目次
20 関係: 孫子 (書物)、岩波文庫、忠烈王、忻都、モンゴル人、元 (王朝)、元史、元寇、竹田晃、生没年不詳、高麗、高麗史、高麗史節要、講談社学術文庫、藤堂明保、至元 (元世祖)、金方慶、武田幸男、2005年、2010年。
孫子 (書物)
孫子の著者とされる孫武の像。鳥取県湯梨浜町の燕趙園に立つ 『孫子』(そんし)は、紀元前500年ごろの中国春秋時代の軍事思想家孫武の作とされる兵法書。武経七書の一つ。古今東西の軍事理論書のうち、最も著名なものの一つである。紀元前5世紀中頃から紀元前4世紀中頃あたりに成立したと推定されている。 『孫子』以前は、戦争の勝敗は天運に左右されるという考え方が強かった。孫武は戦争の記録を分析・研究し、勝敗は運ではなく人為によることを知り、勝利を得るための指針を理論化して、本書で後世に残そうとした。
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岩波文庫
岩波文庫(いわなみぶんこ)は、株式会社岩波書店が発行する文庫本レーベル。
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忠烈王
忠烈王(ちゅうれつおう、1236年4月3日 - 1308年7月30日)は第25代高麗王(在位1274年 - 1298年、復位1298年 - 1308年)。 第24代高麗王元宗の子。諱は昛、初名は諶、賰、諡号は忠烈景孝大王。1260年に太子(世子)となり、1271年6月に元に婚姻の許諾を得て、クビライの公主忽都魯掲里迷失(クトゥルク=ケルミシュ)斉国大長公主。『元史』巻109・諸公主表では「斉国大長公主忽都魯堅迷失」とある。後の荘穆王后。『高麗史』巻89・后妃伝巻2によると、皇帝クビライと阿速真可敦という皇后との娘。生母である阿速真可敦については、現在『集史』クビライ・カアン紀に記載されているクビライの第8皇子アヤチ(アバチ)と第9皇子ココチュの生母であったフーシン部族のボロクル(ムカリをはじめとするいわゆる「チンギス・カンの四駿(Dörben Külü'üd)」のひとり)の娘、フウシジン皇后 Hūshījīn Khātūn との比定が試みられているが、確定には至っていない。(森平雅彦「高麗王家とモンゴル皇族の通婚関係に関する覚書」『東洋史研究』67-3、2008年)旧妃は始安公絪娘 貞和宮主と淑昌院妃であるが、荘穆王后との婚姻後には王は旧妃に近寄らなくなったという。(『高麗史』巻89・后妃伝巻2「貞和府主」条および「淑昌院妃」条)を娶り、翌年に帰国。再び元に戻り、元宗死後に再び帰国し、王位についた。
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忻都
忻都(きんと、生没年不詳)は、元のモンゴル人武将。名前の原音はモンゴル語・テュルク諸語でインドを意味する「ヒンドゥ」が近いとされている。
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モンゴル人
モンゴル人(モンゴルじん)。
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元 (王朝)
元(げん)は、中東アジアから東ヨーロッパまで広大な領域にまたがったモンゴル帝国の後裔の一国であり、そのうち中国本土とモンゴル高原を中心領域にモンゴル帝国皇帝の直轄地として、1271年から1368年まで東アジアと北アジアを支配したモンゴル人が建てた征服王朝である。 正式国号は、大元(だいげん)で、ほかに元朝(げんちょう)、元国(げんこく)、大元帝国(だいげんていこく)、元王朝(げんおうちょう)、大モンゴル国(だいもんごるこく)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で、国姓は「奇渥温」である。
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元史
『元史』(げんし)は、元(大元ウルス)について書かれた歴史書(正史)。 清の乾隆帝が定めた二十四史の一。編纂者は宋濂・高啓など。本紀47、表8、志58、列伝97の計210巻からなる紀伝体。成立は明の1369年(洪武3年)。収録年代はチンギス・カンがイェケ・モンゴル・ウルス(モンゴル帝国)を建国した1206年から、順帝トゴン・テムルが大都を放棄した1367年まで。 拙速な編纂により誤謬・重複・脱漏が多いことが早くより知られており、考証学者の銭大昕が「古今、史成るの速やかなる、未だ元史に如く者あらず。而して文の陋劣もまた、元史に如く者なし」と評するなど、清代には既に二十四史の中で最も完成度が低いとの評価が定まっていた。そのため多くの歴史家によって『元史』改訂の試みがなされており、その集大成が20世紀に編纂された『新元史』であった。
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元寇
元寇(げんこう)は、日本の鎌倉時代中期の1274年・1281年に、モンゴル帝国(元朝)および属国の高麗によって2度にわたり行われた対日本侵攻である。'''蒙古襲来'''とも呼ばれる。1度目を文永の役(ぶんえいのえき・1274年)、2度目を弘安の役(こうあんのえき・1281年)という。 なお、弘安の役において日本へ派遣された艦隊は、当時世界最大規模の艦隊であった村井章介『北条時宗と蒙古襲来-時代・世界・個人を読む』日本放送出版協会 2001年 126頁。
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竹田晃
竹田 晃(たけだ あきら、1930年11月26日 - 2021年8月6日)は、日本の中国文学者。東京大学教養学部教授を経て、東京大学名誉教授・明海大学名誉教授。六朝の志怪小説、唐代伝奇小説が専門。元東京大学運動会硬式野球部監督。
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生没年不詳
生没年不詳(せいぼつねんふしょう)とは、歴史上の人物の生没年がともに不明であることを示す。 生没年(せいぼつねん)は、ある個人の生まれた年(生年)、死亡した年(没年)をあわせた名称であり、伝記を記述するに当たって重要な要素の一つである。
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高麗
高麗(こうらい、コリョ、; )は、918年に王建(太祖)が後高句麗王弓裔を易姓革命で追放することで建国し、936年に朝鮮半島の後三国の統一を成し遂げ、1392年の李氏朝鮮建国まで続いた国家である。首都は開京。
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高麗史
『高麗史』(こうらいし)は、朝鮮の高麗王朝(918年 - 1392年)のことを記した紀伝体の官史。編纂は李氏朝鮮の鄭麟趾らによって行なわれ、文宗元年(1451年)に完成した。成立の際、高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書朝鮮王朝実録に相当する高麗王朝実録があったとされる。この実録の存在は、世宗実録からも存在が確認されるが、高麗史成立後の存在は不明となっている。具体的には、高麗の実録は世宗 22年までは忠州開川寺史庫に収蔵されてから 高麗史纂修のために京中に輸送されて、纂修が終わった後の行方ははっきりしない。 出典はである。 また史庫に関する詳細は、 を参照されたい。 なお、焚書された元天錫の「野史」6巻によれば、高麗史は高麗王朝実録の書き換えであり、「高麗実録」を「高麗史」に書き換えた事情が書かれ、高麗末の禑王は辛旽の子ではなく、恭愍王の子と書かれていたという。現存は転記の耘谷集等詩歌の部分と記録のみである。
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高麗史節要
高麗史節要(こうらいしせつよう)は、1452年に成立した朝鮮の歴史書。高麗(918年-1392年)の正史のひとつである。 朝鮮王朝の監春秋館事・金宗瑞らが、先代の王朝である高麗の歴史を編年体でまとめたもの。1451年に成立した鄭麟趾撰の『高麗史』の節要(ダイジェスト)という位置づけであるが、『高麗史』とは独立に編纂されたためにオリジナルの記事を多く含むほか、『高麗史』よりも詳細な部分もあり、貴重な史書である。35巻からなる。
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講談社学術文庫
講談社学術文庫(こうだんしゃがくじゅつぶんこ)は、講談社刊の文庫判・学術書レーベル、1976年(昭和51年)6月に発足講談社サイトでは「学術文庫」と表記している担当者(出版部長)による回想記は下記池永陽一『学術の森の巨人たち 私の編集日記』(熊本日日新聞社、2015年)宇田川眞人『日本に碩学がいたころ』(三恵社、2013年)。シンボルマークは、古代エジプトで知識や学問の象徴とされていた「トキ」(アフリカクロトキ)の姿をした神トートである。 単行判・選書新書の(改訂・改題も含む)再刊、古典新訳のみならず、文庫書き下ろしでの出版も多い。約40年間で2000冊代を刊行、重版多数の書目がある一方で、初版のみで品切絶版となった書目も多いが、合本改版や改訂再刊、電子書籍化されることもある。
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藤堂明保
藤堂 明保(とうどう あきやす、1915年9月20日 - 1985年1月2日)は、日本の中国語学者・中国文学者。
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至元 (元世祖)
至元(しげん)は、モンゴル帝国のカアン・クビライ(元の世祖)の治世で用いられた元号。1264年 - 1294年。モンゴル語史料ではČi-önと転写されている。
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金方慶
金 方慶(キム・バンギョン、崇慶元年(1212年) - 大徳4年8月16日(1300年8月30日))は、高麗の将軍・都督使。字は本然。諡号は忠烈。本貫は安東金氏(旧安東金氏)。新羅の敬順王の九世の孫にあたる。 元側に通じた高麗の武将であり、元寇時の高麗軍の指揮者である。
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武田幸男
武田 幸男(たけだ ゆきお、 - 2021年8月4日)は日本の歴史学者。東京大学名誉教授。文学博士。東方学会評議員・東洋文庫研究員・朝鮮学会幹事・史学会会員。専門は朝鮮史、東アジア交渉史。山形県上山市出身。
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2005年
この項目では、国際的な視点に基づいた2005年について記載する。
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2010年
この項目では、国際的な視点に基づいた2010年について記載する。
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