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ボスニア・ヘルツェゴビナ

索引 ボスニア・ヘルツェゴビナ

1992年-1998年の国旗 1992年-1998年の国章 ボスニア・ヘルツェゴビナは、東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエボで、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国のふたつの構成体からなる連邦国家でもある。 ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビア、モンテネグロと接する。ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。.

270 関係: ぶどう千田善南下政策大セルビア大理石大陸性気候失業安定化・連合プロセス山地岩田昌征中央ボスニア県中世世界遺産市町村三角形平和安定化部隊佐原徹哉地中海性気候北大西洋条約機構ナチス・ドイツマンガンノーベル文学賞マツマテ・ボバンマケドニア共和国チャプリナチェトニックネレトヴァ川ネウムハプスブルク帝国バチカンバルカン半島バニャ・ルカバキル・イゼトベゴヴィッチポチテリポサヴィナ県ムラデン・イヴァニッチムスリムムスリム人メロンメーデーメジュゴリェモナコモンテネグロモスタルヤイツェユーゴスラビアユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議ユーゴスラビア・ディナール...ユーゴスラビア王国ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ユーゴスラビア連邦共和国ユダヤ人ラテン文字ラドヴァン・カラジッチロマローマ帝国ロシア帝国ヴルバス川ヴィシェグラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)ヴィソコヴェネツィア共和国ヴェリカ・クラドゥシャボイコットボゴミル派ボシュニャク人ボスナ川ボスニアボスニア人ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会ボスニア・ヘルツェゴビナの国章ボスニア・ヘルツェゴビナの政党一覧ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表ボスニア・ヘルツェゴビナ併合ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争ボスニア・ヘルツェゴビナ議会ボスニア・ヘルツェゴビナ関係記事の一覧ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県ボスニア王国ボスニア語ボスニア=ポドリニェ県ボサンスカ・ドゥビツァボサンスカ・クルパトラヴニクトルコ人トレビニェトゥズラトゥズラ県ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国ヘルツェゴヴィナヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県ブナブリュッセルブルチコブルチコ行政区ブルガリアブロドブゴイノプリイェドルパルチザン (ユーゴスラビア)ヒツジビハチビイェリナツァジンデニス・ズヴィズディッチディナル・アルプス山脈デイトン合意フォチャ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)ドナウ川ドリナ川ドボイドイツニュースサイト「毎日新聞」ベルリン会議 (1878年)ベルギーアリヤ・イゼトベゴヴィッチアドリア海アスファルトイチジクイリュリア人インド・ヨーロッパ語族イヴォ・アンドリッチイギリスイスラム教イタリアイタリア王国ウナ川ウナ=サナ県ウスタシャオランダオリーブオーストリア=ハンガリー帝国オプシュティナオスマン帝国カヤカルスト地形カトリック教会キリル文字キリスト教キセリャククロアチアクロアチア人クロアチア社会主義共和国クロアチア紛争クロアチア独立国クロアチア語クロアチア防衛評議会クーナコムーネコスモポリタニズムコソボザクロシャマツスラヴ人スルプスカ共和国スルプスカ共和国軍スロベニアスタリ・モストセルビアセルビア人セルビア・クロアチア語セルビア社会主義共和国セルビア語セルビア正教会ゼニツァゼニツァ=ドボイ県ソビエト連邦ソコルル・メフメト・パシャ橋タバコサラエヴォサラエヴォ県サラエボ事件サンジャク (地名)サン=ジェルマン条約サヴァ川共和国兌換マルク元首元日国の海岸線の長さ順リスト国家国内総生産国勢調査国際通貨基金国際連合国際文民事務所石灰岩石炭穀物第十県第一次世界大戦第二次世界大戦紀元前1世紀生神女誕生大聖堂 (サラエヴォ)独立聖母の出現褐炭西ヘルツェゴビナ県首都高さ鳥取県農業露土戦争 (1877年-1878年)自主管理社会主義鉱物鉱業英語通貨連邦林業東側諸国東京新聞東ヨーロッパ欧州連合正教会毎日新聞水銀民族浄化汎スラヴ主義港湾戦争日本日本語日本放送協会.ba10月15日10月1日11月10日11月7日12世紀15世紀16世紀17世紀1831年1875年1878年1908年1974年1984年1984年サラエボオリンピック1990年1991年1992年1994年1995年1998年19世紀1月1日2000年2001年2002年2004年2005年2006年2011年2013年2014年2016年3月1日5月1日6世紀 インデックスを展開 (220 もっと) »

ぶどう

* ブドウ - 果実の種類。.

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千田善

千田 善(ちだ ぜん、1958年10月10日 - )は、日本の国際ジャーナリスト、通訳・翻訳者(セルビア・クロアチア語など)、政治学者。元日本共産党中央機関紙特派員。 元・サッカー日本代表監督イビチャ・オシムの通訳を務めたことで知られる。.

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南下政策

南下政策(なんかせいさく)とは、ある国家が南方に進出しようとする政策。単に南下政策といった場合はロシア帝国の南下政策を指すことが多い。.

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夏のシンボルのひとつ「ヒマワリ」 真夏の海辺 7月30日 夏の風物詩である風鈴 夏の食べ物「冷やし中華」 夏(なつ)は、四季のひとつで、春と秋にはさまれた季節。天文学的には夏至から秋分まで。太陽暦では6月から8月を指し、陰暦では4月から6月となる。 四季の区分のある土地では最も気温の高い、3ヶ月程度の期間である。北半球ではグレゴリオ暦の6月 - 8月ごろ、南半球では12月 - 2月ごろである。.

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大セルビア

ルビア急進党のヴォイスラヴ・シェシェリによって示された大セルビアの範囲http://www.un.org/icty/cases-e/ciガラシャニンs/seselj/cis-seselj.pdf Šešelj ICTY Case information sheetその範囲はスロベニアとクロアチア北部を除いた、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の領土の全域に及ぶ。 大セルビア(だいセルビア、セルビア語:Велика Србија / Velika Srbija)はセルビアの民族主義者の間にみられる民族統一主義の概念である。.

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大理石

大理石(だいりせき)とは、石灰石を源岩とする変成岩(結晶質石灰岩)の石材としての一般的な呼称である。大理石は古代より建築や彫刻に使われている。 「大理石」という名称は、かつての大理国(現在の中華人民共和国雲南省大理ペー族自治州大理市を中心とする地域)でこれが産出されたことに由来する。英語では marble(マーブル)。「マーブル模様」は大理石の模様や色ムラに由来する。.

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大陸性気候

アメリカ・プレーリーの晩秋の景色 アメリカ・グランドキャニオンの景色 ステップ 大陸性気候(たいりくせいきこう、continental climate)とは大陸と大陸に近い島にみられる気候である。.

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失業

'''世界の失業率''' 灰色は統計資料が入手できないことを表す。CIA World Factbook による 失業(しつぎょう、unemployment)とは、仕事を失うことおよび働く意思も能力もあるのに仕事に就けない状態を指す。特に、仕事が無い状態を指す無職(むしょく)のうち、就業に向けた職探しを行っている者の状態を指し、そのような状態の者を失業者(しつぎょうしゃ)と言う。日本など一部を除いて北欧の福祉国家でさえも青年失業率が20%から下がらないことがOECD加盟国で大きな問題になっている。.

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安定化・連合プロセス

安定化・連合プロセス(あんていか・れんごうプロセス、英語:)は、欧州連合への加盟を希望している国々の、加盟への前段階と見なされているプロセスである。 欧州連合への加盟希望を表明している国に対して、典型的には欧州連合は連合協定を結ぶことによって、その国における政治・経済・貿易・人権改革を図る。これと引き換えに、加盟希望国は欧州連合市場との関税の部分的あるいは全面的な撤廃(工業製品や農業製品など)や、財政的・技術的支援を与えられることもある。.

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山地

山地(さんち)は、平地に対比される、比較的大きな起伏や傾斜を持ちまわりより高い地域で、複数の山からなる広い地域を指す。火山活動、地盤の隆起運動と浸食作用の競合で形成された河川、氷河などを持つ地形である。百科事典においては「成因別にみると褶曲による褶曲山地、断層に囲まれた地塊山地、浸食に抗して残った浸食山地、火山活動による火山性山地などがあり、発達段階から幼年期、壮年期、老年期の各山地がある」と定義されている。.

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岩田昌征

岩田 昌征(いわた まさゆき、1938年7月2日 - )は、日本の経済学者、千葉大学名誉教授。.

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中央ボスニア県

中央ボスニア県(ちゅうおうボスニアけん、ボスニア語:、クロアチア語:、セルビア語:Средњoбосански кантон)、あるいは中央ボスニア・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のエンティティであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する県。県都はトラヴニク。.

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中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

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世界遺産

世界遺産(せかいいさん、World Heritage Site)は、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて世界遺産リスト(世界遺産一覧表)に登録された、文化財、景観、自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」を持つ物件のことで、移動が不可能な不動産が対象となっている。なお、慣例的な用法として、その中の文化遺産を世界文化遺産、自然遺産を世界自然遺産と呼ぶことがある。 なお、世界遺産の制度では正式な文書は英語とフランス語で示され、日本語文献では英語が併記されることがしばしばある一方、フランス語が併記されることは普通ないため、以下では参照しやすさを考慮して、などに依拠して、主たる用語には英語を併記しておく。.

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市町村

市町村(しちょうそん)とは、地方公共団体である市・町・村の総称。日本の基礎的地方公共団体(地方自治法2条3項では「基礎的な地方公共団体」)として、包括的(広域的)地方公共団体である都道府県に対比される。 市町村は基礎自治体でもあるが、日本の基礎自治体にはほかに特別区(都の区)があり、合わせて市区町村(しくちょうそん)または市町村区(しちょうそんく)という。東京都では、都内で人口最多の基礎自治体が市ではなく特別区(23区)なので、公的には区市町村(くしちょうそん)という。 2016年(平成28年)10月10日現在の数 である。 地方自治法は、以下で条数のみ記載する。.

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三角形

200px 三角形(さんかくけい、さんかっけい、拉: triangulum, 独: Dreieck, 英, 仏: triangle, (古風) trigon) は、同一直線上にない3点と、それらを結ぶ3つの線分からなる多角形。その3点を三角形の頂点、3つの線分を三角形の辺という。.

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平和安定化部隊

SFORの活動に従事するスペイン軍 平和安定化部隊(へいわあんていかぶたい Stabilisation Force, SFOR)とは、東ヨーロッパ・旧ユーゴスラヴィアのボスニア・ヘルツェゴビナに展開していた平和維持部隊。 1995年のボスニア・ヘルツェゴビナ紛争終結のためのデイトン合意に基づき設置された和平履行部隊(IFOR)の任務を引き継ぐものである。北大西洋条約機構(NATO)を中心に1996年に創設された。多国籍部隊であり、のべ37ヶ国が参加している。部隊の目的はボスニア・ヘルツェゴビナにおいて、軍事力を行使し兵力引き離し・停戦監視および治安維持活動を実施することにある。 IFORの活動期限は1995年12月から1996年12月までの1年間であった。IFORは成果を挙げたが、引き続き軍の駐留必要性が認められ、安保理決議1088によりSFORが編成された。SFORは非NATO諸国も参加しているが、NATO指揮機構下にあり、指揮官は各国の持ち回りであった。 編成当初兵力は約3万人であり、IFORの6万人と比較し削減されており、2004年までに7千人となった。2004年12月からは欧州連合指揮下の欧州連合部隊 アルテア(EUFOR Althea)に任務を譲り、SFORは解散した。.

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佐原徹哉

佐原 徹哉(さはら てつや、本名・哲也、1963年11月8日 - )は、日本の歴史学者。明治大学教授。専門はバルカン近現代史。東京都生まれ。.

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地中海性気候

地中海性気候(ちちゅうかいせいきこう)とはケッペンの気候区分における気候区のひとつで温帯に属する。記号はCsa,Csb,CscでCは温帯、sは夏季乾燥(sommertrocken)を示す。 フローンの気候区分における亜熱帯冬雨帯(記号:PW)に相当する。またアリソフの気候区分でも地中海性気候と呼ばれることのある気候帯4-3.亜熱帯西岸気候に相当する。.

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北大西洋条約機構

北大西洋条約機構(きたたいせいようじょうやくきこう)は、北大西洋条約に基づき、アメリカ合衆国を中心とした北アメリカ(=アメリカとカナダ)およびヨーロッパ諸国によって結成された軍事同盟である。前身はブリュッセル条約 (1948年)。 略称は頭字語が用いられ、英語圏では、North Atlantic Treaty Organization を略した NATO(ネイトー)と呼ばれ、日本やドイツ語圏では NATO(ナトー)、フランス語圏・スペイン語圏・ポルトガル語圏等では OTAN(オタン)と呼ばれる。.

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ナチス・ドイツ

ナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)による支配下の、1933年から1945年までのドイツ国に対する呼称である。社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強制される全体主義国家と化した。ヨーロッパにおける第二次世界大戦が終結する1945年5月に連合国軍に敗北し、ナチス政権とともに滅亡した。.

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マンガン

マンガン(manganese 、manganum)は原子番号25の元素。元素記号は Mn。日本語カタカナ表記での名称のマンガンは Mangan をカタカナに変換したもので、日本における漢字表記の当て字は満俺である。.

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ノーベル文学賞

ノーベル文学賞(ノーベルぶんがくしょう、Nobelpriset i litteratur)はノーベル賞6部門のうちの一つ。文学の分野において理念をもって創作し、最も傑出した作品を創作した人物に授与される。原則として定数1名のみ受賞されるが、これまでに1904年のフレデリック・ミストラル、ホセ・エチェガライ・イ・アイサギレや1917年のカール・ギェレルプ、ヘンリク・ポントピダン、1966年のシュムエル・アグノン、ネリー・ザックス、1974年のエイヴィンド・ユーンソン、ハリー・マーティンソンが2人同時受賞となっている。.

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マツ

マツ属(マツぞく、学名:)は、マツ科の属の一つ。マツ科のタイプ属である。日本に広く分布するアカマツ、クロマツは英語でそれぞれJapanese red pine、Japanese black pineと呼ばれる。.

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マテ・ボバン

マテ・ボバン(1940年 - 1997年7月7日)は、ヘルツェゴビナのクロアチア人政治家であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中に、ボスニア・ヘルツェゴビナ領内で一方的に建国され、国際的に承認されることのなかった国家「ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国」の指導者であった。ボバンは、1991年から1994年にかけてのヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の短い歴史の中で、唯一の大統領であった。ボバンは反ボシュニャク人の立場に立ち、クロアチア本国では同国政府とセルビア人によるクライナ・セルビア人共和国が内戦を繰り広げている中、ボスニア・ヘルツェゴビナではヘルツェグ=ボスナのクロアチア人勢力はセルビア人勢力と良好な関係を作り上げていた。.

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マケドニア共和国

マケドニア共和国(マケドニアきょうわこく)、通称マケドニアは、東ヨーロッパのバルカン半島に位置する共和国。前身はユーゴスラビア連邦の構成国の1つで、南はギリシャ、東はブルガリア、西はアルバニア、北はセルビアおよびコソボと、四方を外国に囲まれた内陸国である。 マケドニア共和国は、地理的にはマケドニアと呼ばれてきた地域の北西部にあり、マケドニア共和国はマケドニア地域全体の約4割を占めている。残りの約5割はギリシャに、約1割はブルガリアに属している。また歴史上、マケドニア共和国の多数民族はマケドニア人と自称・他称されるが、彼らはスラヴ語の話し手で南スラヴ人の一派であり、ギリシャ系の言語を話していたと考えられる古代マケドニア王国の人々と直接の連続性はない。これらの理由から、ギリシャがマケドニアという国名を拒否し、同国との間で激しい国名論争(マケドニア呼称問題)が生じている。2018年6月にはマケドニア共和国が北マケドニア共和国の国名を使用することで両国の政府間合意が成立したが、それぞれの国内で合意内容を承認するための手続きを要することから、正式な改名には至っていない。 現状、憲法上の正式名称はマケドニア共和国であり、約125ヶ国はこの呼称を用いている一方、欧州連合や日本等はこれを認めず、国際連合に加盟したときの暫定呼称マケドニア旧ユーゴスラビア共和国を使用している(後述)。.

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チャプリナ

チャプリナ(ボスニア語:Čapljina、クロアチア語:Čapljina、セルビア語:Чапљина)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の町、およびそれを中心とした基礎自治体である。同国のうち、クロアチア人やボシュニャク人を主体とするボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属しており、ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県に含まれる。クロアチアとの国境に面しており、アドリア海まで20キロメートルに位置している。 ネレトヴァ川が市域を横切って流れ、クロアチア国境を越えるとまもなくプロチェ付近でアドリア海へと注ぎ込む。町の象徴となっているのはトミスラヴ王の像である。カトリック教会のアッシジのフランチェスコ聖堂も町の象徴的な建造物である。自治体の紋章(自治体公式サイトを参照)はクロアチアの市松模様、市内の歴史的集落ポチテリ(Počitelj)、アッシジのフランチェスコで構成されている。市内は考古学的遺産と手付かずの原生林に富んでおり、農業観光などの開発が進められている。また、ヨーロッパきっての野鳥の多様性に富むフトヴォ・ブラト自然公園(Hutovo Blato)も市内に含まれる。国境をはさんでクロアチア側に位置するメトコヴィチ(Metković)からも程近く、両都市の経済的結びつきは強い。.

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チェトニック

チェトニック(セルビア・クロアチア語:Četnik、キリル文字表記Четник、英語:Chetnik、複数形:チェトニツィ、Četnici、Четници、Chetniks)は、第二次世界大戦下のユーゴスラビアにおける、セルビア将兵によって組織された、ナチス・ドイツへの抵抗組織。名称はチェトニクとも表記されるが、以下「チェトニック」で統一する。.

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ネレトヴァ川

ネレトヴァ川(クロアチア語・Neretva, Неретва,Narenta)はアドリア盆地東部では最大の河川である。大規模な高さ15m以上の水力発電用のダム4カ所と貯水池により治水されているが、自然美や多様な自然景観で知られている。川の生態系は人口の増加や開発によって傷つけられている。ネレトヴァ川はボスニア・ヘルツェゴビナやクロアチアにとってはもっとも価値のある天然資源として豊富な淡水資源となっており、重要なものとして認められている。ネレトヴァ川は東のドリナ川と西のウナ川とサヴァ川の間に位置し、ネレトヴァ低地が含まれ飲料水の重要な供給源を担っている。水の供給システムでもネレトヴァ川は重要な位置を占め。ディナル・アルプス山脈地域も含まれとくに多様な生態系や動植物の生息環境、植物相、動物相、文化的、歴史的以外にも自然美で重要と見なされている。.

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ネウム

ネウム(Neum,Неум)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ、アドリア海沿岸に位置する人口4300人ほどの町。ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県に所属。この地域がボスニア・ヘルツェゴビナ唯一の海に面した部分であるが、国全体をまかなうような大きな港があるわけではない。 海岸線に対して両側をクロアチアに接し、住民もクロアチア人が主体である。 1718年に結ばれたパッサロヴィッツ条約(ポジャレヴァツ条約)の結果ダルマチアのほぼ全域はヴェネツィア共和国領と定められたが、ヴェネツィアとオスマン帝国の保護国であったラグーザ(ドゥブロヴニク、都市国家状態)との紛争を防ぐため、ネウムは両者の緩衝地帯としてオスマン帝国領となった。この時引かれた国境線が、主体となる国家が変遷しつつも現在まで引き継がれている。.

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ハプスブルク帝国

ハプスブルク帝国(ハプスブルクていこく)大津留厚「ハプスブルク帝国」世界民族問題事典、平凡社、2002年は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合である。単一の「帝国」ではなかった、あるいは推戴する君主が「皇帝」でなかった時代もあるが、日本語ではこの呼称が用いられることが多い。ドイツ語では Habsburgermonarchie または Habsburgisches Reich であるが、前者は直訳するとハプスブルク君主国であり、後者の場合もライヒ (Reich) は必ずしも「帝国」を意味しない。 成立年はハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国、ボヘミア王国(ボヘミア王冠領)を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の国家として認識し、オーストリアと呼称していた。1804年から1867年まではオーストリア帝国、1867年から1918年まではオーストリア=ハンガリー帝国を総称とした。 ただし、これより古い時代の、神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世を君主とする国家群なども、広く「ハプスブルク家の帝国」といった意味で「ハプスブルク帝国」と呼ばれることがある。 ハプスブルク帝国(ハプスブルク家)の旗.

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バチカン

バチカン市国(バチカンしこく、Status Civitatis Vaticanae、Stato della Città del Vaticano)、通称バチカンは、ヨーロッパにある国家で、国土面積は世界最小である(ただし、国際連合加盟国のみの場合はモナコになる)。ヴァチカンやバティカン、ヴァティカンとも表記される。 なお、経済指標はイタリアに統合される。.

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バルカン半島

バルカン半島(バルカンはんとう、Balkans、Balcania)は、ヨーロッパの南東部で、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴビナ、コソボ、ヴォイヴォディナ(スレム、バチュカ、バナト)及びトルコのヨーロッパ部分(ボスフォラス海峡以西)からなる地域である。バルカン半島の北限はしばしばドナウ川とサヴァ川とされているが、歴史的な繋がりの深いルーマニアや、旧ユーゴスラビア連邦のスロヴェニア(1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分がドナウ川またはサヴァ川以南)をバルカンに含めることもあり、必ずしも定まった地域概念ではない(バルカン山脈に詳しい)。オスマン語でバルカンは森林山脈を意味する。.

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バニャ・ルカ

バニャ・ルカ(セルビア語:Бања Лука;ボスニア語:Banja Luka; クロアチア語:Banja Luka)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの西北部にある同国で2番目に大きな都市である。また、連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの共和国のうち、セルビア人主体のスルプスカ共和国の最大の都市で、事実上の首都となっている(法的な首都はサラエヴォに隣接するイストチノ・サラエヴォ)。ボサンスカ・クライナ地方の中心地。.

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バキル・イゼトベゴヴィッチ

バキル・イゼトベゴヴィッチ(、1956年6月28日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家。2010年に同国の大統領評議会のボシュニャク人代表となり、現在は4回目の議長職を務めている。初代大統領のアリヤ・イゼトベゴヴィッチの長男。.

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ポチテリ

ポチテリ(ボスニア語:Počitelj、クロアチア語:Počitelj、セルビア語:Почитељ)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部の村であり、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうち、ボシュニャク人やクロアチア人を主体とするボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に含まれ、ヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県のチャプリナ市の一部である。16世紀から17世紀にかけてのオスマン建築が林立していたが、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中の1993年にクロアチア人の武装勢力(クロアチア防衛評議会)によって大規模に破壊された。爆撃の後、歴史的なイスラム建築はダイナマイトで爆破され、イスラム教徒のボシュニャク人の村民たちは殺害されるか強制収容所に送られるという、民族浄化の標的となった。ボシュニャク人の追放とイスラム建築の破壊の後、近くの道路沿いにはクロアチア人を象徴して巨大な十字架が掲げられた。 かつて南東ヨーロッパで最古のアート・コロニーであったポチテリは、多くの芸術家に安全で平和な、芸術活動の場を提供してきた。 File:Pocitelj.PNG|奥に要塞、手前にモスクが見える File:pocitelj.jpg|上から見下ろした村の様子。手前にモスクが、奥に監視塔が見える File:Vittorio Miele, Pocitelj 4.JPG|ヴィットーリオ・ミエーレ(Vittorio Miele)が描いたポチテリ File:Počitelj06509.JPG|ポチテリ近くに立てられた十字架.

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ポサヴィナ県

ポサヴィナ県(ポサヴィナけん、ボスニア語:Posavski kanton、クロアチア語:Posavska županija、セルビア語:Посавски кантон)、あるいはポサヴィナ・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のエンティティであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する県。県都はオラシエ。.

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ムラデン・イヴァニッチ

ムラデン・イヴァニッチ(Младен Иванић / Mladen Ivanić, 、1958年9月16日 - )は、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家。セルビア人。2014年11月から、同国の大統領評議会でセルビア人の代表を務めている。.

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ムスリム

ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.

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ムスリム人

ムスリム人(ボスニア語・セルビア・クロアチア語:Muslimani / Муслимани)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国において、南スラヴ系のボシュニャク人を指して用いられていた呼称であり、ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国の主要構成民族のひとつであった。「モスレム人」とも呼ばれる。 1990年代のユーゴスラビア崩壊後のムスリム人の民族復興運動によって、ボスニア・ヘルツェゴビナでは公式に、「ムスリム人」に替えてその歴史的呼称である「ボシュニャク人」の呼称が承認されたImamović, Mustafa (1996).

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メロン

北アフリカや中近東地方の原産地と推定されたが、最近の遺伝子研究によれば、インドが原産地と裏付けられた。紀元前2000年頃に栽培が始まった。通常Cucumis melo L.の西方に伝わった品種群をメロンと呼び、東方に伝わった品種群を瓜(ウリ)と呼ぶ。日本のマクワウリなどもそのひとつである。漢字では甜瓜(てんか)と呼ぶが、これはメロンを指すと同時にマクワウリをも含む表記である。 紀元前5世紀頃にエジプトで作られた苦味の少ないメロンが地中海を超えてヨーロッパに渡った。当時のメロンはキュウリよりは甘いという程度であり、サラダや酢漬けにされた。その後、甘いメロンが作られるまで数世紀に及ぶ改良の努力が行われた。ルネサンスの頃に南フランスでカンタルー種のような甘い品種が作られるようになり、メロンは野菜の仲間ではなくなっていった。 日本では中世の考古遺跡から炭化種子が検出されており、古い時代に渡来して雑草化したものは「雑草メロン」(Cucumis melo L. var. agrestis Naud.)と呼ばれ、西日本の島嶼部などに自生している。 同属の有用植物としてキュウリ(胡瓜、C.

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メーデー

メーデー(、直訳すれば「5月の日」)は、世界各地で毎年5月1日に行われる祭典。ヨーロッパでは夏の訪れを祝う意味を持った日である一方、旧東側諸国などでは労働者が統一して権利要求と行進など活動を取り行う日としている国もある。「労働(者)の日」(Labour Day)ともいうが、いくつかの国ではその国独自の「労働者の日」を定めているため、International Labour Day との言い方も存在する。.

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メジュゴリェ

メジュゴリエ メジュゴリェ(Međugorje)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ南部ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県の小さな町である。その地名の由来は、山々の間の地、から。海抜200メートルほどであり、温暖な地中海性気候である。住民の大部分が民族的にはクロアチア人で、人口は4000人ほど、現地のカトリックの教区は、メジュゴリエ、ヴィヤコヴィチ、ヴィオニツァ、ミレティナ、シュルマンツィの5つの隣りあった村落からなる。 ここで1981年以来、聖母マリアの出現が起きた、と主張する者たちがいる。カトリック教会の調査の結果、ジャニッチ司教は公認しない姿勢を明らかにし、後任のラトゥコ・ペリッチ司教は2004年5月31日、メジュゴリエの聖母は未認可、未認可の幻視に対する個人ならびに公的な巡礼は禁止されている、とする、事実上の禁止をほのめかす声明を出している。.

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モナコ

モナコ公国(モナコこうこく、プランシポテ・ドゥ・モナコ、仏:)、通称モナコ()は、西ヨーロッパの立憲君主制国家。.

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モンテネグロ

モンテネグロは、ヨーロッパ南東部、バルカン半島に位置する共和制国家。首都はポドゴリツァ(憲法上はツェティニェ)。ユーゴスラビア紛争によるユーゴスラビア社会主義連邦共和国の解体によって成立したユーゴスラビア連邦共和国(1992年-2003年)およびセルビア・モンテネグロ(2003年-2006年)を構成する2つの共和国のうちのひとつ、モンテネグロ共和国であったが、2006年6月3日に独立を宣言した。 南はアドリア海に臨み、北西をクロアチアのドゥブロヴニクとボスニア・ヘルツェゴビナ、北東をセルビアのサンジャク地方、南東をアルバニア、東部をコソボと接する。.

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モスタル

モスタル(Mostar、Mostar、Мостар) は、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市およびそれを中心とした基礎自治体で同国を構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属する。また、ヘルツェゴビナ・ネレトヴァ県の県都 Mostar でヘルツェゴビナ地方 では最大の中心都市である。ボスニア・ヘルツェゴビナでは5番目に大きな都市で、市内をネレトヴァ川が流れている。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争期には事実上独立したヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の首都と定められていた。ただし政治情勢によって、事実上の首都はモスタル近郊のグルデであった。.

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ヤイツェ

ヤイツェ(ボスニア語:Jajce、クロアチア語:Jajce、セルビア語:Јајце)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の中部に位置している。ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうち、ボシュニャク人やクロアチア人を主体としたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属しており、中央ボスニア県に含まれる。バニャ・ルカ、ムルコニチ・グラード(Mrkonjić Grad)、ドニ・ヴァクフ(Donji Vakuf)を結ぶ道の交点にあたり、プリヴァ川(Pliva)とヴルバス川(Vrbas)の合流地点にある。.

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ユーゴスラビア

ユーゴスラビアは、かつて南東ヨーロッパのバルカン半島地域に存在した、南スラブ人を主体に合同して成立した国家の枠組みである。 国名として「ユーゴスラビア」を名乗っていたのは1929年から2003年までの期間であるが、実質的な枠組みとしては1918年に建国されたセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に始まり、2006年に解体されたセルビア・モンテネグロまでを系譜とする。また、その間に国名や国家体制、国土の領域についてはいくつかの変遷が存在する。(詳細は#国名の項目を参照)。 なお、ユーゴスラビアの名は解体後の現在においても政治的事情により、構成国のひとつであったマケドニア共和国の国際連合等における公式呼称である「マケドニア旧ユーゴスラビア共和国」として残存している。 その国際的位置から『七つの国境、六つの共和国、五つの民族、四つの言語、三つの宗教、二つの文字、一つの国家』と形容される。.

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ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議

ユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(ユーゴスラビアじんみんかいほう はんファシストかいぎ、セルビア・クロアチア語:Антифашистичко веће народног ослобођења Југославије / Antifašističko veće narodnog oslobođenja Jugoslavije、クロアチア・セルビア語:Antifašističko vijeće narodnog oslobođenja Jugoslavije、スロベニア語:Antifašistični svet narodne osvoboditve Jugoslavije、略称AVNOJ / АВНОЈ)は、第二次世界大戦中のユーゴスラビア人民解放戦争において、各地で反ファシスト闘争を進め、臨時的な統治機構の役割を担うとされた諸機関を統括する機関である。枢軸国支配下のユーゴスラビアのパルチザンの解放区にて1942年11月26日に設立された。会議は、ユーゴスラビアにおける枢軸国・ファシスト勢力との戦いを担う抵抗勢力の政治的指導部としての役割を果たした。.

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ユーゴスラビア・ディナール

ディナール(динар/dinar)とは、3つのユーゴスラビア(ユーゴスラビア王国、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国、ユーゴスラビア連邦共和国)の通貨。ディナールの補助単位はパラ(пара/para)で、1ディナールは100パラ。デノミは7回行われ、うち5回は1990年 - 1994年のハイパーインフレーションで行われている。8つのディナールには、それぞれ異なった名前とISO 4217コードが与えられている。.

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ユーゴスラビア王国

ユーゴスラビア王国(ユーゴスラビアおうこく、セルビア・クロアチア語・スロベニア語:Kraljevina Jugoslavija / Краљевина Југославија)は、バルカン半島西部から中央ヨーロッパにかけての地域を領土とし、1918年から1941年までの期間に存続した立憲君主制の国家。事実上は国王が亡命した1941年に、公式にはユーゴスラビア連邦人民共和国成立前の1945年に滅亡した。.

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ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ユーゴスラヴィアの表記もある。(ユーゴスラビアしゃかいしゅぎれんぽうきょうわこく、セルビア・クロアチア語・セルビア語・クロアチア語・ボスニア語・スロベニア語スロベニア語における「社会主義」の語の形容詞形は「Socialistična」であり、公式国名の最初の語にある「Socijalistička」とは異なる。スロベニア語では、後者のスロベニア語を用いた表記もされた。・マケドニア語:Socijalistička Federativna Republika Jugoslavijaガイ式ラテン・アルファベットによるラテン文字表記。スロベニア語およびセルビア・クロアチア語の西部標準形(クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナを主体とする)ではラテン文字が用いられた。キリル文字による表記と完全に対応している。 / Социјалистичка Федеративна Република Југославијаセルビア語キリル文字およびマケドニア語キリル文字による表記ラテン文字における表記と完全に対応している。)は、第二次世界大戦中の1943年から、解体される1992年まで存続した、ユーゴスラビアの社会主義国家。.

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ユーゴスラビア連邦共和国

ユーゴスラビア連邦共和国のパスポート。2009年12月31日まで有効とされた。 ユーゴスラビア連邦共和国(ユーゴスラビアれんぽうきょうわこく、セルビア語・セルビア・クロアチア語:Савезна Република Југославија; СРЈ / Savezna Republika Jugoslavija; SRJ)は、1992年から2003年まで存続したバルカン半島中部の連邦国家である。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)が崩壊して4つの共和国が独立していった後、同国に留まっていたセルビア共和国とモンテネグロ共和国によって結成された。スロベニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、マケドニア分離前のユーゴスラビアと区別して「新ユーゴスラビア」と呼ぶことが多い。 2003年に国家を再編し、国家連合セルビア・モンテネグロに移行した。しかし国家連合もその3年後の2006年、モンテネグロの住民投票で独立が支持されたことに伴い、解消された。その結果、2006年にはモンテネグロ、セルビアの両国はともに独立国となった 。 ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SFRJ)から4つの共和国が分離したことによって、残された2国から成るユーゴスラビア連邦共和国(FRJ)はより単一民族的となった。2つの国家で多数派を形成する民族はそれぞれセルビア人、モンテネグロ人であるが、両者は民族的・文化的にほぼ同一である。モンテネグロ人の民族主義者は、モンテネグロ人がセルビア人とは異なる独自の民族であると主張するが、それ以外の多くの人々はモンテネグロ人はセルビア人の一支族であると考えている。ユーゴスラビア連邦共和国の少数民族としては、アルバニア人、マジャル人、ルーマニア人などがいる。コソボ・メトヒヤ自治州で多数派であるアルバニア人と少数派のセルビア人との間で民族的緊張が高まり、両者の衝突はユーゴスラビア連邦共和国の存続期間を通してずっと続いた問題であった。 ユーゴスラビア連邦共和国は、1992年の建国から2000年に至るまで、かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国の継承国家とは認められていなかった。1992年から2000年までの間、アメリカ合衆国などの国々はユーゴスラビア連邦共和国を「セルビアとモンテネグロ」、あるいはその中でセルビアが支配的な地位にあったことから単に「セルビア」と呼んでいた。特にスロボダン・ミロシェヴィッチがセルビア大統領の地位にあった時代、ミロシェヴィッチは連邦の大統領よりも強い影響力を持っていた。ミロシェヴィッチやセルビア民族主義に反対する人々は、ミロシェヴィッチ支配下のユーゴスラビア連邦共和国を「大セルビア」と呼んだ。.

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ユダヤ人

ユダヤ人(יהודים、Jews、Djudios、ייִדן)は、ユダヤ教の信者(宗教集団)、あるいはユダヤ人を親に持つ者(血統)によって構成される宗教的民族集団である。 ムスリムやクリスチャンと同じで、ユダヤ人という人種・血統的民族が有る訳では無い。ヨーロッパでは19世紀中頃まで主として前者の捉え方がなされていたが、近代的国民国家が成立してからは後者の捉え方が広まった。ハラーハーでは、ユダヤ人の母親から生まれた者、あるいは正式な手続きを経てユダヤ教に入信した者がユダヤ人であると規定されている。2010年現在の調査では、全世界に1340万を超えるユダヤ人が存在する。民族独自の国家としてイスラエルがあるほか、各国に移民が生活している。ヘブライ人やセム人と表記されることもある。 ユダヤ人はディアスポラ以降、世界各地で共同体を形成し、固有の宗教や歴史を有する少数派のエスニック集団として定着した。しかし、それらを総体的に歴史と文化を共有する一つの民族として分類することはできない。言語の面をみても、イディッシュ語の話者もいればラディーノ語の話者もいる。歴史的にはユダヤ人とはユダヤ教徒のことであったが、現状では国籍、言語、人種の枠を超えた、一つの尺度だけでは定義しえない文化的集団としか言いようのないものとなっている。 で追加された記述だが、出典が示されていない。古代のイスラエル人やセファルディムは(いわゆる「白人」ではないものの)主にコーカソイドのはずで、これを単に「有色人種」と説明するのは誤りではないにしても誤解を招きかねず、不適切であろう。また、アシュケナジムをハザール人と関連づけるのは(当該記事の記述によれば)諸説があり、広く受け入れられている説ではない。 「古代のイスラエル人は有色人種で、12支族の1支族ユダ族のユダヤ人は有色人種セファルディムで、白系ユダヤ人アシュケナジム(ヘブライ語でドイツを意味する)は8世紀頃、ハザール人のユダヤ教への改宗によって、ユダヤ人を名乗った。」 -->.

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ラテン文字

ラテン文字(ラテンもじ、abecedarium Latinum、Latin alphabet、ラテンアルファベット)は、表音文字(音素文字・アルファベット)の一つである。ローマ文字、ローマ字(alfabeto Romano、Roman alphabet)とも呼ばれる。 文字を右書きで横に並べることで単語を表記し、単語間を分かち書きで区切って並べることで文章を構成する。それぞれの文字は子音か母音を表す。 今日、人類社会で最も解読者人口が多い文字である。 元来ラテン語の文字で、古くから西欧・中欧の諸言語で使われているが、近代以降はこれら以外にも使用言語が多い。ただし発音の文字への表記方法は各言語ごとに異なっており、同じ綴りでも言語によって違う発音をすることはラテン文字においては全く珍しくない。英語など、古い時代に表記法が定められた言語においては表記と発音の間の乖離も大きなものとなってきている。.

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ラドヴァン・カラジッチ

ラドヴァン・カラジッチ(Radovan Karadžić, セルビア語キリル文字: Радован Караџић, 1945年6月19日 - )はボスニアのセルビア系元政治家、詩人、精神科医であり、戦犯として旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷(以下ICTY)から指名手配され、逮捕された。カラジッチに対しては、ジェノサイドに関与したと考えられる正当な理由があるとして、ICTYのRule61に基づいて国際令状が出されている。アメリカ合衆国はカラジッチとラトコ・ムラディッチの逮捕に500万ドルの懸賞をかけている。ラドバン・カラジッチと表記されることもある。 2008年7月21日、セルビアのボリス・タディッチ大統領は、カラジッチを拘束したとの声明を発表した。.

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ロマ

マ(Roma、次節も参照、単数はロム)は、ジプシーと呼ばれてきた集団のうちの主に北インドのロマニ系に由来し中東欧に居住する移動型民族である。移動生活者、放浪者とみなされることが多いが、現代では定住生活をする者も多い。ジプシーと呼ばれてきた集団が単一の民族であるとするステレオタイプは18世紀後半に作られたものであり舟木譲「」『』第11号、2007年3月。、ロマでない集団との関係は不明である。.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ロシア帝国

ア帝国(ロシアていこく、 ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年から1917年までに存在した帝国である。ロシアを始め、フィンランド、リボニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、カフカーズ、中央アジア、シベリア、外満州などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。.

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ヴルバス川

ヴルバス川(ボスニア語・クロアチア語:Vrbas、セルビア語:Врбас)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ西部を流れる川で、サヴァ川の支流である。流域の主要な都市にはヤイツェ、バニャ・ルカなどがある。ユーゴスラビア王国時代の州(バノヴィナ)の一つであるヴルバス州は、この川の名を冠していた。ヴルバス川はゴルニ・ヴァクフ=ウスコプリェ近くの海抜1,530のヴラニツァ山(Vranica)南斜面と、ディナル・アルプス山脈北斜面の大山塊の一部分から流れ出ている。河口のサヴァ川との合流地点の海抜は90程度である。 川の長さは全長235あり、河口付近では800、流域の南側では1,500の年間平均降水量がある。降水量は流域南部では晩秋から冬にかけての期間に最大となり、夏に最小となる。それに対して流域北部では夏の期間である6月から7月にかけて多量の降水量があり、11月と12月には最大となる。ヴルバス川の主要な支流には、プリヴァ川(Pliva)、ウガル川(Ugar、ツルナ川(Crna)、ヴルバニャ川(Vrbanja)があり、それぞれ中流域に位置する。川の名となっている「ヴルバス」はセルビア・クロアチア語では柳を意味し、バニャ・ルカの川岸をシダレヤナギが飾っている。.

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ヴィシェグラード (ボスニア・ヘルツェゴビナ)

ヴィシェグラード(Вишегрaд,Višegrad,Višegrad)はボスニア・ヘルツェゴビナの町及び基礎自治体で、同国を構成する構成体のうちスルプスカ共和国に属する。.

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ヴィソコ

ヴィソコ(ボスニア語およびクロアチア語:Visoko、セルビア語:Високо)はボスニア・ヘルツェゴビナの中央、フォイニチカ川(Fojnička)とボスナ川(Bosna)の合流地点に位置する町である。人口は約17,000人。首都サラエヴォとゼニツァを結ぶ幹線上に位置している。ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体であるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のゼニツァ=ドボイ県に属する基礎自治体である。.

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ヴェネツィア共和国

ヴェネツィア共和国(薄赤)の領域はポー平原北部からイストリア半島、ダルマチアに及んでいた。1494年時点の状況 最も高貴な共和国ヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこく ヴェネツィア、Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、、)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。.

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ヴェリカ・クラドゥシャ

ヴェリカ・クラドゥシャ(ボスニア語:Velika Kladuša、クロアチア語:Velika Kladuša、セルビア語:Велика Кладуша)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西端、クロアチアと国境近くの町。ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうち、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のウナ・サナ県に属している。近接する町はツァジン、ビハチなど。.

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ボイコット

紛争に抗議してイスラエル製品のボイコットを呼びかける活動家たち ボイコット()は、考えや要求を実現させる目的で不買、拒否、排斥などを行うこと。.

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ボゴミル派

ボゴミル派(ボゴミルは)は、10世紀中ごろから14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されたキリスト教の一派である。善悪二元論と現世否定に特徴があり、正教会では異端とされた。 10世紀中頃に、ブルガリア司祭のボゴミルにより開始された。ブルガリアにおいては東ローマ帝国への抵抗運動と結びつき、一部の地域では正統派をしのぐ勢いをもったが、帝国が衰えブルガリアがオスマン帝国領となり、イスラム教が入ってくると、ボゴミル派からイスラムに改宗する者も現れ、廃れた。 フランスのカタリ派(アルビジョワ派)に影響を与えたとも考えられている。.

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ボシュニャク人

ボシュニャク人(男性単数: Bošnjak/Бошњак 、女性単数: Bošnjakinja/Бошњакиња、男性複数: Bošnjaci/Бошњаци)は、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。日本語表記としては他にボシュニャック人、ボスニャク人、ボスニアク人、ボスニアック人などの表記が存在する。ボシュニャク人という名前はバルカン西部にあるボスニアの名前に由来している。ボシュニャク人はボスニア・ヘルツェゴビナを彼らの民族的故地と考えている。 バルカン諸国の全てのムスリムがボシュニャク人というわけではなく、他にもポマク人のようなブルガリア人ムスリムの民族や、アルバニア人、トルコ人、ロマのような非スラブ系ムスリムも存在する。.

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ボスナ川

源流のヴレロ・ボスネ ボスナ川(Bosna,Босна)はボスニア・ヘルツェゴビナを流れる川で、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内を流れる3つの重要な河川の一つである。他の2つはネレトヴァ川(Neretva)、ヴルバス川(Vrbas)などで、ボスナ川は全長271kmの長さを有する。ボスニア・ヘルツェゴビナ領内を流れる河川では他にウナ川、北西部を流れるサヴァ川、北部を流れるドリナ川が有名である。ローマ時代にボスナ川はボッシニア(Bossina)、バスイヌス(Bathinus)と呼ばれMalcolm, Noel (1994).

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ボスニア

ボスニア (''Bosnia'') とヘルツェゴビナ (''Herzegovina'') の大まかな地域範囲図 ボスニア (Bosnia) は、.

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ボスニア人

ボスニア人(Босанци / Bosanci)とはボスニア・ヘルツェゴビナに在住する特定の人々を指し示す呼称である。その指し示す範囲は、大きく2つに分けられる.

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ボスニア・ヘルツェゴビナの大統領評議会

ボスニア・ヘルツェゴビナ大統領評議会(ボスニア・ヘルツェゴビナだいとうりょうひょうぎかい、ボスニア語・、)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの国家機関。日本語では幹部会とも表現される。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナの国章

ボスニア・ヘルツェゴビナの国章(ボスニア・ヘルツェゴビナのこくしょう)とは1998年5月20日に制定されたボスニア・ヘルツェゴビナの徽章のこと。 現在軍の紋章に使われる旧国章から、ボスニア・ヘルツェゴビナの国旗のデザインをそのまま盾にはめ込むだけのシンプルな紋章に代わっている。 ちなみに1992年から1998年まで使われた旧国章は中世のボスニアの王家コトロマニッチ家(中でもオスマン帝国に立ち向かったステファン・トゥルトゥコを意識している)に由来する、金枠青地の盾に銀(白)のベンド(斜め帯)に6つの金(黄)の百合(フルール・ド・リス)を描いたもの。しかし国家のシンボルと云うにはあまりにボスニア寄りという理由で、セルビア系住民、クロアチア系住民の反発に遭い、現在のものが制定された。現在の紋章も公務員のユニフォームなどに見られるものの、国内ではほとんど使われていない。 1992年-1998年の国.

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ボスニア・ヘルツェゴビナの政党一覧

ボスニア・ヘルツェゴビナの政党一覧では、ボスニア・ヘルツェゴビナで活動する政党について述べる。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表

ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表(ボスニア・ヘルツェゴビナじょうきゅうだいひょう、英語:High Representative for Bosnia and Herzegovina)は、1995年12月のデイトン合意に基づき和平遂行を民生面で担当するため上級代表事務所(Office of the High Representative、OHR)に設置された。ボスニア・ヘルツェゴビナ上級代表とOHRは、国際連合を通して国際社会を代表する。また、上級代表は、欧州連合(EU)の特別代表でもある。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ併合

ボスニアとヘルツェゴビナの大まかな地域範囲図 アロイス・エーレンタール / ボスニア・ヘルツェゴビナ併合時のオーストリア外相 セルビア国王ペータル1世 / オーストリアとの対立を深めた ボスニア・ヘルツェゴビナ併合(ボスニア・ヘルツェゴビナへいごう)は、1908年10月6日、青年トルコ人革命の混乱に乗じたオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言した事件をいう。本項ではこれによって生じた「ボスニア危機」(「バルカン危機」とも)と称される外交危機についても述べる。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国

ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国(ボスニア・ヘルツェゴビナしゃかいしゅぎきょうわこく、セルビア・クロアチア語:)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国である。この国家は、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの前身である。その歴史はムルコニチ・グラード(Mrkonjić Grad)で反ファシスト・パルチザンによるボスニア・ヘルツェゴビナ人民解放国家反ファシスト委員会の会合が開かれた1943年11月25日よりはじまる。1990年に共産党による一党支配が終わり、民主化されたことによってボスニア・ヘルツェゴビナ共和国となり、更に1992年にユーゴスラビアから独立してボスニア・ヘルツェゴビナとなった。 首都はサラエヴォであり、独立後もボスニアの首都となっている。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

ミハイル・エフスタフィエフ撮影) ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争(ボスニア・ヘルツェゴビナふんそう、Bosnian War)は、ユーゴスラビアから独立したボスニア・ヘルツェゴビナで1992年から1995年まで続いた内戦。単にボスニア紛争とも呼ばれる。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ議会

ボスニア・ヘルツェゴビナ議会(ボスニア・ヘルツェゴビナぎかい、)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの立法府である。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ関係記事の一覧

ボスニア・ヘルツェゴビナ関係記事の一覧(ボスニア・ヘルツェゴビナかんけいきじのいちらん)では、ボスニア・ヘルツェゴビナに関係する記事の一覧を50音順にまとめた。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦

Coat of arms of the Federation of Bosnia and Herzegovina(1996年 - 2007年) ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(ボスニア・ヘルツェゴビナれんぽう)は、連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナの構成体の1つ。ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族のうち、ボシュニャク人とクロアチア人を主体とする共和国で、独自の大統領、政府、立法府を持つ。ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の51%を占める。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県

ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県(ボスニア・ヘルツェゴビナれんぽうのけん)では、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国を構成する構成体(エンティティ)のひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の地方行政区画である県(ボスニア語:kanton、クロアチア語:županija、セルビア語:кантон、英語:Canton、日本語ではカントンの表記も)について記述する。 ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国の2つの構成体からなっている。そのうち、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦には10個の県が設置されている。各県の下には基礎自治体(オプチナ、ボスニア語およびクロアチア語:Općina、セルビア語:Општина)がおかれている。一方、スルプスカ共和国には県は置かれていない。.

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ボスニア王国

ボスニア王国(Banovina Bosna/Босɖɴскɖ бɖɴоvнɴɖ)は、中世のボスニアに存在していた国家である。.

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ボスニア語

ボスニア語(ボスニアご、bosanski jezik)は、南スラブ語群に属する言語の標準形の一つであり、セルビア・クロアチア諸語のシュト方言が基本となっている。 ボスニア・ヘルツェゴビナをはじめとする、旧ユーゴスラビア諸地域において、特にセルビア・クロアチア諸語を話すイスラム教徒の多くは自身をボシュニャク人と規定し、その母語をボスニア語と考えている。 ラテン文字による表記が標準的であるが、キリル文字も使用される。「ボスニア語」という名前は、ボシュニャク人のボスニア語話者に共通に受け入れられており、また言語コードの規格ISO 639にもこの名前で掲載されている。.

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ボスニア=ポドリニェ県

ボスニア=ポドリニェ県(ボスニア=ポドリニェけん、ボスニア語:Bosansko-podrinjski kanton、クロアチア語:Bosansko-podrinjska županija、セルビア語:Босанско-подрињски кантон)、あるいはボスニア=ポドリニェ・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のエンティティであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する県。県都はゴラジュデ。.

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ボサンスカ・ドゥビツァ

ボサンスカ・ドゥビツァ(Босанска Дубица,Bosanska Dubica,Bosanska Dubica)またはドゥビツァ(Дубица,Dubica,Dubica)はボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちスルプスカ共和国に属する都市および基礎自治体である。コザルスカ・ドゥビツァ(Козарска Дубица)と呼ばれる場合もある。ボサンスカ・ドゥビツァはザグレブとベオグラードを結ぶ高速道路から26km離れており、ボサンスカ・クライナ地方の東部に位置し、自治体の北側はクロアチアのフルヴァツカ・ドゥビツァと国境を接し、東側はボサンスカ・グラディシュカ、西側はボサンスカ・コスタイニツァ、南側はプリイェドルの各自治体と接している。自治体の面積は499km2で人口は約31,000人である。1991年以来国勢調査は紛争の影響もあり行われていない。.

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ボサンスカ・クルパ

ボサンスカ・クルパ(ボスニア語:Bosanska Krupa、クロアチア語:Bosanska Krupa、セルビア語:Босанска Крупа)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西部に位置している。同国を構成する2つの構成体のうち、ボシュニャク人やクロアチア人を主体としたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属し、ウナ=サナ県の一部である。.

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トラヴニク

トラヴニク(Travnik,Travnik,Травник)はボスニア・ヘルツェゴビナの都市及び基礎自治体でサラエヴォからは約100kmほど北西に位置し、同国を構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の中央ボスニア県に属し、同県の県都である。1697年から1850年にかけてオスマン帝国(1580–1867)の首府が置かれていた。.

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トルコ人

トルコ人(トルコじん、Türk HalkıあるいはTürkler)は、アナトリア半島とバルカン半島、アラブ諸国の一部に居住し、イスタンブール方言を公用語・共通語とするトルコ語を話すテュルク系の民族である。アゼルバイジャン人やトルクメン人とは民族的に親近関係にある。.

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トレビニェ

トレビニェの町並み トレビニェ(Требиње,Trebinje,Trebinje)はボスニア・ヘルツェゴビナの都市およびそれを中心とした基礎自治体で同国を構成する構成体のうちスルプスカ共和国に属する。トレビニェはヘルツェゴヴィナ南東部にあり、アドリア海からは内陸に10数km入った場所に位置する。.

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トゥズラ

チェスを楽しむ退役者たち。町西部の住宅地にて。 トゥズラ(ボスニア語およびクロアチア語:Tuzla、セルビア語:Тузла)はボスニア・ヘルツェゴビナの都市、およびそれを中心とした基礎自治体。 1991年の調査では人口は13万1千人であった。その後の避難民の流入などによって、現在の人口はおよそ16万人程度と見られている。サラエヴォ、バニャ・ルカに続いて、ボスニア・ヘルツェゴビナでは3番目に人口の多い都市であり、トゥズラ県の県都となっている。トゥズラという地名はトルコ語の「塩」(Tuz)にちなんだもので、町の地下に広範囲にわたって塩の堆積があることによる。.

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トゥズラ県

トゥズラ県(トゥズラけん、ボスニア語:Tuzlanski kanton、クロアチア語:Tuzlanska županija、セルビア語:Тузлански кантон、英語:Tuzla Canton)はあるいはトゥズラ・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の構成体であるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する県。県都はトゥズラ。.

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ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国

ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国(ヘルツェグ=ボスナ・クロアチアじんきょうわこく、クロアチア語:Hrvatska Republika Herceg-Bosna)は、1990年代の前半にボスニア・ヘルツェゴビナの中で分離を宣言し、事実上独立していた国家。ボスニア紛争における分離主義の動きの中で、国際的承認のないまま1991年から1994年まで存続した。モスタルを首都と定めたものの、そこは政治情勢が安定しなかったため、実際の政府はモスタルから西に19km離れていて政治的に安定していたグルデに置かれた。その後のワシントン合意によってボスニア・ヘルツェゴビナ連邦へと併合された。 ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県のひとつである第十県はこの国と同じ「ヘルツェグ=ボスナ県」を名乗っている。しかしながら、この名前は連邦憲法裁判所により憲法違反とされた(理由のひとつとして、第十県の領域はヘルツェゴヴィナ地方にはまったく及んでいないことが挙げられる)。それでもなおヘルツェグ=ボスナの呼称はこの県をさして広く用いられている。 なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。.

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ヘルツェゴヴィナ

ボスニア (''Bosnia'') とヘルツェゴビナ (''Herzegovina'') の大まかな地域範囲図 ヘルツェゴヴィナ (Hercegovina) は、現在のボスニア・ヘルツェゴビナ南部の歴史的名称。中心都市はモスタル。 「ヘルツェゴヴィナ」という名前は、15世紀にこの地域を支配したスチェパン・ヴクチッチの称号である「」にちなんだものといわれ、「公」を意味するドイツ語のヘルツォーク (Herzog) やハンガリー語のヘルツェグ (herc(z)eg) に由来する名称である。聖サヴァ公の名称自体もセルビア正教会で最も敬愛される聖人「聖サヴァ」に由来する名称である。 隣のボスニアと同様、6世紀末から7世紀にかけてこの地域にもスラヴ人が定住した。ヘルツェゴヴィナに相当する地域は古くはフムと呼ばれていたが、フムは1168年から1326年までセルビアの支配下にあったため、セルビア正教会の影響を強く受けた。その後14世紀前半にボスニア王国の領域に組み込まれ、現在まで続くボスニアとの地域的な一体性を持つに至った。1483年にスチェパン・ヴクチッチによるオスマン帝国に対する抵抗運動が平定されると、ヘルツェゴヴィナ県が置かれてオスマン帝国の支配が確立することとなる。 19世紀後半に入るとムスリム地主に対するキリスト教徒の小作人による反乱が相次いで起こるようになる。1857年と1861年に隣国モンテネグロの支援を受けた反乱が起こったほか、露土戦争の引き金となった1875年のはボスニアへも飛び火した。その後、1878年のベルリン会議によってオーストリア・ハンガリー帝国による軍事占領が認められ、帝国の大蔵大臣(共通蔵相)の管轄下に置かれた。1882年には占領に対する蜂起も発生している。 1908年、ボスニアと共にオーストリア・ハンガリー帝国に正式に併合された。.

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ヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県

モスタルの橋 ヘルツェゴビナ=ネレトヴァ県(ヘルツェゴビナ・ネレトヴァけん、ボスニア語:Hercegovačko-neretvanski kanton、クロアチア語:Hercegovačko-neretvanska županija、セルビア語:Херцеговачко-неретвански кантон)、あるいはヘルツェゴビナ=ネレトヴァ・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のエンティティであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する県。県都はモスタル。領域の多くはヘルツェゴビナ地方西部、ネレトヴァ川渓谷にある。.

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ブナ

ブナ(山毛欅、橅、椈、桕、橿 学名: )は、ブナ科ブナ属の落葉高木林 (2011)、133-135頁菱山 (2011)、58-59頁。落葉広葉樹で、温帯性落葉広葉樹林の主要構成種、日本の温帯林を代表する樹木。種小名の crenata は、「円鋸歯状の」を意味する。 中国語で「山毛欅」とは、本種ではなく中国ブナの一種を指す。「橅」は近年作られた日本文字で、一般に(日本)ブナの意味に使われている。「椈」も中国ではブナの意味は全くなく、檜の意味ならあるが、日本ではブナの意味に使われることがある。別名が、シロブナ、ソバグリ。 木材としてはビーチと呼ぶ。.

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ブリュッセル

ブリュッセル市庁舎 ブリュッセル( 、 、 、 )は、ベルギーの首都である。名称は「沼、湿地(bruoc、bruc、broek)」、「家(sella、zele)」という単語から来ている。ブリュッセル単独で、ベルギーの連邦構成主体である3つの地域のうちの一つ、ブリュッセル首都圏地域(、)を構成している。 人口116万人(2014年)。他の2つの地域と比べて面積は161km2と相対的に狭いが、約30km2の森林地域を除いて、その領域のほとんどが市街化されている。ユーロクリアと国際銀行間通信協会に加え、ロスチャイルド系グループ・ブリュッセル・ランバート本部と本部まで抱える、欧州有数の世界都市である。2013年に行われたアメリカのダウ・ジョーンズらによる調査は、ブリュッセルを世界24位の金融センターと評価している。 16世紀より欧州郵便網(帝国郵便)の起点であった歴史を持つ。1893年、フレンチ・コロニアル・ユニオンのジョゼフ・シェレが国際植民地学院の設立を提唱し、翌年に議会の承認を得た。学院は、植民地の行政・法制を比較研究する目的でブリュッセルにおかれた。戦後にブリュッセルはNATO の原点となり、現在では欧州連合の主要機関とアメリカ合衆国通商代表部の事務所が置かれている。.

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ブルチコ

ブルチコ(ボスニア語:Brčko、セルビア語:Брчко、クロアチア語:)はボスニア・ヘルツェゴビナ北部の都市であり、ブルチコ行政区の中心地。クロアチアとの国境となっているサヴァ川に面している。.

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ブルチコ行政区

ブルチコ行政区(ブルチコぎょうせいく、ボスニア語・クロアチア語・セルビア語: ラテン文字表記Brčko distrikt、キリル文字表記Брчко дистрикт)は、ボスニア・ヘルツェゴヴィナ北東部に位置する、同国の自治行政区。 公的には、同行政区はボスニア・ヘルツェゴヴィナ連邦とスルプスカ共和国の双方に属するとされる。.

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ブルガリア

ブルガリア共和国(ブルガリアきょうわこく)、通称ブルガリアは、ヨーロッパの共和制国家である。 バルカン半島に位置し、北にルーマニア、西にセルビア、マケドニア共和国、南にギリシャ、トルコと隣接し、東は黒海に面している。首都はソフィア。.

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ブロド

ブロド(セルビア語:Брод、クロアチア語:Brod、ボスニア語:Brod)またはボサンスキ・ブロド(セルビア語:Босански Брод、クロアチア語:Bosanski Brod、ボスニア語:Bosanski Brod)はボスニア・ヘルツェゴビナドボイ地方の町及びそれを中心とした基礎自治体でボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうちスルプスカ共和国(セルビア人共和国)に属する。.

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ブゴイノ

ブゴイノ(Bugojno,Bugojno,Бугојно)はボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の中央ボスニア県に属する都市および基礎自治体で、ヴルバス川河畔に位置する。サラエヴォの北西80km、アドリア海からは100km内陸に入った場所に位置し2007年現在の人口は約4万人である。クプレス方向に向かって西側の地域はコプリヴィツァ(Koprivica)と呼ばれている。この地域は広大な森林が広がっており狩猟が盛んな地域でかつて、ユーゴスラビアの大統領であったヨシップ・ブロズ・ティトーが狩猟などで好んだ場所の一つである。深い森や人家が希薄な場所ではクマやクズリ、シカ、イノシシなど様々な多くの動物の聖域を作っている。狩猟以外にもカリン山(Kalin)では週末にはハイカーなど自然を楽しむ人々には著名な場所となっている。.

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プリイェドル

プリイェドル(Приједор, Prijedor, Prijedor)はボスニア・ヘルツェゴビナの都市および基礎自治体で、ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちスルプスカ共和国に属する。プリイェドルはスルプスカ共和国では2番目に大きな都市で、ボスニア・ヘルツェゴビナでも6番目に大きな都市である。 経済的にも豊かな都市で、幅広い工業やサービス等の産業、教育機関などが立地している。地理的にも戦略的な地点に位置し、ザグレブやベオグラードの他、リュブリャナ、ウィーン、ブダペストなど欧州連合加盟の近隣国の首都へも近いことから工業や商業の成長にとってボスニア・ヘルツェゴビナにとっては重要な位置を占めている。2006年から2009年にかけ建物の修復が進められ町は刷新され、現代ヨーロッパの中規模都市のようになった。プリイェドルは様々な宗教的な場所が混在することで知られており、カトリック、正教、イスラーム等の文化遺産がある。歴史的なオスマン期やオーストリア時代の建物はプリイェドルの町の景観を表している。.

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パルチザン (ユーゴスラビア)

ユーゴスラビアのパルティザン(partizani / партизани)は、正式名称をユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊(スロベニア語:Narodnoosvobodilna vojska in partizanski odredi Jugoslavije、セルビア・クロアチア語:Narodnooslobodilačka vojska i partizanski odredi Jugoslavije / Народноослободилачка војска и партизански одреди Југославије、マケドニア語:Народноослободителна војска и партизанските одреди на Југославија、略称:NOV i POЈ / НОВ и ПОЈ)といい、第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力である。パルティザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者とする。 パルティザンはユーゴスラビアにおける共産主義国家の樹立を目指しており、ユーゴスラビア共産党はユーゴスラビアに住む全ての民族の権利を擁護し、全ての民族に対して支持を訴えた。パルティザンよりも数週間早く設立された、もう一つの反枢軸の抵抗組織にチェトニクがあったが、チェトニクはカラジョルジェヴィチ家による王政の維持と、セルビア人の保護を目的としており、チェトニクが正当で歴史的なセルビア人の土地と考える地域における他民族に対する民族浄化を通じて大セルビアを確立することを目指していたBanac (1996), p.1431941年夏以降、チェトニクはセルビア人の抵抗者を糾合し、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部においてムスリム人に対する残虐行為の数々を実行した。ムスリム人に対する虐殺は、ノドを切り、川に落とすといったものが多く、フォチャやゴラジュデ、チャイニチェ、ロガティツァ、ヴィシェグラード、ヴラセニツァ、スレブレニツァやドリナ川渓谷一帯などのボスニア東部で頻発したが、セルビア人の村が点在するヘルツェゴビナ東部でも、1942年までは強固に抵抗を続けるセルビア人の活動があった。チェトニクの文書では、たとえば1942年6月にコトル・ヴァロシュ地区のヤヴォリネでの会合の議事録に見られるように、「セルビア人ではないあらゆるすべてをボスニアから除去する」決定について述べられている。セルビア人チェトニクによる民族浄化の正確な被害者数を特定することは難しいが、数万人が殺害されたと考えられるHirsch (2002), p.76Mulaj (2008), p.71。パルティザンとチェトニクの関係は当初より険悪であったが、1941年10月以降は全面的な衝突へと発展した。ティトーの汎民族主義は、チェトニクのセルビア人民族主義に反するものであり、チェトニクの王党主義は共産主義者のパルティザンには受け入られるものではなかった。 彼らは一般に「パルティザン」あるいは「パルチザン」と呼ばれており、この名前からはゲリラ勢力が想起されるが、彼らのゲリラ的な性質は最初の3年間でのことであった。1944年の終わりごろには、パルティザンの兵士の数は65万人におよび、4つの方面軍、52の師団を持つ軍隊組織となっていた。1945年4月にはパルティザンの兵士は80万人を数えるようになり、この時代のパルティザンは「人民解放軍」と呼ばれることが多い。.

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ヒツジ

ヒツジ(羊、綿羊、学名 )は、ウシ科ヤギ亜科の鯨偶蹄目である。角をもち、主に羊毛のために家畜化されている。.

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ビハチ

ビハチ(ボスニア語:Bihać、クロアチア語:Bihać、セルビア語:Бихаћ)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体であり、同国の北西部に位置している。同国を構成する2つの構成体のうち、ボシュニャク人やクロアチア人を主体としたボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属し、ウナ=サナ県の県都である。.

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ビイェリナ

ビイェリナ(Бијељина,Bijeljina,Bijeljina)はボスニア・ヘルツェゴビナの都市および基礎自治体で、同国を構成する構成体のうちスルプスカ共和国に属する。スルプスカ共和国北東部に位置し、スルプスカ共和国ではバニャ・ルカに次いで2番目に大きな都市で、ボスニア・ヘルツェゴビナでも5番目に大きな都市である。.

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ツァジン

ツァジン(ボスニア語:Cazin)はボスニア・ヘルツェゴビナ北西部・ウナ=サナ県にある都市及び基礎自治体で、クロアチア国境に近い。ツァジンはビハチ、ヴェリカ・クラドゥシャを結ぶ幹線道路が経由している。.

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デニス・ズヴィズディッチ

デニス・ズヴィズディッチ(Denis Zvizdić、1964年6月9日 -)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの政治家。2015年3月31日より同国の第9代閣僚評議会議長(首相)を務めている。民主行動党に所属するボシュニャク人。日本の外務省では「デニス・ズビズディッチ」と表記されている。 1964年、サラエヴォに生まれる。サラエヴォ大学の建築学部で学んだ後、同学部の教授となる。2003年2月6日から2006年11月16日までサラエヴォ県の知事を務め、後に同県議会の議長に就任した。2010年から2014年までボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の国会議員を務めた。2015年2月11日に、42議席からなるボスニア・ヘルツェゴビナ下院において、次期閣僚評議会議長選挙が実施された。35の投票のうち賛成28、反対5、棄権2によりズヴィズディッチは議長に選出された。 デニス・ズヴィズディッチの父の名はムスタファ、母の名はエミナである。妻のサミラとの間にはケナンという子供が誕生している。.

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ディナル・アルプス山脈

アルバニア北部、ヴァルボナ峠 ディナル・アルプス山脈(ディナル・アルプスさんみゃく、クロアチア語及びボスニア語: Dinarsko gorje/Dinaridi, Alpet Dinaride, Динарске планине or Динариди/Dinarske planine or Dinaridi; Dinarsko gorstvo; Alpi Dinariche)は、南ヨーロッパ、バルカン半島の山脈。北はスロヴェニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、コソヴォ、モンテネグロ、マケドニア共和国まで伸びる。.

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デイトン合意

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ和平一般枠組み合意(ボスニア・ヘルツェゴヴィナわへいいっぱんわくぐみごうい、ボスニア語・セルビア語・クロアチア語:Opći okvirni sporazum za mir u Bosni i Hercegovini / Општи оквирни споразум за мир у Босни и Херцеговини、英語:General Framework Agreement for Peace in Bosnia and Herzegovina)、またはデイトン合意(デイトンごうい、ボスニア語・セルビア語・クロアチア語:Daytonski sporazum / Дејтонски споразум、英語:Dayton Agreement)とは、1995年11月にアメリカ合衆国オハイオ州デイトン市近郊のライト・パターソン空軍基地においてまとまり、同年12月14日にパリで署名された和平合意。デイトン・パリ合意などともいう。この合意によりユーゴスラヴィア紛争の1つである、3年半にわたったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争は終結した。.

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フォチャ (ボスニア・ヘルツェゴビナ)

フォチャ(セルビア語:Фоча、ボスニア語:Foča、クロアチア語:Foča)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの町、およびそれを中心とした基礎自治体。ボスニア・ヘルツェゴビナを構成する2つの構成体のうちスルプスカ共和国に属し、ドリナ川の東岸、フォチャ地方にある。フォチャ地方の中心的な都市である。.

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ドナウ川

ドナウ川(ドナウがわ、ラテン語:Danubius、 ドイツ語: Donau )は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。 ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。.

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ドリナ川

ドリナ川(ボスニア語・クロアチア語:Drina, セルビア語:Дрина)はセルビア、ボスニア・ヘルツェゴビナを流れる川である。ディナル・アルプス山脈の大きなカルスト河川で、ドナウ川水系に属する。346kmの長さを有しサヴァ川の支流で、大部分がボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアの国境となっている。ドリナの名はラテン語のDrinusや古代ギリシャ語のDreinosから来ているとされる。.

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ドボイ

ドボイ(Добој,Doboj,Doboj)はボスニア・ヘルツェゴビナ北部の都市及び基礎自治体で、同国を構成する二つの構成体のうちスルプスカ共和国に属する。ドボイはスルプスカ共和国鉄道最大の分岐点で鉄道輸送の要衝である。歴史が古い町の一つである他、ボスニア・ヘルツェゴビナ北部では重要な中心都市の一つである。.

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ドイツ

ドイツ連邦共和国(ドイツれんぽうきょうわこく、Bundesrepublik Deutschland)、通称ドイツ(Deutschland)は、ヨーロッパ中西部に位置する連邦制共和国である。もともと「ドイツ連邦共和国」という国は西欧に分類されているが、東ドイツ(ドイツ民主共和国)の民主化と東西ドイツの統一により、「中欧」または「中西欧」として再び分類されるようになっている。.

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ニュースサイト「毎日新聞」

ニュースサイト「毎日新聞」(ニュースサイト まいにちしんぶん)は、毎日新聞社が運営するニュースサイトである。.

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ベルリン会議 (1878年)

ベルリン会議(ベルリンかいぎ、1878年6月13日 - 1878年7月13日)は、露土戦争の結果起こった国際紛争解決のために、ドイツのビスマルクが主催した国際会議。イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア、イタリア、オスマン帝国の7か国が参加し、バルカン半島の新独立国の領域が決定された。.

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ベルギー

ベルギー王国(ベルギーおうこく)、通称ベルギーは、西ヨーロッパに位置する連邦立憲君主制国家。隣国のオランダ、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。首都のブリュッセル(ブリュッセル首都圏地域)は欧州連合(EU)の主要機関の多くが置かれているため、"EUの首都"とも言われており、その通信・金融網はヨーロッパを越えて地球規模である。憲法上の首都は19の基礎自治体から成るブリュッセル首都圏の自治体の一つ、ブリュッセル市である。 19世紀にネーデルラント連合王国から独立した国家で、オランダ語の一種であるフラマン語が公用語の北部フランデレン地域とフランス語が公用語の南部ワロン地域とにほぼ二分される(この他にドイツ語が公用語の地域もある)。建国以来、単一国家であったが、オランダ語系住民とフランス語系住民の対立(言語戦争)が続いたため、1993年にフランデレン地域とワロン地域とブリュッセル首都圏の区分を主とする連邦制に移行した。.

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アリヤ・イゼトベゴヴィッチ

アリヤ・イゼトベゴヴィッチ(ボスニア語:Alija Izetbegović、1925年8月8日 – 2003年10月19日)は、ボシュニャク人活動家で、弁護士、作家、哲学者、政治家であり、1990年にボスニア・ヘルツェゴビナの初代大統領となった。イゼトベゴヴィッチは1996年まで大統領職を務め、その後ボスニア・ヘルツェゴビナ大統領評議会の一員となり、2000年までその地位にあった。イゼトベゴヴィッチはまた、多くの著書を残しており、特に『イスラム宣言』(The Islamic Declaration)などが知られる。.

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アドリア海

アドリア海(Adriatic Sea; Mar Adriatico; Jadransko more)は、地中海の海域の一つ。イタリア半島とバルカン半島に挟まれている。.

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アスファルト

精製されたアスファルト アスファルト舗装 アスファルト()もしくは土瀝青(どれきせい)とは、原油に含まれる炭化水素類の中で最も重質のものである。道路の舗装や防水剤などに使われる。減圧蒸留装置で作られた減圧残油はそのまま製品アスファルトとなり、ストレート・アスファルトと呼ばれる。 ストレート・アスファルトの性状を改善するため、溶剤抽出(溶剤脱瀝)や空気酸化(ブローン・アスファルト製造)などの処理を行うこともある。粘度の高い液体(ピッチ)であり、常温ではほとんど流動しないものが多い。ただし、常温で使用できるようにストレート・アスファルトを灯油や軽油でカットバックさせたカットバック・アスファルトもあるが、日本では統計上ストレート・アスファルトに含まれている。 なお、日本やアメリカ等では石油を精製して採れた減圧重質油をアスファルトと呼ぶのに対し、ヨーロッパではビチューメンと呼び、このビチューメンに骨材や砂などを混合したものをアスファルト(日本ではアスファルト混合物またはアスファルト合材)と呼んでいる。したがって、ヨーロッパの技術論文を読む際には注意が必要となる。なぜこのように呼称が違ったのか不明であるが、おそらくは、アスファルトの種類が増えたことが原因ではないかと考えられる。 トリニダード・トバゴでは純度の高いアスファルトが天然で噴出し、湖を形成するという稀なケースが見受けられる。これは、地中の原油から揮発成分が蒸発し、アスファルト分のみが残ったものと考えられる。→(ピッチ湖).

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イチジク

イチジク(無花果、映日果)は、クワ科イチジク属の落葉高木、またはその果実のことである。原産地はアラビア南部。不老長寿の果物とも呼ばれる。.

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イリュリア人

イリュリア人の居住範囲 イリュリア人(Ἰλλυριο,llyrii/Illyri)は古代のバルカン半島西部やイタリア半島沿岸南東部(メッサーピ)に住んでいた民族である。イリュリア人が住んでいた地域はギリシャやローマの作家たちによりイリュリアとして知られるようになったが、イリュリア人が住んでいた範囲は以前ユーゴスラビアだった地域やアルバニアなどで、西はアドリア海、北はドラーヴァ川、東は大モラヴァ川、南はヴョセ川河口までの範囲である。.

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インド・ヨーロッパ語族

インド・ヨーロッパ語族(インド・ヨーロッパごぞく)は、ヨーロッパから南アジア、北アジア、アフリカ、南アメリカ、北アメリカ、オセアニアにかけて話者地域が広がる語族である。印欧語族(いんおうごぞく、いんのうごぞく)と略称される。この語族に属する言語を公用語としている国は100を超える。.

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イヴォ・アンドリッチ

イヴォ・アンドリッチ(Ivo Andrić, 1892年10月9日 - 1975年3月13日)は、ユーゴスラビアの小説家、詩人、外交官。1961年のノーベル文学賞受賞者。.

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イギリス

レートブリテン及び北アイルランド連合王国(グレートブリテンおよびきたアイルランドれんごうおうこく、United Kingdom of Great Britain and Northern Ireland)、通称の一例としてイギリス、あるいは英国(えいこく)は、ヨーロッパ大陸の北西岸に位置するグレートブリテン島・アイルランド島北東部・その他多くの島々から成る同君連合型の主権国家である。イングランド、ウェールズ、スコットランド、北アイルランドの4つの国で構成されている。 また、イギリスの擬人化にジョン・ブル、ブリタニアがある。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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イタリア

イタリア共和国(イタリアきょうわこく, IPA:, Repubblica Italiana)、通称イタリアは南ヨーロッパにおける単一国家、議会制共和国である。総面積は301,338平方キロメートル (km2) で、イタリアではロスティバル(lo Stivale)と称されるブーツ状の国土をしており、国土の大部分は温帯に属する。地中海性気候が農業と歴史に大きく影響している。.

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イタリア王国

イタリア王国(イタリアおうこく、伊:)は、現在のイタリア共和国の前身となる王国。1861年に成立し、1946年に共和制へ移行した。.

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ウナ川

ウナ川(Una, Уна)はクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナを流れる河川で、全長は207km、流域面積は9,368km²である。ウナ川流域には100万人以上の人が暮らしている。ウナ川はサヴァ川の支流で、クロアチアのストラジェベニツァ山(Stražbenica)の北東斜面に位置するヴレロ・ウネ(Vrelo Une)の名で知られるウナ泉に源を発し、最初の4kmを流れた所で、ボスニア・ヘルツェゴビナに達する。マルティン・ブロド(Martin Brod)、クレン・ヴァクフ(Kulen Vakuf)などの町村を通り、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ両国の国境を流れて行く。リパチュ(Ripač)近くで蛇行し、ボスニア領内に入るとビハチに入り、西に向かいボサンスカ・クルパ、ボサンスカ・オトカへ向かう。ドブレティン(Dobretin)とヤヴォルニク(Javornik)の村近くで再びクロアチアとボスニア・ヘルツェゴビナの国境を流れて行く。ボサンスキ・ノヴィ(ノヴィ・グラード)、ドヴォル(Dvor)、フルヴァツカ・コスタイニツァ、ボサンスカ・コスタイニツァ、フルヴァツカ・ドゥビツァ、ボサンスカ・ドゥビツァを流れ、ヤセノヴァツ近くでサヴァ川と合流する。ウナ川の主な支流にはウナツ川、サナ川、クロコト川(Klokot)などがある。 ウナ川流域には170を超える薬効のあるハーブが群生し、ウナ・ブルーベル(Una Blue-Bell)と呼ばれる珍しいトルコ石色と緑色をした野草もある。また、28種の魚類も生息し、ウナ川では最大のサケ類のフッヘンも生息する。流域の町はウナ川が世界で最も綺麗な川であると主張しているがそれを証明出来るものはない。ウナ川の名前の由来の伝説に古代ローマ人が最初に訪れた際、"Una Unica Est"と言ったとされウナは唯一であるということから、比類ない綺麗な川と言うことと関連している。毎年、ウナ・レガッタと呼ばれるボートやカヤックによる川下りのイベントが行われる。.

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ウナ=サナ県

ウナ=サナ県(ボスニア語:Unsko-sanski kanton、クロアチア語:Unsko-sanska županija、セルビア語:Унско-сански кантон)、あるいはウナ=サナ・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のエンティティであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する県。県都はビハチ。県名は県内を流れるウナ川とサナ川の名前にちなむ。 歴史的にツァジンスカ・クライナと呼ばれてきた地域とほぼ範囲を同じくする。.

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ウスタシャ

ウスタシャ(Ustaše)は、クロアチアに存在したファシズム政党・民族主義団体。第二次大戦中にドイツと同盟を結び、大量虐殺を行ったことで有名である。 アンテ・パヴェリッチを指導者とし、クロアチア人による独立国民国家の樹立を目指した、農民を主体とする反資本主義を政治綱領に掲げていた。しかし反資本主義を目指していながらも私有財産制は認められており、ローマ・カトリックの思想を強く受けているのが特徴である。.

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オランダ

ランダ(Nederland 、; Nederlân; Hulanda)は、西ヨーロッパに位置する立憲君主制国家。東はドイツ、南はベルギーおよびルクセンブルクと国境を接し、北と西は北海に面する。ベルギー、ルクセンブルクと合わせてベネルクスと呼ばれる。憲法上の首都はアムステルダム(事実上の首都はデン・ハーグ)。 カリブ海のアルバ、キュラソー、シント・マールテンと共にオランダ王国を構成している。他、カリブ海に海外特別自治領としてボネール島、シント・ユースタティウス島、サバ島(BES諸島)がある。.

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オリーブ

リーブの実 オリーブ(olive 、学名: Olea europaea)は、モクセイ科の常緑高木。日本語では稀に「橄欖(かんらん)」と呼ぶことがある。.

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オーストリア=ハンガリー帝国

ーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリーていこく、 または Kaiserliche und königliche Monarchie、)は、かつて欧州に存在した国家。ハプスブルク帝国の一つであり、その最後の形態である。.

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オプシュティナ

プシュティナは、スラヴ圏の国々にみられる行政単位である。多くの場合、各国のオプシュティナは最小の行政単位(基礎自治体)であり、ドイツのゲマインデ(Gemeinde)、イタリアのコムーネ(comune)、フランスのコミューン(commune)、日本の市町村などに相当する。各国の言語によって呼称は若干異なるが、同根の語で表される。その中のオプシュティナとはセルビア語の名称である。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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カヤ

金剛院の千年ガヤ(京都の自然200選) 万正寺の大カヤ、日本最大のカヤ カヤ(榧、学名:) は、イチイ科カヤ属の常緑針葉樹である。 日本の東北地方から屋久島にかけての地域、朝鮮半島に分布する。日本では群馬県、福島県あたりが北限となる。これらの地域で暖帯林、山地に散生する。 同属にシナガヤ 、アメリカガヤ などがある。.

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カルスト地形

ルスト地形(独: )とは、石灰岩などの水に溶解しやすい岩石で構成された大地が雨水、地表水、土壌水、地下水などによって侵食(主として溶食)されてできた地形(鍾乳洞などの地下地形を含む)である。化学的には、空気中の二酸化炭素を消費する自然現象である。 広義には、クロアチアのプリトヴィツェ湖群国立公園や中国の九寨溝、トルコのパムッカレ、アメリカのイエローストーン国立公園などの、大量の石灰分を溶解した地下水や温・熱水から石灰華が大規模に再沈殿して作り出される地形も、カルスト地形に含まれる。これらの場合、基盤地質が石灰岩であるとは限らず、化学的には空気中に二酸化炭素を放出する。 また、石灰岩やチョーク(白亜)、泥灰岩、白雲岩(ドロマイト)などの炭酸塩岩以外にも、蒸発岩類(石膏岩、岩塩など)には溶食性の地形が大規模に形成されることがあり、カルスト地形に含められる。空気中の二酸化炭素量の増減には関係しない。.

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カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

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キリル文字

リル文字(キリルもじ、Кириллица、Cyrillic alphabet、キリール文字とも)は、主にスラヴ諸語を表記するのに用いられる表音文字の体系の一種である。日本等では特にロシア語の文字として知られ、ロシア語で使う 33 文字(大文字小文字を同一視して)は、ロシア文字とも呼ばれる。しかし、キリル文字はブルガリア語やセルビア語をはじめとする多くの言語で使用されており、文字もそれぞれ微妙に異なる。そして、キリル文字発祥の地はブルガリアであるとされるため、キリル文字の総称としてロシア文字と呼ぶのは不適当である。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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キセリャク

リャク(Kiseljak,Kiseljak,Кисељак)はボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦中央ボスニア県に属する都市および基礎自治体である。首都サラエヴォの北西、ゼニツァの南に位置しフォイニツァ川、レペニツァ川、クレシェヴカ川などボスナ川支流の低地に位置する。また、ヴィソコ、フォイニツァ、クレシェヴォ、ラコヴィツァからの道路が交わる。.

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クロアチア

アチア共和国(クロアチアきょうわこく、Republika Hrvatska)、通称クロアチアは、東ヨーロッパ、バルカン半島に位置する共和制国家である。本土では西にスロベニア、北にハンガリー、東にボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビアと国境を接している。南はアドリア海に面し対岸はイタリア、飛び地のドゥブロヴニクでは東にモンテネグロと接している。首都はザグレブ。 1991年に、それまで連邦を構成していたユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立した。.

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クロアチア人

アチア人(クロアチア語:Hrvati)は、主としてバルカン半島北西部のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナに在住する南スラブ人。クロアチア語話者であり、主にカトリックを信仰する。 クロアチアのサヴァ川、ドラーヴァ川流域、それらの地域より南のダルマチア地方沿岸部に居住する柳田「クロアチア」『世界民族事典』、240-241頁。1991年当時のクロアチア共和国ではクロアチア人の人口はおよそ3,736,000人で総人口の78%を占めていた。ボスニア・ヘルツェゴヴィナには約760,000人のクロアチア人が住み、アメリカ、ドイツ、オーストラリア、カナダ、アルゼンチンなどの地域にクロアチア移民が生活している。.

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クロアチア社会主義共和国

アチア社会主義共和国(クロアチアしゃかいしゅぎきょうわこく、Socijalistička Republika Hrvatska)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する社会主義国である。クロアチア社会主義共和国は1991年に独立したクロアチアの前身である。この国は1944年にユーゴスラビア民主連邦の構成国として設置され、ヨシップ・ブロズ・ティトー率いるユーゴスラビア共産主義者同盟によって統治されていた。1990年、社会主義を放棄し、多党制を導入し民主主義国としてクロアチア共和国へと移行、その後まもなく独立を果たした。.

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クロアチア紛争

アチア紛争で最も戦闘が激しかった街の一つヴコヴァルの給水塔。画像は2003年に撮影したもの クロアチア紛争(クロアチアふんそう)は、1991年から1995年にかけての、クロアチアのユーゴスラビアからの分離独立、および国内でのクロアチア政府とセルビア系住民による自治政府の対立をめぐる紛争である。.

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クロアチア独立国

アチア独立国(クロアチアどくりつこく、Nezavisna Država Hrvatska)は、主に現在のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの領域に存在した国家。一般にドイツ及びイタリアの傀儡国家と見做されている。独立国家クロアチアと訳されることもある。.

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クロアチア語

アチア語(クロアチアご、クロアチア語: hrvatski )は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群の言語である。クロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴビナの公用語である。クロアチアのEU加盟により、2013年7月以降EU公用語の一つにもなっている。 1991年にクロアチアがユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立する前は、セルビア語と同一の言語としてセルビア・クロアチア語として扱われていた。ユーゴスラビア解体後にそれぞれが別言語と主張されるようになったが、元々両者の違いは細かい正書法や表現の差異程度であり、現在でも非常に近い関係にある。セルビア語がアルファベットとしてキリル文字とラテン文字を使用するのに対し、現在のクロアチア語ではもっぱらラテン文字を使用する。歴史的にはグラゴル文字が使用されたこともあり、一部では近代まで用いられていた。 話者は主にバルカン半島に分布し、クロアチア人を中心にクロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナおよび他の国で話される。スロベニア語、マケドニア語とも類似している。 クロアチア国内で話される南スラヴ語群の言語変種には主にシュト方言・カイ方言・チャ方言の3種類があり、そのうち新シュト方言の東ヘルツェゴビナ方言がクロアチア語の標準語の基盤となっている。なお、セルビア語やボスニア語もシュト方言の一種から標準語が作られている。.

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クロアチア防衛評議会

ヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の旗 クロアチア防衛評議会(クロアチア語:)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中に設立された軍事組織である。マテ・ボバンによって、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内にて建国が宣言されたヘルツェグ=ボスナ・クロアチア人共和国の軍事組織として1992年に設立された。クロアチア権利党を母体とする軍事組織クロアチア防衛軍をはじめとする、他のクロアチア人の武装組織は徐々に解体され、クロアチア防衛評議会へと合流していった。紛争終結後の2005年、ボスニア・ヘルツェゴビナ軍に統合された。 なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。.

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クーナ

ーナ(Kuna)は、クロアチアの通貨単位。略称はHRK。補助通貨単位はリパ(Lipa)で、1クーナ.

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コムーネ

ムーネ(comune)は、イタリア語で「共同体」を指す語であり、現代ではイタリアの自治体の最小単位(基礎自治体)である。また、スイスのイタリア語圏でも基礎自治体をコムーネと呼ぶ(詳細はスイスの基礎自治体を参照)。.

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コスモポリタニズム

モポリタニズム(英: cosmopolitanism)とは、全世界の人々を自分の同胞ととらえる思想。世界市民主義・世界主義とも呼ばれる。コスモポリタニズムに賛同する人々をコスモポリタン(訳語は地球市民)と呼ぶ。.

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コソボ

ボ共和国(コソボきょうわこく、Republika e Kosovës)は、バルカン半島中部の内陸部に位置する国家。北東をセルビア、南東をマケドニア共和国、南西をアルバニア、北西をモンテネグロに囲まれている。.

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ザクロ

(石榴、柘榴、若榴、学名: )は、ミソハギ科ザクロ属の1種の落葉小高木、また、その果実のこと。 庭木などの観賞用に栽培されるほか、食用になる。.

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シャマツ

ャマツ(Шамац、Šamac、Šamac)はボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちスルプスカ共和国に属する町およびそれを中心とした基礎自治体でサヴァ川の右岸に位置し、川の対岸はクロアチアのである。.

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スラヴ人

南スラヴ人 スラヴ人(スラヴじん)は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られ、特に西スラヴと東スラヴは時により北スラヴと分類されることがある。.

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スルプスカ共和国

ルプスカ共和国(スルプスカきょうわこく)は、連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナの構成体の1つ。ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族のうち、セルビア人を主体とする共和国で、通称はセルビア人共和国。独自の大統領、政府、立法府を持ち、ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の49%を占める。.

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スルプスカ共和国軍

ルプスカ共和国軍(セルビア語:Војска Републике Српске;ВРС / Vojska Republike Srpske; VRS)、あるいはボスニア・ヘルツェゴビナ・セルビア人軍は、ボスニア・ヘルツェゴビナのうちセルビア人を主体とするスルプスカ共和国の軍。2003年からボスニア・ヘルツェゴビナ連邦軍との統合が進められはじめた。2005年、完全に統合されたセルビア人、クロアチア人、そしてボシュニャク人の民族混成の部隊がイラクに派遣された。2006年6月6日、スルプスカ共和国軍とボスニア・ヘルツェゴビナ連邦軍はボスニア・ヘルツェゴビナ軍に統合され、ボスニア・ヘルツェゴビナ中央政府国防省の指揮下に置かれることとなった。.

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スロベニア

ベニア共和国(スロベニアきょうわこく、Slovenija: )、通称スロベニア、スロヴェニアは、中央ヨーロッパに位置する国で 、主要なヨーロッパの文化や交易の交差路である。.

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スタリ・モスト

タリ・モスト(Stari Most,「古い橋」)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの都市モスタルにある16世紀の橋で、市内を分けているネレトヴァ川に架かっている。町の象徴となっていたこの橋は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にあたる1993年11月9日午前3時にクロアチア系のカトリック民兵によって破壊されたが、その後復興計画が持ち上がり、2004年6月23日に復興工事が完了した。2005年には、ボスニア・ヘルツェゴビナ初のユネスコ世界遺産に登録された。.

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セルビア

ルビア共和国(セルビアきょうわこく)、通称セルビアは、南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。 首都であるベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで一貫して連邦の首都であった。2006年6月3日のモンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。セルビア内のコソボ・メトヒヤ自治州がコソボ共和国として事実上独立状態にある。.

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セルビア人

ルビア人(セルビア語:Срби / Srbi)は、主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人・ボシュニャク人(ボスニア人)とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。.

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セルビア・クロアチア語

ルビア・クロアチア語(セルビア・クロアチアご、セルボ・クロアチア語、クロアチア・セルビア語とも:Srpskohrvatski / Српскохрватски、スルプスコフルヴァツキ、Hrvatskosrpski / Хрватскосрпски、フルヴァツコスルプスキ)は、セルビア人 (Srbi) 、クロアチア人 (Hrvati)、ボシュニャク人、モンテネグロ人 によって話されている言語。ユーゴスラビアでは憲法上の公用語と定められていた。セルビア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロなどで話されている。セルビア語、クロアチア語、ボスニア語、モンテネグロ語の標準語はいずれもセルビア・クロアチア語の新シュト方言の東ヘルツェゴビナ方言に基づいており、セルビア・クロアチア語は複数中心地言語のひとつに数えられる。一部の書籍では「ユーゴスラビア語」とも呼ばれる。 インド・ヨーロッパ語族、スラブ語派、南スラブ語群に属する。言語人口は約1500万人(1971年国勢調査による)亀井孝、河野六郎、千野栄一編著 三省堂『言語学大辞典 第2巻 世界言語編(下-1)』1992年 p.475。.

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セルビア社会主義共和国

ルビア社会主義共和国(セルビアしゃかいしゅぎきょうわこく、セルビア・クロアチア語:Социјалистичка Република Србија / Socijalistička Republika Srbija)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(SRFJ)の構成国で、1943年から1990年まで存在した。セルビアはユーゴスラビアの構成国の中で最大の面積と人口を持ち、その首都ベオグラードはユーゴスラビアの首都として政治、経済の最大の拠点となった。.

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セルビア語

ルビア語(セルビアご、српски језик/srpski jezik)は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群の言語。.

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セルビア正教会

ルビア正教会(セルビアせいきょうかい;セルビア語 Српска православна црква スルプスカ・プラヴォスラヴナ・ツルクヴァ、略称 СПЦ セペツェ)は、セルビアを中心にセルビア人の間で信仰されている正教会の一組織であり、独立正教会の一つ。 正教会は一カ国に一つの教会組織をそなえることが原則だが(セルビア正教会以外の例としてはギリシャ正教会、ロシア正教会、日本正教会など。例外もある)、これら各国ごとの正教会が異なる教義を信奉している訳では無く、同じ信仰を有している。.

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ゼニツァ

ニツァ(Zenica, Zenica, Зеница, Senitza, زينيتسا, زنیتسا, זניצה‎)はボスニア・ヘルツェゴビナを構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦のゼニツァ=ドボイ県の都市および基礎自治体である。ゼニツァ=ドボイ県の県都でサラエヴォの北70kmに位置しボスナ川河畔の都市で周囲は山や丘陵地に囲まれている。.

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ゼニツァ=ドボイ県

ニツァ=ドボイ県(ゼニツァ=ドボイけん、ボスニア語:Zeničko-dobojski kanton、クロアチア語:Zeničko-dobojska županija、セルビア語:Зеничко-добојски кантон)、あるいはゼニツァ=ドボイ・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のエンティティであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する県。県都はゼニツァ。.

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ソビエト連邦

ビエト社会主義共和国連邦(ソビエトしゃかいしゅぎきょうわこくれんぽう、Союз Советских Социалистических Республик)は、1922年から1991年までの間に存在したユーラシア大陸における共和制国家である。複数のソビエト共和国により構成された連邦国家であり、マルクス・レーニン主義を掲げたソビエト連邦共産党による一党制の社会主義国家でもある。首都はモスクワ。 多数ある地方のソビエト共和国の政治および経済の統合は、高度に中央集権化されていた。.

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ソコルル・メフメト・パシャ橋

ルル・メフメト・パシャ橋(トルコ語:Sokullu Mehmet Paşa Köprüsü)、メフメド・パシャ・ソコロヴィッチ橋(セルビア語・ボスニア語・クロアチア語:Мост Мехмед паше Соколовића / Most Mehmed-paše Sokolovića)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部、スルプスカ共和国の町ヴィシェグラードにある橋で、市内を流れるドリナ川に架かっている。オスマン帝国の宮廷建築家だったミマール・スィナンが16世紀末に手がけた橋で、当時のオスマン帝国の建築水準の高さを例証する産業遺産として、2007年にユネスコの世界遺産に登録された。ボスニア・ヘルツェゴビナの世界遺産としては2例目の登録で、最初の登録物件であるスタリ・モストと同じく、橋の世界遺産である。 橋の名前は、この橋の建築を命じた大宰相ソコルル・メフメト・パシャ (Sokollu Mehmet Paşa) に由来する。 全長は 179.5 m で、11の石組みのアーチから成っている。これらのアーチは、20世紀の二度の世界大戦で壊滅的な被害を受けたが、その後再建されて今に至る。ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中のヴィシェグラードの虐殺(Višegrad massacre、1992年)では惨劇の現場にもなった。.

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タバコ

タバコ(たばこ、煙草、)は、ナス科タバコ属の熱帯地方原産の植物佐竹元吉 監修『日本の有毒植物』 学研教育出版 2012年、ISBN 9784054052697 p.192.

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サラエヴォ

ラエヴォ (ボスニア語:Sarajevo 、クロアチア語:Sarajevo、セルビア語:Сарајево)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都であり、同国で最大の人口をもつ都市である。ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体のひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもある。 日本語表記においては、一般に「サラエボ」や「サライェヴォ」 などの表記も多く見られる(以下、本項では「サラエヴォ」とする。呼称と表記も参照)。 2011年8月の推計では、ボスニア・ヘルツェゴビナのサラエヴォ県に属する4つの自治体の人口は併せて311,161人である。サラエヴォはまた、サラエヴォ県の県都でもある。サラエヴォはボスニア地方のサラエヴォ渓谷のなかにあり、ディナール・アルプスに取り囲まれ、ミリャツカ川周辺に広がっている。サラエヴォの町は宗教的な多様性で知られており、イスラム教、正教会、カトリック教会、ユダヤ教が何世紀にもわたって共存してきた。旅行ガイドブックのロンリープラネットでは、「世界の都市」ランキングにおいてサラエヴォを43位にランクしている。これは、同じ旧ユーゴスラビア諸国の観光都市であるドゥブロヴニクの59位、リュブリャナの84位、ブレッドの90位、ベオグラードの113位、ザグレブの135位を上回る。 サラエヴォに隣接して、ボスニア・ヘルツェゴビナの構成体のひとつであるスルプスカ共和国の首都であるイストチノ・サラエヴォ(東サラエヴォ)がある。現在のイストチノ・サラエヴォの市域には、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争前のサラエヴォの市域の一部が含まれている。 この地域に人が居住を始めたのは先史時代にまでさかのぼるものの、現代のサラエヴォにつながる町ができたのは15世紀のオスマン帝国の統治下でのことであった。オーストリア=ハンガリー帝国に併合されたのちもボスニアの州都と位置付けられたサラエヴォは、近代以降の何度かにわたって国際的な注目を受けることになった。1914年にはこの地はオーストリア帝位継承者の暗殺事件の現場となり、この事件によって第一次世界大戦が引き起こされた。1984年にはサラエヴォは1984年冬季オリンピックの会場となり、さらに後のユーゴスラビア崩壊のときには、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争において数年間にわたるセルビア人勢力による包囲を受けた。現在のサラエヴォは紛争後の復興開発が進み、21世紀初頭において紛争前の水準を回復しつつある。サラエヴォは、ボスニア・ヘルツェゴビナの経済・文化活動の拠点となっている。サラエヴォはヨーロッパで初めて、そして全世界で2番目に早く終日(朝から夜まで)運行の路面電車が運行された町である終日運行の路面電車の世界初はアメリカ合衆国のサンフランシスコであった。 Lonely Planet: Best Cities in the World。.

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サラエヴォ県

ラエヴォのバザール 丘陵地帯に広がるサラエヴォの町 サラエヴォ、フェルハディヤ通り サラエヴォ県(サラエヴォけん、ボスニア語:Kanton Sarajevo、クロアチア語:Sarajevska županija、セルビア語:Сарајевски кантон)、あるいはサラエヴォ・カントンはボスニア・ヘルツェゴビナの構成主体であるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県。県都はサラエヴォ。 サラエヴォ県は基本的にはサラエヴォの市街地によって構成されており、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に属している。しかし、サラエヴォの一部はボスニア・ヘルツェゴビナのもうひとつの構成体であるスルプスカ共和国に属している。サラエヴォ県はサラエヴォの人口の98%を包含しているが、面積ではその割合はより少なくなる。.

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サラエボ事件

ラエボ事件(サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のの青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。この事件がきっかけとなって第一次世界大戦が開戦した。.

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サンジャク (地名)

ンジャク(セルビア語:Санџак/Sandžak、ボスニア語:Sandžak、アルバニア語:Sanxhak/Sanxhaku、トルコ語:Sancak)、またはラシュカ(セルビア語:Рашка/Raška)はセルビアとモンテネグロの国境にまたがって広がる地域の名称。イスラム教徒、ボシュニャク人が多い地域として知られる。その名称は1912年のバルカン戦争までこの地を支配したオスマン帝国の地域区分であるイェニ・パザル・サンジャク(Yeni Pazar sancağı、イェニ・パザル・サンジャイ、意味はノヴィ・パザル県、en)に由来する。 なお、イスラム教徒の南西スラヴ人を主体とするボシュニャク人という民族自認は主にボスニア・ヘルツェゴビナ成立後に始まったものであるが、本項ではボスニア・ヘルツェゴビナ成立以前の歴史的な記述においては、イスラム教徒の南西スラヴ人を表す「ボシュニャク人」の呼称は断りなく使用する。.

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サン=ジェルマン条約

ン=ジェルマン条約またはサン=ジェルマン=アン=レー条約(サン=ジェルマンじょうやく、サン=ジェルマン=アン=レーじょうやくTraité deSaint-Germain-en-Laye、Traité de Saint-Germain、Treaty of Saint-Germain-en-Laye、Treaty of Saint-Germain、Trattato di Saint-Germain-en-Laye、Trattato di Saint-Germaine、Vertrag von Saint-Germain)は、第一次世界大戦の後の1919年9月10日に連合国側とオーストリア(第一共和国)の間で結ばれた条約の通称。フランス語、英語、イタリア語で作成され、フランス語版を基本の正文とする。正文であるフランス語の正式名称は « Traité de paix entre les Puissances alliées et associées et l’Autriche »、英文での正式名称は “Treaty of Peace between the Allied and Associated Powers and Austria”、イタリア語での正式名称は «Trattato di pace tra le potenze alleate e associate e l’Austria»。ドイツ語の官報公示名称は „Staatsvertrag von Saint-Germain-en-Laye“。日本語での名称は「同盟及聯合国ト墺地利国トノ平和条約」。 この通称は締結が行われたサン=ジェルマン=アン=レーのサン=ジェルマン=アン=レー城にちなむ名称であるので、正確にはサン=ジェルマン=アン=レー条約と呼ぶべきかもしれないが、一般にはやや省略して(日本語はもとより英語、フランス語などでも)サン=ジェルマン条約と呼ばれる。この地で締結された条約は他にもいくつか存在している(サン=ジェルマン=アン=レー条約 (曖昧さ回避) 参照)。.

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サヴァ川

流路 サヴァ川(サヴァかわ, セルビア語:Сава,クロアチア語:Sava,ドイツ語:Save, ハンガリー語:Száva)は、東ヨーロッパを流れる川である。ローマ時代にはSavusと呼ばれていた。.

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季節による積雪の変化 冬(ふゆ)は、四季の一つであり、一年の中で最も寒い期間・季節を指す。二十四節気や旧暦のように、一年中で最も太陽の高度が低く夜が長い期間を指すこともある。 北半球では冬至後の1月-2月頃に気温が低いことが多く、南半球では夏至後の7月‐8月頃にあたる。 日本の気象庁では一日の日最低気温が0℃以下の日を冬日(ふゆび)、また、日最高気温が0℃以下の日を真冬日(まふゆび)と呼んでいる。このような日は1月を中心に前後の毎年12月から翌年3月頃にかけて発生するから(ただし、年や地域によっては、11月・4月でも生じる場合もある)、この時期のあたりが冬の範囲に入る。 冬が特別・特有とされる物(特に収穫物)に付いては旬#冬を参照。.

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共和国

共和国(きょうわこく、republic、res publica)とは、君主が存在しない国家(共和制の国家)である。対比語は君主国。.

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兌換マルク

兌換マルク(だかんマルク、Konvertibilna Marka)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの通貨。コンヴェルティビルナ・マルカとも呼ばれ、KM(ラテン文字)またはКМ(キリル文字)と省略される(ボスニア・ヘルツェゴビナの公用語にはラテン文字を使う言語とキリル文字を使う言語とがある)。ISO 4217の通貨コードはBAMである。補助通貨単位はペニーガ (Pfeniga)もしくはフェニング (Fening) で、1兌換マルクは100ペニーガである。 名前は、2002年までドイツマルクと1:1で交換可能であったことからついた。したがって、ユーロや他のユーロ導入予定国通貨とのレートも固定だった。現在もユーロとは固定でレートの変更もなく、かつてのドイツマルクとユーロのレートと同じ「1兌換マル.

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元首

元首(げんしゅ)または国家元首(こっかげんしゅ、dux civitatis、chef d’État、head of state)とは、.

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元日

元日(がんじつ)は年の最初の日。日付はグレゴリオ暦では1月1日(改暦前は旧暦正月一日)。元旦(がんたん)ともいうが、この場合は特にその日の朝を指すこともある日本国語大辞典第二版編集委員会・小学館国語辞典編集部編『日本国語大辞典』第二版、小学館。.

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国の海岸線の長さ順リスト

国の海岸線の長さ順リスト(くにのかいがんせいんのながさじゅんリスト)は、世界の国を海岸線の長さの順に並べたものである。データは「CIA World Factbook」(2005年)に基づく。長さが0kmの国は、すなわち内陸国である。しかし、海岸線の長さはフラクタルであるので、測り方によってその長さに違いが出てくる(海岸線をより詳細に測れば測るほど、長さはより長くなる)。 * Category:国の一覧 かいかんせん.

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国家

国家(こっか)とは、国境線で区切られた国の領土に成立する政治組織で、その地域に居住する人々に対して統治機構を備えるものである。領域と人民に対して、排他的な統治権を有する(生殺与奪の権利を独占する)政治団体もしくは政治的共同体である。 政治機能により異なる利害を調整し、社会の秩序と安定を維持していくことを目的にし社会の組織化をする。またその地域の住民は国家組織から国民あるいは公民と定義される。.

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国内総生産

国内総生産(こくないそうせいさん、英:Gross Domestic Product、GDP)は、一定期間内に国内で産み出された付加価値の総額のことである。.

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国勢調査

国勢調査(こくせいちょうさ)は、ある時点における人口及び、その性別や年齢、配偶の関係、就業の状態や世帯の構成といった「人口及び世帯」に関する各種属性のデータを調べる「全数調査」。国勢調査の統計は、人口統計の中で静態統計に分類される。 世界の諸国における国勢調査の実施状況については、国際連合統計部が調査しており、「2010年世界人口・住宅センサス計画」に詳細が掲載されている。日本語による解説としては、(平成21年10月号〜平成22年6月号)に連載の「世界の国勢調査」がある。 なお、国勢調査は外来語としてセンサスとも言われる。「センサス」()とは、より一般的な意味では、母集団(調査対象全体の集団)の全数を調査するもの、すなわち「全数調査」を意味する語として用いられ、母集団のうちの一部を抽出して調査する「標本調査」と対比される概念である。人口及び世帯に関する全数調査としての国勢調査のことを厳密に英語で表現する場合には、""又は""と呼ばれる。 なお、しばしば「こくぜいちょうさ」と読まれることがあるが、これは誤りである。.

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国際通貨基金

国際通貨基金(こくさいつうかききん、)は、国際金融、並びに、為替相場の安定化を目的として設立された国際連合の専門機関である。国際通貨基金(IMF)の本部は、アメリカ合衆国の首都ワシントンD.C.に位置する。2018年現在、国際通貨基金(IMF)の加盟国は、189か国である。 加盟国の経常収支が著しく悪化した場合などに融資などを実施することで、国際貿易の促進、加盟国の高水準の雇用と国民所得の増大、為替の安定、などに寄与する事を目的としている。 また、為替相場の安定のために、経常収支が悪化した国への融資や、為替相場と各国の為替政策の監視などを行っている。各国の中央銀行の取りまとめ役のような役割を負う。世界銀行と共に、国際金融秩序の根幹を成す。.

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国際連合

国際連合(こくさいれんごう、United Nations、联合国、聯合國、Organisation des Nations unies、略称は国連(こくれん)、UN、ONU)は、国際連合憲章の下、1945年に設立された国際機関である。 第二次世界大戦を防げなかった国際連盟の反省を踏まえ、1945年10月24日、51ヵ国の加盟国で設立された。主たる活動目的は、国際平和と安全の維持(安全保障)、経済・社会・文化などに関する国際協力の実現である。 英語表記の「United Nations」は、第二次世界大戦中の枢軸国に対していた連合国が自陣営を指す言葉として使用していたものが継続使用されたものであるが、日本語においては誤訳され「国際連合」と呼ばれる。 2017年5月現在の加盟国は193か国であり、現在国際社会に存在する国際組織の中では、敵国条項が存在するなど第二次世界大戦の戦勝国の色が強いものの、最も広範・一般的な権限と、普遍性を有する組織である。.

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国際文民事務所

国際文民事務所(International Civilian Office)は、アハティサーリ案に基づいて、コソボ政府による施政を監督する国際機関。.

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石灰岩

石灰岩(せっかいがん、)は、炭酸カルシウム(CaCO3、方解石または霰石)を50%以上含む堆積岩。炭酸カルシウムの比率が高い場合は白色を呈するが、不純物により着色し、灰色や茶色、黒色の石灰岩もある。.

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石炭

石炭(せきたん、英:coal)とは、古代(数億年前)の植物が完全に腐敗分解する前に地中に埋もれ、そこで長い期間地熱や地圧を受けて変質(石炭化)したことにより生成した物質の総称。見方を変えれば植物化石でもある。 石炭は古くから、産業革命以後20世紀初頭まで最重要の燃料として、また化学工業や都市ガスの原料として使われてきた。第一次世界大戦前後から、艦船の燃料が石炭の2倍のエネルギーを持つ石油に切り替わり始めた。戦間期から中東での油田開発が進み、第二次世界大戦後に大量の石油が採掘されて1バレル1ドルの時代を迎えると産業分野でも石油の導入が進み(エネルギー革命)、西側先進国で採掘条件の悪い坑内掘り炭鉱は廃れた。 しかし1970年代に二度の石油危機で石油がバレルあたり12ドルになると、産業燃料や発電燃料は再び石炭に戻ったが、日本国内で炭鉱が復活することは無かった。豪州の露天掘りなど、採掘条件の良い海外鉱山で機械化採炭された、安価な海外炭に切り替わっていたからである。海上荷動きも原油に次いで石炭と鉄鉱石が多く、30万トンの大型石炭船も就役している。 他の化石燃料である石油や天然ガスに比べて、燃焼した際の二酸化炭素 (CO2) 排出量が多く、地球温暖化の主な原因の一つとなっている。また、硫黄酸化物の排出も多い。.

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穀物

小麦畑。フランスで撮影。 イネの穂。 ハンガリーで撮影されたトウモロコシ。 カトマンズで売られている様々な豆類。 穀物(こくもつ)は、植物から得られる食材の総称の1つで、澱粉質を主体とする種子を食用とするもの。農学・経済学・人類学にの分野では、糧食(りょうしょく)と呼ばれる場合ある。 イネ科作物の種子を禾穀類(かこくるい、Cereals、シリアル)日本作物学会編『作物学用語事典』農山漁村文化協会 p.241 2010年といい、マメ科作物の種子を菽穀類(しゅこくるい、Pulses)という。そして、穀物は狭義にはイネ科作物の種子(禾穀類)のみを指し、広義にはこれにマメ科作物の種子(菽穀類)や他科の作物の種子を含む『丸善食品総合辞典』丸善 p.393 1998年。広義の穀物のうち、禾穀類の種子(単子葉植物であるイネ科作物の種子)と似ていることから穀物として利用される双子葉植物の種子をまとめて擬禾穀類あるいは擬似穀類(疑似穀類、Pseudocereals)と呼ぶ『丸善食品総合辞典』丸善 p.393 1998年日本作物学会編『作物学用語事典』農山漁村文化協会 p.242 2010年『丸善食品総合辞典』丸善 p.268 1998年。擬似穀類には、ソバ(タデ科)、アマランサス(ヒユ科)、キヌア(キノア、アカザ科)などが含まれる『食料の百科事典』丸善 p.18 2001年。.

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第十県

十県(だいじっけん)、あるいはカントン10(ボスニア語:Kanton 10)はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国の構成主体であるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の県。県都はリヴノ。.

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第一次世界大戦

一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、World War I、略称WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて戦われた世界大戦である。.

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第二次世界大戦

二次世界大戦(だいにじせかいたいせん、Zweiter Weltkrieg、World War II)は、1939年から1945年までの6年間、ドイツ、日本、イタリアの日独伊三国同盟を中心とする枢軸国陣営と、イギリス、ソビエト連邦、アメリカ 、などの連合国陣営との間で戦われた全世界的規模の巨大戦争。1939年9月のドイツ軍によるポーランド侵攻と続くソ連軍による侵攻、そして英仏からドイツへの宣戦布告はいずれもヨーロッパを戦場とした。その後1941年12月の日本とイギリス、アメリカ、オランダとの開戦によって、戦火は文字通り全世界に拡大し、人類史上最大の大戦争となった。.

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紀元前1世紀

ーマ帝国の成立。紀元前27年にオクタウィアヌスが「アウグストゥス」の称号を得てローマの帝政時代が始まった。画像はヴァティカン美術館所蔵の「プリマポルタのアウグストゥス」。 エジプト女王クレオパトラ7世。絶世の美女として知られるが、衰勢のプトレマイオス朝存続のためにローマの有力者と結ばざるを得ない事情があった。画像は19世紀フランスの画家ジャン・レオン・ジェロームの歴史画で、女王とユリウス・カエサルの出会いの状況を描いている。 カッシウスやブルートゥスに暗殺された。画像は暗殺直後を描いたジャン・レオン・ジェロームの歴史画。 アグリッパによって建設された。 ケルト人の消長。カエサルの遠征でアルプス以北のガリアは共和政ローマに帰服した。これらの地に住んでいたケルト人(ガリア人)たちはラ・テーヌ文化の担い手とも考えられている。画像はラ・テーヌ文化を代表するグンデストルップの大釜。 アンティオコス1世により独特な墳墓が営まれた。 王昭君。前漢と匈奴の和平のために呼韓邪単于へと嫁ぐことになった悲劇の女性として語り継がれた。画像は明治時代の菱田春草の「王昭君図」。 銅鐸の祭祀。荒神谷遺跡と並ぶ古代出雲を代表する加茂岩倉遺跡からは39個の銅鐸が出土した。これら銅鐸の製作年代は弥生時代中期から後期にわたる。画像は島根県立古代出雲歴史博物館での展示の様子。 紀元前1世紀(きげんぜんいっせいき、きげんぜんいちせいき)は、西暦による紀元前100年から紀元前1年までの100年間を指す世紀。紀元前を区分する最後の世紀でもある。紀元1世紀の直前の世紀である。「紀元0世紀」というものは存在しない。 なお、天文学やISO 8601では、紀元前1年を西暦0年と定めている(詳細は「紀元前1年#西暦0年」または「0年#西暦0年」を参照のこと)。.

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生神女誕生大聖堂 (サラエヴォ)

ラエヴォの生神女誕生大聖堂(しょうしんじょたんじょうだいせいどう、セルビア語:Саборна Црква Рођења Пресвете Богородице / Saborna Crkva Rođenja Presvete Bogorodice)は、サラエヴォで最大のセルビア正教会の大聖堂であり、バルカン半島全体でも最大級の聖堂のひとつである。 大聖堂は、生神女(聖母マリア)の誕生を記念したものである。大聖堂は、1863年から1868年にかけて、サラエヴォを管掌する正教会の教区の求めによって建造された。建造にあたった職人の首班は、ブルガリア人のアンドレイ・ダミャノフ(Андрей Дамянов / Andrey Damyanov)であった。ダミャノフは、ヴァルダル・マケドニア地方のヴェレス近郊の村パプラディシュテ(Папрадиште / Papradishte)を拠点とする建築職人、石工、絵描き、イコン画家、大工、石細工職人などの一族であるダミャノフ=レンゾフ一族(Дамянобски-Рензовски / Damjanovi-Renzovski)の出身であった。 大聖堂は3部のバシリカが、平面状に十字形を構成する形に並んでおり、屋根には十字架を備えた5つのドームを持っている。ドームは梁の上に築かれ、中央のドームは、四方のドームよりも大きい。金メッキされた小さなバロック風の鐘楼が入り口の前に立てられている。内側の壁には装飾が描かれている。壁の下のほうに描かれた壁画は、大理石による建築を模している。1898年、正教会の府主教の公邸が付近に建造された。.

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独立

立(どくりつ)とは、他者・他国家などによって支配され、従属的立場にあったものがその支配から離れ、1つの主体として成立することである。とりわけ従属的立場にあった民族が別個の国家を樹立する際に用いられる。.

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銅(どう)は原子番号29の元素。元素記号は Cu。 周期表では金、銀と同じく11族に属する遷移金属である。英語でcopper、ラテン語でcuprumと言う。.

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聖母の出現

聖母の出現(せいぼのしゅつげん、Marian apparition、聖母の顕現)とは、聖母マリアが人々の前に現れたとされる出来事を言う。なお、聖母マリアがこのように特定人物や、一般大衆の前に姿を持って出現することを顕現(けんげん)とも言う。.

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褐炭

ブリケット加工された褐炭。 ハンバッハでの褐炭露天掘り風景。ケルンの西方に多数存在するこれらの露天掘鉱山は、採掘終了後は巨大な人造湖になる予定。一方で、景観破壊、住民集団移転も問題になっている。 褐炭(かったん、Lignite、brown coal)とは、石炭の中でも石炭化度が低く、水分や不純物の多い、最も低品位なものを指す。ただし、褐炭のごく一部に黒玉として珍重されるものも存在する。.

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西ヘルツェゴビナ県

西ヘルツェゴビナ県(にしヘルツェゴビナけん、ボスニア語:Zapadno-hercegovački kanton、クロアチア語:Zapadno-hercegovačka županija、セルビア語:Западно-херцеговачки кантон)はボスニア・ヘルツェゴビナ共和国のエンティティであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦を構成する県。県都はシロキ・ブリイェグ。.

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首都

ブラジルの首都、ブラジリア ボリビアの憲法上の首都、スクレ オーストラリアの首都、キャンベラ 南アフリカ共和国の首都の一つ、プレトリア フィリピンの首都圏、マニラ首都圏 ベトナムの首都、ハノイ 首都(しゅと、Capital city)とは、一国の中心となる都市のことを指す。ほとんどの場合にはその国の中央政府が所在し、国家元首等の国の最高指導者が拠点とする都市のことである。ただ、場合によっては、中央政府の所在とは別に、その国のシンボル的存在として認められている都市が首都とされることもある。首府・国都・都などとも呼ばれ、また、帝制国家や王制国家の場合は帝都・王都等の称がある。.

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高さ

さ(たかさ)とは、垂直方向の長さのことである。重力が働く環境下では、重力方向の長さを指す。また、空間的な物理量としての高さ以外に、温度・比率・頻度・価格なども「高さ」で表現するのが一般的である。 高さが大きいことを高い、高さが小さいことを低いと言う。.

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生産量の多い色とりどりのインゲンマメ 豆(まめ、Bean, Pulse)とは、マメ科植物の種子のことで、特に食用・加工用に利用される大豆、インゲンマメ、ヒヨコマメ、アズキ、ラッカセイなどの総称であるkotobank - デジタル大辞泉 。豆は菽穀類(しゅこくるい、Pulse crops)と言われ広義の穀物に含まれる。また小さいものや形の似たものを豆と表現する(後述)。.

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鳥取県

鳥取県(とっとりけん)は、日本の県の一つである。中国地方の日本海側、いわゆる山陰地方の東側を占め、東は兵庫県、西は島根県、南は中国山地を挟んで岡山県・広島県に隣接し、西日本または中国地方有数の豪雪地帯でもある。また鳥取県は全国47都道府県中面積は7番目に小さく、人口は最も少ない。市の数も最も少なく、4市である。県庁所在地は県東部の鳥取市である。.

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農業

農業(のうぎょう)とは、土地の力を利用して有用な植物を栽培し、また、有用な動物を飼養する、有機的な生産業のこと広辞苑 第六版「農業」。.

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露土戦争 (1877年-1878年)

露土戦争(ろとせんそう、1877年 - 1878年)は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争のひとつ(他の露土戦争については、露土戦争を参照オスマン帝国とロシアの間の戦争はしばしば起こっているが、狭義の露土戦争はこの戦争のことをいう。『世界史を読む事典』(1994)p.117)。 バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がトルコ人の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった『世界史を読む事典』(1994)p.117。ロシア帝国の勝利で終わった。 ルーマニアでは「ルーマニア独立戦争」、トルコではイスラームの暦年(ヒジュラ暦1293年)にちなんで「93年戦争 (Doksanüç Harbi)」、また「オスマン・ロシア戦争」とも呼ばれた。ギリシャ独立戦争に続いて、東ヨーロッパ諸国の独立回復のための重要な戦役となった。.

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自主管理社会主義

自主管理社会主義(じしゅかんりしゃかいしゅぎ、radničko samoupravljanje,, )は、第二次世界大戦後、社会主義化されたユーゴスラビア社会主義連邦共和国で導入された経済政策。.

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鉱物

いろいろな鉱物 鉱物(こうぶつ、mineral、ミネラル)とは、一般的には、地質学的作用により形成される、天然に産する一定の化学組成を有した無機質結晶質物質のことを指す。一部例外があるが(炭化水素であるカルパチア石など)、鉱物として記載されるためには、人工結晶や活動中の生物に含まれるものは厳密に排除される。また鉱物は、固体でなければならない()。.

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鉱業

鉱業(こうぎょう、英語:mining)とは、鉱物などの地下資源(場合によっては地表にあるものを含む)を鉱脈や鉱石から資源として取り出す産業である。卑金属、貴金属、鉄、ウラン、石炭、オイルシェール、岩塩、炭酸カリウムなどが採取される。農業で生産できない材料や、研究室や工場で化学合成で作れない材料を一般に採掘する。広い意味では任意の再生不可能な資源の採取を含み、石油や天然ガス、さらには化石水の採掘も含む。 日本は鉱業法では「鉱業」は「鉱物の試掘、採掘及びこれに附属する選鉱、製錬その他の事業」と定義されており(鉱業法4条)、鉱業法の適用鉱物について同法3条で定めている。 音が同じ「工業」などと区別するために「山の鉱業」「金偏の鉱業」などと称することもある。 石や金属の採掘は先史時代から行われていた。現代の鉱業では、鉱体を試掘し、計画中の鉱山の潜在的利益を分析し、必要な素材を抽出し、閉山となった鉱山の土地を最終的に何かに再利用するところまでを含む。鉱山は操業中だけでなく、閉山になってから何年か経っても、周囲の環境の悪影響を及ぼすことがある。このため多くの国々では、鉱山の悪影響を軽減するよう規制を設けている。安全性も重要な課題であり、近年では鉱山における安全は大幅に改善されつつある。.

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鉄(てつ、旧字体/繁体字表記:鐵、iron、ferrum)は、原子番号26の元素である。元素記号は Fe。金属元素の1つで、遷移元素である。太陽や他の天体にも豊富に存在し、地球の地殻の約5%を占め、大部分は外核・内核にある。.

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鉛(なまり、lead、plumbum、Blei)とは、典型元素の中の金属元素に分類される、原子番号が82番の元素である。なお、元素記号は Pb である。.

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英語

アメリカ英語とイギリス英語は特徴がある 英語(えいご、)は、イ・ヨーロッパ語族のゲルマン語派に属し、イギリス・イングランド地方を発祥とする言語である。.

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(あめ)とは、大気から水の滴が落下する現象で、降水現象および天気の一種。また、落下する水滴そのもの(雨粒)のことグランド現代大百科事典、大田正次『雨』p412-413。大気に含まれる水蒸気が源であり、冷却されて凝結した微小な水滴が雲を形成、雲の中で水滴が成長し、やがて重力により落下してくるものである。ただし、成長の過程で一旦凍結し氷晶を経て再び融解するものもある。地球上の水循環を構成する最大の淡水供給源で、生態系に多岐にわたり関与するほか、農業や水力発電などを通して人類の生活にも関与している。.

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通貨

通貨(つうか、currency)とは、流通貨幣の略称で、国家もしくは、その地の統治主体によって価値が保証された、決済のための価値交換媒体。 政府は租税の算定にあたって通貨を利用する。 モノやサービスとの交換に用いられる「お金(おかね)」を、経済用語では貨幣、または通貨と呼ぶ。通貨は、現金通貨と預金通貨に大別され、前者は紙幣・硬貨(補助紙幣)であり、後者は普通預金・当座預金などの決済口座である。.

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連邦

連邦(れんぽう、)とは、2つ以上の国(州)が1つの主権の下に結合して形成する国家形態である。.

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林業

林業(りんぎょう、英語: forestry)とは、森林に入り、主として樹木を伐採することにより木材を生産する産業。第一次産業の一つ。 世界農林業センサスの定義によると、林業事業体のうち、1ha以上を所有する世帯を林家(りんか)と呼ぶ。日本の場合、林家以外の林業事業体として、会社、社寺、共同、各種団体・組合、財産区、慣行共有、市区町村、地方公共団体の組合、都道府県、国及び特殊法人がある。林業事業体が必ずしも施業を行っているとは限らない(森林組合に作業を委託するなど)。 森林による生産物は木材のほか、薪、木炭、漆、竹、椎茸などの特用林産物なども含む。また、その産業活動に付随して、森林資源を育成したり、森林の持つ公益的機能を保持する役割も担っている。.

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東側諸国

東側諸国 東側諸国(ひがしがわしょこく、東側、社会主義陣営、共産主義陣営とも、Eastern Bloc、イースタンブロック)とは、冷戦の間、ソビエト連邦および中央ヨーロッパ・東ヨーロッパの衛星国(ブルガリア、ルーマニア、ハンガリー、チェコスロヴァキア、東ドイツ、ポーランド、1960年代前半まではアルバニアも含む)を指して使われた言葉である。対する陣営は西側諸国。.

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東京新聞

東京新聞(とうきょうしんぶん)は、中日新聞東京本社が発行する日刊一般新聞(一般紙)。関東地方もしくは東京都のブロック紙だが、同じ中日新聞社が発行する中日新聞・北陸中日新聞・日刊県民福井の関東版と見なすこともでき、全国紙のような面もあわせ持つ。過去の紙面は東京都中央図書館で、マイクロフィルムで閲覧することができる。.

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東ヨーロッパ

中東 東ヨーロッパ(ひがしヨーロッパ)は、東欧ともいい、ヨーロッパ東部の地域を指す。時代によって「東欧」の概念は大きく変わる。広義には、かつてのヨーロッパのソ連型社会主義圏を指して「東欧」と呼んでいたが、狭義にはロシア(のウラル山脈以西)・ウクライナ・ベラルーシの三国を指す。以下は「東欧」という概念の大まかな変遷を説明する。.

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欧州連合

欧州連合(おうしゅうれんごう、、略称:)は、マーストリヒト条約により設立されたヨーロッパの地域統合体。 欧州連合では欧州連合条約の発効前に調印されていた単一欧州議定書によって市場統合が実現し、またシェンゲン協定により域内での国境通過にかかる手続きなどの負担を大幅に削減した。さらに欧州連合条約発効後によって外交・安全保障分野と司法・内務分野での枠組みが新たに設けられ、ユーロの導入による通貨統合が進められている。このほかにも欧州議会の直接選挙が実施されたり、欧州連合基本権憲章が採択されたりするなど、欧州連合の市民の概念が具現化されつつある。加盟国数も欧州経済共同体設立を定めたローマ条約発効時の6か国から、2013年7月のクロアチア加盟により28か国にまで増えている。.

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正教会

Σημειώσεις από τις παραδόσεις τού καθηγητού Ι. Δ. Ζηζιούλαより)。 正教会(せいきょうかい、Ορθόδοξη Εκκλησία、Православие、Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。 日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来する。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている『正教会の手引き』8頁 - 11頁。 なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある。 例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである。 なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。.

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毎日新聞

毎日新聞大阪本社(大阪市北区) 毎日新聞北海道支社(札幌市中央区) 毎日新聞(まいにちしんぶん、)は、日本の新聞のひとつ。2017年9月期の販売部数(日本ABC協会調べ)は朝刊が約294万部、夕刊が73万部である 。毎日新聞社(毎日新聞グループホールディングス傘下)が発行している。 戦前から朝日新聞と共に2強に数えられていたが、拡販競争と西山事件による経営危機で後れを取り、1960年代後半から1970年代前半に掛けての読売新聞の発行部数増加などで販売不振が続いた。2008年には毎日デイリーニューズWaiWai問題が発覚し、再度経営問題が発生した。 現在のスローガンは、「報道に近道はない」。新聞販売店の愛称は「毎日ニュースポート」であるが、近年は呼称される機会が少ない。.

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水銀

水銀(すいぎん、mercury、hydrargyrum)は原子番号80の元素。元素記号は Hg。汞(みずがね)とも書く。第12族元素に属す。常温、常圧で凝固しない唯一の金属元素で、銀のような白い光沢を放つことからこの名がついている。 硫化物である辰砂 (HgS) 及び単体である自然水銀 (Hg) として主に産出する。.

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民族浄化

民族浄化(みんぞくじょうか、クロアチア語・ボスニア語・セルビア語: етничко чишћење / etničko čišćenje、ethnic cleansing)は、ユーゴスラビア(5つの民族、4つの言語、3つの宗教を持つ)のような多民族国家 において、ユーゴ内のある民族集団を強制的にその地域から殺害などにより除去しようとしたとする言葉。欧米諸国が1990年代前半にユーゴスラビア紛争が勃発した際に、武力介入することを正当化させ、世界世論を支持に誘導するために敵対したセルビア民族のみを悪だとする目的として造語されて対外発信に利用されたプロパガンダ用語である。.

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汎スラヴ主義

汎スラヴ主義(はんスラヴしゅぎ、ロシア語:Панславизм パンスラヴィーズム、ポーランド語:Panslawizm パンスラーヴィズム、チェコ語:Panslavismus パンスラヴィスムス)は、スラヴ民族の連帯と統一を目指す思想運動である。ポーランド・リトアニア共和国の基本理念である多民族共存(多文化主義)の「コモンウェルス」の概念と対立すること、また他のスラヴ諸国と異なり東方正教会よりもカトリックが優勢であることなどから、いかなる形の汎スラブ主義ともポーランドは距離を置いた(5月3日憲法参照)。.

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港湾

港湾(こうわん、)とは、古くは泊(とまり)などから発展した港・湊(みなと)であり、島嶼・岬などの天然の地勢や防波堤などの人工構造物によって風浪を防いで、船舶が安全に停泊し人の乗降や荷役が行なえる海域と陸地を指す池田良穂監修 『船のすべてがわかる本』 ナツメ社 2009年2月9日発行 ISBN 9784816346408。水陸交通の結節点となる機能を持つ港湾には、物流・旅客輸送が円滑に行われるために各種の港湾施設が整備され、ポートオーソリティ(港務局・港湾局)・地方自治体などの組織によって管理・運営されている。.

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戦争

朝鮮戦争(1950年 - 1953年) 核兵器を使用した戦争・広島市(1945年) 戦争(せんそう)とは、複数の集団の間での物理的暴力の行使を伴う紛争である。国際紛争の武力による解決である。対義語は対話。広義には内戦や反乱も含む(戦争一覧)。人類が、集団を形成するようになる有史以来、繰り返されてきたものである。銀行などが引受けた巨額の戦費は慢性的な租税負担となる。市民生活に対する制限と攻撃は個人の尊厳を蹂躙する。時代ごとの考え方によって違法性が認定されてきた。.

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日本

日本国(にっぽんこく、にほんこく、ひのもとのくに)、または日本(にっぽん、にほん、ひのもと)は、東アジアに位置する日本列島(北海道・本州・四国・九州の主要四島およびそれに付随する島々)及び、南西諸島・伊豆諸島・小笠原諸島などから成る島国広辞苑第5版。.

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日本語

日本語(にほんご、にっぽんご「にっぽんご」を見出し語に立てている国語辞典は日本国語大辞典など少数にとどまる。)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。 日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする多くの場合、外国籍であっても日本で生まれ育てば日本語が一番話しやすい。しかし日本語以外を母語として育つ場合もあり、また琉球語を日本語と別の言語とする立場を採る考え方などもあるため、一概に「全て」と言い切れるわけではない。。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。 2017年4月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語に次いで7番目に多い。.

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日本放送協会

日本放送協会(にっぽんほうそうきょうかい、英称:Japan Broadcasting Corporation)は、日本の公共放送を担う事業者。よく誤解されるが国営放送ではない。日本の放送法(昭和25年法律第132号)に基づいて設立された放送事業を行う特殊法人。総務省(旧・郵政省)が所管する外郭団体である。 公式略称は、「NIPPON HOSO KYOKAI」の頭文字を取り「」と呼称・記される。 公共放送としての事業規模は、英国放送協会 (BBC) などと並び、国内にNHKエンタープライズ、NHKグローバルメディアサービス、NHK出版など13の連結子会社を持つ。また、関連会社として日本国外にNHKコスモメディアアメリカ、NHKコスモメディアヨーロッパが設立されている。1986年には子会社である株式会社NHKエンタープライズを出資母体として、NHKエンタープライズ25%、株式会社電通25%の共同出資による株式会社総合ビジョンを設立した。しかし、これは事業の縮小を経て2013年7月1日付けでNHKエンタープライズに吸収合併した。 愛宕山。 中継車(いすゞ・フォワード).

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.ba

.baは国別コードトップレベルドメイン(ccTLD)の一つで、ボスニア・ヘルツェゴビナに割り当てられている。このドメインは、University Teleinformation Center(UTIC)が管理している。.

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10月15日

10月15日(じゅうがつじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から288日目(閏年では289日目)にあたり、年末まであと77日ある。.

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10月1日

10月1日(じゅうがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から274日目(閏年では275日目)にあたり、年末まであと91日ある。.

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11月10日

11月10日(じゅういちがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から314日目(閏年では315日目)にあたり、年末まであと51日ある。.

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11月7日

11月7日(じゅういちがつなのか)は、グレゴリオ暦で年始から311日目(閏年では312日目)にあたり、年末まであと54日ある。.

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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15世紀

大航海時代。大西洋を渡り新世界を発見したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子ととされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 Musée des Augustins蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 『中世の秋』。歴史家ホイジンガはこの題名でこの時代のブルゴーニュ公国の歴史を描いた。画像はヤン・ファン・エイクの「宰相ロランの聖母」。ロランはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 鄭和の南海大遠征。永楽帝時代には明の国威を示す大艦隊が各地に派遣された。画像は1417年にベンガルから運ばれたキリンを描いた「瑞應麒麟図」。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北故宮博物院蔵)。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 文化を極めた。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。.

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16世紀

16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。 盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。.

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17世紀

ルイ14世の世紀。フランスの権勢と威信を示すために王の命で壮麗なヴェルサイユ宮殿が建てられた。画像は宮殿の「鏡の間」。 スペインの没落。国王フェリペ4世の時代に「スペイン黄金時代」は最盛期を過ぎ国勢は傾いた。画像は国王夫妻とマルガリータ王女を取り巻く宮廷の女官たちを描いたディエゴ・ベラスケスの「ラス・メニーナス」。 ルネ・デカルト。「我思う故に我あり」で知られる『方法序説』が述べた合理主義哲学は世界の見方を大きく変えた。画像はデカルトとその庇護者であったスウェーデン女王クリスティナ。 プリンキピア』で万有引力と絶対空間・絶対時間を基盤とするニュートン力学を構築した。 オランダの黄金時代であり数多くの画家を輩出した。またこの絵にみられる実験や観察は医学に大きな発展をもたらした。 チューリップ・バブル。オスマン帝国からもたらされたチューリップはオランダで愛好され、その商取引はいつしか過熱し世界初のバブル経済を生み出した。画像は画家であり園芸家でもあったエマヌエル・スウェールツ『花譜(初版は1612年刊行)』の挿絵。 三十年戦争の終結のために開かれたミュンスターでの会議の様子。以後ヨーロッパの国際関係はヴェストファーレン体制と呼ばれる主権国家を軸とする体制へと移行する。 チャールズ1世の三面肖像画」。 ベルニーニの「聖テレジアの法悦」。 第二次ウィーン包囲。オスマン帝国と神聖ローマ帝国・ポーランド王国が激突する大規模な戦争となった。この敗北に続いてオスマン帝国はハンガリーを喪失し中央ヨーロッパでの優位は揺らぐことになる。 モスクワ総主教ニーコンの改革。この改革で奉神礼や祈祷の多くが変更され、反対した人々は「古儀式派」と呼ばれ弾圧された。画像はワシーリー・スリコフの歴史画「貴族夫人モローゾヴァ」で古儀式派の信仰を守り致命者(殉教者)となる貴族夫人を描いている。 スチェパン・ラージン。ロシアではロマノフ朝の成立とともに農民に対する統制が強化されたが、それに抵抗したドン・コサックの反乱を率いたのがスチェパン・ラージンである。画像はカスピ海を渡るラージンと一行を描いたワシーリー・スリコフの歴史画。 エスファハーンの栄華。サファヴィー朝のシャー・アッバース1世が造営したこの都市は「世界の半分(エスファハーン・ネスフェ・ジャハーン・アスト)」と讃えられた。画像はエスファハーンに建てられたシェイク・ロトフォラー・モスクの内部。 タージ・マハル。ムガル皇帝シャー・ジャハーンが絶世の美女と称えられた愛妃ムムターズ・マハルを偲んでアーグラに建てた白亜の霊廟。 アユタヤ朝の最盛期。タイでは中国・日本のみならずイギリスやオランダの貿易船も来訪し活況を呈した。画像はナーラーイ王のもとで交渉をするフランス人使節団(ロッブリーのプラ・ナーライ・ラーチャニーウエート宮殿遺跡記念碑)。 イエズス会の中国宣教。イエズス会宣教師は異文化に対する順応主義を採用し、中国の古典教養を尊重する漢人士大夫の支持を得た。画像は『幾何原本』に描かれたマテオ・リッチ(利瑪竇)と徐光啓。 ブーヴェの『康熙帝伝』でもその様子は窺える。画像は1699年に描かれた読書する40代の康熙帝の肖像。 紫禁城太和殿。明清交代の戦火で紫禁城の多くが焼亡したが、康熙帝の時代に再建がなされ現在もその姿をとどめている。 台湾の鄭成功。北京失陥後も「反清復明」を唱え、オランダ人を駆逐した台湾を根拠地に独立政権を打ち立てた。その母が日本人だったこともあり近松門左衛門の「国姓爺合戦」などを通じて日本人にも広く知られた。 江戸幕府の成立。徳川家康は関ヶ原の戦いで勝利して征夷大将軍となり、以後260年余にわたる幕府の基礎を固めた。画像は狩野探幽による「徳川家康像」(大阪城天守閣蔵)。 日光東照宮。徳川家康は死後に東照大権現の称号を贈られ日光に葬られた。続く三代将軍徳川家光の時代までに豪奢で絢爛な社殿が造営された。画像は「日暮御門」とも通称される東照宮の陽明門。 歌舞伎の誕生。1603年に京都北野社の勧進興業で行われた出雲阿国の「かぶき踊り」が端緒となり、男装の女性による奇抜な演目が一世を風靡した。画像は『歌舞伎図巻』下巻(名古屋徳川美術館蔵)に描かれた女歌舞伎の役者采女。 新興都市江戸。17世紀半ばには江戸は大坂や京都を凌ぐ人口を擁するまでとなった。画像は明暦の大火で焼失するまで威容を誇った江戸城天守閣が描かれた「江戸図屏風」(国立歴史民俗博物館蔵)。 海を渡る日本の陶磁器。明清交代で疲弊した中国の陶磁器産業に代わり、オランダ東インド会社を通じて日本から陶磁器が数多く輸出された。画像は1699年に着工されたベルリンのシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」。 海賊の黄金時代。西インド諸島での貿易の高まりはカリブ海周辺に多くの海賊を生み出した。画像はハワード・パイルが描いた「カリブ海のバッカニーア」。 スペイン副王支配のリマ。リマはこの当時スペインの南米支配の拠点であり、カトリック教会によるウルトラバロックとも呼ばれる壮麗な教会建築が並んだ。画像は1656年の大地震で大破したのちに再建されたリマのサン・フランシスコ教会・修道院。 17世紀(じゅうしちせいき、じゅうななせいき)は、西暦1601年から西暦1700年までの100年間を指す世紀。.

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1831年

記載なし。

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1875年

記載なし。

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1878年

記載なし。

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1908年

記載なし。

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1974年

記載なし。

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1984年

この項目では、国際的な視点に基づいた1984年について記載する。.

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1984年サラエボオリンピック

1984年サラエボオリンピックは、1984年2月8日から2月19日までユーゴスラビア(現:ボスニア・ヘルツェゴビナ)のサラエボで行われた冬季オリンピック。規定の変更により、入賞枠が6位から8位までに拡大された初の冬季オリンピック大会となった。.

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1990年

この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.

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1991年

この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.

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1992年

この項目では、国際的な視点に基づいた1992年について記載する。.

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1994年

この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。.

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1995年

この項目では、国際的な視点に基づいた1995年について記載する。.

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1998年

この項目では、国際的な視点に基づいた1998年について記載する。.

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19世紀

19世紀に君臨した大英帝国。 19世紀(じゅうきゅうせいき)は、西暦1801年から西暦1900年までの100年間を指す世紀。.

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1月1日

1月1日(いちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から1日目に当たり、年末まであと364日(閏年では365日)ある。誕生花は松(黒松)、または福寿草。 キリスト教においては生後8日目のイエス・キリストが割礼と命名を受けた日として伝えられる。.

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2000年

400年ぶりの世紀末閏年(20世紀および2千年紀最後の年)である100で割り切れるが、400でも割り切れる年であるため、閏年のままとなる(グレゴリオ暦の規定による)。。Y2Kと表記されることもある(“Year 2000 ”の略。“2000”を“2K ”で表す)。また、ミレニアムとも呼ばれる。 この項目では、国際的な視点に基づいた2000年について記載する。.

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2001年

また、21世紀および3千年紀における最初の年でもある。この項目では、国際的な視点に基づいた2001年について記載する。.

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2002年

この項目では、国際的な視点に基づいた2002年について記載する。.

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2004年

この項目では、国際的な視点に基づいた2004年について記載する。.

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2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。.

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2006年

この項目では、国際的な視点に基づいた2006年について記載する。.

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2011年

この項目では、国際的な視点に基づいた2011年について記載する。.

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2013年

この項目では、国際的な視点に基づいた2013年について記載する。.

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2014年

この項目では、国際的な視点に基づいた2014年について記載する。.

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2016年

この項目では、国際的な視点に基づいた2016年について記載する。.

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3月1日

3月1日(さんがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から60日目(閏年では61日目)にあたり、年末まであと305日ある。.

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5月1日

5月1日(ごがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から121日目(閏年では122日目)にあたり、年末まであと244日ある。誕生花はプリムラ・ポリアンサ。.

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6世紀

地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.

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