目次
104 関係: 受、声、嫉、定、害、尋、尋伺、山喜房仏書林、上座部仏教、三宝、三科、三昧、一切法、五蘊、仏教、位階、作意、体、信、忿、心 (仏教)、心所、念 (仏教)、分別 (仏教)、味覚、アヒンサー、アビダンマッタ・サンガハ、サンカーラ、唐、唯識、処、入れ墨、四大、四相、四諦、瞋、睡眠、禅宗、精進、疑、瑜伽行唯識学派、生 (仏教)、無為、無為法、無記、無明、無愧、無慚、煩悩、目、... インデックスを展開 (54 もっと) »
受
受(じゅ)、ヴェーダナー (巴: vedanā)とは、人間の感受作用を意味する仏教用語。触れたことを感じることである。 六識が六根を通じ六境に接触し、まずそれを感受すること。肉体的、生理的に感じる「暑い」「痛い」などの感じの他にも、「苦しい」「快い」などの、心で知覚的に感じるものも含んでいる。例えば、桜の木を見て「美しい」と感じること。 仏教において、受は以下とされている。
見る 五位と受
声
声(こえ、聲、voice)は、動物の発声器官から発せられる音である。本項ではヒトの口や喉から発せられる音(人声)について扱う。
見る 五位と声
嫉
嫉 (しつ)(īrṣyā、イールシヤー)は、仏教が教える煩悩のひとつ。 嫉み。自分だけの利益や世間の評判(名聞利養)を希求し続けると、人の栄達等を見聞きすると深い嫉妬を起こすようになる。そのような心の状態を嫉という。妬み深い人はこの心を増長しやすい。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。
見る 五位と嫉
定
仏教における定(じょう)、サマーディ(巴、)は、心をひとつの対象に集中し心の散乱がないという精神の作用や、そのようにすることや、定まっているその状態を指す。また、一般に心を散乱させないようにする修行、及びそれによってもたらされた特殊な精神状態をも総称して定という。samādhiの音写が三昧(さんまい)であり、三摩地とも書かれた。 定すなわち三昧は、仏教の三学である戒・定・慧の一つであって、仏教の実践道の大綱である。また、八正道の一つには正定が挙げられており、五根には定根が、五力には定力が挙げられている。。定はの一つでもある。定に反して心が散り乱れて動く状態を散といい、定散(じょうさん)と呼ばれる。
見る 五位と定
害
仏教用語での害(がい)(vihiṃsā、ヴィヒンサー)は、仏教が教える煩悩のひとつ。 害意。他者への思いやりの心が無い状態、すなわち、慈悲心無き心の状態をさす。大善地法の「不害 (アヒンサー)」の逆。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。
見る 五位と害
尋
尋(ひろ)は、古代の中国や日本で使われた長さの単位。両手を左右に広げたときの幅を基準とする身体尺である。 建築や造船、漁業など(水深の測定、網の製造や綱の製作)の分野で用いられた。「尋」は単位事典や国語辞典で五尺ないし六尺と説明されるなど曖昧さがあるが、この点については使用する分野によって長さが異なるとの指摘がある(後述)。
見る 五位と尋
尋伺
尋伺(じんし, Vitakka-vicāra)とは、尋(じん)と伺(し)を指す仏教用語。尋(vitarka, vitakka)とは、尋求と思考、実践思考、(先行する)注視。伺(vicāra)とは、伺求と熟考、「尋の対象となったものを究明すること」である。尋伺は四禅の第一段階の初禅にて発生する。 パーリ仏典では、尋伺は一つの熟語であり、自分の考えや注意を対象に向けること (尋)と、それを調査すること(伺)を指している。「対象を機能的な部品に分解して理解する、さらに現象の発生に関係している多数の条件付け要因を見出す」ことである。 ブッダゴーサの清浄道論に代表される後期上座部仏教の注釈書の伝統においては、尋伺を、最初に瞑想対象に対して持続的に注意することと解釈されており、それによって心の静止に至るとされる。Fox と Bucknell によると、尋伺は「通常の言説的思考プロセス」を指す場合もあり、これは第二禅に没頭することで静めることができる。
見る 五位と尋伺
山喜房仏書林
山喜房仏書林(山喜房佛書林、さんきぼうぶっしょりん)は、東京都文京区本郷東京大学赤門前にある、仏教書専門の書店並びに出版社。 博士学位請求論文の書籍化など、専門書を中心に仏教一般に関する書籍も数多く刊行している。
見る 五位と山喜房仏書林
上座部仏教
上座部仏教(じょうざぶぶっきょう、Theravāda、Sthaviravāda、เถรวาท, 、Theravada Buddhism)は、仏教の分類のひとつで「長老派」を意味しており、現存する最古の仏教の宗派である。上座仏教 、テーラワーダ仏教(テーラヴァーダ仏教)。 上座部仏教は、南伝仏教とも呼ばれ、パーリ語の三蔵を伝えていることからパーリ仏教ともいう。 仏典にはパーリ仏典を採用し、釈迦の教えが保存されている。 パーリ仏典は古代インド言語であるパーリ語で記され、現存する唯一の完全な仏典であり、上座部においては典礼言語および リングワ・フランカCrosby, Kate (2013), Theravada Buddhism: Continuity, Diversity, and Identity, p.
見る 五位と上座部仏教
三宝
三宝(さんぼう、さんぽう、ratna-traya, trīṇi ratnāni)とは、仏教における「仏・法・僧」(ぶっぽうそう)と呼ばれる3つの宝物を指し、仏陀(釈迦)と法(ダルマ)と僧伽(そうぎゃ、さんが)のこと。この三宝に帰依し、その上で授戒することで正式に仏教徒とされる。なお、3つという数については、3を聖数とする習俗や信仰とのかかわりも指摘されている。 上座部仏教においては、涅槃を独自に発見した「仏」、その仏の説いた教え「法」、その教えを受けることで四向四果に達した者の集団である「僧伽」、であるとされる。ただし、一般には出家比丘の集団がサンガと同一視される。 聖徳太子が制定したと言われる「十七条憲法」には、第二番目の条項に「篤く三宝を敬え。三宝とは仏と法と僧となり」という文言がみられる。
見る 五位と三宝
三科
三科(さんか)とは部派仏教における、世界を在らしめる一切法(sarva-dharma)を三範疇に分類したものであり、五蘊(五陰)・十二処・十八界で構成される。蘊・処・界、または陰・界・入と略すこともある。また、六根・六境・六識の三範疇をいうこともある。 一切法は、下記の五蘊の一つの蘊、十二処の一つの処、十八界の一つの界とにおさまる。およそ法はそれぞれの自性を保持するものであるから、ある法がそれと別個な自性をもつ他の法の中におさまるということは決して無い。諸法を五蘊、十二処、十八界と説くのは、衆生(有情)の愚かさ、あるいは資質、あるいは希求するところに3通りがあるから、それらの各々に応ずるためとされる。
見る 五位と三科
三昧
サマーディ(Samadhi)の音写である三昧(さんまい、)は、仏教、ヒンドゥー教、ジャイナ教、シーク教、ヨーガなどインド発祥の宗教における瞑想で、精神集中が深まりきった状態のことをいう。三摩地(さんまぢ)、三摩提とも音訳され、定、等持と義訳される山下博司 『ヨーガの思想』 講談社〈講談社メチエ〉、2009年、127-129頁。。
見る 五位と三昧
一切法
一切法(いっさいほう、sabba-dhamma,sarva-dharma)とは仏教用語で、世界のすべてのもの、すべての存在、すべての法の集合体をさす。諸法(しょほう)とも。 原始仏教においては、一切法は五蘊として分類された。また諸法無我として一切法の無我があらゆる場面で説かれた。
見る 五位と一切法
五蘊
五蘊(ごうん、pañca-kkhandha(パンチャッカンダ)、पञ्च स्कन्ध, (パンチャ・スカンダ))とは、原義では「5つの集合体・グループ・コレクション」をさす。蘊(skandha、khandha )とは集まり、同類のものの集積を意味する。 仏教においては五取蘊(Pañcupādāna-kkhandhā)として色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の総称。物質界と精神界との両面にわたる一切の有為法を示すであり、省略して五蘊とする。五陰(ごおん)とも書く。 人間の肉体と精神を5つの集まりに分けて示したもの。取(upādāna)とは、それに執着するということ。 なお、五蘊と、十二処、十八界を並べて三科と称する。
見る 五位と五蘊
仏教
仏教(佛敎、ぶっきょう、बौद्धधर्म、ພຸດທະສາສະໜາ、Buddhism)は、インドの釈迦(ゴータマ・シッダッタ、ガウタマ・シッダールタ、ゴータマ・シッダールタ)を開祖とする宗教。仏陀(仏、目覚めた人、Buddha)の説いた教え。キリスト教・イスラム教に次ぐ世界宗教の1つで、世界で4番目に大きな宗教である(信者の数はヒンドゥー教の方が多いが、ヒンドゥー教は信者がほぼインドに限られているため、世界宗教とは言いがたい)。世界人口の7%である5億2000万人以上が仏教徒(信者)であり、特に東アジア、東南アジア、南アジアで広まっている。 教義は苦の輪廻からの解脱を目指す。原因と結果の理解に基づき、諸々の現象が縁起するとされる。
見る 五位と仏教
位階
位階(いかい)とは、国家の制度に基づく個人の序列の標示である。位(くらい)ともいう。「位階」という語は、基本的には地位・身分の序列、等級といった意味広辞苑 第五版 p.121「位階」である。制度としての「位階」は、元は古代中国の政治行政制度である律令制や、それを継受した国における官僚・官吏の序列の標示(身分制度)である。後には、位階は、長く官職にあった者や特に功績のあった者などに与えられる栄典の一となった。位階を授与することを「位階に叙する」または叙位(じょい)という日本においては平安時代以後、宮中で例年正月5日頃に行われる五位以上の位階を授ける儀式のことも叙位(例の叙位)と言った。。
見る 五位と位階
作意
作意(さい)とは、パーリ語およびサンスクリット語のManasikāra(マナシカーラ)に由来する仏教用語であり、注意、思惟を意味する仏教用語。心が物体に固執するプロセスとして定義されるGuenther (1975), Kindle Locations 406-410.Kunsang (2004), p.
見る 五位と作意
体
体(體、躰、躯、身体、からだ)、身体(しんたい)は、生物学的かつ文化的に規定された、有機体としての人間や動物の構造を指す。人間は身体を通じて世界を経験し、世界を構成する。
見る 五位と体
信
信(しん)は、一般的には真実で偽りのないこと小川「信」(2004)。信用。信仰。宗教・倫理の分野においてさまざまに用いられる。
見る 五位と信
忿
忿(ふん)(krodha、クローダ)は、仏教が教える煩悩のひとつ。 瞋に付随して起こる。 怒り。いきどおり。自分の気に入らぬことに激怒して、杖で人を打とうとするぐらい激しい感情になる心をさす。 この心は粗暴な言動を生み出す。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の『大乗百法明門論』によれば、随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。
見る 五位と忿
心 (仏教)
心(しん、巴: citta チッタ)とは、仏教における心概念。学派・宗派によってその内容は諸説分かれる。一般に、知性・感情・意志などの総称として用いられ、もの()や身体とは区別されると考えられている。また、意識下の心、深層心理が説かれる場合もある。語源的には、種々の(citra)対象を認識するからとも、集める(cinoti)からとも解釈される。 パーリ仏典ではcittaと重複して用いられる語として、意(Manas)、識(Vijñāna)が存在し、これらは一般的な意味の「心」として使われることもあれば、心所(cetasika)を指すこともある。
見る 五位と心 (仏教)
心所
心所(しんじょ、cetasika, チェータシカ、caitasika, チャイタシカ)とは、仏教における心(citta)の構成要素・機能・中身のこと。五位分類においては、「心所法」として表現される。 今日アビダルマによって研究され注釈される主な心所は以下がある (see section "Count of the Mental Factors")。
見る 五位と心所
念 (仏教)
仏教における念(ねん)は、以下のように多義的な意味で用いられる。
見る 五位と念 (仏教)
分別 (仏教)
分別(ふんべつ、vikalpa)とは、仏教において、心、心所が対象に対してはたらきかけ、それを思い計ることをいう。サンスクリット語のviśeṣa(特殊)、pariccheda(判別)、nirdeśana(開示)、vibhāga(分析)なども分別と訳される。
見る 五位と分別 (仏教)
味覚
味覚(みかく)は、動物の五感の一つであり、食する物質に応じて認識される感覚である。生理学的には、甘味、酸味、塩味、苦味、うま味の五味が基本味に位置づけられる。基本味の受容器はヒトの場合おもに舌にある。基本味が他の要素(嗅覚、視覚、記憶など)で拡張された知覚心理学的な感覚としての味は、風味(ふうみ)と呼ばれることが多い。また、認識の過程を味わう(あじわう)と言う。
見る 五位と味覚
アヒンサー
アヒンサー(デーヴァナーガリー: अहिंसा; IAST )は 非暴力(文字通り:暴力(ヒンサー)の忌避)を意味するサンスクリット の用語で、古代インドに起源を発した宗教(ヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教)の重要な教義である。インドでは「アヒンサー・パラモ・ダルマ」(非暴力は仏法の中で最上のものである)と言われている。アヒンサーは生き物を殺したり害したりすることを禁止するという行動規範で、あらゆる種類の暴力が好ましからざる業果をもたらすという信念に密接に関連付けられる。非暴力の原理を(人間以外の)異なる生命形態にどこまで広げるかは、前述の三つの宗教内において種々の権威者・活動・流派間で物議をかもし、何千年ものあいだ論争の題材であった。
見る 五位とアヒンサー
アビダンマッタ・サンガハ
アビダンマッタ・サンガハ(Abhidhammattha Saṅgaha、摂阿毘達磨義論)は、仏教の南伝上座部大寺派に属する僧侶アヌルッダ(Anuruddha)によって11世紀頃に書かれた、仏教綱要書。題名は、「論(アビダンマ)の意味の集成」といった意味。 上座部仏教圏では、入門的テキストとして用いられている。
サンカーラ
仏教用語のサンカーラ(Saṅkhāra)、サンスカーラ(Saṃskāra)とはパーリ語およびサンスクリット語に由来し、一緒になったもの、纏めるものという意味合いである。伝統的に行(ぎょう)と訳される。 サンカーラには主に二つの意味がある。 一つ目の意味では、サンカーラは一般的に「条件づけられたものごと」「因縁によって起こる現象」をさす。諸行無常として説かれる。 二つ目の意味では、サンカーラは行蘊(Saṃskāra-Skanda)として業をさし、それらは縁起の原因とされる。心の中の「なにかをしたい」という衝動のことであり、その衝動はその直前の状態から生まれているのである。ある行動(karma, 業)を取ることで、その次の行動をしたいという欲求が自動的に現れるのである。
見る 五位とサンカーラ
唐
唐(とう、、618年 - 907年)は、中国の王朝。李淵が隋を滅ぼして建国した。7世紀の最盛期には中央アジアの砂漠地帯も支配する大帝国であり、中央アジアや東南アジア、北東アジア諸国(朝鮮半島や渤海、日本など)に政制・文化などの面で多大な影響を与えた。首都は長安に置かれた。
見る 五位と唐
唯識
唯識(ゆいしき、विज्ञप्तिमात्रता Vijñapti-mātratā)とは、個人、個人にとってのあらゆる諸存在が、唯(ただ)、8種類の識(八識)によって成り立っているという大乗仏教の見解の一つである(瑜伽行唯識学派)。ここで、8種類の識とは、五種の感覚(視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚)、意識、2層の無意識を指す。よって、これら8種の識は総体として、ある個人の広範な表象、認識行為を内含し、あらゆる意識状態やそれらと相互に影響を与え合うその個人の無意識の領域をも内含する。 あらゆる諸存在が個人的に構想された識でしかないのならば、それら諸存在は主観的な存在であり客観的な存在ではない。それら諸存在は無常であり、時には生滅を繰り返して最終的に過去に消えてしまうであろう。即ち、それら諸存在は「空」であり、実体のないものである(諸法空相)。このように、唯識は大乗仏教のの思想を基礎に置いている。また、唯識と西洋哲学でいう唯心論とは、基本的にも、最終的にも区別される(後述)。
見る 五位と唯識
処
仏教用語の処(しょ、梵・āyatana )は、感覚器、感覚媒体、感覚範囲を意味する。仏教では、6つの内部感覚器六根(ろっこん)と、6つの外部感覚器六境(ろっきょう)に分類される。 内部と外部の感覚器は、以下に対応する。
見る 五位と処
入れ墨
入れ墨(いれずみ、)は、針などで皮膚に傷を付けて墨・煤・朱などの色素で着色し、文様・文字・絵柄などを描く手法。また、その手法を用いて描かれたものである。タトゥーや刺青とも呼ばれる。 傷口に異物が入りこんでできる変色は外傷性刺青(Traumatic tattoo、外傷性色素沈着)といい、それが鉛筆の芯などの炭素の場合はと呼ばれる。レーザー治療によって脱色可能。
見る 五位と入れ墨
四大
四大(よんだい、しだい)は、4つの大きなもの、重要なもの。英語ではビッグ・フォー。
見る 五位と四大
四相
仏教における四相(しそう, catvari laksama)とは、因果関係のうちに成立する現象(有為法)が、現在の一瞬間のうちに呈する生(jati)、(sthiti)、(jara)、(anityata)の4つの相状(有為相;saṅkhāra-laksama)であるという説一切有部の主張。「生住異滅」ともいう。生・住・異・滅のそれぞれが、説一切有部の五位七十五法の一要素である。 律蔵などの経典では、生は必ず滅に至る、という生者必滅が説かれていた。これに対し、アビダンマッタ・サンガハおよび阿含経は、時間的な継続を考慮に入れ、生と滅のあいだに住を挿入し、生・住・滅の三相(さんぞう)を説いた。のちに説一切有部を含む中期以降の仏教で、生・住・異・滅の四相に展開する。
見る 五位と四相
四諦
四諦(したい、catur-ārya-satya, チャトゥル・アーリヤ・サティヤ)または四聖諦(ししょうたい、cattāri ariya-saccāni, チャッターリ・アリヤ・サッチャーニ、4つの・聖なる・真理(諦))とは、仏教が説く4種の基本的な真理中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、680頁。中村元 『広説佛教語大辞典』中巻 東京書籍、2001年6月、670頁。。苦諦、集諦、滅諦、道諦のこと。四真諦総合仏教大辞典編集委員会 『総合仏教大辞典』 法蔵館、1988年1月、550-551頁。や苦集滅道。
見る 五位と四諦
瞋
瞋(しん、dveṣa, pratigha、dosa)は、仏教における煩悩のひとつで、怒りを指す。瞋恚(しんに)ともいう。憎しみ、嫌うこと、いかること。心にかなわない対象に対する憎悪。自分の心と違うものに対して怒りにくむこと。 仏教においては、。
見る 五位と瞋
睡眠
睡眠(すいみん、somnus、sommeil、sleep)とは、眠ること、ねむり。「脳の意識レベルが低下して、視覚や聴覚などの感覚情報が脳に認識されなくなった状態」を指す。 日本睡眠学会などでは、「対象を哺乳類に限定すれば、人間や動物の内部的な必要から発生する意識水準の一時的な低下現象、これに加えて、必ず覚醒可能なこと」と定義している。
見る 五位と睡眠
禅宗
禅宗(ぜんしゅう, Zen Buddhism)は、中国において発達した、禅那(ぜんな)に至る真の教えを説くとする大乗仏教の一宗派。南インド出身で中国に渡った達磨僧(ボーディダルマ)を祖とし、坐禅(座禅)を基本的な修行形態とする。ただし、坐禅そのものは古くから仏教の基本的実践の重要な徳目であり、坐禅を中心に行う仏教集団が「禅宗」と呼称され始めたのは、中国の唐代末期からである。こうして宗派として確立されると、その起源を求める声が高まり、遡って初祖とされたのが達磨である。それ故、歴史上の達磨による、直接的な著作は存在が認められていない。伝承上の達磨のもたらしたとする禅は、部派仏教における禅とは異なり、了義了義(りょうぎ)。解りやすく崩したり表現を変えるようなことをせず、完全・明白に説かれた教え。『涅槃経』の四依品には、末代の人は了義によるべきであり、不了義によってはならないとある。
見る 五位と禅宗
精進
は、仏教用語のの意訳語。撥音を無表記して「しょうじ」ともいう。漢訳仏典ではと音写して「勤」「」などとも訳す。神道では精進を「そうじ」と読んで物忌と同意に用いる。 八正道では正精進として、四正勤が挙げられている。
見る 五位と精進
疑
仏教用語の 疑 (ぎ)とは、パーリ語vicikicchāに由来し、「疑念」や「躊躇」といった意味を持つ。四諦の教えに対しての躊躇と定義され、健康な生き方への取り組みの妨げとして機能するGuenther (1975), Kindle Locations 786-787.Kunsang (2004), p.
見る 五位と疑
瑜伽行唯識学派
瑜伽行唯識学派(ゆがぎょうゆいしきがくは)は大乗仏教の学派のひとつで、唯識の教学を唱導した学派である。 唯識瑜伽行派、唯識派(विज्ञानवाद, Vijñānavāda, ヴィジュニャーナヴァーダ、Vijñapti-mātra(tā), ビジュニャプティ・マートラ(ター)、Cittamātra, チッタマートラ)、瑜伽行派 (योगाचार, Yogācāra, ヨーガーチャーラ)とも言う。 ヨーガ(=瑜伽(ゆが))の実践の中に唯識の体験を得、教理にまとめた。 とりあえず心(識)だけは仮に存在すると考え、深層意識の阿頼耶識が自分の意識も外界にあると認識されるものも生み出していると考え(唯識無境)、最終的には阿羅耶識もまた空であるとする(境識倶泯)。
見る 五位と瑜伽行唯識学派
生 (仏教)
仏教用語の生(しょう)は、パーリ語のJāti(ジャーティ)に由来する概念であり、サンサーラ(saṃsāra)によって新しい生命として、繰り返し存在しつづけることを指す(輪廻)。 仏教の教えでは、ジャーティは以下の文脈で使われる。
見る 五位と生 (仏教)
無為
無為(むい)。
見る 五位と無為
無為法
無為法(むいほう,a-saṃskṛta-dharm)とは常住法、すなわちサンカーラではない法をさす仏教用語。仏教は一切法(sabba-dhamma)を、無為法と有為法に明確に二分して、両者を全く異質なカテゴリーとして扱う。 有為(うい、saṃskṛta)とは因縁により生滅する存在(無常)であり、対して無為(むい, asaṃskṛtaとは、特定の原因や条件(因縁)によって作りだされたものではない、不生不滅、形成されざるもの(常住)の存在のこと。また、涅槃のことを無為ということもある。 説一切有部においては、過去・現在・未来の多種多様な有為法が、無数の法の流動生滅が織りなすところこそ、われわれの生きる有為転変の世界であるとしたうえで、そのような因果的存在を超えたところに見出される常住の涅槃こそが無為であると考えた。
見る 五位と無為法
無記
無記(むき、avyākata, アヴィヤーカタ、avyākṛta, アヴィヤークリタ)とは、仏教において、釈迦がある問いに対して、回答・言及を避けたことを言う。仏説経典に回答内容を記せないので、漢語で「無記」と表現される。主として形而上学的な、「世界の存続期間や有限性」「生命と身体の関係」「修行完成者(如来)の死後のあり方」といった仏道修行に直接関わらない・役に立たない関心についての問いに対して、このような態度が採られた。 その数から、「十無記」(じゅうむき)、「十四無記」(じゅうしむき)、「十六無記」(じゅうろくむき)等とも呼ばれる。無記答(むきとう)、捨置記(しゃちき)ともいう。学説においては、釈迦は中道を意図したとの主張がある。
見る 五位と無記
無明
無明(むみょう、avidyā)とは、仏教用語で、無知のこと。とくに仏教の説く法(真理)に暗いことをいう。 この概念は、形而上学的な世界の性質、とりわけ世界が無常および無我であることの教義についての無知を指す。無明は苦の根源であり、最初の因縁の輪に結びつき、繰り返す転生の始まりとなる。 無明は仏教の教えの中で、様々な文脈での無知・誤解として取り上げられている。
見る 五位と無明
無愧
無愧(むぎ)(anapatrāpya、アナパトラーピヤ)は仏教が教える煩悩のひとつ。 破廉恥なこと。悪事を起しても、全く恥じないこと。 客観的に反省する心がなく、世間体も人の思惑も気にしなくなる状態をさす。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち中随煩悩である。 五位七十五法の大善地法「愧」の逆の心作用。
見る 五位と無愧
無慚
無慚(むざん)(āhrīkya、アーフリーキヤ)は仏教が教える煩悩のひとつ。 はじらいのないこと。なお、 慚とは、法灯明として自分の出世間たる仏の教えに照らして恥じる心のこと。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち中随煩悩である。 五位七十五法の大善地法「慚」の逆の心作用。
見る 五位と無慚
煩悩
煩悩(ぼんのう、、クレーシャ、kilesa、キレーサ、Kleshas)とは、仏教の教義の一つで、身心を乱し悩ませ智慧を妨げる心の働き(汚れ)を言う。同義語として、漏(ろ; 、アーシュラヴァ、asava、アーサヴァ)、随眠(ずいめん;, アヌシャヤ、anusaya、アヌサヤ)、暴流(ぼうりゅう; ogha)、軛(くびき; Yoga)など、数多くの表現が用いられたりもする。 仏教では、人の苦の原因を自らの煩悩ととらえ、その縁起を把握・克服する解脱・涅槃への道が求められた。釈迦は、まず煩悩の働きを止めるのは気づき(念)であり、そして根源から絶するものは般若(智慧)であると説いている。 部派仏教の時代になると、煩悩の深い分析が行われた。
見る 五位と煩悩
目
目(眼、め)は、光を受容する感覚器である。光の情報は眼で受容され、中枢神経系の働きによって視覚が生じる。 ヒトの眼は感覚器系に当たる眼球と附属器解剖学第2版、p.148、第9章 感覚器系 1.視覚器、神経系に当たる視神経と動眼神経からなる解剖学第2版、p.135-146、第8章 神経系 4.末端神経系。眼球は光受容に関連する。角膜、瞳孔、水晶体などの構造は、光学的役割を果たす。網膜において光は神経信号に符号化される。視神経は、網膜からの神経情報を脳へと伝達する。付属器のうち眼瞼や涙器は眼球を保護する。外眼筋は眼球運動に寄与する。多くの動物が眼に相当する器官を持つ。動物の眼には、人間の眼と構造や機能が大きく異なるものがある。
見る 五位と目
癡
癡(、ち、巴: 梵: moha)は、仏教における煩悩のひとつで、無知・蒙昧を指す。。時には無明(Avidyā )と同義である。別名を愚癡(ぐち、愚痴)、我癡、また無明ともいう。 癡は貪、瞋と共に、渇愛につながる要素(三毒、三不善根)だとされて、それは生存の輪である十二因縁の一部となっている。そのシンボルは豚であり、チベットの六道仏画では中心に描かれている。
見る 五位と癡
非択滅
非択滅(ひちゃくめつ、apratisaṅkhyānirodha、アプラティサンキヤーニローダ)とは、仏教において、正しい知恵によらない法の止滅のこと。説一切有部の五位七十五法のうち、無為法の一つに数えられる。説一切有部の説では、二心の併起を認めない(五位#概要のうち、節「説一切有部における法、心の性質」を参照)ために考えられる特異な法(ダルマ)。 つまり、ある瞬間に「」(「見ようとする心」のことで、六識のひとつ。「三科」、「意識」も参照)が、ある「色」をとらえたとすると、その「色」と同時に現在に生起してきた他の「色」「声」「香」「味」「触」(この5つをという。「五位」も参照)は、その心の対象とならないまま、次の瞬間には過去へ去ってしまう。そうすると、心相続の上に生起してそれらをとらえるべき(上述のに対応する、眼識、耳識、鼻識、舌識、身識の)五識は現在の対象にむかってしかはたらかず(「三科#十八界」「五位」も参照)、現在に生起する因を得ることができない。その場合、それら五識には「非択滅」という一種のダルマとのかかわりが生じたと考える。
見る 五位と非択滅
衆生
衆生(しゅじょう、sattva सत्त्व、satta)は、一切の生きとし生けるもの(生類)のこと。基本的には迷いの世界にある生類を指すが、広義には仏・菩薩をも含めることがある。
見る 五位と衆生
袴谷憲昭
袴谷 憲昭(はかまや のりあき、1943年12月25日 - )は、日本の仏教学者。インド仏教・チベット仏教を専門とする。元駒澤大学教授。
見る 五位と袴谷憲昭
覆
覆(ふく)(mrakṣa、ムラクシャ)は、仏教が教える煩悩のひとつ。 自己の誤ちの隠蔽。利益を失う・不利益を蒙ることを恐れて、自分が為した罪を隠すこと。 しかし、自分の為した罪を隠す人は、後に、必ず悔い悲しむ。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。
見る 五位と覆
香
コーン型 香(こう、incense)とは、本来、伽羅、沈香、白檀などの天然香木の香りをさす。そこから線香、焼香、抹香、塗香等の香り、またこれらの総称として用いられる。お香、御香ともいう。
見る 五位と香
触 (仏教)
触 (しょく、phassa、sparśa)とは、接触、感覚、感触などといった意味である。生物が何かとコンタクトを取ることである。これらは六根、六境、識の3要素に由来するものと定義されているGuenther (1975), Kindle Locations 401-405.Kunsang (2004), p.
見る 五位と触 (仏教)
角川ソフィア文庫
角川ソフィア文庫(かどかわソフィアぶんこ、Kadokawa Sophia Bunko)は、株式会社KADOKAWA(旧・角川書店)が、角川学芸出版ブランドで発刊している古典注釈・学術書を軸とした文庫レーベル。
見る 五位と角川ソフィア文庫
角川書店
角川書店(かどかわしょてん)は、日本の出版社・KADOKAWAのブランドの一つ。東京都千代田区に事業所を置く。 本項では、ブランドカンパニー化以前の株式会社角川書店(Kadokawa Shoten Publishing Co., Ltd.)についても解説する。
見る 五位と角川書店
驕
驕(きょう、(mada、マダ))は、仏教が教える煩悩のひとつ。正しくは「憍」。 自己満足。おのれの性質(美貌・若さ・血統・学識など)を優れたものと考えて自己に執着する心のおごり。自らの身を非常に勢い盛んな人間であると思いて,驕りまた誇り、自らの欲するままに思い上がるような心である。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。
見る 五位と驕
説一切有部
説一切有部(せついっさいうぶ、Sarvāstivādin, Sabbatthivāda, Sabbatthavāda)は、部派仏教時代の部派の一つ。略称は有部。説因部(せついんぶ、Hetuvādin)ともよばれる。紀元前1世紀の半ば頃に上座部から分派したとされ、部派仏教の中で最も優勢な部派であったという。同じく上座部系とされる南伝の上座部大寺派と並んで、多くのアビダルマ文献が現存している。 主体的な我(人我、アートマン)は空だが、現象世界を構成する要素(法、ダルマ)は三世に渡って実在するとした。説一切有部は大衆部や経量部と対立し、大乗仏教からも批判されたが、大きな勢力を保った。
見る 五位と説一切有部
誑
誑 (おう)(māyā、マーヤー)は、仏教が教える煩悩のひとつ。 欺瞞。自分だけの利益や世間の評判(名聞利養)を得ようとして、様々なはかりごとを心に秘めて、自分が徳のある人物であると見せかける偽りの心である。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。
見る 五位と誑
諂
諂 (てん)(śāṭhya、シャーティヤ)は、仏教が教える煩悩のひとつ。 心の邪曲。へつらうこと。自分だけの利益や世間の評判(名聞利養)を得るがために、他者をだまして迷わそうとして、私心を隠して人に媚びへつらい等など従順を装い、人の心を操縦する心である。もしくは、このような手段をもって、自分のなした過ちを隠蔽せんとする心である。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。
見る 五位と諂
識
識(しき、viññāṇa ヴィニャーナ, vijñāna ヴィジュニャーナ)とは、意識、生命力、心See, for instance, Rhys Davids & Stede (1921-25), p. 618, entry for "Viññāa," retrieved on 2007-06-17 from the University of Chicago's "Digital Dictionaries of South Asia".
見る 五位と識
貪
貪(とん、巴: rāga、巴: lobha)は、仏教における煩悩のひとつで、 貪り、欲深いことを意味する。別名を貪欲(とんよく)ともいい、五欲の対象である万の物を必要以上に求める心である。対義語は無貪(alobha)。
見る 五位と貪
鼻
ゾウの鼻は把握性(prehensility)を有する 鼻(はな)は、動物の器官のひとつで、嗅覚をつかさどる感覚器、そして呼吸をするための呼吸器である。飲食物はじめにおいを嗅ぐ点で、口の補助的役割も務める。
見る 五位と鼻
部派仏教
部派仏教(ぶはぶっきょう、Early Buddhist schools)とは、釈尊の死後百年から数百年の間に仏教の原始教団が分裂して成立した諸派の仏教。アビダルマ仏教ともいう。部派(ぶは)とはパーリ語のNikāya(ニカーヤ)に由来し、原義では集団を意味する。仏教においては戒や仏典の伝承系統によって分岐した、出家者の集団を指す。 紀元前3世紀頃に原始教団が上座部と大衆部に分裂(根本分裂)したのち、この2部派がさらに分裂して行った。各部派は、釈尊が残した教法を研究・整理して、独自の教義を論(アビダルマ)として作り、互いに論争した。部派仏教は、釈尊と直弟子時代の初期仏教を継承し、大乗仏教の成立後も数世紀に渡りインドで大きな勢力を有していたとされる。のちに興った大乗仏教はこれらの部派仏教を小乗仏教と貶称した。
見る 五位と部派仏教
舌
舌(ぜつ、した)は、動物の口の中にある器官。脊椎動物の舌は、筋肉でできた突起物である。筋肉を様々に動かすことで、形や位置を自在に変えることができ、食物を飲み込む際、言葉をしゃべる(構音)際などに使われるので、消化器、運動器の働きをもつといえる。その運動は非常に細かく、正確にコントロールすることが可能。また、哺乳類の舌には、味覚を感じる受容器である味蕾(みらい)があり、感覚器でもある。 脊椎動物以外にあって舌と名づけられた構造は、脊椎動物の舌の形などとの類似性から名づけられたものが多く、その構造、役割などは様々である。中でも有名なものに、軟体動物の歯舌(しぜつ)がある。
見る 五位と舌
阿含経
阿含経(あごんきょう、あごんぎょう、梵・āgama, アーガマ)とは、最も古い仏教経典集(スートラ)であり、釈迦の言葉を色濃く反映した真正な仏教の経典ものとされる。阿含(あごん)とは、サンスクリット・パーリ語のアーガマの音写で、「伝承された教説、その集成」という意味である。阿含の類義語には部(ぶ、Nikāya)があり、パーリ仏典ではそれが用いられている。 釈迦の死後、その教説は迦葉や阿難を始めとする弟子たちを中心として何回かの結集を経てまとめられ、経蔵(sutta-piṭaka, スッタ・ピタカ)を形成した。他方、守るべき規則は律蔵(vinaya-piṭaka, ヴィナヤ・ピタカ)としてまとめられたが、一般に紀元前4世紀から紀元前1世紀にかけて徐々に作成されたものであると言われているブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「阿含経」 https://kotobank.jp/word/阿含経-24948。その経蔵はそれぞれ阿含(āgama, アーガマ)または部(nikāya、ニカーヤ)の名で呼ばれた。
見る 五位と阿含経
阿頼耶識
阿頼耶識(あらやしき、ālaya-vijñāna、आलयविज्ञान、蔵: )は、瑜伽行派独自の概念であり、個人存在の根本にある、通常は意識されることのない識(viññāṇa)のこととされる。アーラヤ識。眼識・耳識・鼻識・舌識・身識・意識・末那識・阿頼耶識の8つの識の最深層に位置するとされる。
見る 五位と阿頼耶識
阿毘達磨
阿毘達磨(あびだつま、Abhidhamma, アビダンマ、Abhidharma अभिधर्म, アビダルマ、音写:阿毘曇(あびどん)、毘曇(びどん)、阿鼻達磨)とは、仏教の教説(具体的には経蔵、律蔵など)の研究・思想体系、およびそれらの解説書・注釈書のこと。大法、無比法、対法と漢訳する。 三蔵を構成する、律(ヴィヤナ)、経(スートラ)、論(アビダルマ)の一つをなす。これらのアビダルマをまとめたものを「論蔵」(Abhidharma-piṭaka)と呼ぶ。
見る 五位と阿毘達磨
阿毘達磨倶舎論
阿毘達磨倶舎論(あびだつまくしゃろん)は、ヴァスバンドゥ(世親)を作者として、4世紀-5世紀頃にインドで成立したとされるブリタニカ国際大百科事典』(コトバンク)、部派仏教の教義体系を整理・発展させた論書である。サンスクリット原典の題名は『アビダルマ・コーシャ・バーシャ』(梵: Abhidharma-kośa-bhāṣya、略称: AKBh)単に『アビダルマ・コーシャ』(梵: Abhidharma-kośa)と呼称することも。。 サンスクリット原典のほかに、2種類の漢訳本とチベット語訳本が現存している。漢訳本は、一方は真諦訳『阿毘達磨倶舍釋論』(略称『倶舎釈論』)22巻であり婆藪盤豆造 眞諦譯 『阿毘達磨倶舍釋論』(『大正藏』毘曇部 Vol.29 No.1559)、もう一方は玄奘訳『阿毘達磨倶舍論』(略称『倶舎論』)30巻である世親造 玄奘譯 『阿毘達磨倶舍論』(『大正藏』毘曇部 Vol.29 No.1558)『岩波仏教辞典』P.250「『倶舎論』」漢訳本の正式な表記(旧字体表記)は「舎」字ではなく「舍」字である。
見る 五位と阿毘達磨倶舎論
色 (仏教)
インド哲学における色(しき、रूप rūpa)とは、一般に言う物質的存在のこと。原義では色彩(カラー)よりも、容姿、色艶、美貌をさしている。 仏教においては、色は重要な枠組みとして3つの文脈で登場する。
見る 五位と色 (仏教)
耳
耳(みみ)は、動物の器官の1つで、音を適刺激とする感覚器であると同時に、重力の向きと加速度を適刺激とする感覚器でもある。一般に、聴覚にとって重要な器官として広く認知されているが、聴覚以外にも平衡感覚と回転覚を感知しているため、合わせて平衡聴覚器とも言う解剖学第2版、p.153-157、平衡聴覚器。
見る 五位と耳
虚空
虚空(こくう)とは、。
見る 五位と虚空
掉挙
掉挙(じょうこ)は仏教が教える煩悩のひとつである。 掉挙とは、心が昂ぶり頭に血が上った状態を指し、対義語である昏沈(心が深く沈んだ状態)とともに、平静な心を失っているため煩悩とされている。
見る 五位と掉挙
捨 (仏教)
仏教用語の捨(しゃ)とは、パーリ語のウペッカー(upekkhā、 upekṣā: ウペークシャー, equanimity)に由来し、楽でも苦でもない不苦不楽の感覚状態(ヴェダナー)。心の平静。かたよりのないこと。心が平等で苦楽に傾かないこと。
見る 五位と捨 (仏教)
業
業(ごう)、カルマ(कर्मन् karman)に由来し、行為、所作、意志による身心の活動、意志による身心の生活を意味する語。原義においては単なる行為(action)という意味であり、「良い」「悪い」といった色はなく、暗いニュアンスもない。 インド哲学正統派、および異端派の一部(仏教など)の説では、善または悪の業を作ると、因果の道理によってそれ相応の楽または苦の報い(果報)が生じるとされる。業は果報と対になる語だが、業の果報そのものを業という場合もある。 業の思想はインド発祥の宗教(とりわけヒンドゥー教、仏教、ジャイナ教、シーク教)と道教において、輪廻と強く結びつく概念である これらの多くの説では、善意と善行は良いカルマと幸福な転生をもたらし、悪意と悪行は悪いカルマと悪い再生をもたらすとされるHalbfass, Wilhelm (2000), Karma und Wiedergeburt im indischen Denken, Diederichs, München, Germany(善因善果、悪因悪果)。
見る 五位と業
欲 (仏教)
仏教における欲(よく)、チャンダ ()とは、意図、関心、行動したいという願望を指す 。 アビダルマにおいて、チャンダは以下とされている。
見る 五位と欲 (仏教)
法 (仏教)
仏教における法(ほう、dharma、dhamma)とは、法則・真理、教法・説法、存在、具体的な存在を構成する要素的存在などのこと。本来は「保持するもの」「支持するもの」の意で、それらの働いてゆくすがたを意味して「秩序」「掟」「法則」「慣習」など様々な事柄を示す。三宝のひとつに数えられる。仏教における法を内法と呼び、それ以外の法を外法と呼ぶ。 ダルマは「たもつ」「支持する」などの意味をもつ動詞 (dhṛ) からつくられた名詞であり、漢訳仏典では音写されて達磨(だつま)、達摩(だつま)、曇摩(どんま)、曇無(どんむ)などとなり、通常は「法」と訳されている。また、「存在」を意味する男性名詞「bhāva」が、玄奘により法(『阿毘達磨倶舎論』)と、真諦により法有(『阿毘達磨倶舎釈論』)と、それぞれ訳されていた。
見る 五位と法 (仏教)
法相宗
とは、インド瑜伽行派(唯識派)の思想を継承する中国の唐時代創始の大乗仏教宗派の一つ。645年、中インドから玄奘三蔵が帰国し唯識説が伝えられることになる。その玄奘の弟子の慈恩大師基(窺基)が開いた宗派である。唯識宗・慈恩宗・中道宗とも呼ばれる。705年に華厳宗が隆盛になるにしたがい、宗派としてはしだいに衰えた。 日本仏教における法相宗は、玄奘に師事した道昭が法興寺で広め、南都六宗の一つとして8世紀から9世紀にかけて隆盛を極めた。有名な寺院としては、薬師寺・興福寺などがある。
見る 五位と法相宗
法藏館
株式会社法藏館(法蔵館、ほうぞうかん)は、京都市下京区正面通烏丸東入にある、老舗の仏教系出版社。慶長7年(1602年)創業の仏教書肆・丁子屋の流れを汲む京都府立図書館館報「図書館きょうと」No.40。歴代当主は、西村七兵衛を襲名している(現在は五代目)。 浄土真宗の仏教書を基点に、多くの宗派・学問的立場に拠る仏教書全般を出版している。特に真宗大谷派式務部により編集された出版物の発行や、同部が校閲した出版物を発行するなど、大谷派(東本願寺)とのつながりが深い。令和元年(2019年)「法藏館文庫」刊行が始まった。
見る 五位と法藏館
洞山良价
洞山良价(とうざん りょうかい)は、中国唐代の禅僧。諡は悟本大師。俗姓は兪。越州諸曁県の出身。五家七宗の一つ、曹洞宗の開祖。 高弟に曹山本寂(840年-901年)がおり、宗派の名は洞山とこの曹山から一字ずつとって当初は「洞曹宗」を名乗ったというのが通説の一つだが、諸説異論ある(中国における曹洞宗参照)。
見る 五位と洞山良价
涅槃
涅槃(ねはん)、ニルヴァーナ()、ニッバーナ()とは、一般にヒンドゥー教、ジャイナ教、仏教における概念であり、繰り返す再生の輪廻から解放された状態のこと。 インド発祥の宗教においては、涅槃は解脱(モークシャ मोक्ष または ムクティ मुक्ति mukti)の別名である。すべてのインドの宗教は、涅槃は完全な静寂、自由、最高の幸福の状態であるだけでなく、誕生、生、死の繰り返しである輪廻からの解放と終了であると主張しているGavin Flood, Nirvana.
見る 五位と涅槃
滅日
滅日(めつにち)は、太陰太陽暦における暦注の1つ。滅と略する場合もある。
見る 五位と滅日
末那識
末那識(まなしき、Manas-vijnana)とは、八識のうち七番目で阿頼耶識を所縁(=対象)とする識(viññāṇa)であるという。また、眼、耳、鼻、舌、身、意という六つの識の背後で働く自我意識のこと。「manas」は玄奘の翻訳によって末那識あるいは第七識として漢字仏教圏に広まった。染汚意(ぜんまい、kliṣṭa-manas )ともいう。 大乗仏教(瑜伽行唯識学派)によって唱えられる学説であり、末那識は常に第八識を縁じて、自我という錯覚を生じる。第六識(意識、mano-vijñāna)と区別する為に、manas マナスのまま音写して末那識という。 我法二執の根本である。 第七識・末那識と相応するものは、我癡・我見・我慢・我愛の四煩悩、作意・触・受・想・思の五遍行別境の慧、大随惑の八(不信・懈怠・放逸・惛沈・掉挙・失念・不正知・散乱)であるとされる。
見る 五位と末那識
有為法
有為法(ういほう, saṃskṛta-dharma)とは無常法、すなわち因果律の支配を受けている法(ダルマ)をさす仏教用語。仏教は一切法(sabba-dhamma)を無為法と有為法に明確に二分して、両者を全く異質なカテゴリーとして扱う。 有為(うい)とはサンカーラ(saṃskṛta、saṅkhata)をさし、因(直接条件)と縁(間接条件)が合わさって造作された無常なる現象的存在を意味する。有為法は有果ともいう。有為法は因果的関係によって成立しているので必ず果を有しているため。 有為法に対し、さまざまな因果関係・因縁によって造られたものでなく生滅変化を離れた常住絶対の法を無為法(むいほう、asaṃskṛta-dharma)という。
見る 五位と有為法
想
想(そう、saṃjñā、saññā)とは、事物の形象を心の中に思い浮かべること・表象作用を意味する仏教用語。心に像を思い浮かべる作用や、心に浮かぶ像のこと。例えば、眼をつむって「桜」というイメージを思い浮かべること。 五蘊の一要素(三番目(想蘊))で、説一切有部の五位七十五法のうち、心所法 - (阿毘達磨倶舎論などに言及)、唯識派・法相宗の五位百法のうち有為法 - 心所法 - 遍行心所(成唯識論などに言及)の一要素でもある。
見る 五位と想
成唯識論
『成唯識論』(じょうゆいしきろん、Vijñapti-mātratā-siddhi, ヴィジュニャプティ・マートラター・シッディ)は、法相宗(唯識宗)が所依とする論典の一つ。10巻からなる。 「ヴィジュニャプティ・マートラター」(vijñapti-mātratā)とは「唯識」、「シッディ」(悉地, siddhi)とは「成就」、総じて「唯識による(悟りの)成就(についての論)」の意。 世親が著した『唯識三十頌』を護法が注釈したもので、中国の唐代に玄奘が漢訳した唯識の論典。 注釈書として、大乗基が玄奘の口述を記した『成唯識論述記』が、唯識学の根本聖典とされた。 日本へも早くに伝わり、長く唯識の教学として研究された。近年新しい訳解説が刊行されている。
見る 五位と成唯識論
昏沈
昏沈(惛沈、こんじん)とは、サンスクリット語のstyāna(スティヤーナ)に由来する仏教で説く煩悩の一つ。心の沈鬱。心が巧みでないこと。心身のものういこと。ふさぎ込むこと。心を沈鬱で不活発な状態にさせる心理作用、またその状態。惛沈(こんじん)ともいう。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。五位七十五法のの「」の逆。唯識派の五位百法のうち、心所法-随煩悩心所-大随煩悩の一つ。
見る 五位と昏沈
日本テーラワーダ仏教協会
宗教法人日本テーラワーダ仏教協会(にほんテーラワーダぶっきょうきょうかい、Japan Theravada Buddhist Association)は、1994年に設立された上座部仏教系の日本の宗教団体。2003年5月、宗教法人法に基づく宗教法人として登記された。 上座部仏教とも呼ばれるテーラワーダテーラワーダとは、パーリ語で「長老の教え」の意味。仏教の布教伝道、マハシ系のヴィパッサナー瞑想指導 - 日本テーラワーダ仏教協会を行っている。スリランカ出身でシャム派のアルボムッレ・スマナサーラ(スリランカ上座部仏教シャム派日本大僧伽主任長老)らが長老を務める。 スマナサーラ自身はスリランカ出身だが、他の2名の講師はマハシ瞑想センターと関わりの深いミャンマー系の僧侶であり、組織全体としてはそちらの系統の瞑想センターという趣が強い。
悩
悩 (のう)(pradāsa、プラダーサ)は、仏教が教える煩悩のひとつ。 瞋に付随して起こる。 他の諌めをいれぬ頑迷さ。 忿や恨に続いて生起する。立腹して、人を恨むる心である。怨みつのった気持ちを思い返す心である。 怨みが進み、相手にひがみ、自分の心も内では煩悶する。口をあければ、その言葉は、喧嘩腰で卑しく、相手を毒づき、なじる。 このような心は、自身の心も毒で蝕む。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の覆は『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。
見る 五位と悩
放逸
放逸(ほういつ)、プラマーダ(巴: Pramāda)は仏教が教える煩悩のひとつである。放恣であり善行に専心しないこと。なまけること。 仏道に励まないこと。 懈怠と似ているが、放逸は、懈怠および貪・瞋・癡の三不善根の上に、悪を防がず、善を修せざる状態に対して、特に指摘されるものである。『阿毘達磨倶舎論』などでは、五位七十五法のうち、の一つに数えられる。『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち大随煩悩である。 釈迦は、「なまけることなく(, appamāda)、自己を完成せよ」という遺誡を残して入滅した。
見る 五位と放逸
意識 (仏教)
仏教用語での意識(いしき、)とは、意(mano)+ 識(vijnana)の熟語であり、六識の一つ。意根(mano)によって起こり、法境を了別する心王(しんのう、心の主たるもの)をいう。これに4種ある。
見る 五位と意識 (仏教)
愧
愧(き)(apatrāpya、अपत्राप्य)は、仏教が教える善のひとつ。「自己の罪に対する畏怖」、もしくは「他を観察することによっておのれの過失を恥じること」。他人に対して恥じること。しばしば「慚愧」として扱われる。 涅槃経には、「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」と説かれている。
見る 五位と愧
懈怠
懈怠(けだい、けたい)(kauśīdya、カウシーディヤ)は仏教の煩悩のひとつ。悪を断ち切り、善を修する努力を尽くしていないこと。心が果敢でないこと。怠惰であること。 『阿毘達磨倶舎論』では、五位七十五法のうちの一つ。『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち大随煩悩である。
見る 五位と懈怠
慚
慚(ざん)(hrī、ह्री)は、仏教が教える善のひとつ。「他者の徳に対する恭敬」、もしくは「みずからを観察することによっておのれの過失を恥じること」。自らを顧みて恥じること。しばしば「慚愧」と熟語で用いられる。 ヒンドゥー教においては、10つのニヤマのひとつである。 涅槃経には、「慚はみづから罪を作らず、愧は他を教へてなさしめず。慚は内にみづから羞恥す、愧は発露して人に向かふ。慚は人に羞づ、愧は天に羞づ。これを慚愧と名づく。無慚愧は名づけて人とせず、名づけて畜生とす。」と説かれている。
見る 五位と慚
慢
慢(まん)とはサンスクリット語のMāna(マーナ)に由来し、仏教が教える煩悩のひとつである。他人と比較して思い上がることを言う。慢は渇愛(タンハー)より生まれる。 俗に我慢といい、我が身をのみ頼みて人を侮るような心を指す。 慢は以下として取り上げられている。
見る 五位と慢
慧
慧(え、prajñā, mati)は、仏教用語で下記の2つの意味がある。
見る 五位と慧
慳
慳 (けん)(mātsarya、マートサリヤ)は、仏教が教える煩悩のひとつ。 ものおしみ。自分だけの利益を希求し続ける心のひとつの形で、財宝に耽着して人に施す心無い状態をいう。そのような心の人は、ただ蓄財せんと思う心にとりつかれてしまい、他人のことを考えることもない。 説一切有部の五位七十五法のうち、の一つ。唯識派の『大乗百法明門論』によれば随煩悩位に分類され、そのうち小随煩悩である。仏教の戒律の一つに十重禁戒があり、その第八番目が不慳法財戒(ふけんほうざいかい)、つまり法と財とを慳(おし)むことなかれ、という意味を指す。
見る 五位と慳
思
仏教用語における思(し)とは、パーリ語およびサンスクリット語のチェータナー(Cetanā)に由来する言葉であり、一般的には意志、意図、方向性と訳される。特定の方向、目標、ゴールに向かおうとする意志を指すErik Pema Kunsang (translator) (2004).
見る 五位と思
1980年
この項目では、国際的な視点に基づいた1980年について記載する。
見る 五位と1980年
2005年
この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。
見る 五位と2005年
9世紀
ヴァイキング船博物館蔵)。 エドマンド王が殺害された。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 崇文の治。薬子の変から承和の変までの嵯峨・淳和・仁明の三代の治世は、勅撰漢詩集の編纂にみられる文雅が重んじられた時代で、安定した政治が行われた。画像は三筆の一人でも名高い嵯峨天皇の肖像画(御物)。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 カバー遺跡。ユカタン半島北部の遺跡で、プウク式装飾で有名なコズ・ポープ神殿がある。画像は雨の神チャク神の仮面で覆われたコズ・ポープ神殿のファサードで、裏手と側柱に9世紀の日付がなされている。 Galerie des Batailles」蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。
見る 五位と9世紀
五位 (仏教)、五位七十五法、五位百法 別名。

