡(かいけい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて設置された。 揚州東部の長江下流域に設置され、六朝時代には政治、文化(六朝文化)の中心地として発展した。その領域は時代によって変遷があるが、現在の中華人民共和国浙江省紹興市付近がその中心である。

見る 全琮と会稽郡

張休

張 休(ちょう きゅう)は、中国三国時代の呉の人物。字は叔嗣。徐州彭城国の人。父は張昭。兄は張承。

見る 全琮と張休

張昭

張 昭(ちょう しょう)は、中国後漢末期から三国時代の呉にかけての政治家・武将。字は子布。諡は文侯。徐州彭城国の人。妻は孫氏。子は張承・張休・他一名。

見る 全琮と張昭

徐州

徐州(じょしゅう)は、中国の行政区分の一つ。

見る 全琮と徐州

徐盛

徐 盛(じょ せい)は、中国後漢末期から三国時代にかけての武将。呉に仕えた。字は文嚮。徐州琅邪郡莒県の人。子は徐楷。

見る 全琮と徐盛

後漢

後漢(ごかん、後漢、、25年 - 220年)は、中国の古代王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢(東漢、)と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。

見る 全琮と後漢

嘉禾

嘉禾(かか)は、呉の大帝孫権の治世に行われた元号。232年 - 238年。

見る 全琮と嘉禾

周瑜

周 瑜(しゅう ゆ、)は、中国後漢末期の武将。字は。渾名は周郎。揚州廬江郡舒県(現在の安徽省六安市舒城県)の人。高祖父は周栄。従祖父は周景。従父は周忠。父は周異。子は周循・周胤・周妃。妻は小喬。二世三公(周景・周忠が太尉)の出自(50ページ)。

見る 全琮と周瑜

周魴

周 魴(しゅう ほう)は、三国時代の武将・政治家。呉に仕えた。字は子魚。呉郡陽羡県(現在の江蘇省無錫市宜興市)の人。 周賓の子で、京劇の演目の一つ「除三害」の主人公として有名な周処らの父。周玘・周札の祖父。周勰(周玘の子)の曾祖父。

見る 全琮と周魴

周胤

周 胤(しゅう いん、? - 239年)は、中国後漢末期から三国時代の人物。周瑜の次男。廬江郡舒県の人。兄に周循、妹に周妃。『三国志』呉志に記録がある。

見る 全琮と周胤

呂岱

呂 岱(りょ たい、161年 - 256年)は、中国三国時代の呉の武将。字は定公。子は呂凱。徐州広陵郡海陵県の人。

見る 全琮と呂岱

呂蒙

呂 蒙(りょ もう)は、中国後漢末期の武将。孫策・孫権に仕えた。字は子明(しめい)。豫州汝南郡富陂県(現在の安徽省阜陽市阜南県)の人 - 呂蒙字子明,汝南富陂人也。少南渡,依姊夫鄧當。當為孫策將,數討山越。。『三国志』呉志に伝がある。

見る 全琮と呂蒙

呉 (三国)

呉(ご、、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江以南の揚州・荊州・交州に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉(そんご)、東呉(とうご)とも呼ばれる。 222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父の孫堅・兄の孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。

見る 全琮と呉 (三国)

呉郡

呉郡(ご-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢から唐代にかけて、現在の江蘇省と浙江省にまたがる地域に設置された。

見る 全琮と呉郡

呉書

呉書(ごしょ)。

見る 全琮と呉書

全寄

全 寄(ぜん き、? - 250年)は、中国三国時代の呉にかけての政治家。全奇ともいう。揚州呉郡銭唐県の人。父は全琮。兄は全緒。弟は全懌・全呉。甥は全禕・全静・全儀。従兄は全端。

見る 全琮と全寄

全尚

全 尚(ぜん しょう、? - 258年?)は、中国三国時代の政治家。呉に仕えた。揚州呉郡銭塘県の人。字は子真。族父は全琮。子は全紀・全皇后(孫亮の皇后)。妻は孫峻の姉。『三国志』呉志に娘の伝がある。

見る 全琮と全尚

全儀

全 儀(ぜん ぎ、生没年不詳)は、中国三国時代の呉にかけての政治家・武将。揚州呉郡銭唐県の人。祖父は全琮。父は全緒。兄は全禕・全静。叔父は全奇・全懌・全呉。従父は全端・全翩・全緝・全尚。従兄弟は全紀・全皇后。一族に全煕。

見る 全琮と全儀

全皇后 (孫亮)

全皇后(ぜんこうごう)は、三国時代の呉の廃帝孫亮の皇后。名は不明(諸説ある)。揚州呉郡銭唐県(現在の浙江省杭州市)の人。父は全尚。生母は孫恭(孫暠の三男)の娘(孫峻の姉)。兄弟は全紀。

見る 全琮と全皇后 (孫亮)

全琮

全 琮(ぜん そう、198年? - 249年?)は、中国後漢時代末期から、三国時代の呉にかけての武将・政治家。字は子璜。揚州呉郡銭唐県の人。父は全柔。妻は孫権の娘の孫魯班(全公主)。子は全緒・全奇・全懌・全呉。孫は全禕・全静・全儀。従子は全端・全翩・全緝。族子は全尚。族孫は全紀・全皇后。一族に全煕。『三国志』呉志に伝がある。

見る 全琮と全琮

全禕

全 禕(ぜん い、生没年不詳)は、中国三国時代の呉にかけての政治家・武将。別名は全輝。揚州呉郡銭唐県の人。祖父は全琮。父は全緒。弟は全静・全儀。叔父は全奇・全懌・全呉。従父は全端・全翩・全緝・全尚。従兄弟は全紀・全皇后。一族に全煕。

見る 全琮と全禕

全端

全 端(ぜん たん、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。呉に仕えた。揚州呉郡銭唐県の人。父の名は不詳。叔父は全琮。従兄弟は全緒・全奇・全懌・全呉。従子は全禕・全静・全儀。

見る 全琮と全端

全紀

全 紀(ぜん き、? - 258年)は、中国三国時代の呉の政治家。揚州呉郡銭唐県の人。全琮の一族。父は全尚。母は孫峻の姉。姉妹は全皇后。

見る 全琮と全紀

全緒

全 緒(ぜん しょ、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。揚州呉郡銭唐県の人。父は全琮。子は全禕・全静・全儀。弟は全奇・全懌・全呉。従兄弟は全端ら。

見る 全琮と全緒

全煕

全 煕(ぜん き、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。揚州呉郡銭唐県の人。全琮の一族。

見る 全琮と全煕

全静

全 静(ぜん せい、生没年不詳)は、中国三国時代の呉にかけての政治家・武将。揚州呉郡銭唐県の人。祖父は全琮。父は全緒。兄は全禕。弟は全儀。

見る 全琮と全静

全柔

全 柔(ぜん じゅう、生没年不詳)は、中国後漢末期の政治家。本貫は揚州呉郡銭唐県。呉の名将として知られる全琮の父。

見る 全琮と全柔

全懌

全 懌(ぜん えき、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。呉から魏へと降伏した。揚州呉郡銭唐県の人。父は呉の名将として活躍した全琮。母は孫魯班。兄弟は全緒・全奇・全呉。

見る 全琮と全懌

石亭の戦い

石亭の戦い(せきていのたたかい)は、228年8月に中国揚州の石亭(現在の安徽省六安市舒城県)で呉と魏の間に起こった戦い。

見る 全琮と石亭の戦い

王淩

王 淩(おう りょう)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将・政治家。字は彦雲。并州太原郡祁県(現在の山西省晋中市祁県)の人。 皇帝曹芳の廃位及び楚王曹彪の擁立を画策するが、事が露見し自殺を遂げた(王淩の乱)。

見る 全琮と王淩

芍陂の役

芍陂の役(しゃくひのえき)は、中国三国時代の241年(魏の正始2年、呉の赤烏4年)に、魏と呉の間で行われた戦い。呉帝孫権は、四路から魏を攻めたが、芍陂が主要な戦場であったことから芍陂の役と呼ばれている。実態としては揚州方面と荊州方面の二正面攻撃であり、戦場は広範囲に渡った。

見る 全琮と芍陂の役

隠蕃

隠 蕃(いん ばん、209年? - 231年)は、中国後漢末期から三国時代の魏・呉の政治家。青州の人。

見る 全琮と隠蕃

銭唐県

銭唐県(せんとう-けん)は中華人民共和国浙江省杭州市にかつて存在した県。後に設置された銭塘県とは別の行政区画である。

見る 全琮と銭唐県

荊州

荊州(けいしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。現在の湖北省一帯に設置された。

見る 全琮と荊州

顧譚

顧 譚(こ たん、205年 - 246年)は、中国三国時代の武将、政治家。呉に仕えた。字は子黙。祖父は顧雍。父は顧邵。弟は顧承。生母は陸氏(陸遜・陸瑁の姉妹)。『三国志』呉志「顧雍伝」などに記述がある。

見る 全琮と顧譚

顧邵

顧 邵(こ しょう、184年 - 214年)は、中国後漢末期の政治家。字は孝則。父は呉の丞相となった顧雍。母は陸康の娘。弟は顧裕(顧穆)・顧済。子は顧譚・顧承。正室は陸氏(陸遜・陸瑁の姉妹)。継室は孫策の娘。

見る 全琮と顧邵

顧承

顧 承(こ しょう、生没年不詳)は、三国時代の呉の武将。字は子直。顧邵の子。生母は陸氏(陸遜・陸瑁の姉妹)。兄に顧譚がいる。妻は張温の妹。

見る 全琮と顧承

衛将軍

衛将軍(えいしょうぐん)は、中国の前漢以降の官職である。軍を率いる将軍位の一つ。 前漢の文帝元年(紀元前179年)に、文帝が即位前から信頼していた宋昌を衛将軍に任命したのが初見である。その後、匈奴の侵入に対して出動した中尉の周舎など、既に軍の官職につく者に対し付加的な称号として与えられた。 『史記』は大将軍の衛青につき「衛将軍」の名で列伝を立てたが、官職の衛将軍とは別である。 『続漢書』百官志によれば、常に置かれるわけではなく、反乱の征伐を掌り兵を指揮する。将軍位としては大将軍、驃騎将軍、車騎将軍に次ぐ。 属官には長史、司馬(各秩禄比千石)、従事中郎(秩禄比六百石)がいる。兵を領する場合、部・曲が置かれる。部には校尉(秩禄比二千石)、軍司馬(秩禄比千石)が置かれる。部の下に曲があり、軍候(秩禄比六百石)が置かれる。曲の下には屯があり、屯長(秩禄比二百石)が置かれる。

見る 全琮と衛将軍

衛温

衛 温(えい おん、? - 231年)は、中国三国時代の呉の将軍。

見る 全琮と衛温

裴松之

裴 松之(はい しょうし、372年 - 451年)は、中国の東晋末・南朝宋初の政治家・歴史家。字は世期。本貫は河東郡聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)。祖父は裴昧。父は裴珪。陳寿の『三国志』の「注」を付した人物として知られる。自身の伝は『宋書』・『南史』二史にある。また、魏に仕えた裴潜の弟の裴徽の六世の孫にあたるという。子の裴駰は『史記集解』の撰者である。曾孫(裴駰の孫)には裴子野がいる。

見る 全琮と裴松之

諸葛瑾

諸葛 瑾(しょかつ きん)は、中国後漢末期から三国時代の呉の武将・政治家。字は子瑜。徐州琅邪郡陽都県(現在の山東省臨沂市沂南県)の出身。諸葛亮の兄に当たる。子は諸葛恪・諸葛喬・諸葛融・張承妻。

見る 全琮と諸葛瑾

諸葛直

諸葛 直(しょかつ ちょく、? - 231年)は、中国三国時代の呉の将軍。

見る 全琮と諸葛直

諸葛誕

諸葛 誕(しょかつ たん)は、中国三国時代の魏の武将・政治家。字は公休。徐州琅邪郡陽都県の出身。子は王広妻・司馬伷妻(諸葛太妃)・諸葛靚。 司馬氏が専横する時代にあり、親交のあった夏侯玄、揚州都督の前任者だった王淩・毌丘倹らが次々と滅ぼされたことに不安を抱いて反乱を起こすが、自身も敗死を遂げた。

見る 全琮と諸葛誕

車騎将軍

車騎将軍(しゃきしょうぐん)は、中国の前漢以降の官職で、軍を率いる将軍位の一つである。

見る 全琮と車騎将軍

黄龍 (呉)

黄龍(こうりゅう)は、呉の大帝孫権の治世に行われた元号。229年 - 231年。

見る 全琮と黄龍 (呉)

黄武

黄武(こうぶ)は、呉の王孫権の治世に行われた元号。222年 - 229年。 黄武8年は4月に改元されて黄龍元年となった。 『建康実録』と走馬楼呉簡によると、呉は延康や魏の元号である黄初の正統性を認めず、建安が27年まで使われた。黄初と同じ「土徳」の王朝に基づいて制定された。

見る 全琮と黄武

龐統

龐 統(ほう とう、179年 - 214年)は、中国後漢末期の武将・政治家。孫権・劉備に仕えた。字は。道号は鳳雛。諡は靖侯。荊州南郡襄陽県の出身。「」「」と呼ばれた諸葛亮に対して、「」と称せられた。弟は龐林。子は龐宏。従父は龐徳公。族兄は龐山民(妻は諸葛亮の姉)ら。

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霊帝 (漢)

霊帝(れいてい)は、中国後漢の第12代皇帝。章帝の玄孫に当たる。河間王劉開の曾孫。解瀆亭侯(元皇)の孫。解瀆亭侯劉萇(仁皇)の子。

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蜀漢

蜀漢(しょくかん/しょっかん、221年 - 263年)は、中国の三国時代に劉備『三国志』蜀志「先主伝」では中山靖王劉勝、『典略』では斉武王劉縯の後裔とするなどの諸説がある。が巴蜀の地(益州、現在の四川省・湖北省一帯および雲南省の一部)に建てた国。 歴史上、蜀の地に割拠した王朝は多数あるが、王朝を指して「蜀」と言った場合、多くは蜀漢を指す。

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胡綜

胡 綜(こ そう)は、中国三国時代の呉の政治家・武将。字は偉則。豫州汝南郡固始県の人。子は胡沖。

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都尉

都尉(とい)は、中国の秦・漢の官職名。郡の軍事を掌る。 前漢においては、元は郡尉と呼ばれていたが、景帝中元2年(紀元前148年)に郡守を郡太守と改称し、郡尉は郡都尉と改称した。都尉は太守を補佐し、郡内の武職や兵卒を掌った。官秩は比二千石であった。役所は太守とは別の場所に置かれた。通常は郡に一名だが、辺境などでは一郡に複数の都尉が置かれることもあり、その場合には「西部都尉」「中部都尉」などと呼ばれる。副官に丞(官秩比六百石)がいた。 後漢の光武帝の建武6年(30年)、辺境を除いて都尉は廃止され、太守が職務を兼任し、必要に応じ臨時に置かれることがあるだけとなった。蜀漢においても辺境には郡都尉の配置は続いた。

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都督

都督(ととく)は、中国の官職または称号。三国時代に現れ、軍政を統轄した。また4世紀 - 6世紀には、中国と外交関係を持つ近隣諸国・諸民族の君主・臣下に授与される称号の一部としても用いられた。

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赤烏

赤烏(せきう)は、呉の大帝孫権の治世に行われた元号。238年 - 251年。 及び中国の伝説に登場する「太陽の中にいる三本足の烏」と言う意味で、日本では八咫烏に相当する。日本書紀にも登場し、持統6年の秋7月に「與獲赤烏者鹿嶋臣櫲樟」と、捕らえたことが記されている。 日本では、兵庫県宝塚市の安倉高塚古墳や山梨県市川三郷町の鳥居原狐塚古墳から赤烏の元号を持つ神獣鏡が発見されている。

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関羽

関 羽(かん う、? - 建安24年12月初旬(220年1月))は、中国後漢末期の武将。字は雲長(うんちょう)。もとの字は長生。司隷河東郡解県(現在の山西省運城市塩湖区解州鎮常平村)の人。子は関平・関興。孫は関統・関彝。 蜀漢の創始者である劉備への忠義を貫き、その人並み外れた武勇や義理を重んじた彼は曹操など同時代の多くの人から称賛された。後漢から贈られた封号は漢寿亭侯。諡が壮繆侯(または壮穆侯)だが、諡号は歴代王朝から多数贈られた(爵諡を参照)。死後、後世の人々に神格化され関帝(関聖帝君・関帝聖君)となった。 小説『三国志演義』では、「雲長、関雲長あるいは関公、関某と呼ばれ、一貫して諱を名指しされていない」、「大活躍する場面が壮麗に描かれている」など、前述の関帝信仰に起因すると思われる特別扱いを受けている。

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董卓

董 卓(とう たく)は、中国後漢末期の武将・政治家。字は仲穎(ちゅうえい)。涼州隴西郡臨洮県の人。 辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝弁を廃して献帝を擁立した。一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた呂布に殺された。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。

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鄂城区

鄂城区(がくじょう-く)は中華人民共和国湖北省鄂州市に位置する市轄区。

見る 全琮と鄂城区

臧覇

臧 覇(ぞう は、生没年不詳)は、中国後漢時代末期から三国時代にかけての武将・政治家。字は宣高。兗州泰山郡華県(現在の山東省臨沂市費県)の人。父は臧戒。子は臧艾・臧舜・他2名。『三国志』魏志「二李臧文呂許典二龐閻伝」に伝がある。別名は「奴寇」。(『魏略』)。

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金日磾

金 日磾(きん じつてい/じちてい、、紀元前134年 - 紀元前86年9月29日)は、前漢の政治家・軍人。字は翁叔。匈奴のの太子である。漢の武帝により金姓を授けられた。秺侯。

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陳寿

陳 寿(ちん じゅ、建興11年〈233年〉? - 元康7年〈297年〉?)は、中国の三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者として知られる。甥は陳符・陳蒞・陳階。

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陸績

陸 績(りく せき、188年 - 219年)は、中国後漢末期の政治家・学者・武将。字は公紀(こうき)。本貫は揚州呉郡呉県(現在の江蘇省蘇州市呉中区)。陸褒の孫。陸康の子。陸儁の弟。陸遜・陸尚(徐夫人の前夫)の年下の従父。呉の名門である呉郡陸氏の一人。

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陸遜

陸 遜(りく そん)は、中国の後漢・三国時代の武将・政治家。もとの名は議。字は伯言(はくげん)。諡は昭侯(しょうこう)。陸続の玄孫。陸褒の曾孫。城門校尉陸紆の孫。九江郡都尉陸駿の子。弟に陸瑁。姉妹に顧邵妻・姚信母。子に陸延・陸抗。孫に陸機・陸雲など。 後漢末期より、山越討伐で頭角を現し、孫権に才能を買われ、仕えた。関羽討伐や夷陵の戦いにおいてその名をあげ、軍政両務における呉の重臣として重用されたが、晩年は二宮事件に巻き込まれ、孫権と対立した。

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揚州 (古代)

揚州(ようしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。

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校尉

校尉(こうい)は、前漢以降の中国と、律令制下の日本に置かれたことがある武官の官職である。

見る 全琮と校尉

桂陽郡

桂陽郡(けいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の湖南省南部・広東省北部・広西チワン族自治区北東部にまたがる地域に設置された。

見る 全琮と桂陽郡

樊城の戦い

樊城の戦い(はんじょうのたたかい)は、後漢時代の建安24年(219年)に起こった劉備軍の関羽と曹操軍(曹仁・于禁・徐晃)並びに孫権軍(呂蒙・陸遜)の合戦である。

見る 全琮と樊城の戦い

樊城区

樊城区(はんじょう-く)は中華人民共和国湖北省襄陽市に位置する市轄区。

見る 全琮と樊城区

歩騭

歩 騭(ほ しつ)は、中国三国時代の呉の武将・政治家。字は子山。徐州臨淮郡淮陰県の人。子は歩協・歩闡。孫は歩璣・歩璿。同族に歩練師(孫魯班・孫魯育の母)。

見る 全琮と歩騭

江表伝

『江表伝』(こうひょうでん)は、西晋の虞溥が編纂した呉の歴史書である。『旧唐書』「経籍志」に「江表伝五巻、虞溥撰」とある。早く散逸したため、清の王仁俊が輯本(ただし1条を載せるのみ)を編し『玉函山房輯佚書補編』に収載されている。

見る 全琮と江表伝

汝南郡

汝南郡(じょなん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の河南省東南部および安徽省阜陽市一帯に設置された。

見る 全琮と汝南郡

洞浦の戦い

洞口の戦い(どうこうのたたかい)は、中国三国時代に、曹丕と孫権の間で行われた戦い。

見る 全琮と洞浦の戦い

朱然

朱 然(しゅ ぜん)は、中国後漢末期から三国時代の武将。呉に仕えた。字は義封。揚州丹陽郡故鄣県の人。朱治の姉の子で養子。朱績(施績)の父。孫娘は施淑女。『三国志』呉志に伝がある。韓愈の著した『施先生墓銘』によれば、祖父は後漢の大尉であった施延とされる。

見る 全琮と朱然

朱桓

朱 桓(しゅ かん)は、中国後漢末から三国時代にかけての武将。呉に仕えた。字は休穆。揚州呉郡呉県の人。朱異の父。従弟は朱拠。

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曹仁

曹 仁(そう じん、建寧元年(168年) - 黄初4年3月19日(223年5月6日))は、中国後漢末期から三国時代の武将。字は子孝(しこう)。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の人。祖父は曹褒、父は曹熾、侍中・長水校尉)。 従兄は曹操。弟は曹純。子は曹泰・曹楷・曹範ら。孫は曹初(曹泰の子)。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。 騎兵を指揮して各地を転戦し、後には防衛司令官となり、晩年は大将軍・大司馬にまで昇った。

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曹休

曹 休(そう きゅう)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将。字は文烈。曹操の族子。祖父は曹鼎(呉郡太守)。父の名は不明。子は曹肇・曹纂ら。孫は曹興(曹肇の子)。曾孫は曹攄(曹興の子)・曹識(曹纂の孫)。玄孫には曹毗(曹識の子)らがいる。一族に曹真。『三国志』魏志「諸夏侯曹伝」に伝がある。

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曹操

曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の軍人・政治家・詩人で、実質的な魏の創始者。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、または吉利。豫州沛国譙県(現:安徽省亳州市譙城区)の出身。廟号は太祖、諡号は武皇帝。

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全ソウ 別名。

呉郡呉書全寄全尚全儀全皇后 (孫亮)全琮全禕全端全紀全緒全煕全静全柔全懌石亭の戦い王淩芍陂の役隠蕃銭唐県荊州顧譚顧邵顧承衛将軍衛温裴松之諸葛瑾諸葛直諸葛誕車騎将軍黄龍 (呉)黄武龐統霊帝 (漢)蜀漢胡綜都尉都督赤烏関羽董卓鄂城区臧覇金日磾陳寿陸績陸遜揚州 (古代)校尉桂陽郡樊城の戦い樊城区歩騭江表伝汝南郡洞浦の戦い朱然朱桓曹仁曹休曹操