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正親町三条公氏

索引 正親町三条公氏

正親町三条公氏(おおぎまちさんじょう きんうじ)は、鎌倉時代の公卿。正二位権大納言。三条大納言と号す。左大臣三条実房の三男で、正親町三条家の祖。三条の他、嵯峨および西郊とも称す。兄に三条公房、姉小路公宣らがいる。子に正親町三条実蔭等。 なお、明治維新後に正親町三条家は本家の三条家(転法輪三条家)と区別するために家名を「嵯峨」と改称したが、これは公氏の別号に由来している(公氏のもうひとつの別号である西郊を称する公氏の子孫の公家もかつてあった)。.

79 関係: 参議叙爵吉川弘文館大納言姉小路公宣安貞寿永寛喜尊卑分脈左大臣中宮職中納言三条実房三条家三条公俊三条公房三条有子仲恭天皇建久建仁建保建暦徳大寺公継後堀河天皇後鳥羽天皇従三位土御門天皇嘉禎嘉禄嵯峨野公卿公卿補任元久四条天皇皇后宮職鎌倉時代順徳天皇貞応黒板勝美近衛府閑院流藤原定家藤原北家藤原経宗藤原泰通蔵人頭正二位正親町三条実蔭正親町三条家正治...明治維新承久承元10月5日1182年1191年1192年1195年1199年1200年1201年1203年1204年1205年1209年1210年1211年1212年1217年1220年1221年1222年1223年1225年1226年1227年1231年1237年9月15日 (旧暦) インデックスを展開 (29 もっと) »

参議

参議(さんぎ)は、日本の朝廷組織の最高機関である太政官の官職の一つである。四等官の中の次官(すけ)に相当する令外官で、納言に次ぐ。唐名(漢風名称)は宰相・相公・平章事・諫議大夫。和訓はおほまつりことひと。 宮中の政(朝政)に参議するという意味で、朝政の議政官に位置する。.

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叙爵

叙爵(じょしゃく)とは、.

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吉川弘文館

吉川弘文館(よしかわこうぶんかん)は日本史関連を主軸とした老舗の出版社。1857年(安政4年)に、吉川半七により設立。戦後1949年(昭和24年)に株式会社として現在に至る。.

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大納言

大納言(だいなごん)は、太政官に置かれた官職のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「おほいものまうすのつかさ」。唐名は亜相または亜槐。丞相・槐門(いずれも大臣のこと)に次ぐ者であることからいう。官位相当は三品・四品または正三位。.

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姉小路公宣

姉小路 公宣(あねがこうじ/あねこうじ きんのぶ)は鎌倉時代初期の公卿。左大臣・三条公房の次男。姉小路家の祖。初名は公信。姉小路に住み姉小路大納言と号す。.

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安貞

安貞(あんてい)は、日本の元号の一つ。嘉禄の後、寛喜の前。1227年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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寿永

寿永(じゅえい、正字体:壽永)は、日本の元号の一つ。養和の後、元暦の前。1182年から1183年までの期間を指す。この時代の天皇は安徳天皇と後鳥羽天皇。後白河法皇の院政期。 源氏と平家が相争った治承・寿永の乱の時代。源頼朝の源氏方ではこの元号を使用せず以前の治承を引き続き使用していたが、源氏方と朝廷の政治交渉が本格化し、朝廷から寿永二年十月宣旨が与えられた寿永2年(1183年)以降、京都と同じ元号が鎌倉でも用いられるようになる。また、平家方では都落ちした後も次の元暦とその次の文治の元号を使用せず、この寿永をその滅亡まで引き続き使用した。.

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寛喜

寛喜(かんぎ、かんき)は、日本の元号の一つ。安貞の後、貞永の前。1229年から1231年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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尊卑分脈

『尊卑分脈』(そんぴぶんみゃく、異体字で『尊卑分脉』とも)は、日本の初期の系図集。正式名称は『新編纂図本朝尊卑分脈系譜雑類要集』(しんぺん さんず ほんちょう そんぴぶんみゃく けいふざつるい ようしゅう、旧字体:新編纂圖本朝尊卑分脈系譜雜類要集)、また『諸家大系図』(しょか だいけいず)あるいは単に『大系図』(だいけいず)とも呼ばれる。 姓氏調査の基本図書のひとつで、南北朝時代から室町時代初期に完成した。編者は洞院公定で、主に永和3年(1377年)から応永2年(1395年)にかけて編纂された。ただし、公定死後も養子満季、孫の実煕ら洞院家の人によって編集・改変・訂正・追加が行われた。室町時代以降、広く増補改訂されたため、異本が多く、30巻本・20巻本・14巻本が流布した。 成立当初は帝皇系図・神祇道系図・宿曜道系図を伴ったらしいが失われ、現存する部分は源平藤橘のうちいずれも長く宮廷社会の中枢にいた藤原・源の両氏に詳しい。直線で父系を結び、女性は后妃など極めて一握りの人を除き「女子」と省略されている。系図に名の見える男性官人には、実名とともに生母・官歴・没年月日と享年の注記を含む略伝が付され、貴重である。平安時代および鎌倉時代に関する記載は一級史料として採用される。 ただし当時の記録や公卿の日記に見える人物の名がなかったり、また逆に実在が疑わしい人物が記載されていたり、年代的におかしい部分もある(例えば平忠盛の娘が源義忠に嫁いだと書かれているが、これは忠盛の父平正盛の娘の誤り)等、一部信憑性に欠ける部分もあり、公定死後の部分や加筆された部分に関しては他の史料との整合性や比較批評が必要である。.

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左大臣

左大臣(さだいじん)は、朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」。定員1名。官位相当は正・従二位。太政大臣と左・右大臣(後に左・右大臣と内大臣)とを総称して、三公・三槐と呼ぶ。 「一上」の別称が示すとおり、太政官の職務を統べる議政官の首座として朝議を主催した。左大臣の上位の太政大臣は功労者を待遇する名誉職としての意味が強いために具体的職掌が伴わず、また「則闕(そっけつ)の官」と呼ばれたように常設職ではなかったことから、左大臣が太政官における事実上の最高位であった。事実、摂関政治の最盛期に位置する藤原道長・藤原頼通も長期にわたって左大臣の地位を保持し続けており、太政大臣であった期間はごく短い。 この他、弾正台が不当な糾弾や摘発を行った案件がある場合には、代わって弾劾する権限を持った。 「六国史」や『公卿補任』の記録を見ると、律令制初期には適任者不在のために闕官となっていた時期も少なくないが、その場合は右大臣が政務を代行した。10世紀前半の藤原忠平からほぼ常設職となる。明治維新以降も天皇を輔佐して大政を統理する職として存続したが、1885年(明治18年)内閣制度の発足に伴い廃止。.

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中宮職

中宮職(ちゅうぐうしき)は、律令制において中務省に属して后妃に関わる事務などを扱う役所。元来は、全ての后妃の世話を行うために設置されたが後には皇后と中宮、皇太后などとの並立によりそれぞれに太皇太后宮職、皇太后宮職、皇后宮職と専属の職が置かれる。.

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中納言

中納言(ちゅうなごん)は、太政官に置かれた令外官のひとつ。太政官においては四等官の次官(すけ)に相当する。訓読みは「すけのものまうすつかさ」あるいは「なかのものまうすつかさ」。.

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三条実房

三条 実房(さんじょう さねふさ)は平安時代末期および鎌倉時代の公卿。左大臣正二位。三条入道左府と号す。父は内大臣三条公教。母は権中納言藤原清隆の娘。室は左大臣藤原経宗の娘。子に公房、公宣、公氏、公俊などがおり、子孫から多くの三条家庶流が生まれた。.

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三条家

三条家(さんじょうけ、正字体:三條)は、藤原氏北家閑院流の嫡流にあたる日本の公家。公家としての家格は清華家。明治以降は華族として三条実美の功により公爵を授けられた。家業は笛と香道。家紋は唐菱花(三条花角、三条家花角とも)。通字は「公」と「実」を交互に用いる。やはり家号を略して単に「三条」と呼ばれることもあった正親町三条家や三条西家とは区別して、転法輪三条家(てんぽうりんさんじょうけ、てぼりさんじょうけ)と呼ぶこともある。 明治維新までに三条家が輩出した公卿の数は39名。うち太政大臣まで昇った者が5名、左大臣まで昇った者が5名、右大臣まで昇った者が8名、内大臣まで昇った者が7名となっている。大臣家の正親町三条家と三条西家を筆頭に分流も多くある。.

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三条公俊

三条 公俊(さんじょう きんとし)は、鎌倉時代前期から中期にかけての公卿。三条家(転法輪三条家)3代、左大臣・三条実房の子。官位は従二位・非参議。.

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三条公房

三条 公房(さんじょう きんふさ、治承3年(1179年) - 建長元年8月16日(1249年9月23日))は鎌倉時代の公卿。左大臣・三条実房の長男。官位は従一位・太政大臣。浄土寺相国と呼ばれ、三条家が清華家となる基礎を築いた。.

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三条有子

三条 有子(さんじょう ゆうし、藤原 有子(ふじわら の ゆうし)、建永2年(1207年) - 弘安9年2月6日(1286年3月2日))は、鎌倉時代の後堀河天皇の皇后。三条后。女院号は安喜門院(あんきもんいん)。.

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仲恭天皇

仲恭天皇(ちゅうきょうてんのう、建保6年10月10日(1218年10月30日) - 天福2年5月20日(1234年6月18日))は、鎌倉時代の第85代天皇(在位:承久3年4月20日(1221年5月13日) - 承久3年7月9日(1221年7月29日))。諱は懐成(かねなり)。 順徳天皇の第四皇子。母は、九條良経の娘、中宮・立子(東一条院)。.

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建久

建久(けんきゅう)は、日本の元号の一つ。文治の後、正治の前。1190年から1198年までの期間を指す。この時代の天皇は後鳥羽天皇、土御門天皇。.

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建仁

建仁(けんにん)は、日本の元号の一つ。正治の後、元久の前。1201年から1203年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼家、源実朝、執権は北条時政。.

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建保

建保(けんぽう)は、日本の元号の一つ。建暦の後、承久の前。1213年から1218年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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建暦

建暦(けんりゃく)は、日本の元号の一つ。承元の後、建保の前。1211年から1214年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府征夷大将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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徳大寺公継

徳大寺 公継(とくだいじ きんつぐ、安元元年(1175年) - 嘉禄3年1月30日(1227年2月17日))は、平安時代末期から鎌倉時代前期の公卿。後鳥羽天皇(82代)・土御門天皇(83代)・順徳天皇(84代)・仲恭天皇(85代)・後堀河天皇(86代)の五朝にわたって仕え、官位は従一位左大臣まで昇った。初名は公嗣。父は左大臣徳大寺実定。母は上西門院女房備後(『尊卑分脈』公継条)。室は三条実房の娘。子に太政大臣徳大寺実基、徳大寺実嗣がいる。野宮左大臣と号す。日記に『宮槐記』がある。 寿永2年(1183年)12月に叙爵して以降累進して、侍従・備前介・右近衛少将・右近衛中将などをへて、建久元年(1190年)参議となり、公卿に列する。公継の兄二人は早世し、自身も病気がちとなった父の実定が自身の左大臣辞任と引き換えに残された公継の参議任官を後白河法皇や九条兼実らに乞うて認められたものという。建久6年(1195年)後鳥羽天皇の中宮九条任子の中宮大夫となる。伊予権守・権中納言・左衛門督・検別当などをへて、建仁2年(1202年)には皇太子守成親王(のちの順徳天皇)の春宮権大夫となる。同年、正式な中納言となる。元久元年(1204年)に権大納言、さらに建永元年(1206年)大納言となった。さらに正式な春宮大夫となる。承元元年(1207年)右近衛大将に任じられる。承元3年(1209年)、正二位内大臣となる。承元4年(1210年)に右近衛大将を辞し、建暦元年(1211年)右大臣となり、建保3年(1215年)に辞職した。承久3年(1221年)に更任、貞応3年(1224年)、一上となし、ついで左大臣に任じた。嘉禄元年(1225年)、従一位に叙され、同3年(1227年)、薨じた。 『古今著聞集』の情報源として、徳大寺公継のサロンが大きく関わっていたと言われている。.

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後堀河天皇

後堀河天皇(ごほりかわてんのう、建暦2年2月18日(1212年3月22日) - 天福2年8月6日(1234年8月31日))は、鎌倉時代の第86代天皇(在位:承久3年7月9日(1221年7月29日) - 貞永元年10月4日(1232年11月17日))。諱は茂仁(とよひと)。 高倉天皇の第二皇子の守貞親王(後高倉院)の第三皇子。母は、持明院基家の娘、北白河院・陳子。.

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後鳥羽天皇

後鳥羽天皇(ごとばてんのう)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての第82代天皇(在位:寿永2年8月20日(1183年9月8日) - 建久9年1月11日(1198年2月18日))。諱は尊成(たかひら・たかなり)。高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。 文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代の1221年(承久3年)に、鎌倉幕府執権の北条義時に対して討伐の兵を挙げたが、この承久の乱で朝廷側が敗北したため、隠岐に配流され、1239年(延応元年)に同地で崩御した。.

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従三位

従三位(じゅさんみ)は、位階及び神階における位のひとつ。 正三位の下、正四位(正四位上)の上に位した、律令制下では任参議及び従三位以上の者を公卿といった。贈位の場合、贈従三位とされた。.

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土御門天皇

土御門天皇(つちみかどてんのう、建久6年11月1日または12月2日(1195年12月4日または1196年1月3日) - 寛喜3年10月11日(1231年11月6日))は、鎌倉時代の第83代天皇(在位:建久9年1月11日 (1198年2月18日) - 承元4年11月25日(1210年12月12日))。諱は為仁(ためひと)。 後鳥羽天皇の第一皇子。母は、源通親の養女(法勝寺執行法印能円の女)承明門院・源在子。.

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嘉禎

嘉禎(かてい)は、日本の元号の一つ。文暦の後、暦仁の前。1235年から1237年までの期間を指す。この時代の天皇は四条天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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嘉禄

嘉禄(かろく)は、日本の元号の一つ。元仁の後、安貞の前。1225年から1228年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は藤原頼経、執権は北条泰時。.

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嵯峨野

嵯峨野竹林 嵯峨野(さがの)は、京都府京都市右京区の地名。太秦・宇多野の西、桂川の北、小倉山の東、愛宕山麓の南に囲まれた付近に広がる広い地域の名称で、単に「嵯峨(さが)」と呼称される事もある。ただし、観光地としての「嵯峨(野)」は嵐山から小倉山に沿った社寺の立ち並ぶ地域(概ね車折神社より西側)を指す。平安京の西方の郊外になることから別名、西郊と公家達はよんだ。 地名の由来については坂あるいは険し(さがし)などの地形に由来するという説と中国西安(長安)郊外の「巀嶭山(さつがつさん)」を「嵯峨山」とも書いたからだという説がある。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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公卿補任

公卿補任(くぎょうぶにん)は、歴代朝廷の高官の名を列挙した職員録で、日本史の基本史料の1つ。.

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元久

元久(げんきゅう)は、日本の元号の一つ。建仁の後、建永の前。1204年から1206年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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四条天皇

四条天皇(しじょうてんのう)は、鎌倉時代の第87代天皇(在位:貞永元年10月4日(1232年11月17日) - 仁治3年1月9日(1242年2月10日))。諱は秀仁(みつひと)。 後堀河天皇の第一皇子。母は、九条道家の娘、中宮・竴子(藻璧門院、竴は「立尊」)。.

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皇后宮職

皇后宮職(こうごうぐうしょく、こうごうぐうしき)は皇后の家政機関を指す。日本の宮内庁においては宮内庁侍従職が天皇と皇后に関する事務をあわせて担当するため、現在はおかれていない。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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順徳天皇

順徳天皇(じゅんとくてんのう)は、鎌倉時代の第84代天皇(在位:承元4年11月25日(1210年12月12日) - 承久3年4月20日(1221年5月13日)) - コトバンク - コトバンク 『秋山喜代子』 - コトバンク 『山本博也』。諱は守成(もりなり)。 後鳥羽天皇の第三皇子。母は、藤原範季の娘・重子(修明門院)。.

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貞応

貞応(じょうおう)は、日本の元号の一つ。承久の後、元仁の前。1222年から1223年までの期間を指す。この時代の天皇は後堀河天皇。鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時、泰時。.

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黒板勝美

黒板 勝美(くろいた かつみ、1874年9月3日 - 1946年12月21日)は、日本の歴史学者。東京帝国大学名誉教授。文学博士。専門は、日本古代史、日本古文書学。号は虚心。エスペラントの普及に努める。.

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近衛府

近衛府(このえふ)は令外官のひとつ。765年に授刀衛を改めて設置された。左近衛府と右近衛府の二つが存在する。唐名は羽林。長は近衛大将(左近衛大将・右近衛大将)である。(左右)衛門府、(左右)兵衛府とあわせて「六衛府」と呼ばれる。別名「おおきちかきまもり」「ちかきまもりのつかさ」と呼ぶ。.

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閑院流

閑院流(かんいんりゅう)とは、三条家・西園寺家・徳大寺家をはじめとする藤原北家支流の公家の一門。院政期に外戚の立場を得たことで大きな勢力を獲得した。.

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藤原定家

藤原 定家(ふじわら の さだいえ/ていか)は、鎌倉時代初期の公家・歌人。諱は「ていか」と音読みされることが多い。小倉百人一首の撰者で権中納言定家を称する。.

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藤原北家

藤原北家(ふじわらほっけ)とは、右大臣藤原不比等の次男藤原房前を祖とする家系。藤原四家の一つ。藤原房前の邸宅が兄の藤原武智麻呂の邸宅よりも北に位置したことがこの名の由来。.

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藤原経宗

藤原 経宗(ふじわら の つねむね)は、平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての公卿。藤原北家大炊御門家、藤原経実の四男(あるいは五男)。官位は従一位・左大臣・左大将。.

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藤原泰通

藤原 泰通(ふじわら の やすみち)は平安時代末期から鎌倉時代初期の公卿。正二位権大納言、按察使。参議藤原為通の息男。大納言藤原成通の猶子となる。母は大納言源師頼の娘。妻は四条隆季の娘、藤原教良の娘など。子には大納言に至った経通、権中納言に至った国通、朝通、広通、覚愉、寛俊、道寛、信宗、女子(藤原兼良の室)、女子(三条公氏の室)がいる。.

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蔵人頭

蔵人頭(くろうどのとう)とは、令外官の役職で、蔵人所の実質的な長である。大同5年(810年)、蔵人所の設置に伴い、初代の蔵人頭に藤原冬嗣と巨勢野足が任命され、その後、天皇の首席秘書として、また公卿への昇進を約束された地位として、朝廷内に重要な位置を占めた。 蔵人所の長官は大臣が兼任する「蔵人別当」であったが、これは名目的なもので、実務上は蔵人頭が殿上人の首座として蔵人および殿上人を指揮し、勅旨や上奏の伝達や、天皇身辺の世話等を取り仕切った。通常、四位の者が補任されるが、官位相当は無い。定員は2名。殿上の首席に座を占めることから「貫首」(かんず)とも呼ばれた(「貫主」と表記されることもある)。また、蔵人として禁色の使用が許された。参議に欠員が出た場合、蔵人頭が即参議に就任するようになり、公卿への昇進への登竜門ともいえる役職となった。また、その際に参議に就任するものが後任の適格者を推挙する例があり、源俊賢が藤原行成を推したことが知られている。 蔵人頭は武官である近衛中将と、文官である弁官の大弁または中弁から1名ずつ選ばれることが多くなり、それぞれ「頭中将(とうのちゅうじょう)」、「頭弁(とうのべん)」と呼ばれた。藤原俊憲の『貫首秘抄』には、頭中将は「禁中万事」を申し行い、頭弁は「天下巨細」を執奏するとされ、頭中将は宮中における側近奉仕を担当し、頭弁は天皇と太政官の間で政務に関する連絡を担当したと記されている。頭中将は上流貴族出身者が務めたのに対し、頭弁は実務処理能力が重視された。このため、朝廷や摂関家政所において実務官僚を務めた勧修寺流・日野流などの藤原北家や高棟流平氏などの中級貴族の家系から輩出され、後にこれが通例となった。ただしそれ以外の職から選ばれることもあり、その場合には、それぞれの職にあわせて「頭亮(とうのりょう)」、「頭頭(とうのとう)」等と呼ばれた。10世紀頃までは、近衛少将で蔵人頭に補される例もよく見られ、2名とも頭中将である例や2名とも頭弁である例もあり、頭中将と頭弁1名ずつの原則が定着したのは平安時代末期の頃であった。院政期には、官職の推挙に院の近臣が容喙することが増えたためか、再びこの慣習が乱れ、安元2年(1176年)12月5日の除目において、蔵人頭に左中将藤原定能と右中将藤原光能が任ぜられたという例がある。 良岑衆樹は54歳になって任じられた。.

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正二位

正二位(しょうにい)は、日本の位階及び神階における位の一つ。従一位の下、従二位の上に位する。.

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正親町三条実蔭

正親町三条実蔭(おおぎまちさんじょう さねかげ)は鎌倉時代初期の公卿。参議従三位備中権守。初名は実茂。父は三条大納言正親町三条公氏、母は按察使藤原泰通の娘。子には公貫、公行、公蔭、公種がいる。.

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正親町三条家

正親町三条家(おおぎまちさんじょう け、旧字体:–三條–)、現在の嵯峨家は、大臣家の家格をもつ公家。藤原北家閑院流 三条家庶流。左大臣三条実房の三男公氏を家祖とする。 実房の長男公房が継承した嫡流三条家(転法輪三条家)と区別するために公氏流を正親町三条と呼ぶようになったものだが、この家名が定着するのは7代公豊の頃だと考えられている。「正親町」は邸宅が正親町東洞院に面していたことに由来する。なお家祖の公氏はこの正親町三条のほかにも、嵯峨(さが)や西郊(にしむら)を名乗ることもあった。このことを先例として、明治時代になると漢字5文字の長い家名が至便性に劣ることを痛感した28代実愛は、以後その家名を嵯峨家(さが け)と改めている。墓所は二尊院(京都市右京区)。 5代公秀の孫に崇光天皇と後光厳天皇、25代実同・26代公則の子孫に大正天皇がおり、現皇室に繋がる系譜である。.

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正治

正治(しょうじ)は、日本の元号の一つ。建久の後、建仁の前。1199年から1200年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源頼朝(死後は空位)。.

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明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

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承久

承久(じょうきゅう)は、日本の元号の一つ。建保の後、貞応の前。1219年から1221年までの期間を指す。この時代の天皇は順徳天皇、仲恭天皇、後堀河天皇。後鳥羽上皇の院政、鎌倉幕府将軍は空位、執権は北条義時。.

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承元

承元(じょうげん)は、日本の元号の一つ。建永の後、建暦の前。1207年から1210年までの期間を指す。この時代の天皇は土御門天皇、順徳天皇。後鳥羽上皇の院政。鎌倉幕府将軍は源実朝、執権は北条義時。.

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10月5日

10月5日(じゅうがついつか)はグレゴリオ暦で年始から278日目(閏年では279日目)にあたり、年末まであと87日ある。.

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1182年

記載なし。

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1191年

記載なし。

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1192年

記載なし。

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1195年

記載なし。

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1199年

記載なし。

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1200年

記載なし。

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1201年

記載なし。

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1203年

記載なし。

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1204年

記載なし。

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1205年

記載なし。

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1209年

記載なし。

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1210年

記載なし。

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1211年

記載なし。

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1212年

記載なし。

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1217年

記載なし。

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1220年

記載なし。

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1221年

記載なし。

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1222年

記載なし。

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1223年

記載なし。

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1225年

記載なし。

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1226年

記載なし。

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1227年

記載なし。

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1231年

記載なし。

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1237年

記載なし。

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9月15日 (旧暦)

旧暦9月15日は旧暦9月の15日目である。六曜は大安である。.

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