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ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス

索引 ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス

ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス(Μιχαήλ Άγγελος Κομνηνός Δούκας, Michael Angelos Komnenos Doukas, 1170年頃 - 1215年)は、エピロス専制侯国の初代専制公(在位:1205年 - 1215年)。 尊厳公(セバストクラトル)・ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカスの庶子。父ヨハネスは東ローマ帝国皇帝イサキオス2世・アレクシオス3世の父アンドロニコス・アンゲロスの兄弟であり、したがってミカエルは両帝の従兄弟という親族関係となる。

目次

  1. 17 関係: 専制公ミカエル2世アンゲロス・コムネノスラテン帝国ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)テッサロニキ王国テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスアルバニアアレクシオス3世アンゲロスアンゲロス王朝イサキオス2世アンゲロスエピロス専制侯国ギリシャギリシャ人コリントスコンスタンティノープル皇帝東ローマ帝国

  2. 1170年代生
  3. 1215年没
  4. 東ローマ帝国の反乱指導者

専制公

Demetrios Palaiologosの刻印 専制公(せんせいこう、δεσπότης)は、コムネノス王朝時代以降の東ローマ帝国の爵位および、後にバルカン半島において使用された地方の領主の称号。古典ギリシャ語ではデスポテース、中世ギリシャ語ではデスポティス。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスと専制公

ミカエル2世アンゲロス・コムネノス

ミカエル2世アンゲロス・コムネノス(, Michael II Angelos Komnenos Doukas, ? - 1271年)は、エピロス専制侯国の専制公(在位:1237年 - 1271年)。ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスの庶子。自称では「ミカエル・ドゥーカス」を多く用いた。中世ギリシア語表記ではミハイル2世アンゲロス・コムニノス・ドゥカス。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとミカエル2世アンゲロス・コムネノス

ラテン帝国

ラテン帝国(ラテンていこく、)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国)から奪ったコンスタンティノープルに第4回十字軍の指導者らが建国した封建制十字軍国家である。 第4回十字軍の後、旧東ローマ帝国領に成立した他のラテン勢力、特にヴェネツィア共和国に対して政治的・経済的優位性を得ることに失敗し、初期の短い軍事的成功の後は北方の第二次ブルガリア帝国や東ローマ帝国の継承権を主張する様々な国と絶えず戦争状態にあったため、次第に衰退していった。最終的には、1261年に東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国がコンスタンティノープルを奪回して東ローマ帝国を復活させた。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとラテン帝国

ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)

ボニファーチョ1世・デル・モンフェッラート(Bonifacio I del Monferrato, 1150年頃 - 1207年9月4日)は、モンフェッラート侯(在位:1192年 - 1207年)。第4回十字軍の指導者で、コンスタンティノープル攻略後テッサロニキ王国を創設、テッサロニキ王に即位した(在位:1205年 - 1207年)。

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テッサロニキ王国

テッサロニキ王国(Βασίλειον Θεσσαλονίκης, 1204年 - 1224年)は、第4回十字軍後にモンフェッラート侯ボニファーチョ1世がギリシアのテッサロニキを中心に築いた短命の十字軍国家である。テッサロニカ王国、サロニカ王国とも呼ぶ。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとテッサロニキ王国

テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス

テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス(, Theodoros Komnenos Doukas, ? - 1253年頃)は、エピロス専制侯国の第2代専制公(在位:1215年 - 1230年、皇帝としては1224年 - 1230年)。初代専制公・ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスの弟。父系ではアンゲロス(, Angelos)であるが実際にはその名前を使用していない。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとテオドロス1世コムネノス・ドゥーカス

アルバニア

アルバニア共和国(アルバニアきょうわこく、Republika e Shqipërisë)、通称アルバニアは、東南ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和制国家。首都はティラナ。 西はアドリア海に面し、対岸はイタリアである。北はモンテネグロ、北東はコソボ(コソボを独立国と認めない立場からすればセルビア)、東は北マケドニア、南はギリシャと国境を接する。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとアルバニア

アレクシオス3世アンゲロス

アレクシオス3世アンゲロス(Αλέξιος Γ΄ Άγγελος, Alexios III Angelos、1156年 - 1211年)は、東ローマ帝国アンゲロス王朝の第2代皇帝(在位:1195年 - 1203年)。初代皇帝・イサキオス2世アンゲロスの弟である。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとアレクシオス3世アンゲロス

アンゲロス王朝

アンゲロス王朝(アンゲロスおうちょう、ギリシャ語:Άγγελος、ラテン文字表記:Angelos)は、東ローマ帝国の王朝(1185年 - 1204年)。アンゲロス家の王朝であり、家名は「天使」を意味するとも、「アミダ出身」を意味するともいわれる。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとアンゲロス王朝

イサキオス2世アンゲロス

イサキオス2世アンゲロス(Ισαάκιος Β' Άγγελος: Isaakios II Angelos、1156年9月 - 1204年1月28日)は、東ローマ帝国アンゲロス王朝の初代皇帝(在位:1185年 - 1195年、1203年)。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとイサキオス2世アンゲロス

エピロス専制侯国

エピロス専制侯国(エピロスせんせいこうこく、Δεσποτάτο της Ηπείρου、Despotate of Epirus)は、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃で東ローマ帝国が一旦滅びた時、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国などと共に出来た亡命政権の一つである。「専制公国」と表記される場合もある(以下、こちらの表記を優先する)。なお「エピロス」はギリシャ語に基づく慣用形で、古典ギリシャ語読みでは「エペイロス」、中世ギリシャ語では「イピロス」、ラテン語では「エピルス」である。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとエピロス専制侯国

ギリシャ

ギリシャ共和国(ギリシャきょうわこく、Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する共和制国家。2011年の国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人、面積は日本の約3分の1である。アテネは首都および最大都市であり、テッサロニキは第2の都市および中央マケドニアの州都である。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとギリシャ

ギリシャ人

ギリシャ人(ギリシャじん、ギリシア語:Ἕλληνες 現代ギリシア語, Hellēnes古代ギリシア語)は、バルカン半島周辺およびキプロスに出自を持ち、ギリシャ語を母語とする民族である。国民としてのギリシャ人(ギリシャ共和国の国籍を有するもの)にはアルーマニア人、アルバニア人、トルコ系、国外からの移住者も含まれる。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとギリシャ人

コリントス

コリントス(Κόρινθος Korinthos) は、ギリシア共和国ペロポネソス地方にある都市であり、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。コリントス地峡に位置する港湾都市で、コリンティア県の県都である。コリントなどの表記も用いられる。 古代ギリシアにおいてコリントスは、アテナイやスパルタと並ぶ主要な都市国家(ポリス)のひとつであり、アクロポリス(アクロコリントス)には遺跡が残る。古代ローマ時代には属州アカエアの州都として繁栄し、キリスト教文化においてはパウロ書簡の宛先としても知られている。コリントスは戦乱や災害によって幾度もの破壊と再建を経ており、現在のコリントスの市街地は19世紀半ばに新たに建設されたものである。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとコリントス

コンスタンティノープル

コンスタンティノープル(Constantinople、Constantinopolis、Κωνσταντινούπολις / 、現代Κωνσταντινούπολη / )は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンティノープル総主教庁が置かれている。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとコンスタンティノープル

皇帝

皇帝(こうてい、isbn, the King、Kaiser、imperator、царь、Βασιλεὺς βασιλέων、皇帝)は、帝国君主の総称。王の中の王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には「唯一神」の意味や模倣・僭称も存在し、一神教では、人間が崇拝すべきは唯一神という「唯一の皇帝」・「宇宙で唯一の正当な王者」・「全人類の皇帝」のみであるとされている。 キリスト教圏における「唯一の神、唯一の皇帝」という理念は、キリスト教がローマ帝国主義と融合し国教化していった歴史から大きく影響されている。ロシアでは1990年代初期以降、皇帝制の復興を目指す運動やプロパガンダが活発化しており、大統領が皇帝(ツァーリ)になることを望む人々が都市部で増加している。現代まで在位が続くイスラーム系君主号「スルタン Sultan」は、権威・専制的意味があり、「皇帝 Emperor」とも訳される。「皇帝」(スルタン)の復権を目指す運動は、イスラーム帝国主義(新オスマン帝国主義)と同調している。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスと皇帝

東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名ビュザンティオンは Byzantion,帝国の呼称としては Byzantinisches Reich(ビュツァンティニッシェス・ライヒ) が用いられるのが一般的である。、ビザンティン帝国、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には西暦395年以降の東の皇帝の統治領域を指すなお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた。

見る ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスと東ローマ帝国

参考情報

1170年代生

1215年没

東ローマ帝国の反乱指導者