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王雍

索引 王雍

王 雍(おう よう、? - 至元18年(1281年))は、13世紀高麗の宗室で、元の武将。

目次

  1. 27 関係: 司空宗室三別抄忽敦モンケモンゴル帝国オングト公主元 (王朝)元史元寇王綧竹田晃顕宗 (高麗王)高麗高麗史藤堂明保至元 (元世祖)金通精武田幸男洪福源洪茶丘済州島新元史13世紀2005年2010年

司空

司空(しくう)は、かつて中国にあった官職である。時代により職掌・地位が異なる。

見る 王雍と司空

宗室

宗室(そうしつ)とは、中国・朝鮮・ベトナムにおける、広義的な皇族に対する呼び方である。

見る 王雍と宗室

三別抄

三別抄(さんべつしょう、朝:)は、高麗王朝の軍事組織。崔氏政権(武臣政権)において、林衍(イム・ヨン)ら時々の実権を握った者の私兵として、しばしば政敵の暗殺や現代でいう所のクーデターのための武力として用いられた。後に、高麗のモンゴル軍の襲撃に際しては事実上の国軍に発展したとも言われる。

見る 王雍と三別抄

忽敦

忽敦(こつとん、クドゥン、生没年不詳)は、元のモンゴル人武将。

見る 王雍と忽敦

モンケ

モンケ(Möngke、、 1209年1月10日 - 1259年8月11日)は、モンゴル帝国の第4代皇帝(カアン、ハーン)(在位1251年7月1日 - 1259年8月11日)。漢字表記は蒙哥、蒙哥皇帝で、ペルシア語表記では منگو قاآن (mankū qā'ān) または مونگكه قاآن (mūngke qā'ān)。元から贈られた廟号は憲宗、諡は桓粛皇帝。モンケ(メンゲ)という名は、中世モンゴル語で永遠を意味する。チンギス・カンの四男トルイとその正妃ソルコクタニ・ベキの長男。子にシリギがいる。

見る 王雍とモンケ

モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家(ウルス)である。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の領土。

見る 王雍とモンゴル帝国

オングト

オングト『元朝秘史』、もしくはオングート、オングート部(汪古・白達達部、Ongud)は、モンゴル帝国以前から元代にかけて存在した遊牧民族。宋代からタタル部が「黒韃靼」と呼ばれたのに対して「白韃靼」とよばれた。

見る 王雍とオングト

公主

公主(こうしゅ)は、中国において皇帝の娘のこと、またその称号である。朝鮮では王の正室である王妃が生んだ娘を公主(コンジュ)、王妃以外の側室(貴妃・貴人・尚宮等)から生まれた娘は翁主(オンジュ)と称した。

見る 王雍と公主

元 (王朝)

元(げん)は、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域にモンゴル帝国皇帝の直轄地として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝である。 正式国号は、大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)、大モンゴル国(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」である。

見る 王雍と元 (王朝)

元史

『元史』(げんし)は、元(大元ウルス)について書かれた歴史書(正史)。 清の乾隆帝が定めた二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はチンギス・カンがイェケ・モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した1206年から、順帝トゴン・テムルが大都を放棄した1367年まで。 拙速な編纂により誤謬・重複・脱漏が多いことが早くより知られており、考証学者の銭大昕が「古今、史成るの速やかなる、未だ元史に如く者あらず。而して文の陋劣もまた、元史に如く者なし」と評するなど、清代には既に二十四史の中で最も完成度が低いとの評価が定まっていた。そのため多くの歴史家によって『元史』改訂の試みがなされており、その集大成が20世紀に編纂された『新元史』であった。

見る 王雍と元史

元寇

元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。'''蒙古襲来'''とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。 なお、弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。

見る 王雍と元寇

王綧

王 綧(おう しゅん、1223年 - 1283年)は、13世紀高麗の宗室で、元の廷臣。高麗の永寧公・尚書令。元の金符総管。

見る 王雍と王綧

竹田晃

竹田 晃(たけだ あきら、1930年11月26日 - 2021年8月6日)は、日本の中国文学者。東京大学教養学部教授を経て、東京大学名誉教授・明海大学名誉教授。六朝の志怪小説、唐代伝奇小説が専門。元東京大学運動会硬式野球部監督。

見る 王雍と竹田晃

顕宗 (高麗王)

顕宗(けんそう、992年8月1日 - 1031年6月17日)は第8代高麗王(在位:1009年 - 1031年)。姓は王、諱は詢、別名は安世、諡号は大孝徳威達思元文大王。

見る 王雍と顕宗 (高麗王)

高麗

高麗(こうらい、コリョ、; )は、918年に王建(太祖)が後高句麗王弓裔を易姓革命で追放することで建国し、936年に朝鮮半島の後三国の統一を成し遂げ、1392年の李氏朝鮮建国まで続いた国家である。首都は開京。

見る 王雍と高麗

高麗史

『高麗史』(こうらいし)は、朝鮮の高麗王朝(918年 - 1392年)のことを記した紀伝体の官史。編纂は李氏朝鮮の鄭麟趾らによって行なわれ、文宗元年(1451年)に完成した。成立の際、高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書朝鮮王朝実録に相当する高麗王朝実録があったとされる。この実録の存在は、世宗実録からも存在が確認されるが、高麗史成立後の存在は不明となっている。具体的には、高麗の実録は世宗 22年までは忠州開川寺史庫に収蔵されてから 高麗史纂修のために京中に輸送されて、纂修が終わった後の行方ははっきりしない。 出典はである。 また史庫に関する詳細は、 を参照されたい。 なお、焚書された元天錫の「野史」6巻によれば、高麗史は高麗王朝実録の書き換えであり、「高麗実録」を「高麗史」に書き換えた事情が書かれ、高麗末の禑王は辛旽の子ではなく、恭愍王の子と書かれていたという。現存は転記の耘谷集等詩歌の部分と記録のみである。

見る 王雍と高麗史

藤堂明保

藤堂 明保(とうどう あきやす、1915年9月20日 - 1985年1月2日)は、日本の中国語学者・中国文学者。

見る 王雍と藤堂明保

至元 (元世祖)

至元(しげん)は、モンゴル帝国のカアン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられた元号。1264年 - 1294年。モンゴル語史料ではČi-önと転写されている。

見る 王雍と至元 (元世祖)

金通精

金 通精(キム・トンジョン、? - 1273年)は、高麗後期に、三別抄の乱を率いた指導者。 1270年、親元政策を採る元宗は、元の保護のもと、江華島から開城へ帰朝するとともに、国内の不安定要因となってきた私兵集団である三別抄の解散を命じた。不満を抱いた三別抄は、裴仲孫らに率いられて江華島を拠点に反乱を起こした。反乱と同時に、三別抄は南方の珍島に拠点を移し、元ならびに高麗王朝に対峙するため朝鮮半島南部で勢力の拡大を図った。しかしながら、1271年中に本拠地の珍島を攻略されてしまう。この時、一部の三別抄残党が済州島に逃亡して抗戦を続けたが、この一団を率いたのが金通精である。その後、金通精は数年にわたって済州島に拠もって反抗を続けたが、1273年4月、元・高麗連合軍によって遂に追いつめられて自害、三別抄は完全に壊滅する。

見る 王雍と金通精

武田幸男

武田 幸男(たけだ ゆきお、 - 2021年8月4日)は日本の歴史学者。東京大学名誉教授。文学博士。東方学会評議員・東洋文庫研究員・朝鮮学会幹事・史学会会員。専門は朝鮮史、東アジア交渉史。山形県上山市出身。

見る 王雍と武田幸男

洪福源

洪 福源(ホン・ボグォン、こう ふくげん、1206年 - 1258年)は、高麗の軍人。高麗北部の国境を守る軍人だったが、モンゴルの侵攻を受けると、1233年に高麗に背いて即座に降伏した。その後、モンゴルへ逃亡し、モンゴルの高麗侵攻の案内役を果たした。『元史』によると、先祖は唐から高麗に派遣された8人の才子の一人であり、生粋の高麗人ではなかった。韓国ではモンゴルに迎合した「売国奴」として指弾されている。

見る 王雍と洪福源

洪茶丘

洪 茶丘(ホン・タグ、こう ちゃきゅう / こう さきゅう、1244年 - 1291年)は、高麗人として元朝に仕えた軍人。名は俊奇、茶丘(čarγu、チャーグ)はモンゴル名で小字(幼名)。主君のクビライ・カアンから常に小字で呼ばれていた。洪福源の次男。唐城の出身。

見る 王雍と洪茶丘

済州島

済州島(チェジュとう、さいしゅうとう、제주도、Jeju Island)は、朝鮮半島の南西、日本海、東シナ海、黄海の間にある火山島。その付属島嶼と併せて大韓民国済州特別自治道を構成する。人口は約66万人、面積は1,845 km2。以前には、英語などの西洋言語では Quelpart(クエルパート、퀠파트)とも呼ばれていた。 1402年まで耽羅という独立した王国があった。現在は、首都ソウルとともに代表的な韓国の観光地となっている。なお、朝鮮語では「島」と「道」は同じ発音と表記であるが、漢字においては「済州島(チェジュド)」と「済州道(チェジュド)」となる。

見る 王雍と済州島

新元史

『新元史』(しんげんし)は、中華民国成立後に、柯劭忞(『清史稿』編纂メンバーでもある)が編纂して1919年に成立した元朝一代の紀伝体歴史書。従来の『元史』の不備を補うものとされて、1921年に当時の中華民国大総統・徐世昌によって正史に加えられて、従来の二十四史を「二十五史」と改めた。

見る 王雍と新元史

13世紀

チンギス・ハン像。 モンゴル帝国の発展。 モンゴル帝国の最大領域。 13世紀(じゅうさんせいき)は、西暦1201年から西暦1300年までの100年間を指す世紀。

見る 王雍と13世紀

2005年

この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。

見る 王雍と2005年

2010年

この項目では、国際的な視点に基づいた2010年について記載する。

見る 王雍と2010年