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1277年

索引 1277年

記載なし。

84 関係: 南宋南北朝時代 (日本)吉田隆長宝符安達泰盛将軍丁丑干支仏滅紀元建治律宗忠烈王北条義宗北条時盛ナポリ・アンジュー朝ナポリ王国ミラノミカエル9世パレオロゴスマムルーク朝バイバルスユダヤ暦ヨハネス21世 (ローマ教皇)ロベルト1世 (ナポリ王)パレオロゴス王朝ヒジュラ暦ベトナムベイルートガレアッツォ1世・ヴィスコンティスルターンセルビア円照 (鎌倉時代)公卿六波羅探題元 (王朝)元号一覧 (中国)元号一覧 (ベトナム)元号一覧 (朝鮮)元号一覧 (日本)皇帝神武天皇即位紀元鎌倉時代高麗郭侃赤松則村関山慧玄臨済宗至元 (元世祖)金剛三昧院...陳太宗陳朝東巌慧安東ローマ帝国檀君紀元武将明峰素哲教皇曹洞宗景炎10月22日 (旧暦)1197年11月18日11月3日 (旧暦)1215年1218年1221年1225年1253年12月29日1320年1328年1343年1350年1361年1月21日4月1日 (旧暦)5月20日5月2日 (旧暦)5月5日6月11日7月1日8月17日 (旧暦)9月16日 インデックスを展開 (34 もっと) »

南宋

南宋(なんそう、1127年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が建国した北宋が、女真族の金に華北を奪われた後、南遷して淮河以南の地に再興した政権。首都は臨安(現杭州)であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋 (王朝) で解説することとする。 この項目では全般にわたって山川出版社『中国史3』と講談社学術文庫『五代と宋の興亡』を使用している。この二書に関しては特に必要のない限りは出典としては挙げない。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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吉田隆長

吉田 隆長(よしだ たかなが)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の公卿。吉田経長の次男。母は葉室定嗣の娘で、吉田定房・冬方とは同母の兄弟である。.

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宝符

宝符(ほうふ)は、ベトナム陳朝の聖宗が使用した元号。1273年 - 1278年。.

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安達泰盛

安達 泰盛(あだち やすもり)は、鎌倉時代中期の武将。鎌倉幕府の有力御家人。安達義景の三男。評定衆、御恩奉行。 鎌倉幕府第8代執権・北条時宗を外戚として支え、幕府の重職を歴任する。元寇・御家人の零細化・北条氏による得宗専制体制など、御家人制度の根幹が変質していく中で、その立て直しを図り、時宗死後に弘安徳政と呼ばれる幕政改革を行うが、内管領・平頼綱との対立により、霜月騒動で一族と共に滅ぼされた。 元寇にあたって御恩奉行を務め、自邸で竹崎季長の訴えを聞く姿が『蒙古襲来絵詞』に描かれている。.

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将軍

将軍(しょうぐん)は、比較的大きな軍隊の指揮官に与えられる官職および称号の一つ、また軍閥の指導者の地位でもある。称号としての将軍を将軍号ともいう。 古くから東洋における軍隊の指揮官の役職名の一つであった。外交上または軍隊内の敬称としては閣下が用いられる。なお、古代中国では「将軍は皇帝に任命された官職」「将は王侯や地方領主に任命された官職」と区別されている。.

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丁丑

丁丑(ひのとうし、ていちゅう)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの14番目で、前は丙子、次は戊寅である。陰陽五行では、十干の丁は陰の火、十二支の丑は陰の土で、相生(火生土)である。.

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干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

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仏滅紀元

仏滅紀元(ぶつめつきげん、Buddhist calendar)とは、釈迦が入滅したとされる年、またはその翌年を元年とする紀年法である。 仏暦(ぶつれき)ともいう。東南アジアの仏教徒の多い国などで用いられている。.

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建治

建治(けんじ)は、日本の元号の一つ。文永の後、弘安の前。1275年から1277年までの期間を指す。この時代の天皇は後宇多天皇。鎌倉幕府将軍は惟康親王、執権は北条時宗。.

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律宗

律宗(りっしゅう)は、戒律の研究と実践を行う仏教の一宗派である。中国で東晋代に戒律について翻訳されると、唐代には道宣が成立させた。日本には鑑真が伝来させ、南都六宗の日本仏教の一つとなった。.

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忠烈王

忠烈王(ちゅうれつおう、1236年4月3日 - 1308年7月30日)は第25代高麗王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)。 第24代高麗王元宗の子。諱は昛、初名は諶、賰、諡号は忠烈景孝大王。1260年に世子となり、1271年6月に元に婚姻の許諾を得て、クビライの公主忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)斉国大長公主。『元史』巻109・諸公主表では「斉国大長公主忽都魯堅迷失」とある。後の荘穆王后。『高麗史』巻89・后妃伝巻2によると、皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。生母である阿速真可敦については、現在『集史』クビライ・カアン紀に記載されているクビライの第8皇子アヤチ(アバチ)と第9皇子ココチュの生母であったフウシン部族のボロクル(ムカリをはじめとするいわゆる「チンギス・カンの四駿(Dörben Külü'üd)」のひとり)の娘、フウシジン皇后 Hūshījīn Khātūn との比定が試みられているが、確定には至っていない。(森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」『東洋史研究』67-3、2008年)旧妃は始安公絪娘 貞和宮主と淑昌院妃であるが、荘穆王后との婚姻後には王は旧妃に近寄らなくなったという。(『高麗史』巻89・后妃伝巻2「貞和府主」条および「淑昌院妃」条)を娶り、翌年に帰国。再び元に戻り、元宗死後に再び帰国し、王位についた。 文永の役・弘安の役においては元に日本侵攻を進言し、兵力と経費を提供する「高麗史」に詳細に記述されている。『高麗史』 巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年 三月己亥 条の中書省牒に載る世子 諶の言葉に、「吾父子相継朝覲、特蒙恩宥小邦人民(中略) 既諶連年入覲毎荷皇恩区区之忠益切致効。惟彼日本 未蒙聖化 故発詔。使継糴軍容、戦艦兵糧、方在所須。儻以此事委臣、勉尽心力、小助王師」 『高麗史』 巻29・世家29・忠烈王世家6 忠烈王六年八月辛卯〜乙未(1280年9月17日 - 21日) 条 「(辛卯:公主宴愛牙赤于新殿。)王至上都。時帝在闍干那兀。王遂如行在。乙未:謁帝。帝宴王仍命從臣赴宴。先是、王使朴義奏曰:『東征之事臣請入朝禀旨。』帝許之。」 『高麗史』『高麗史』巻104・列伝17 金方慶伝「(元宗)十五年、帝欲征日本、詔方慶與茶丘、監造戰艦。造船若依蠻様、則工費多、将不及期、一国憂之。 方慶、爲東南道都督使、先到全羅、遣人咨受省檄、用本國船様督造。」『元史』 卷12・本紀12・世祖本紀9 至元十九年七月壬戌(1282年8月9日) 条 「高麗国王請、自造船百五十艘、助征日本」 とともに毎年元に莫大な貢物、人員一例として『高麗史』巻16・世家28・忠列王1 忠烈王元年冬十月壬子(1275年11月4日)条に「壬子:以将献処女于元、禁国中婚嫁」とあり、忠烈王元年10月に元朝に処女を献ずるため国中で婚姻を一時禁じている。また、同十一月癸未(同年11月25日) 条に「癸未:遣僉議賛成事俞千遇、如元賀正、告改官制、献処女十人」とあり、元朝宮廷への賀正使として僉議賛成事の俞千遇を派遣し、官制改めたことを報告し、併せて処女 10人を献じたことを記している。等を頻繁に送り忠義を示した。これにより国内経済は疲弊し、これを憂いた臣下によって廃位となったが元の力により復位した。この後更に親元政策を貫き、胡服辮髪の令忠烈王は後述のように即位前に質子(トルカク)として出されたクビライの宮廷にてケシクの一員として近侍していたため、モンゴル人と同じ服装や髪型をしていた。そのため、『高麗史』によれば、彼が高麗に帰着したときにその容姿をみた高麗の廷臣たちは、「国人、世子の弁髪・胡服を見、皆な歎息して、泣く者すらあるにいたる。」(『高麗史』 巻27・世家27・元宗世家3 元宗十三年二月己亥「二月己亥、世子諶還自元。帝遣斷事官不花馬(中略) 世子辮髮胡服而來國人見之皆涕泣」)と述べている。これは彼自身がモンゴル宮廷での庶務に従事する必要上、モンゴル宮廷の慣習に従っていただけであったが、当初、高麗宮廷では王国の後継者がモンゴル人と同じ恰好をしていたことは歓迎されていなかった。(1278年)を出すほか、以降の王は元の宮廷で育ち、忠宣王は「益知礼普花」(イジリブカ)、忠粛王は「阿剌忒訥失里」(アラトナシリ)、忠恵王は「普塔失里」(ブダシリ)というモンゴル風の名を持っている。.

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北条義宗

北条 義宗(ほうじょう よしむね)は、鎌倉時代中期の北条氏一門。赤橋 義宗(あかはし よしむね)とも称される。鎌倉幕府第6代執権・北条長時の嫡男。赤橋流北条氏第2代当主。.

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北条時盛

北条 時盛(ほうじょう ときもり)は、鎌倉時代前期から中期にかけての武将。北条氏の一門。鎌倉幕府の初代連署・北条時房の長男。佐介流北条氏の祖。佐介 時盛(さすけ ときもり)とも称される。 弟に大仏流の祖・朝直などがいるが、彼らとは異腹であり、時盛は「庶兄」であったのではないかという見解がある。.

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ナポリ・アンジュー朝

ナポリ・アンジュー朝は、フランス・カペー家の支家であるアンジュー=シチリア家による13世紀から15世紀にかけてのナポリ王国の支配を指す。この家系からはハンガリー・アンジュー朝も出ている。王朝の名称は、始祖シャルル・ダンジューがアンジュー伯の称号を有していたのに由来する。.

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ナポリ王国

ナポリ王国(ナポリおうこく、Regno di Napoli)は、13世紀から19世紀にかけて、ナポリを中心に南イタリアを支配した国家。 13世紀末にシチリア島とイタリア半島南部を支配していた中世シチリア王国が分裂した際、半島側の領土を支配下に置いた王国である。19世紀初頭、シチリア島のシチリア王国とナポリ王国は正式に統合され「両シチリア王国」となった。.

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ミラノ

ミラノ(Milano)は、イタリアで最大の都市圏人口を擁する都市で、ミラノ県の県都およびロンバルディア州の州都である。ヨーロッパ有数の世界都市。イタリア語のアクセントの関係でミラーノと記されることもある。英語ではミラン(Milan)、フランス語ではミラン(Milan)、ドイツ語ではマイラント(Mailand)、スペイン語ではミラン(Milán)、ラテン語ではメディオラーヌム(Mediolanum)と言う。.

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ミカエル9世パレオロゴス

ミカエル9世パレオロゴス(ギリシア語:Μιχαήλ Θ' Παλαιολόγος (Mikhaēl IX Palaiologos)、1277年4月17日 - 1320年10月12日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1294年 - 1320年)。同王朝第2代皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの子で、共同皇帝。同・第4代皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスの父。.

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マムルーク朝

マムルーク朝(マムルークちょう、دولة المماليك Dawla al-Mamālīk)は、エジプトを中心に、シリア、ヒジャーズまでを支配したスンナ派のイスラム王朝(1250年 - 1517年)。首都はカイロ。そのスルターンが、マムルーク(奴隷身分の騎兵)を出自とする軍人と、その子孫から出たためマムルーク朝と呼ばれる。一貫した王朝ではあるが、いくつかの例外を除き王位の世襲は行われず、マムルーク軍人中の有力者がスルターンに就いた。.

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バイバルス

バイバルス・アル=ブンドクダーリー(الملك الظاهر ركن الدين بيبرس بندقداري al-Malik al-Zāhir Rukn al-Dīn Baybars al-Bunduqdārī, 1223年小林「バイバルス」『アジア歴史事典』7巻、325頁/28年佐藤「バイバルス」『新イスラム事典』、387頁/33年 - 1277年6月30日ドーソン『モンゴル帝国史』5巻、79頁/7月1日牟田口『物語中東の歴史 オリエント5000年の光芒』、221頁)は、マムルーク朝(バフリー・マムルーク朝)の第5代スルターン(君主。在位:1260年 - 1277年)。在位中の事績から実質的なマムルーク朝の建国者と評価されることもあるヒッティ『アラブの歴史』下、641頁。即位名によりアッ=ザーヒル・バイバルス(الملك الظاهر بيبرس al-Malik al-Zāhir Baybars)とも呼ばれる。.

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ユダヤ暦

ユダヤ暦(ユダヤれき、הלוח העברי、Hebrew calendar)は、ユダヤ人の間で使われている暦法である。.

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僧(そう、संघ Saṃgha)はサンガを音写した「僧伽」の略で仏教の戒律を守る、男性の出家修行者である「比丘(びく)」と女性の出家修行者である「比丘尼(びくに)」の集団のこと。仏教の三宝の一つ。在家信者を含めた教団を僧(サンガ)とは呼ばず、出家者が四人以上集まったとき僧となる。男性の出家修行者の集団を比丘僧といい、女性の場合は比丘尼僧という。衆あるいは和合衆と訳される。.

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ヨハネス21世 (ローマ教皇)

ヨハネス21世(Ioannes XXI、1215年 - 1277年5月20日)は、ローマ教皇(在位:1276年 - 1277年)。本名をペドロ・ジュリアォン(Pedro Julião)、ラテン語ではペトルス・ヒスパヌス(Petrus Hispanus)といい、現在に至るまで唯一のポルトガル出身の教皇である(ダマスス1世はポルトガル出身とされているがはっきりしない)。在位僅か8ヶ月で死去した。  リスボンで生まれたとされ、リスボン大聖堂内の神学校で教育を受けた。後にパリ大学に入った(一部の歴史家は彼がモンペリエ大学で学んだと主張する)。 1245年から1250年にかけ、ペドロ・ヒスパノ(ヒスパニアで知られるイベリア半島出身の為こう呼ばれた)で知られ、シエナ大学で薬学を教えた。彼はこの地でSummulae Logicalesを書き、この本は300年以上ヨーロッパ諸国の大学で用いられた。こうして有名な大学講師としてリスボンへ戻り、ギマランイスの宮廷でアフォンソ3世の教会関係の助言者・スポークスマンとなり、ギマランイスの修道院長となった。彼はリスボン司教になろうとしたが、競い負けている。その後リスボンの学校講師となり、グレゴリウス10世の主治医となった。 1276年8月18日のハドリアヌス5世の死後、ペドロは9月13日にコンクラーヴェで教皇に選出された。彼の短い治世は、強力な枢機卿ジョヴァンニ・ガエターノ(ヨハネス21世の後継の教皇、ニコラウス3世となる)が代わりに政治を取り仕切っていた。ジョヴァンニは聖地への十字軍結成の為、正教会とカトリックの合同とキリスト教国の平和を保とうと努力した。しかし、タタール人を改宗させようと働きかけたが、成果はなかった。 ヨハネス21世はヴィテルボにある別荘に新たな翼を付けさせた。それは手抜き工事でつくられた為、ある時に彼が就寝していると屋根が崩れ落ち、重傷を負った。そして、事故から8日後の1277年5月20日に死んだ。恐らく、偶発的な事故で死んだ教皇は彼1人である。遺体はヴィテルボのドゥオーモに埋葬された。現在も彼の墓がそこで見られる。死後、『ヨハネス21世は魔法使いであったのだ』と噂が広まった。 ダンテ・アリギエーリは『神曲』の中で、偉大なる宗教学者の魂と共に太陽の天空でヨハネス21世と面会した話を書いた。.

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ロベルト1世 (ナポリ王)

ベルト1世(Roberto I, 1277年 - 1343年1月20日)は、アンジュー家のナポリ王(在位:1309年 - 1343年)。カルロ2世の三男。母はハンガリー王イシュトヴァーン5世の娘マーリア。ロベルト賢明王(Roberto il Saggio)と呼ばれる。教皇党(グエルフィ)のリーダーと見なされていたマックスウェル・スチュアート(1999)p.167。.

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パレオロゴス王朝

パレオロゴス王朝(パレオロゴスおうちょう、Παλαιολόγος Palaiologos/女性形:Παλαιολογίνα Palaiologina パレオロギナ)は、東ローマ帝国最後の王朝(1261年 - 1453年)。古代ギリシャ語の発音にしたがってパライオロゴス王朝あるいはパラエオロゴス王朝と呼ばれることもある。.

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ヒジュラ暦

ヒジュラ太陰暦(ヒジュラたいいんれき、)またはヒジュラ暦(、)は、主にイスラム教社会で使われている暦法。太陰暦なので太陽暦とは毎年11日ほどのズレがあり、それが積み重なるため、暦は季節を反映していない。イスラム暦(イスラムれき、、)とも呼ばれる。紀年法はヒジュラ紀元(ヒジュラきげん)と呼ばれる。ヨーロッパではを略してA.H.と表記する。.

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ベトナム

ベトナム社会主義共和国(ベトナムしゃかいしゅぎきょうわこく、)、通称 ベトナム()は、東南アジアのインドシナ半島東部に位置する社会主義共和国。首都はハノイ。ASEAN加盟国、通貨はドン、人口9,250万人(2014年末)。 国土は南北に細長く、北は中華人民共和国、西はラオス、南西はカンボジアと国境を接する。東は南シナ海に面し、フィリピンと相対する。.

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ベイルート

ベイルート( 、、)は、レバノンの首都であり、ベイルート県の県都でもあり、同国最大の都市である。また、地中海に面した同国第一の海港である。.

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ガレアッツォ1世・ヴィスコンティ

19世紀に描かれたガレアッツォ1世の肖像 ガレアッツォ1世・ヴィスコンティ (Galeazzo I Visconti, 1277年1月21日 - 1328年8月6日)は、ミラノの僭主。 マッテオ1世・ヴィスコンティとボーナコーサ・ボッリの子。1300年6月、ベアトリーチェ・デステ(オビッツォ2世・デステの娘)と結婚。同年ヴィスコンティ家はミラノから追放され、彼はエステ家の領地とボーナコルシの宮廷で数年を過ごした。 1322年、彼は『民の隊長』(Capitano del popolo)の称号をミラノで受けたが、まもなく従弟ロドリージオ・ヴィスコンティの叛乱によってミラノから脱出せざるをえなかった。神聖ローマ皇帝ルートヴィヒ4世の支援を受け、彼は教皇の遣わした軍をヴァプリーノで打ち破った。1328年、弟マルコの裏切りにあい、弟ステーファノが暗殺され、ガレアッツォはモンツァに投獄された。ガレアッツォは同じ年の3月に釈放され、当時のギベリンの首領カストルッチョ・カストラカーニのもとに身を寄せた。しかし、数ヶ月後にペスチアで死んだ。 嫡子アッツォーネが後を継ぎ、娘リッチャルダはサルッツォ侯トンマーゾ2世の妻となった。 Category:ミラノの僭主 Category:ヴィスコンティ家 Category:1277年生 Category:1328年没.

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スルターン

ルターン(سلطان sultān)は、イスラム世界における君主号(君主の称号)のひとつ。アラビア語で「権力(者)」、「権威(者)」を意味する。マレー語・トルコ語などの発音に準じてスルタンと書かれることも多く、「国王」、「皇帝」などとも訳される。古くは英語における発音の音訳によってサルタンとも書かれたが、近年では稀である。.

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セルビア

ルビア共和国(セルビアきょうわこく)、通称セルビアは、南東ヨーロッパ、バルカン半島中西部の内陸に位置する共和制国家。かつてのユーゴスラビアに属した地域の中央に位置しており、政治的にもその中心となる国であった。 首都であるベオグラードは、ユーゴスラビア誕生以来2006年にセルビア・モンテネグロが解体されるまで一貫して連邦の首都であった。2006年6月3日のモンテネグロの分離独立に伴い独立宣言をした。セルビア内のコソボ・メトヒヤ自治州がコソボ共和国として事実上独立状態にある。.

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円照 (鎌倉時代)

円照(えんしょう、承久3年(1221年) - 建治3年10月22日(1277年11月18日))は、鎌倉時代中期の律宗の僧。父は東大寺厳寛で、戒壇院中道聖守の弟。号は実相。 叡尊・円爾・良忠・覚盛・良遍などに師事して仏教教学を学び、三論・法相・天台・真言密教・禅など8宗を修学した。1251年(建長3年)東大寺戒壇院の院主に任じられ、1258年(正嘉2年)造東大寺大勧進に就任し、堂塔の復興に尽力し戒壇院の中興開山となった。1269年(文永6年)には後嵯峨上皇に戒師として戒を授けている。弟子には凝然・真照などがいる。 Category:鎌倉時代の僧 Category:律宗 Category:東大寺 Category:1221年生 Category:1277年没.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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六波羅探題

六波羅探題(ろくはらたんだい)は、鎌倉幕府の職名の一つ。承久3年(1221年)の承久の乱ののち、幕府がそれまでの京都守護を改組し京都六波羅の北と南に設置した出先機関。探題と呼ばれた初見が鎌倉末期であり、それまでは単に六波羅と呼ばれていた。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

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元号一覧 (ベトナム)

元号一覧 (ベトナム)(げんごういちらん (ベトナム))は、ベトナムにおける元号の一覧。元号名および期間については、史書・史料により異同が多く、一部併記したものもあるが、ここに掲げた以外の説も存在する。詳細は、各記事において個別に紹介する。.

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元号一覧 (朝鮮)

元号一覧(げんごういちらん)では、朝鮮における歴代元号について記述する。なお朝鮮は伝統的に中国の冊封体制下に入っていたので、基本的には中国王朝の暦を用いていた。このため、朝鮮独自の元号は少ない。.

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元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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神武天皇即位紀元

武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に「辛酉の年」とある。それが、江戸前期の暦学者渋川春海の編纂による「日本長暦」において(西暦でいう)紀元前660年と比定され、また渋川の推理による当時の暦によるその1月1日が、現在の暦(グレゴリオ暦)の2月11日と比定されたものが、そもそも神代のことであり、特に改める必要もないとしてそのまま通用している(詳細は注および後述)。この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。 異称は皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)等。 西暦#time: Y年(本年)は、神武天皇即位紀元年に当たる。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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郭侃

郭侃(かく かん、Kwok Hon、拼音:Guō Kǎn、? - 1277年)は、元代の将軍。 智勇兼備の名将で特に攻城戦には卓越した能力を持っていた。字は仲和。華州鄧県の人。郭子儀の末裔。郭宝玉の孫。郭徳海の次男。幼少から鎮陽王史天沢に養われた。 『元史』巻百四十九 郭寶玉伝 郭侃条によると、成年後は、百戸長に任ぜられた。1232年の征金戦に従軍。1245年には千戸長に任ぜられた。1253年にはフレグの西方遠征軍に従軍。1256年、ペルシアのイスマイル派を攻め、カシミールを平定し、乞都卜城を火砲で攻撃し陥落させた。また、イスマイル派の根拠アラムート城砦を攻略するなど128の城砦を攻略した。1258年には敵前でのチグリス川渡河作戦を決行し、バグダードを火砲などで攻撃し、東城、西城を陥落させ、逃亡するアッバース朝第37代カリフのムスタアスィムを追撃し捕虜にしたという。シリアへも侵攻して、十字軍とも交戦し、連戦連勝で瞬く間に120余りの城砦を陥落させ、小アジアを平定した。その用兵の巧みさから敵軍からは「極西の神人」と恐怖された。 1259年に憲宗(モンケ)が崩御すると、独立を目指したフレグに従わず、東帰して中統元年(1260年)にクビライに謁見した。その後、クビライの配下として軍政および内治に関して有用な多くの献言をした。また鄭州などで屯田を指揮するなど内治にも努力した。中統2年(1261年)、江漢大都督理問官に任官。至元7年(1270年)に万戸長に任命され、襄陽を攻略(襄陽・樊城の戦い)。元が江南を手中にすると、知寧海州に任官された。 モンゴル帝国では、チンギス・ハーンがモンゴル高原を統一する初期から、チンカイやマフムード・ヤラワチ、サイイド・アジャッルなど、大元朝時代の漢文資料で色目人と称された多くのウイグル系やホラーサーン、マー・ワラー・アンナフル出身のイラン系やテュルク系などの中央アジア・イラン地域の人々が官僚として活躍した。そのなかで、連戦連勝の名将であった郭侃の活躍は漢人の誇りであった。 ちなみに、『集史』などイルハン朝で編纂された資料では、郭侃に該当する人物は知られていない。.

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''アメリゴ・ヴェスプッチ'' 船(ふね、舟、舩)とは、人や物をのせて水上を渡航(移動)する目的で作られた乗り物の総称である広辞苑 第五版 p.2354「ふね【船・舟・槽】」。 基本的には海、湖、川などの水上を移動する乗り物を指しているが、広い意味では水中を移動する潜水艇や潜水艦も含まれる。動力は人力・帆・原動機などにより得る。 大和言葉、つまりひらがなやカタカナの「ふね」「フネ」は広範囲のものを指しており、規模や用途の違いに応じて「船・舟・槽・艦」などの漢字が使い分けられている。よりかしこまった総称では船舶(せんぱく)あるいは船艇(せんてい)などとも呼ばれる(→#呼称参照)。 水上を移動するための乗り物には、ホバークラフトのようにエアクッションや表面効果を利用した船に近いものも存在する。また、水上機や飛行艇のように飛行機の機能と船の機能を組み合わせた乗り物も存在し、水上機のフロートや飛行艇の艇体は「浮舟」(うきぶね)と表現される。 なお、宇宙船や飛行船などの水上以外を航行する比較的大型の乗り物も「ふね」「船」「シップ」などと呼ばれる。これらについては宇宙船、飛行船などの各記事を参照のこと。また舟に形状が似ているもの、例えば刺身を盛る浅めの容器、セメントを混ぜるための容器(プラ舟)等々も、その形状から「舟」と呼ばれる。これらについても容器など、各記事を参照のこと。.

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赤松則村

赤松 則村(あかまつ のりむら)は、鎌倉時代から南北朝時代にかけての武将、守護大名。本姓は源氏。家系は村上源氏の流れを汲む赤松氏4代当主。播磨国守護。法名の円心(えんしん)でも知られている。.

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関山慧玄

関山慧玄(かんざん えげん、建治3年(1277年) - 正平15年/延文5年12月12日(1361年1月19日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代の臨済宗の僧。 信濃国高井郡の国人領主高梨氏で高梨高家の子とされる。朝廷から本有円成、仏心、覚照、大定聖応、光徳勝妙、自性天真、放無量光の国師号が与えられ、また、明治天皇から無相大師と追諡された。 .

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臨済宗

臨済宗(臨濟宗、りんざいしゅう)は、中国の禅宗五家(臨済、潙仰、曹洞、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(臨済宗・曹洞宗・日本達磨宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。 中国禅宗の祖とされる達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目(六祖と呼ばれる)の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638年 - 713年)の弟子の1人である南嶽懐譲(677年 - 744年)から、馬祖道一(709 - 788年、洪州宗)、百丈懐海(749 - 814年)、黄檗希運(? - 850年)と続く法系を嗣いだ唐の臨済義玄(? - 867年)によって創宗された。彼は『喝の臨済』『臨済将軍』の異名で知られ、豪放な家風を特徴として中国禅興隆の頂点を極めた。 宋代の大慧宗杲(1089 - 1163年)と曹洞宗の宏智正覚(1091 - 1157年)の論争以来、曹洞宗の「黙照禅」に対して、公案に参究することにより見性しようとする「看話禅」(かんなぜん)がその特徴として認識されるようになる。 日本には栄西(1141 - 1215年)以降、中国から各時代に何人もの僧によって持ち込まれ、様々な流派が成立した。黄檗宗も元来、中国臨済宗の一派である。歴史的に鎌倉幕府・室町幕府と結び付きが強かったのも特徴の1つで、京都五山・鎌倉五山のどちらも全て臨済宗の寺院で占められている他、室町文化の形成にも多大な影響を与えた。江戸時代の白隠慧鶴(1686 - 1769年)が中興の祖として知られる。.

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至元 (元世祖)

至元(しげん)は、モンゴル帝国の大ハーン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられた元号。1264年 - 1294年。.

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金剛三昧院

山門と正面奥に本堂 金剛三昧院(こんごうさんまいいん)は、和歌山県伊都郡高野町高野山にある仏教寺院・宿坊。高野山真言宗別格本山。本尊は愛染明王。仏塔古寺十八尊第11番霊場。西国愛染十七霊場第17番霊場。 ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成要素。.

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陳太宗

陳太宗(ちんたいそう、ベトナム語(チャン・タイ・トン), 1218年7月10日 - 1277年5月5日)は、陳朝の初代皇帝(在位1225年 - 1258年)。陳朝の実質的な創始者である陳守度の甥。太宗は廟号で、諱は煚。兄に安生王柳がいる。.

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陳朝

陳朝(チャンちょう、ちんちょう、、)は、現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝。国号は大越。首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)。.

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東巌慧安

東巌慧安(とうがんえあん、嘉禄元年(1225年)- 建治3年11月3日(1277年12月29日))は、鎌倉時代中期の臨済宗の僧。諱は慧安。道号は東巌。諡号は宏覚禅師。播磨国の出身。 初め書写山で出家受戒して天台教学を学び、泉涌寺でも学び、中国の宋へ渡ろうと1257年(正嘉元年)博多へ下ったが、悟空敬念にあい心服して臨済宗に改宗した。悟空に従って鎌倉にくだり、寿福寺に参禅した。一旦悟空とともに京都に帰京したが、鎌倉に戻り建長寺の兀庵普寧に参禅した。のち京都の吉田と中山に住したが、兀庵が帰国のおり鳥羽に見送り、法衣・頂相・語録を授かった。聖護院執事の静心により1268年(文永5年)京都一条今出川に正伝寺を開き、元寇に際しては祈祷を行っている。比叡山衆徒の恨みを買って正伝寺を破棄されたことから、鎌倉に下って寿福寺の大休正念の紹介により幕府の重臣安達泰盛の帰依を得、鎌倉和賀江に福光山聖海寺を開創した。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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檀君紀元

1956年に韓国で発行された記念切手。上部に「4289年12月4日」と檀君紀元で表記されている 檀君紀元(だんくんきげん)は、朝鮮神話の最初の王檀君王倹の即位を紀元とする紀年法である。「檀紀」(だんき)とも呼ばれる。 『三国遺事』や『東国通鑑』の檀君即位の記述(「中国の堯の即位から50年目」)や『世宗実録地理志』にある記述(「唐堯的即位二十五年・戊辰」、堯の即位から25年目)などを根拠に檀君即位の年を西暦紀元前2333年とし、これを檀紀元年としている。(『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」をもとにしたという説は誤り)但し、『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。また、檀君神話は朝鮮の古くからの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。堯の即位から25年目とは、明の太祖朱元璋の即位年(1368年)と李氏朝鮮の李成桂の即位(1392年)をなぞらえたものと考えられている。 西暦年は、檀紀年である。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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明峰素哲

明峰 素哲(めいほう そてつ、建治3年(1277年)- 観応元年/正平5年3月28日(1350年5月5日))は、鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての曹洞宗の僧。俗姓は富樫氏。諱は素哲。道号は妙峰。 当初比叡山に上って出家して受戒したが、その後鎌倉建仁寺に移り、さらに加賀国大乗寺に瑩山紹瑾をたずねてその門下となった。長い期間参禅しその印可を受けた。その後加賀国伝燈寺の恭翁運良に参禅し、大乗寺・永光寺の住持を歴任した後、越中国の光禅寺を創建して第1世となった。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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曹洞宗

曹洞宗(そうとうしゅう)は、中国の禅宗五家(曹洞、臨済、潙仰、雲門、法眼)の1つで、日本仏教においては禅宗(曹洞宗・日本達磨宗・臨済宗・黄檗宗・普化宗)の1つ。鎌倉仏教のひとつである。本山は永平寺(福井県)・總持寺(横浜市鶴見区)。専ら坐禅に徹する黙照禅であることを特徴とするが、仏陀つまり悟りを開いた人・目覚めた人の教えであるので、出家在家に拘らず、求道者各自が悟りを開くことを標榜する。 中国禅宗の祖である達磨(5C後半 - 6C前半)から数えて6代目の南宗禅の祖・曹渓宝林寺の慧能(638 - 713年)の弟子の1人である青原行思(? - 740年)から、石頭希遷(700 - 790年、石頭宗)、薬山惟儼(745 - 828年))、雲巌曇晟(782 - 841年 )と4代下った洞山良价(807 - 869年)によって創宗された。.

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景炎

景炎(けいえん)は、中国・南宋の端宗の治世に使用された元号。1276年旧5月 - 1277年旧4月。.

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10月22日 (旧暦)

旧暦10月22日は旧暦10月の22日目である。六曜は先勝である。.

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1197年

記載なし。

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11月18日

11月18日(じゅういちがつじゅうはちにち)はグレゴリオ暦で年始から322日目(閏年では323日目)にあたり、年末まであと43日ある。.

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11月3日 (旧暦)

旧暦11月3日(きゅうれきじゅういちがつみっか)は、旧暦11月の3日目である。六曜は先勝である。.

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1215年

記載なし。

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1218年

記載なし。

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1221年

記載なし。

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1225年

記載なし。

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1253年

記載なし。

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12月29日

12月29日(じゅうにがつにじゅうくにち)はグレゴリオ暦で年始から363日目(閏年では364日目)にあたり、年末まであと2日ある。.

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1320年

記載なし。

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1328年

記載なし。

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1343年

記載なし。

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1350年

記載なし。

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1361年

記載なし。

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1月21日

1月21日(いちがつにじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から21日目に当たり、年末まであと344日(閏年では345日)ある。.

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4月1日 (旧暦)

旧暦4月1日(きゅうれきしがつついたち)は旧暦4月の1日目である。六曜は仏滅である。.

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5月20日

5月20日(ごがつはつか、ごがつにじゅうにち)は、グレゴリオ暦で年始から140日目(閏年では141日目)にあたり、年末まではあと225日ある。誕生花はデルフィニウム。.

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5月2日 (旧暦)

旧暦5月2日(きゅうれきごがつふつか)は旧暦5月の2日目である。六曜は赤口である。.

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5月5日

5月5日(ごがついつか)はグレゴリオ暦で年始から125日目(閏年では126日目)にあたり、年末まではあと240日ある。誕生花はハナショウブ。.

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6月11日

6月11日(ろくがつじゅういちにち)はグレゴリオ暦で年始から162日目(閏年では163日目)にあたり、年末まであと203日ある。誕生花はヒゲナデシコ、ガクアジサイ。.

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7月1日

7月1日(しちがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から182日目(閏年では183日目)にあたり、年末まであと183日ある。誕生花はアジサイ、ベゴニア。.

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8月17日 (旧暦)

旧暦8月17日は旧暦8月の17日目である。六曜は赤口である。.

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9月16日

9月16日(くがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から259日目(閏年では260日目)にあたり、年末まであと106日ある。.

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