ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
ダウンロード
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス

索引 ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス

ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス(Μιχαήλ Άγγελος Κομνηνός Δούκας, Michael Angelos Komnenos Doukas, ? - 1215年)は、エピロス専制侯国の初代専制公(在位:1204年 - 1215年)。 尊厳公(セバストクラトル)・ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカスの庶子。父ヨハネスは東ローマ帝国皇帝イサキオス2世・アレクシオス3世の父アンドロニコス・アンゲロスの兄弟であり、したがってミカエルは両帝の従兄弟という親族関係となる。.

17 関係: 専制公ラテン帝国ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)テッサロニキ王国テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスアルバニアアレクシオス3世アンゲロスイサキオス2世アンゲロスエピロス専制侯国ギリシャギリシャ人コリントスコンスタンティノープル皇帝東ローマ帝国1204年1215年

専制公

Demetrios Palaiologosの刻印 専制公(せんせいこう、δεσπότης)は、コムネノス王朝時代以降の東ローマ帝国の爵位および、後にバルカン半島において使用された地方の領主の称号。古典ギリシャ語では「デスポテース」、中世ギリシャ語では「デスポティス」。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスと専制公 · 続きを見る »

ラテン帝国

ラテン帝国(ラテンていこく、1204年 - 1261年)は、第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻めて東ローマ帝国をひとたび滅亡させた後、コンスタンティノポリスに立てられたカトリック国家である。いわゆる十字軍国家の1つ。正式名はロマニア帝国(Imperium Romaniae)という。ロマニアとは「ローマ人の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。 1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国に滅ぼされた。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとラテン帝国 · 続きを見る »

ボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯)

モンフェッラート侯ボニファーチョ1世(Bonifacio I del Monferrato、1150年頃 - 1207年)は第4回十字軍の指導者で、コンスタンティノープル攻略後、テッサロニキ王国を創設した。 ボニファーチョは、モンフェッラート侯グリエルモ5世とジュディッタ・ダウストリア(オーストリア辺境伯レオポルト3世の娘)の3男として生まれ、兄にグリエルモ(ロングエペー)、モンフェッラート侯コッラード(コンラート1世)がいる。彼の父と兄2人は十字軍で活躍しており、兄グリエルモはエルサレム王女シビーユと結婚してボードゥアン5世の父となり、コンラートは第3回十字軍時にティルスの防衛に活躍し、シビーユの妹イザベルと結婚してエルサレム王になっている。 ボニファーチョも若いころから数々の冒険譚があり、彼のトゥルバドゥールによって戯曲化されている。フリードリヒ1世やハインリヒ6世に従い、ホーエンシュタウフェン朝のイタリア攻略に参加した。1193年に兄の跡を継いでモンフェッラート侯となり、1194年からシチリア遠征に参加する。 モンフェッラート家はヨーロッパ中の有力な家系と縁組をしており、フランス王フィリップ2世や神聖ローマ皇帝ハインリヒ6世、フィリップ兄弟は従兄弟にあたる。当時、ピエモンテはオック語圏であり、その宮廷は宮廷詩人や騎士道物語等、文化の中心として栄えた。 1201年に第4回十字軍の指導者シャンパーニュ伯ティボー3世が亡くなった後、彼自身の軍歴とヨーロッパ王家との縁戚やエルサレム王国や東ローマ帝国等オリエントの事情に詳しいこと等から、新しい指導者に選ばれた。 同年のクリスマスに従兄弟のローマ王フィリップの元を訪れ、フィリップの義弟にあたる東ローマ帝国の亡命皇子アレクシオスと会っており、この時にコンスタンティノープル攻撃が計画されたと推定されている。 第4回十字軍はヴェネツィア共和国の思惑もあり、ハンガリー王国ザラを攻略した後、アレクシオスの要請に従ってコンスタンティノープルを攻略した。詳細は第4回十字軍参照。 1204年のコンスタンティノープル攻略後、イサキオス2世の未亡人となったハンガリー王ベーラ3世の娘マルギトと結婚し、ラテン帝国皇帝の最有力候補と見なされていたが、強力な皇帝を嫌うヴェネツィアの意向によりフランドル伯ボードゥアンが皇帝に選ばれた。ボニファーチョはボードゥアンと対立し、同年ギリシアでテッサロニキ王国を建国した。しかし1207年9月にブルガリア帝国のカロヤンに急襲され、戦死。モンフェッラート侯国を先妻の子であり長男であるグリエルモが、テッサロニキ王国はマルギトの子であり次男であるデメトリオが継いだ。 Category:テッサロニキ国王 Category:モンフェッラート侯 Category:アレラーミチ家 Category:生年不明 Category:1207年没.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとボニファーチョ1世 (モンフェッラート侯) · 続きを見る »

テッサロニキ王国

テッサロニキ王国(Βασίλειον Θεσσαλονίκης, 1204年 - 1224年)は、第4回十字軍の後に、モンフェッラート侯ボニファーチョ1世がギリシアのテッサロニキを中心に築いた短命の十字軍国家。テッサロニカ王国、サロニカ王国とも。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとテッサロニキ王国 · 続きを見る »

テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス

テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス(, Theodoros Komnenos Doukas, 生年不詳-1253年頃没)は、エピロス専制侯国の第2代専制公。初代専制公・ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスの弟(在位:1215年 - 1230年、皇帝としては1224年 - 1230年)。父系ではアンゲロス(Angelos)であるが実際にはその名前を使用していない。 1215年、兄のミカエル1世が暗殺されたため、後を継いだ。テオドロス1世は勇猛果敢な軍人君主で、積極的なエピロス専制侯国の勢力拡大を推し進めた。 即位の翌年、第2代ラテン帝国の皇帝アンリ・ド・エノーが死去して帝国が衰退すると、テオドロス1世はすかさずテッサロニキ王国に侵攻し、1224年までに王国を滅ぼした。この結果、エピロス専制侯国はエピロスからテッサリア、マケドニアに及ぶ大領土を支配するようになったのである。そして、この拡大した勢力を背景としてテッサロニキにて公然と皇帝を称したのである。このため、この時期の専制侯国は、「テッサロニキ帝国」とも呼ばれているのである。この頃が、エピロス専制侯国の最盛期であった。 1217年にはアンリの後を継いだラテン皇帝ピエール・ド・クルトネーをアルバニアの山中にて捕縛し、1225年にはアドリアノープルを占領するなど、コンスタンティノポリス奪還と東ローマ帝国復活に向けて順調に勢力を拡大していった。しかし、時のブルガリア帝国皇帝イヴァン・アセン2世もコンスタンティノポリス征服を目指していたため、両者の関係は険悪なものとなった。1230年、テオドロスは8万の軍勢を率いてブルガリア遠征に乗り出すがクロコトニツァの戦いで8万人が全滅するという壊滅的な敗北を喫し、自身は捕虜となってしまった。エピロスの支配権は弟マヌエルが引き継ぐがブルガリアの優位は決定的なものとなった。 テオドロスはブルガリアにて虜囚生活を余儀なくされたが、イヴァン・アセン2世の皇后の死去に伴い、娘のエイレーネを彼と結婚させる条件で釈放された(1237年)。彼は帰国後直ちに弟のマヌエルを追放し、息子のヨアンネスを支配の座につけた。しかしテオドロスはニカイア帝国との対抗上、間もなくマヌエルやコンスタンティノスと和解し、更にラテン帝国などとも同盟を結んだ。 しかしこれらの権力闘争の結果、エピロス専制侯国の一体性は失われた。マヌエルはテッサリアにて独立を維持し、ミカエル1世の庶子でテオドロスにとっては異母兄弟にあたるミカエル2世アンゲロス・コムネノスがエピロスを拠点として事実上の独立を果たした。こうした分裂傾向はエピロス専制侯国の勢力と威信を著しく弱める結果をもたらした。 テオドロスは後にニカイア帝国に捕らえられ、虜囚生活の内に1253年頃死去した。 Category:エピロス専制公 Category:ドゥーカス家.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとテオドロス1世コムネノス・ドゥーカス · 続きを見る »

アルバニア

アルバニア共和国(アルバニアきょうわこく、Shqipëria)、通称アルバニアは、東ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和制国家。首都はティラナ。 西はアドリア海に面し、北にはモンテネグロ、東にはマケドニア共和国とコソボ、南にはギリシャと国境を接する。 宗教の信者数はオスマン帝国支配等の歴史的経緯から、イスラム教徒である国民が大半を占めるが、信仰形態は非常に世俗的である。また、キリスト教の正教会やカトリックの信者も少なくない。なお、欧州で唯一のイスラム協力機構正規加盟国である。 1992年 - 1998年の国章 オスマン帝国時代アルバニア系人の旗(1453–1793).

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとアルバニア · 続きを見る »

アレクシオス3世アンゲロス

アレクシオス3世アンゲロス(Αλέξιος Γ΄ Άγγελος, Alexios III Angelos、1156年 - 1211年)は、東ローマ帝国アンゲロス王朝の第2代皇帝(在位:1195年 - 1203年)。初代皇帝・イサキオス2世アンゲロスの弟である。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとアレクシオス3世アンゲロス · 続きを見る »

イサキオス2世アンゲロス

イサキオス2世アンゲロス(Ισαάκιος Β' Άγγελος: Isaakios II Angelos、1156年9月 - 1204年1月28日)は、東ローマ帝国アンゲロス王朝の初代皇帝(在位:1185年 - 1195年、1203年)。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとイサキオス2世アンゲロス · 続きを見る »

エピロス専制侯国

ピロス専制侯国(エピロスせんせいこうこく、Δεσποτάτο της Ηπείρου, Despotate of Epirus)は、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃で東ローマ帝国が一旦滅びた時、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国などと共に出来た亡命政権の一つ。「専制公国」と表記される場合もある(以下、こちらの表記を優先する)。なお「エピロス」はギリシャ語に基づく慣用形で、古典ギリシャ語読みでは「エペイロス」、中世ギリシャ語では「イピロス」、ラテン語では「エピルス」である。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとエピロス専制侯国 · 続きを見る »

ギリシャ

リシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。2011年国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人である。アテネは首都及び最大都市であり、テッサロニキは第2の都市及び中央マケドニアの州都である。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとギリシャ · 続きを見る »

ギリシャ人

リシャ人(ギリシャじん、ギリシア語:Ἕλληνες 現代ギリシア語, Hellēnes古代ギリシア語)とはバルカン半島周辺およびキプロスに出自を持ち、ギリシャ語を母語とする民族。国民としてのギリシャ人(ギリシャ共和国の国籍を有するもの)にはアルーマニア人、アルバニア人、トルコ系、国外からの移住者も含まれる。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとギリシャ人 · 続きを見る »

コリントス

リントス(Κόρινθος) は、ギリシア共和国ペロポネソス地方にある都市であり、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。コリントス地峡に位置する港湾都市で、コリンティア県の県都である。コリントなどの表記も用いられる。 古代ギリシアにおいてコリントスは、アテナイやスパルタと並ぶ主要な都市国家(ポリス)のひとつであり、アクロポリス(アクロコリントス)には遺跡が残る。古代ローマ時代には属州アカエアの州都として繁栄し、キリスト教文化においてはパウロ書簡の宛先としても知られている。コリントスは戦乱や災害によって幾度もの破壊と再建を経ており、現在のコリントスの市街地は19世紀半ばに新たに建設されたものである。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとコリントス · 続きを見る »

コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスとコンスタンティノープル · 続きを見る »

皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスと皇帝 · 続きを見る »

東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスと東ローマ帝国 · 続きを見る »

1204年

記載なし。

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスと1204年 · 続きを見る »

1215年

記載なし。

新しい!!: ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスと1215年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »