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ボスニア

索引 ボスニア

ボスニア (''Bosnia'') とヘルツェゴビナ (''Herzegovina'') の大まかな地域範囲図 ボスニア (Bosnia) は、.

136 関係: 劣化ウラン弾北大西洋条約機構ナチス・ドイツナポレオン戦争チェトニックハンガリー王国バルカン半島の戦いバルカン戦争バン (称号)バンによるボスニア統治時代ムスリムモンテネグロ公国ユーゴスラビア侵攻ユーゴスラビア王国ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ユーゴスラビア紛争ユダヤ教ユスティニアヌス1世ヨシップ・ブロズ・チトーローマ帝国ボゴミル派ボシュニャク人ボスナ川ボスニア・ヘルツェゴビナボスニア・ヘルツェゴビナ人民解放国家反ファシスト委員会ボスニア・ヘルツェゴビナ併合ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国 (1990年-1992年)ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦ボスニア王国ボスニア語トラヴニクヘルツェゴヴィナパルチザン (ユーゴスラビア)パンノニアデイトン合意ダルマチアダルマティア属州ベルリン会議 (1878年)アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)イリュリアイリュリア人イリュリクムイスラム教ウスタシャオーストリア=ハンガリー帝国オスマン帝国カトリック教会ガヴリロ・プリンツィプキリスト教徒...クロアチア独立国クロアチア語クーデターザグレブジミー・カータースチェパン・ラディチスラヴ人スルプスカ共和国スレブレニツァの虐殺スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国セルビアセルビア人セルビア王国 (近代)セルビア語セルビア救国政府サラエボ事件サン・ステファノ条約サンジャク (地名)内部マケドニア革命組織共和政ローマ第一次世界大戦紀元前167年紀元前32年総督独裁政治領有講談社講談社文庫露土戦争 (1877年-1878年)NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆 (1995年)NHKスペシャル東ローマ帝国正教会10年10月29日10月6日11月25日11月29日12世紀12月14日12月1日1322年1377年1428年1463年14世紀1804年1809年1831年1875年1878年1908年1910年1912年1913年1914年1918年1921年1928年1929年1934年1939年1941年1943年1944年1945年1946年1963年1990年1991年1992年1994年1995年1月1日4月10日4月11日4月1日4月26日4月6日6世紀7世紀7月13日7月22日8月30日8月8日9月20日 インデックスを展開 (86 もっと) »

劣化ウラン弾

劣化ウラン弾(れっかウランだん、Depleted uranium ammunition、略称DU)とは、弾体として劣化ウランを主原料とする合金を使用した弾丸全般を指す。 劣化ウランの比重は約19と大きく、鉄の2.5倍、鉛の1.7倍である。そのため合金化して砲弾に用いると、同サイズ、同速度でより大きな運動エネルギー(質量に比例する)を得られるため、主に対戦車用の砲弾・弾頭として使用される。.

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北大西洋条約機構

北大西洋条約機構(きたたいせいようじょうやくきこう)は、北大西洋条約に基づき、アメリカ合衆国を中心とした北アメリカ(=アメリカとカナダ)およびヨーロッパ諸国によって結成された軍事同盟である。前身はブリュッセル条約 (1948年)。 略称は頭字語が用いられ、英語圏では、North Atlantic Treaty Organization を略した NATO(ネイトー)と呼ばれ、日本やドイツ語圏では NATO(ナトー)、フランス語圏・スペイン語圏・ポルトガル語圏等では OTAN(オタン)と呼ばれる。.

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ナチス・ドイツ

ナチス・ドイツは、アドルフ・ヒトラー及び国家社会主義ドイツ労働者党(NSDAP、ナチ党)による支配下の、1933年から1945年までのドイツ国に対する呼称である。社会のほぼ全ての側面においてナチズムの考え方が強制される全体主義国家と化した。ヨーロッパにおける第二次世界大戦が終結する1945年5月に連合国軍に敗北し、ナチス政権とともに滅亡した。.

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ナポレオン戦争

1811年のヨーロッパ。濃い青はフランス帝国の領土。薄い青はフランスの衛星国 ナポレオン戦争(ナポレオンせんそう、Guerres napoléoniennes、Napoleonic Wars、Napoleonische Kriege)は、1803年にアミアンの和約が破れてから、1815年にナポレオン・ボナパルトが完全に敗北するまでの期間を通して行われた戦争である。 ナポレオンⅠ世率いるフランス帝国とその同盟諸国から動員された大陸軍(グランダルメ)が、イギリス、オーストリア、ロシア、プロイセンなどのヨーロッパ列強諸国を中心にして結成された対仏大同盟の諸軍隊と交戦した。.

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チェトニック

チェトニック(セルビア・クロアチア語:Četnik、キリル文字表記Четник、英語:Chetnik、複数形:チェトニツィ、Četnici、Четници、Chetniks)は、第二次世界大戦下のユーゴスラビアにおける、セルビア将兵によって組織された、ナチス・ドイツへの抵抗組織。名称はチェトニクとも表記されるが、以下「チェトニック」で統一する。.

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ハンガリー王国

ハンガリー王国(ハンガリーおうこく、Magyar Királyság)は、現在のハンガリーを中心とする地域をかつて統治した王国。.

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バルカン半島の戦い

バルカン半島の戦い(バルカンはんとうのたたかい Balkans Campaign (World War II)、1940年10月28日 -1941年5月29日)は、第二次世界大戦中にバルカン半島の制圧を巡って戦われた、枢軸軍と連合軍の戦い。.

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バルカン戦争

バルカン戦争(バルカンせんそう、Balkan Wars)は、1912年から1913年にかけてヨーロッパの東南部で発生した戦争。バルカン同盟諸国(ギリシャ、ブルガリア、モンテネグロ、セルビア)と衰退しつつあるオスマン帝国との間で発生した第一次バルカン戦争(1912年10月 - 1913年5月)と、その戦後処理においてブルガリアと、ギリシャ・セルビアの対立から発生した第二次バルカン戦争(:en:Second Balkan War、1913年6月 - 1913年8月)からなる。.

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バン (称号)

バン(ハンガリー語 bán、ドイツ語・ラテン語 、英語 )またはバーンは、、特にクロアチア・スラボニア地方の歴史的総督の称号。 ハンガリー王国がクロアチアを支配していたとき、クロアチア人たちの認識として、ハンガリー王はクロアチアのバン(総督)を兼ねていると言う歴史認識をしていた。同君連合とされる場合もある。.

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バンによるボスニア統治時代

この項目では、1180年から1377年までのバン(首長)によるボスニア統治時代について記述する。バンによって統治されていたボスニアはボスニア・ヘルツェゴビナの大部分とダルマチア、セルビア、モンテネグロの一部を支配していた。ボスニアのバンは名目上はハンガリー王国の家臣となされていたが、事実上独立した国家となっていた 。1377年にバンのスチェパン・トヴルトコ1世が戴冠式で王国の建国を宣言し、ボスニア王国が建国される。当時のボスニアの歴史の大部分はローマ・カトリック教会と東方正教会の両方から異端と非難された土着のボスニア教会に関する宗教的論争を中心に記録されており、特にカトリック教会はハンガリーを通してボスニア教会の信徒と敵対し、迫害した。.

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ムスリム

ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.

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モンテネグロ公国

モンテネグロ公国(モンテネグロこうこく、キリル文字:Књажевина Црнa Горa)は、1852年から1910年の間、バルカン半島の現在のモンテネグロに存在した公国である。.

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ユーゴスラビア侵攻

ユーゴスラビア侵攻(ユーゴスラビアしんこう)は、第二次世界大戦中の1941年4月6日から同年4月17日にかけて、ドイツやイタリアを中心とする枢軸国軍とユーゴスラビアとの間で行われた戦い。ドイツ軍はフランス侵攻に次いで電撃戦を成功させ、僅か十日あまりでユーゴスラビア全土を制圧した。欧米では4月戦争とも称される。.

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ユーゴスラビア王国

ユーゴスラビア王国(ユーゴスラビアおうこく、セルビア・クロアチア語・スロベニア語:Kraljevina Jugoslavija / Краљевина Југославија)は、バルカン半島西部から中央ヨーロッパにかけての地域を領土とし、1918年から1941年までの期間に存続した立憲君主制の国家。事実上は国王が亡命した1941年に、公式にはユーゴスラビア連邦人民共和国成立前の1945年に滅亡した。.

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ユーゴスラビア社会主義連邦共和国

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国ユーゴスラヴィアの表記もある。(ユーゴスラビアしゃかいしゅぎれんぽうきょうわこく、セルビア・クロアチア語・セルビア語・クロアチア語・ボスニア語・スロベニア語スロベニア語における「社会主義」の語の形容詞形は「Socialistična」であり、公式国名の最初の語にある「Socijalistička」とは異なる。スロベニア語では、後者のスロベニア語を用いた表記もされた。・マケドニア語:Socijalistička Federativna Republika Jugoslavijaガイ式ラテン・アルファベットによるラテン文字表記。スロベニア語およびセルビア・クロアチア語の西部標準形(クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナを主体とする)ではラテン文字が用いられた。キリル文字による表記と完全に対応している。 / Социјалистичка Федеративна Република Југославијаセルビア語キリル文字およびマケドニア語キリル文字による表記ラテン文字における表記と完全に対応している。)は、第二次世界大戦中の1943年から、解体される1992年まで存続した、ユーゴスラビアの社会主義国家。.

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ユーゴスラビア紛争

ユーゴスラビア紛争(ユーゴスラビアふんそう)は、ユーゴスラビア連邦解体の過程で起こった内戦である。1991年から1999年(あるいは2001年)まで主要な紛争が継続した。.

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ユダヤ教

ダビデの星 ユダヤ教(ユダヤきょう、יהדות)は、古代の中近東で始まった唯一神ヤハウェ(יהוה)を神とし、選民思想やメシア(救世主)信仰などを特色とするユダヤ人の民族宗教である。ただしメシア思想は、現在ではハバド・ルバヴィッチ派などを除いて中心的なものとなっていない。 『タナハ』(キリスト教の『旧約聖書』に当たる書物)が重要な聖典とされる。.

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ユスティニアヌス1世

ユスティニアヌス1世(Justinianus I, 483年 - 565年11月14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus)。 後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、543年の黒死病()が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。 ユスティニアヌスの遺産の重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世はまた初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。 東方正教会では聖者と見なされており、ルーテル教会の一部からも祝福されている。反対に同時代のプロコピオスはユスティニアヌスを「残忍で強欲そして無能な統治者」として見ていた。 ユスティニアヌス1世の治世に関する主な史料は、歴史家プロコピオスが提供している。散逸したシリア語によるエフェソスのヨハネスの年代記は後代の年代記の史料となり、多くの付加的な詳細を知ることに貢献している。この2人の歴史家は、ユスティニアヌスと皇后テオドラに対して非常に辛辣である。また、プロコピオスは『秘史』(Anekdota)を著しており、ここではユスティニアヌスの宮廷における様々なスキャンダルが述べられている。ほかの史料としては、アガティアス、メナンデル・プロテクトル、ヨハネス・マララス、復活祭年代記、マルケリヌス・コメス、トゥンヌナのウィクトルが挙げられる。.

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ヨシップ・ブロズ・チトー

ヨシップ・ブロズ・チトー、またはヨシップ・ブロズ・ティトー(セルビア・クロアチア語: 、1892年5月7日 - 1980年5月4日)は、第二次世界大戦からその死まで、最もユーゴスラビアに影響を与えた政治家であり、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国大統領、ユーゴスラビア共産主義者同盟の指導者である。「ティトー元帥」という呼び名でも知られている。 本名はヨシップ・ブロズ。「チトー(Tito)」という名前は、「お前(Ti)があれ(to)をしろ」という横柄な文章から取られたもので、冗談のネタになることもあった。.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ボゴミル派

ボゴミル派(ボゴミルは)は、10世紀中ごろから14世紀末までブルガリアを中心にバルカン半島で信仰されたキリスト教の一派である。善悪二元論と現世否定に特徴があり、正教会では異端とされた。 10世紀中頃に、ブルガリア司祭のボゴミルにより開始された。ブルガリアにおいては東ローマ帝国への抵抗運動と結びつき、一部の地域では正統派をしのぐ勢いをもったが、帝国が衰えブルガリアがオスマン帝国領となり、イスラム教が入ってくると、ボゴミル派からイスラムに改宗する者も現れ、廃れた。 フランスのカタリ派(アルビジョワ派)に影響を与えたとも考えられている。.

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ボシュニャク人

ボシュニャク人(男性単数: Bošnjak/Бошњак 、女性単数: Bošnjakinja/Бошњакиња、男性複数: Bošnjaci/Бошњаци)は、15世紀から19世紀にかけてオスマン帝国支配下で、イスラム教に改宗した南スラブ人の末裔である。民族の言語はボスニア語だがセルビア・クロアチア諸語で、言語的にはクロアチア人、セルビア人と大きな差はない。かつてのユーゴスラビア社会主義連邦共和国ではムスリム人(モスレム人)と呼ばれた。日本語表記としては他にボシュニャック人、ボスニャク人、ボスニアク人、ボスニアック人などの表記が存在する。ボシュニャク人という名前はバルカン西部にあるボスニアの名前に由来している。ボシュニャク人はボスニア・ヘルツェゴビナを彼らの民族的故地と考えている。 バルカン諸国の全てのムスリムがボシュニャク人というわけではなく、他にもポマク人のようなブルガリア人ムスリムの民族や、アルバニア人、トルコ人、ロマのような非スラブ系ムスリムも存在する。.

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ボスナ川

源流のヴレロ・ボスネ ボスナ川(Bosna,Босна)はボスニア・ヘルツェゴビナを流れる川で、ボスニア・ヘルツェゴビナ国内を流れる3つの重要な河川の一つである。他の2つはネレトヴァ川(Neretva)、ヴルバス川(Vrbas)などで、ボスナ川は全長271kmの長さを有する。ボスニア・ヘルツェゴビナ領内を流れる河川では他にウナ川、北西部を流れるサヴァ川、北部を流れるドリナ川が有名である。ローマ時代にボスナ川はボッシニア(Bossina)、バスイヌス(Bathinus)と呼ばれMalcolm, Noel (1994).

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ボスニア・ヘルツェゴビナ

1992年-1998年の国旗 1992年-1998年の国章 ボスニア・ヘルツェゴビナは、東ヨーロッパのバルカン半島北西部に位置する共和制国家。首都はサラエボで、ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とスルプスカ共和国のふたつの構成体からなる連邦国家でもある。 ほぼ三角形の国土を持ち、国境のうち北側と南西側2辺でクロアチア、東側1辺でセルビア、モンテネグロと接する。ユーゴスラビアからの独立時、独立の可否や国のあり方をめぐってボシュニャク人、クロアチア人、セルビア人がそれぞれ民族ごとに分かれてボスニア・ヘルツェゴビナ紛争で戦った。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ人民解放国家反ファシスト委員会

ボスニア・ヘルツェゴビナ人民解放国家反ファシスト委員会(ボスニア語・セルビア語・クロアチア語:)は、第二次世界大戦時のボスニア・ヘルツェゴビナにおける反ファシスト運動の最高執行機関として設立された。その委員長はヴォイスラヴ・ケツマノヴィッチ(Vojislav Kecmanović)である。 ZAVNOBiHは、1943年11月25日にムルコニチ・グラード(Mrkonjić Grad)にて第1回の会合が開かれ、第二次世界大戦の後は連邦制とする予定のユーゴスラビアの構成国としてのボスニア・ヘルツェゴビナの樹立が決定された。第2回の会合は1944年6月30日にサンスキ・モスト(Sanski Most)で行われた。最後の会合は1945年4月26日にサラエヴォで行われ、ボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国の正式な政府が樹立された。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ併合

ボスニアとヘルツェゴビナの大まかな地域範囲図 アロイス・エーレンタール / ボスニア・ヘルツェゴビナ併合時のオーストリア外相 セルビア国王ペータル1世 / オーストリアとの対立を深めた ボスニア・ヘルツェゴビナ併合(ボスニア・ヘルツェゴビナへいごう)は、1908年10月6日、青年トルコ人革命の混乱に乗じたオーストリアがボスニア・ヘルツェゴビナの併合を宣言した事件をいう。本項ではこれによって生じた「ボスニア危機」(「バルカン危機」とも)と称される外交危機についても述べる。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国 (1990年-1992年)

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は民主的で選挙による共和国として、1990年から1992年までユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国であった。共和国は共産主義の象徴を、新しい国旗・国章が決まるまでの間そのまま使用した。共和国はボシュニャク人の指導者アリヤ・イゼトベゴヴィッチが政府の首班となったが、セルビア人およびクロアチア人の分離主義者はそれぞれボスニアからの分離を求めて政府を去った。1992年、共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。その直後からセルビア人はボスニアからの分離とユーゴスラビアへの編入を求め、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争が始まった。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国

ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国(ボスニア・ヘルツェゴビナしゃかいしゅぎきょうわこく、セルビア・クロアチア語:)は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の構成国である。この国家は、現在のボスニア・ヘルツェゴビナの前身である。その歴史はムルコニチ・グラード(Mrkonjić Grad)で反ファシスト・パルチザンによるボスニア・ヘルツェゴビナ人民解放国家反ファシスト委員会の会合が開かれた1943年11月25日よりはじまる。1990年に共産党による一党支配が終わり、民主化されたことによってボスニア・ヘルツェゴビナ共和国となり、更に1992年にユーゴスラビアから独立してボスニア・ヘルツェゴビナとなった。 首都はサラエヴォであり、独立後もボスニアの首都となっている。.

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ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦

Coat of arms of the Federation of Bosnia and Herzegovina(1996年 - 2007年) ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦(ボスニア・ヘルツェゴビナれんぽう)は、連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナの構成体の1つ。ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族のうち、ボシュニャク人とクロアチア人を主体とする共和国で、独自の大統領、政府、立法府を持つ。ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の51%を占める。.

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ボスニア王国

ボスニア王国(Banovina Bosna/Босɖɴскɖ бɖɴоvнɴɖ)は、中世のボスニアに存在していた国家である。.

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ボスニア語

ボスニア語(ボスニアご、bosanski jezik)は、南スラブ語群に属する言語の標準形の一つであり、セルビア・クロアチア諸語のシュト方言が基本となっている。 ボスニア・ヘルツェゴビナをはじめとする、旧ユーゴスラビア諸地域において、特にセルビア・クロアチア諸語を話すイスラム教徒の多くは自身をボシュニャク人と規定し、その母語をボスニア語と考えている。 ラテン文字による表記が標準的であるが、キリル文字も使用される。「ボスニア語」という名前は、ボシュニャク人のボスニア語話者に共通に受け入れられており、また言語コードの規格ISO 639にもこの名前で掲載されている。.

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トラヴニク

トラヴニク(Travnik,Travnik,Травник)はボスニア・ヘルツェゴビナの都市及び基礎自治体でサラエヴォからは約100kmほど北西に位置し、同国を構成する構成体のうちボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の中央ボスニア県に属し、同県の県都である。1697年から1850年にかけてオスマン帝国(1580–1867)の首府が置かれていた。.

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ヘルツェゴヴィナ

ボスニア (''Bosnia'') とヘルツェゴビナ (''Herzegovina'') の大まかな地域範囲図 ヘルツェゴヴィナ (Hercegovina) は、現在のボスニア・ヘルツェゴビナ南部の歴史的名称。中心都市はモスタル。 「ヘルツェゴヴィナ」という名前は、15世紀にこの地域を支配したスチェパン・ヴクチッチの称号である「」にちなんだものといわれ、「公」を意味するドイツ語のヘルツォーク (Herzog) やハンガリー語のヘルツェグ (herc(z)eg) に由来する名称である。聖サヴァ公の名称自体もセルビア正教会で最も敬愛される聖人「聖サヴァ」に由来する名称である。 隣のボスニアと同様、6世紀末から7世紀にかけてこの地域にもスラヴ人が定住した。ヘルツェゴヴィナに相当する地域は古くはフムと呼ばれていたが、フムは1168年から1326年までセルビアの支配下にあったため、セルビア正教会の影響を強く受けた。その後14世紀前半にボスニア王国の領域に組み込まれ、現在まで続くボスニアとの地域的な一体性を持つに至った。1483年にスチェパン・ヴクチッチによるオスマン帝国に対する抵抗運動が平定されると、ヘルツェゴヴィナ県が置かれてオスマン帝国の支配が確立することとなる。 19世紀後半に入るとムスリム地主に対するキリスト教徒の小作人による反乱が相次いで起こるようになる。1857年と1861年に隣国モンテネグロの支援を受けた反乱が起こったほか、露土戦争の引き金となった1875年のはボスニアへも飛び火した。その後、1878年のベルリン会議によってオーストリア・ハンガリー帝国による軍事占領が認められ、帝国の大蔵大臣(共通蔵相)の管轄下に置かれた。1882年には占領に対する蜂起も発生している。 1908年、ボスニアと共にオーストリア・ハンガリー帝国に正式に併合された。.

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パルチザン (ユーゴスラビア)

ユーゴスラビアのパルティザン(partizani / партизани)は、正式名称をユーゴスラビア人民解放軍およびパルチザン部隊(スロベニア語:Narodnoosvobodilna vojska in partizanski odredi Jugoslavije、セルビア・クロアチア語:Narodnooslobodilačka vojska i partizanski odredi Jugoslavije / Народноослободилачка војска и партизански одреди Југославије、マケドニア語:Народноослободителна војска и партизанските одреди на Југославија、略称:NOV i POЈ / НОВ и ПОЈ)といい、第二次世界大戦時のユーゴスラビアにおける、枢軸国の支配に抵抗した共産主義者主体の勢力である。パルティザンは、ユーゴスラビア共産党率いる人民解放戦線の軍であり、その最高意思決定機関はユーゴスラビア人民解放反ファシスト会議(AVNOJ)であり、ヨシップ・ブロズ・ティトーを最高指導者とする。 パルティザンはユーゴスラビアにおける共産主義国家の樹立を目指しており、ユーゴスラビア共産党はユーゴスラビアに住む全ての民族の権利を擁護し、全ての民族に対して支持を訴えた。パルティザンよりも数週間早く設立された、もう一つの反枢軸の抵抗組織にチェトニクがあったが、チェトニクはカラジョルジェヴィチ家による王政の維持と、セルビア人の保護を目的としており、チェトニクが正当で歴史的なセルビア人の土地と考える地域における他民族に対する民族浄化を通じて大セルビアを確立することを目指していたBanac (1996), p.1431941年夏以降、チェトニクはセルビア人の抵抗者を糾合し、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部においてムスリム人に対する残虐行為の数々を実行した。ムスリム人に対する虐殺は、ノドを切り、川に落とすといったものが多く、フォチャやゴラジュデ、チャイニチェ、ロガティツァ、ヴィシェグラード、ヴラセニツァ、スレブレニツァやドリナ川渓谷一帯などのボスニア東部で頻発したが、セルビア人の村が点在するヘルツェゴビナ東部でも、1942年までは強固に抵抗を続けるセルビア人の活動があった。チェトニクの文書では、たとえば1942年6月にコトル・ヴァロシュ地区のヤヴォリネでの会合の議事録に見られるように、「セルビア人ではないあらゆるすべてをボスニアから除去する」決定について述べられている。セルビア人チェトニクによる民族浄化の正確な被害者数を特定することは難しいが、数万人が殺害されたと考えられるHirsch (2002), p.76Mulaj (2008), p.71。パルティザンとチェトニクの関係は当初より険悪であったが、1941年10月以降は全面的な衝突へと発展した。ティトーの汎民族主義は、チェトニクのセルビア人民族主義に反するものであり、チェトニクの王党主義は共産主義者のパルティザンには受け入られるものではなかった。 彼らは一般に「パルティザン」あるいは「パルチザン」と呼ばれており、この名前からはゲリラ勢力が想起されるが、彼らのゲリラ的な性質は最初の3年間でのことであった。1944年の終わりごろには、パルティザンの兵士の数は65万人におよび、4つの方面軍、52の師団を持つ軍隊組織となっていた。1945年4月にはパルティザンの兵士は80万人を数えるようになり、この時代のパルティザンは「人民解放軍」と呼ばれることが多い。.

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パンノニア

パンノニア(Pannonia)は、古代に存在した地方名。ローマ帝国の時代には皇帝属州であった。北と東はドナウ川に接し、西はノリクムと上イタリア、南はダルマティアと上モエシアに接した。パンノニアの領域は現在のオーストリア、クロアチア、ハンガリー、セルビア、スロベニア、スロバキア、およびボスニア・ヘルツェゴビナの各国にまたがる。 今日では、パンノニアという地名は、ハンガリーのトランスダニュービア地方(Transdanubia、ハンガリー語:Dunántúl)およびセルビア等に広がるパンノニア平原を指して使われる。.

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デイトン合意

ボスニア・ヘルツェゴヴィナ和平一般枠組み合意(ボスニア・ヘルツェゴヴィナわへいいっぱんわくぐみごうい、ボスニア語・セルビア語・クロアチア語:Opći okvirni sporazum za mir u Bosni i Hercegovini / Општи оквирни споразум за мир у Босни и Херцеговини、英語:General Framework Agreement for Peace in Bosnia and Herzegovina)、またはデイトン合意(デイトンごうい、ボスニア語・セルビア語・クロアチア語:Daytonski sporazum / Дејтонски споразум、英語:Dayton Agreement)とは、1995年11月にアメリカ合衆国オハイオ州デイトン市近郊のライト・パターソン空軍基地においてまとまり、同年12月14日にパリで署名された和平合意。デイトン・パリ合意などともいう。この合意によりユーゴスラヴィア紛争の1つである、3年半にわたったボスニア・ヘルツェゴヴィナ紛争は終結した。.

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ダルマチア

濃紫の部分がダルマチア ダルマチア(ダルマツィア、クロアチア語: Dalmacija, イタリア語: Dalmazia, セルビア語: Далмација)は、クロアチアのアドリア海沿岸地域一帯のこと。中央クロアチア、ダルマチア地方、スラヴォニア地方、イストリア地方の4地方で、現在のクロアチア共和国の一部。.

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ダルマティア属州

ダルマティア属州(Provincia Dalmatia)は、紀元前32年から紀元前27年頃にアドリア海東岸(バルカン半島西部)に設立された古代ローマ(ローマ帝国)の属州。現在のアルバニア、クロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、モンテネグロおよびセルビア各国の領土にまたがっており、現在ダルマチア地方と呼ばれる地域より相当広い領域であった。“ダルマティア”という名前は、この地に古くから住んでいたイリュリア人のことをダルマタエ(Dalmatae)人と呼んでいたことに因んでいる。 紀元前220年から紀元前168年にかけてのイリュリア戦争の結果、イリュリア王国領の南半分は共和政ローマの保護領となり、その後周辺領域を加え紀元前32年から紀元前27年頃にはイリュリクム属州となった。紀元6年から9年にパンノニア族とダルマティア族が反乱を起こしたがローマ帝国に鎮圧され、10年にイリュリア属州は南北に2分割され北側にはパンノニア属州、南側にはダルマティア属州が設立された。 ダルマティア属州はアドリア海沿岸部から、ディナル・アルプス山脈を含む内陸までの領域とされた。歴史家テオドール・モムゼンはその著書の中で、ダルマティア属州は完全にローマ化され、4世紀には内陸部も含めてあらゆる地域でラテン語が共通語となっていたとしている。これに対してクロアチアの歴史家アレクサンデル・スティプチェビッチは、発掘結果からはローマ化の度合いは地域によりばらばらであったとしている。概してアドリア海沿岸部や大きな町ではローマ化の度合いが進んでいて、それ以外の地方部ではそれほどでもなかったと主張している。土着のイリュリア人たちはラテン語ではなく彼らの伝統的言語を使い続ける者も多く、土着神への信仰や伝統文化も捨てなかったとされる。 ダルマティア属州はディオクレティアヌス帝(在位 284年 - 305年)の出身地であり、また隠棲の地(サロナのディオクレティアヌス宮殿。現 スプリト)でもある。 476年に西ローマ帝国が崩壊した後の民族移動時代、この地域はゴート族の支配下に置かれた。その後535年にユスティニアヌス1世がこの地域を東ローマ帝国に組み込み、ダルマティア軍管区(テマ)とした。.

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ベルリン会議 (1878年)

ベルリン会議(ベルリンかいぎ、1878年6月13日 - 1878年7月13日)は、露土戦争の結果起こった国際紛争解決のために、ドイツのビスマルクが主催した国際会議。イギリス、フランス、ドイツ、オーストリア・ハンガリー帝国、ロシア、イタリア、オスマン帝国の7か国が参加し、バルカン半島の新独立国の領域が決定された。.

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アレクサンダル1世 (ユーゴスラビア王)

アレクサンダル1世(Aleksandar I Karađorđević, Александар I Карађорђевић, 1888年12月16日 - 1934年10月9日)は、カラジョルジェヴィッチ家のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人国国王(在位:1921年 - 1929年)、のちユーゴスラビア王(在位:1929年 - 1934年)。.

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イリュリア

イリュリアの位置 イリュリア(イリリア、Ἰλλυρία、Illyricum)は、古代ギリシア・ローマ時代に現バルカン半島の西部に存在した王国。 イリュリア語を話すイリュリア人によって建国され、共和政ローマによって滅ぼされた。 イリュリアの正確な姿は、現在の歴史家にも十分にはわかっていない。 イリュリア人の勢力範囲とイリュリア王国の領域とは必ずしも一致せず、さらに、 イリュリア王国の国境線はあいまいな部分がある。 例えば、ダルマティアは言語的にはイリュリア人に分類されるが、イリュリア王国には短期間しか所属していない。.

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イリュリア人

イリュリア人の居住範囲 イリュリア人(Ἰλλυριο,llyrii/Illyri)は古代のバルカン半島西部やイタリア半島沿岸南東部(メッサーピ)に住んでいた民族である。イリュリア人が住んでいた地域はギリシャやローマの作家たちによりイリュリアとして知られるようになったが、イリュリア人が住んでいた範囲は以前ユーゴスラビアだった地域やアルバニアなどで、西はアドリア海、北はドラーヴァ川、東は大モラヴァ川、南はヴョセ川河口までの範囲である。.

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イリュリクム

イリュリクム属州の場所(120年頃のローマ帝国) イリュリクム(Illyricum) は、それ以前にイリュリア王国だった地域に設立された古代ローマの属州である。現アルバニアのドリン川から北はイストリア半島(スロベニア、クロアチア)、東はサヴァ川(ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア)まで広がる。首都は現クロアチアの都市スプリトの近くのサロナエ(Salonae)におかれた。 イリュリア王国は、ゲンティウスがイリュリア王であった紀元前168年、共和政ローマに武力によって征服された。紀元前167年以降、イリュリア南部が分割されて正式にローマの保護領となった。 この地域は、ローマにとっては戦略的にも経済的にも価値が高かった。海岸線には重要な商業港が点在し、内陸部には金鉱山があった。またイリュリアはエグナティア街道の始点で、この道はアドリア海沿岸のデュラキウム(現ドゥラス)から東のビュザンティオンまで至るローマ街道だった。 紀元前59年にウァティニウス法(Lex Vatinia)が成立し、イリュリクムとガリア・キサルピナとはガイウス・ユリウス・カエサルの担当属州(provincia)とされた。ただし、このときは属州といっても「責任領域」という意味に近かった。属州イリュリクムとしての言及は、イリュリアをめぐるアウグストゥスの戦争(紀元前35年-紀元前33年)が終わり、紀元前27年のアウグストゥスの定めにおいて初めて登場する。このとき同時に、この地域(現在のアルバニアの大部分)の南側の領域はマケドニア属州とされた。イリュリクム属州は、ローマ帝国とパンノニア族などの部族集団との戦い(紀元前12年-紀元前9年)に勝利したことにより、領域を広げた。 その後、パンノニア族とダルマティア族が反乱を起こして9年に制圧され(バトの反乱、6年-9年)、10年にイリュリクム属州は解体された。新しく、北側にはパンノニア属州、南側にはダルマティア属州が設立された(ジェノ・フリッツなどの学者は属州再編を西暦20年-35年頃と考えている)。属州名からは失われたが、イリュリクムという名前はこの地域の呼び名としては生き残り、後の皇帝ディオクレティアヌスがテトラルキア(4分統治)において4つの法務官統治領(praetorian prefecure)を設立した際には、そのひとつをイリュリクム統治領と名づけた。ここには、パンノニア属州、ノリクム属州、クレタ島、およびトラキアを除くバルカン半島が含まれた。 この地域の人々は勇敢であると有名であり、ローマの軍人の重要な供給源となった。著名なローマ皇帝にもこの地域出身者がおり、アウレリアヌス帝、クラウディウス2世、コンスタンティヌス1世、ディオクレティアヌス帝や、東ローマ帝国皇帝のユスティニアヌス1世がそうである。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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ウスタシャ

ウスタシャ(Ustaše)は、クロアチアに存在したファシズム政党・民族主義団体。第二次大戦中にドイツと同盟を結び、大量虐殺を行ったことで有名である。 アンテ・パヴェリッチを指導者とし、クロアチア人による独立国民国家の樹立を目指した、農民を主体とする反資本主義を政治綱領に掲げていた。しかし反資本主義を目指していながらも私有財産制は認められており、ローマ・カトリックの思想を強く受けているのが特徴である。.

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オーストリア=ハンガリー帝国

ーストリア=ハンガリー帝国(オーストリア=ハンガリーていこく、 または Kaiserliche und königliche Monarchie、)は、かつて欧州に存在した国家。ハプスブルク帝国の一つであり、その最後の形態である。.

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オスマン帝国

マン帝国(オスマンていこく、)は、テュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノポリスを征服、この都市を自らの首都とした(オスマン帝国の首都となったこの都市は、やがてイスタンブールと通称されるようになる)。17世紀の最大版図は、東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリー、チェコスロバキアに至る広大な領域に及んだ。.

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カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

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ガヴリロ・プリンツィプ

ヴリロ・プリンツィプ(Гаврило Принцип / Gavrilo Princip、 1894年7月25日 - 1918年4月28日)は、ボスニア出身のの民族主義者で、1914年6月28日、サラエヴォでオーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ・フェルディナント大公を暗殺するサラエボ事件を起こした。「 (Mlada Bosna, ムラダ・ボスナ)」の活動家。.

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キリスト教徒

リスト教徒(キリストきょうと、Christianus; クリスティアーヌス)あるいはクリスチャン(Christian)とは、キリスト教の信徒のことである。 キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。 日本では、明治時代以前、キリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んだ。近現代の日本のキリスト教徒はキリスト者(きりすとしゃ)と自称することがある。日本正教会ではロシア語から「ハリスティアニン(Христианин)」との転写も用いられる。.

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クロアチア独立国

アチア独立国(クロアチアどくりつこく、Nezavisna Država Hrvatska)は、主に現在のクロアチア、ボスニア・ヘルツェゴビナの領域に存在した国家。一般にドイツ及びイタリアの傀儡国家と見做されている。独立国家クロアチアと訳されることもある。.

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クロアチア語

アチア語(クロアチアご、クロアチア語: hrvatski )は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群の言語である。クロアチアおよびボスニア・ヘルツェゴビナの公用語である。クロアチアのEU加盟により、2013年7月以降EU公用語の一つにもなっている。 1991年にクロアチアがユーゴスラビア社会主義連邦共和国から独立する前は、セルビア語と同一の言語としてセルビア・クロアチア語として扱われていた。ユーゴスラビア解体後にそれぞれが別言語と主張されるようになったが、元々両者の違いは細かい正書法や表現の差異程度であり、現在でも非常に近い関係にある。セルビア語がアルファベットとしてキリル文字とラテン文字を使用するのに対し、現在のクロアチア語ではもっぱらラテン文字を使用する。歴史的にはグラゴル文字が使用されたこともあり、一部では近代まで用いられていた。 話者は主にバルカン半島に分布し、クロアチア人を中心にクロアチア、セルビア、モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナおよび他の国で話される。スロベニア語、マケドニア語とも類似している。 クロアチア国内で話される南スラヴ語群の言語変種には主にシュト方言・カイ方言・チャ方言の3種類があり、そのうち新シュト方言の東ヘルツェゴビナ方言がクロアチア語の標準語の基盤となっている。なお、セルビア語やボスニア語もシュト方言の一種から標準語が作られている。.

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クーデター

ーデター()は、一般に暴力的な手段の行使によって引き起こされる政変を言う。 フランス語で「国家の一撃」もしくは「国家に対する一撃」を意味し、発音は(ク・デタ) 、(クーデイター)である。日本語では「クーデタ」や「クー・デ・タ」と表記することもある。英語では単に「coup(クー)」と表記されることが多い。 社会制度と支配的なイデオロギーの政治的な転換については革命、統治機構に対する政治的な対抗については反乱、政治的な目的を達成するための計画的な暴力の行使についてはテロリズム、単一国家の国民が階級や民族・宗派などに分かれて戦う武力紛争については内戦をそれぞれ参照されたい。.

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ザグレブ

レブ()はクロアチア共和国の首都で同国最大の都市である。クロアチア北西部サヴァ川河畔に位置しの南斜面にあり海抜は122mである。2011年の国勢調査による人口はザグレブ市街が686,568人、ザグレブ市域では792,875人であった。ザグレブ市と周辺の行政的に分かれているザグレブ郡の人口317,642人を合わせたザグレブ都市圏の人口は1,110,517人である。ザグレブはクロアチアでは唯一、100万人を超える都市圏を形成している。 アルプスやディナルアルプス、アドリア海方向へ広がるパンノニア平原南西部の有利な地理的な条件により、中央ヨーロッパとアドリア海を結ぶ良く整備された交通回廊によって周辺地域と結ばれている。ザグレブは交通の要衝である他、産業の集積や科学研究機関、伝統的な産業などでクロアチアで先導する地位にある。また、首都としてクロアチアの中央政府や行政機関、省庁のほとんどがザグレブに拠点を置いている。.

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ジミー・カーター

“ジミー”ジェームス・アール・カーター・ジュニア(James Earl "Jimmy" Carter, Jr., 1924年10月1日 - )は、アメリカ合衆国の政治家。、ジョージア州知事、第39代アメリカ合衆国大統領を歴任。2002年ノーベル平和賞受賞。身長175cm。バプテスト派キリスト教信者。 牧師でもあり、長らく南部バプテスト連盟系列の教会の信徒だったが、南部バプテストが神学的・政治的に保守化を強めたことから2000年には脱退し、その後進歩派の「新バプテスト連盟」(New Baptist Covenant、新バプテスト契約)の創始者のひとりになっている。.

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スチェパン・ラディチ

ティエパン・ラディチ(Stjepan Radić、1871年7月11日 - 1928年8月8日)は、クロアチア人の政治家。クロアチア共和農民党(のちクロアチア農民党)を組織した。.

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スラヴ人

南スラヴ人 スラヴ人(スラヴじん)は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られ、特に西スラヴと東スラヴは時により北スラヴと分類されることがある。.

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スルプスカ共和国

ルプスカ共和国(スルプスカきょうわこく)は、連邦国家であるボスニア・ヘルツェゴビナの構成体の1つ。ボスニア・ヘルツェゴビナの主要3民族のうち、セルビア人を主体とする共和国で、通称はセルビア人共和国。独自の大統領、政府、立法府を持ち、ボスニア・ヘルツェゴビナの全面積の49%を占める。.

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スレブレニツァの虐殺

13歳の少年の墓石(2007年7月11日) ボスニア・ヘルツェゴビナにおけるスレブレニツァの位置 スレブレニツァの虐殺(スレブレニツァのぎゃくさつ、Масакр у Сребреници、Masakr u Srebrenici)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争中にボスニア・ヘルツェゴビナのスレブレニツァで1995年7月に発生した大量虐殺事件である。ラトコ・ムラディッチに率いられたスルプスカ共和国軍(Vojska Republike Srpske; VRS)によって推計8000人のボシュニャク人が殺害された佐原徹哉 (2008) シェリ・フィンク (2004)。スレブレニツァ・ジェノサイド(Геноцид у Сребреници、Genocid u Srebrenici)ともいう。この時、スルプスカ共和国軍に加えて、セルビアを拠点とする準軍事組織「サソリ」(Škorpioni)が虐殺に加担していた。 ボスニア・ヘルツェゴビナの連邦行方不明者委員会による、スレブレニツァで殺害されるか行方不明となった人々の一覧には、8,373人の名前が掲載されている。2008年12月までの段階で、およそ5800人の遺体がDNA調査によって身元特定され、3,215人がポトチャリのスレブレニツァ虐殺記念館にて埋葬された。 なお、本項では、ボスニア・ヘルツェゴビナにおいて「ムスリム人」が「ボシュニャク人」と言い換えられる前の歴史的な記述についても、断り無く「ボシュニャク人」の呼称を使用する。.

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スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国

ベニア人・クロアチア人・セルビア人国は、第一次世界大戦終戦時のオーストリア=ハンガリー帝国解体後、旧オーストリア=ハンガリー帝国の南端部に、セルビア人、クロアチア人、スロヴェニア人によって樹立された短命な国家である。.

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セルビア

ルビア共和国(セルビアきょうわこく)、通称セルビアは、南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。 首都であるベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで一貫して連邦の首都であった。2006年6月3日のモンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。セルビア内のコソボ・メトヒヤ自治州がコソボ共和国として事実上独立状態にある。.

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セルビア人

ルビア人(セルビア語:Срби / Srbi)は、主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人・ボシュニャク人(ボスニア人)とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。.

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セルビア王国 (近代)

ルビア王国(セルビアおうこく)は、1882年から1918年にかけてバルカン半島に存在した国家。前身は1817年成立のセルビア公国。第一次世界大戦によるオーストリア=ハンガリー帝国の崩壊後、1918年成立のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に発展する形で消滅した。首都はベオグラード。.

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セルビア語

ルビア語(セルビアご、српски језик/srpski jezik)は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群の言語。.

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セルビア救国政府

ルビア救国政府(セルビアきゅうこくせいふ、セルビア語:Влада Националног Спаса / Vlada Nacionalnog Spasa)は、第二次世界大戦時、ユーゴスラビア王国にナチス・ドイツが侵攻したユーゴスラビア侵攻の後、ナチス・ドイツによって1941年に設置された、ナチス・ドイツの傀儡政権であるTomasević, Jozo.

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サラエボ事件

ラエボ事件(サラエボじけん、サラエヴォ事件、サライェヴォ事件)は、1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の皇帝・国王の継承者フランツ・フェルディナントとその妻ゾフィーが、サラエボ(当時オーストリア領、現ボスニア・ヘルツェゴビナ領)を視察中、ボスニア出身のの青年ガヴリロ・プリンツィプによって暗殺された事件。この事件がきっかけとなって第一次世界大戦が開戦した。.

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サン・ステファノ条約

ン・ステファノ条約によるブルガリアの領域 サン・ステファノ条約(サン・ステファノじょうやく)は、1878年の露土戦争の講和条約。イスタンブール西方の村・において1878年3月3日にロシア帝国とオスマン帝国のあいだで結ばれた。 この条約によって、オスマン帝国は多額の賠償金とともに、.

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サンジャク (地名)

ンジャク(セルビア語:Санџак/Sandžak、ボスニア語:Sandžak、アルバニア語:Sanxhak/Sanxhaku、トルコ語:Sancak)、またはラシュカ(セルビア語:Рашка/Raška)はセルビアとモンテネグロの国境にまたがって広がる地域の名称。イスラム教徒、ボシュニャク人が多い地域として知られる。その名称は1912年のバルカン戦争までこの地を支配したオスマン帝国の地域区分であるイェニ・パザル・サンジャク(Yeni Pazar sancağı、イェニ・パザル・サンジャイ、意味はノヴィ・パザル県、en)に由来する。 なお、イスラム教徒の南西スラヴ人を主体とするボシュニャク人という民族自認は主にボスニア・ヘルツェゴビナ成立後に始まったものであるが、本項ではボスニア・ヘルツェゴビナ成立以前の歴史的な記述においては、イスラム教徒の南西スラヴ人を表す「ボシュニャク人」の呼称は断りなく使用する。.

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内部マケドニア革命組織

ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会の規則の抜粋。(1896年)bg icon '''ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会の規則''' '''第1章 - 目的''' ''第1項 ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会の目的はマケドニア・アドリアノープル地域における全ての政治的自治権を保障することである。'' ''第2項 この目的を達成するため、委員会は第1項にかかげた地域におけるブルガリア人の自衛に対する意識を高め、口頭または書面を通じて革命思想を広め、武装蜂起を準備し、促す。'' '''第2章 - 組織と構成''' ''第3項 ブルガリア・マケドニア・アドリアノープル革命委員会の構成員になれるのはブルガリア人であり、性別の区別なく…'' マケドニア・アドリアノープル秘密革命組織の規則の抜粋(1902年)bg icon '''マケドニア・アドリアノープル秘密革命組織の規則''' '''第1章 - 目的''' ''第1項 マケドニア・アドリアノープル秘密革命組織は、マケドニア・アドリアノープル地域における全ての不満要因を糾合し、民族の別に関わらず、革命を通じて、全ての政治的自治権を勝ち取る目的を有する。'' ''第2項 前記の目的を達成するために組織は、マケドニア・アドレアノープルの人民を分断し共通の敵との戦いを阻害する狂信的愛国主義プロパガンダを否定し、革命心と自覚を人民の間に持ち込み、一般的かつ世界的な覚醒のために必要な全てを持った人民による、時宜を得た来るべき闘争のあらゆる努力と手段を利用する。'' '''第2章 組織と構成''' ''第3項 マケドニア・アドリアノープル秘密革命組織は、地元の町や村で構成されている地域の革命組織によって構成される。'' ''第4項 マケドニア・アドリアノープル秘密革命組織の構成員になれるのは、全てのマケドニア人、アドリアノープル人であり、…'' 内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の規則の抜粋(1906年) bg icon '''内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の規則(1906年の通常会議により改定)''' '''第1章 目的''' ''第1項 内部マケドニア・アドリアノープル革命組織の目的は、民族の区別なくマケドニアおよびアドリアノープル州におけるあらゆるすべての不満要因を糾合し、これらの地域における政治的自治権を獲得することである。'' ''第2章 組織はこれらの地域を分割し支配しようとするあらゆる他国の動きに反対する。'' '''第2章 手段''' ''第3項 前記の目的を達成するために組織は、地域を分断し弱らしめる民族主義的議論および狂信的愛国主義の廃絶を目指し、… 内部マケドニア革命組織(ないぶマケドニアかくめいそしき、ブルガリア語:Вътрешна македонска революционна организация, ВМРО、ラテン文字転写:Vatreshna Makedonska Revoliucionna Organizacia、マケドニア語:Внатрешна Македонска Револуционерна Организација, ВМРО、ラテン文字転写:Vnatreshna Makedonska Revolucionerna Organizacija)は、オスマン帝国の領土であったマケドニアおよびトラキア地方、並びにブルガリア、および1913年以降はセルビアおよびギリシャ領マケドニア地域でも活動した政治的革命組織。幾度か組織名を変更している(後述)。頭文字をとってVMRO(ВМРО)、またはその名称を英語に翻訳した「Internal Macedonian Revolutionary Organization」の頭文字をとってIMROとも通称される。 20世紀末以降のマケドニア共和国およびブルガリアには、「内部マケドニア革命組織」の名を冠した右派の政治組織が複数存在する(内部マケドニア革命組織・マケドニア国家統一民主党など)。これについてはそれぞれ別項を参照されたい。なお、本項で述べるアドリアノープルとはトルコのエディルネのことであり、ここではオスマン帝国時代に存在したエディルネを中心とするトラキア地方の州を表す(詳細はSubdivisions of the Ottoman Empireも参照)。.

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共和政ローマ

共和政ローマ(きょうわせいローマ)は、紀元前509年の王政打倒から、紀元前27年の帝政の開始までの期間の古代ローマを指す。 この時期のローマは、イタリア中部の都市国家から、地中海世界の全域を支配する巨大国家にまで飛躍的に成長した。帝政成立以後ではなく地中海にまたがる領域国家へと発展して以降を「ローマ帝国」と呼ぶ場合もある。また、1798年に樹立されたローマ共和国 (18世紀)、1849年に樹立されたローマ共和国 (19世紀)と区別するために「古代ローマ共和国」と呼ばれることもある。.

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第一次世界大戦

一次世界大戦(だいいちじせかいたいせん、World War I、略称WWI)は、1914年7月28日から1918年11月11日にかけて戦われた世界大戦である。.

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紀元前167年

紀元前167年は、ローマ暦の年である。.

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紀元前32年

紀元前32年。.

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総督

総督(そうとく)とは、以下のことを指す。.

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独裁政治

裁政治(どくさいせいじ)とは、一個人、少数者または一党派が絶対的な政治権力を独占して握る政治体制を指す。独裁制とも言う。.

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領有

有(りょうゆう)とは、領土などを自国、自分のものであるとすること。 特にこの領有という言葉は、自分のものであるという主張を意味し、領土編入の際、早い者勝ちというのが大半である。しかし、一番早く領有したとしても、領土問題に発展したり、あるいは紛争の大きな原因と指摘されている。条約などの取り決めによって領土が画定されていない時などの場合を言う。.

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講談社

株式会社講談社(こうだんしゃ、英称:Kodansha Ltd.)は、日本の総合出版社。創業者の野間清治の一族が経営する同族企業。.

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講談社文庫

講談社文庫(こうだんしゃぶんこ)は、株式会社講談社が発行している文庫レーベル。1971年に創刊された。広義では講談社学術文庫や講談社文芸文庫などを含む講談社から出されている文庫全体を指し、狭義では講談社文庫のみを指す。.

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露土戦争 (1877年-1878年)

露土戦争(ろとせんそう、1877年 - 1878年)は、ロシア帝国とオスマン帝国(トルコ)の間で起こった戦争のひとつ(他の露土戦争については、露土戦争を参照オスマン帝国とロシアの間の戦争はしばしば起こっているが、狭義の露土戦争はこの戦争のことをいう。『世界史を読む事典』(1994)p.117)。 バルカン半島に在住するオスマン帝国領下のスラヴ系諸民族がトルコ人の支配に対して反乱し、それを支援するかたちでロシアが介入して起こった『世界史を読む事典』(1994)p.117。ロシア帝国の勝利で終わった。 ルーマニアでは「ルーマニア独立戦争」、トルコではイスラームの暦年(ヒジュラ暦1293年)にちなんで「93年戦争 (Doksanüç Harbi)」、また「オスマン・ロシア戦争」とも呼ばれた。ギリシャ独立戦争に続いて、東ヨーロッパ諸国の独立回復のための重要な戦役となった。.

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NATOによるボスニア・ヘルツェゴビナ空爆 (1995年)

F-16C デリバリット・フォース作戦(デリバリット・フォースさくせん、Operation Deliberate Force)は、ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争の最中の1995年に北大西洋条約機構(NATO)加盟諸国が行った、ボスニア・ヘルツェゴビナのセルビア陸軍に対する空爆及びその防空作戦である。作戦は8月30日から9月20日の間に実行され、15カ国から400機の軍用機と5,000人の兵士が動員された。.

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NHKスペシャル

『NHKスペシャル』(エヌエイチケイスペシャル)は、NHKのドキュメンタリー番組。略称は「Nスペ」。単発のドキュメンタリーを制作・放送していたNHK特集に代わり、1989年4月2日放送開始。原則、毎週日曜日の21:00 - 21:50に放送するが時間枠を拡大したり他の曜日・時間に放送することもある。再放送は、火曜・水曜深夜。多くはハイビジョン放送である。 本項では前身である『NHK特集』(エヌエイチケイとくしゅう)についても記述する。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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正教会

Σημειώσεις από τις παραδόσεις τού καθηγητού Ι. Δ. Ζηζιούλαより)。 正教会(せいきょうかい、Ορθόδοξη Εκκλησία、Православие、Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。 日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来する。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている『正教会の手引き』8頁 - 11頁。 なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある。 例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである。 なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。.

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10年

記載なし。

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10月29日

10月29日(じゅうがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から302日目(閏年では303日目)にあたり、年末まであと63日ある。.

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10月6日

10月6日(じゅうがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から279日目(閏年では280日目)にあたり、年末まであと86日ある。.

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11月25日

11月25日(じゅういちがつにじゅうごにち)は、グレゴリオ暦で年始から329日目(閏年では330日目)にあたり、年末まであと36日ある。.

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11月29日

11月29日(じゅういちがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から333日目(閏年では334日目)にあたり、年末まであと32日ある。.

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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12月14日

12月14日(じゅうにがつじゅうよっか、じゅうにがつじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から348日目(閏年では349日目)にあたり、年末まであと17日ある。.

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12月1日

12月1日(じゅうにがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から335日目(閏年では336日目)にあたり、年末まであと30日ある。.

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1322年

記載なし。

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1377年

記載なし。

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1428年

記載なし。

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1463年

記載なし。

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14世紀

ナスル朝。イベリア半島最後のイスラム王朝であるこの王朝はすでに半島南端を占めるだけの小国となっていたが文化や芸術は最後の輝きを見せていた。画像はイスラム特有のアラベスクに彩られたアルハンブラ宮殿の「二姉妹の間」。 Gilles Le Muisitの年代記』の挿絵)。 エドワード3世率いるイングランド軍にフランス軍が大敗を喫した。画像はこの戦いを描いたジャン・フロワサールの『年代記』写本の挿絵。 ユダヤ人迫害。中世末期の不穏な情勢の中でスケープゴートとして標的にされたのがユダヤ人であった。画像は15世紀にまとめられた『ニュルンベルク年代記』の木版挿絵で、1338年に起きたバイエルン地方のデッゲンドルフでの「聖餅󠄀冒瀆」の罪により、生きながら火炙りにされたユダヤ人たちが描かれている。 カルマル同盟。デンマーク摂政(事実上の女王)マルグレーテ1世がデンマーク・ノルウェー・スウェーデンの三国を統合した。画像はロスキレ大聖堂に安置されたマルグレーテの石棺。 七選帝侯。神聖ローマ帝国では諸侯の分権化が強く選帝侯を味方につけることで帝権は維持された。やがてこの選出方法は金印勅書で法制化されることになる。 原初同盟は14世紀にはハプスブルク家との戦いに勝利し自立への道を踏み固めていった。画像は1315年のモルガルテンの戦いを描いたもの。 アヴィニョン教皇宮殿の正面入り口。 ダンテとベアトリーチェ。ダンテは地獄・煉獄・天国をまわる壮大な『神曲』を書いた詩人。画像は19世紀のヘンリー・ホリデーによるもの(ウォーカー・アート・ギャラリー蔵)。 シエナ。この街は黒死病の被害の影響が大きかったため景観が変化せず中世都市の面影を強く残した街となっている。画像はアンブロージョ・ロレンツェッティによるシエナのプブリコ宮殿(現シエナ市役所)九頭の間の壁画「善政の効果」。 セルビア人の帝国。ネマニッチ朝のステファン・ウロシュ4世ドゥシャンは東ローマ帝国を抑えバルカン最強の国家を樹立した。画像はウロシュ4世により創建されたコソボのデチャニ修道院にあるネマニッチ一族の系譜を描いたフレスコ画。 Codex Mendoza」。 後醍醐天皇。鎌倉幕府を亡ぼし建武の新政を行ったが、政権崩壊後には逃れて吉野に南朝を立てた。画像は清浄光寺所蔵の肖像画。 足利義満。室町幕府3代将軍で南北朝の統一を行い、将軍位を息子義持に譲ってからも法体で実際の政治を握っていた。画像は鹿苑寺所蔵の肖像画。 西アフリカのマリ王国の王マンサ・ムーサ。イスラム教徒としてメッカに巡礼に向かう旅路で黄金を惜しみなく使った逸話で知られる。 Baptistère de Saint Louis」。フランス歴代国王が実際に用いた洗礼盤だが、聖王ルイの時代より正確には半世紀ほど後のもので、マムルーク朝時代のエジプトまたはシリアで作られたイスラム工芸を代表する名品。現在はルーヴル美術館が所蔵している。 歴史家ラシードゥッディーン。その当時の知られていた世界の歴史を『集史』としてまとめ上げた。画像は彼が仕えたイル・ハン国の君主ガザンとオルジェイトゥの兄弟を描いた『集史』の挿絵。 草原の英雄ティムール。モンゴル帝国の分裂後の中央アジア・西アジアはティムールによって統一された。画像は1370年のバルフ包囲戦を描いたホーンダミール『清浄園』の16世紀の写本の挿絵。 ハンピ)のヴィルーパークシャ寺院。 チベット仏教の改革者ツォンカパ。綱紀粛正に努め左道密教を退けて現在のダライラマに連なるゲルク派(黄帽派)を大成した。 青花の誕生。元朝後期に西アジア産のコバルト顔料を用いて白磁に紋様を描く青花(染付)の技法が開発された。画像はこの世紀に造られた「青花魚藻文壺(ブルックリン美術館蔵)」。 明の洪武帝朱元璋。モンゴル人の元朝を北方に追いやり、漢民族の王朝を復興した。画像は洪武帝の肖像画(台北国立故宮博物院蔵)。 14世紀(じゅうよんせいき)は、西暦1301年から西暦1400年までの100年間を指す世紀。.

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1804年

記載なし。

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1809年

記載なし。

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1831年

記載なし。

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1875年

記載なし。

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1878年

記載なし。

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1908年

記載なし。

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1910年

記載なし。

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1912年

記載なし。

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1913年

記載なし。

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1914年

記載なし。

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1918年

記載なし。

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1921年

記載なし。

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1928年

記載なし。

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1929年

記載なし。

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1934年

記載なし。

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1939年

記載なし。

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1941年

記載なし。

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1943年

記載なし。

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1944年

記載なし。

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1945年

この年に第二次世界大戦が終結したため、世界史の大きな転換点となった年である。.

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1946年

記載なし。

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1963年

記載なし。

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1990年

この項目では、国際的な視点に基づいた1990年について記載する。.

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1991年

この項目では、国際的な視点に基づいた1991年について記載する。.

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1992年

この項目では、国際的な視点に基づいた1992年について記載する。.

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1994年

この項目では、国際的な視点に基づいた1994年について記載する。.

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1995年

この項目では、国際的な視点に基づいた1995年について記載する。.

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1月1日

1月1日(いちがつついたち)はグレゴリオ暦で年始から1日目に当たり、年末まであと364日(閏年では365日)ある。誕生花は松(黒松)、または福寿草。 キリスト教においては生後8日目のイエス・キリストが割礼と命名を受けた日として伝えられる。.

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4月10日

4月10日(しがつとおか)はグレゴリオ暦で年始から100日目(閏年では101日目)にあたり、年末まではあと265日ある。誕生花はチューリップ、ベニバナアセビ。.

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4月11日

4月11日(しがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から101日目(閏年では102日目)にあたり、年末まではあと264日ある。誕生花はヤグルマギク、クンシラン。.

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4月1日

4月1日(しがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から91日目(閏年では92日目)にあたり、年末まであと274日ある。誕生花はカスミソウ、クロッカス。 日本や一部の国では4月1日は会計年度・学校年度の初日である。この日は政府機関、企業などで多くの制度の変更、新設、発足が行われ、異動や新入学など大きな変化が起こる日である。.

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4月26日

4月26日(しがつにじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から116日目(閏年では117日目)にあたり、年末まではあと249日ある。この日には地球が元日の時から2天文単位(地球の公転軌道の直径分)動いたことになる。誕生花はスカビオサ、ミヤコワスレ。.

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4月6日

4月6日(しがつむいか)はグレゴリオ暦で年始から96日目(閏年では97日目)にあたり、年末まであと269日ある。誕生花はナスタチウム、スオウバナ。.

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6世紀

地中海の再統一。画像はラヴェンナのサン・ヴィターレ聖堂の東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世と随臣のモザイク。 Cabinet des Médailles所蔵のもの。 無明時代のアラビア語詩人たち。イスラム教勃興直前のこの時代にアラビアでは優れた詩人たちが活躍した。画像はその代表的な詩人アンタラ・イブン・シャッダードの細密画で、勇猛な戦士の姿で描いている。 前期チャールキヤ朝。デカン地方から南インドに展開した王朝で都はバーダーミにあった。画像はキールティヴァルマン1世の弟マンガレーシャにより建立されたバーダーミのヒンドゥー教石窟寺院第3窟でヴィシュヌ神の像が安置されている。 禅宗の祖師達磨。仏教の保護者として有名な梁の武帝との問答でも知られるが、経歴に不明な点も多い。画像は雪舟等楊の「慧可断臂図」(愛知県常滑市斉年寺蔵)。 建康。現在の南京であるこの地は中国南朝の歴代の都となり、貴族による文化が花開いた。画像は南京にある梁の武帝の異母弟蕭恢の墓を守る辟邪の石刻。 文帝。南北朝時代を終わらせて300余年ぶりに中国を統一し、「開皇の治」と呼ばれる安定期をもたらした。 関東の人物埴輪。6世紀に畿内での埴輪作成は減少するが、関東では最盛期を迎える。画像は「国宝武装男子立像(群馬県太田市出土)」で東京国立博物館蔵となっている。 東ゴート王国の盛衰。オドアケルを倒した東ゴート王テオドリックのもとイタリアはつかの間の平和を享受した。やがてこの国は6世紀半ばには東ローマ帝国の膝下に屈服することになる。画像はラヴェンナにあるテオドリック廟。 『ロッサーノの福音書』。古代末期の混乱で散逸した写本は数知れないが、この福音書は『ウィーン創世記』や『シノペの福音書』と並び現存するこの世紀に造られた数少ない写本で、「コデックス・プルプレウス」という紫染めの羊皮紙を用いた豪華なものである。 コプト織でエジプトで熱心に崇敬された「神の母(テオトコス)」がデザインされている。 6世紀(ろくせいき)とは、西暦501年から西暦600年までの100年間を指す世紀。.

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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7月13日

7月13日(しちがつじゅうさんにち)は、グレゴリオ暦で年始から194日目(閏年では195日目)にあたり、年末まであと171日ある。誕生花はホテイアオイ、ニチニチソウ。.

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7月22日

7月22日(しちがつにじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から203日目(閏年では204日目)にあたり、年末まであと162日ある。誕生花はペチュニア、ナツツバキ。.

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8月30日

8月30日(はちがつさんじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から242日目(閏年では243日目)にあたり、年末まであと123日ある。.

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8月8日

8月8日(はちがつようか)はグレゴリオ暦で年始から220日目(閏年では221日目)にあたり、年末まではあと145日ある。.

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9月20日

9月20日(くがつはつか、くがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から263日目(閏年では264日目)にあたり、年末まであと102日ある。.

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