ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

クビライ (バルラス部)

索引 クビライ (バルラス部)

ビライ(Qubilai、 生没年不詳)は、モンゴル帝国初期の将軍で、四狗と呼ばれるチンギス・カンの功臣のひとり。漢字表記は忽必来、虎必来など。貴人を意味する「ノヤン」の称号を付してクビライ・ノヤンとも呼ばれる。のちのモンゴル帝国の第5代ハーンで元の世祖となったクビライとは同名異人。 バルラス部の人で、チンギス・カンが盟友のジャムカと決別した後に兄弟のクドゥスと共にその幕下に投じ来たり、僚友(ノコル)に加わった。チンギスの創業を描く歴史物語『元朝秘史』は、クビライが人並み外れた腕力を持ち、勇猛であったと伝える。 チンギスのモンゴル高原統一に至る諸戦では常に先鋒に立って戦い、「四匹の狗」のひとりとして勇名を馳せた『モンゴル秘史 1 チンギス・カン物語』、226頁。特に1204年に行われたナイマン部のタヤン・ハンとの決戦ではジェベ、ジェルメ、スブタイとともに先鋒を務めて戦功をあげた。 1206年のチンギス・カン第二次即位時の功臣表では第8位に数えられ、千人隊長(千戸長)に任ぜられた。モンゴル帝国を構成する95個の千人隊(千戸)遊牧民集団のひとつを領する貴族となった。また、チンギスによって抜群の功績を賞せられて軍務を統括する役割を与えられたとされる。チンギスの中央アジア攻略ではチンギスの遠征に先立って北部のカルルク部族を討ち、オアシス都市群を服属させる戦功をあげた志茂碩敏『モンゴル帝国史研究正篇』(東京大学出版会, 2013年6月)、660頁。 のち、チンギスが高齢になってから設けた庶子コルゲンの王傅に任ぜられ、コルゲンに分封された四千戸(4個千人隊)のうちの千人隊長となった。クビライの子孫は、元朝のテムル・ハーンに仕えた。.

27 関係: 中央アジア平凡社ナイマンノコルチンギス・カンハーンバルラスモンゴル帝国モンゴル高原テムルオアシスカルルククビライコルゲン (モンゴル帝国)ジャムカジェルメジェベスブタイタヤン・カン元 (王朝)元史元朝秘史四駿四狗遊牧民集史1204年1206年

中央アジア

東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)と中央アジア · 続きを見る »

平凡社

株式会社平凡社(へいぼんしゃ)は、日本の出版社。百科事典の出版社として有名で、多様な一般書のほか岩波書店、筑摩書房と並んで学術・教養性の強い出版物を多く刊行する。現在も継続刊行中の東洋文庫(1963年創刊)、『別冊 太陽』(1972年創刊)などは歴史が古い。社名の「平」の字は、厳密には二つの点が末広がりになった旧字体「」を用いる(大正末期創業のため)。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)と平凡社 · 続きを見る »

ナイマン

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ナイマン(、Naiman)は、モンゴル帝国成立以前の時代にモンゴル高原西北部のイルティシュ川低地地域から上流地域、アルタイ山脈に掛けて割拠していたテュルク系遊牧民で、後にモンゴル化した部族集団。漢字表記は『元史』『元朝秘史』では乃蠻。『集史』などのペルシア語表記では نايمان Nāyimān として現れる。西はジュンガル盆地の沙漠地域を挟んで天山ウイグル王国と隣接し、北は小アルタイ山脈をもってケム・ケムジュート地方およびキルギズと、東ではカラコルム山脈をもってケレイトと隣接していた。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とナイマン · 続きを見る »

ノコル

ノコル()とは中世モンゴルにおいて「僚友」を意味した言葉。本来的な意味は僚友/友人であったが、モンゴル帝国の建国期には「領主個人に忠誠を誓う家臣」といったニュアンスで用いられた。 チンギス・カンが建国したモンゴル帝国ではこの「ノコル」たちが帝国の中枢を担い、その子孫は帝国の貴族層を構成したため、モンゴル帝国の後継国家において「ノコル」は「チンギス・カン一門に仕える譜代の御家人」といったニュアンスで用いられるようになった。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とノコル · 続きを見る »

チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とチンギス・カン · 続きを見る »

ハーン

ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とハーン · 続きを見る »

バルラス

バルラス(Barlas)は、中央ユーラシアで活動した部族集団。漢語表記は『元史』では八魯剌思、『元朝秘史』では把舌魯剌、把舌魯剌思。『集史』などのペルシア語表記では برلاس Barlās 。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とバルラス · 続きを見る »

モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とモンゴル帝国 · 続きを見る »

モンゴル高原

モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とモンゴル高原 · 続きを見る »

テムル

テムル(モンゴル語:、Temür、漢字:鐵穆耳、1265年10月15日 - 1307年2月10日)は、モンゴル帝国の第6代、大元ウルスの君主としては第2代の大ハーン。『集史』などのペルシア語表記では تيمور قاآن Tīmūr Qā'ān。テムルはモンゴル語で「鉄」を意味する名前で、ペルシャ語などのティムールに通じる。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とテムル · 続きを見る »

オアシス

アシス(リビア) オアシス(英語:Oasis)とは砂漠・ステップなど乾燥地域における緑地。英語読みはオウエイスィス。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とオアシス · 続きを見る »

カルルク

ルルク(古代テュルク語:12px12px12px12px、Qarluq)とは、7世紀から12世紀にわたってジュンガル盆地やイリ地方に存在したテュルク系遊牧民。中国史書では歌邏禄,葛邏禄,葛禄と記し、ペルシャ語ではخَلُّخ (Khallokh)、アラブ語では قارلوق (Qarluq)と記された。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とカルルク · 続きを見る »

クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とクビライ · 続きを見る »

コルゲン (モンゴル帝国)

ルゲン(Kölgen, Хүлгэн、? - 1238年)は、13世紀前半のモンゴル帝国の皇族。チンギス・カンの子のひとりで、母はチンギス・カンの第二皇后(ハトゥン)であったクラン。『元史』などの漢文史料では闊列堅、果魯干、闊列堅太子。『集史』などのペルシア語史料では كولاكان Kūlākān と記される。『元朝秘史』には記述されていない人物である。『元史』宗室世系表ではチンギス・カンの男子をボルテから出世したジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイを含めて6名挙げているが、コルゲンは六男としている。五男として挙げている兀魯赤が「無嗣」としており、『集史』やその系統の『五族譜』『高貴系譜』といった系図資料でも、他の男児たちは「夭折したか子孫を残さなかったか」などのことが述べられており、チンギス・カンの男系子孫はジョチ、チャガタイ、オゴデイ、トルイにコルゲンを加えた5系統しか記録していない。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とコルゲン (モンゴル帝国) · 続きを見る »

ジャムカ

ャムカ(Jamuqa, ? - 1205年)は、モンゴル帝国以前のモンゴル部の首長のひとり。グル・カンと称する。同じくモンゴル部の首長から成長してモンゴル高原を統一し、モンゴル帝国を開いたテムジン(後のチンギス・カン)と対立し、滅ぼされた。歴史の敗残者であるが、チンギス・カンの盟友およびライバルとして、諸書において非常に高く評価されている。日本語表記ではジャムハとも記される。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とジャムカ · 続きを見る »

ジェルメ

ェルメ(Jelme、生没年不詳)は、モンゴル帝国の貴族。ウリャンカイ部の出身。『集史』などでは جَلمه اوهَه Jalma Ūha、漢語史料では『元朝秘史』では者勒蔑、者勒蔑豁阿、『元史』では折里麦、済拉瑪などと表記される。『集史』などに現れる「ウハ」(Ūha)は「ならず者」「追剥」「勇者」を意味する志茂『モンゴル帝国史研究正篇』、618頁。 四狗と呼ばれるチンギス・カンの功臣の一人に数えられる。チンギスの親衛隊長を務め、モンゴル帝国に仕える僚友(ノコル)の中でも特に高い地位にあった。チンギス・カンと同い年であったといわれる。四狗の一人である、スブタイは弟。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とジェルメ · 続きを見る »

ジェベ

ェベ(モンゴル語: Jebe、? - 1224年『新元史』巻123、列伝第20もしくは1225年村上「ジェベ」『アジア歴史事典』4巻、118頁)は、モンゴル帝国の初代皇帝(大ハーン)であるチンギス・カンの家臣。ベスト(ベスート)氏族の出身で、はじめタイチウト氏に属する隷属民だった。『元朝秘史』では者別、『元史』では哲別などと漢語表記され、『集史』などのペルシア語資料では جبه نويان Jebe Nūyān と表記される。書籍によってはジュベとも表記される。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とジェベ · 続きを見る »

スブタイ

ブタイ スブタイ(スベエデイ、Sübe'edei/Sübütei、1176年 - 1248年)は、モンゴル帝国の軍人。ウリャンカイ部の出身。漢文では「速別額台」(スベエデイ)や「速不台」「雪不台」(スブタイ)とも表記され、ペルシア語資料では سوبداى بهادر Sūbdā'ī bahādur として表れる。名前に含まれるSübe'eは「脇腹」を意味する『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』1、229-230頁。 同じチンギス・カン配下の軍人であるジェベ、ジェルメ、クビライ・ノヤンらとともに、「四狗」の一人に数えられる。ジェルメの弟。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とスブタイ · 続きを見る »

タヤン・カン

タヤン・カン(Tayang Qan, 生年不詳 - 1204年)は、モンゴル高原西部の遊牧部族連合ナイマンの最後のカン(Qan)。漢字表記は塔陽罕、太陽可汗、泰陽罕、『集史』などのペルシア語表記では تايانك خان Tāyānk khān (ターヤーン・ハーン)と表記される。実名はタイ・ブカ(Tai Buqa 脱兒魯黒)。父はイナンチュ・ビルゲ・ブク・カン、母および妻はグルベス。子は西遼の王となったクチュルク。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)とタヤン・カン · 続きを見る »

元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)と元 (王朝) · 続きを見る »

元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)と元史 · 続きを見る »

元朝秘史

『元朝秘史』(げんちょうひし)は、中世モンゴルの歴史書。『モンゴル秘史』と呼ばれることもある。チンギス・カンの一代記を中核に、その族祖伝承から後継者オゴデイの治世の途中までの歴史が記されている。作者は不明。成立年は諸説あるが、13世紀中とする見解が主流である一方、14世紀前半であるとする説得力ある仮説も存在する(後述)。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)と元朝秘史 · 続きを見る »

四駿四狗

四駿四狗(ししゅんしく)とは、モンゴル帝国の建築者チンギス・カンに仕え、モンゴルの歴史を記した年代記『元朝秘史』において、「4頭の駿馬・4匹の狗」(dörben külü'üd, dörben noγas)と讃えられた、チンギス・カンの優秀な8人の最側近のことである。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)と四駿四狗 · 続きを見る »

遊牧民

遊牧民族のサーミ人 遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)と遊牧民 · 続きを見る »

集史

『集史』(しゅうし、جامع‌التواریخ. Jāmi` al-Tavārīkh、جامع التواريخ. Jāmi` al-Tawārīkh)は、イルハン朝の第7代君主ガザン・ハンの勅命(ヤルリグ)によってその宰相であったラシードゥッディーンを中心に編纂された歴史書である。イラン・イスラム世界、さらに言えばモンゴル君主ガザン自身の視点が反映されたモンゴル帝国の発祥と発展を記した記録として極めて重要な文献である。 モンゴル史部分の編纂には、ガザン自身も多くの情報を口述しこれがモンゴル史の根本となったことはラシードゥッディーンも序文で述べているが、これらのことからも『集史』はガザン自身の見解が色濃く反映された歴史書である。その性格のため『集史』はペルシア語で編纂された歴史書であるが、13、14世紀のモンゴル語やテュルク語やその他の多言語の語彙・用語を多く含み、そのペルシア語の用語も多く含まれている。このため『集史』は、モンゴル帝国が持つユーラシア規模の世界性をまさに体現した希有の資料と評されている。 ペルシア語で書かれたものであるが、タイトルである Jāmi` al-Tawārīkh はアラビア語で「諸々の歴史を集めたもの」を意味し、日本語では『集史』と翻訳されている。ちなみにロシアの東洋学者ベレジンによる校訂本に基づいたモンゴル史までの中国語訳があるが、この題は『史集』と訳されている。.

新しい!!: クビライ (バルラス部)と集史 · 続きを見る »

1204年

記載なし。

新しい!!: クビライ (バルラス部)と1204年 · 続きを見る »

1206年

記載なし。

新しい!!: クビライ (バルラス部)と1206年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

忽必来

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »