ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

南匈奴

索引 南匈奴

南匈奴(みなみきょうど、拼音:Nán Xiōngnú)は、48年に匈奴から分かれた南の勢力。これに対して北に残った勢力を北匈奴という。南匈奴は後漢に服属し、長城の内側に住むことを許され、後漢と共に北匈奴や鮮卑と戦った。以来、西晋までの間、中国王朝に仕えるが、304年に劉淵が漢王を称して西晋から独立したため、五胡十六国時代が始まる。.

229 関係: 劉猛 (匈奴)劉豹 (匈奴)劉虞劉氏劉淵去卑去特若尸逐就単于単于右賢王司州司馬炎同朋舎夏 (五胡十六国)大司農天山山脈天鳳 (元号)太原郡太守太康 (晋)太僕安国単于屠特若尸逐就単于山西省崩御左賢王上奏中山郡中平中郎将常山郡丘除車林テイ単于丘浮尤テイ単于万里の長城三国志 (歴史書)平陽郡并州幽州度遼将軍亭独尸逐侯テイ単于康居五原郡五台県五胡十六国時代代郡延熹建安 (漢)建初 (漢)建武 (漢)伊屠於閭テイ単于伊伐於慮テイ単于...伊陵尸逐就単于張奐張純 (後漢末)張楊休蘭尸逐侯テイ単于使匈奴中郎将征西大将軍後漢後漢書匈奴匈奴語北史ランキン度ラクダピン音初平刺史呼廚泉呼徴呼韓邪単于呼都而尸道皐若テイ単于呼蘭若尸逐就単于咸寧 (晋)和帝 (漢)イクケン左賢王単于ウマウシギョウゴビ砂漠内田吟風冀州元和 (漢)光和光武帝前趙王氏祁県禅譲章帝章和 (漢)竇憲紀元前8年羌渠烏珠留若テイ単于烏稽侯尸逐テイ単于烏達テイ侯烏桓生口熹平独孤部隰県遼東郡鍾ヨウ萬氏尸逐侯テイ単于蝗害須卜骨都侯単于順帝 (漢)袁紹袁術西河郡西晋馬超騎都尉高幹魏 (三国)魏書護烏桓校尉鮮卑資治通鑑麹義車紐車騎将軍黄巾の乱黄初黄河霊帝 (漢)胡奮郭援都尉興平 (漢)赫連董卓蒲奴鄭衆 (大司農)醢僮尸逐侯テイ単于醢落尸逐テイ単于鉄弗部雲中郡逢侯耿秉李茂李氏檀石槐永平 (漢)永建 (漢)永初 (漢)永元 (漢)汾陽県河東郡 (中国)泰始 (晋)洛陽市涼州湖邪尸逐侯テイ単于漁陽郡漢安朔方郡明帝 (漢)新唐書新興郡 (中国)於夫羅文水県攣テイ氏曹奐曹丕曹操晋書109年110年118年124年128年13年140年143年144年147年166年172年177年178年179年184年187年188年189年18年190年191年192年193年195年196年1988年202年216年220年265年271年272年276年277年280年290年304年46年47年48年49年50年56年57年59年63年65年73年76年85年87年88年89年90年91年93年94年95年98年 インデックスを展開 (179 もっと) »

劉猛 (匈奴)

劉 猛(呉音:る みょう、漢音:りゅう もう、拼音:Liú Mĕng、? - 272年)は、中国三国時代から西晋時代の南匈奴屠各種の一族。前趙の劉淵の従曾祖父、劉副侖の父。『新唐書』宰相世系表では、一族の独孤部の首長である劉進伯の曾孫、劉尸利の孫、劉烏利の子で、去卑の弟、『北史』破六韓常伝では、羌渠の弟となっている。.

新しい!!: 南匈奴と劉猛 (匈奴) · 続きを見る »

劉豹 (匈奴)

劉 豹(りゅう ひょう、生没年不詳)は、中国後漢末期から西晋時代の南匈奴の左賢王。南匈奴の単于を輩出した屠各種攣鞮部の出身で於夫羅の子、蔡文姫との2子と劉延年、劉淵(漢(前趙)の光文帝)、劉盛、劉欽の父。匈奴出身者が漢化した後に劉姓を名乗るのは劉豹からであるが、これは前漢代の冒頓単于より匈奴と漢宗室との間に姻戚関係があることに由来する。.

新しい!!: 南匈奴と劉豹 (匈奴) · 続きを見る »

劉虞

劉 虞(りゅう ぐ、? - 初平4年(193年))は、後漢の宗室(広義の皇族)。字は伯安。徐州東海郡郯県(現山東省臨沂市郯城県)の人。子は劉和。.

新しい!!: 南匈奴と劉虞 · 続きを見る »

劉氏

劉氏(りゅうし)は、漢姓の一つ。.

新しい!!: 南匈奴と劉氏 · 続きを見る »

劉淵

劉 淵(りゅう えん)は、五胡十六国時代の漢(後の前趙)の創建者。唐代に編纂された『晋書』では、高祖李淵の諱を避け、字を用いて劉元海と表記されている。新興(現在の山西省忻州市)出身。一説に西河隰城(現在の山西省汾陽市)出身ともされる。南匈奴の単于を輩出した屠各種攣鞮部の出身で於夫羅の孫、劉豹の嫡子。.

新しい!!: 南匈奴と劉淵 · 続きを見る »

去卑

去卑(呉音:くひ、漢音:きょひ、拼音:Qùbēi、生没年不詳)は、中国・後漢末期から三国時代にかけての南匈奴屠各種攣鞮部の一族で、甥の呼廚泉単于の代に右賢王となる。誥升爰の父。潘六奚(破六韓部の始祖)の兄弟か従兄弟。鉄弗部の祖で、夏を建国した赫連勃勃はその後裔である。『北史』破六韓常伝では、羌渠単于の弟、『新唐書』宰相世系表では、劉烏利の子で、劉猛の兄と記されている(後述)。.

新しい!!: 南匈奴と去卑 · 続きを見る »

去特若尸逐就単于

去特若尸逐就単于(きょとくじゃくしちくしゅうぜんう、拼音:Qùtèruòshīzhújiùchányú, ? - 140年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。湖邪尸逐侯鞮単于の子。去特若尸逐就単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は休利という。.

新しい!!: 南匈奴と去特若尸逐就単于 · 続きを見る »

単于

単于(呉音:ぜんう、漢音:せんう、拼音:Chányú)とは、匈奴を初めとした北アジア遊牧国家の初期の君主号である。また、単于の妻のことを閼氏(えんし)といい、特定の姻族または漢の公主がこれになった。.

新しい!!: 南匈奴と単于 · 続きを見る »

右賢王

右賢王(うけんおう)は古代の北アジアから中央アジアにかけて存在した遊牧国家、匈奴の国制における地位の一つ。匈奴では左賢王と共に単于に次ぐ地位である。 匈奴は中国の制度に当てはめれば皇帝に当たる単于がおり、その下に左右賢王、左右谷蠡王、左右大将、左右大都尉、左右大当戸、左右骨都侯といった地位があった。それぞれ1万騎から数千騎を擁し、全部で24の長があった。左右賢王はその中でも最も地位が高く、国も最大である。24の長の下には千長、百長、什長、裨小王、相、都尉、当戸、且渠といった部下がいた。 左右賢王の「賢」は匈奴の言葉の「屠耆」を翻訳したものである。 右賢王以下の「右」と付く地位の者は西方に陣取った。.

新しい!!: 南匈奴と右賢王 · 続きを見る »

司州

司州(ししゅう)は、中国・魏晋南北朝時代に都が置かれた地及びその周辺数郡の行政を監督した司州牧の管掌地域である。 漢代の司隷校尉部(司隷)に相当する。司隷は、後漢以来、監察地域が行政区画に変容して、当時の都である洛陽が、司隷校尉の駐留地に固定された。司州が、その通称として用いられ始めるのは、魏の時代である。 正式名称として、司州の名が用いられるようになったのは、西晋の太康元年(280年)のことである。永嘉の乱以後、西晋が瓦解すると、東晋では、合肥・滎陽・襄陽の各地に設置された。 南朝の宋・梁代には、信陽に置かれた。 一方の北朝の諸王朝では、各国の都に置かれた。後趙・石勒の治世には襄国であったが、石虎代には鄴に移された。北魏では最初は平城にあったが、孝文帝代に洛陽に移った。東魏・北斉の時代は、再び鄴に置かれた。.

新しい!!: 南匈奴と司州 · 続きを見る »

司馬炎

司馬 炎(しば えん)は、西晋の初代皇帝。諡号は武帝。 魏から禅譲を受けて晋を建て、さらに呉を滅ぼして、分裂状態が続いていた中国をおよそ100年ぶりに統一した。しかし統一後は政治への興味を失い、後の八王の乱の遠因を作った。.

新しい!!: 南匈奴と司馬炎 · 続きを見る »

同朋舎

株式会社図書印刷同朋舎(としょいんさつ どうほうしゃ)は、京都府京都市下京区に本社をおく出版社である。通称は同朋舎。仏教書や人文関係の専門書の出版、受託印刷を行っている。.

新しい!!: 南匈奴と同朋舎 · 続きを見る »

夏 (五胡十六国)

夏(か、407年 - 431年)は、五胡十六国時代に匈奴鉄弗部の赫連勃勃(劉勃勃)によって建てられた政権。一般に「大夏」と呼ばれる。別名「胡夏」「劉夏」。.

新しい!!: 南匈奴と夏 (五胡十六国) · 続きを見る »

大司農

大司農(だいしのう)は古代中国の官職名。.

新しい!!: 南匈奴と大司農 · 続きを見る »

天山山脈

天山山脈(てんざんさんみゃく、テンシャンさんみゃく、中国語簡体字:天山山脉、)は中央アジア、タクラマカン砂漠の北および西のカザフスタン、キルギス、中国の国境地帯にある山脈。 ウイグル語名は天の山を意味するテンリ・タグ(تەڭرىتاغ Tengri tagh)といい、漢名はこれに由来する。 南はパミール高原に繋がる。最高峰はポベーダ山(7,439 m)で、中国とキルギスの国境にあり、キルギスの最高峰でもある。2番目に高いのはハン・テングリ(7,010 m)でカザフスタンとキルギスの国境にある。トルガルト峠(3,752 m)がキルギスと新疆ウイグル自治区の境界に位置している。天山山脈を源流とする主な河川はシルダリヤ川とタリム川。.

新しい!!: 南匈奴と天山山脈 · 続きを見る »

天鳳 (元号)

天鳳(てんぽう)は、新の王莽の治世に行われた2番目の元号。14年 - 19年。.

新しい!!: 南匈奴と天鳳 (元号) · 続きを見る »

太原郡

太原郡(たいげん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から隋代にかけて、現在の山西省太原市一帯に設置された。.

新しい!!: 南匈奴と太原郡 · 続きを見る »

太守

太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。.

新しい!!: 南匈奴と太守 · 続きを見る »

太康 (晋)

太康(たいこう)は、西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号。280年 - 289年。.

新しい!!: 南匈奴と太康 (晋) · 続きを見る »

太僕

太僕(たいぼく)とは、中国の官名である。.

新しい!!: 南匈奴と太僕 · 続きを見る »

安国単于

安国 単于(あんこくぜんう、拼音:Ānguó Chányú, ? - 94年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。伊伐於慮鞮単于の子、伊屠於閭鞮単于の弟。在位中に殺されたため単于号がなく、姓は虚連題氏、安国というのは名である。.

新しい!!: 南匈奴と安国単于 · 続きを見る »

屠特若尸逐就単于

屠特若尸逐就単于(ととくじゃくしちくしゅうぜんう、拼音:Tútèruòshīzhújiùchányú, ? - 177年没)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。伊陵尸逐就単于の子。屠特若尸逐就単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は不明。.

新しい!!: 南匈奴と屠特若尸逐就単于 · 続きを見る »

山西省

山西省(さんせいしょう、中国語:山西省、拼音:Shānxī Shěng、英語:Shanxi)は、中華人民共和国の行政区分の一つ。省都は太原市。略称は晋。.

新しい!!: 南匈奴と山西省 · 続きを見る »

崩御

崩御(ほうぎょ)は、天皇、皇帝、国王、太皇太后、皇太后、皇后、君主等の死亡を表す敬語。.

新しい!!: 南匈奴と崩御 · 続きを見る »

左賢王

左賢王(さけんおう)は古代の北アジアから中央アジアにかけて存在した遊牧国家、匈奴の国制における地位・称号の一つ。匈奴では右賢王と共に単于に次ぐ地位である。 匈奴は中国の制度に当てはめれば皇帝に当たる単于がおり、その下に左右賢王、左右谷蠡王、左右大将、左右大都尉、左右大当戸、左右骨都侯といった地位があった。それぞれ1万騎から数千騎を擁し、全部で24の長があった。左右賢王はその中でも最も地位が高く、国も最大である。24の長の下には千長、百長、什長、裨小王、相、都尉、当戸、且渠といった部下がいた。 左賢王は単于の後継ぎが就く地位であり、中国の制度で言えば皇太子である。 左右賢王の「賢」は匈奴の言葉の「屠耆」を翻訳したものである。 左賢王以下の「左」と付く地位の者は東方に陣取った。.

新しい!!: 南匈奴と左賢王 · 続きを見る »

上奏

上奏(じょうそう)とは、天子(皇帝・天皇)に意見・事情等を申し上げることである。奏上ともいう。.

新しい!!: 南匈奴と上奏 · 続きを見る »

中山郡

中山郡(ちゅうざん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から隋初にかけて、現在の河北省中部に設置された。.

新しい!!: 南匈奴と中山郡 · 続きを見る »

中平

中平(ちゅうへい)は、後漢の霊帝劉宏の治世に行われた4番目の元号。184年 - 189年。中平6年は4月に少帝劉弁が即位した際、改元されて光熹元年とされたが、8月に昭寧と改められ、さらに9月に献帝劉協が即位した際、永漢に改められた。しかし、12月、光熹・昭寧・永漢の三号は除かれ、再び中平6年に戻された。.

新しい!!: 南匈奴と中平 · 続きを見る »

中郎将

中郎将(ちゅうろうしょう)は、中国の前漢以降の官職名。 前漢においては、光禄勲(郎中令)に属し、宮殿の門戸を守り戦時には戦車や騎兵に充てられる中郎(秩比六百石)を統率した。 五官中郎将、左中郎将、右中郎将の3将がおり、また、宣帝の時に羽林を統率する羽林中郎将が、平帝の元始元年(1年)に虎賁郎を統率する虎賁中郎将が置かれた。中郎将は全て秩比二千石であった。 後漢においても光禄勲に属し、五官中郎将、左中郎将、右中郎将、虎賁中郎将、羽林中郎将が引き続き置かれ、いずれも秩比二千石であった。 五官中郎将、左中郎将、右中郎将は中郎(秩比六百石)、侍郎(秩比四百石)、郎中(秩比三百石)を統率した。 虎賁中郎将は宿衛侍従を掌り、属官には左右僕射、左右陛長(秩比六百石)がおり、中郎(秩比六百石)、侍郎(秩比四百石)、郎中(秩比三百石)を統率した。虎賁郎は本人が死んだら子が代わりに就任することとなっていた(『続漢書』劉昭注引荀綽『晋百官表注』)。 羽林中郎将もまた宿衛侍従を掌り、羽林郎(秩比三百石)を統率した。また羽林には羽林左監、羽林右監(秩比六百石)がおり、羽林騎を司った。 また後漢末頃には東西南北の方位を付した四中郎将があり、遠征軍の指揮官となった。 後漢末の戦乱の時期には、各軍閥が配下を独自の名を持つ中郎将に任命することがあった(例えば、劉備は諸葛亮を軍師中郎将とした)。 二千石には皇帝の許可なく逮捕できない特権(『漢書』文帝紀、文帝前7年)や、兄弟や子を郎に就けることができる任子(『漢書』哀帝紀注)などの特権があった。比二千石以上の官が持つ印綬は銀印青綬であった。.

新しい!!: 南匈奴と中郎将 · 続きを見る »

常山郡

常山郡(じょうざんぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の河北省石家荘市一帯に設置された。.

新しい!!: 南匈奴と常山郡 · 続きを見る »

丘除車林テイ単于

丘除車林鞮単于(きゅうちょしゃりんていぜんう、拼音:Qiūchúchēlíndīchányú, ? - 63年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。丘浮尤鞮単于の子。丘除車林鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は蘇という。.

新しい!!: 南匈奴と丘除車林テイ単于 · 続きを見る »

丘浮尤テイ単于

丘浮尤鞮単于(きゅうふゆうていぜんう、、 ? - 57年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。烏珠留若鞮単于の子、醢落尸逐鞮単于の弟。丘浮尤鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は莫という。.

新しい!!: 南匈奴と丘浮尤テイ単于 · 続きを見る »

万里の長城

万里の長城(ばんりのちょうじょう、万里长城、、Цагаан хэрэм、、満州語: 、)は、中華人民共和国に存在する城壁の遺跡である。ユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録されており、2007年には新・世界七不思議にも選ばれている。中国には他にも長く連なった城壁、いわゆる長城は存在するが、万里の長城が規模的にも歴史的にも圧倒的に巨大なため、単に長城と言えば万里の長城のことを指す。現存する人工壁の延長は6,259.6kmである。 匈奴のような北方の異民族が侵攻してくるのを迎撃するために、秦代の紀元前214年に始皇帝によって建設された。長城は始皇帝によって建設されたと一般には考えられているが、実際にはその後いくつかの王朝によって修築と移転が繰り返され、現存の「万里の長城」の大部分は明代に作られたものである。この現存する明代の長城線は秦代に比べて遥かに南へ後退している。 よく「農耕民族と遊牧民族の境界線」と言われるが、秦・漢代の長城は草原の中に建っているところが多い。これは両王朝が遊牧民族に対し優位に立ち、勢力圏を可能な限り北方へと広げようとしたためである。それに対し明代の長城は防衛を容易にするために中国本土に近いところに建設されており、とくに首都北京付近においてその傾向が強く、北京付近の長城は北京から100kmも離れていない稜線上に設けられている。万里の長城は南北両勢力の境界線として機能したが、北方の遊牧民族も南方の農耕民族もお互いの物産を必要としており、長城沿いには交易所がいくつも設けられ、盛んに取引が行われていた。交易はいつもうまくいっていたわけではなく、北方民族側の思うとおりにいかない場合もあった。その交易を有利にするための威嚇として、明の力が弱い時期に北方民族は長城を越えて侵入を繰り返していた。また、長城は観念上においても両勢力の境界線として機能し、たとえば中原の諸王朝が北方遊牧民族を指す場合、「塞外」(塞は城塞の意味で、この場合万里の長城を指す)という言葉が用いられることも多かった。 万里の長城は建設後常に維持・利用されていたわけではなく、積極的に長城を建設・維持する王朝と、まったく長城防衛を行わない王朝の2種が存在し、各王朝の防衛戦略によって長城の位置も大きく変動している。始皇帝による建設以後においては、秦・前漢・北魏・北斉・隋・金・明は大規模な長城建設を行ったのに対し、後漢・魏・晋・五胡十六国の諸王朝・唐・五代の各王朝・宋・元・清は長城防衛をほとんど、あるいはまったく行わなかった。長城の建設位置に関しても、秦・前漢・金は中原から遠く離れた草原地帯に長城を建設したのに対し、北魏・北斉・明は中原に近い山岳地帯を中心に長城を建設した。 なお、「宇宙から肉眼で見える唯一の建造物」と言われ、中華人民共和国の教科書にも掲載されていたが、実際には幅が細い上、周囲の色と区別が付きにくいため、視認することは出来ない。2003年に中国初の有人宇宙船「神舟5号」に搭乗した宇宙飛行士である楊利偉が、「万里の長城は見えなかった」と証言したため、中華人民共和国の教科書から、この節は正式に削除された。2004年には、中国系アメリカ人の宇宙飛行士であるリロイ・チャオが、国際宇宙ステーション(ISS)より180ミリ望遠レンズを付けたデジタルカメラで「万里の長城」を写真撮影することに成功したが、肉眼では見えなかったと証言している。.

新しい!!: 南匈奴と万里の長城 · 続きを見る »

三国志 (歴史書)

『三国志』(さんごくし)は、中国・西晋代の陳寿の撰による、三国時代について書かれた歴史書。後漢の混乱期から、西晋による三国統一までの時代を扱う。二十四史の一。.

新しい!!: 南匈奴と三国志 (歴史書) · 続きを見る »

平陽郡

平陽郡(へいよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。三国時代から唐代にかけて、現在の山西省南西部に設置された。.

新しい!!: 南匈奴と平陽郡 · 続きを見る »

并州

并州(へいしゅう)は中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『周礼』では「正北」すなわち中原から真北側にあたる地域であるとし、五岳の一である恒山を山鎮とするとしている。.

新しい!!: 南匈奴と并州 · 続きを見る »

幽州

幽州(ゆうしゅう)は、中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』、『呂氏春秋』では「燕である」としており、『周礼』では「東北」としている。『晋書』地理志では「北方は陰気が多いことにより、幽冥をもって名称とした」としている。.

新しい!!: 南匈奴と幽州 · 続きを見る »

度遼将軍

度遼将軍(とりょうしょうぐん/たくりょうしょうぐん)は前漢以降の官職名。渡遼将軍(遼水を渡って北族を討つ将軍の意)とも書かれる。 昭帝の元鳳3年(紀元前78年)、遼東の烏桓が反乱した際に中郎将の范明友が任命され、烏桓を討ったことに始まる。前漢においては范明友が解任された後は確認できない。 後漢の明帝の永平8年(65年)、降伏した南匈奴で二心を抱く者を監視し備えるために「行度遼将軍事」が置かれ、五原郡曼柏に駐屯することとされた。安帝の元初元年(114年)には辺境に不安が多いことから正式に常設の官とされた。官秩は二千石、銀印青綬であり、属官に長史、司馬2名が置かれた。.

新しい!!: 南匈奴と度遼将軍 · 続きを見る »

亭独尸逐侯テイ単于

亭独尸逐侯鞮単于(ていとくしちくこうていぜんう、拼音:Tíngdúshīzhúhóudīchányú, ? - 98年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。醢僮尸逐侯鞮単于の子。亭独尸逐侯鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は師子という。.

新しい!!: 南匈奴と亭独尸逐侯テイ単于 · 続きを見る »

康居

紀元前1世紀の西域諸国。 康居(呉音:こうこ、漢音:こうきょ、拼音:Kāngjū)は、かつて中央アジアに在ったとされる遊牧国家。大宛の西北に在り、シル川の中・下流からシベリア南部を領していたと思われ、現在のカザフスタン南部にあたる。.

新しい!!: 南匈奴と康居 · 続きを見る »

五原郡

五原郡(ごげん-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の内モンゴル自治区バヤンノール市および包頭市一帯に設置された。.

新しい!!: 南匈奴と五原郡 · 続きを見る »

五台県

五台県(ごだい-けん)は中華人民共和国山西省忻州市に位置する県。.

新しい!!: 南匈奴と五台県 · 続きを見る »

五胡十六国時代

五胡十六国時代(ごこじゅうろっこくじだい)は、中国の時代区分のひとつ。304年の漢(前趙)の興起から、439年の北魏による華北統一までを指す。五胡十六国(ごこじゅうろっこく)は、当時、中国華北に分立興亡した民族・国家の総称である。十六国とは北魏末期の史官・崔鴻が私撰した『十六国春秋』に基づくものであり、実際の国の数は16を超える。 後漢末期から北方遊牧民族の北方辺境への移住が進んでいたが、西晋の八王の乱において諸侯がその軍事力を利用したため力をつけ、永嘉の乱でそれを爆発させた。.

新しい!!: 南匈奴と五胡十六国時代 · 続きを見る »

代郡

代郡(だいぐん、拼音:Dài jùn)は、かつて中国に存在した郡。歴史上、秦~晋時代の幽州代郡(現在の河北省蔚県)と、北朝時代の恒州代郡(現在の山西省大同市)がある。.

新しい!!: 南匈奴と代郡 · 続きを見る »

延熹

延熹(えんき)は、後漢の桓帝劉志の治世に行われた6番目の元号。158年 - 167年。延熹10年は6月に改元されて永康元年となった。.

新しい!!: 南匈奴と延熹 · 続きを見る »

建安 (漢)

建安(けんあん)は、後漢の献帝(劉協)の治世に行われた3番目(永漢を除く)の元号。196年 - 220年。建安25年は3月に改元されて延康元年となった。ただし、蜀漢では延康の正統性を認めず、建安を26年(221年)まで使った。.

新しい!!: 南匈奴と建安 (漢) · 続きを見る »

建初 (漢)

建初(けんしょ)は、後漢の章帝劉炟の治世に行われた最初の元号。76年 - 84年。建初9年は、8月に改元されて元和元年となった。.

新しい!!: 南匈奴と建初 (漢) · 続きを見る »

建武 (漢)

建武(けんぶ)は、後漢の光武帝劉秀の治世に行われた最初の元号。25年 - 56年。建武32年(56年)は4月に改元され、建武中元元年となった。 この元号は、漢王朝を再興した際に初めて制定されたものであることから、後に日本で天皇親政を再興した後醍醐天皇が採用する(建武(けんむ):南朝は1334年1月29日 - 1336年2月19日、北朝は1334年1月29日 - 1338年8月28日)。.

新しい!!: 南匈奴と建武 (漢) · 続きを見る »

伊屠於閭テイ単于

伊屠於閭鞮単于(いとおりょていぜんう、拼音:Yītúwūlǘdīchányú, ? - 88年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。伊伐於慮鞮単于の子。伊屠於閭鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は宣という。.

新しい!!: 南匈奴と伊屠於閭テイ単于 · 続きを見る »

伊伐於慮テイ単于

伊伐於慮鞮単于(いはつおりょていぜんう、ピン音:Yīfáwūlǜdīchányú, ? - 59年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。烏珠留若鞮単于の子、丘浮尤鞮単于の弟。伊伐於慮鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は汗という。.

新しい!!: 南匈奴と伊伐於慮テイ単于 · 続きを見る »

伊陵尸逐就単于

伊陵尸逐就単于(いりょうしちくしゅうぜんう、拼音:Yīlíngshīzhújiùchányú, ? - 172年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。伊陵尸逐就単于というのは称号であり、姓は虚連題氏、名は居車児(きょしゃじ)という。.

新しい!!: 南匈奴と伊陵尸逐就単于 · 続きを見る »

張奐

張 奐(ちょう かん、、103年 - 181年)は、中国後漢時代の官僚。字は然明。敦煌淵泉(甘粛省瓜州県)の人で漢陽太守張惇の子。使匈奴中郎将などを歴任し、主に辺境地域で活躍した。.

新しい!!: 南匈奴と張奐 · 続きを見る »

張純 (後漢末)

張 純(ちょう じゅん、? - 189年)は、中国後漢末期の武将。幽州漁陽郡の人。張純の乱の首謀者。.

新しい!!: 南匈奴と張純 (後漢末) · 続きを見る »

張楊

張 楊(ちょう よう、? - 198年)は、中国後漢時代末期の武将、政治家。字は稚叔。并州雲中郡(現在のモンゴル自治区にあるフフホト)の人。張揚と記される例もある。『三国志』魏志に伝がある。.

新しい!!: 南匈奴と張楊 · 続きを見る »

休蘭尸逐侯テイ単于

休蘭尸逐侯鞮単于(きゅうらんしちくこうていぜんう、ピンイン:Xiūlánshīzhúhóudīchányú, ? - 93年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。醢落尸逐鞮単于の子、湖邪尸逐侯鞮単于の弟。休蘭尸逐侯鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は屯屠何という。.

新しい!!: 南匈奴と休蘭尸逐侯テイ単于 · 続きを見る »

使匈奴中郎将

使匈奴中郎将(しきょうどちゅうろうじょう)は、中国後漢時代の官職。西河郡美稷県に駐屯し、おもに南単于を護衛するために置かれた。秩比二千石で節を持つ。属官は従事二人。有事の際はその度に増員された。.

新しい!!: 南匈奴と使匈奴中郎将 · 続きを見る »

征西大将軍

征西大将軍(せいせいたいしょうぐん/ 征西将軍(せいせいしょうぐん))は、奈良・平安時代に九州や四国地方を平定するために天皇(朝廷)から任命された将軍。征戎将軍ともいう。 六国史では、続日本紀養老4年(720年)7月3日条に「征西将軍以下抄士(かじとり)に至るまでそれぞれ物を賜う」とあり、これが「征西将軍」の初見である。 また、日本紀略天慶4年(941年)5月19日条には、瀬戸内海で反乱を起こした藤原純友を征伐するために藤原忠文を征西大将軍に任じるとある。後に南北朝時代に南朝方が、離反した足利尊氏を征伐するために延元元年(1336年)後醍醐天皇の皇子の懐良親王を任命し、さらに正平(1366年)頃には後村上天皇の皇子の良成親王を任命した。.

新しい!!: 南匈奴と征西大将軍 · 続きを見る »

後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

新しい!!: 南匈奴と後漢 · 続きを見る »

後漢書

『後漢書』(ごかんじょ)は、中国後漢朝について書かれた歴史書。二十四史の一つ。本紀十巻、列伝八十巻、志三十巻の全百二十巻からなる紀伝体。成立は5世紀南北朝時代の南朝宋の時代で編者は范曄(はんよう、398年 - 445年)。.

新しい!!: 南匈奴と後漢書 · 続きを見る »

匈奴

匈奴(きょうど、)は、紀元前4世紀頃から5世紀にかけて中央ユーラシアに存在した遊牧民族および、それが中核になって興した遊牧国家(紀元前209年 - 93年)。モンゴル高原を中心とした中央ユーラシア東部に一大勢力を築いた。.

新しい!!: 南匈奴と匈奴 · 続きを見る »

匈奴語

匈奴語(きょうどご)は、騎馬遊牧国家である匈奴で話された言語である。 中国の史書から漢語(中国語)でなかったことは明らかだが、どの言語系統に属すかについては長い間論争が続いており、テュルク諸語という見方がもっとも有力であるが、モンゴル諸語、サモエード諸語、フィン・ウゴル諸語など様々な説があり、いまだに定説がない。匈奴では多くの種族による複数の言語が話されていた可能性もあり、中国文献に音写されたわずかな匈奴語が、今日のトルコ語やモンゴル語で解読されたとしても、それらが匈奴と呼ばれた遊牧民全体の言語系統を示すものとはならないことも留意が必要である。.

新しい!!: 南匈奴と匈奴語 · 続きを見る »

北史

『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。.

新しい!!: 南匈奴と北史 · 続きを見る »

ランキン度

ランキン度(ランキンど、、記号: °R)は、温度の単位である。蘭氏温度(らんしおんど)ともいう。絶対零度を 0 としている点では、ケルビンと同じであるが、ケルビンが 1 度の間隔をセルシウス度(摂氏温度)と同じにしているのに対して、ランキン度は 1 度の間隔をファーレンハイト度(華氏温度)と同じにしている。そのため、華氏を温度の単位として日常で使っているアメリカ圏の人々には非常に使いやすい単位であるが、既に熱力学温度の単位としてケルビンを使うことが決まっており、特に他に用途がないので、実際はあまり普及しなかった。ウィリアム・ランキンにちなむ。 Category:温度の単位 Category:エポニム.

新しい!!: 南匈奴とランキン度 · 続きを見る »

ラクダ

ラクダ(駱駝)は、哺乳類・ウシ目(偶蹄目)・ラクダ科・ラクダ属 Camelus の動物の総称。西アジア原産で背中に1つのこぶをもつヒトコブラクダ Camelus dromedarius と、中央アジア原産で2つのこぶをもつフタコブラクダ Camelus ferus の2種が現存する。砂漠などの乾燥地帯にもっとも適応した家畜であり、古くから乾燥地帯への人類の拡大に大きな役割を果たしている。.

新しい!!: 南匈奴とラクダ · 続きを見る »

ピン音

(ピンイン)は、中国語で音節を音素文字に分け、ラテン文字化して表記する発音表記体系を指す。一般的な場合この語は、(かんごピンイン、Hànyǔ Pīnyīn)と呼ばれる1958年に中華人民共和国が制定したという表記法、またはそれに基づくという文字を指す。 のように中国大陸とは異なる「」もあり、ウェード式などの他のラテン文字による表記法も中国語ではと称することがある。の名称は、それらと特に区別する必要がある場合用いられる。 は、当初は将来的に漢字に代わる文字として中国で位置づけられていたが、現在では中国語の発音記号として使用されている。.

新しい!!: 南匈奴とピン音 · 続きを見る »

初平

初平(しょへい)は、後漢の献帝劉協の治世に行われた最初(永漢を除く)の元号。190年 - 193年。.

新しい!!: 南匈奴と初平 · 続きを見る »

刺史

刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。日本では国守の唐名として使われた。.

新しい!!: 南匈奴と刺史 · 続きを見る »

呼廚泉

呼廚泉(こちゅうせん、拼音:Hūchúquán、生没年不詳)は、中国後漢代から三国時代にかけての南匈奴の屠各種攣鞮部の単于。羌渠の子、於夫羅の弟。.

新しい!!: 南匈奴と呼廚泉 · 続きを見る »

呼徴

呼徴(こちょう、拼音:Hūzhēng, ? - 179年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。屠特若尸逐就単于の子。.

新しい!!: 南匈奴と呼徴 · 続きを見る »

呼韓邪単于

呼韓邪単于(こかんやぜんう、拼音:Hūhányéchányú、? - 紀元前31年)は、中国前漢時代の匈奴の単于。虚閭権渠単于の子で、郅支単于の弟。呼韓邪単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は稽侯狦(けいこうさん)という。漢に降伏したことや王昭君の夫となったことで知られる。.

新しい!!: 南匈奴と呼韓邪単于 · 続きを見る »

呼都而尸道皐若テイ単于

呼都而尸道皋若鞮単于(呉音:こつにしどうこうにゃくたいぜんう、漢音:ことじしとうこうじゃくていせんう、ピンイン:Hūdōuérshīdàogāoruòdīchányú、? - 46年)は、中国新時代から後漢時代にかけての匈奴の単于。呼韓邪単于と第5閼氏との子で、烏累若鞮単于の異母弟。呼都而尸道皋若鞮単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は輿(よ)という。.

新しい!!: 南匈奴と呼都而尸道皐若テイ単于 · 続きを見る »

呼蘭若尸逐就単于

呼蘭若尸逐就単于(こらんじゃくしちくしゅうぜんう、拼音:Hūlánruòshīzhújiùchányú, ? - 147年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。呼蘭若尸逐就単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は兜楼儲(とうろうちょ)という。.

新しい!!: 南匈奴と呼蘭若尸逐就単于 · 続きを見る »

咸寧 (晋)

咸寧(かんねい)は西晋の武帝の治世に使われた元号。275年 - 280年.

新しい!!: 南匈奴と咸寧 (晋) · 続きを見る »

和帝 (漢)

和帝(わてい)は、後漢の第4代皇帝。諱は劉肇。章帝の子(四男)。生母は梁貴人。平原懐王劉勝、殤帝の父。 幼少時は継母の竇太后と竇憲ら竇一族の専横を許していたが、成長するに及んでこれに対し反感を抱くようになり、実権を自らの元に取り戻そうと考えるようになった。一方の竇憲らも和帝の反感を察し、これを害そうと画策し始めた。その動きを察知した和帝は、ひそかに竇氏誅滅を計画した。和帝が密謀の相談役に選んだのは宦官の鄭衆(ていしゅう)であった。彼を用いたのは、宦官ゆえに密謀を行うに都合がよいことと、鄭衆自身が皇帝に対する忠誠心の厚い、明晰で行動力のある人物だったからである。92年(永元4年)、竇憲を宮廷内におびき出し、大将軍の印綬を取り上げ実権を剥奪、領地において自殺を命じた。これにより和帝は竇一族から政治の実権を取り戻すことに成功した。鄭衆はこの功績により鄲郷侯に封じられ、大長秋の官を授けられた。和帝はその後も鄭衆を信任し続けたため、これ以後宦官が政治に深く関わるようになった。 鄭衆自身は政治的には確かに有能で、しかも私心のない人物であったから、彼が政治に参与していた間は問題が表面化することはなかったが、それ以降の宦官の多くは、政治的には無能で金銭に貪欲な人物が多く、彼らの跳梁により政治の腐敗が深刻化した。このようなことから「後漢は和帝の時から衰退を始めた」とする意見が多い。和帝が若くして死去すると、幼帝の補佐として和帝の皇后である鄧氏の一族が外戚として政治の実権を握るなど、外戚勢力も復活した。以後の後漢でも幼帝が続き、その度ことに外戚勢力と宦官勢力との間で激しい争いが続くことになる。 外征面は後漢で最も栄え、西域では永元6年(94年)の時点でその50余国が後漢に従うほどになった。これは西域都護である班超個人の力量に拠るところが大きく、班超が中央に召喚された後は後漢の西域における影響力は急速に衰えた。匈奴との戦いも匈奴の内紛に助けられ有利に進めた。 文化面では、班固・班昭兄妹による『漢書』の編纂(永元4年(92年)の班固の死後、班昭が完成)、永元17年(105年)の蔡倫による製紙法の改良が挙げられる。.

新しい!!: 南匈奴と和帝 (漢) · 続きを見る »

イクケン左賢王単于

薁鞬左賢王 単于(いくけんさけんおう ぜんう、拼音:Yùjiānzuŏxiánwáng Chányú、? - 50年)は、中国後漢時代の南匈奴の対立単于。呼都而尸道皋若鞮単于の子で、蒲奴の弟。もと北匈奴の薁鞬左賢王だったため、薁鞬左賢王単于と呼ばれる。姓は攣鞮氏、名は不明。.

新しい!!: 南匈奴とイクケン左賢王単于 · 続きを見る »

ウマ

ウマ(馬)は、ウマ目(奇蹄目)のウマ科に属する動物の総称である。現生は、いずれもウマ科に属するウマ、シマウマ、ロバの仲間、5亜属9種のみである。狭義の「ウマ」は、このうち特に種としてのウマつまり学名で「Equus caballus」) と呼ばれるもののみを指す。 社会性の強い動物で、野生のものも家畜も群れをなす傾向がある。北アメリカ大陸原産とされるが、北米の野生種は、数千年前に絶滅している。欧州南東部にいたターパンが家畜化したという説もある。 古くから中央アジア、中東、北アフリカなどで家畜として飼われ、主に乗用や運搬、農耕などの使役用に用いられるほか、食用にもされ、日本では馬肉を「桜肉(さくらにく)」と称する。軍用もいる。 競走用のサラブレッドは、最高87km/hを出すことができる。 学名は「Equus caballus(エクゥウス・カバッルス)」。「equus」も「caballus」ともにラテン語で「馬」の意。.

新しい!!: 南匈奴とウマ · 続きを見る »

ウシ

ウシ(牛 英名:cattle)は、哺乳綱鯨偶蹄目ウシ科ウシ亜科の動物である。野生のオーロックスが家畜化されて生まれた。 「ウシ」は、狭義では特に(種レベルで)家畜種のウシ(学名:Bos taurus 「ボース・タウルス」)を指す。一方、やや広義では、ウシ属 Bosを指し、そこにはバンテンなどの野生牛が含まれる。さらに広義では、ウシ亜科 Bovinae の総称となる。すなわち、アフリカスイギュウ属、アジアスイギュウ属、ウシ属、バイソン属などを指す。これらは一般の人々も牛と認めるような共通の体形と特徴を持っている。大きな胴体、短い首と一対の角、胴体と比べて短めの脚、軽快さがなく鈍重な動きである。 ウシと比較的近縁の動物としては、同じウシ亜目(反芻亜目)にキリン類やシカ類、また、同じウシ科の仲間としてヤギ、ヒツジ、レイヨウなどがあるが、これらが牛と混同されることはまずない。 以下ではこのうち、家畜ウシについて解説する。.

新しい!!: 南匈奴とウシ · 続きを見る »

ギョウ

鄴(ぎょう、業におおざと)は中国の歴史的地名。後趙、冉魏、前燕、東魏、北斉の各王朝の都となった。大部分は現在の河北省邯鄲市臨漳県にあたり、河南省安陽市にまたがっている。.

新しい!!: 南匈奴とギョウ · 続きを見る »

ゴビ砂漠

ビ砂漠(ゴビさばく、,,(かへき)、 )は、中国の内モンゴル自治区からモンゴルにかけて広がる砂漠。東西約1600km、南北約970km、総面積は約130万kmで、世界で4番目の大きさを誇る。古くから匈奴を始め、柔然、突厥、回鶻、モンゴル帝国などの活躍の場であり、シルクロードの重要な拠点都市が幾つか存在した。また、恐竜の化石がよく発見されており、卵をだいたオビラプトルやプロトケラトプスとヴェロキラプトルの格闘の化石など珍しい形の化石が続々発見されている。黄砂(こうさ)とはこの地などから巻き上げられ気流に乗り運ばれる砂の事であり、春先には日本にも多く飛来する。.

新しい!!: 南匈奴とゴビ砂漠 · 続きを見る »

内田吟風

内田 吟風(うちだ ぎんぷう、1907年(明治40年)6月26日 - 2003年(平成14年))は、日本の東洋史学者、神戸大学名誉教授。.

新しい!!: 南匈奴と内田吟風 · 続きを見る »

冀州

冀州(きしゅう)は、中国の行政区分の一つ。現在、山西、遼寧、河北、北京、天津、呼和浩特、烏蘭察布等七つの省市に分属している。.

新しい!!: 南匈奴と冀州 · 続きを見る »

元和 (漢)

元和(げんわ)は、後漢の章帝劉炟の治世に使用された2番目の元号。84年 - 87年。.

新しい!!: 南匈奴と元和 (漢) · 続きを見る »

光和

光和(こうわ)は、後漢の霊帝劉宏の治世に行われた3番目の元号。178年 - 184年。光和7年は12月に改元されて中平元年となった。.

新しい!!: 南匈奴と光和 · 続きを見る »

光武帝

光武帝(こうぶてい、前6年 - 57年)は、後漢王朝の初代皇帝。南陽郡蔡陽県(現在、湖北省棗陽市)の人。 王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた。廟号は世祖。諡号の光武帝は漢朝を中興したことより「光」、禍乱を平定したことより「武」の文字が採用された。「隴を得て蜀を望む」「志有る者は事竟に成る」「柔よく剛を制す」(『黄石公記』(=『三略』)の引用)などの言葉を残している(『後漢書』本紀1上・下・本伝)。中国史上、一度滅亡した王朝の復興を旗印として天下統一に成功した数少ない君主である。「漢委奴国王」の金印を倭(日本)の奴国の使節にあたえた皇帝とされている。.

新しい!!: 南匈奴と光武帝 · 続きを見る »

前趙

前趙(ぜんちょう、、304年 - 329年)は、中国の五胡十六国時代に存在した国。建国者は劉淵。当初の国号は漢であり、劉曜の時代に趙に改めた。同時代に石勒が同じ趙を国号とした国を建てているので、劉淵の趙を前趙、石勒の趙を後趙と呼んで区別している。劉趙、漢趙とも呼称される。.

新しい!!: 南匈奴と前趙 · 続きを見る »

王氏

王氏(おうし、わんし)は.

新しい!!: 南匈奴と王氏 · 続きを見る »

祁県

祁県(き-けん)は中華人民共和国山西省晋中市に位置する県。.

新しい!!: 南匈奴と祁県 · 続きを見る »

禅譲

禅譲(ぜんじょう)は、天子(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。.

新しい!!: 南匈奴と禅譲 · 続きを見る »

章帝

帝(しょうてい)は、後漢の第3代皇帝。父は明帝で、その五男。生母は賈貴人。.

新しい!!: 南匈奴と章帝 · 続きを見る »

章和 (漢)

和(しょうわ)は、後漢の章帝劉炟の治世に使用された3番目の元号。87年 - 88年。.

新しい!!: 南匈奴と章和 (漢) · 続きを見る »

竇憲

竇 憲(とう けん、? - 92年)、字は伯度、扶風平陵(現在の陝西省咸陽市)の人。竇融の曾孫に当たり、後漢朝では外戚の地位を占め要職を歴任した。.

新しい!!: 南匈奴と竇憲 · 続きを見る »

紀元前8年

紀元前8年。.

新しい!!: 南匈奴と紀元前8年 · 続きを見る »

羊とは.

新しい!!: 南匈奴と羊 · 続きを見る »

羯(けつ)は、4世紀の中国北部の山西に存在した小部族。その派生については匈奴の他、小月氏であるとも言われる。五胡十六国時代に石勒の統治によって後趙を建てた。羯人は後趙が滅んだ350年頃の漢人の冉閔の大虐殺によりほぼ歴史から姿を消した。.

新しい!!: 南匈奴と羯 · 続きを見る »

後漢末期(198年頃)の羌族の位置 羌(きょう、)は、古代より中国西北部に住んでいる民族。西羌とも呼ばれる。現在も中国の少数民族(チャン族)として存在する。.

新しい!!: 南匈奴と羌 · 続きを見る »

羌渠

羌渠(きょうきょ、拼音:Qiāngqú, ? - 188年)は、中国後漢時代の南匈奴の屠各種攣鞮部の単于。於夫羅、呼廚泉の父。劉宣の族父。一族の独孤部の首長である劉進伯の曾孫で『新唐書』宰相世系表より。、劉尸利の孫で、劉烏利の子で、去卑『北史』破六韓常伝より。と劉猛の兄で、潘六奚と劉亮(劉曜の高祖父)の兄弟もしくは従兄弟。.

新しい!!: 南匈奴と羌渠 · 続きを見る »

烏珠留若テイ単于

烏珠留若鞮単于(呉音:うしゅるにゃくたいぜんう、漢音:おしゅりゅうじゃくていせんう、ピンイン:Wūzhūliúruòdīchányú、? - 13年)は、中国前漢時代から新時代にかけての匈奴の単于。呼韓邪単于と第1閼氏(顓渠閼氏)との子で、車牙若鞮単于の弟。烏珠留若鞮単于というのは単于号で、姓は攣鞮氏、名は嚢知牙斯(のうちがし)という。.

新しい!!: 南匈奴と烏珠留若テイ単于 · 続きを見る »

烏稽侯尸逐テイ単于

烏稽侯尸逐鞮単于(うけいこうしちくていぜんう、、 ? - 128年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。湖邪尸逐侯鞮単于の子。烏稽侯尸逐鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は抜という。.

新しい!!: 南匈奴と烏稽侯尸逐テイ単于 · 続きを見る »

烏達テイ侯

烏達鞮侯単于(うたつていこうぜんう)とは、匈奴の単于。名前は烏達鞮侯。 呼都而尸道皋若鞮単于の子で、46年に匈奴の単于として即位するが、同年に死去した。.

新しい!!: 南匈奴と烏達テイ侯 · 続きを見る »

烏桓

紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''烏桓'''の位置 2世紀頃の東夷諸国と'''烏桓'''の位置 烏桓(呉音:うがん、漢音:おかん、)は、紀元前1世紀から紀元後3世紀にかけて中国北部(現在の内モンゴル自治区)に存在していた民族。『三国志』などでは烏丸と表記する。.

新しい!!: 南匈奴と烏桓 · 続きを見る »

生口

生口(せいこう)は、弥生時代の日本(当時は倭)における捕虜または奴隷とされている。 107年(後漢永初元年)に当時の倭国王帥升らが後漢の安帝へ生口160人を献じている(『後漢書』)。その後、倭王卑弥呼も239年(魏景初2年)に魏明帝へ男生口4人、女生口6人を、243年(魏正始4年)に魏少帝へ生口を献じ、その後継者の台与も248年に生口30人を魏へ献じている(『魏志倭人伝』)。 生口は元来、捕虜を意味する語であるため、捕虜を起源とする奴隷的身分であると考えられている。時代的に献上物が豊富ではなく、そのため生口を送ったと見る向きもある。ただし異論も多く、捕虜と関係ない奴隷とする説や、あえて中国へ献上されていることから、単なる捕虜・奴隷ではなく、捕魚者など何らかの技能を持った者とする説もある。さらに中国への留学生とする説もあった。魏志倭人伝の記述から、弥生時代後期に奴婢という奴隷階層がいたことが判っている。生口が奴婢と全く別の存在なのか、重複するのかは論が分かれている。 生口は倭国だけのものではなく、例えば高句麗の広開土王碑に、396年、百済が高句麗に大敗したため生口を高句麗へ献じたことが見える。また高麗史(高麗史 十六 世家巻第二十八 忠烈王一 忠烈王元年(1274年))によれば、文永の役(1274年)で高麗に帰還した金方慶らは、日本人の子女を捕虜とし、高麗王と妃に生口として献上している。(侍中金方慶等還師、忽敦(忻都)以所俘童男女二百人献王及公主) Category:弥生時代 Category:奴隷制 Category:日本の賎民.

新しい!!: 南匈奴と生口 · 続きを見る »

熹平

熹平(きへい)は、後漢の霊帝劉宏の治世に行われた2番目の元号。172年 - 178年。熹平7年は3月に改元されて光和元年となった。.

新しい!!: 南匈奴と熹平 · 続きを見る »

独孤部

孤 部(呉音:どくこ ぶ、漢音:とくこ ぶ、拼音:Dúgū Bù)は、中国五胡十六国時代に存在した匈奴屠各種に属する部族。その子孫の劉氏・独孤氏は北朝・隋唐時代において、名門貴族として繁栄した。.

新しい!!: 南匈奴と独孤部 · 続きを見る »

隰県

(しつ-けん)は中華人民共和国山西省臨汾市に位置する県。.

新しい!!: 南匈奴と隰県 · 続きを見る »

遼東郡

紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''遼東郡'''の位置 遼東郡(りょうとう-ぐん、)は、かつて中国に存在した郡。現在の遼寧省の一部と朝鮮の一部に相当する。.

新しい!!: 南匈奴と遼東郡 · 続きを見る »

鍾ヨウ

鍾 繇(しょう よう、、151年 - 230年)は、中国後漢末期から三国時代の魏の政治家・武将・書家。字は元常。豫州潁川郡長社県(現在の河南省許昌周辺)の出身。 曾祖父は鍾皓。祖父は鍾迪。父の名は不詳。妻は賈氏・孫氏・張昌蒲。子は鍾毓・鍾劭・鍾会。娘は荀勗の母。孫は鍾豫・鍾駿・鍾邕(「鍾会伝」)・鍾毅(「鍾会伝」)・鍾峻(「鍾会伝」)・鍾辿(「鍾会伝」)・鍾徽(王渾妻の父、『晋書』)ら。曾孫娘は鍾琰(字は琰、鍾徽の娘、王渾の妻)。大叔父は鍾敷(鍾迪の弟)。族父は鍾瑜。弟は鍾演。甥は郭援(姉の子)。『三国志』魏志「鍾繇華歆王朗伝」に伝がある。.

新しい!!: 南匈奴と鍾ヨウ · 続きを見る »

萬氏尸逐侯テイ単于

萬氏尸逐侯鞮単于(ばんししちくこうていぜんう、拼音:Wànshìshīzhúhóudīchányú, ? - 124年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。湖邪尸逐侯鞮単于の子。萬氏尸逐侯鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は檀という。.

新しい!!: 南匈奴と萬氏尸逐侯テイ単于 · 続きを見る »

蝗害

蝗害(こうがい、Locust plague)は、トノサマバッタなど相変異を起こす一部のバッタ類の大量発生による災害のこと。.

新しい!!: 南匈奴と蝗害 · 続きを見る »

須卜骨都侯単于

卜骨都侯単于(漢音:しゅうほくこつとこうぜんう、拼音:Xūbŭgŭdōuhóuchányú,? - 189年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。須卜単于と同系統の匈奴須卜部出身の骨都侯で、名は不明。.

新しい!!: 南匈奴と須卜骨都侯単于 · 続きを見る »

順帝 (漢)

順帝(じゅんてい)は、後漢の第8代皇帝。.

新しい!!: 南匈奴と順帝 (漢) · 続きを見る »

袁紹

袁 紹(えん しょう、永興2年(154年)以前? - 建安7年5月21日(202年6月28日))は、中国後漢末期の武将・政治家。字は。豫州汝南郡汝陽県(河南省商水県)の出身。 何進と協力して激しく宦官と対立。宦官勢力を壊滅させることに成功したが、董卓との抗争に敗れ、一時は首都の洛陽より奔り逼塞を余儀なくされた。後、関東において諸侯同盟を主宰して董卓としのぎを削った。同盟解散後も群雄のリーダー格として威勢を振るい、最盛期には河北四州を支配するまでに勢力を拡大したが、官渡の戦いにおいて曹操に敗れて以降は勢いを失い、志半ばで病死した。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

新しい!!: 南匈奴と袁紹 · 続きを見る »

袁術

袁 術(えん じゅつ/すい、? - 建安4年(199年))は、中国後漢末期の武将・政治家。 父は袁逢(司空)。同母兄は袁基(太僕)。従兄(または異母兄とも)は袁紹。叔父は袁隗。 後漢の名門である汝南袁氏出身。当初は官界にあったが、董卓による動乱の中で群雄の1人として名乗りを上げ、反董卓連合の崩壊後は孫堅らの支持を受けて一族の袁紹と抗争を繰り広げた。一時は曹操に敗れ揚州に追いやられたが、孫策らの力により揚州を実効支配し勢力圏を再構築。やがて自らを、帝舜の血族である陳の宣公時代の大夫の轅濤塗の末裔と称した。皇帝を称し、国号を「仲」としたが、孫策らの離反や曹操の攻撃により数年で瓦解し、失意の内に没した。.

新しい!!: 南匈奴と袁術 · 続きを見る »

西河郡

西河郡(せいが-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山西省および内モンゴル自治区にまたがる地域に設置された。.

新しい!!: 南匈奴と西河郡 · 続きを見る »

西晋

西晋(せいしん、)は、司馬炎によって建てられた中国の王朝(265年 - 316年)。成立期は中国北部と西南部を領する王朝であったが、呉を滅ぼして中国全土を統一し、後漢末期以降分裂していた中国を100年振りに統一した。国号は単に晋だが、建康に遷都した後の政権(東晋)に対して西晋と呼ばれる。.

新しい!!: 南匈奴と西晋 · 続きを見る »

馬超

成都武侯祠の馬超像 馬 超(ば ちょう、 、熹平5年(176年) - 章武2年(222年))は、中国後漢末期から三国時代にかけての蜀漢の将軍。字は孟起(もうき)。諡は威侯。司隷扶風郡茂陵県(陝西省興平市)の人。『三国志』蜀志に伝がある。 後漢の名将馬援の子孫と称する一族の出身。祖父は馬平(子碩)。父は馬騰。弟は馬休・馬鉄。従弟は馬岱。妻は楊氏・董氏(側室)。子は馬秋・馬承。娘は劉理の妻。 父が羌族との混血であったため(『典略』)、この血を引いている馬超も漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。関中の独立軍閥の長の座を父から引き継ぎ、曹操に服属していたが、後に韓遂と共に曹操に反乱を起こして敗れた。一族も勢力も失い流浪した末、益州の劉備の下に身を寄せ、厚遇を受けた。.

新しい!!: 南匈奴と馬超 · 続きを見る »

騎都尉

騎都尉(きとい)は前漢以降の官職名。 前漢においては、光禄勲(郎中令)に属し、官秩は比二千石であった。宣帝の時から、羽林を中郎将と騎都尉に監督させるようにした。また、西域都護は騎都尉や諫大夫に加えられる官であった。 後漢でも光禄勲に属し、官秩は比二千石であった。 それ以降も存続したが、晋においては奉車都尉、駙馬都尉と並んで三都尉と呼ばれて宗室や外戚に与えられ、朝廷の集まりに参加するだけの官となっていた。 唐では勲官の一つとなり、実態は無くなっていた。.

新しい!!: 南匈奴と騎都尉 · 続きを見る »

高幹

幹(こう かん、? - 206年)は、中国後漢時代末期の武将、または政治家。字は元才。兗州陳留郡圉県の人(『三国志』魏書高柔伝より)。高祖父は高固。曾祖父は高慎。祖父は高賜。父は。従弟あるいは従子は高柔。伯父は袁紹。.

新しい!!: 南匈奴と高幹 · 続きを見る »

魏 (三国)

魏の系図 魏(ぎ、、220年 - 265年)は、中国の三国時代に華北を支配した王朝。首都は洛陽。曹氏の王朝であることから曹魏、あるいは北魏に対して前魏とも(この場合は北魏を後魏と呼ぶ)いう。 45年間しか続かなかった王朝だが、魏・蜀・呉の戦国史を描いた三国志(『三国志』・『三国志演義』など)などで後世に伝わり、日本で魏は卑弥呼を記述した「魏志倭人伝」で知られる。また、昭和に吉川英治が著した『三国志』を始め、この時代を描いた小説は今なお日本で人気があり、そのため知名度も高い王朝である。.

新しい!!: 南匈奴と魏 (三国) · 続きを見る »

魏書

『魏書』(ぎしょ)は、中国北斉の魏収が編纂した北魏の正史である。『北魏書』、『後魏書』とも。二十四史の一。構成は、本紀14巻、列伝96巻、志20巻で、全130巻からなる紀伝体。本紀と列伝の部分は、554年(天保5年)に、志の部分は、559年(天保10年)に成立した。.

新しい!!: 南匈奴と魏書 · 続きを見る »

護烏桓校尉

護烏桓校尉(ご うがん こうい)は、漢代に設置された官職で、おもに烏桓族を管轄する軍政務官。漢にならい、魏も設置した。秩石は二千石。節を擁し、下僚に一名、司馬二名(各秩石六百石)いる。『三国志』では護烏丸校尉と表記。.

新しい!!: 南匈奴と護烏桓校尉 · 続きを見る »

鮮卑

鮮卑(せんぴ、拼音:)は、紀元前3世紀から6世紀にかけて中国北部に存在した遊牧騎馬民族。五胡十六国時代,南北朝時代には南下して中国に北魏などの王朝を建てた。.

新しい!!: 南匈奴と鮮卑 · 続きを見る »

資治通鑑

『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂した、編年体の歴史書。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。1084年(元豊7年)の成立。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光当時の史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。.

新しい!!: 南匈奴と資治通鑑 · 続きを見る »

麹義

義(きく ぎ、生没年不詳)は、中国後漢時代末期の武将。涼州西平郡の人と見られる。.

新しい!!: 南匈奴と麹義 · 続きを見る »

車紐

車紐(呉音:しゃにゅう、漢音:しゃじゅう、拼音:Chēniŭ, 生没年不詳)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。.

新しい!!: 南匈奴と車紐 · 続きを見る »

車騎将軍

車騎将軍(しゃきしょうぐん)は前漢以降の官職名。軍を率いる将軍位の一つ。 漢においては初期は灌嬰などの将、文帝の外戚薄昭などが就任し、以後、主に皇帝の信任する者や外戚が就任して軍事権を握った。 『続漢書』百官志によれば、常に置かれるわけではなく、反乱の征伐を掌り兵を指揮する。将軍位としては大将軍、驃騎将軍に次ぎ、衛将軍の上位に当たる。 属官には長史、司馬(各官秩比千石)、従事中郎(官秩比六百石)がいる。兵を領する場合、部・曲が置かれる。部には校尉(官秩比二千石)、軍司馬(官秩比千石)が置かれる。部の下に曲があり、軍候(官秩比六百石)が置かれる。曲の下には屯があり、屯長(官秩比二百石)が置かれる。 曹魏では、二品官であった。蜀漢では建国当初に張飛が就任したほか、末期には古参の将軍である廖化・張翼を「右車騎将軍」「左車騎将軍」に任じている。呉では初期に朱然が就任し、その後は劉纂が務めた。 その後徐々に格が上がり、晋では儀同三司となり、さらに北魏では一品官となり、位三司上となった。 隋代には驃騎府・車騎府が府兵制の中核となったため、車騎将軍は車騎府の指揮官として驃騎将軍に属して府兵を率いた。大業3年には驃騎府・車騎府が統合され鷹揚府となり、府の指揮官は鷹揚郎将となった。唐に入ると驃騎府・車騎府が復活したが、貞観年間に再び折衝府に統合され、府の指揮官は折衝都尉となった。.

新しい!!: 南匈奴と車騎将軍 · 続きを見る »

黄巾の乱

巾の乱(こうきんのらん、)は、中国後漢末期の西暦184年(中平1年)に太平道の教祖張角を指導者とする太平道の信者が各地で起こした農民反乱。目印として黄巾と呼ばれる黄色い頭巾を頭に巻いた事から、この名称がついた。また、小説『三国志演義』では反乱軍を黄巾“賊”と呼称している。後漢の衰退を招き、三国時代に移る一つの契機となった。.

新しい!!: 南匈奴と黄巾の乱 · 続きを見る »

黄初

初(こうしょ)は、三国時代、魏の文帝曹丕の治世に行われた最初の元号。220年 - 226年。五行説では黄色は「土」を表し「火徳」の漢王朝の後を継ぐのは「土徳」の王朝であるという当時の認識から(例:「黄巾の乱」)、「土徳」の始まりという意味で「黄初」と制定された。.

新しい!!: 南匈奴と黄初 · 続きを見る »

黄河

河流域 黄河(こうが、、ファンフー)とは、中国の北部を流れ、渤海へと注ぐ川。全長約5,464kmで、中国では長江(揚子江)に次いで2番目に長く、アジアでは長江とエニセイ川に次いで3位、世界では6番目の長さである。なお、河という漢字は本来固有名詞であり、中国で「河」と書いたときは黄河を指す。これに対し、「江」と書いたときは長江を指す。現在の中国文明の直接の母体である黄河文明を育んだ川であり、中国史上において長江と並び巨大な存在感を持つ河川である。.

新しい!!: 南匈奴と黄河 · 続きを見る »

霊帝 (漢)

霊帝(れいてい)は、中国後漢の第12代皇帝。解瀆亭侯劉萇の子。解瀆亭侯劉淑の孫。河間王劉開の曾孫。章帝の玄孫に当たる。.

新しい!!: 南匈奴と霊帝 (漢) · 続きを見る »

胡奮

胡 奮(こ ふん、? - 288年)は、中国三国時代末期から西晋にかけての武人。魏・西晋に仕えた。字は玄威。雍州安定郡臨涇県の人。父は胡遵。兄に胡広、弟に胡烈・胡岐。甥に胡淵。子は男子・女子(胡芳)1人。 明朗で、知略に優れ、軍事を好んだ。胡氏は父以来の武人の家系であった。曹叡(明帝)の時代、司馬懿の公孫淵討伐に従い校尉となった。また曹髦(高貴郷公)の時代には、蜀漢の姜維の狄道侵攻を防ぐために陳泰・鄧艾と共に当たる一方で、東の諸葛誕討伐にも司馬昭の指揮下で参戦し、諸葛誕を討ち取る功績を挙げた。 晋成立後も引き続きこれに仕えた。271年に北で劉猛が反乱を起こすとこれを鎮圧し、しばらくは北方の異民族に対する防備にあたった。司馬炎(武帝)がこの頃から女色に耽るようになると、273年には胡奮の娘胡芳も貴嬪(最高階の妃嬪)となった。 後に南方方面の軍事を担当するようになり、280年の呉征伐では呉領の夏口攻撃を命じられ、江安を制圧するなどの功績を挙げた。尚書僕射・鎮軍大将軍・開府儀同三司・陽夏侯となった。 288年死去し、壮侯の諡を送られ、車騎将軍を追贈された。 武人として一生を過ごしたが、晩年になってからは学問もこなせるようになったという。皇帝の外戚となったことは負担であったらしく、276年に娘の楊芷が皇后になって権力を手にした楊駿の傲慢な態度を非難する一方で、外戚となって滅びなかった家はないと悲嘆している。 Category:三国志の登場人物 Category:西晋の人物 ふん Category:生年不明 Category:288年没.

新しい!!: 南匈奴と胡奮 · 続きを見る »

郭援

郭 援(かく えん、? - 202年)は、中国後漢時代末期の武将。叔父は鍾繇・鍾演。従兄弟は鍾毓・鍾劭・鍾会ら。.

新しい!!: 南匈奴と郭援 · 続きを見る »

都尉

都尉(とい)は秦、漢の官職名。郡の軍事を掌る。 前漢においては、元は郡尉と呼ばれていたが、景帝中2年に郡守を郡太守と改称し、郡尉は郡都尉と改称した。都尉は太守を補佐し、郡内の武職や兵卒を掌った。官秩は比二千石であった。役所は太守とは別の場所に置かれた。通常は郡に一名だが、辺境などでは一郡に複数の都尉が置かれることもあり、その場合には「西部都尉」「中部都尉」などと呼ばれる。副官に丞(官秩比六百石)がいた。 後漢の光武帝の建武6年、辺境を除いて都尉は廃止され、太守が職務を兼任し、必要に応じ臨時に置かれることがあるだけとなった。 また、前漢においては関所に置かれる関都尉、辺境の郡で農事を掌る農都尉、属国を掌る属国都尉があったが、後漢においては属国都尉だけが残った。それとは別に、騎都尉、奉車都尉など一部の武官にも都尉の称が使われている。 その後、李自成政権が県の統治官を都尉と改めたことがある。(従来は「知県事」) 清代には、武官の散官の名称として都尉が用いられた。一品、二品官の散官は「○○将軍」であるが、三品、四品官の散官は「○○都尉」と名づけられる。 北京政府は警察庁の役職として都尉を設置している。.

新しい!!: 南匈奴と都尉 · 続きを見る »

興平 (漢)

興平(こうへい)は、後漢の献帝劉協の治世に行われた2番目(永漢を除く)の元号。194年 - 195年。.

新しい!!: 南匈奴と興平 (漢) · 続きを見る »

赫連

赫連(かくれん)は、漢姓のひとつ。『百家姓』の417番目。5世紀の赫連勃勃に由来する。.

新しい!!: 南匈奴と赫連 · 続きを見る »

董卓

董 卓(とう たく、? - 初平3年4月23日(192年5月22日))は、中国後漢末期の武将・政治家。涼州隴西郡臨洮県(甘粛省定西市臨洮県)の人。字は仲穎(ちゅうえい)。 辺境の将軍の1人にすぎなかったが、軍事力を背景に次第に頭角を現すようになった。霊帝死後の政治的混乱に乗じて政治の実権を握り、少帝を廃して献帝を擁立し、一時は宮廷で権勢をほしいままにしたが、諸侯や他の朝臣らの反感を買い、最期は側近で養子になっていた呂布に殺された。『三国志』魏志及び『後漢書』に伝がある。.

新しい!!: 南匈奴と董卓 · 続きを見る »

蒲奴

蒲奴(呉音:ぶぬ、漢音:ほど、拼音:Púnú、生没年不詳)は、中国後漢時代の匈奴の単于。呼都而尸道皋若鞮単于の子で、烏達鞮侯の弟。姓は攣鞮氏。南匈奴が独立したため、北匈奴の初代単于となる。.

新しい!!: 南匈奴と蒲奴 · 続きを見る »

鄭衆 (大司農)

鄭衆(てい しゅう、? - 83年)は、後漢初期の政治家、学者。古文の経典を学び、とくに『周礼』の注釈で知られる。 字を仲師という。大司農の官にのぼったために鄭司農とも呼ばれる。また、鄭玄に対して鄭衆を先鄭、鄭玄を後鄭と呼ぶこともあるが、鄭衆と鄭玄が同族というわけではない。有名な宦官の鄭衆とも関係はない。.

新しい!!: 南匈奴と鄭衆 (大司農) · 続きを見る »

醢僮尸逐侯テイ単于

醢僮尸逐侯鞮単于(かいとうしちくこうていぜんう、、 ? - 63年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。醢落尸逐鞮単于の子。醢僮尸逐侯鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は適という。.

新しい!!: 南匈奴と醢僮尸逐侯テイ単于 · 続きを見る »

醢落尸逐テイ単于

醢落尸逐鞮単于(かいらくしちくていぜんう、ピンイン:Hǎiluòshīzhúdīchányú, ? - 56年)は、中国後漢時代の南匈奴の初代単于。呼韓邪単于の孫で、烏珠留若鞮単于の子。醢落尸逐鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は比という。祖父にあやかり呼韓邪単于と名乗った。湖邪尸逐侯鞮単于の父。.

新しい!!: 南匈奴と醢落尸逐テイ単于 · 続きを見る »

鉄弗部

鉄弗部の位置 代国支配下の鉄弗部 代国支配下の鉄弗部 前秦支配下の鉄弗部 前秦支配下の鉄弗部 北魏支配下の鉄弗部 鉄弗 部・鉄弗 氏(てつふつ ぶ/てつふつ し、拼音:Tiĕfú bù)は、中国・五胡十六国時代の匈奴の一部族で、南匈奴屠各種の右賢王去卑の系統氏族。407年には赫連勃勃によってオルドス地方に夏を建国した。攣鞮部、独孤部、破六韓部などは同族である。.

新しい!!: 南匈奴と鉄弗部 · 続きを見る »

雲中郡

雲中郡(うんちゅう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。戦国時代から唐代にかけて、現在の内モンゴル自治区フフホト市一帯に設置された。.

新しい!!: 南匈奴と雲中郡 · 続きを見る »

逢侯

逢侯(ほうこう、拼音:Fénghóu 生没年不詳)は、中国後漢時代の南匈奴の対立単于。休蘭尸逐侯鞮単于の子。.

新しい!!: 南匈奴と逢侯 · 続きを見る »

耿秉

耿 秉(こう へい、? - 91年)は、中国の後漢時代初~中期の軍人。字は伯初。司隷扶風茂陵の人。雲台二十八将の耿弇の弟である耿国の子で、後漢代の対外戦争に活躍した。子は耿沖、曾孫は耿紀。諡は『後漢書』では桓侯、『後漢紀』では壮侯。.

新しい!!: 南匈奴と耿秉 · 続きを見る »

李茂

李茂(이무)は、中国の唐朝の将軍である。660年に唐朝の蘇定方が百済を征伐した際の時の中郎将である。 李茂は、戦争後新羅に帰化した。 朝鮮の氏族の延安李氏の始祖である。.

新しい!!: 南匈奴と李茂 · 続きを見る »

李氏

李氏(りし)は、漢姓の一つ。李姓はラテン文字でやといった表記をされることが多いが、欧米に元来存在する姓を含めるとその合計数は全世界で最大の姓となる。.

新しい!!: 南匈奴と李氏 · 続きを見る »

檀石槐

檀石槐(呉音:だんじゃくえ、漢音:たんせきかい、拼音:Tánshíhuái、生没年不詳)は、後漢末期の鮮卑族の大人(たいじん:部族長)。投鹿侯の子。和連の父。魁頭,扶羅韓,歩度根,騫曼らの祖父、泄帰泥の曾祖父。.

新しい!!: 南匈奴と檀石槐 · 続きを見る »

永平 (漢)

永平(えいへい)は、後漢の明帝劉荘の治世に行われた元号。58年 - 75年。.

新しい!!: 南匈奴と永平 (漢) · 続きを見る »

永建 (漢)

永建(えいけん)は、後漢の順帝劉保の治世に行われた最初の元号。126年 - 132年。.

新しい!!: 南匈奴と永建 (漢) · 続きを見る »

永初 (漢)

永初(えいしょ)は、後漢の安帝劉祜の治世に行われた最初の元号。107年 - 113年。.

新しい!!: 南匈奴と永初 (漢) · 続きを見る »

永元 (漢)

永元(えいげん)は、後漢の和帝劉肇の治世に行われた最初の元号。89年 - 105年。永元17年は4月に改元されて元興元年とされた。.

新しい!!: 南匈奴と永元 (漢) · 続きを見る »

汾陽県

汾陽県(ふんよう-けん).

新しい!!: 南匈奴と汾陽県 · 続きを見る »

河東郡 (中国)

河東郡(かとう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。秦代から唐代にかけて、現在の山西省南部に設置された。.

新しい!!: 南匈奴と河東郡 (中国) · 続きを見る »

泰始 (晋)

泰始(たいし)は、西晋の武帝司馬炎の治世に使われた元号。265年 - 274年。.

新しい!!: 南匈奴と泰始 (晋) · 続きを見る »

洛陽市

洛陽の古い街並み 洛陽城の外城の正門『定鼎門』 洛陽竜門駅 洛陽市(らくようし、ルオヤン、、、)は、中華人民共和国の河南省西部にある都市。しばしば関中の長安と並んで中国王朝の首都となった。 中国における西の長安と東の洛陽が並び立つ両都制になぞらえて平安京の西半分の右京を長安城、東半分の左京を洛陽城と雅称した事に由来し、やがて右京の荒廃と左京の繁栄に伴い平安京全体の別名となり、その一字「洛」をもって京都を表すに至って京洛・洛中・洛外・上洛などの言葉が生まれた。.

新しい!!: 南匈奴と洛陽市 · 続きを見る »

涼州

涼州(りょうしゅう)は、中国にかつて存在した州。現在の甘粛省、寧夏回族自治区一帯に設置され、現在では甘粛省の別称となっている。.

新しい!!: 南匈奴と涼州 · 続きを見る »

湖邪尸逐侯テイ単于

湖邪尸逐侯鞮単于(こしゃしちくこうていぜんう、ピンイン:Húxiéshīzhúhóudīchányú, ? - 85年)は、中国後漢時代の南匈奴の単于。醢落尸逐鞮単于の子、醢僮尸逐侯鞮単于の弟。湖邪尸逐侯鞮単于というのは称号で、姓は虚連題氏、名は長という。去特若尸逐就単于の父。.

新しい!!: 南匈奴と湖邪尸逐侯テイ単于 · 続きを見る »

漁陽郡

紀元前1世紀頃の東夷諸国と'''漁陽郡'''の位置 漁陽郡(ぎょよう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。現在の北京市、天津市、河北省の一部に相当する。.

新しい!!: 南匈奴と漁陽郡 · 続きを見る »

漢安

漢安(かんあん)は、後漢の順帝劉保の治世に行われた4番目の元号。142年 - 144年。.

新しい!!: 南匈奴と漢安 · 続きを見る »

朔方郡

朔方郡(さくほう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代に現在の内モンゴル自治区オルドス市とバヤンノール市にまたがる地域に設置された。北魏以降は現在の陝西省楡林市周辺に置かれた。.

新しい!!: 南匈奴と朔方郡 · 続きを見る »

明帝 (漢)

明帝(めいてい)は、後漢の第2代皇帝。.

新しい!!: 南匈奴と明帝 (漢) · 続きを見る »

新唐書

『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。.

新しい!!: 南匈奴と新唐書 · 続きを見る »

新興郡 (中国)

新興郡(しんこう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。後漢末から唐代にかけて、同名の郡が別の地に立てられた。.

新しい!!: 南匈奴と新興郡 (中国) · 続きを見る »

於夫羅

於夫羅(おふら、拼音:Wūfúluó, 和平元年(150年)? - 建安元年(195年))は、中国後漢時代の南匈奴の屠各種攣鞮部の単于。羌渠の子、劉豹の父、呼廚泉の兄。前趙の劉淵の祖父。諡は持至尸逐侯単于。『後漢書』では於扶羅と表記される。.

新しい!!: 南匈奴と於夫羅 · 続きを見る »

文水県

文水県(ぶんすい-けん)は中華人民共和国山西省呂梁市に位置する県。.

新しい!!: 南匈奴と文水県 · 続きを見る »

攣テイ氏

攣鞮氏・攣鞮部(れんていし/れんていぶ、拼音:Luándī-shì)は、紀元前4世紀から2世紀に中央ユーラシアに存在した遊牧国家匈奴の君主である単于を輩出した氏族。『後漢書』では虚連題氏(きょれんていし、拼音:Xūliántí-shì)と表記された。南匈奴の中心種族である屠各種の直系で、南匈奴が崩壊すると中国風の劉氏に改姓した。独孤部・鉄弗部・破六韓部とは同族である。.

新しい!!: 南匈奴と攣テイ氏 · 続きを見る »

曹奐

曹 奐(そう かん)は、三国時代の魏の第5代皇帝。諡号は元帝。武帝曹操の孫にあたる。.

新しい!!: 南匈奴と曹奐 · 続きを見る »

曹丕

曹 丕(そう ひ)は、三国時代の魏の初代皇帝。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。.

新しい!!: 南匈奴と曹丕 · 続きを見る »

曹操

曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。.

新しい!!: 南匈奴と曹操 · 続きを見る »

晋書

『晋書』(しんじょ )は、中国晋王朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の648年に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂された。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻、列伝七十巻、志二十巻によって構成される紀伝体。.

新しい!!: 南匈奴と晋書 · 続きを見る »

109年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と109年 · 続きを見る »

110年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と110年 · 続きを見る »

118年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と118年 · 続きを見る »

124年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と124年 · 続きを見る »

128年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と128年 · 続きを見る »

13年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と13年 · 続きを見る »

140年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と140年 · 続きを見る »

143年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と143年 · 続きを見る »

144年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と144年 · 続きを見る »

147年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と147年 · 続きを見る »

166年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と166年 · 続きを見る »

172年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と172年 · 続きを見る »

177年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と177年 · 続きを見る »

178年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と178年 · 続きを見る »

179年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と179年 · 続きを見る »

184年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と184年 · 続きを見る »

187年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と187年 · 続きを見る »

188年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と188年 · 続きを見る »

189年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と189年 · 続きを見る »

18年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と18年 · 続きを見る »

190年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と190年 · 続きを見る »

191年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と191年 · 続きを見る »

192年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と192年 · 続きを見る »

193年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と193年 · 続きを見る »

195年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と195年 · 続きを見る »

196年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と196年 · 続きを見る »

1988年

この項目では、国際的な視点に基づいた1988年について記載する。.

新しい!!: 南匈奴と1988年 · 続きを見る »

202年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と202年 · 続きを見る »

216年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と216年 · 続きを見る »

220年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と220年 · 続きを見る »

265年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と265年 · 続きを見る »

271年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と271年 · 続きを見る »

272年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と272年 · 続きを見る »

276年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と276年 · 続きを見る »

277年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と277年 · 続きを見る »

280年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と280年 · 続きを見る »

290年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と290年 · 続きを見る »

304年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と304年 · 続きを見る »

46年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と46年 · 続きを見る »

47年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と47年 · 続きを見る »

48年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と48年 · 続きを見る »

49年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と49年 · 続きを見る »

50年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と50年 · 続きを見る »

56年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と56年 · 続きを見る »

57年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と57年 · 続きを見る »

59年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と59年 · 続きを見る »

63年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と63年 · 続きを見る »

65年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と65年 · 続きを見る »

73年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と73年 · 続きを見る »

76年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と76年 · 続きを見る »

85年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と85年 · 続きを見る »

87年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と87年 · 続きを見る »

88年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と88年 · 続きを見る »

89年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と89年 · 続きを見る »

90年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と90年 · 続きを見る »

91年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と91年 · 続きを見る »

93年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と93年 · 続きを見る »

94年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と94年 · 続きを見る »

95年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と95年 · 続きを見る »

98年

記載なし。

新しい!!: 南匈奴と98年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »