ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ミカエル9世パレオロゴス

索引 ミカエル9世パレオロゴス

ミカエル9世パレオロゴス(ギリシア語:Μιχαήλ Θ' Παλαιολόγος (Mikhaēl IX Palaiologos)、1277年4月17日 - 1320年10月12日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1294年 - 1320年)。同王朝第2代皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの子で、共同皇帝。同・第4代皇帝アンドロニコス3世パレオロゴスの父。.

18 関係: ミハイル3世シシュマンリタ (東ローマ皇后)トーマース・ドゥーカスパレオロゴス王朝ニコーラ・オルシーニアンドロニコス2世パレオロゴスアンドロニコス3世パレオロゴスエピロス専制侯国キリキア・アルメニア王国ギリシア語皇帝第二次ブルガリア帝国東ローマ帝国10月12日1277年1294年1320年4月17日

ミハイル3世シシュマン

ミハイル3世シシュマン(Михаил III Шишман、1280年以後 - 1330年7月31日)は、第二次ブルガリア帝国の皇帝(ツァール、在位1323年 - 1330年)。正確な生年は不明であるが、1280年から1292年の間に生まれたと考えられている。 ミハイル3世は第二次ブルガリア帝国の最後の王朝であるシシュマン朝の建国者であるが、即位直後にはアセンの名前を名乗り、第二次ブルガリア帝国最初の王朝であるアセン朝との繋がりを強調した。 ミハイル3世は精力的かつ野心的な君主であり、敵対するビザンツ帝国(東ローマ帝国)とセルビア王国に硬軟織り交ぜた外交政策を展開したが、1330年7月28日のヴェルブジュドの戦いで敗れ、陣没した。バルカン半島におけるブルガリア帝国の政治的・軍事的覇権の回復を目指して活動し、またビザンツ帝国の首都コンスタンティノープルの占領を試みた最後の中世ブルガリア世界の君主だった。 彼の死後、子のイヴァン・ステファン、次いで甥のイヴァン・アレクサンダルが跡を継ぎ、イヴァン・アレクサンダルはミハイル3世の政策を翻してセルビアと同盟を結んだKazhdan, "Michael III Šišman", 1365頁。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスとミハイル3世シシュマン · 続きを見る »

リタ (東ローマ皇后)

リタ(ラテン文字表記:Rita, 1278年1月10/11日 - 1333年7月)は、東ローマ帝国皇帝ミカエル9世パレオロゴスの皇后。結婚後はマリアと改名した。 父は、キリキア・アルメニア王国の王レオーン3世、母はケラン王妃。1296年にミカエルと結婚し、7子をもうけたが、確認できるのは4人である。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスとリタ (東ローマ皇后) · 続きを見る »

トーマース・ドゥーカス

トーマース・ドゥーカス(Θωμάς Δούκας, Thomas Doukas, ? - 1318年)は、エピロス専制公国の専制公(在位:1296年 - 1318年)。ニケフォロス1世の子。中世ギリシア語表記ではソマス・ドゥカス。 1290年、コンスタンティノポリス宮廷から専制公に叙せられ、父ニケフォロス1世の後継者として認められる。1296年、父の死により支配権を継承した。1313年に東ローマ帝国皇帝ミカエル9世パレオロゴスの娘アンナと結婚。若年のためあまり政治的な手腕を揮うことはなかったが、姉妹タマルの夫、アカイア公フィリッポ1世・ディ・ターラント(アンジュー家のナポリ王ロベルトの弟)と同盟を結び、エピロスの独立を維持する。しかし1318年、甥(異母姉妹マリアの息子)のケファロニア伯・ニコーラ・オルシーニに暗殺され、エピロス専制公国のアンゲロス家直系はここに断絶した。 Category:エピロス専制公 とおまあす Category:ギリシャの幼君 Category:暗殺された人物 Category:13世紀生 Category:1318年没.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスとトーマース・ドゥーカス · 続きを見る »

パレオロゴス王朝

パレオロゴス王朝(パレオロゴスおうちょう、Παλαιολόγος Palaiologos/女性形:Παλαιολογίνα Palaiologina パレオロギナ)は、東ローマ帝国最後の王朝(1261年 - 1453年)。古代ギリシャ語の発音にしたがってパライオロゴス王朝あるいはパラエオロゴス王朝と呼ばれることもある。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスとパレオロゴス王朝 · 続きを見る »

ニコーラ・オルシーニ

ニコーラ・オルシーニ(Nicola Orsini, ? - 1323年)は、イタリア人イピロス専制公国君主(在位1318年 - 1323年)・ケファロニア宮廷伯(在位1317年 -1323年)。ニコロ・オルシーニ (Nicolò Orsini) とも。ギリシア名はニコラオス(Νικόλαος)。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスとニコーラ・オルシーニ · 続きを見る »

アンドロニコス2世パレオロゴス

アンドロニコス2世パレオロゴス(ギリシア語:Ανδρόνικος Β' Παλαιολόγος (Andronikos II Palaiologos)、1259年3月25日 - 1332年2月13日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の第2代皇帝(在位:1282年 - 1328年)。同王朝初代皇帝ミカエル8世パレオロゴスの長男。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスとアンドロニコス2世パレオロゴス · 続きを見る »

アンドロニコス3世パレオロゴス

アンドロニコス3世パレオロゴス(ギリシア語:Ανδρόνικος Γ' Παλαιολόγος (Andronikos III Palaiologos)、1297年3月25日 - 1341年6月15日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の第4代皇帝(在位:1328年5月24日 - 1341年6月15日)。同王朝第2代皇帝アンドロニコス2世パレオロゴスの孫で、同・第3代(共同)皇帝ミカエル9世パレオロゴスと皇后マリアの子。同名の祖父と区別する意味で「少帝(Νέος)」と呼ばれることもある。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスとアンドロニコス3世パレオロゴス · 続きを見る »

エピロス専制侯国

ピロス専制侯国(エピロスせんせいこうこく、Δεσποτάτο της Ηπείρου, Despotate of Epirus)は、1204年の第4回十字軍によるコンスタンティノポリス攻撃で東ローマ帝国が一旦滅びた時、ニカイア帝国、トレビゾンド帝国などと共に出来た亡命政権の一つ。「専制公国」と表記される場合もある(以下、こちらの表記を優先する)。なお「エピロス」はギリシャ語に基づく慣用形で、古典ギリシャ語読みでは「エペイロス」、中世ギリシャ語では「イピロス」、ラテン語では「エピルス」である。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスとエピロス専制侯国 · 続きを見る »

キリキア・アルメニア王国

リキア・アルメニア王国(キリキア・アルメニアおうこく、アルメニア語:Կիլիկիայի Հայկական Թագավորություն kilikiayi haykakan thagavoruthyun、1080年あるいは1198年 - 1375年)は、現在のトルコ南岸部のキリキア地方においてアルメニア人により建国された王国。単にキリキア王国、もしくはキリキアのアルメニア王国という言い方もされる。また、紀元前にカフカス地方に存在したアルメニア王国(大アルメニア王国)と区別して小アルメニア王国と呼ぶこともある。ただし、単に「小アルメニア」と呼ぶ場合は、時に、古代の大アルメニア王国がローマ帝国によって部分的に間接統治されたときの地域・アルメニア属州のことを指すこともあるため、注意が必要である。 建国年については、第一王朝(ルーベン王朝)の創始年である1080年をして建国年とみなす説と、ローマ教皇らに王冠を授けられて独立国と認められた1198年からとみなす説があり、文献によってまちまちである(本項では、あくまで章の分割の容易さなどから、前説を採ることにする)。1198年に当時のキリキア侯レヴォン2世が王として認められるまでは、代々の君主は侯 (prince) であり、国も王国ではなく侯国であったことに注意を要する。 建国当時は隣にアンティオキア公国などの十字軍国家があり、それらの国々や西欧諸国と密接に関わっていた国である。 なお、以下の項目は全面的に英語版ウィキペディアの当該項目、キリキア・アルメニア王国君主一覧およびキプロス王国からの訳出によった。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスとキリキア・アルメニア王国 · 続きを見る »

ギリシア語

リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスとギリシア語 · 続きを見る »

皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスと皇帝 · 続きを見る »

第二次ブルガリア帝国

二次ブルガリア帝国(Второ българско царство, Second Bulgarian Empire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスと第二次ブルガリア帝国 · 続きを見る »

東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスと東ローマ帝国 · 続きを見る »

10月12日

10月12日(じゅうがつじゅうににち)はグレゴリオ暦で年始から285日目(閏年では286日目)にあたり、年末まであと80日ある。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスと10月12日 · 続きを見る »

1277年

記載なし。

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスと1277年 · 続きを見る »

1294年

記載なし。

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスと1294年 · 続きを見る »

1320年

記載なし。

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスと1320年 · 続きを見る »

4月17日

4月17日(しがつじゅうななにち、しがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から107日目(閏年では108日目)にあたり、年末まではあと258日ある。誕生花はハナビシソウ、ユスラウメ。.

新しい!!: ミカエル9世パレオロゴスと4月17日 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

ミハイル9世パレオロゴスミカエル9世

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »