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鉄弗部

索引 鉄弗部

鉄弗部の位置 代国支配下の鉄弗部 代国支配下の鉄弗部 前秦支配下の鉄弗部 前秦支配下の鉄弗部 北魏支配下の鉄弗部 鉄弗 部・鉄弗 氏(てつふつ ぶ/てつふつ し、拼音:Tiĕfú bù)は、中国・五胡十六国時代の匈奴の一部族で、南匈奴屠各種の右賢王去卑の系統氏族。407年には赫連勃勃によってオルドス地方に夏を建国した。攣鞮部、独孤部、破六韓部などは同族である。.

89 関係: 劉庫仁劉コン劉務桓劉猛 (匈奴)劉聡劉顕 (独孤部)劉衛辰劉訓兜劉閼頭劉虎 (鉄弗部)劉悉勿祈去卑南匈奴右賢王同朋舎夏 (五胡十六国)太守姚萇中国万里の長城并州五原郡五胡十六国時代代 (五胡十六国)張コウ (前秦)後秦後燕後趙匈奴北魏トウ羌ピン音刺史オルドス地方内田吟風前秦前趙石虎独孤部登国道武帝西燕西晋魏書鮮卑資治通鑑黄河赫連赫連勃勃苻堅...苻洛雁門郡離間計泰始 (晋)朔方郡新唐書新興郡 (中国)攣テイ氏慕容垂慕容永拓跋寔君拓跋什翼ケン拓跋窟咄拓跋猗盧拓跋鬱律拓跋部晋書1988年272年309年310年318年341年351年356年358年359年360年361年365年367年374年375年376年386年387年390年391年407年 インデックスを展開 (39 もっと) »

劉庫仁

劉 庫仁(りゅう こじん、? - 383年没)は、中国五胡十六国時代の匈奴独孤部大人(たいじん:部族長)および代国の南部大人。父は劉路孤、母は鮮卑拓跋部の代王拓跋鬱律の娘である。字は没根。別名は洛垂。.

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劉コン

劉 琨(りゅう こん 271年 - 318年5月8日(6月22日))は、中国西晋時代から五胡十六国時代にかけての武将・政治家。字は越石。中山郡魏昌県(現在の河北省定州市南東部)の出身。漢の中山靖王劉勝の末裔であると言われる。八王の乱に際しては司馬顒討伐に大きく貢献し、永嘉の乱が起こると拓跋部と結んで漢(前趙)の襲来を阻んだ。文学者としても著名であった。.

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劉務桓

劉 務桓(呉音:る むがん、漢音:りゅう ぶかん、拼音:Liú Wùhuán、? - 356年没)は、中国五胡十六国時代の匈奴鉄弗部大人(たいじん:部族長)。劉虎の子。別名豹子。 孫の赫連勃勃から宣皇帝と追尊されている。.

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劉猛 (匈奴)

劉 猛(呉音:る みょう、漢音:りゅう もう、拼音:Liú Mĕng、? - 272年)は、中国三国時代から西晋時代の南匈奴屠各種の一族。前趙の劉淵の従曾祖父、劉副侖の父。『新唐書』宰相世系表では、一族の独孤部の首長である劉進伯の曾孫、劉尸利の孫、劉烏利の子で、去卑の弟、『北史』破六韓常伝では、羌渠の弟となっている。.

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劉聡

劉 聡(りゅう そう)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の第3代皇帝。字は玄明。別名を劉載という。新興(現在の山西省忻州市)出身。光文帝劉淵の四男(三男とも)である。母は側室の張夫人(光献皇后に追尊された)。兄に劉和、劉恭、弟に劉裕、劉隆、劉乂がいる。長兄の劉和を殺害して帝位を継ぎ、八王の乱と異民族の流入で混乱に陥った西晋を滅ぼして(永嘉の乱)華北に覇を唱えた。その一方、次第に女色に耽って政治を顧みなくなり、数多くの忠臣を殺害して佞臣を重用した。これにより大いに国力を疲弊させ、漢帝国崩壊の原因を作った。.

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劉顕 (独孤部)

劉 顕(りゅう けん、拼音:Liú Xiǎn、? - 387年没)は、中国五胡十六国時代の匈奴独孤部大人(たいじん:部族長)。本名は醜伐。劉庫仁の子。.

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劉衛辰

劉 衛辰(りゅう えいしん、拼音:Liú Wèichén、? - 391年没)は、中国五胡十六国時代の匈奴鉄弗部大人(たいじん:部族長)。劉務桓の第三子で、夏を建国した赫連勃勃の父。 子の赫連勃勃から桓皇帝と追尊されている。.

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劉訓兜

劉 訓兜(りゅう くんとう、訓児とも)は、西晋時代の匈奴鉄弗部の族長。右賢王去卑の子で、夏の初代皇帝赫連勃勃の高祖父。一名を誥升爰という。 272年、去卑の孫の北部帥劉猛が死ぬと、子の劉副侖は拓跋部に奔走した。訓兜はその南の部落を統率して、子の劉虎の代に「鉄弗」と名付けられる部衆を作り上げた。309年に死去すると、子の劉虎が部衆の後を継いだ。 419年、後裔の劉勃勃(赫連勃勃)が訓兜を元皇帝と追尊した。.

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劉閼頭

劉 閼頭(呉音:る えんず、漢音:りゅう えんとう、拼音:Liú Yāntóu、生没年不詳)は、中国五胡十六国時代の匈奴鉄弗部大人(たいじん:部族長)。劉虎の子で、劉務桓の弟。『魏書』列伝第八十三では閼陋頭(えんろうとう)と表記。.

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劉虎 (鉄弗部)

劉 虎(りゅう こ、拼音:Liú Hŭ、? - 341年没)は、中国五胡十六国時代の匈奴鉄弗部大人(たいじん:部族長)。別名烏路孤。『晋書』では劉武と表記。南匈奴の右賢王去卑の孫。 曾孫の赫連勃勃から景皇帝と追尊されている。.

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劉悉勿祈

劉 悉勿祈(呉音:る しちもちげ、漢音:りゅう しつぶつき、拼音:Liú Xīwùqí、? - 359年)は、中国五胡十六国時代の匈奴鉄弗部の大人(たいじん:部族長)。劉務桓の子、劉衛辰の兄。.

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去卑

去卑(呉音:くひ、漢音:きょひ、拼音:Qùbēi、生没年不詳)は、中国・後漢末期から三国時代にかけての南匈奴屠各種攣鞮部の一族で、甥の呼廚泉単于の代に右賢王となる。誥升爰の父。潘六奚(破六韓部の始祖)の兄弟か従兄弟。鉄弗部の祖で、夏を建国した赫連勃勃はその後裔である。『北史』破六韓常伝では、羌渠単于の弟、『新唐書』宰相世系表では、劉烏利の子で、劉猛の兄と記されている(後述)。.

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南匈奴

南匈奴(みなみきょうど、拼音:Nán Xiōngnú)は、48年に匈奴から分かれた南の勢力。これに対して北に残った勢力を北匈奴という。南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むことを許され、後漢と共に北匈奴や鮮卑と戦った。以来、西晋までの間、中国王朝に仕えるが、304年に劉淵が漢王を称して西晋から独立したため、五胡十六国時代が始まる。.

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右賢王

右賢王(うけんおう)は古代の北アジアから中央アジアにかけて存在した遊牧国家、匈奴の国制における地位の一つ。匈奴では左賢王と共に単于に次ぐ地位である。 匈奴は中国の制度に当てはめれば皇帝に当たる単于がおり、その下に左右賢王、左右谷蠡王、左右大将、左右大都尉、左右大当戸、左右骨都侯といった地位があった。それぞれ1万騎から数千騎を擁し、全部で24の長があった。左右賢王はその中でも最も地位が高く、国も最大である。24の長の下には千長、百長、什長、裨小王、相、都尉、当戸、且渠といった部下がいた。 左右賢王の「賢」は匈奴の言葉の「屠耆」を翻訳したものである。 右賢王以下の「右」と付く地位の者は西方に陣取った。.

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同朋舎

株式会社図書印刷同朋舎(としょいんさつ どうほうしゃ)は、京都府京都市下京区に本社をおく出版社である。通称は同朋舎。仏教書や人文関係の専門書の出版、受託印刷を行っている。.

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夏 (五胡十六国)

夏(か、407年 - 431年)は、五胡十六国時代に匈奴鉄弗部の赫連勃勃(劉勃勃)によって建てられた政権。一般に「大夏」と呼ばれる。別名「胡夏」「劉夏」。.

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太守

太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。.

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姚萇

姚 萇(よう ちょう)は、五胡十六国時代の後秦の創建者で、羌の出身。 父の姚弋仲は羌の勢力を率いる後趙の将であった。兄の姚襄が羌の勢力を受け継いで独立を試みたが、前秦の苻堅と戦って敗死した。姚萇はこの後に苻堅に降ったが、苻堅が淝水の戦いで大敗を喫すると独立して苻堅を弑し、後秦を建国した。姚萇時代の後秦はおもに西燕の慕容沖や前秦の残党の苻登と戦った。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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万里の長城

万里の長城(ばんりのちょうじょう、万里长城、、Цагаан хэрэм、、満州語: 、)は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、2007年には新・世界七不思議にも選ばれている。中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在するが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。現存する人工壁の延長は6,259.6kmである。 匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。 よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っているところが多い。これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためである。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く、北京付近の長城は北京から100kmも離れていない稜線上に設けられている。万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したが、北方の遊牧民族も南方の農耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いには交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われていた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。また、長城は観念上においても両勢力の境界線として機能し、たとえば中原の諸王朝が北方遊牧民族を指す場合、「塞外」(塞は城塞の意味で、この場合万里の長城を指す)という言葉が用いられることも多かった。 万里の長城は建設後常に維持・利用されていたわけではなく、積極的に長城を建設・維持する王朝と、まったく長城防衛を行わない王朝の2種が存在し、各王朝の防衛戦略によって長城の位置も大きく変動している。始皇帝による建設以後においては、秦・前漢・北魏・北斉・隋・金・明は大規模な長城建設を行ったのに対し、後漢・魏・晋・五胡十六国の諸王朝・唐・五代の各王朝・宋・元・清は長城防衛をほとんど、あるいはまったく行わなかった。長城の建設位置に関しても、秦・前漢・金は中原から遠く離れた草原地帯に長城を建設したのに対し、北魏・北斉・明は中原に近い山岳地帯を中心に長城を建設した。 なお、「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中華人民共和国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認することは出来ない。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した宇宙飛行士である楊利偉が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中華人民共和国の教科書から、この節は正式に削除された。2004年には、中国系アメリカ人の宇宙飛行士であるリロイ・チャオが、国際宇宙ステーション(ISS)より180ミリ望遠レンズを付けたデジタルカメラで「万里の長城」を写真撮影することに成功したが、肉眼では見えなかったと証言している。.

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并州

并州(へいしゅう)は中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『周礼』では「正北」すなわち中原から真北側にあたる地域であるとし、五岳の一である恒山を山鎮とするとしている。.

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五原郡

五原郡(ごげん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の内モンゴル自治区バヤンノール市および包頭市一帯に設置された。.

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五胡十六国時代

五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。.

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代 (五胡十六国)

代(だい、拼音:)は、中国の五胡十六国時代に建てられた鮮卑拓跋部の国。315年から376年まで8主を擁し、およそ61年続いた。.

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張コウ (前秦)

張 蚝(ちょう こう、生没年不詳)は、五胡十六国時代の前秦の武将である。上党郡泫氏県(山西省高平市)の人。本姓は弓氏である。鄧羌と共に「万人の敵」と恐れられた。.

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後秦

後秦(こうしん、384年 - 417年)は、中国の五胡十六国時代に羌族の族長姚萇によって建てられた国。姚秦(ようしん)とも呼ばれる。.

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後燕

後燕(こうえん、拼音:Hòu-yàn)は、中国の五胡十六国時代に存在した国(384年 - 407年)。華北を統一した前秦が383年の淝水の戦いで東晋に大敗した後、前燕の将軍だった慕容垂によって建国された。中山(河北省定県)に都し、華北東部と遼西を領有した。.

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後趙

後趙(こうちょう、ごちょう、、319年 - 351年)は、中国の五胡十六国時代に羯族の石勒によって建てられた国。国号は単に趙(ちょう)であるが、同時代に劉淵によって建てられた同じく国号を趙とする国があるために、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別する。また、石氏の王朝のために石趙(せきちょう)とも呼ばれる。.

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匈奴

匈奴(きょうど、)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。.

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北魏

北魏(ほくぎ、、386年 - 534年)は、中国の南北朝時代に鮮卑族の拓跋氏によって建てられた国。前秦崩壊後に独立し、華北を統一して五胡十六国時代を終焉させた。 国号は魏だが、戦国時代の魏や三国時代の魏などと区別するため、通常はこの拓跋氏の魏を北魏と呼んでいる。また三国時代の魏は曹氏が建てたことからこれを曹魏と呼ぶのに対して、拓跋氏の魏はその漢風姓である元氏からとって元魏(げんぎ)と呼ぶこともある(広義には東魏と西魏もこれに含まれる)。さらに国号の由来から、曹魏のことを前魏、元魏のことを後魏(こうぎ)と呼ぶこともある。.

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トウ羌

鄧 羌(とう きょう、生没年不詳)は、五胡十六国時代の前秦の武将である。安定郡(寧夏回族自治区中南部及び甘粛省平涼市、白銀市及び鎮原県一帯に相当)の人。前秦を代表する猛将であり、その武勇は張蚝と共に「万人の敵」と恐れられた。.

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ピン音

(ピンイン)は、中国語で音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系を指す。一般的な場合この語は、(かんごピンイン、Hànyǔ Pīnyīn)と呼ばれる1958年に中華人民共和国が制定したという表記法、またはそれに基づくという文字を指す。 のように中国大陸とは異なる「」もあり、ウェード式などの他のラテン文字による表記法も中国語ではと称することがある。の名称は、それらと特に区別する必要がある場合用いられる。 は、当初は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていたが、現在では中国語の発音記号として使用されている。.

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刺史

刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.

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オルドス地方

ルドス地方の位置。 内モンゴル自治区におけるオルドス地方の位置。 オルドス地方(モンゴル語: Ordos、オルドスちほう、鄂爾多斯)とは、中国・内モンゴル自治区南部の黄河屈曲部で、西・北・東を黄河に、南を万里の長城に囲まれた地方。行政区分としてはイフ・ジョー(伊克昭)盟が2002年にオルドス市となり、オルドス地方の大半を占める。黄河対岸(北側)の河套平原なども含め、河套(かとう)ともいう。 大部分が海抜1500メートル前後の高原(準平原)でオルドス高原と呼ばれ、南側は黄土高原に続く。一部はステップ、大部分が砂漠でオルドス砂漠という。砂漠は大きく2つに分かれており、それぞれクブチ(庫布其)砂漠、ムウス(毛烏素)砂漠という。面積はそれぞれ1万6千平方キロメートル、4万2千平方キロメートル。農業や牧畜が行われるが、砂漠化や土壌流失が激しい。年平均降水量は200~500mmほどだが、半分以上が梅雨や秋雨にあたる7~9月に降る。また、雨が多い年は平均の2~4倍の雨が降ることもあり、洪水や激しい土壌流失が起こる。 オルドスという地名は、明代以降この地に住み着いたモンゴル人の部族「オルドス部」に由来する。それよりはるか前、旧石器時代から人が住み、特に紀元前6世紀から2世紀にかけて遊牧騎馬民族によるオルドス青銅器文化が栄えた。匈奴、趙、秦、漢によって次々に征服され、南部には万里の長城が築かれた。その後も匈奴系や突厥系などの遊牧民が住み、遊牧民族王朝(遼、西夏、元など)あるいは中華王朝(唐、明など)による支配を受けた。清代から漢族が入植し、現在の住民は漢族が多い。.

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内田吟風

内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月26日 - 2003年(平成14年))は、日本の東洋史学者、神戸大学名誉教授。.

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前秦

前秦(ぜんしん、、 351年 - 394年)は、中国の五胡十六国時代に氐族によって建てられた国。国号は単に秦だが、この秦を滅ぼして起こった西秦と後秦があるために前秦と呼んで区別する。 一時は華北を平定し中華統一を目指したが、南下して東晋に大敗。敗戦後に華北で諸国の自立と離反が相次ぎ滅亡した。.

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前趙

前趙(ぜんちょう、、304年 - 329年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。建国者は劉淵。当初の国号は漢であり、劉曜の時代に趙に改めた。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。劉趙、漢趙とも呼称される。.

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石虎

石 虎(せき こ)は、五胡十六国時代の後趙の第3代皇帝。唐代に編纂された『晋書』では、唐の高祖李淵の祖父である李虎の諱を避けるため、字の季龍を用いて石季龍と記されている。石勒(後趙の初代皇帝・明帝)の従子(甥もしくは1世代下の親族)であり、石勒の没後、石弘から帝位を奪って皇帝になった。 石虎は将として有能だったことから石勒に信頼され、後趙の華北周辺の平定に多大な貢献をした。しかし同時にその暴虐さでも知られ、後趙の天王を称した際には非道な法律、重い税金と労働を課し、それを大宮殿を建てたり妾を集めることに費やした。その没後は、子の石祗らと養孫の冉閔が後継争いを繰り広げ、後趙の崩壊を早めた。.

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独孤部

孤 部(呉音:どくこ ぶ、漢音:とくこ ぶ、拼音:Dúgū Bù)は、中国五胡十六国時代に存在した匈奴屠各種に属する部族。その子孫の劉氏・独孤氏は北朝・隋唐時代において、名門貴族として繁栄した。.

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登国

登国(とうこく)は、南北朝時代の北魏において道武帝の治世に使用された元号。386年正月 - 396年6月。.

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道武帝

道武帝(どうぶてい)は、北朝北魏の初代皇帝。姓諱は拓跋珪(たくばつ けい)。別名は渉珪、什翼圭、翼圭、開。.

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西燕

西燕(せいえん、拼音:Xī-yàn、384年 - 394年)は、中国の五胡十六国時代に鮮卑慕容部の慕容泓によって建てられた国。短命だったので十六国に数えられていない。ただし前燕の嫡流にあたり、他の燕朝より最も前燕に近い血統の王朝である。.

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西晋

西晋(せいしん、)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。.

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魏書

『魏書』(ぎしょ)は、中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。.

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鮮卑

鮮卑(せんぴ、拼音:)は、紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代,南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた。.

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資治通鑑

『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊7年)の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。.

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黄河

河流域 黄河(こうが、、ファンフー)とは、中国の北部を流れ、渤海へと注ぐ川。全長約5,464kmで、中国では長江(揚子江)に次いで2番目に長く、アジアでは長江とエニセイ川に次いで3位、世界では6番目の長さである。なお、河という漢字は本来固有名詞であり、中国で「河」と書いたときは黄河を指す。これに対し、「江」と書いたときは長江を指す。現在の中国文明の直接の母体である黄河文明を育んだ川であり、中国史上において長江と並び巨大な存在感を持つ河川である。.

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赫連

赫連(かくれん)は、漢姓のひとつ。『百家姓』の417番目。5世紀の赫連勃勃に由来する。.

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赫連勃勃

赫連 勃勃(かくれん ぼつぼつ、音訛して赫連佛佛とも『釈氏通鑑』等仏教説話)は五胡十六国時代の夏(大夏・北夏・胡夏)の創建者。匈奴の出身で、劉衛辰の三男である。当初は劉勃勃と名乗り、没後は武烈皇帝と諡された。後世の北魏の太武帝が卑下して改名したため、『魏書』では赫連屈丐(屈孑)という表記が用いられている『魏書』「列伝第八十三 - 鉄弗劉虎」巻95。 赫連勃勃は後秦から独立して夏の政権を建て、騎馬攻撃により後秦の国力を疲弊させることで滅亡に追い込んだ。その後は東晋の劉裕や北魏と対立した。晩年は皇位を巡って子の赫連璝、赫連倫、赫連昌らが争った。聡明で美しい容貌であったが残虐で信義に欠け、快楽殺人者であったと史書に記される『晋書』「赫連勃勃載記」巻130。.

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苻堅

苻 堅(ふ けん)は、五胡十六国時代の前秦の第3代皇帝(大秦天王)川本『中国の歴史、中華の崩壊と拡大、魏晋南北朝』、P91。 氐族である苻堅は、宰相の王猛を重用して前燕や前涼等を滅ぼし、五胡十六国時代において唯一の例である華北統一に成功した上に東晋の益州を征服して前秦の最盛期を築いた。中国統一を目指して383年に大軍を南下させたが、諸因により淝水の戦いで東晋に大敗した。以後統治下の諸部族が反乱・自立すると前秦は衰退し、苻堅は385年に独立した羌族の部下姚萇に殺害された。.

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苻洛

苻 洛(ふ らく、? - 385年)は、五胡十六国時代前秦の皇族。略陽郡臨渭県(現在の陝西省漢中市略陽県)の出身。初代皇帝の苻健の甥(長兄の子)に当たる。兄に苻莄眉・苻菁・苻重ら。子に苻朗がいる。.

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雁門郡

雁門郡(鴈門郡、がんもん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の山西省北部に設置された。.

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離間計

離間計(りかんのけい)は、対象の仲を裂くことで状況を打破する戦術。 敵対する親子・兄弟・君臣・同盟といった関係の弱点を密かに突いたり、結びつく要因(人・物・利害)を悟られないように利用したりして心理戦を仕掛けることで、対象となる関係を内部から崩し、漁夫の利を得ようとするものである。 反間計と混同されることがあるが、それぞれ異なる計略である。古今東西で用いられる。.

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泰始 (晋)

泰始(たいし)は、西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号。265年 - 274年。.

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朔方郡

朔方郡(さくほう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代に現在の内モンゴル自治区オルドス市とバヤンノール市にまたがる地域に設置された。北魏以降は現在の陝西省楡林市周辺に置かれた。.

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新唐書

『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.

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新興郡 (中国)

新興郡(しんこう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢末から唐代にかけて、同名の郡が別の地に立てられた。.

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攣テイ氏

攣鞮氏・攣鞮部(れんていし/れんていぶ、拼音:Luándī-shì)は、紀元前4世紀から2世紀に中央ユーラシアに存在した遊牧国家匈奴の君主である単于を輩出した氏族。『後漢書』では虚連題氏(きょれんていし、拼音:Xūliántí-shì)と表記された。南匈奴の中心種族である屠各種の直系で、南匈奴が崩壊すると中国風の劉氏に改姓した。独孤部・鉄弗部・破六韓部とは同族である。.

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慕容垂

慕容 垂(ぼよう すい、)は、五胡十六国時代の後燕の創建者。 当初は前燕の皇族で、桓温を撃退するなど活躍したが、奸臣の慕容評等に命を狙われて前秦に亡命した。383年に前秦が淝水の戦いで大敗すると自立して前燕の復興として後燕を建国した。395年、太子の慕容宝が参合陂の戦いで大敗すると自ら反撃したが退軍中に病を患って死去した。.

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慕容永

慕容 永(ぼよう えい)は、五胡十六国時代の西燕の第6代で最後の皇帝。 前燕の皇統であり、西燕の皇帝としては部下に従い鮮卑の故地へ東進した。394年、前燕の後継としての正統性を意識した同じく前燕の皇統の後燕皇帝慕容垂に滅ぼされた。.

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拓跋寔君

拓跋 寔君(たくはつ しょくくん、拼音:Tuòbá Shíjūn、生没年不詳)は、代王拓跋什翼犍の庶長子。別名を拓跋実君という。北魏の初代皇帝拓跋珪の伯父。.

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拓跋什翼ケン

拓跋什翼犍(たくばつ じゅうよくけん、拼音:Tuòbá Shíyìjiàn 生没年:318年 - 376年)は 五胡十六国時代の代国の王。北魏の太祖道武帝の祖父である。道武帝より廟号を高祖、諡号を昭成皇帝と追号されている。『晋書』では渉翼犍と記載される。.

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拓跋窟咄

拓跋窟咄(たくばつ くつとつ、生年不詳 - 386年)は、代の王族。甥にあたる北魏の道武帝と対抗した。.

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拓跋猗盧

拓跋猗盧(たくばつ いろ、拼音:Tuòbá Yīlú、? - 316年)は、鮮卑族拓跋部の大人で、五胡十六国時代の代国の初代王(在位:315年 - 316年)である。父は拓跋沙漠汗。兄は拓跋猗㐌、弟は拓跋弗。北魏の道武帝より穆皇帝と追諡された。劉琨と協力し、晋朝復権のために漢朝と生涯争い続けた。.

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拓跋鬱律

拓跋鬱律(たくばつ うつりつ、、? - 321年没)は、五胡十六国時代の代国の王(在位:317年 - 321年)。父は拓跋弗、子には拓跋翳槐、犍、拓跋孤がいる。北魏の道武帝より、太祖の廟号と平文皇帝の諡号を追贈された。.

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拓跋部

拓跋部(たくばつぶ、)は、鮮卑族の一部族で、華北に北魏などの王朝を建てた。托跋部、索頭部、索虜などとも表記される。.

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晋書

『晋書』(しんじょ )は、中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。.

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1988年

この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。.

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272年

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309年

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310年

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318年

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341年

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351年

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356年

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358年

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359年

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360年

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361年

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365年

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367年

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374年

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375年

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376年

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386年

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387年

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390年

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391年

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407年

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