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霊思何皇后

索引 霊思何皇后

何皇后(かこうごう ? - 189年)は、中国後漢の霊帝の皇后で、諱は不明。諡は思で、諡号としては夫の諡を重ねて霊思皇后。荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)の出身。父は何真。母(舞陽君)は何真の後妻。子は少帝弁。異母兄は何進。異父兄は何苗(朱苗)。妹は張譲の子(養子?)の妻。 身長は七尺一寸(約163cm)。屠殺家という下賤の出自だったが、賄賂を用い宦官の伝い手で後宮に入った。後宮に入った後、霊帝の寵愛を受け、男子(少帝弁)を生んだ。気が強かったため、妃嬪たちは皆彼女を恐れていた。 霊帝の最初の皇后であった宋氏が廃されると、何氏が皇后に立てられた(180年)。父に車騎将軍と爵位が追贈され、母にも舞陽君の称号が贈られた。 霊帝の寵妃であった王美人が劉協(献帝)を生んだ時は激しく嫉妬し、王美人を毒殺した。霊帝が激怒し、何氏は廃されそうになったが、宦官の取りなしにより何とか免れた。 189年、霊帝の崩御後に少帝弁が即位すると、何氏は摂政皇太后となった。政敵であった姑の董太后との争いに勝ち、董太后を洛陽から追放し、幽殺した。しかし、何氏の政権を支える何進と宦官(十常侍)が争い、何進が袁紹たちと共に十常侍の殺害を計画すると、宦官とも結託していたため、何苗と共に何進の計画に反対した。結果、何進と十常侍が政争で共に滅び、また何苗も殺害されてしまい、洛陽に入った董卓が権限を手中にすることとなった。 董卓は董太后と自分が同族であると信じていたため、董太后の報復として何氏を排除しようとした。董卓は何太后を脅迫して少帝の廃位を実行し、董太后が養育していた劉協を帝位に就かせた。さらに董卓は何太后に対し、かつての董太后に対する振る舞いが孝の道に叛く行ないだと問責した上で、永安宮に幽閉して、後に殺害した。何太后が霊帝の陵に合葬されると、董卓は霊帝の陵の副葬品をことごとく奪い取ったという(董卓伝)。.

37 関係: 十常侍南陽市 (河南省)南陽郡宦官宋皇后 (漢霊帝)少帝弁中国三国志演義張譲何苗何進後宮後漢皇后皇太后王栄竇妙献帝 (漢)荊州袁紹養子縁組車騎将軍霊帝 (漢)郭勝董卓董重李儒桓帝 (漢)永安県河南省河間市洛陽市180年189年

十常侍

十常侍(じゅうじょうじ)は、中国後漢末期の霊帝の時代に専権を振るった宦官の集団。 『後漢書』によれば.

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南陽市 (河南省)

南陽市(なんようし)は、中華人民共和国河南省に位置する地級市。.

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南陽郡

南陽郡(なんよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の河南省南陽市と湖北省の随州市、棗陽市にまたがる地域に設置された。.

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孝(こう)とは、子供が自身の親に忠実に従うことを示す道徳概念。 儒教の信奉者が、それを徳目と認識するものの一つ。身近なところから段階的に進められる儒教の徳治において、まず家庭で守られるべき徳として「悌」とともに重視された。「孝悌」と併用され、「孝悌は仁を為すの本」とされる。後述するように、他の宗教にも類するイデオロギーが存在する。.

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宦官

宦官(かんがん)とは、去勢を施された官吏である。去勢技術は家畜に施すものとして生まれたため、宦官は牧畜文化を持つ国にのみ存在するという説があるが、現実には牧畜文化を持たない国においても宦官は存在した。.

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宋皇后 (漢霊帝)

宋皇后(そうこうごう、? - 178年)は、中国後漢の霊帝の最初の皇后で廃后。扶風平陵(現咸陽市)の出身。父は宋酆。 建寧3年(170年)、後宮に入り、貴人となった。翌年、皇后に立てられた。気弱で、また皇帝の寵愛がなかったため、妃嬪たちはみな宋氏をさんざんけなした。 霊帝は傍系から桓帝の帝位を継いだため、桓帝の弟の渤海王劉悝に対して猜疑心を抱き忌避していた。熹平元年(172年)、宦官の王甫は劉悝を調略により一族皆死に追いやった。劉悝の妃の宋氏は皇后と同族であった。そのため報復を恐れた王甫に讒言され、宋皇后は178年に無実の罪を着せられた上で廃位および暴室送りにされ、三族皆殺しの刑に処せられた。宋氏自身もほどなく急死した。他の宦官たちは同情し、金を出しあって宋氏を簡素に埋葬した。 数年後、病臥する霊帝は桓帝を夢に見た。桓帝は言った。 霊帝は驚き恐れたが、宋氏と劉悝の名誉回復は拒んだ。間もなく霊帝は崩御した。.

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少帝弁

少帝弁(しょうてい べん)は、後漢の第13代皇帝。姓諱は劉辯(新字体:劉弁)。 霊帝の崩御に伴い、何太后とその兄である何進により擁立された。しかし、何進が宦官により暗殺され、さらに宦官も袁紹によって皆殺しにされたため、その時期に洛陽に入ってきた董卓によって、異母弟の劉協(献帝)が擁立され廃位となり、弘農王に封じられた。その後、董卓の専制に反発した諸侯による反董卓連合が起こった時、連合軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた李儒によって、長安遷都前に毒殺された。 在位わずか5ヶ月に過ぎず、また地方豪族の一人に過ぎなかった董卓に帝位を廃されたことは、事実上後漢王朝が滅亡したことを意味している。 後に懐王・弘農王として諡されたため、実質的に帝とは認められなかったことになる。『三国志』「王朗伝」によると、後に曹操が劉弁の墓前を通ったとき、皇帝陵として参拝すべきか否か部下に尋ねた。付き従っていた董遇が「帝ではないと見なされるので参拝は不要」といったため、その意見に従っている。 小説『三国志演義』では、劉協よりも若干年上の少年である。劉協の方が聡明さがあり、逆に劉弁は暗愚であったため、廃位された後、何太后と共に李儒により高所から突き落とされ、殺害されることになっている。 なお、『三国志演義』やその派生作品などでは幼帝扱いにされているが、即位当時の年齢17歳というのは、後漢の歴代皇帝の即位時年齢の中で4番目の高年齢にあたる(劉弁より上位の3人は初代から3代の皇帝であり、4代以降では最年長)。こうした事実は、後漢朝の歴代皇帝がいかに幼く、権力のない皇帝ばかりだったかを示すものである。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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三国志演義

劉備と関羽、張飛(桃園の誓い) 『三国志演義』(さんごくしえんぎ、 )は、中国の明代に書かれた、後漢末・三国時代(魏、蜀、呉)を舞台とする時代小説・通俗歴史小説である。四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。 著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。.

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張譲

張 譲(ちょう じょう、陽嘉4年(135年)? - 光熹元年(189年))は、中国後漢末期の宦官。豫州潁川郡の人。弟は張朔。子(養子)の妻は何太后の妹。.

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何苗

何 苗(か びょう、? - 189年)は、中国後漢末期の軍人。字は叔達。本姓は朱。父の名は不明。異父妹は何皇后。何進とは血が繋がっていない。 かつては何進と共に南陽で屠殺業を営んでいたとされるが、異父妹が霊帝の寵愛を受けて、皇子を産んで皇后になると、何進と共に官僚となり、河南尹に任命された。その後、車騎将軍に累進し済陽侯に封じられた。 霊帝が崩御し少帝が即位すると、後漢の内政上の障害となっていた宦官の存廃を巡り、政争が発生した。当時、何進らが宦官の除去を求め妹の皇太后にその旨奏上するなどしていたが、何苗は異父妹の皇太后と組んで何進と対立し、漢朝の伝統であると主張して宦官を擁護した。 その結果、189年8月に何進らが宦官の十常侍らに殺害されてしまったため、一連の経緯から呉匡ら何進の幕僚に恨まれることとなった。呉匡が元何進配下の兵に「何進を殺したのは何苗である。その復讐をするものはおらぬか」と言うと、兵たちは涙を流して彼に従った。かくして何苗は呉匡と董旻に殺害された。 墓はその後上洛した董卓によって発かれ、また遺体も引き出されてばらばらにされている。.

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何進

何 進(か しん、? - 光熹元年8月29日(189年9月22日))は、中国後漢末期の武将、政治家。字は遂高。荊州南陽郡宛県(現在の河南省南陽市)の人。異母妹は霊帝の皇后(何氏)。父は何真。継弟(義理の弟)は何苗(朱苗)。子の名は不詳。孫は何晏。.

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後宮

後宮(こうきゅう)は、皇帝や王などの后妃が住まう場所。日本では、平安京内裏の七殿五舎、江戸城大奥が該当する。 一般的に、後宮は男子禁制というイメージがあるが、日本の内裏では必ずしもそうではなく、平安時代中期に書かれたとされる『源氏物語』や『枕草子』といった物語や随筆では殿上人のうちでも家族や親しい人間は頻繁に出入りしていたように描写されている。平安時代には天皇やそのきさきの側に控えた女房と呼ばれる女性たちが、内裏を舞台とした内容の宮廷文学を生み出したことはよく知られている(それらが書かれた場所が後宮であったとは限らない。実家などに戻った際に書いたものとされることもある)。ただし、平安末から鎌倉時代頃から徐々に男子禁制の場となり、江戸時代においては男性が入る余地はなくなってしまっていた。江戸時代の江戸城大奥は、完全な男性禁制の場であり、火事など緊急時以外の男性の出入りは厳しく制限された。 男子禁制をとっているのはオスマン帝国などのイスラム諸王朝や中国などであり、去勢された宦官が、家政一般にあたった。これに対して日本では、宦官は置かれずに宮人とも呼ばれる女官が発達して女性たちによって秩序が維持された。 また、後宮を意味するハレム(harem)は、オスマン帝国の後宮がそう呼ばれていたところから来ている。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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皇后

皇后(こうごう、Empress)は、天皇や皇帝の正妃(正妻)、およびその人物に与えられる称号。 一夫多妻制のもとでは、天皇や皇帝の複数の妻のうち最上位の者となる。.

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皇太后

皇太后(こうたいごう、Empress Dowager)は、先代の天皇・皇帝の皇后であった者、およびその称号。ただし必ずしもこの定義にあてはまらない事例もある。.

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王栄

王 栄(おう えい、? - 181年)は、後漢の霊帝の側室。献帝の生母。邯鄲の人。祖父は王苞。父は王章。兄弟に王斌。.

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竇妙

竇 妙(とうみょう、? - 172年)は、後漢の桓帝の3番目の皇后。扶風郡平陵の人。大将軍竇武の長女。.

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献帝 (漢)

帝(けんてい)は、後漢の最後の皇帝。諱は協。霊帝(劉宏)の次子で、少帝弁(劉弁)の異母弟。母親は美人の王栄。諡号は、魏からは孝献皇帝、蜀漢からは孝愍皇帝。.

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荊州

荊州(けいしゅう)は、中国の歴史的な州の一つ。現在の湖北省一帯に置かれた。.

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袁紹

袁 紹(えん しょう、永興2年(154年)以前? - 建安7年5月21日(202年6月28日))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は。豫州汝南郡汝陽県(河南省商水県)の出身。 何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされた。後、関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

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養子縁組

養子縁組(ようしえんぐみ)とは、具体的な血縁関係とは無関係に人為的に親子関係を発生させることをいう。この関係によって設定された親子関係をそれぞれ養親(ようしん)と養子(ようし)、または女子の場合には養女(ようじょ)、養子から見て養親の家(または家族)を養家(ようか)と呼称する。.

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諡(し、おくりな)、あるいは諡号(しごう)は、主に帝王・相国などの貴人の死後に奉る、生前の事績への評価に基づく名のことである。「諡」の訓読み「おくりな」は「贈り名」を意味する。.

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諱(いみな)とは、人名の一要素に対する中国などの東アジアの漢字圏における呼称である。忌み名(いみな)とも。漢字圏以外でも同様の概念はあり、英語では (直訳すると「真の名」)がそれに当たる。.

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車騎将軍

車騎将軍(しゃきしょうぐん)は前漢以降の官職名。軍を率いる将軍位の一つ。 漢においては初期は灌嬰などの将、文帝の外戚薄昭などが就任し、以後、主に皇帝の信任する者や外戚が就任して軍事権を握った。 『続漢書』百官志によれば、常に置かれるわけではなく、反乱の征伐を掌り兵を指揮する。将軍位としては大将軍、驃騎将軍に次ぎ、衛将軍の上位に当たる。 属官には長史、司馬(各官秩比千石)、従事中郎(官秩比六百石)がいる。兵を領する場合、部・曲が置かれる。部には校尉(官秩比二千石)、軍司馬(官秩比千石)が置かれる。部の下に曲があり、軍候(官秩比六百石)が置かれる。曲の下には屯があり、屯長(官秩比二百石)が置かれる。 曹魏では、二品官であった。蜀漢では建国当初に張飛が就任したほか、末期には古参の将軍である廖化・張翼を「右車騎将軍」「左車騎将軍」に任じている。呉では初期に朱然が就任し、その後は劉纂が務めた。 その後徐々に格が上がり、晋では儀同三司となり、さらに北魏では一品官となり、位三司上となった。 隋代には驃騎府・車騎府が府兵制の中核となったため、車騎将軍は車騎府の指揮官として驃騎将軍に属して府兵を率いた。大業3年には驃騎府・車騎府が統合され鷹揚府となり、府の指揮官は鷹揚郎将となった。唐に入ると驃騎府・車騎府が復活したが、貞観年間に再び折衝府に統合され、府の指揮官は折衝都尉となった。.

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霊帝 (漢)

霊帝(れいてい)は、中国後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯劉萇の子。解瀆亭侯劉淑の孫。河間王劉開の曾孫。章帝の玄孫に当たる。.

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郭勝

郭 勝(かく しょう、? - 189年?)は後漢時代末期の宦官。荊州南陽郡の人。 霊帝の時代、宦官の趙忠と張譲が権勢を振るった時期に、中常侍に任命された12名の宦官の一人であり、十常侍と呼ばれた。霊帝の寵愛を受け全員列侯され、子弟を地方の官職につけて私腹を肥やした。黄巾の乱が勃発すると、郎中の張鈞は十常侍が乱世の元凶として彼等を斬ることを上奏したが、皇帝には容れられなかった。 郭勝は何進と同郷であったため、何進の妹を霊帝の后とするなど、外戚である何氏とも通じていた。189年、霊帝が病没し、太子の劉弁(何氏の子)が即位すると、外戚の何氏と董氏との間で権力争いが勃発する。郭勝は何進と同郷であったため、何氏と内通し、董氏に味方した宦官蹇碩を滅ぼした。 やがて何進と十常侍も対立し、何進が暗殺されると、その部下の袁紹達は挙兵し趙忠や張譲など宦官達を皆殺しにした。郭勝もこの攻撃で殺されたと思われる。.

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董卓

董 卓(とう たく、? - 初平3年4月23日(192年5月22日))は、中国後漢末期の武将・政治家。涼州隴西郡臨洮県(甘粛省定西市臨洮県)の人。字は仲穎(ちゅうえい)。 辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた呂布に殺された。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

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董重

董 重(とう ちょう、? - 189年5月)は、中国後漢末期の武将。字は子高。霊帝の生母である永楽太后(董太后)の甥。冀州河間郡の出身。 霊帝の母方の従兄弟にあたるため、衛尉に任命され脩侯に封じられた。また188年9月(8月の説もある)、驃騎大将軍に任じられた。 叔母と共に十常侍の張譲と手を組んで、同じ外戚であった何進や何太后と権勢をめぐって対立した。しかし、189年5月に先手を打った何進の軍勢によって、董重の邸宅は取り囲まれてしまった。董重は捕縛された後に罷免され、自決した。 叔母の永楽太后は何進によって、「蕃后(王侯夫人)は京師(洛陽)に留るを得ず」という王莽の時の故事を持ち出され失脚し、董重が死ぬと憂い怖れて急死した。遺体は故郷の河間に帰り、夫と合葬された。.

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李儒

李 儒(り じゅ、生没年不詳)は、中国の後漢末の政治家。.

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桓帝 (漢)

桓帝(かんてい)は、後漢の第11代皇帝。章帝の曾孫、河間王劉開の孫、蠡吾(れいご)侯劉翼の子。弟は渤海王劉悝、平原王劉碩。順帝の族弟(劉一族中の年少の“いとこ”に当たる)。側室のひとりは寇恂の6世孫(寇栄の従孫女)で、妹の益陽公主は寇恂の玄孫(寇栄の従兄の子)に嫁いだ『後漢書』寇恂伝付寇栄伝。。男子がなく、一族の河間王の系統である霊帝がついだ。.

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永安県

永安県(えいあん-けん)は中華人民共和国にかつて存在した県。.

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河南省

河南省(かなんしょう、中国語:河南省、拼音:Hénán Shěng、英語:Henan)は、中華人民共和国の省の1つ。地域の大部分が黄河の南にあるため河南と称された。古の豫州があったことから、略称は豫である。省都は鄭州市。古代の中原の中心地であり、中国の中でも歴史のある地域である。.

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河間市

河間市(かかん-し)は中華人民共和国河北省滄州市に位置する県級市。.

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洛陽市

洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.

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180年

記載なし。

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189年

記載なし。

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