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四駿四狗

索引 四駿四狗

四駿四狗(ししゅんしく)とは、モンゴル帝国の建築者チンギス・カンに仕え、モンゴルの歴史を記した年代記『元朝秘史』において、「4頭の駿馬・4匹の狗」(dörben külü'üd, dörben noγas)と讃えられた、チンギス・カンの優秀な8人の最側近のことである。.

35 関係: 完顔陳和尚中央アジア中国ナイマンチンギス・カンハーンバルラスバトゥモンケモンゴル帝国モンゴル高原ルーシロシアホラズムホラズム・シャー朝ホエルンアラーウッディーン・ムハンマドイランカルルクキプチャク草原クチュルククビライコーカサスジョージア (国)スブタイタイチウト氏元 (王朝)元史元朝秘史西遼金 (王朝)懐刀1206年1217年1218年

完顔陳和尚

完顔 陳和尚(かんがん ちんわしょう、1192年 - 1232年)は、中国、金末の軍人。諱は彝、字は良佐だが、小字(幼名)の陳和尚に姓の完顔を付した名前で知られている。ウイグル、ナイマン、羌、漢人など、モンゴルの支配を避けて金に逃げ込んできた亡命者を集めて忠孝軍と名づけた軍団を編成し、混成部隊をよく統率してモンゴル軍との戦いに活躍した。 陳和尚は豊州(現在の内モンゴル自治区)の出身で、父の乞哥は1206年の南宋との戦いに参加して戦死した。金に侵攻したモンゴル帝国が首都の中都(現在の北京)を攻略した1215年頃、20歳ほどだった陳和尚はモンゴル軍に捕えられたが、モンゴルの将軍に気に入られて側近に仕え、北方で数年暮らした。のちにモンゴルによって母が留まっている故郷の豊州に赴いたとき、陳和尚の母とともに豊州にいた従兄の斜烈とともにモンゴル人の監督官を殺害し、母を連れ出して黄河を渡り、南遷した金の都開封に逃走した。これを喜んだ宣宗が斜烈を将軍に取り立てると、陳和尚も従兄にしたがって軍職についた。1225年、斜烈が病中に代理で軍中の裁判を行い、従兄の部下を鞭打ちして死に追いやったことから私憤により不法に越権を行ったと訴えられ、獄に繋がれた。1年半後、斜烈が病没すると、これを惜しんだ哀宗は陳和尚を釈放させ、軍務に復職させた。 1228年、モンゴル軍が侵入してくると陳和尚は自ら望んで先鋒となり、400騎をもって8000の敵を破った。モンゴル軍の侵攻がはじまってからの20年でかつてなかった大勝利の立役者となった陳和尚はこの功績により定遠大将軍、平涼府判官を授けられ、一躍天下に勇名を轟かせて滅亡寸前の金の英雄となった。陳和尚率いる忠孝軍は常に戦いで先鋒を務め、河南・陝西を転戦して連戦連勝した。とくに1231年には倒回谷の戦いで大勝をおさめ、禦侮中郎将に昇った。 しかし、陳和尚の活躍にもかかわらず、1230年から始まったモンゴル帝国の大ハーン、オゴデイ自身が総司令官となって行われた第二次対金戦争によって金は黄河南岸のわずかな領土に追い詰められた。1232年1月(ユリウス暦では1231年末)、開封西南方での三峰山の戦いで、陳和尚も参加する金軍の主力15万の大軍はオゴデイの弟トルイ率いるモンゴルの別働隊に大敗し、鈞州城に逃げ込んだ。さらに鈞州城が破られると陳和尚は逃走したが、逃げ切れないことを悟ってモンゴル軍の陣に赴き、自ら忠孝軍の総領陳和尚であると名乗って処刑された。のちにモンゴルの元王朝が編纂した金の歴史書『金史』は、陳和尚は刑死するにあたっても堂々とした態度であったのでモンゴル軍に感嘆されたと伝えている。 ちんわしよう Category:金代の人物 Category:刑死した人物 Category:1192年生 Category:1232年没.

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中央アジア

東南アジア 中央アジアのいくつかの定義。狭い順に濃茶: ソ連の定義+茶: 現代的な定義+淡茶: UNESCOの定義 中央アジアの位置 中央アジア(ちゅうおうアジア)は、ユーラシア大陸またアジア中央部の内陸地域である。18世紀から19世紀にかけては一般にトルキスタンを指したが、現在でも使用される。トルキスタンとは「テュルクの土地」を意味し、テュルク(突厥他)系民族が居住しており、西トルキスタンと東トルキスタンの東西に分割している。 西トルキスタンには、旧ソ連諸国のうちカザフスタン、キルギス、タジキスタン、トルクメニスタン、ウズベキスタンの5か国が含まれる(以下、中央アジア5か国と記す)。 東トルキスタンは中華民国に併合されて以降、新疆省と成り、中華人民共和国に併合されて以降は新疆ウイグル自治区と成った。中国領トルキスタン、ウイグルスタンともいう。 広義には、「アジアの中央部」を意味し、東西トルキスタンのほか、カザフステップ、ジュンガル盆地、チベット、モンゴル高原、アフガニスタン北部、イラン東部、南ロシア草原を含む。UNESCOはトルキスタン以外にも、モンゴル地域、チベット地域、アフガニスタン、イラン北東部、パキスタン北部、インド北部、ロシアのシベリア南部などを中央アジア概念の中に含めている。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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ナイマン

13世紀の東アジア諸国と北方諸民族。 ナイマン(、Naiman)は、モンゴル帝国成立以前の時代にモンゴル高原西北部のイルティシュ川低地地域から上流地域、アルタイ山脈に掛けて割拠していたテュルク系遊牧民で、後にモンゴル化した部族集団。漢字表記は『元史』『元朝秘史』では乃蠻。『集史』などのペルシア語表記では نايمان Nāyimān として現れる。西はジュンガル盆地の沙漠地域を挟んで天山ウイグル王国と隣接し、北は小アルタイ山脈をもってケム・ケムジュート地方およびキルギズと、東ではカラコルム山脈をもってケレイトと隣接していた。.

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チンギス・カン

チンギス・カン(モンゴル語:、キリル文字:Чингис хаан、ラテン文字化:Činggis Qan または Činggis Qa'an、漢字:成吉思汗、1162年5月31日 - 1227年8月25日)は、モンゴル帝国の初代皇帝(在位:1206年 - 1227年)。 大小様々な集団に分かれてお互いに抗争していたモンゴルの遊牧民諸部族を一代で統一し、中国・中央アジア・イラン・東ヨーロッパなどを次々に征服し、最終的には当時の世界人口の半数以上を統治するに到る人類史上最大規模の世界帝国であるモンゴル帝国の基盤を築き上げた。 死後その帝国は百数十年を経て解体されたが、その影響は中央ユーラシアにおいて生き続け、遊牧民の偉大な英雄として賞賛された。特に故国モンゴルにおいては神と崇められ、現在のモンゴル国において国家創建の英雄として称えられている一般的に1162年説が流布しているが、これは『元史』太祖本紀などに「(太祖二十二年)秋七月壬午、不豫。己丑、崩于薩里川哈老徒之行宮。(中略)壽六十六。」とあり(太祖二十二年秋七月己丑=1227年8月25日)、ここから逆算したものである。1155年説については、主にイルハン朝でガザン、オルジェイトゥの勅命によって編纂された『集史』などに基づくもので、同書「チンギス・ハン紀」では「彼の誕生した時は、ブタの年(亥年)であるヒジュラ暦549年であり、ズー=ル=カアダ月に起きたことであった」" az waqt-i walādat-i ū az ibtidā'-yi Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast, muwāfiq-i shuwūr-i sanna-yi tis`a wa arba`īna wa khamsa-mi'a Hijrī ki dar māh-i Dhī al-Qa`da wāqi` shuda …(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.309)"(1155年1月6日 - 2月4日)とあり、『元朝秘史』と同じくこれが父イェスゲイによるタタル部族への遠征とその首長コリ・ブカ(Qūrī Būqā)とテムジン・ウゲ(Tamūjīn Ūka)捕縛の年であったことが説明されている(Rashīd/Rawshan, vol.1, p.310)。また没年も「ブタの年(Qāqā yīl ki sāl-i Khāk ast)」であり「彼の生涯は72年間であり、73年目に逝去した」"muddat-i `umr-i ū haftād u du sāl būda, wa dar sāl-i haftād u siyyum wafāt yāfta." とあり、生没年が同じ「ブタの年」であったと述べる(没年である1227年は実際に丁亥年である)。『集史』の後に編纂されたイルハン朝時代の他の歴史書でもこの生年の情報は踏襲されたようで、例えば『バナーカティー史』(アブー・サイード即位の1317年まで記述)では「ブタの年であるヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月」(1155年1月6日 - 2月5日)、同じくムスタウフィー・カズヴィーニーの『選史』(1330年)ではもう少し詳しく「ヒジュラ暦549年ズー=ル=カアダ月20日」(1155年1月25日)とする。一方、1167年については、『聖武親征録』諸本のひとつに1226年(丙戌年)の記事において「上年六十」とするものがあることから(王国維の校訂では「六十五」に改める)ここから逆算してこの年時としている。他の資料の年代としては、1221年にムカリ国王の宮廷を訪れた南宋の使節、珙の撰(王国維の研究により著者は趙珙と校正された)による『蒙韃備録』では「今成吉思皇帝者甲戌生彼俗…」とあり、甲戌、すなわち1154年とする。このようにチンギス・カンの生年の年代については資料によって様々であり、多くの学説が立てられ現在でも結論が出ていない。元朝末期の陶宗儀編『南村輟耕録』において元朝末から明朝初の文人・楊維禎(1296年 - 1370年)の言として「太祖の生年は宋の太祖の生年である丁亥と干支を同じくする」(四部叢刊本 第三巻 「正統辯」 第六葉「宋祖生于丁亥而建國于庚申。我太祖之降年與建國之年亦同…」)というようなことを述べており、清朝末期の学者洪鈞は丁亥年すなわち1167年ではなく乙亥年の誤り、つまり、『集史』その他の西方資料にあらわれるものと同じ1155年に比定する説を唱えた。この説は『新元史』の著者忞(かしょうびん)や『蒙兀児史記』の著者屠寄など当時の学者たちの賛同を得た。しかし、フランスの東洋学者ポール・ペリオは、それならばこの場合、楊維禎の言に従い丁亥年すなわち1167年とした方が良く、この丁亥年説であればチンギスの生涯における諸事件の年月日とよく合致し、チンギス・カンは1167年に生まれ、1227年に60歳、『聖武親征録』のいう数え年61歳で死んだと考えた方が妥当であろう、と述べている。『元朝秘史』には生年についての情報は載っていない。。.

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ハーン

ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.

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バルラス

バルラス(Barlas)は、中央ユーラシアで活動した部族集団。漢語表記は『元史』では八魯剌思、『元朝秘史』では把舌魯剌、把舌魯剌思。『集史』などのペルシア語表記では برلاس Barlās 。.

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バトゥ

バトゥ (Batu, 1207年 - 1256年) は、ジョチ家の2代目(ハン:在位1225年 - 1256年)で、キプチャク・ハン国(ジョチ・ウルス)の実質的な創設者。チンギス・カンの長男ジョチの次男である。漢語では抜都、巴禿、八都罕。ペルシア語ではباتو bātūと書かれる。カナ表記ではバツ、バト。.

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モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、大ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān) 。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で「永遠」を意味する。チンギス・ハーンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。.

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モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

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モンゴル高原

モンゴル高原(モンゴルこうげん)は、東アジアの北に位置する内陸の高原地帯で、モンゴル民族やテュルク系民族の居住地。モンゴル国とロシア極東の南部と中国の内モンゴル自治区をあわせた領域にほぼ一致する。漢語では蒙古(もうこ)あるいは蒙古高原(もうここうげん)と言う。 標高およそ1000m前後の草原からなり、中央部は乾燥地帯(ゴビ砂漠)である。ゴビ砂漠を境目として、北部はモンゴル国にあり、外蒙古または漠北とも呼ばれ、南部は南モンゴル(内蒙古)あるいは漠南と呼ばれ、歴史的・政治的に2地域に分かれている。北部はサヤン山脈を境界としてシベリアに接する。降水量は少なく、寒暖差の激しい、厳しい気候である。 Category:中央ユーラシアの歴史的地域 Category:中国の高原 Category:モンゴル国の地形 Category:高原 Category:分割地域.

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ルーシ

ルーシとは、以下のようなものに用いられた名称である。.

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ロシア

ア連邦(ロシアれんぽう、Российская Федерация)、またはロシア (Россия) は、ユーラシア大陸北部にある共和制及び連邦制国家。.

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ホラズム

ホラズム(Xorazm)は、中央アジア西部に位置する歴史的地域。漢字では花剌子模と表記する。.

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ホラズム・シャー朝

ホラズム・シャー朝( Khwārazmshāhiyān フワーラズムシャーヒヤーン)は、アム川下流域ホラズムの地方政権として起こり、モンゴル帝国によって滅ぼされるまでに中央アジアからイラン高原に至る広大な領域支配を達成したイスラム王朝(1077年 - 1231年)。ホラズム朝、フワーラズム朝、コラズム朝とも呼ぶ。 ペルシア語でホラズム・シャーという王号をもつ君主を頂いた自立・半自立のホラズム王国はアラブ人の進入以前からイスラム化の変動を経つつもホラズムの支配者として興亡を繰り返してきたが、通例ホラズム・シャー朝と呼ばれるのは11世紀にセルジューク朝から自立した政権を指す。.

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ホエルン

ホエルン(ほえるん、)は、モンゴル帝国の創設者チンギス・カンの母親である。コンギラト部族のオルクヌウト氏族出身である。元朝から宣懿皇后と追諡される。.

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アラーウッディーン・ムハンマド

アラーウッディーン・ムハンマド(علاءالدين محمد ‘Alā' al-Dīn Muhammad, 1169年 - 1220年)は、ホラズム・シャー朝の第7代スルターン(在位:1200年 - 1220年)。.

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イラン

イラン・イスラム共和国(イラン・イスラムきょうわこく、جمهوری اسلامی ایران)、通称イランは、西アジア・中東のイスラム共和制国家。ペルシア、ペルシャともいう。北にアゼルバイジャン、アルメニア、トルクメニスタン、東にパキスタン、アフガニスタン、西にトルコ、イラクと境を接する。また、ペルシア湾をはさんでクウェート、サウジアラビア、バーレーン、カタール、アラブ首長国連邦に面する。首都はテヘラン。 1979年のルーホッラー・ホメイニー師によるイラン・イスラーム革命により、宗教上の最高指導者が国の最高権力を持つイスラム共和制を樹立しており、シーア派イスラームが国教である。世界有数の石油の産出地でもある。.

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カルルク

ルルク(古代テュルク語:12px12px12px12px、Qarluq)とは、7世紀から12世紀にわたってジュンガル盆地やイリ地方に存在したテュルク系遊牧民。中国史書では歌邏禄,葛邏禄,葛禄と記し、ペルシャ語ではخَلُّخ (Khallokh)、アラブ語では قارلوق (Qarluq)と記された。.

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キプチャク草原

プチャク(欽察)草原の範囲(カザフ語) キプチャク草原(キプチャクそうげん)は、中央ユーラシア西北部から東ヨーロッパ南部までの歴史的呼称。ペルシア語のダシュティ・キプチャーク(دشت قپچاق、Dasht-i Qipchāq)の訳語で、この地域に11世紀から13世紀にかけてテュルク系遊牧民キプチャク(別名クマン、コマン、ポロヴェツ)が活動したことからこのように呼ばれるようになった。ラテン語の記録では「クマニア」(Cumania)・「コマニア」、古東スラヴ語・ルーシ語の記録では「ポロヴェツ草原」(Половецкая степь)と呼ばれる。中国語の記録では欽察草原(きんさつそうげん)と呼ばれる。.

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クチュルク

チュルク(Küčülüg)は、モンゴル高原東部の遊牧集団ナイマン部の王族。西遼(カラ・キタイ)の第4代皇帝。 『遼史』では屈出律、『元史』では曲出律、『元朝秘史』では古出魯克の名で表記されている。ペルシア語表記では『世界征服者の歴史』および『集史』がともにكوچلك خان. Kūchuluk Khān ないしكوشلوك. Kūshulūkと綴る。クチュルクとはテュルク語で küč+lüg 「力ある者」の意味である。日本語表記では「グチルク」とも表記される。.

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クビライ

ビライ(モンゴル語: Qubilai, Khubilai、1215年9月23日 - 1294年2月18日)は、大元王朝の初代皇帝、モンゴル帝国の第5代皇帝(大ハーン)。同時代のパスパ文字モンゴル語およびモンゴル文字などの中期モンゴル語のラテン文字転写では Qubilai Qa'an、Qubilai Qaγan。現代モンゴル語のキリル文字転写では。漢字表記は忽必烈。『集史』をはじめとするモンゴル帝国時代のペルシア語表記(『集史』「クビライ・カアン紀」など)では قوبيلاى قاآن Qūbīlāī qā'ān など書かれる。死後に尊号を追諡され「賢きカアン」を意味するセチェン・カアン(Sečen Qa'an 薛禪皇帝)と号した。 大元ウルス時代に書かれたパスパ文字モンゴル語での表記や上述のペルシア語文献といった同時代における多言語資料の表記などによって、当時の発音により近い形への仮名転写として、クビライ・カアン(カーン)という表記がされる。一方、現代モンゴル語では (Khubilai khaan) と書かれ、また近現代のモンゴル文字文献の表記や発音に基づいてフビライ・ハーンと表記することも多く見られる。 その即位にあたる内紛からモンゴル帝国は皇帝であるカアン (Qa'an) を頂点とする緩やかな連合体となり解体が進んだ。これに対してクビライは、はじめて国号を「大元」と定め、帝国の中心をモンゴル高原のカラコルムから中国の大都(現在の北京)に移動させるなど様々な改革を打ち出した。クビライの代以降、カアンの直接支配領域はモンゴル帝国のうち中国を中心に東アジアを支配する大元ウルス(大元大蒙古国)に変貌した。.

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コーカサス

ーカサス山脈 コーカサス()、またはカフカース、カフカス( (ラテン文字転写例: Kavkaz)、、、)は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。コーカサスの漢字表記は高加索。 英語のコーカサス、ロシア語のカフカースとも (Kaukasos; カウカーソス)に由来する。 「カウカーソス」自体は、一説に、古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)に由来するとされる。 コーカサス山脈を南北の境界として北コーカサスと南コーカサス(ザカフカジエ、ザカフカース、トランスカフカス、外カフカース)に分かれ、北コーカサスはロシア連邦領の北カフカース連邦管区および南部連邦管区に属する諸共和国となっており、南コーカサスは旧ソ連から独立した3共和国からなる。北コーカサス(ロシア)はヨーロッパに区分され、南コーカサスは西アジアに区分されることもあるがヨーロッパに区分されることもある。 全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語、文化、宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。 ケフィア発祥の地で、しばしば、この地方の人々は、ケフィアを飲んでいるために長寿であると喧伝されるが、統計的に見て、この地方の人々が長寿であるという科学的根拠はない。.

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ジョージア (国)

ョージア(, )は、南コーカサスにある共和制国家。東ヨーロッパInternational Geographic Encyclopaedia and Atlas. Springer, 24 November 1979, 欧州議会,, 17 July 2014: "...pursuant to Article 49 of the Treaty on European Union, Georgia, Moldova and Ukraine – like any other European state – have a European perspective and may apply to become members of the Union provided that they adhere to the principles of democracy..."(CIA "The World Fact Book") 2016-08-28閲覧。、もしくは西アジアに区分される(国際連合), "Western Asia - 268 Georgia" 2016-08-27閲覧。。日本では2015年4月まで政府が使用していた外名の「グルジア」(, Gruziya)としても知られている(詳細は後述)日本国外務省「」。首都はトビリシ。 ソビエト連邦の構成国であったが、1991年に独立した。南オセチアとアブハジアの2地域が事実上の独立状態となっており、ロシアなど一部の国から国家承認を受けている。中央部のゴリは旧ソビエト連邦の最高指導者であったヨシフ・スターリンの出身地である。ロシア帝国とその後に成立したソビエト連邦の支配が長く続いたことから、独立後はロシアとの対立路線を取ることが多い。1997年にはウクライナの呼び掛けに応じてアゼルバイジャン・モルドバと共にGUAMを結成し、2009年には独立国家共同体 (CIS) を脱退した。1999年から欧州評議会のメンバーである。 コーカサス山脈の南麓、黒海の東岸にあたる。北側にロシア、南側にトルコ、アルメニア、アゼルバイジャンと隣接する。古来数多くの民族が行き交う交通の要衝であり、幾たびもの他民族支配にさらされる地にありながら、キリスト教信仰をはじめとする伝統文化を守り通してきた。また、温暖な気候を利用したワイン生産の盛んな国としても知られる。 なお、本項では2015年4月22日の「在外公館名称を変更するための法改正案」成立以前の国家名称については「グルジア」、それ以後については「ジョージア」と表記する。また、「グルジア語」「グルジア紛争(南オセチア紛争)」等すでに用語として定着したものについては「グルジア」を使用することとする。.

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スブタイ

ブタイ スブタイ(スベエデイ、Sübe'edei/Sübütei、1176年 - 1248年)は、モンゴル帝国の軍人。ウリャンカイ部の出身。漢文では「速別額台」(スベエデイ)や「速不台」「雪不台」(スブタイ)とも表記され、ペルシア語資料では سوبداى بهادر Sūbdā'ī bahādur として表れる。名前に含まれるSübe'eは「脇腹」を意味する『モンゴル秘史 チンギス・カン物語』1、229-230頁。 同じチンギス・カン配下の軍人であるジェベ、ジェルメ、クビライ・ノヤンらとともに、「四狗」の一人に数えられる。ジェルメの弟。.

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タイチウト氏

タイチウト氏(Tayichiud)は、モンゴル高原で活動した遊牧民の氏族集団。モンゴル部のボルジギン氏の一支族であり、オノン川中下流域(あるいはセレンゲ河畔)で遊牧生活を営んでいた。同族のキヤト氏と共にモンゴル部の中核を成していた。キヤト氏との抗争の末、チンギス・カンによって屈服させられた。 氏族名の語源は、中国王朝の官職名である「太師」がモンゴル語化した「Taǐci」の複数形と考えられている。漢語史料では泰赤兀惕と表記される。同時に「タイチュウト氏」「タイチュート氏」とも表記される場合がある。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元史

『元史』(げんし)は、中国元王朝について書かれた歴史書(正史)。二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はモンゴル帝国チンギス・カンの1206年から順帝トゴン・テムルの1367年まで。拙速な編纂により、二十四史の中でも最も評判が悪く、20世紀になって『新元史』が編纂されることになった。.

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元朝秘史

『元朝秘史』(げんちょうひし)は、中世モンゴルの歴史書。『モンゴル秘史』と呼ばれることもある。チンギス・カンの一代記を中核に、その族祖伝承から後継者オゴデイの治世の途中までの歴史が記されている。作者は不明。成立年は諸説あるが、13世紀中とする見解が主流である一方、14世紀前半であるとする説得力ある仮説も存在する(後述)。.

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西遼

西遼(せいりょう、拼音:Xī Liáo)は、1132年から1218年までトルキスタンに存在した国。1124年に、金に滅ぼされた遼の皇族である耶律大石が中央アジアに逃れて建てた国家である。 中国史料では遼の皇族による国家であるために「西遼」と呼ばれている藤枝「西遼」『アジア歴史事典』5巻、208-209頁。ペルシア語などのイスラーム史料からはカラ・キタイ( قرا ختاى Qarā Khitā'ī:カラー・ヒターイー)と呼ばれる。この語は「黒い契丹」「強力な契丹」杉山「カラキタイ」『中央ユーラシアを知る事典』、145-146頁の意味とされるが、正確な意味は明らかになっていない。明代に成立した類書『三才図会』では、西遼を指す名称として「黒契丹」という語が使われている伊原、梅村『宋と中央ユーラシア』、335頁。 西遼の君主はグル・ハン( كور خان Kūr khān < Gür χan 「世界のハン」島田『契丹国 遊牧の民キタイの王朝』、28-32頁、「ハンの中のハン」バルトリド『中央アジア史概説』、62頁、「大いなるハン」、「勇敢なハン」井谷「トルコ民族の活動と西アジアのモンゴル支配時代」『西アジア史 2 イラン・トルコ』、112頁などの意味)の称号を名乗り小林高四郎『ジンギスカン』(岩波新書, 岩波書店, 1960年)、86-88頁、イスラームの史家も西遼の君主をグル・ハンと呼んだ。 首都はグズオルドドーソン『モンゴル帝国史』1巻、144頁(虎思斡耳朶、Ghuzz Orda /غزباليغ Ghuzz-Balïγ クズオルド宮脇淳子『モンゴルの歴史 遊牧民の誕生からモンゴル国まで』(刀水歴史全書, 刀水書房, 2002年9月)、64頁、フスオルド。契丹語で「堅固なオルド」の意。.

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金 (王朝)

金(きん、拼音:Jīn、女真語: 、1115年 - 1234年)は、金朝(きんちょう)ともいい、中国の北半を支配した女真族の征服王朝。 国姓は完顔氏。遼・北宋を滅ぼし、西夏を服属させ、中国南半の南宋と対峙したが、モンゴル帝国(元)に滅ぼされた。都は初め会寧(上京会寧府、現在の黒竜江省)、のち燕京(中都大興府、現在の北京)。『金史』、欽定満洲源流考には「金の始祖函普は高麗からやって来た」とある。『函普』は阿骨打(あこつだ、女真音:アクダ)の7代祖である。.

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懐刀

懐刀(ふところがたな)とは、日本の慣用句、比喩表現の一つ。.

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1206年

記載なし。

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1217年

記載なし。

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1218年

記載なし。

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