目次
孫亮
孫 亮(そん りょう)は、三国時代の呉の第2代皇帝。廃立後は会稽王・侯官侯。初代皇帝孫権(大帝)の子(七男)。第3代皇帝孫休の異母弟。母は皇后の潘淑。皇后は全尚の娘の全氏。少帝と呼ばれることがある。
見る 全端と孫亮
孫綝
孫 綝(そん ちん/そん りん、232年 - 259年)は、中国三国時代の呉の武将・政治家。字は子通。『三国志』呉志に伝がある。 呉の皇族である孫氏の一族。曾祖父は孫静。祖父は孫暠。父は孫綽。叔父は孫超・孫恭。従兄は孫峻・孫憲。弟は孫拠・孫恩・孫幹・孫闓。従姉は全尚の妻。
見る 全端と孫綝
寿春三叛
寿春三叛(じゅしゅんさんぱん)、または淮南三叛は、三国時代魏の後期、司馬氏が権力を奪取して専制するに及び、軍事的に重要な都市である寿春の司令官が、3度にわたって司馬氏に対して反乱を起こしたことをいう。この3度の反乱は、王淩の乱(251年4月)、毌丘倹・文欽の乱(255年正月)、諸葛誕の乱(257年5月〜258年2月)に分けられる。3度の反乱は、いずれも司馬氏によって平定された。
見る 全端と寿春三叛
三国志演義の人物の一覧
三国志演義の人物の一覧(さんごくしえんぎのじんぶつのいちらん)は、歴史小説『三国志演義』に登場する人物を列挙した一覧である。 実在の人物を元にしている場合、架空の人物である場合に関係なく挙げる。 『三国志演義』の人物は総計で1192人。そのうち武将437人、文官451人、漢・三国・晋の皇帝・皇族とその後裔、后妃、宦官など128人、黄巾の乱参加者および鮮卑・羌など異民族67人、宦官と三教九流その他の人物109人。人物は男子約1000人、女子は60人余りで姓名の設定があるのは蔡琰、曹娥、李春香の3人、姓不明で名の設定があるのは貂蝉1人、その他は姓名ともに不明。
張休
張 休(ちょう きゅう)は、中国三国時代の呉の人物。字は叔嗣。徐州彭城国の人。父は張昭。兄は張承。
見る 全端と張休
全寄
全 寄(ぜん き、? - 250年)は、中国三国時代の呉にかけての政治家。全奇ともいう。揚州呉郡銭唐県の人。父は全琮。兄は全緒。弟は全懌・全呉。甥は全禕・全静・全儀。従兄は全端。
見る 全端と全寄
全尚
全 尚(ぜん しょう、? - 258年?)は、中国三国時代の政治家。呉に仕えた。揚州呉郡銭塘県の人。字は子真。族父は全琮。子は全紀・全皇后(孫亮の皇后)。妻は孫峻の姉。『三国志』呉志に娘の伝がある。
見る 全端と全尚
全儀
全 儀(ぜん ぎ、生没年不詳)は、中国三国時代の呉にかけての政治家・武将。揚州呉郡銭唐県の人。祖父は全琮。父は全緒。兄は全禕・全静。叔父は全奇・全懌・全呉。従父は全端・全翩・全緝・全尚。従兄弟は全紀・全皇后。一族に全煕。
見る 全端と全儀
全皇后 (孫亮)
全皇后(ぜんこうごう)は、三国時代の呉の廃帝孫亮の皇后。名は不明(諸説ある)。揚州呉郡銭唐県(現在の浙江省杭州市)の人。父は全尚。生母は孫恭(孫暠の三男)の娘(孫峻の姉)。兄弟は全紀。
見る 全端と全皇后 (孫亮)
全琮
全 琮(ぜん そう、198年? - 249年?)は、中国後漢時代末期から、三国時代の呉にかけての武将・政治家。字は子璜。揚州呉郡銭唐県の人。父は全柔。妻は孫権の娘の孫魯班(全公主)。子は全緒・全奇・全懌・全呉。孫は全禕・全静・全儀。従子は全端・全翩・全緝。族子は全尚。族孫は全紀・全皇后。一族に全煕。『三国志』呉志に伝がある。
見る 全端と全琮
全禕
全 禕(ぜん い、生没年不詳)は、中国三国時代の呉にかけての政治家・武将。別名は全輝。揚州呉郡銭唐県の人。祖父は全琮。父は全緒。弟は全静・全儀。叔父は全奇・全懌・全呉。従父は全端・全翩・全緝・全尚。従兄弟は全紀・全皇后。一族に全煕。
見る 全端と全禕
全紀
全 紀(ぜん き、? - 258年)は、中国三国時代の呉の政治家。揚州呉郡銭唐県の人。全琮の一族。父は全尚。母は孫峻の姉。姉妹は全皇后。
見る 全端と全紀
全緒
全 緒(ぜん しょ、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。揚州呉郡銭唐県の人。父は全琮。子は全禕・全静・全儀。弟は全奇・全懌・全呉。従兄弟は全端ら。
見る 全端と全緒
全煕
全 煕(ぜん き、生没年不詳)は、中国三国時代の呉の武将。揚州呉郡銭唐県の人。全琮の一族。
見る 全端と全煕
全懌
全 懌(ぜん えき、生没年不詳)は、中国三国時代の武将。呉から魏へと降伏した。揚州呉郡銭唐県の人。父は呉の名将として活躍した全琮。母は孫魯班。兄弟は全緒・全奇・全呉。
見る 全端と全懌
留略
留 略(りゅう りゃく、生没年不詳)は、三国時代の呉の武将。留賛の子。留平の兄。『三国志』では魏志の「三少帝紀」に引用された『漢晋春秋』、呉志の「三嗣主伝」、「諸葛恪伝」に記録がある。
見る 全端と留略
芍陂の役
芍陂の役(しゃくひのえき)は、中国三国時代の241年(魏の正始2年、呉の赤烏4年)に、魏と呉の間で行われた戦い。呉帝孫権は、四路から魏を攻めたが、芍陂が主要な戦場であったことから芍陂の役と呼ばれている。実態としては揚州方面と荊州方面の二正面攻撃であり、戦場は広範囲に渡った。
見る 全端と芍陂の役
鍾会
鍾 会(しょう かい)は、中国三国時代の魏の武将・政治家・学者。字は士季。豫州潁川郡長社県(現在の河南省許昌市長葛市)の人。父は鍾繇。母は張昌蒲。異母兄は鍾毓。 司馬昭の右腕として活躍し、遂には蜀漢平定に貢献する大功を立てるが、彼の地で反乱を企てた後、敗死した。
見る 全端と鍾会
東興の戦い
東興の戦い(とうこうのたたかい)は、中国三国時代の252年(呉の建興元年、魏の嘉平4年)に、呉と魏の間で起きた戦い。魏の大将軍司馬師は、呉帝孫権の死に乗じて諸葛誕・胡遵らに東興(現在の安徽省馬鞍山市含山県南西)を攻めさせたが、呉の大将軍諸葛恪の前に大敗を喫した。東関の役とも呼ばれる。
見る 全端と東興の戦い
朱異
朱 異(しゅ い)は、中国三国時代の武将。呉に仕えた。字は季文。揚州呉郡呉県の人。父は朱桓。従父は朱拠。
見る 全端と朱異
文欽
文 欽(ぶん きん、? - 258年)は、中国三国時代の武将。字は仲若。父は文稷。子は文鴦・文虎。本貫は豫州譙郡譙県。『三国志』魏志「毌丘倹伝」とそれが引く『魏書』の他、魏志・呉志の各所に記録がある。 魏で恩寵を受け出世したが失脚し、毌丘倹と共に揚州で反乱を起こすが敗れて呉に亡命した。後に諸葛誕が反乱を起こすとその援軍に送られたが、魏の追討軍に包囲される中で諸葛誕と仲違いを起こして殺害された。
見る 全端と文欽

