ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

河緯地

索引 河緯地

河緯地(か いち、ハ・ウィジ、하위지、1412年 - 1456年)は、李氏朝鮮の前期の文臣、政治家、学者。死六臣の一人。 科挙に合格し、礼曹判書となった。端宗が叔父世祖の側近の脅迫を受けて譲位すると、成勝、兪応孚、成三問、金礩などとともに端宗復位を意図した世祖殺害計画を企てるも、失敗を予想した成均館司隸金礩が舅鄭昌孫を通じて密告したため、処刑された。 字は天章、仲章、丹渓、赤村、延風。諡号は忠烈。本貫は晋州河氏。死六臣の中で、朴彭年と共に子孫が伝わる。.

56 関係: 南孝温司隸司憲府参議吏部寧越郡世宗 (朝鮮王)世祖 (朝鮮王)亀尾市忠清南道ソウル特別市全羅道兪応孚八つ裂きの刑状元皇太子礼曹端宗 (朝鮮王)粛宗義城郡義禁府羅州市生員申叔舟癸酉靖難領議政観察使訓民正音高麗論山市議政府郡守金宗瑞金時習集賢殿李ヨウ (朝鮮)李氏朝鮮李施愛の乱権擥死六臣江原道 (朝鮮八道)成均館成三問春秋館文宗 (朝鮮王)教理慶尚北道慶尚道...1387年1412年1438年1440年1444年1456年 インデックスを展開 (6 もっと) »

南孝温

南孝温(남효온、1454年 - 1492年)は 李氏朝鮮前期の文臣。本貫は宜寧南氏、字は伯恭、号は秋江、杏雨、最楽堂、碧沙。生六臣の一人 。開国功臣南在の子孫で、兵曹判書南怡、領議政南袞、文臣南褒の縁戚にあたる。.

新しい!!: 河緯地と南孝温 · 続きを見る »

司隸

司隸(しれい)とは、中国・漢代に都が置かれた長安・洛陽及びその周辺一体の首都圏行政を監督した司隸校尉の管掌地域の通称である。 京兆尹(長安)・河南尹(洛陽)(前漢では河南郡、京師が置かれた後漢では河南尹)と河内郡・河東郡・弘農郡・馮翊・扶風の5郡で構成された。.

新しい!!: 河緯地と司隸 · 続きを見る »

司憲府

司憲府(サホンブ)は、朝鮮において、高麗から李氏朝鮮にかけて存在した政府機関。時政(시정)の論評、官吏の糾察(공과)、褒挙(포거)、風俗の矯正、冤抑の解決、また経国大典では、濫偽(남위)の禁止などに関する業務を管掌する。 995年(成宗14年)に御史台(어사대)として設置されたが、1298年(忠烈王24年)に宗主国の元により、高麗の全官衙は名称を格下げされ、御史台も司憲府に改称した。以後、元による頻繁な官制変動によって名称を改められたが、1369年(恭愍王18年)に司憲府の名称が定着し、朝鮮末期まで続く。 1392年(太祖元年)、中枢院の南に設置され、1894年(高宗31年)の甲午改革によって、司諫院とともに、議政府所属の都察院に改編された。.

新しい!!: 河緯地と司憲府 · 続きを見る »

参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

新しい!!: 河緯地と参議 · 続きを見る »

吏部

吏部(りぶ)は六部の一。文官の任免・評定・異動などの人事を担当した。 後漢のときに吏曹が設置され、尚書常侍曹と改められた。魏晋南北朝時代より吏部と称され、隋唐五代十国では尚書省のもとで六部の首位に置かれた。 長官として(吏部尚書)が、次官として侍郎(吏部侍郎)が2人置かれた。隋唐期には吏部の下に・・・の4司が置かれ、各曹の長にはそれぞれ判官であるとが据えられた。 唐の初期には科挙を主管したが、玄宗の開元24年(736年)からは礼部が主管した。唐の中期に至り尚書省の権限が他の機関に侵されるようになると、吏部の役人の任免権も低下していった。司列、天官、文部と改称されたこともあるが、やがて吏部に戻された。.

新しい!!: 河緯地と吏部 · 続きを見る »

寧越郡

寧越郡(ヨンウォルぐん)は、大韓民国江原道にある郡。.

新しい!!: 河緯地と寧越郡 · 続きを見る »

世宗 (朝鮮王)

世宗(セジョン、せいそう、せそう、세종、1397年5月7日) - 1450年3月30日)は、李氏朝鮮の第4代国王である 。姓は李、名は祹(文字は示へんに陶の旁)(ド、도)。即位前は忠寧君(チュンニョングン、ちゅうねいくん)ついで忠寧大君(チュンニョンデグン、ちゅうねいたいくん)と呼ばれていた。.

新しい!!: 河緯地と世宗 (朝鮮王) · 続きを見る »

世祖 (朝鮮王)

世祖(セジョ、せいそ、永楽15年9月29日(1417年11月7日) - 成化4年9月8日(1468年9月23日)、在位:1455年閏6月11日(新暦7月25日) - 1468年9月7日(新暦9月22日))は、李氏朝鮮の第7代国王。諱は瑈(ユ、유)。即位前は晋平大君(チンピョンデグン、しんへいだいくん)→咸平大君(ハムピョンデグン、かんへいだいくん)→晋陽大君(チニャンデグン、しんようだいくん)を経て1445年に首陽大君(スヤンデグン、しゅようだいくん)に冊封された。一時、領議政に就任。孫に第9代国王成宗などがいる。第4代国王世宗の第2王子であり、第3代国王太宗の孫である。.

新しい!!: 河緯地と世祖 (朝鮮王) · 続きを見る »

亀尾市

亀尾市(クミし)は大韓民国慶尚北道の南西部にある市である。朴正煕元大統領の出身地であり、その政権下で工業都市化が進んだ。.

新しい!!: 河緯地と亀尾市 · 続きを見る »

忠清南道

忠清南道(チュンチョンナムド、ちゅうせいなんどう、韓国語表記:)は、大韓民国中部(朝鮮半島中西部よりやや南)に位置する行政区。現在の道知事は南宮英(権限代行)。1896年、勅令第36号で朝鮮八道における忠清道の西半分を「忠清南道」と定めた。1945年以降は大韓民国の行政区となり、現在に至る。通常は忠南と略される。 かつて忠清南道の一部であった大田市は1989年に「大田直轄市」(1995年より大田広域市)として分離した。その後も道庁は大田広域市に置かれていたが、2012年12月28日に洪城郡(本館)と礼山郡(議会)にまたがる地域に移転した。 2004年、韓国の行政首都の燕岐・公州地区への移転が決定されたものの、憲法裁判所で遷都を違憲とする判決が下され、行政機能の一部移転にとどまる形となった。この地区は2012年7月1日、忠清北道清原郡の一部とともに「世宗特別自治市」として忠清南道から分離した。.

新しい!!: 河緯地と忠清南道 · 続きを見る »

周(しゅう、、紀元前1046年頃 - 紀元前256年)は、中国古代の王朝。殷を倒して王朝を開いた。紀元前771年の洛邑遷都を境に、それ以前を西周、以後を東周と、2つの時期に区分される。国姓は姫(き)。周代において中国文明が成立したとみられる。.

新しい!!: 河緯地と周 · 続きを見る »

ソウル特別市

ウル特別市(ソウルとくべつし、、漢字: 서울特別市 、英語:Seoul)、通称ソウルは、大韓民国の首都。かつての朝鮮王朝の首都「漢城府」である。日本統治時代の朝鮮では漢ではなく京を使い「京城府」と呼ばれた。.

新しい!!: 河緯地とソウル特別市 · 続きを見る »

全羅道

全羅道(チョルラド、ぜんらどう)は、李氏朝鮮の行政区分朝鮮八道の一つ。名前の由来は、現在全羅北道に属する全州と、全羅南道に属する羅州の頭文字。一時、全南道、全光道と呼ばれたこともある。 現在の韓国の行政区分、全羅北道・全羅南道・済州特別自治道・光州広域市に相当する。現在において全羅道地域という場合は、通常、上記から済州特別自治道を除いた全羅北道・全羅南道・光州広域市の1広域市2道を指す。 慶尚道出身が多い韓国の歴代大統領の中で、唯一金大中だけが全羅道出身である。金大中が結成した平和民主党の流れを汲む政党(現在は共に民主党)の強固な支持基盤である。2016年4月の総選挙では共に民主党の前身の新政治民主連合から分裂した政治家によって結成された国民の党に支持基盤を奪われる結果となったが、翌2017年5月の大統領選挙では、全羅北道・全羅南道・光州広域市いずれも共に民主党の文在寅が国民の党の安哲秀に大差をつけて圧勝した。.

新しい!!: 河緯地と全羅道 · 続きを見る »

兪応孚

兪応孚(ゆ おうふ、ユ・ウンブ、유응부、? - 1456年)は、李氏朝鮮の武臣。字は信之、号は碧梁、諡号は忠穆、本貫は杞渓兪氏。.

新しい!!: 河緯地と兪応孚 · 続きを見る »

八つ裂きの刑

聖ヒッポリュトスの殉教』(ディルク・ボウツ作) 八つ裂きの刑(やつざきのけい)とは世界各地で行われていた死刑の執行方法の一種。被処刑者の四肢を牛や馬などの動力源に結びつけ、それらを異なる方向に前進させることで肉体を引き裂き、死に至らしめるものである。古代ギリシャでは、「ディアスフェンドネーゼ」(松の木折り)といい、たわめて固定した2本の木の間に罪人を逆さ吊りに縛りつけ、木が元に戻ろうとする力で股を裂く方法も用いられた。最も重い死刑の形態であり、酷刑として知られる。恐怖の馬走としても知られる。 四つ裂き・車裂き、馬走とも呼ばれ、総称して引き裂き刑と呼ばれるが、中世ヨーロッパの「車裂きの刑」は引き裂き刑とは異なるものを指す。馬走は、足のみに括り付け人体を二分する刑のことでもある。.

新しい!!: 河緯地と八つ裂きの刑 · 続きを見る »

状元

元(じょうげん、満州語:bonggo sonjosi、)は中国の科挙制度で最終試験(唐朝では省試、宋朝では殿試)で第一等の成績を修めた者に与えられる称号。鼎元、殿元とも言う。 歴史上最初の状元は唐代の622年(武徳5年)の孫伏伽であり、最後の状元は清代の1904年(光緒30年)の劉春霖である。1300年間で552名(遼朝18人、金朝15人、大西国1人、太平天国14人を含む)存在している。なお武挙での成績第1位は武状元と称され区分されている。 状元の名称は榜眼、探花と同様、正式名称ではなく慣習として呼ばれていた名称である。官方が発布する科挙合格者名簿である「金榜」には「一甲第一名」と記載されている。現在でも中国や台湾、香港では高考などの大学入試での成績最優秀者を状元と称すなど、現代でも生きた中国語として使用されている。.

新しい!!: 河緯地と状元 · 続きを見る »

皇太子

皇太子(こうたいし、Crown Prince)は、皇位継承(帝位継承)の第一順位にある皇子を指す称号。一般的には皇室ならびに海外の王室における君主位の法定推定相続人の敬称として使われる。.

新しい!!: 河緯地と皇太子 · 続きを見る »

礼曹

曹(イェージョ)は、朝鮮において、高麗末から李氏朝鮮にかけて置かれた行政機関。儀礼や祭事、外交などを司った。正二品衙門。1392年(太祖元年)に設置され、1894年(高宗31年)の甲午改革で学務衙門に改称された。.

新しい!!: 河緯地と礼曹 · 続きを見る »

端宗 (朝鮮王)

端宗(タンジョン、たんそう、正統6年7月23日(1441年8月9日) - 天順元年10月24日(1457年11月11日))は、李氏朝鮮の第6代国王(在位:1452年(景泰3年) - 1455年(景泰6年))。姓は李、名は弘暐(ホンウィ、홍위)、諡号は恭懿温文純定安荘景順敦孝大王。父は第5代国王文宗。母は顕徳王后権氏。妃は礪良府院君宋玹寿の娘、定順王后。.

新しい!!: 河緯地と端宗 (朝鮮王) · 続きを見る »

粛宗

粛宗(しゅくそう)は、東アジアにおける皇帝・王の廟号のひとつ。.

新しい!!: 河緯地と粛宗 · 続きを見る »

義城郡

義城郡(ウィソンぐん)は大韓民国慶尚北道の中部にある郡である。.

新しい!!: 河緯地と義城郡 · 続きを見る »

義禁府

義禁府(ウィグムブ)は、李氏朝鮮において、王命により大罪人の取り調べを行った官庁。  高麗・忠烈王の時に設立される。李成桂が権知高麗国事に即位したことにより、改めて巡軍万戸府を置き、巡綽・捕盗・禁乱などの警察業務を引き受けるようにし、司法権は刑曹で掌握した。 ところが、1394年(太祖3年)に朴威(バクウィ)の不敬罪を刑曹・司憲府と合同で処決して、司法機関としての行跡を残す事となる。その後、刑曹の滞囚を処決するなど機能が拡大強化され、本来の警察業務の他に刑獄も牛耳るようになっていった。.

新しい!!: 河緯地と義禁府 · 続きを見る »

羅州市

羅州市(ナジュし)は大韓民国全羅南道の市。 韓国有数の梨の産地として知られ、市のシンボルマークのモチーフともなっている。日本統治時代、羅州に多く暮らしていた内地人が朝鮮人に梨の栽培方法を教えたことに起因する。敗戦後、梨園は韓国人に引き継がれ、現在に至っている。 現在は韓国電力公社の本社所在地でもある。.

新しい!!: 河緯地と羅州市 · 続きを見る »

生員

生員(せいいん、満州語:šusai)とは、中国明朝及び清朝において国子監の入試(院試)に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得たもののことをいう。生員となったものは、府学・県学などに配属される。また、秀才と美称され、実質的に士大夫の仲間入りをしたことになり、徭役免除などの特権を得た。なお、諸生(しょせい)とは童試の中の最初の二つの試験である県試・府試に合格したもののことを差すが、院試には合格していないので科挙の受験資格は得られていない。 郷試に合格するのは毎回400人程度であるのに対して、諸生は50万人もいたとされている。.

新しい!!: 河緯地と生員 · 続きを見る »

申叔舟

申 叔舟(シン・スクチュ、しん しゅくしゅう、1417年(太宗17年) - 1475年(成宗6年))は、李氏朝鮮初期の政治家。字は泛翁。号は希賢堂あるいは保閑斎。諡号は文忠。本貫は高霊。.

新しい!!: 河緯地と申叔舟 · 続きを見る »

癸酉靖難

酉靖難(きゆうせいなん、ケユジョンナン)は、李氏朝鮮の第6代国王端宗の即位1年後の1453年10月に、幼い国王の叔父にあたる首陽大君(のちの世祖)が、皇甫仁、金宗瑞らの顧命大臣を殺害して政権を奪取した宮廷クーデター事件。.

新しい!!: 河緯地と癸酉靖難 · 続きを見る »

領議政

議政(りょうぎせい、朝鮮読み:ヨンイジョン、영의정)は、李氏朝鮮における議政府3議政の一つで、正一品にあたる最高の中央官職。現在の大韓民国の国務総理にあたる。.

新しい!!: 河緯地と領議政 · 続きを見る »

観察使

観察使(かんさつし)は、唐代の中国、李氏朝鮮、および平安時代初期の日本が設置した地方行政監察のための官職。唐・日本ではいずれも律令に規定のない令外官だった。李氏朝鮮においては国王直属の機関であった。.

新しい!!: 河緯地と観察使 · 続きを見る »

訓民正音

訓民正音(くんみんせいおん、훈민정음)とは、李氏朝鮮の世宗が制定した文字体系ハングルの古称、あるいはそれについて解説した書物のことをいう。ここでは主として書物のことについて説明する。文字自体についてはハングルの項を参照。.

新しい!!: 河緯地と訓民正音 · 続きを見る »

高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

新しい!!: 河緯地と高麗 · 続きを見る »

論山市

論山市(ノンサンし)は、大韓民国忠清南道の都市。忠清南道南部に位置し、市内を湖南線、湖南高速道路支線が通る。韓国陸軍の訓練所がある。.

新しい!!: 河緯地と論山市 · 続きを見る »

議政府

議政府(ぎせいふ、ウィジョンブ)は、李氏朝鮮における最高行政機関。正一品衙門。 この機関が創設されたのは、1400年(定宗2年)に都評議使司、門下府を統合して創設される。翌年1401年(太宗元年)門下府の機能を独立させ、司諫院とした。.

新しい!!: 河緯地と議政府 · 続きを見る »

郡守

郡守(ぐんしゅ)は、古代の中国、現代の韓国における郡の長官である。.

新しい!!: 河緯地と郡守 · 続きを見る »

金宗瑞

金宗瑞(きん そうずい、キム・ジョンソ、1390年-1453年(端宗2年))は、李氏朝鮮初期の武臣・政治家。本貫は、順天。 世宗が最も寵愛した家臣として知られる。.

新しい!!: 河緯地と金宗瑞 · 続きを見る »

金時習

金時習(きん じしゅう、キム・シスプ、朝鮮語:김시습、1435年 - 1493年)は 李氏朝鮮初期に活躍した文人。 明の瞿佑『剪灯新話』の影響を受けて作られた短篇小説集『金鰲新話』(きんごうしんわ)が知られる。.

新しい!!: 河緯地と金時習 · 続きを見る »

集賢殿

集賢殿(チッピョンジョン)は、朝鮮において、高麗から李氏朝鮮初期にかけて存在した国家及び王室のための研究機関。正二品衙門。 もとは、中国で漢・魏以来設置されていた機関であった。朝鮮にも影響し、古くからこの制度を導入した。集賢殿の名称が使われるのは1136年(仁宗14年)に延英殿(연영전)を集賢殿に改名してから始まる。 しかし、高麗から李氏朝鮮初期までは何の職務もなかった。1420年(世宗3年)に世宗は集賢殿を再編し拡大させた。これまでは省庁を持たず職務がなかった集賢殿には官庁が与えられ、経典の編纂や様々な分野の研究から王の諮問機関にもなった。 ところが、1456年(世祖2年)に発覚した端宗復位計画では、集賢殿出身の政治家及び学者達が中心になって活動していたため、同年6月6日をもって集賢殿は廃止された。.

新しい!!: 河緯地と集賢殿 · 続きを見る »

李ヨウ (朝鮮)

李瑢(り よう、イ・ヨン、永楽16年9月19日(1418年10月18日) - 景泰4年10月18日(1453年11月18日))は、李氏朝鮮前期の王族で書家。字は淸之(せいし、チョンジ)、号は匪懈堂(ひかいどう、ピヘダン)、琅玗居士(ろううこじ、ナンウゴサ)、梅竹軒(ばいちくけん、メジュゴン)。第4代国王世宗の第3王子で第5代国王文宗、および第7代国王世祖の弟である。 3歳で叔父の養子となり「褈(誠寧大君)娶成抑女無子, 上以第三子瑢爲後。」朝鮮王朝実録世宗 12卷, 3年(1421 辛丑 / 永樂 19年) 7月 7日(丁卯)。 ( )内引用者。、1428年、10歳の時大匡輔国 安平大君(だいきょうほこく あんへいだいくん、テグァンボグク アンピョンデグン)に封じられた「以朴氏、崔氏竝爲貴人。 瑈大匡輔國、晋平大君, 瑢大匡輔國、安平大君, 璆大匡輔國、臨瀛大君, 義生元尹, 崔府右軍摠制。」『朝鮮王朝実録』世宗 40卷, 10年(1428 戊申 / 善德 3年) 6月 16日(丁酉)。1453年、金宗瑞、らと共に首陽大君(のちの世祖)からの蜂起を受け、江華島に流刑になった後賜死された(癸酉靖難)。のひとり。.

新しい!!: 河緯地と李ヨウ (朝鮮) · 続きを見る »

李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん、朝鮮語ハングル表記:이씨조선)は、1392年から1910年にかけて朝鮮半島に存在した国家。朝鮮王朝、朝鮮封建王朝とも呼ばれる。朝鮮民族国家の最後の王朝で、現在までのところ朝鮮半島における最後の統一国家でもある。李朝(りちょう)ともいう(「李王朝」の意)。高麗の次の王朝にあたる。 1392年に高麗の武将李成桂太祖(女真族ともいわれる)が恭譲王を廃して、自ら高麗王に即位したことで成立した。李成桂は翌1393年に中国の明から権知朝鮮国事(朝鮮王代理、実質的な朝鮮王の意味)に封ぜられた。朝鮮という国号は李成桂が明の皇帝朱元璋から下賜されたものであり、明から正式に朝鮮国王として冊封を受けたのは太宗の治世の1401年であった。中国の王朝が明から清に変わった17世紀以降も、引き続き李氏朝鮮は中国王朝の冊封体制下にあった。東人派や西人派、老論派、南人派など党派対立が激しく、政権交代は対立する派閥の虚偽の謀反を王に通報で粛清という形が多く、多くの獄事が起こった。1894年の日清戦争後に日本と清国との間で結ばれた下関条約は李氏朝鮮に清王朝を中心とした冊封体制からの離脱と近代国家としての独立を形式的かつ実質的にもたらした。これにより李氏朝鮮は1897年に国号を大韓帝国(だいかんていこく)、君主の号を皇帝と改め、以後日本の影響下に置かれた。大韓帝国の国家主権は事実上、冊封体制下における清朝から日本へと影響を受ける主体が変化するものであった。1904年の第一次日韓協約で日本人顧問が政府に置かれ、翌1905年第二次日韓協約によって日本の保護国となり、1907年の第三次日韓協約によって内政権を移管した。こうした過程を経て1910年8月の「韓国併合ニ関スル条約」調印によって大韓帝国は日本に併合され、朝鮮民族の国家は消滅した。.

新しい!!: 河緯地と李氏朝鮮 · 続きを見る »

李施愛の乱

李施愛の乱(り しあい(イ・シエ)のらん)は、1467年(世祖12年)に咸鏡道で起こった朝鮮時代(李氏朝鮮)前期最大の反乱。広範な民衆を巻きこみ、宮中内部の重臣にまで波及して、世祖晩年における最大の政治的危機となった。.

新しい!!: 河緯地と李施愛の乱 · 続きを見る »

権擥

権擥(けん らん、クォン・ラム 1416年(太宗16年) - 1465年(世祖11年))2月6日は、李氏朝鮮前期の権臣。勲旧派として王朝政治に参画。策士とされる韓明澮とは友人。字は正卿(チョンギョン)、号は所閑堂(ソハンダン)、謚号は翼平(イクピョン)。『東国史略』を著した権近(クォン・グン)の孫で、右賛成を歴任し、『高麗史』の編集に参加した権踶(クォン・ジェ)の次男。.

新しい!!: 河緯地と権擥 · 続きを見る »

死六臣

死六臣(しろくしん、、)とは、世祖によって王位を追われた端宗の復位を図ろうとして処刑された李氏朝鮮時代の6人の政治家を指す言葉。 一般的に死六臣は次の人物を指す。.

新しい!!: 河緯地と死六臣 · 続きを見る »

江原道 (朝鮮八道)

江原道(カンウォンド、こうげんどう)は李氏朝鮮の行政区画、朝鮮八道の一つ。現在の大韓民国と朝鮮民主主義人民共和国にまたがる江原道を合わせた地域。現在は韓国側にある江陵と原州から頭文字を取って命名された。 北を咸鏡道に、西を黄海道と京畿道に、南を忠清道と慶尚道に接する。東は、日本海に面している。 李氏朝鮮初期に設置されたが、険しい山脈によって交通が妨げられたので、道名の由来となった原州と江陵が、それぞれ西と東の中心地として発展した。.

新しい!!: 河緯地と江原道 (朝鮮八道) · 続きを見る »

成均館

成均館(ソンギュングァン)は、高麗の末期と李氏朝鮮の最高教育機関。以前の最高教育機関である国子監の名称を1298年に「成均監」、ついで1308年に「成均館」と変えたことで始まった。恭愍王の時に国子監の名称に復したが、1362年に再び成均館に戻った。正三品衙門。 朝鮮時代には、成均館は、漢陽の崇教坊(現在のソウル特別市鍾路区明倫洞)と開城(高麗の首都)に存在した。文廟(孔子と碩学の祠堂)、明倫堂(講義室)、東斎・西斎(寮)、尊経閣(図書館)で構成されたが、文禄・慶長の役の時に消失して再建された。1887年には経学院に改称するが、1894年に廃止される。また成均館大学校は成均館を前身としている。.

新しい!!: 河緯地と成均館 · 続きを見る »

成三問

成 三問(せい さんもん、1418年(太宗18年) - 1456年(世祖2年))は、李氏朝鮮前期の学者・政治家。字は謹甫・訥翁、号は梅竹軒、謚は忠文。本貫は昌寧。.

新しい!!: 河緯地と成三問 · 続きを見る »

春秋館

春秋館(チュンチュグァン)は、李氏朝鮮において、実録編纂を主管業務とする行政機関で、知事を長官、同知事を次官とする機関である。.

新しい!!: 河緯地と春秋館 · 続きを見る »

文宗 (朝鮮王)

文宗(ムンジョン、ぶんそう、永楽12年10月3日(1414年11月15日) - 景泰3年5月14日(1452年6月1日))は、李氏朝鮮の第5代国王(在位:1450年 - 1452年)。姓は李、名は珦(ヒャン、향)。王位継承以前に摂政を務める。.

新しい!!: 河緯地と文宗 (朝鮮王) · 続きを見る »

教理

教理(きょうり、doctrina, doctrine、ドクトリン)は、宗教上の教え。ここではキリスト教における「教理」(doctrine)の語義とその指す内容とを、おもに教派別に扱う。「教義」(dogma)と同義の場合もあれば、異なる意義を持つ場合もある。キリスト教における「教理」の語義は、教派や時代によって異なっている。 近年のキリスト教関連の著作物では、dogmaに「教義」を、doctrineに「教理」を当てているが、日本の和英辞典では特に使い分けをしていないものもある。本項では、訳語「教理」「教義」が、"doctrine" "dogma" に対応して使い分けられている用例を中心に概念整理をした上で、各教派における理解につき詳述する。.

新しい!!: 河緯地と教理 · 続きを見る »

慶尚北道

慶尚北道(キョンサンプクト、けいしょうほくどう、韓国語表記:)は、大韓民国の東南部(朝鮮半島南東部)に位置する行政区。「慶尚」とはかつての中心都市であった慶州(新羅の古都)、尚州を組み合わせた合成地名であり、この周辺地域を慶尚道と呼ぶ。行政区画としては李氏朝鮮の時代に東西に分けられたりなど試行錯誤が行われ、1896年勅令第36号で朝鮮八道における慶尚道の北半分を慶尚北道と定めた。かつて慶尚北道の一部であった大邱市は1981年に「大邱直轄市」(1995年より大邱広域市)として分離した。その後も道庁は大邱広域市に置かれていたが、2016年2月12日に安東市に移転した。通常は慶北と略される。.

新しい!!: 河緯地と慶尚北道 · 続きを見る »

慶尚道

慶尚道(キョンサンどう、日本読み:けいしょうどう)は、朝鮮八道の一つ。1896年に慶尚南道と慶尚北道に分かれた。現在は慶尚北道に属する慶州と尚州から頭文字を取って命名された。古代の遺跡や古都がある点は日本の近畿地方に似ている。韓国の歴代大統領12人(代行は除く)のうち8人が慶尚道出身であるなど、有名政治家、実業家を輩出している。広域市も釜山、蔚山、大邱の3つがある。慶尚道地域のうち、現在の大邱広域市と慶尚北道の領域はTK地域、釜山広域市と蔚山広域市と慶尚南道の領域はPK地域と呼ばれる。 韓国の主要政党で、李明博政権(2008年2月25日~2013年2月24日)、朴槿恵政権(2013年2月25日~2017年3月10日)時代に与党だった自由韓国党(大邱市と慶尚北道を地盤としていた民主正義党と、釜山市と慶尚南道を地盤としていた統一民主党などが合同して1990年に結成された民主自由党の流れを汲む保守政党)はこの慶尚道を強固な支持基盤としていたが、2017年の大統領選挙では、自由韓国党の洪準杓が共に民主党の文在寅にPK地域で敗れるなど、近年は慶尚道地域の政党支持に変化がみられる。.

新しい!!: 河緯地と慶尚道 · 続きを見る »

曹(そう)は部屋を意味する漢字。転じて漢字圏の官制における名称となった。近代日本ではもっぱら軍隊における階級区分の一つとして用いられる。.

新しい!!: 河緯地と曹 · 続きを見る »

1387年

記載なし。

新しい!!: 河緯地と1387年 · 続きを見る »

1412年

記載なし。

新しい!!: 河緯地と1412年 · 続きを見る »

1438年

記載なし。

新しい!!: 河緯地と1438年 · 続きを見る »

1440年

記載なし。

新しい!!: 河緯地と1440年 · 続きを見る »

1444年

記載なし。

新しい!!: 河緯地と1444年 · 続きを見る »

1456年

記載なし。

新しい!!: 河緯地と1456年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »