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エピロス専制侯国

索引 エピロス専制侯国

ピロス専制侯国(エピロスせんせいこうこく、Δεσποτάτο της Ηπείρου, Despotate of Epirus)は、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃で東ローマ帝国が一旦滅びた時、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国などと共に出来た亡命政権の一つ。「専制公国」と表記される場合もある(以下、こちらの表記を優先する)。なお「エピロス」はギリシャ語に基づく慣用形で、古典ギリシャ語読みでは「エペイロス」、中世ギリシャ語では「イピロス」、ラテン語では「エピルス」である。.

91 関係: 十字軍専制公専制公国亡命政府ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスミカエル2世アンゲロス・コムネノスマヌイル・アンゲロス・フィランソロピノスマヌエル・コムネノス・ドゥーカスヨハネス1世ドゥーカスヨハネス2世ドゥーカスヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスヨハネス・コムネノス・ドゥーカス (エピロス・テッサロニキ専制公)ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴスヨアニナラテン帝国ラテン語ヴェネツィア共和国トマ・プレリュボヴィチトレビゾンド帝国トーマース・ドゥーカスピエール2世・ド・クルトネーテッサロニキテッサロニキ王国テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスデメトリオス・アンゲロス・ドゥーカスニカイア帝国ニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニニケフォロス1世 (エピロス専制公)ニコーラ・オルシーニアルバニアアルバニア人アレクシオス・アンゲロス・フィランソロピノスアンゲロス王朝イピロスイサキオス2世アンゲロスオルシーニ家オスマン帝国カエサル (称号)ギリシア語コムネノス王朝コンスタンティノープルコンスタンティノス・ドゥーカス (アンゲロス)シメオン・ウロシュ・パレオロゴスジョヴァンニ2世オルシーニステファノス・ガヴリイロプロスステファン・ウロシュ4世ドゥシャンセルビア王国 (中世)皇帝第4回十字軍第二次ブルガリア帝国...爵位東ローマ帝国1204年1205年1215年1224年1230年1237年1242年1244年1246年1259年1264年1271年1289年1296年12世紀1303年1318年1323年1333年1335年1336年1340年1348年1355年1356年1359年1367年1371年1381年1384年1385年1389年1393年1411年1429年1430年1448年1449年1479年 インデックスを展開 (41 もっと) »

十字軍

1回十字軍によるアンティオキア攻囲戦 十字軍(じゅうじぐん、cruciata、crusade)とは、中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック教会の諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことである。 一般には、上記のキリスト教による対イスラーム遠征軍を指すが、キリスト教の異端に対する遠征軍(アルビジョア十字軍)などにも十字軍の名称は使われている。 実態は必ずしも「キリスト教」の大義名分に当て嵌まるものではなく、中東に既にあった諸教会(正教会・東方諸教会)の教区が否定されてカトリック教会の教区が各十字軍の侵攻後に設置されたほか、第4回十字軍や北方十字軍などでは、正教会も敵として遠征の対象となっている。また、目的地も必ずしもエルサレム周辺であるとは限らず、第4回以降はイスラム最大勢力であるエジプトを目的とするものが多くなり、最後の十字軍とされることもある第8回の十字軍は北アフリカのチュニスを目的としている。.

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専制公

Demetrios Palaiologosの刻印 専制公(せんせいこう、δεσπότης)は、コムネノス王朝時代以降の東ローマ帝国の爵位および、後にバルカン半島において使用された地方の領主の称号。古典ギリシャ語では「デスポテース」、中世ギリシャ語では「デスポティス」。.

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専制公国

専制公国(Despotate).

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亡命政府

亡命政府(ぼうめいせいふ)とは、クーデターや他国による占領などでその国の政治から排除された元首または国民などが、外国に脱出してその地で組織する政府組織。通常は転覆された政権のメンバーが中心となって亡命先で結成し自らの正統性を主張しているものを呼ぶ。いくつかの国家の支持・支援を受けている場合もある。.

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ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス

ミカエル1世コムネノス・ドゥーカス(Μιχαήλ Άγγελος Κομνηνός Δούκας, Michael Angelos Komnenos Doukas, ? - 1215年)は、エピロス専制侯国の初代専制公(在位:1204年 - 1215年)。 尊厳公(セバストクラトル)・ヨハネス・アンゲロス・ドゥーカスの庶子。父ヨハネスは東ローマ帝国皇帝イサキオス2世・アレクシオス3世の父アンドロニコス・アンゲロスの兄弟であり、したがってミカエルは両帝の従兄弟という親族関係となる。.

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ミカエル2世アンゲロス・コムネノス

ミカエル2世アンゲロス・コムネノス(, Michael II Angelos Komnenos Doukas, ?-1271年)は、エピロス専制侯国の専制公。ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスの庶子(在位1237年-1271年)。自称では「ミカエル・ドゥーカス」を多く用いた。中世ギリシア語表記ではミハイル2世アンゲロス・コムニノス・ドゥカス。.

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マヌイル・アンゲロス・フィランソロピノス

マヌイル・アンゲロス・フィランソロピノス(Μανουήλ Άγγελος Φιλανθρωπηνός, ローマ字転写: Manouel Angelos Philanthropinos, 生没年不詳)は東ローマ・ギリシア系セサリア君主国(テッサリア君主国)支配者(1389年12月?-1393年12月?)、副帝(ケサル)。古典的慣例表記ではマヌエル・アンゲロス・フィラントロペノス。.

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マヌエル・コムネノス・ドゥーカス

マヌエル・コムネノス・ドゥーカス(Μανουήλ Κομνηνός Δούκας, Manouel Komnenos Doukas, 生年不詳-1241年没)はエピロス・テッサロニキ専制公(1230年-1237年)。中世ギリシア語表記ではマヌイル・コムニノス・ドゥカス。テッサロニキ「皇帝」テオドロス1世コムネノス・ドゥーカスの弟。父系ではアンゲロス(Άγγελος, Angelos)であるが実際にはその名前を使用していない。 兄テオドロスがクロコトニツァの戦い(1230年)で捕虜になった後、統治職を代行する。しかしテオドロスは1237年にブルガリア帝国皇帝イヴァン・アセン2世によって釈放され帰国すると、マヌエルを市から追放し長子ヨハネスをその支配に据えてしまう。マヌエルはやむなくテッサリアに逃れてそこに支配権を確立する。これによってかつての「テッサロニキ帝国」はテッサロニキ(ヨハネス)、テッサリア(マヌエル)、エピロス(ミカエル2世)の三国に分割された事になる。マヌエルは1241年頃に死去し、その遺領はミカエル2世が併合した。 マヌエルの最初の妻はセルビア君主ステファン・ネマニャの姉妹。二番目の妻はイヴァン・アセン2世の娘。共に子供は生まれなかった。 Category:エピロス専制公 Category:ドゥーカス家 Category:1241年没.

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ヨハネス1世ドゥーカス

ヨハネス1世ドゥーカス(, ローマ字転写: Ioannes I Doukas Komnenos, 生年不詳-1289年)は、テッサリア君主国の君主。ヨハネス・ドゥーカス・コムネノスとも。ミカエル2世アンゲロス・コムネノスの庶子(在位1271年-1289年)。中世ギリシア語ではヨアニス1世ドゥカス・コムニノス。 1271年、父・ミカエル2世が死去した後を嫡男のニケフォロス1世が継いだ。庶子であったヨハネスはこれに不満を持ち、テッサリア・ネオパトラス市にて独立して自ら専制公に名乗りを上げた。後にコンスタンティノポリス宮廷から専制公より一段低い尊厳公(セバストクラトル)称号を授与され、それを以て君主号とした。ここにエピロス専制公国は分裂する。ヨハネスは野心的な人物で、コンスタンティノープルの皇帝ともエピロス専制公とも競合関係に入った。1275年、1277年と二度にわたる東ローマ帝国皇帝・ミカエル8世パレオロゴスの侵攻を撃退し、独立君主としての力と権威を示した。テッサリアが独立の一地方としての歴史を歩み始めたのも彼の時代からである。しかし一方で1259年のペラゴニアの戦いに於けるエピロス側の敗因の一つがヨハネスと同盟者アカイア公ギヨーム2世・ド・ヴィルアルドゥアンとの些細な対立にあったように、彼の野心と矜持それ自体がエピロスとテッサリア両国の分裂・抗争・衰退を招き、ニカイア帝国・復興東ローマ帝国を利した事も否定できない。.

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ヨハネス2世ドゥーカス

ヨハネス2世ドゥーカス(, Ioannes II Doukas, ? - 1318年)は、テッサリア君主国の尊厳公。コンスタンティノス・ドゥーカスの子(在位:1303年 - 1318年)。中世ギリシア語の表記ではヨアニス2世ドゥカス。 1303年に父コンスタンティノスの後を継いで尊厳公(セバストクラトル)となる。1308年までは父の同盟者、叔父にあたるアテネ公ギイ2世ド・ラ・ロシュの後見を受けた。ギイの死後、妻に東ローマ帝国皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの娘エイレーネーを迎えているが、これは東ローマ側がテッサリアを併合する為の布石であった。ヨハネス自身、病弱であり、実権は自立傾向を強めていたテッサリアの有力者達によって掌握されていた。しかし彼らは東ローマ帝国に従う事もよしとしなかった為、隣国であるアテネ公国と同盟を結び、その君主をヨハネスの後見人にするなどしてテッサリア君主国の存続を支援した。 ヨハネス2世は1318年に後継者なく死去し、東ローマ帝国による併合が開始される。しかし血縁ではないながらドゥーカス・コムネノス・アンゲロス家同様に尊厳公の称号を名乗り、独立政権を樹立したステファノス・ガヴリイロプロスら有力者達の抵抗は続き、またエピロス専制公ジョヴァンニ2世オルシーニも干渉を重ねた。帝国が最終的に併合を完了するのは1335年頃の事である。 Category:エピロス専制侯国 Category:ドゥーカス家 Category:1318年没.

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ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェス

ヨハネス3世ドゥーカス・ヴェタツェス(ギリシア語:Ιωάννης Γ' Δούκας Βατάτζης (Iōannēs III Dūkas Batatzēs)1193年 - 1254年11月3日)は、東ローマ帝国の亡命政権であるニカイア帝国の第2代皇帝(在位:1222年 - 1254年)。てんかん持ちであった。.

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ヨハネス・コムネノス・ドゥーカス (エピロス・テッサロニキ専制公)

ヨハネス・コムネノス・ドゥーカス(Ιωάννης Κομνηνός Δούκας, Johannes Komnenos Doukas, 生年不詳 - 1244年)はエピロス・テッサロニキ専制公(在位期間:1237年-1244年)。 中世ギリシア語読みではヨアニス・コムニノス・ドゥカス。エピロス・テッサロニキを支配し皇帝を称したテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスの長子。父系ではアンゲロス(Άγγελος, Angelos)であるが、実際にはその名前を使用していない。 父テオドロスはクロコトニツァの戦いでブルガリア皇帝イヴァン・アセン2世の捕虜となっていたが、1237年に釈放されて帰国し、統治職を代行していた叔父マヌエルを追放し、長子であったヨハネスにテッサロニキの支配権を与えた。しかし、この事は却って一族の結束を弱め、追放されたマヌエルはテッサリアに、また父の従兄弟に当たるミカエル2世アンゲロス・コムネノスはエピロスにそれぞれ独立勢力を築き、かつての「帝国」は三分割されてしまった。またテオドロス・ヨハネス親子の支配権はブルガリア帝国の影響下に置かれ、その政治力は著しく弱められた。 こうした状況はコンスタンティノポリス奪回を目指すニカイア帝国に有利に働き、皇帝ヨハネス3世ドゥーカス・ヴァタツェスはイヴァン・アセン2世死後の混乱に乗じてバルカン半島への進出を果たした。ヨハネスはこれに抵抗するが、最終的には屈服を余儀なくされる。1242年、彼はヨハネス3世から贈られた専制公称号と衣装・靴・徽章を受け取り、皇帝に属する衣装・靴・徽章の着用と赤インクでの署名の権利を放棄した。以後ヨハネスはテッサロニキ専制公としてニカイア帝国の名目的な宗主権下に甘んじたが、実質的な独立は辛うじて維持した。 ヨハネスは1244年に死去し、弟デメトリオスが後を継いだ。 Category:エピロス専制公 Category:ドゥーカス家 Category:1244年没.

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ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴス

ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴス(, 1350年頃 - 1423年2月24日)は、中世セルビア王国の王子、セルビア人のセサリア(テッサリア君主国)皇帝(在位:1371年 - 1381年)。ギリシア語名はヨアニス・ウレシス・ドゥカス・パレオロゴス(Ιωάννης Ούρεσις Δούκας Παλαιολόγος)。後にメテオラ修道院の修道士となった。修道士ヨアサフ(, Ιωάσαφ)としても知られる。 セルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの異母弟シメオン・ウロシュ・パレオロゴスの長男でドゥシャンの甥にあたる。一部の文献、サイト記事などに見られる「ドゥシャンの息子」という記述は誤りである。.

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ヨアニナ

ヨアニナ(Ιωάννινα / Ioanina)は、ギリシャ共和国イピロス地方の都市であり、その周辺地域を含む基礎自治体(ディモス)。イピロス地方の首府であり、ヨアニナ県の県都である。 パンヴォティサ湖の西側にある都市で、都市圏の人口は約10万人である。.

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ラテン帝国

ラテン帝国(ラテンていこく、1204年 - 1261年)は、第4回十字軍がコンスタンティノポリスを攻めて東ローマ帝国をひとたび滅亡させた後、コンスタンティノポリスに立てられたカトリック国家である。いわゆる十字軍国家の1つ。正式名はロマニア帝国(Imperium Romaniae)という。ロマニアとは「ローマ人の地」の意味で東ローマ帝国の後継国家を目指す意味を持っていた。 1261年、東ローマ帝国の亡命政権のひとつであるニカイア帝国に滅ぼされた。.

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ラテン語

ラテン語(ラテンご、lingua latina リングア・ラティーナ)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の言語の一つ。ラテン・ファリスク語群。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。.

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ヴェネツィア共和国

ヴェネツィア共和国(薄赤)の領域はポー平原北部からイストリア半島、ダルマチアに及んでいた。1494年時点の状況 最も高貴な共和国ヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこく ヴェネツィア、Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、、)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。.

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トマ・プレリュボヴィチ

トマ・プレリュボヴィチ(, 生年不詳 - 1384年12月23日)は、セルビア人イピロス専制公(在位:1367年 - 1384年12月23日)。ギリシア語名はソマス・コムニノス・プレルボス()。古典式慣例表記はトーマース・コムネノス。.

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トレビゾンド帝国

トレビゾンド帝国(トレビゾンドていこく、Empire of Trebizond, Trapezuntine Empire 1204年 - 1461年)は、1204年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍の攻勢によって陥落した際に、東ローマの皇族が各地に樹立した亡命政権のひとつ。首都はトラペズス(現在のトルコ共和国トラブゾン。英語名トレビゾンド)。トラペザス帝国とも表記される。.

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トーマース・ドゥーカス

トーマース・ドゥーカス(Θωμάς Δούκας, Thomas Doukas, ? - 1318年)は、エピロス専制公国の専制公(在位:1296年 - 1318年)。ニケフォロス1世の子。中世ギリシア語表記ではソマス・ドゥカス。 1290年、コンスタンティノポリス宮廷から専制公に叙せられ、父ニケフォロス1世の後継者として認められる。1296年、父の死により支配権を継承した。1313年に東ローマ帝国皇帝ミカエル9世パレオロゴスの娘アンナと結婚。若年のためあまり政治的な手腕を揮うことはなかったが、姉妹タマルの夫、アカイア公フィリッポ1世・ディ・ターラント(アンジュー家のナポリ王ロベルトの弟)と同盟を結び、エピロスの独立を維持する。しかし1318年、甥(異母姉妹マリアの息子)のケファロニア伯・ニコーラ・オルシーニに暗殺され、エピロス専制公国のアンゲロス家直系はここに断絶した。 Category:エピロス専制公 とおまあす Category:ギリシャの幼君 Category:暗殺された人物 Category:13世紀生 Category:1318年没.

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ピエール2世・ド・クルトネー

ピエール2世・ド・クルトネー (Pierre II de Courtenay、1155年 - 1219年)は、ラテン帝国皇帝(在位:1216年 - 1217年)、ヌヴェール伯瀬原、p.

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テッサロニキ

アギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会。 テッサロニキ(Θεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki )またはテサロニカ (Thessalonica)(or)は歴史的にはサロニカ(Salonica)の名で知られたギリシャの都市である。テサロニキとも表記する。同国では首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市で、中央マケドニアの首府であり マケドニア・トラキア行政管区(Αποκεντρωμένη Διοίκηση Μακεδονίας-Θράκης)の首府でもある。テッサロニキには Συμπρωτεύουσα (Symprotévusa、共同の首都)と言う称号があり、東ローマ帝国時代にはコンスタンティノープルと並びビザンティンに君臨した都市であった。 2011年の国勢調査による統計でのテッサロニキ自治体の人口は322,240人でテッサロニキ自治体と隣接する自治体で構成される都市的地域のテッサロニキ都市圏の人口は790,824人 であった。バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラードに次いで6番目に大きな都市圏を形成し、首都でない都市ではイスタンブールに次いで人口が多い都市である。テッサロニキ大都市圏は周辺地域 1455.62km2の範囲で広がり、2011年現在の人口は1,006,730人に達する。テッサロニキはギリシャ第2の都市として、経済や産業、商業、政治の中心であると共に南東ヨーロッパの交通の一大拠点で、テッサロニキ港はギリシャや南東ヨーロッパの後背地にとっては重要な役割を果たしている。 ギリシャにおいて有名な行事が行われたり、様々な時代の遺構が残されていることから文化的な首都であると考えられている。行事には毎年行われるテッサロニキ国際トレードフェアやテッサロニキ国際映画祭などがあり、半年ごとに行われるギリシャ・デゥアスポラの会議が開催される。 2014年の欧州青年首都に選ばれている。 テッサロニキは紀元前315年カッサンドロスによって創建され、以来2,300年の歴史がある都市で、ローマ時代には重要な大都市であった。テッサロニキはビザンティン時代には2番目に富める都市になっており、市内には多くの著名なビザンティン建築が残されている。その中には世界遺産に登録されたテッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群も含まれ、同様にローマ時代やオスマン帝国時代のもの、セファルディムの遺構も残されている。 アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われており、アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。テッサロニキ市のメインとなる大学のアリストテレス大学はギリシャやバルカンでは最大の学生数を誇っている。.

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テッサロニキ王国

テッサロニキ王国(Βασίλειον Θεσσαλονίκης, 1204年 - 1224年)は、第4回十字軍の後に、モンフェッラート侯ボニファーチョ1世がギリシアのテッサロニキを中心に築いた短命の十字軍国家。テッサロニカ王国、サロニカ王国とも。.

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テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス

テオドロス1世コムネノス・ドゥーカス(, Theodoros Komnenos Doukas, 生年不詳-1253年頃没)は、エピロス専制侯国の第2代専制公。初代専制公・ミカエル1世コムネノス・ドゥーカスの弟(在位:1215年 - 1230年、皇帝としては1224年 - 1230年)。父系ではアンゲロス(Angelos)であるが実際にはその名前を使用していない。 1215年、兄のミカエル1世が暗殺されたため、後を継いだ。テオドロス1世は勇猛果敢な軍人君主で、積極的なエピロス専制侯国の勢力拡大を推し進めた。 即位の翌年、第2代ラテン帝国の皇帝アンリ・ド・エノーが死去して帝国が衰退すると、テオドロス1世はすかさずテッサロニキ王国に侵攻し、1224年までに王国を滅ぼした。この結果、エピロス専制侯国はエピロスからテッサリア、マケドニアに及ぶ大領土を支配するようになったのである。そして、この拡大した勢力を背景としてテッサロニキにて公然と皇帝を称したのである。このため、この時期の専制侯国は、「テッサロニキ帝国」とも呼ばれているのである。この頃が、エピロス専制侯国の最盛期であった。 1217年にはアンリの後を継いだラテン皇帝ピエール・ド・クルトネーをアルバニアの山中にて捕縛し、1225年にはアドリアノープルを占領するなど、コンスタンティノポリス奪還と東ローマ帝国復活に向けて順調に勢力を拡大していった。しかし、時のブルガリア帝国皇帝イヴァン・アセン2世もコンスタンティノポリス征服を目指していたため、両者の関係は険悪なものとなった。1230年、テオドロスは8万の軍勢を率いてブルガリア遠征に乗り出すがクロコトニツァの戦いで8万人が全滅するという壊滅的な敗北を喫し、自身は捕虜となってしまった。エピロスの支配権は弟マヌエルが引き継ぐがブルガリアの優位は決定的なものとなった。 テオドロスはブルガリアにて虜囚生活を余儀なくされたが、イヴァン・アセン2世の皇后の死去に伴い、娘のエイレーネを彼と結婚させる条件で釈放された(1237年)。彼は帰国後直ちに弟のマヌエルを追放し、息子のヨアンネスを支配の座につけた。しかしテオドロスはニカイア帝国との対抗上、間もなくマヌエルやコンスタンティノスと和解し、更にラテン帝国などとも同盟を結んだ。 しかしこれらの権力闘争の結果、エピロス専制侯国の一体性は失われた。マヌエルはテッサリアにて独立を維持し、ミカエル1世の庶子でテオドロスにとっては異母兄弟にあたるミカエル2世アンゲロス・コムネノスがエピロスを拠点として事実上の独立を果たした。こうした分裂傾向はエピロス専制侯国の勢力と威信を著しく弱める結果をもたらした。 テオドロスは後にニカイア帝国に捕らえられ、虜囚生活の内に1253年頃死去した。 Category:エピロス専制公 Category:ドゥーカス家.

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デメトリオス・アンゲロス・ドゥーカス

デメトリオス・アンゲロス・ドゥーカス(Δημήτριος Άγγελος Δούκας, Demetrios Angelos Doukas, 1220年頃-没年不詳)は最後のドゥーカス・コムネノス・アンゲロス朝エピロス・テッサロニキ専制公(1244年-1246年)。エピロス・テッサロニキを支配し皇帝を称したテオドロス1世コムネノス・ドゥーカスの次子。中世ギリシア語表記ではディミトリオス・アンゲロス・ドゥカス。 兄ヨハネスの死去により支配権を継承する。しかしテッサロニキ専制公国は元々の根拠地であったエピロス地方(ミカエル2世アンゲロス・コムネノス支配下に独立)とも切り離され、ニカイア帝国の宗主権を受け入れてもはやこれと対等に競う存在ではなく、若年のデメトリオスに情勢を挽回できる力はなかった。1246年、テッサロニキの有力市民は陰謀によってデメトリオスを捕らえ、ニカイア皇帝ヨハネス・ヴァタツェスに引き渡すと共に市を開城した。ここにドゥーカス・コムネノス・アンゲロス家によるテッサロニキ支配は終焉を迎え、ニカイア帝国のバルカン支配に抵抗するギリシア系勢力はエピロスに封じ込められつつ勢力を維持したミカエル2世唯一人となった。 デメトリオスは小アジア・ビテュニアの小都市レンティアナに送られ、そこで虜囚のまま余生を送った(没年未詳)。彼の死去によりテオドロス・ドゥーカスの系譜は断絶した。 Category:エピロス専制公 Category:ドゥーカス家.

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ニカイア帝国

ニカイア帝国(ニカイアていこく、1204年 - 1261年)は、1204年に東ローマ帝国の首都コンスタンティノポリスが第4回十字軍によって陥落した際に、東ローマ帝国の皇族達が建てた亡命政権の一つ。ニカイア(古代ギリシア語読み、中世ギリシア語ではニケア。現在のトルコ共和国イズニク)を首都とした。他にもローマ帝国を称した亡命政権にはトレビゾンド帝国やエピロス専制侯国などがあったが、1261年にコンスタンティノポリスを奪回して東ローマ帝国を復活させたのがニカイア帝国であるため、この国が東ローマ帝国の正統な亡命政権とみなされる。 正式な国号は東ローマ帝国同様「ローマ帝国」であり、君主も「ローマ皇帝」を称し続けた。中世ギリシア語の発音に従ってニケア帝国、あるいは皇室の姓を取ってラスカリス王朝とも呼ばれる。自称を重視する立場からニカイアの「中世ローマ帝国」とも呼ぶ説もある。.

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ニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニ

ニキフォロス2世ドゥカス・オルシーニ(Νικηφόρος Β' Δούκας Orsini, Nikephoros II Doukas Orsini, 1329年 - 1359年)は、イピロス専制公国君主(在位:1335年 - 1340年、1356年 - 1359年)、名目上のケファロニア宮廷伯(在位:1335年 - 1359年)。古典式慣例表記ではニケフォロス2世ドゥーカス・オルシーニ。ジョヴァンニ2世オルシーニの息子。.

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ニケフォロス1世 (エピロス専制公)

ニケフォロス1世・ドゥカス(Νικηφόρος Α' Δούκας, Nikephoros I Doukas, 1240年頃 - 1296年)は、エピロス専制侯国の専制公。ミカエル2世アンゲロス・コムネノスの子(在位:1271年 - 1296年)。 1271年、父の死により即位する。しかし、父の庶子(即ちニケフォロスの異母弟)であったヨハネス1世ドゥーカスがこの継承に不満を持ってテッサリアにて独立した。ここにエピロス専制公国はエピロスとテッサリアの2派に分裂し、大きく衰退することとなった。 ニケフォロスは父ミカエルの政策を受け継いでコンスタンティノポリス政府に対抗し独立を維持する事に努めた。しかし既にコンスタンティノポリスへの従属は決定的であり、かつてのような対等な競合関係は見込めず、実質的な独自性を維持するにとどまった。彼はニカイア帝国、及び復興した東ローマ帝国宮廷の女性を妻に迎え(下記参照)、息子トーマースの妻にもミカエル9世パレオロゴスの娘アンナを迎えた。更に弟デメトリオス-ミカエルはミカエル8世の娘と結婚してコンスタンティノポリス宮廷に迎えられており、エピロス宮廷はコンスタンティノポリスとの結びつきを強めていく事となった。 1296年、死去。没年については1290年説もある。.

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ニコーラ・オルシーニ

ニコーラ・オルシーニ(Nicola Orsini, ? - 1323年)は、イタリア人イピロス専制公国君主(在位1318年 - 1323年)・ケファロニア宮廷伯(在位1317年 -1323年)。ニコロ・オルシーニ (Nicolò Orsini) とも。ギリシア名はニコラオス(Νικόλαος)。.

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アルバニア

アルバニア共和国(アルバニアきょうわこく、Shqipëria)、通称アルバニアは、東ヨーロッパのバルカン半島南西部に位置する共和制国家。首都はティラナ。 西はアドリア海に面し、北にはモンテネグロ、東にはマケドニア共和国とコソボ、南にはギリシャと国境を接する。 宗教の信者数はオスマン帝国支配等の歴史的経緯から、イスラム教徒である国民が大半を占めるが、信仰形態は非常に世俗的である。また、キリスト教の正教会やカトリックの信者も少なくない。なお、欧州で唯一のイスラム協力機構正規加盟国である。 1992年 - 1998年の国章 オスマン帝国時代アルバニア系人の旗(1453–1793).

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アルバニア人

アルバニア人(アルバニアじん、アルバニア語:Shqiptarët)は、主にアルバニア共和国とコソボを中心としたバルカン半島に住む民族。.

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アレクシオス・アンゲロス・フィランソロピノス

アレクシオス・アンゲロス・フィランソロピノス(, 生年不詳 - 1389年12月?)は、東ローマ・ギリシア系セサリア君主国(テッサリア君主国)支配者(在位:1381年 - 1389年12月?)、副帝(ケサル)。.

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アンゲロス王朝

アンゲロス王朝(アンゲロスおうちょう、ギリシャ語:Άγγελος、ラテン文字表記:Angelos)は、東ローマ帝国の王朝(1185年 - 1204年)。.

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イピロス

イピロス(ギリシャ語: Ήπειρος / Ípiros、Epirus、Epiri)は、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリア(地方)のひとつ。歴史的な地名としては、現在のギリシャとアルバニアにまたがるイオニア海沿岸の地域を指す。 古典ギリシャ語ではエペイロス(Ἤπειρος / Ēpeiros)、ラテン語ではエピルス(Epirus)と呼ばれた。日本語表記ではギリシャ語に基づく慣用形としてエピロスも用いられる。.

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イサキオス2世アンゲロス

イサキオス2世アンゲロス(Ισαάκιος Β' Άγγελος: Isaakios II Angelos、1156年9月 - 1204年1月28日)は、東ローマ帝国アンゲロス王朝の初代皇帝(在位:1185年 - 1195年、1203年)。.

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オルシーニ家

オルシーニ家(Orsini)は、中世ローマの有力貴族。コロンナ家とはライバル関係にあり、ローマの覇権を争った。 12世紀のケレスティヌス3世、13世紀のニコラウス3世、18世紀のベネディクトゥス13世とローマ教皇を出した。 なお、マイオ・オルシーニを祖とする一傍流がアドリア海からギリシア地域に進出、ケファロニア宮廷伯として独立した。この家系は14世紀にはニコーラ・オルシーニ、ジョヴァンニ2世オルシーニ、ニケフォロス2世ドゥーカス・オルシーニと、3人のエピロス専制公を出している。 *.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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カエサル (称号)

イウス・ユリウス・カエサル カエサル(Caesar)は、ローマ帝国およびその継承国家で用いられた君主号である。 共和政ローマ末期の終身独裁官ガイウス・ユリウス・カエサルは、内戦での勝利を経て事実上の単独支配を確立し、帝政の礎を築いた。これを継承し、実際に帝政(プリンキパトゥス)を開始したオクタウィアヌス(アウグストゥス)もまた、カエサル家の養子となっておりガイウス・ユリウス・カエサルに後継者として選ばれた後は「カエサル」の名はオクタウィアヌスの名でもあった。 帝政を確立したアウグストゥスは自分の後継者も養子としてカエサルの名を継がせており、ユリウス・クラウディウス朝の皇帝たちは皆、カエサルの家族名を持っていた。このため「カエサル」は皇帝の家族名であると同時に徐々に皇帝そのものを指す一般名詞としても機能するようになっていった。イエス・キリストが語ったとされる言葉「カエサルのものはカエサルに」はこうした用法の例といえ、ここでの「カエサル」は具体的には当時のティベリウス帝を指しているものの、もっと広い意味でローマ皇帝=ローマ帝国一般を指しているともとることができる。 こうした皇帝を指す一般名詞としての「カエサル」の用法は、ユリウス・クラウディウス朝が断絶したあとの皇帝たちもカエサルを名乗ったことから確立されていった。また皇帝たちは自らの後継者にカエサルの名を与えたため「カエサル」は次期元首を意味するようにもなっていった。 次期元首としてのカエサルの用法はローマ帝国後期(専制君主制、ドミナートゥス)に入ると副帝をあらわす称号として使われるようになり、正帝(アウグストゥス)を補佐する者として使われるようになった。ビザンツ帝国でも当初は副帝を指すことば(ギリシア語では「カイサル」)だったが、11世紀後半のコムネノス王朝時代には、セバストクラトール・デスポテースなどの皇帝(バシレウス)の下位・カエサル(カイサル)より上位に位置づけられた爵位が多数新設されて、そのなかに埋没してしまった。 このように「カエサル」の名はローマ皇帝を指す語として使われてきたため、ヨーロッパ各国では皇帝を意味する語として「カエサル」に由来する単語が使用されることも多い。代表的なものとして、ドイツ語のカイザー (Kaiser) やロシア語のツァーリ (Царь, Tsar) がある。 イスラームの伝統的な歴史学においては、タバリー以前から初代ローマ皇帝アウグストゥス以来の歴代ローマ帝国皇帝やその後の西ローマ皇帝、東ローマ皇帝などをアラビア語でカイサル (قيصر, Qayṣar) と呼んでいた。東ローマ帝国を滅ぼしたオスマン帝国では、オスマン語(およびトルコ語)でカイセル (قيصر, Qayṣar/Kayser) と言い、主にローマ皇帝を表すものとしてルーム・カイセリ (Kayser-i-Rûm) という称号が用いられ、スレイマン1世などの一部のスルタンは東ローマの継承者であることを示すためにこの称号を用いた。.

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ギリシア語

リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.

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コムネノス王朝

ムネノス王朝(Komnenos, ギリシア語表記:Κομνηνός)は、東ローマ帝国中期の王朝(1081年 - 1185年)。ユスティニアヌス王朝、マケドニア朝に続く帝国の三度目にして最後の繁栄の時代を担った王朝。.

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コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

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コンスタンティノス・ドゥーカス (アンゲロス)

コンスタンティノス・ドゥーカス(アンゲロス)(, Konstantinos Doukas, ? - 1303年)は東ローマ帝国の地方政権テッサリア君主国の支配者、尊厳公(1289年3月 - 1303年)。ヨハネス1世ドゥーカスの次子。中世ギリシア語表記ではコンスタンディノス・ドゥカス。 1289年、父ヨハネス1世死去に際し、長男ミカエル・コムネノス(1307年没)はコンスタンティノポリスに抑留されてしまっていた(1283年以来)為、テッサリア君主国の支配権を継承する。若年であった為、当初はエピロス専制公ニケフォロス1世ドゥーカスの妃アンナの後見の許に置かれた。その後末弟テオドロス・アンゲロスと協力してテッサリアの独立維持に力を注ぐ。特に、姉妹ヘレネーの夫であるアテネ公ギヨーム・ド・ラ・ロシュ及びその息子ギイ2世ド・ラ・ロシュと共に反東ローマ帝国同盟を形成し、東ローマの影響力を排除した。 死期が近づくと、コンスタンティノスは配下の有力者を集め、アテネ公ギイ2世を幼い息子・後継者ヨハネス2世の後見人として迎えるようにとの命令を下した。1303年、コンスタンティノス、弟テオドロスは相次いで亡くなったが、有力者達はこの命令を遵守してアテネ公に仕え、東ローマのテッサリア遠征を迎え撃ったアテネ公の軍隊に加わり、テッサリア君主国の独立を維持した。 Category:エピロス専制侯国 Category:ドゥーカス家 Category:1303年没.

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シメオン・ウロシュ・パレオロゴス

メオン・ウロシュ・パレオロゴス(,, 生年不詳 - 1371年12月4日)は、セルビア王ステファン・ウロシュ3世デチャンスキと2番目の妻マリア・パレオロギナの間の息子。ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの異母弟でイピロス専制公(在位:1350年 - 1356年)・セサリア「皇帝」(在位:1359年 - 1371年)。セルビア語では「シニシャ」()という別称がある。古典式慣例表記ではシュメオン・ウロシュ・パライオロゴス。.

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ジョヴァンニ2世オルシーニ

ジョヴァンニ2世オルシーニ(Giovanni II Orsini, ? - 1335年)はイタリア人イピロス専制公国君主(在位1323年-1335年)・ケファロニア宮廷伯(在位1323年-1335年)。ギリシア名はヨアニス・ドゥカス・コムニノス(Ιωάννης Δούκας Κομνηνός)。古典式慣例表記ではヨハネス・ドゥーカス・コムネノス。ジョヴァンニ1世オルシーニの息子、専制公ニコーラ・オルシーニの弟。 1323年に兄ニコーラを暗殺してケファロニア宮廷伯とイピロス専制公国の権力を掌握する。ジョヴァンニは兄以上に野心的な人物で、自らギリシア名「ヨアニス・ドゥカス」を名乗り、ドゥカス・コムニノス・アンゲロス家の正統な後継者としての立場を内外に表明した。更に、ニキフォロス1世ドゥカスの弟ディミトリオス-ミハイル・ドゥカス専制公(妻は東ローマ帝国皇帝ミハイル8世パレオロゴスの娘アンナ)の孫娘アンナ・パレオロギナを妻に迎え、血統意識を強く押し出した。二人の結婚からは、息子ニキフォロス2世、娘ソマイスともう一人、個人名の記録がない娘が生まれている。ソマイスはセルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの異母弟シメオン・ウロシュ・パレオロゴスと結婚し、セルビアのイピロス・セサリア支配の下地を作った。彼は生まれ育ったケファロニア島を弟グィードに任せ、新天地イピロスに定着した。 ジョヴァンニはイピロス専制公として積極的な対外発展を目論んだ。イピロス専制公国から分離したセサリア君主国のアンゲロス王朝は1318年に断絶していたが、その遺領は土着有力者でかつての君主と同じく尊厳公称号を名乗ったステファノス・ガヴリイロプロスが掌握し、北から侵攻してきた東ローマ帝国と勢力を二分していた。1333年にそのガヴリイロプロスが死去すると、ジョヴァンニはかつてのイピロス専制公国領の統合を企て、ピンドス山脈を越えてセサリアに侵攻した。しかし、東ローマ側から派遣されたセサリア軍政官ミハイル・モノマホスの攻撃に遭い撃退され、ジョヴァンニの野望は潰えた。 悲劇はその後にやってきた。ジョヴァンニは兄同様に身内の裏切りに遭い非業の死を遂げる。1335年(1336年ないし1337年説もある)、妻アンナ・パレオロギナが彼に毒を盛って殺害してしまったのである。同時代の東ローマ歴史家ニキフォロス・グリゴラスは、オルシーニ家歴代に伝わる気性の激しさに対する恐怖がアンナをして毒殺という凶行に向かわせたのではないかと推測している。 ジョヴァンニの死はイピロス専制公国史の中で一つの転換点となった。即ち、東ローマ帝国による直接併合の契機となった事である。 (本項目の表記は中世ギリシア語の発音に依拠した。古典式慣例表記については各リンク先の項目を参照。また国号については「専制公国」とした) Category:エピロス専制公 Category:オルシーニ家 Category:ドゥーカス家 Category:1335年没.

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ステファノス・ガヴリイロプロス

ステファノス・ガヴリイロプロス(, Stephanos Gavriilopoulos, ? - 1333年)は東ローマ帝国地方名門貴族の出身、尊厳公(セヴァストクラトル )、セサリア君主国の独立支配者(1318年 - 1333年)。 ガヴリイロプロス家はセサリア地方有数の家門の一つ。その当主ステファノスは同地域に於いて大地主として絶大な権力を誇り、恐らくは若年・病弱なヨアニス2世ドゥカスの政権下でも大きな影響力を揮ったものと思われる。この時代に、セサリア君主国に対しては東ローマ帝国が宗主権を確立しつつあったが、ステファノスは同地域の有力者と協同してヨアニスをもり立て、東ローマの干渉を排除する姿勢をとり続けた。 ヨアニス2世は1318年に子なく没し、セサリアに於けるドゥカス・コムニノス・アンゲロス朝は断絶したが、ステファノス・ガヴリイロプロスは自らが実質的なその地位を次いで独立を維持し続けた。彼に対し、東ローマ皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスもアンゲロス朝と同じ尊厳公称号を贈り、名目的な宗主権に満足せざるを得なかった。 1333年にステファノスが没すると、セサリアはイピロス専制公ジョヴァンニ2世オルシーニと東ローマ帝国の間で係争の的となった。東ローマ皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスは既にセサリア軍政官に任命しておいたミハイル・モノマホスを派遣し、オルシーニを追い払って漸くセサリアを帝国に併合した(完了は1335年頃)。 東ローマ併合後も、ガヴリイロプロス家はセサリアに於いて勢力を維持し続けた。ステファノスの遺児ミハイル・ガヴリイロプロスは東ローマの内乱に際して再度自立の傾向を強めると共に、ヨアニス6世カンダクジノスを支援してその登極に助力した。 (本項目の表記は中世ギリシア語の発音に依拠した。古典式慣例表記については各リンク先の項目を参照。) Category:エピロス専制侯国 Category:1333年没.

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ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン

テファン・ウロシュ4世ドゥシャン(Цар Стефан Душан силни, Stefan Uroš IV Dušan Silni, 1308年 - 1355年12月20日)は、セルビア王国、セルビア帝国のネマニッチ朝の君主(国王在位:1331年9月8日 - 1346年、皇帝在位:1346年 - 1355年12月5日)。ステファン・ウロシュ3世デチャンスキの子。.

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セルビア王国 (中世)

ルビア王国(セルビアおうこく、Краљевина Србија)は、現在のセルビアを中心とした中世の王国。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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第4回十字軍

4回十字軍(だいよんかいじゅうじぐん、1202年 - 1204年)は、インノケンティウス3世によって呼びかけられ、フランスの諸侯とヴェネツィアを中心として行われた十字軍。当初の目的であった聖地には向かわず、キリスト教国の東ローマ帝国を攻略し、コンスタンティノポリス(コンスタンティノープル・現イスタンブール)を陥落させ、略奪・殺戮の限りを尽くしたため、最も悪名の高い十字軍として知られる。 東ローマ帝国を一旦滅亡させたため、この地域のキリスト教国家の力を削ぎ、後のオスマン帝国による東ヨーロッパの大部分の支配の伏線のひとつとなった。通常は1453年のコンスタンティノープル陥落をもって東ローマ帝国が滅亡したとされるが、この第4回十字軍で東ローマは実質的に滅亡したと見る歴史家もいる。.

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第二次ブルガリア帝国

二次ブルガリア帝国(Второ българско царство, Second Bulgarian Empire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。.

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爵位

爵位(しゃくい、)とは主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号のことである。別称として勲爵、爵号など。官職と爵位を総称して官爵ということもある。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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1204年

記載なし。

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1205年

記載なし。

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1215年

記載なし。

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1224年

記載なし。

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1230年

記載なし。

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1237年

記載なし。

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1242年

記載なし。

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1244年

記載なし。

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1246年

記載なし。

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1259年

記載なし。

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1264年

記載なし。

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1271年

記載なし。

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1289年

記載なし。

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1296年

記載なし。

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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1303年

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1318年

記載なし。

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1323年

記載なし。

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1333年

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1335年

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1336年

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1340年

記載なし。

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1348年

記載なし。

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1355年

記載なし。

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1356年

記載なし。

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1359年

記載なし。

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1367年

記載なし。

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1371年

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1381年

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1384年

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1385年

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1389年

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1393年

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1411年

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1429年

記載なし。

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1430年

記載なし。

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1448年

記載なし。

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1449年

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1479年

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