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十常侍

索引 十常侍

十常侍(じゅうじょうじ)は、中国後漢末期の霊帝の時代に専権を振るった宦官の集団。 『後漢書』によれば.

36 関係: 夏ウン外戚孫璋宦官宋典少帝弁中常侍中国三国志演義張譲張恭何進後漢後漢書党錮の禁禅譲献帝 (漢)畢嵐韓カイ袁紹高望魏 (三国)趙忠蹇碩黄巾の乱霊帝 (漢)霊思何皇后郭勝董卓栗嵩桓帝 (漢)梁冀段珪汝南袁氏曹節 (宦官)181年

夏ウン

夏 惲 (か うん、? - ?)は後漢時代末期の宦官。『後漢書』宦者列伝を中心に記録がある。 霊帝の時代、張譲や趙忠達12名の宦官が中常侍に任命されたとある。夏惲はその12名の内に名を残しており、いわゆる十常侍の一人として全員が侯に封じられ、一族を各地の地方官に任命させて私腹を肥やした。 黄巾の乱が勃発すると、郎中の張鈞は十常侍を斬って天下に謝罪すべきだと上奏したが、霊帝は逆に十常侍を庇い、張鈞は叱責され、やがて自害に追い込まれた。また、宦官の呂強は、党人を許して宦官の子弟を官から退かせるべきだと主張したが、夏惲は趙忠と共に呂強を謀反の罪で誣告し、霊帝に疑われた呂強が憤死すると、その子弟をも誣告し財産を没収させた。 189年、霊帝が没し、外戚の何氏と董氏とが対立した際に、大将軍何進が董太后を弾劾した上奏文において、董太后は故の中常侍の夏惲と封諝とを使って私腹を肥やしていた、とあり、夏惲が董太后とつながりの深い宦官であったことと、189年の時点で既に死去していたことが確認できる。.

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外戚

外戚(がいせき)とは、皇帝、王の母親または妃の一族のことである。.

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孫璋

孫 璋.

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宦官

宦官(かんがん)とは、去勢を施された官吏である。去勢技術は家畜に施すものとして生まれたため、宦官は牧畜文化を持つ国にのみ存在するという説があるが、現実には牧畜文化を持たない国においても宦官は存在した。.

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宋典

宋 典(そう てん、? - 189年?)は後漢時代末期の宦官。 霊帝の時代の後半、張譲と趙忠が権勢を振るっていた時期に、中常侍に任命された12名の宦官の一人として名の挙がる人物である。十常侍と呼ばれ、皇帝の寵愛を受け列侯され一族は栄達し、地方の官僚に任命され私腹を肥やした。郎中の張鈞に弾劾され、斬って天下に詫びるべきと名指しされたほどであった。 鉤盾令となり、宮殿の修繕にあたったという記録がある。 189年、霊帝が没し、外戚の何氏と董氏が対立すると、董氏派の宦官の蹇碩は大将軍何進の打倒を趙忠と宋典に持ちかけた。何氏と親しい郭勝が何進に計画を密告すると十常侍は何氏側に味方し、蹇碩を滅ぼした(霊帝紀)。 やがて十常侍により何進が暗殺されると、袁紹達は宦官を掃討するため宮中に突入し、張譲や趙忠をはじめ多くの宦官が殺害された。宋典もその中に含まれていた可能性が高い。 『三国志演義』では登場しない。.

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少帝弁

少帝弁(しょうてい べん)は、後漢の第13代皇帝。姓諱は劉辯(新字体:劉弁)。 霊帝の崩御に伴い、何太后とその兄である何進により擁立された。しかし、何進が宦官により暗殺され、さらに宦官も袁紹によって皆殺しにされたため、その時期に洛陽に入ってきた董卓によって、異母弟の劉協(献帝)が擁立され廃位となり、弘農王に封じられた。その後、董卓の専制に反発した諸侯による反董卓連合が起こった時、連合軍に擁立されることを恐れた董卓に命じられた李儒によって、長安遷都前に毒殺された。 在位わずか5ヶ月に過ぎず、また地方豪族の一人に過ぎなかった董卓に帝位を廃されたことは、事実上後漢王朝が滅亡したことを意味している。 後に懐王・弘農王として諡されたため、実質的に帝とは認められなかったことになる。『三国志』「王朗伝」によると、後に曹操が劉弁の墓前を通ったとき、皇帝陵として参拝すべきか否か部下に尋ねた。付き従っていた董遇が「帝ではないと見なされるので参拝は不要」といったため、その意見に従っている。 小説『三国志演義』では、劉協よりも若干年上の少年である。劉協の方が聡明さがあり、逆に劉弁は暗愚であったため、廃位された後、何太后と共に李儒により高所から突き落とされ、殺害されることになっている。 なお、『三国志演義』やその派生作品などでは幼帝扱いにされているが、即位当時の年齢17歳というのは、後漢の歴代皇帝の即位時年齢の中で4番目の高年齢にあたる(劉弁より上位の3人は初代から3代の皇帝であり、4代以降では最年長)。こうした事実は、後漢朝の歴代皇帝がいかに幼く、権力のない皇帝ばかりだったかを示すものである。.

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中常侍

中常侍(ちゅうじょうじ)は、古代中国の官職。皇帝の身の回りの事を司る侍中府の中の一役職であり、皇帝の傍に侍り、様々な取次ぎを行う。常に皇帝の傍にいるので、絶大な権力を誇った。 後漢の永元4年(92年)以降、宦官専任の官職となり渡邉将智『後漢政治制度の研究』(早稲田大学出版部、2014年) ISBN 978-4-657-14701-1 第一章「後漢における宦官の制度的基盤と尚書台」、宦官の中では大長秋(皇后侍従長)に次ぐ位。 後漢では中常侍は侍中とともに命令の取次や顧問応対(皇帝に直接進言を行うこと)が認められており、禁中への立ち入りや宿衛が厳しく規制されていた侍中と異なり、宦官である中常侍は常に自由に出入りする事ができたことから大きな力を得るに至った(反対に、後漢において政治権力を振るうことが可能であった宦官は現職の中常侍もしくは経験者に過ぎなかった)。 製紙法の蔡倫や三国志の奸臣として有名な十常侍などがこれに就いている。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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三国志演義

劉備と関羽、張飛(桃園の誓い) 『三国志演義』(さんごくしえんぎ、 )は、中国の明代に書かれた、後漢末・三国時代(魏、蜀、呉)を舞台とする時代小説・通俗歴史小説である。四大奇書の一つに数えられる。書名については下記。 著者は定説をみず、施耐庵あるいは羅貫中の手によるものと伝えられている。.

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張譲

張 譲(ちょう じょう、陽嘉4年(135年)? - 光熹元年(189年))は、中国後漢末期の宦官。豫州潁川郡の人。弟は張朔。子(養子)の妻は何太后の妹。.

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張恭

張恭(ちょうきょう).

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何進

何 進(か しん、? - 光熹元年8月29日(189年9月22日))は、中国後漢末期の武将、政治家。字は遂高。荊州南陽郡宛県(現在の河南省南陽市)の人。異母妹は霊帝の皇后(何氏)。父は何真。継弟(義理の弟)は何苗(朱苗)。子の名は不詳。孫は何晏。.

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後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

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後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.

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党錮の禁

党錮の禁(とうこのきん)は、後漢末期に起きた弾圧事件である。宦官勢力に批判的な清流派士大夫(党人)らを宦官が弾圧したもので、その多くが禁錮刑(現代的な禁錮刑とは異なり、官職追放・出仕禁止をさす)に処された事からこの名で呼ばれる。党錮の禁は166年(延熹9年)と169年(建寧2年)の2回行われ、それぞれ第一次党錮の禁、第二次党錮の禁と呼ばれた。.

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禅譲

禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。.

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献帝 (漢)

帝(けんてい)は、後漢の最後の皇帝。諱は協。霊帝(劉宏)の次子で、少帝弁(劉弁)の異母弟。母親は美人の王栄。諡号は、魏からは孝献皇帝、蜀漢からは孝愍皇帝。.

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畢嵐

嵐(ひつ らん、? - 189年?)は後漢時代末期の宦官。.

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韓カイ

韓 悝(かん かい、? - 189年?)は後漢時代末期の宦官。 霊帝の治世の末期に中常侍に任命され、趙忠や張譲など他の11名の宦官と共に十常侍と呼ばれた。彼等は全員、列侯に封じられ、それぞれ親族を地方官に任命して私腹を肥やした。黄巾の乱が勃発すると郎中の張鈞は十常侍が乱世の元凶であると指弾し、彼等を誅殺することを上奏したが、十常侍を信任する霊帝には拒絶された。 韓悝については記録が乏しく、189年、張譲や趙忠と共に袁紹等の掃討軍の攻撃で殺された宦官達の中に含まれているかどうかは不明である。 『三国志演義』には登場しない。.

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袁紹

袁 紹(えん しょう、永興2年(154年)以前? - 建安7年5月21日(202年6月28日))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は。豫州汝南郡汝陽県(河南省商水県)の出身。 何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされた。後、関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

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高望

望(こう ぼう、? - 189年?)は後漢時代末期の宦官。司隷京兆尹の人。 霊帝の時代、宦官である趙忠と張譲が権勢を振るっていた時期、中常侍に任命されていた12名の宦官の一人である。十常侍と呼ばれ、全員列侯され、子弟を地方官に任命させ私腹と肥やした。黄巾の乱が勃発すると、郎中の張鈞は十常侍を天下の乱れの原因として、これを斬ることを上奏したが、霊帝に拒絶された。 小黄門や尚薬監に任命されて、太子である劉弁の寵臣の一人であったという。子の高進を劉弁との縁を利用して、孝廉とし、西園八校尉が組織されると、高進を上軍である校尉蹇碩の掾属に任命させている。ただし、蓋勲には孝廉に挙げることを拒絶されたとある(蓋勲伝)。 189年、袁紹等の掃討軍の攻撃で趙忠や張譲をはじめ多くの宦官が殺害されたが、高望もその中に含まれている(『後漢書』「袁紹伝」)。.

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魏 (三国)

魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.

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趙忠

趙 忠(ちょう ちゅう、? - 189年)は、中国後漢末期の宦官。冀州安平郡の人。弟は趙延。従兄弟は趙苞。霊帝時代に権勢を振るい、霊帝に「我が母」とまで言われ寵愛された。.

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蹇碩

蹇 碩(けん せき、? - 光熹元年(189年))は、中国後漢末期の宦官。中常侍。 霊帝に寵愛された。西園八校尉が置かれた時、宦官ながら身体壮健という事で上軍校尉に任ぜられ、その筆頭として近衛軍を統括した。黄門であった蹇碩は、霊帝が劉弁(少帝)の軽はずみな性格を忌んで、王美人との間に生まれた劉協(献帝)を立てようと考えていたため、その補佐を遺嘱されていた。霊帝の死後、蹇碩はそれに応えて劉協を立てようと、邪魔になる何進の誅殺を謀ったが、逆に何進の手にかかり殺されてしまった。また、かつて曹操が洛陽の北部尉をしていた頃、蹇碩の叔父が禁令を犯して夜間外出をしたため、曹操に捕らえられて棒で殴り殺された事があった。.

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黄巾の乱

巾の乱(こうきんのらん、)は、中国後漢末期の西暦184年(中平1年)に太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。後漢の衰退を招き、三国時代に移る一つの契機となった。.

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霊帝 (漢)

霊帝(れいてい)は、中国後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯劉萇の子。解瀆亭侯劉淑の孫。河間王劉開の曾孫。章帝の玄孫に当たる。.

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霊思何皇后

何皇后(かこうごう ? - 189年)は、中国後漢の霊帝の皇后で、諱は不明。諡は思で、諡号としては夫の諡を重ねて霊思皇后。荊州南陽郡宛県(河南省南陽市)の出身。父は何真。母(舞陽君)は何真の後妻。子は少帝弁。異母兄は何進。異父兄は何苗(朱苗)。妹は張譲の子(養子?)の妻。 身長は七尺一寸(約163cm)。屠殺家という下賤の出自だったが、賄賂を用い宦官の伝い手で後宮に入った。後宮に入った後、霊帝の寵愛を受け、男子(少帝弁)を生んだ。気が強かったため、妃嬪たちは皆彼女を恐れていた。 霊帝の最初の皇后であった宋氏が廃されると、何氏が皇后に立てられた(180年)。父に車騎将軍と爵位が追贈され、母にも舞陽君の称号が贈られた。 霊帝の寵妃であった王美人が劉協(献帝)を生んだ時は激しく嫉妬し、王美人を毒殺した。霊帝が激怒し、何氏は廃されそうになったが、宦官の取りなしにより何とか免れた。 189年、霊帝の崩御後に少帝弁が即位すると、何氏は摂政皇太后となった。政敵であった姑の董太后との争いに勝ち、董太后を洛陽から追放し、幽殺した。しかし、何氏の政権を支える何進と宦官(十常侍)が争い、何進が袁紹たちと共に十常侍の殺害を計画すると、宦官とも結託していたため、何苗と共に何進の計画に反対した。結果、何進と十常侍が政争で共に滅び、また何苗も殺害されてしまい、洛陽に入った董卓が権限を手中にすることとなった。 董卓は董太后と自分が同族であると信じていたため、董太后の報復として何氏を排除しようとした。董卓は何太后を脅迫して少帝の廃位を実行し、董太后が養育していた劉協を帝位に就かせた。さらに董卓は何太后に対し、かつての董太后に対する振る舞いが孝の道に叛く行ないだと問責した上で、永安宮に幽閉して、後に殺害した。何太后が霊帝の陵に合葬されると、董卓は霊帝の陵の副葬品をことごとく奪い取ったという(董卓伝)。.

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郭勝

郭 勝(かく しょう、? - 189年?)は後漢時代末期の宦官。荊州南陽郡の人。 霊帝の時代、宦官の趙忠と張譲が権勢を振るった時期に、中常侍に任命された12名の宦官の一人であり、十常侍と呼ばれた。霊帝の寵愛を受け全員列侯され、子弟を地方の官職につけて私腹を肥やした。黄巾の乱が勃発すると、郎中の張鈞は十常侍が乱世の元凶として彼等を斬ることを上奏したが、皇帝には容れられなかった。 郭勝は何進と同郷であったため、何進の妹を霊帝の后とするなど、外戚である何氏とも通じていた。189年、霊帝が病没し、太子の劉弁(何氏の子)が即位すると、外戚の何氏と董氏との間で権力争いが勃発する。郭勝は何進と同郷であったため、何氏と内通し、董氏に味方した宦官蹇碩を滅ぼした。 やがて何進と十常侍も対立し、何進が暗殺されると、その部下の袁紹達は挙兵し趙忠や張譲など宦官達を皆殺しにした。郭勝もこの攻撃で殺されたと思われる。.

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董卓

董 卓(とう たく、? - 初平3年4月23日(192年5月22日))は、中国後漢末期の武将・政治家。涼州隴西郡臨洮県(甘粛省定西市臨洮県)の人。字は仲穎(ちゅうえい)。 辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた呂布に殺された。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

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栗嵩

栗 嵩(りつ すう、? - 189年?)は、後漢時代末期の宦官。 霊帝の時代の末期に、中常侍に任命されたと記録にある12名の宦官(いわゆる十常侍)の一人である。彼等は全員列侯され、親族を地方官に任命し私腹を肥やした。184年、黄巾の乱が勃発すると、郎中の張鈞は乱を鎮めるために十常侍を斬るべきと上奏したが、霊帝はこれを拒否した。 栗嵩については記録が乏しく、189年、張譲や趙忠等と共に袁紹等の掃討軍の攻撃で殺害された宦官達の中に含まれているかどうかも不明である。 小説『三国志演義』では登場しない。.

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桓帝 (漢)

桓帝(かんてい)は、後漢の第11代皇帝。章帝の曾孫、河間王劉開の孫、蠡吾(れいご)侯劉翼の子。弟は渤海王劉悝、平原王劉碩。順帝の族弟(劉一族中の年少の“いとこ”に当たる)。側室のひとりは寇恂の6世孫(寇栄の従孫女)で、妹の益陽公主は寇恂の玄孫(寇栄の従兄の子)に嫁いだ『後漢書』寇恂伝付寇栄伝。。男子がなく、一族の河間王の系統である霊帝がついだ。.

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梁冀

梁 冀(りょう き、? - 159年)は、後漢の政治家、外戚。字は伯卓。 安定郡烏氏県の人。後漢草創期の功臣の1人梁統の玄孫、梁竦の曾孫である。祖父は梁雍。父は梁商(和帝の生母・梁貴人の甥)、妹は順帝の皇后梁妠(妠は女偏に内)、桓帝の皇后梁女瑩。 子は襄邑侯・梁胤、孫は城父侯・梁桃(梁胤の子)。.

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段珪

段 珪(だん けい、? - 光熹元年(189年))は、後漢時代末期の宦官。済陰郡の人。『後漢書』に記録がある。.

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汝南袁氏

汝南袁氏(じょなんえんし)は、後漢時代の中国で活動した豪族で、士大夫の名門。本籍は汝南郡汝陽県(現在の河南省商水県)。 三国志の群雄、袁紹と袁術が出たことから歴史上きわめて有名である。漢代から唐代にかけての名門貴族である陳郡陽夏県(現在の河南省太康県)の陳郡袁氏とは系譜の上で同族と称し、陳の公族轅濤塗の後裔とされる。.

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曹節 (宦官)

曹 節(そう せつ、? - 181年)は、後漢の宦官。南陽郡新野県の人。字は漢豊。『後漢書』「宦者列伝」に記録がある。従子に曹紹。.

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181年

記載なし。

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