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全端

索引 全端

全 端(ぜん たん、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。呉に仕えた。揚州呉郡銭唐県の人。父の名は不詳。叔父は全琮。従兄弟は全緒・全奇・全懌・全呉。従子は全禕・全静・全儀。

目次

  1. 55 関係: ちくま学芸文庫司馬昭太平 (呉)外戚姚信孫亮孫和孫綝孫覇孫権寿県小南一郎丁奉中国三国志 (歴史書)三国志演義三国時代 (中国)交州井波律子今鷹真建興 (呉)張休張昭呂拠呉 (三国)呉郡唐咨全寄全儀全琮全禕全緒全静全懌王基王淩留略留賛芍陂の役銭唐県鍾会顧譚顧雍顧承裴松之諸葛誕諸葛恪魏 (三国)胡遵赤烏... インデックスを展開 (5 もっと) »

ちくま学芸文庫

ちくま学芸文庫(ちくまがくげいぶんこ)は、筑摩書房による学術部門の文庫判レーベルである。

見る 全端とちくま学芸文庫

司馬昭

司馬 昭(しば しょう)は、中国三国時代の魏の武将・政治家。字は子上。司隸河内郡温県孝敬里の人。司馬懿の次男。母は張春華。息子は西晋の武帝司馬炎など9人。蜀を滅ぼした功績で晋王・相国に封ぜられ、晋代に文帝の諡号と太祖の廟号を追贈された。

見る 全端と司馬昭

太平 (呉)

太平(たいへい)は、呉の廃帝会稽王孫亮の治世に行われた元号。256年 - 258年。

見る 全端と太平 (呉)

外戚

外戚(がいせき)は、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。

見る 全端と外戚

姚信

姚 信(よう しん、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の官僚。字は元直(元道または徳佑という説もある)。揚州呉郡永安県の人。父は姚敷。母は陸遜の姉妹。

見る 全端と姚信

孫亮

孫 亮(そん りょう)は、三国時代の呉の第2代皇帝。廃立後は会稽王・侯官侯。初代皇帝孫権(大帝)の子(七男)。第3代皇帝孫休の異母弟。母は皇后の潘淑。皇后は全尚の娘の全氏。少帝と呼ばれることがある。

見る 全端と孫亮

孫和

孫 和(そん か/そん わ、224年 - 253年)は、中国三国時代の呉の皇族。字は子孝。父は孫権。母は王夫人(大懿皇后)。異母兄は孫登。異母姉は孫魯班(全公主)。異母弟は孫覇・孫休・孫亮。妻は張妃・何姫・他一人(孫謙の母)。子は孫晧・孫徳・孫謙・孫俊。娘は陸景の妻。『三国志』呉志 呉主五子伝 に記録がある。

見る 全端と孫和

孫綝

孫 綝(そん ちん/そん りん、232年 - 259年)は、中国三国時代の呉の武将・政治家。字は子通。『三国志』呉志に伝がある。 呉の皇族である孫氏の一族。曾祖父は孫静。祖父は孫暠。父は孫綽。叔父は孫超・孫恭。従兄は孫峻・孫憲。弟は孫拠・孫恩・孫幹・孫闓。従姉は全尚の妻。

見る 全端と孫綝

孫覇

孫 覇(そん は)は、中国三国時代の人物。呉の初代皇帝である孫権の庶子。字は子威。揚州呉郡富春県の人。母は謝姫。妻は劉基の娘。子は孫基・孫壱。 兄で皇太子の孫和との間に二宮事件と呼ばれる後継者争いを起こした末、孫権より自害を命じられた。

見る 全端と孫覇

孫権

孫 権(そん けん)は、三国時代の武将、呉の初代皇帝。字は仲謀(ちゅうぼう)。

見る 全端と孫権

寿県

寿県(じゅ-けん)は、中華人民共和国安徽省淮南市に位置する県。 安徽省の中央部、淮河の南岸に位置しており、国家歴史文化名城に指定される古い街である。旧称は郢(えい、Yǐng)、寿春(じゅしゅん、壽春、Shòu Chūn)といい、南北交通の要衝であり、古くから兵家必争の地であった。楚の首都であり淝水の戦いの古戦場ともなっている。

見る 全端と寿県

小南一郎

小南 一郎(こみなみ いちろう、1942年3月13日 - )は、日本の中国文学者。専門は中国史。学位は、文学博士(京都大学・論文博士・2001年)(学位論文「楚辞とその注釈者たち」)。京都大学名誉教授。泉屋博古館名誉館長。

見る 全端と小南一郎

丁奉

丁 奉(てい ほう)は、中国三国時代の武将。揚州廬江郡安豊県の人。字は承淵。弟は丁封。子は丁温。『三国志』呉志に伝がある。

見る 全端と丁奉

中国

中国(ちゅうごく、中國)は、ユーラシア大陸(アジア大陸)の東部を占める地域、及びそこで成立した国家をさす用語。日本では、1972年の日中国交正常化以降、中華人民共和国の略称としても使用されている。 中国統一問題を参照)。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。

見る 全端と中国

三国志 (歴史書)

『三国志』(さんごくし)は、中国三国時代について書かれた歴史書。著者は陳寿。後漢の混乱期から西晋による中国統一までを扱う。二十四史の一つ。

見る 全端と三国志 (歴史書)

三国志演義

劉備・関羽・張飛(桃園の誓い) 『三国志演義』(さんごくしえんぎ、)は、中国の明代に書かれた長編白話小説である。後漢末と蜀・魏・呉による三国時代を舞台とする時代小説・通俗歴史小説で、四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。 著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。

見る 全端と三国志演義

三国時代 (中国)

三国の勢力圏とその地方行政区分の変遷 三国時代(さんごくじだい)は、中国の時代区分の一つ。広義では黄巾の乱の勃発(184年)から西晋による中国再統一(280年)までを指し、狭義では後漢滅亡(220年)あるいは三国が分立した229年から蜀漢が滅亡した263年までを指す。当項目では広義の三国時代について記載する。(後漢末) 215年に曹操(華北地域)、劉備(巴蜀・荊州地域)、孫権(江南地域)によって後の三国のそれぞれの勢力範囲が概ね確立した。220年に曹操の子の曹丕が漢の献帝から禅譲を受けて'''魏'''を建国し、221年に劉備が漢(蜀漢)、229年に孫権が'''呉'''の皇帝としてそれぞれ即位し、三国が正式に鼎立した。

見る 全端と三国時代 (中国)

交州

交州(こうしゅう)は、中国の漢から唐にかけて置かれた行政区域。現在のベトナム北部および中華人民共和国・広西チワン族自治区の一部などが含まれる。名称は前漢の武帝が置いた十三刺史部の一つ、交趾に由来する。

見る 全端と交州

井波律子

井波 律子(いなみ りつこ、1944年2月11日 - 2020年5月13日)は、日本の中国文学者。『三国志』、『三国志演義』の著述・翻訳などで知られる。国際日本文化研究センター名誉教授。

見る 全端と井波律子

今鷹真

今鷹 真(今鷹 眞、いまたか まこと、1934年2月28日 - )は、日本の中国文学者。名古屋大学名誉教授。

見る 全端と今鷹真

建興 (呉)

建興(けんこう)は、呉の廃帝会稽王孫亮の治世に行われた元号。252年 - 253年。

見る 全端と建興 (呉)

張休

張 休(ちょう きゅう)は、中国三国時代の呉の人物。字は叔嗣。徐州彭城国の人。父は張昭。兄は張承。

見る 全端と張休

張昭

張 昭(ちょう しょう)は、中国後漢末期から三国時代の呉にかけての政治家・武将。字は子布。諡は文侯。徐州彭城国の人。妻は孫氏。子は張承・張休・他一名。

見る 全端と張昭

呂拠

呂 拠(りょ きょ、? - 太平元年10月8日(256年11月12日))は、中国三国時代の呉の武将・政治家。字は世議。呂範の次男。妻は孫奐の娘で孫壱の妹。『三国志』では呉志「呂範伝」に付伝されている。

見る 全端と呂拠

呉 (三国)

呉(ご、、222年 - 280年)は、中国の三国時代に孫権が長江以南の揚州・荊州・交州に建てた王朝。姓は孫(そん)氏で、首都は建業(現在の南京付近)。孫呉(そんご)、東呉(とうご)とも呼ばれる。 222年というのは、それまで魏に対して称臣していた孫権が黄武と言う新しい元号を使い始め、魏からの独立を宣言した年である。正式には呉の建国としては孫権が皇帝に即位した229年を採る場合もある。しかし孫権が勢力を張ったのは父の孫堅・兄の孫策が築いたものを受け継いでのことであり、この項では孫堅の代から説明する。

見る 全端と呉 (三国)

呉郡

呉郡(ご-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢から唐代にかけて、現在の江蘇省と浙江省にまたがる地域に設置された。

見る 全端と呉郡

唐咨

唐 咨(とう し、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。徐州東海郡利城県の人。『三国志』魏志「諸葛誕伝」に附伝されている。その他、魏志・呉志の各所に名が窺える。 魏で反乱を起こしたが失敗し、呉に仕えた。呉では厚遇を受け武官として出世した。諸葛誕の反乱の援軍に派遣されたが敗れて降伏し、魏に再び帰参した。

見る 全端と唐咨

全寄

全 寄(ぜん き、? - 250年)は、中国三国時代の呉にかけての政治家。全奇ともいう。揚州呉郡銭唐県の人。父は全琮。兄は全緒。弟は全懌・全呉。甥は全禕・全静・全儀。従兄は全端。

見る 全端と全寄

全儀

全 儀(ぜん ぎ、生没年不詳)は、中国三国時代の呉にかけての政治家・武将。揚州呉郡銭唐県の人。祖父は全琮。父は全緒。兄は全禕・全静。叔父は全奇・全懌・全呉。従父は全端・全翩・全緝・全尚。従兄弟は全紀・全皇后。一族に全煕。

見る 全端と全儀

全琮

全 琮(ぜん そう、198年? - 249年?)は、中国後漢時代末期から、三国時代の呉にかけての武将・政治家。字は子璜。揚州呉郡銭唐県の人。父は全柔。妻は孫権の娘の孫魯班(全公主)。子は全緒・全奇・全懌・全呉。孫は全禕・全静・全儀。従子は全端・全翩・全緝。族子は全尚。族孫は全紀・全皇后。一族に全煕。『三国志』呉志に伝がある。

見る 全端と全琮

全禕

全 禕(ぜん い、生没年不詳)は、中国三国時代の呉にかけての政治家・武将。別名は全輝。揚州呉郡銭唐県の人。祖父は全琮。父は全緒。弟は全静・全儀。叔父は全奇・全懌・全呉。従父は全端・全翩・全緝・全尚。従兄弟は全紀・全皇后。一族に全煕。

見る 全端と全禕

全緒

全 緒(ぜん しょ、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。揚州呉郡銭唐県の人。父は全琮。子は全禕・全静・全儀。弟は全奇・全懌・全呉。従兄弟は全端ら。

見る 全端と全緒

全静

全 静(ぜん せい、生没年不詳)は、中国三国時代の呉にかけての政治家・武将。揚州呉郡銭唐県の人。祖父は全琮。父は全緒。兄は全禕。弟は全儀。

見る 全端と全静

全懌

全 懌(ぜん えき、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。呉から魏へと降伏した。揚州呉郡銭唐県の人。父は呉の名将として活躍した全琮。母は孫魯班。兄弟は全緒・全奇・全呉。

見る 全端と全懌

王基

王 基(おう き、190年 - 261年6月9日)は、中国三国時代の魏の武将、学者。字は伯輿。父は王豹。子は王徽。叔父は王翁。従兄弟は王喬。青州東萊郡曲城県の人。

見る 全端と王基

王淩

王 淩(おう りょう)は、中国後漢末期から三国時代の魏の武将・政治家。字は彦雲。并州太原郡祁県(現在の山西省晋中市祁県)の人。 皇帝曹芳の廃位及び楚王曹彪の擁立を画策するが、事が露見し自殺を遂げた(王淩の乱)。

見る 全端と王淩

留略

留 略(りゅう りゃく、生没年不詳)は、三国時代の呉の武将。留賛の子。留平の兄。『三国志』では魏志の「三少帝紀」に引用された『漢晋春秋』、呉志の「三嗣主伝」、「諸葛恪伝」に記録がある。

見る 全端と留略

留賛

留 賛(りゅう さん、183年 - 255年)は、中国後漢末期から三国時代の呉にかけての武将。字は正明。揚州会稽郡長山県の人。子は留略・留平。『三国志』呉書孫峻伝に注引く韋昭の呉書に伝記がある。

見る 全端と留賛

芍陂の役

芍陂の役(しゃくひのえき)は、中国三国時代の241年(魏の正始2年、呉の赤烏4年)に、魏と呉の間で行われた戦い。呉帝孫権は、四路から魏を攻めたが、芍陂が主要な戦場であったことから芍陂の役と呼ばれている。実態としては揚州方面と荊州方面の二正面攻撃であり、戦場は広範囲に渡った。

見る 全端と芍陂の役

銭唐県

銭唐県(せんとう-けん)は中華人民共和国浙江省杭州市にかつて存在した県。後に設置された銭塘県とは別の行政区画である。

見る 全端と銭唐県

鍾会

鍾 会(しょう かい)は、中国三国時代の魏の武将・政治家・学者。字は士季。豫州潁川郡長社県(現在の河南省許昌市長葛市)の人。父は鍾繇。母は張昌蒲。異母兄は鍾毓。 司馬昭の右腕として活躍し、遂には蜀漢平定に貢献する大功を立てるが、彼の地で反乱を企てた後、敗死した。

見る 全端と鍾会

顧譚

顧 譚(こ たん、205年 - 246年)は、中国三国時代の武将、政治家。呉に仕えた。字は子黙。祖父は顧雍。父は顧邵。弟は顧承。生母は陸氏(陸遜・陸瑁の姉妹)。『三国志』呉志「顧雍伝」などに記述がある。

見る 全端と顧譚

顧雍

顧 雍(こ よう)は、中国後漢末期から三国時代の政治家。字は元歎。揚州呉郡呉県(現在の蘇州市)の人。曾祖父は顧奉(潁川太守。『呉録』による)。祖父と父の名は不明。同母弟は顧徽。妻は陸康の娘。子は顧邵・顧裕(顧穆)・顧済。孫は顧譚・顧承・顧栄。『三国志』呉志に伝がある。 孫権に仕えて、呉の2代目の丞相となった。顧家は呉郡呉県の名家の出で、一族や子孫からは多数の人材を輩出している。

見る 全端と顧雍

顧承

顧 承(こ しょう、生没年不詳)は、三国時代の呉の武将。字は子直。顧邵の子。生母は陸氏(陸遜・陸瑁の姉妹)。兄に顧譚がいる。妻は張温の妹。

見る 全端と顧承

裴松之

裴 松之(はい しょうし、372年 - 451年)は、中国の東晋末・南朝宋初の政治家・歴史家。字は世期。本貫は河東郡聞喜県(現在の山西省運城市聞喜県)。祖父は裴昧。父は裴珪。陳寿の『三国志』の「注」を付した人物として知られる。自身の伝は『宋書』・『南史』二史にある。また、魏に仕えた裴潜の弟の裴徽の六世の孫にあたるという。子の裴駰は『史記集解』の撰者である。曾孫(裴駰の孫)には裴子野がいる。

見る 全端と裴松之

諸葛誕

諸葛 誕(しょかつ たん)は、中国三国時代の魏の武将・政治家。字は公休。徐州琅邪郡陽都県の出身。子は王広妻・司馬伷妻(諸葛太妃)・諸葛靚。 司馬氏が専横する時代にあり、親交のあった夏侯玄、揚州都督の前任者だった王淩・毌丘倹らが次々と滅ぼされたことに不安を抱いて反乱を起こすが、自身も敗死を遂げた。

見る 全端と諸葛誕

諸葛恪

諸葛 恪(しょかつ かく、)は、中国の三国時代の政治家。呉に仕えた。字は元遜。徐州琅邪郡陽都県の人。諸葛瑾の長男で、蜀(蜀漢)の丞相の諸葛亮の甥にあたる。弟に諸葛喬・諸葛融。子は諸葛綽・諸葛竦・諸葛建。

見る 全端と諸葛恪

魏 (三国)

魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏(そうぎ)、あるいは北魏に対して前魏(ぜんぎ)とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、成立の基礎を作った曹操の時期の政権である「曹操政権」と合わせて論じられることも多い。魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。

見る 全端と魏 (三国)

胡遵

胡 遵(こ じゅん)は、中国三国時代の武将。文武の才を併せ持ち、要地を抑える魏の武官を歴任した。本貫は雍州安定郡臨涇県『晋書』胡奮伝。子は胡広・胡奮・胡烈・胡岐など陳寿撰、裴松之注『三国志』魏書 鍾会伝注『晋諸公賛』。

見る 全端と胡遵

赤烏

赤烏(せきう)は、呉の大帝孫権の治世に行われた元号。238年 - 251年。 及び中国の伝説に登場する「太陽の中にいる三本足の烏」と言う意味で、日本では八咫烏に相当する。日本書紀にも登場し、持統6年の秋7月に「與獲赤烏者鹿嶋臣櫲樟」と、捕らえたことが記されている。 日本では、兵庫県宝塚市の安倉高塚古墳や山梨県市川三郷町の鳥居原狐塚古墳から赤烏の元号を持つ神獣鏡が発見されている。

見る 全端と赤烏

陳寿

陳 寿(ちん じゅ、建興11年〈233年〉? - 元康7年〈297年〉?)は、中国の三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。『三国志』の著者として知られる。甥は陳符・陳蒞・陳階。

見る 全端と陳寿

揚州 (古代)

揚州(ようしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。

見る 全端と揚州 (古代)

東興の戦い

東興の戦い(とうこうのたたかい)は、中国三国時代の252年(呉の建興元年、魏の嘉平4年)に、呉と魏の間で起きた戦い。魏の大将軍司馬師は、呉帝孫権の死に乗じて諸葛誕・胡遵らに東興(現在の安徽省馬鞍山市含山県南西)を攻めさせたが、呉の大将軍諸葛恪の前に大敗を喫した。東関の役とも呼ばれる。

見る 全端と東興の戦い

武昌郡

武昌郡(ぶしょう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から南北朝時代にかけて、現在の湖北省東部に設置された。

見る 全端と武昌郡

文欽

文 欽(ぶん きん、? - 258年)は、中国三国時代の武将。字は仲若。父は文稷。子は文鴦・文虎。本貫は豫州譙郡譙県。『三国志』魏志「毌丘倹伝」とそれが引く『魏書』の他、魏志・呉志の各所に記録がある。 魏で恩寵を受け出世したが失脚し、毌丘倹と共に揚州で反乱を起こすが敗れて呉に亡命した。後に諸葛誕が反乱を起こすとその援軍に送られたが、魏の追討軍に包囲される中で諸葛誕と仲違いを起こして殺害された。

見る 全端と文欽

陳寿揚州 (古代)東興の戦い武昌郡文欽