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年貢

索引 年貢

年貢(ねんぐ)は、日本史上の租税の一形態。律令制における田租が、平安時代初期-中期に律令制が崩壊・形骸化したことにともなって、年貢へと変質したが、貢租(こうそ)という別称に名残が見られる。その後、中世・近世を通じて、領主が百姓(農民でなく普通の民をいう。)を始めとする民衆に課する租税として存続した。主に、米で納めるため、その米を年貢米(ねんぐまい)と呼ばれた。.

65 関係: 口米古代日本の戸籍制度名田太閤検地定免法室町時代官物安土桃山時代小物成平安時代年貢割付状幕藩体制交分代銭納得分律令制地子地租改正地頭営田タイムスクープハンター出挙商品作物公事公方年貢国衙石高租庸調租税田堵畑永法畑方免百姓銭貨鎌倉時代荘官荘園 (日本)荘園公領制計帳高質負名雑役村請制度検見法永引江戸幕府江戸時代沢手米未進...本年貢本途物成戦国時代 (日本)明治日本の租税日本の歴史日本語払米10世紀11世紀12世紀1873年7世紀8世紀9世紀 インデックスを展開 (15 もっと) »

口米

口米(くちまい)とは鎌倉時代から近代にかけて徴収された付加税の1つ。.

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古代日本の戸籍制度

古代日本の戸籍制度(こだいにほんのこせきせいど)は、飛鳥時代に撰定・編纂された律令による人民把握のための戸籍。主なものに庚午年籍(こうごのねんじゃく)や庚寅年籍(こういんのねんじゃく)があげられる。 正倉院文書に古代の戸籍の一部が残されている。また近年、漆紙文書のかたちで秋田城跡や多賀城跡、下野国府跡など地方の城柵遺跡や官衙から、戸籍木簡としては周防国府などで出土しており、赤外線による解読作業がおこなわれている。 このうち庚午年籍は、670年(天智9年/庚午の年)につくられた戸籍。古代においては、一般の戸籍は6年ごとに作成され、30年を経ると廃棄される規定であったが、庚午年籍は永久保存とされた。しかも、この年が『近江令』施行の年でもあったから、これにならってつくられたものである.

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名田

名田(みょうでん)は、日本の平安時代中期から中世を通じて見られる、荘園公領制における支配・収取(徴税)の基礎単位である。名(みょう)とも呼ばれるが、名と名田を本来は別のものとする見方もある。.

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太閤検地

太閤検地(たいこうけんち)は、羽柴秀吉が日本全土で行なった検地(田畑(山林は除く)の測量及び収穫量調査)。天正の石直し、文禄の検地ともいう。.

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定免法

定免法(じょうめんほう)とは、江戸時代における年貢徴収法のひとつ。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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官物

官物(かんもつ)とは、律令制において租庸調以下、租税として朝廷及び令制国に納入された貢納物のこと。租のみを限定して指す場合もある。律令制が崩壊した平安時代中期以後においては、公田などの公領からの貢納物を指した。和訓は「おほやけもの」。.

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安土桃山時代

安土桃山時代(あづちももやまじだい)は、日本の歴史において、織田信長と豊臣秀吉が中央政権を握っていた時代である。2人の名前を取って、織豊時代(しょくほうじだい)ともいう。 なお、美術史では1615年(慶長20年)の豊臣氏滅亡までを「安土桃山時代」と称するのが一般的である。.

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小物成

小物成(こものなり)とは、江戸時代の日本で高外地に賦課された租税の総称である。いわゆる雑税であり、地域により多様な内容を持つ。また、「年貢諸役」の諸役に該当する。一方、検地を受けて検地帳に登録された高請地に賦課された租税を本途物成(ほんとものなり、本年貢・年貢ともいう)という。 小物成の種類は多種多様であり、『地方要集録』には307種が取り上げられ、明治維新後の1875年(明治8年)に小物成系統の諸税が全廃された際、日本全国で1554種の税が対象になったという。.

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平安時代

平安時代(へいあんじだい、延暦13年(794年) - 文治元年(1185年)/建久3年(1192年)頃)は、日本の歴史の時代区分の一つである。延暦13年(794年)に桓武天皇が平安京(京都)に都を移してから鎌倉幕府が成立するまでの約390年間を指し、京都におかれた平安京が、鎌倉幕府が成立するまで政治上ほぼ唯一の中心であったことから、平安時代と称される。.

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年貢割付状

年貢割付状(ねんぐわりつけじょう)は、江戸時代の文書。江戸幕府や諸藩の代官などの領主権力が領有する村単位に年貢を割り付けた徴税令書で、村単位に出された。別名を免状(年貢免状)、年貢可納割付状、御取箇、年貢仕切手形、年貢割付、免相目録という。.

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幕藩体制

幕藩体制(ばくはんたいせい)とは、近世日本の社会体制のあり方を、幕府(将軍)と藩(大名)という封建的主従関係を基点にとらえた歴史学上の概念である。戦前段階には狭義に政治体制自体を指していたが、戦後の歴史学の進展に伴い、近世日本の社会体制全体の特色を示す概念として使われるようになった。幕藩制(ばくはんせい)ともいう。.

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交分

交分(きょうぶん)とは平安時代後期から戦国時代にかけて年貢・地子の収納に関する費用として徴収された付加税の一種。.

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代銭納

代銭納(だいせんのう)とは、中世日本の荘園・国衙領・武家領などにおいて、公事や年貢、地子などの納入を現物に代わって貨幣で納入する制度。 農業生産の高まりと宋銭の流入によって商工業が全国的に発展した鎌倉時代中期以後から見られるようになり、南北朝時代には全国的に普及した。.

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得分

得分(とくぶん)とは、一般的には自己の利益・分け前などを指すが、本項では歴史用語として用いられる使用例について解説する。.

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律令制

律令制(りつりょうせい)は、律令に基づく制度のこと。主に古代東アジアで見られた中央集権的な統治制度であるといわれることもあるが、唐制に倣った体系的法典を編纂・施行したことが実証されるのは日本だけである山内昌之・古田博司。日本では律令制または律令体制や律令国家と呼ばれるが、中国にはこのような呼称は存在しない菊池秀明p8 (日中歴史共同研究報告書 p153)。中国において「律令」という言葉は秦から明まで長期にわたって使われており、その間にその内容や位置づけは大きな変遷をみている。そのため、日本の律令制の直接的モデルとなった隋や唐の国家体制をもって「律令制」と定義することは、中国の律令の変遷の実情を無視することとなり、また秦から明までのおよそ1800年間(律のみ存在した清も加えれば2100年間)の制度を一括りにすることにはあまり意味がないとする考えもある廣瀬薫雄『秦漢律令研究』2010年、汲古書院、第一部第一章「律令史の時代區分について」。.

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地子

地子(じし/ちし)とは、日本の古代・中世から近世にかけて、領主が田地・畠地・山林・塩田・屋敷地などへ賦課した地代を指す。賦課した地目に応じて田地子・畠地子・塩浜地子・林地子・屋地子などと呼ばれた。元々、地子は生産物地代の性格を持ち、その土地の生産物が地子として納入されていたが、中世後期ごろから貨幣経済が進展していくと、貨幣による地子の納入が増加していった。そのため、米(稲)で納入する地子を地子米(地子稲)といい、銭で納入する地子を地子銭といって区別した。.

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地租改正

地租改正(ちそかいせい)は、1873年(明治6年)に明治政府が行った租税制度改革である。また、この改革により日本にはじめて土地に対する私的所有権が確立したことから、地租改正は土地制度改革としての側面を有している。.

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地頭

地頭(じとう)は、鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職という。守護とともに設置された。 平氏政権期以前から存在したが、源頼朝が朝廷から認められ正式に全国に設置した。在地御家人の中から選ばれ、荘園・公領の軍事・警察・徴税・行政をみて、直接、土地や百姓などを管理した。また、江戸時代にも領主のことを地頭と呼んだ。.

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営田

営田(えいでん)とは、一般的には田地を経営すること、もしくはその土地を指すが、奈良・平安時代に官司・権門勢家・富豪層によって直接経営された田地のことを指す場合がある。本項では後者について解説する。.

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タイムスクープハンター

『タイムスクープハンター』は、NHK総合テレビのドキュメンタリー・ドラマ風歴史教養番組。.

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出挙

出挙(すいこ)は、古代から中世の日本に見られた利子付き貸借を指す用語。.

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商品作物

商品作物(しょうひんさくもつ)とは、自己消費よりも市場での販売を目的として生産する農作物のこと。.

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公事

公事(くじ、くうじ、おほやけごと)とは日本史における用語の1つで、下記の意味で用いられている。.

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公方年貢

公方年貢(くぼうねんぐ)とは、中世後期日本の荘園公領制のもとにおいて、一円支配を確立した領主(公方)に対して納入された本年貢のこと。 13世紀以後、本来は重層的な支配構造となっていた荘園において一円支配が進行した(ただし、その担い手が本所などの旧来からの荘園領主である場合と武家政権に補任された地頭である場合がある)。その荘園の荘民からみて唯一の支配者となったこうした領主のことを従来は朝廷(13世紀後半以後には将軍に対しても用いられる)に対して用いられてきた「公方」の呼称で呼ばれるようになった。同じ頃、荘民が名主(正確には名主職の所有者)を経由して「公方」に納めるべき年貢・公事、更には実際には名主の得分となる加地子などの様々な名目で行われてきた各種の貢納が納付経路の画一化に伴って個々の区別せずに一括して「年貢」の呼称で呼ばれるようになった。このため、本来の年貢である本年貢を公事・加地子に相当する「年貢」と区別するために用いられたのが公方年貢の語であった。公方年貢の量は中世後期にはほぼ一定額に固定化されていくのに対し、他の年貢特に加地子の量は名主などの在地支配層の台頭とともに増額され、公方年貢のそれを上回るようになった。.

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国衙

国衙(こくが)は、日本の律令制において国司が地方政治を遂行した役所が置かれていた区画である。 国衙に勤務する官人・役人(国司)や、国衙の領地(国衙領)を「国衙」と呼んだ例もある。 各令制国の中心地に国衙など重要な施設を集めた都市域を国府、またその中心となる政務機関の役所群を「国衙」、さらにその中枢で国司が儀式や政治を行う施設を国庁(政庁)と呼んだ。.

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石高

石高(こくだか)とは、近世の日本において、土地の生産性を石という単位で表したもの。太閤検地以降、地租改正まで、大名・旗本の収入および知行や軍役等諸役負担の基準とされ、所領の規模は面積ではなく石高で表記された。また農民に対する年貢も石高を元にして徴収された。.

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租(そ)は、税(ぜい)と並んで、国家維持に必要な財政を調達するために、政府が徴収する財物・サービスのことである。.

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租庸調

租庸調(そようちょう)は、日本、中国及び朝鮮の律令制下での租税制度である。.

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租税

租税(そぜい、税(ぜい)、tax)とは、国や地方公共団体(政府等)が、公共財や公共サービスの経費として、法令の定めに基づいて国民や住民に負担を求める金銭である。現代社会においてほとんどの国が物納や労働ではなく「お金(おかね、その国で使用されている通貨)」による納税方法を採用しており、日本では税金(ぜいきん)と呼ばれている。 税制(ぜいせい)とは、「租税制度」を指す用語であり、国家の運営に係る歳入歳出(財政)の根幹、また政治経済(経世済民)そのものである。商売や契約・取引等の行為及び所得や有形無形の財産などに対して税を賦課することを課税(かぜい)、課税された税を納めることを納税(のうぜい)、徴収することを徴税(ちょうぜい)、それらについての事務を税務(ぜいむ)という。政府の財政状況において租税徴収額を減額することを減税、逆に増額することを増税という。.

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田堵

堵(たと)は、日本の平安時代に荘園・国衙領の田地経営をおこなった有力百姓層である。田刀、田頭とも。貞観元年(895年)12月付の元興寺領近江愛智荘(えちのしょう)の検田帳である。田堵の堵は、垣を意味する。また、「田刀」を「田刀禰」の略とみて、元は国司・郡司の下にいて田地の境界画定や勧農を担った刀禰を指していたとする見方もある。.

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畑永法

畑永法(はたえいほう)とは、江戸時代に畑の年貢を永(貨幣)によって納めた方法。永法(えいほう)とも呼ばれる。関東地方で採用されたものに関して特に関東畑永法(かんとうはたえいほう)と呼ばれている。.

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畑方免

畑方免(はたかためん)とは、江戸時代の年貢において、畑地を対象とした特殊な年貢率およびそれによって賦課された年貢のこと。.

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百姓

姓(ひゃくせい / ひゃくしょう)とは、.

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銭貨

銭貨(せんか)は、主に東アジアで流通した硬貨を指す。同音で泉貨とも記述される。多くは円形で中心部に方形の穴が開けられた(円形方孔)有孔貨幣であることが多い。金貨や銀貨といった貴金属製の硬貨の対義語として、卑金属製の硬貨を指すこともあるが、金貨および銀貨のうち円盤状で中央に孔が開いた形状をしているものを含めて銭貨ということもある。多くは銅貨であるが、銅の不足などにより、鉄製のものや錫等との合金とした真鍮製の物が銭貨として発行されたこともある。 銭貨の通貨単位としては、一般に文が用いられた。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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荘官

荘官(しょうかん)は、日本の荘園制において、荘園領主(本所)から現地管理を委ねられた者の総称である。荘園を開発した開発領主(かいはつりょうしゅ)が寄進先の荘園領主から荘官として荘園管理者の地位を保全されることもあれば、寄進を受けた荘園領主が自らの荘園支配を強めるために家臣を荘官に任命して現地へ派遣することもあった。.

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荘園 (日本)

ここでは日本の荘園(にほんのしょうえん)について扱う。.

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荘園公領制

荘園公領制(しょうえんこうりょうせい)とは、日本の中世における、荘園と公領を土台とした、重層的土地支配構造のことである。歴史学者の網野善彦が提唱した。11世紀中後期から12世紀初期にかけて成立し、院政期を通じて発展し、鎌倉時代前後に最盛期を迎えた。その一方で、鎌倉時代には地頭による侵食を受け、室町時代には守護(守護大名)によって蚕食されるなど、武士の進出に伴って次第に解体への道を進み、戦国時代頃までにほぼ形骸化した。最終的には太閤検地で完全に消滅する。 なお、この項目においての荘園・公領とは、それぞれ荘園公領制の土台となった寄進地系荘園・国衙領を指すものとする。.

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計帳

計帳(けいちょう)とは、古代律令制の下で作成された公文書の一つで、戸籍と合わせて「籍帳」・「帳籍」と呼ばれた。後に大帳(だいちょう:「大計帳」の略)とも称された。.

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高質

高質(こうじち)は、中世日本において債権者が債務不履行に陥った債権者の財産を私的に差し押さえる行為。また、年貢・公事の滞納者に対して領主が行うこともあった。 借用書などに高質を取ることを認める文言を入れあるのが一般的であり、原則的には場所の制約を受けず(質取行為では禁じられているアジール的空間や権力者の保護下でも)に請求が可能であり、債務者を発見次第直ちに債務者が持つ債権額相当分の財産(主として動産)のみを差し押さえることになっていた。ただし、極端な場合には持ち合わせの財産が債権額に達しないことを理由として一般的には差し押さえの対象にはならないと考えられていた牛や馬、妻子などを差し押さえる場合もあった。このため、「高値の質物」(リスクが高い質物)と言われ、それが「高質」の語源とも言われている。 Category:日本の経済史 Category:中世の税制 Category:日本の民事手続法 Category:日本の中世法.

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負名

負名(ふみょう)とは、日本の平安中期ごろから始まる王朝国家体制のもとでの租税収取形態または租税収取を請け負った者をいう。10世紀ごろ、朝廷は律令制に由来する人別支配体制を放棄し、土地課税に基礎をおく支配体制(王朝国家体制)へと移行したが、このとき、課税単位へ編成された土地を名田(みょうでん)といい、名田経営を請け負った者が「負名」と呼ばれるようになった。.

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雑役

雑役(ぞうやく/ざつえき)とは、平安時代中期以後に導入された租税体系のこと。 律令制の租税である租が変質したと考えられる官物・年貢に対して、雑徭など人身別賦課を引く雑公事・夫役・臨時雑役などを指して称した(庸・調の後身に関しては官物説と雑役説の両方がある)。 なお、予め国司などに申請して雑役の免除を受ける公田・荘園もあった。これを雑役免という。 当初は有力な公民に対する賦課として行われる形式を採っていたが、11世紀中期の官物率法の成立を機に次第に土地に対する賦課へと変質していった。.

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村請制度

村請制度(むらうけせいど)とは、日本の近世(主として江戸時代)における制度のひとつで、年貢・諸役を村単位で村全体の責任で納めるようにした制度。村請制(むらうけせい)ともいう。 中世の地下請の伝統を引くもので、近世社会において領主は検地を行い村高を把握し、村落は村単位で年貢が賦課された。領主は村に対して徴税令書である年貢割付状を発し(年貢割付状は儀礼的要素が強く、事前に廻状により通達されるケースもある)、庄屋などの村役人は責任者となり村内から年貢を徴収し、領主に対して納税した。年貢が納入されると領主は村落に対して領収書である年貢皆済目録を発行する。 村請制度では村の誰かが破産して年貢を出せなくなる事態になると村の他の者がかわりにそれを出さなければならなくなったので、結果として、村の中に破産者を出すまい、我欲にばかり走らず他の人のことも大切にして支え合ってゆこうとする意識もはぐくまれた。日本人の現在の社会性や心情にも影響を及ぼしている。 明治時代の地租改正によって、村請制度は解体した。.

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検見法

検見法(けみほう、けんみほう)は、近世の日本における年貢徴収法のひとつ。田畑の収穫高に応じて貢租量を決める徴税法である。検見取法(けんみどりほう)ともいう。検見は、元は毛見と称し、作物の出来具合=立毛を見分することである。検見法には、色取検見・畑検見・木綿検見・請免居検見・遠見検見・投検見など様々な種類があった。.

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永引

永引(えいびき)とは、江戸時代に年貢の賦課対象である土地もしくは石高の中から、毎年一定の面積もしくは高を最初から除外しておくこと。.

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江戸幕府

江戸城天守 江戸幕府(えどばくふ)は、1603年に征夷大将軍に任官した徳川家康が創設した武家政権である。終末期は、一般的には大政奉還が行われた1867年までとされる(他に諸説あり、後述)。江戸(現・東京都)に本拠を置いたのでこう呼ばれる。徳川幕府(とくがわばくふ)ともいう。安土桃山時代とともに後期封建社会にあたる。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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沢手米

沢手米(さわてまい)は、江戸時代、輸送中に水に濡れ損じた年貢米である。.

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未進

未進(みしん)とは、近代以前の日本において、年貢・公事・夫役などの賦課された租税を納入しないこと、またその未納物そのものを指す。.

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本年貢

本年貢(ほんねんぐ)とは、支配者が田畑の耕作者に対して賦課した税。年貢の主たる要素で、単に「年貢」と称される場合もある。.

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本途物成

本途物成(ほんとものなり)とは近世日本において、土地に賦課された租税のうち、検地によって石高が示された田畑および屋敷地に課税されたもの。江戸幕府や諸藩が賦課した年貢の中でも中心的な地位を占め、本年貢(ほんねんぐ)・取箇(とりか)とも称された。また、単に「本途」「物成」とも呼ばれた。.

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戦国時代 (日本)

日本の戦国時代(せんごくじだい)は、日本の歴史(にほんのれきし)において、15世紀末から16世紀末にかけて戦乱が頻発した時代区分である。世情の不安定化によって室町幕府の権威が低下したことに伴って守護大名に代わって全国各地に戦国大名が台頭した。領国内の土地や人を一円支配(一元的な支配)する傾向を強めるとともに、領土拡大のため他の大名と戦闘を行うようになった。こうした戦国大名による強固な領国支配体制を大名領国制という。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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日本の租税

日本において租税(Tax)は、日本国憲法第30条で、「国民は、法律の定めるところにより、納税の義務を負ふ。」と規定されている。日本の租税は国税と地方税からなる。.

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日本の歴史

日本の歴史(にほんのれきし)、日本史(にほんし)とは、日本または日本列島における歴史のこと。本項では世界的観点を交え日本の歴史を概観する。 各時代の詳細は、各時代区分項目(各節の冒頭のリンク先)を参照。.

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日本語

日本語(にほんご、にっぽんご「にっぽんご」を見出し語に立てている国語辞典は日本国語大辞典など少数にとどまる。)は、主に日本国内や日本人同士の間で使用されている言語である。 日本は法令によって公用語を規定していないが、法令その他の公用文は全て日本語で記述され、各種法令において日本語を用いることが規定され、学校教育においては「国語」として学習を課されるなど、事実上、唯一の公用語となっている。 使用人口について正確な統計はないが、日本国内の人口、および日本国外に住む日本人や日系人、日本がかつて統治した地域の一部住民など、約1億3千万人以上と考えられている。統計によって前後する場合もあるが、この数は世界の母語話者数で上位10位以内に入る人数である。 日本で生まれ育ったほとんどの人は、日本語を母語とする多くの場合、外国籍であっても日本で生まれ育てば日本語が一番話しやすい。しかし日本語以外を母語として育つ場合もあり、また琉球語を日本語と別の言語とする立場を採る考え方などもあるため、一概に「全て」と言い切れるわけではない。。日本語の文法体系や音韻体系を反映する手話として日本語対応手話がある。 2017年4月現在、インターネット上の言語使用者数は、英語、中国語、スペイン語、アラビア語、ポルトガル語、マレー語に次いで7番目に多い。.

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払米

払米(はらいまい)とは、江戸時代に江戸幕府や諸藩、旗本が徴収した年貢米を民間に売却すること、あるいはその米のこと。 諸藩や旗本の場合は自領内での払米もあったが、一般的には江戸幕府や東国諸藩、旗本は江戸において、西国諸藩は大坂に設置した蔵屋敷から札差などの商人を通じて売却されていた。一旦これらの都市で売却された払米は市中のみならず周辺部や全国各地に売り出されていった。 Category:米の流通 Category:日本の農業史 Category:江戸時代の税制.

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10世紀

江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.

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11世紀

トスカーナ女伯マティルデ(右)とクリュニー修道院長(左)。 ウィリアム1世になる。 マーストリヒト大聖堂宝物室の写本外装。聖遺物崇敬の高まりとともにモザン美術と呼ばれるマース川流域の低地地方で生み出された金銀やエナメルの細工も巧緻なものとなった。この11世紀に造られた写本外装は現在はルーヴル美術館にある。 藤原道長。御堂関白とも通称された道長の時代に摂関政治は頂点に達した。画像は『紫式部日記』藤田家本第5段から1008年の一条天皇の土御門邸行幸に備え、新造の竜頭鷁首の船を検分する道長。 紫式部と『源氏物語』。かな文字の発達は日本独特の女流文学の発展を促した。画像は12世紀初頭に描かれた『源氏物語絵巻』「竹河」(徳川美術館蔵)。 宇治の平等院鳳凰堂。末法思想の高まりとともに阿弥陀仏の極楽浄土に往生すること(浄土思想)が求められた。平等院は関白藤原頼通によって建てられたもので、中心の鳳凰堂には仏師定朝の手による阿弥陀仏が安置されている。 遼の応県木塔。山西省応県の仏宮寺釈迦塔のことで章聖皇太后の弟蕭孝穆により建立された中国最古の木造の塔とされる。 仁宗の時期までに北宋は国制を整え、遼や西夏とは和平関係を結び、安定期を現出した。画像は仁宗の皇后曹氏(慈聖光献曹皇后)の肖像(台湾故宮博物院蔵)。 北宋の宰相・王安石。慢性的な財政難を克服するため神宗皇帝の熙寧年間に大改革を行った王安石だったが、司馬光らとの党争を惹起し、国内を混乱させることともなった。 山水画の大成。唐末五代から著しい進展を見せた山水画は北宋の李成・范寛・郭熙らの名手により高い技術と深い精神性を得ることになった。画像は台北国立故宮博物院蔵の郭熙の「早春図」。 敦煌楡林窟第3窟壁画「文殊菩薩」。仏教信仰に熱心だった西夏支配の敦煌では最後の繁栄の時代を迎えていた。 チャンパ王国の発展。11世紀初頭にヴィジャヤに遷都した王国はこの地に独特の文化を花開かせた。画像はビンディン省タイソン県にあるズオン・ロン塔で「象牙の塔」の名でも知られている。 カジュラーホーのパールシュバナータ寺院の塔(シカラ)。チャンデーラ朝のダンガ王と続く歴代の王によって建立された。 マフムードの宮廷。 『シャー・ナーメ(王書)』。11世紀初めにフェルドウスィーによってまとめられた長大なペルシア民族叙事詩。画像はサファヴィー朝時代の『シャー・ナーメ』の写本。 イブン・スィーナー。『医学典範』を著した博学な医師であると同時に東方イスラム世界を代表する哲学者としても多くの仕事を残した。 「ハラガーン双子塔」。1067年に建てられたこの建築は、セルジューク朝の二人の王子の墓廟であり、二つの塔にわかれているのでこの名がある。この塔のあるガズヴィーンはイランのカスピ海南岸の街で、近郊には「暗殺教団」ニザール派のアラムート要塞もある。 商業都市フスタート。ファーティマ朝の政治的な首都はカイロであったが、その近郊にあったフスタートが商工業の中心地であり貿易の中心地でもあった。画像はフスタートの工房で造られたラスター彩陶器で独特な色彩と光沢が特徴的である(メリーランド州ボルチモアのウォルターズ美術館蔵)。 Astrolabio de al-Sahlî」(スペイン国立考古学博物館蔵)。 コンスタンティノス9世の肖像。この皇帝の時代に東西教会分裂につながる相互破門事件が発生している。 アレクシオス1世の戦略。混迷の帝国にあって軍事貴族から身を起こし、帝位に就いたのがアレクシオス1世である。ノルマン人やクマン人といった外敵を互いに競わせ、或いは懐柔する巧みな外交手腕を駆使したことで有名である。しかしセルジューク族を排除するため西欧諸国から援軍を募ろうとして大きな誤算を生むのである。 エルサレム攻囲戦の細密画。 トゥーラ・シココティトラン。10世紀から11世紀に栄えたメキシコの後古典期の遺跡で、伝承ではトルテカ帝国の都だとされている。 11世紀(じゅういちせいき、じゅういっせいき)とは、西暦1001年から西暦1100年までの100年間を指す世紀。2千年紀における最初の世紀である。.

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12世紀

アンコールの地にアンコール朝の王スーリヤヴァルマン2世はアンコール・ワットの建設を行い、続くジャヤーヴァルマン7世はアンコール・トムを築いた。画像はアンコール・トムのバイヨン四面像(観世菩薩像)。 12世紀(じゅうにせいき)とは、西暦1101年から西暦1200年までの100年間を指す世紀。.

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1873年

記載なし。

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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8世紀

イスラム帝国の拡大。ウマイヤ朝時代までにイスラム帝国は中央アジアからイラン・イラクを経て、エジプト・北アフリカを超えてイベリア半島まで拡がった。 ウマイヤド・モスク。ウマイヤ朝第6代カリフのワリード1世により705年にシリアのダマスカスに建築された現存する世界最古のモスクで、カアバ・預言者のモスク・岩のドームに次ぐイスラム教第4の聖地として巡礼者が絶えない。 イスラムの書法。すでに正統カリフ時代にはクルアーンの編纂が行われていたが、この世紀になると洗練された書体が生み出され用いられた。画像はアッバース朝初期に置かれた都クーファの名から「クーフィー体」と呼ばれた書体によるクルアーンの一節。 円城(ムダッワラ)都市バグダード。アッバース朝の第二代カリフ・マンスールによって766年に完成したこの都市はティグリス川に面した交通の要衝で最盛期にはその人口は100万人を擁した。アラビア語で「平安の都」を意味するマディーナ・アッ=サラームとも呼ばれる。画像はアッバース朝時代のバグダードの再現地図。 エローラ石窟群。画像は8世紀にインドのラーシュトラクータ朝の君主クリシュナ1世によりヒンドゥー教のシヴァ神の住むカイラス山(須弥山)になぞらえて建てられた第16窟のカイラサナータ寺院。 ボロブドゥール遺跡。インドネシアのジャワ島ケドゥ盆地にある大規模な仏教遺跡で、シャイレンドラ朝のダルマトゥンガ王時代に造営された。 唐の世界帝国。西域での覇権を確立した唐は華やかな異文化交流で知られることになる。画像は706年に造営された章懐太子李賢の墓の壁画「賓客図」で、黒衣で禿頭の人物は東ローマ帝国の使節と考えられている。 楊貴妃。絶世の美女として名高いばかりでなく、治世後半の玄宗皇帝の寵愛をほしいままにしたことで「傾城」とも「傾国」とも呼ばれる。安禄山の乱に巻き込まれ悲劇的な最期を遂げた。画像は日本の上村松園による歴史画。 大秦景教流行中国碑。781年にキリスト教ネストリウス派(景教)信者で中央アジア出身の伊斯がその伝来の経緯を記録した石碑。画像はその拓本の一部で、碑題の上に十字架があるのが読み取れる。 唐三彩の駱駝。8世紀前半まで唐は中央アジアの覇権を握り交通の要衝を保持していた。画像は駱駝に乗るソグド人と思われる西域の商人(上海博物館蔵)。 国立アジア美術館(ベルリン美術館)蔵)。 天平文化。遣唐使の頻繁な行き来により盛唐の文物が招来され、710年に遷都された平城京では国際色の豊かな文化が花開いた。画像はこの時代を代表する東大寺法華堂執金剛神。 平安遷都。桓武天皇により平城京から長岡京を経て平安京に都が遷った。平安京は長きにわたって都となり「千年の都」と呼ばれるようになる。画像は桓武天皇の肖像(延暦寺蔵)。 キー・ローのモノグラムの頁(Folio 34r)でトリニティ・カレッジ (ダブリン大学)図書館が所蔵している。 アーヘン大聖堂宝物館のカール大帝の胸像。カール大帝の800年の「西ローマ帝国復興」は東ローマ帝国との間に「二帝問題」の軋轢を生んだ。 8世紀(はちせいき、はっせいき)は、西暦701年から西暦800年までの100年間を指す世紀。.

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9世紀

船葬用の船体(オスロのヴァイキング船博物館蔵)。 イングランドを襲撃するデーン人(ヴァイキング)。画像は12世紀に書かれた『聖エドマンド殉教王伝』の挿絵。 マルウィヤ・ミナレット(サーマッラーのミナレット)。アッバース朝第8代カリフのムウタスィムが建築したサーマッラーの大モスク付属の螺旋式のミナレット。 ハールーン・アッラシード。アッバース朝最盛期のカリフで、『千夜一夜物語』では夜ごとにバグダードの街に繰り出す風流な君主として描かれている。 「知恵の館(バイト・アル・ヒクマ)」。アッバース朝カリフ・マアムーンの治世にバグダードには翻訳事業や学問研究のための「知恵の館」が設置された。画像はここに集まる学者たちを描いた13世紀の細密画(フランス国立図書館蔵)。 インド最後の仏教王朝のパーラ朝。ダルマパーラ王により9世紀末に北インドの大半が支配下に置かれた。画像は9世紀に造られたパーラ様式の文殊菩薩石像(ホノルル美術館)。 敦煌文書。敦煌には3万とも4万とも数えられる膨大な古文書が収蔵されている。画像は大英博物館所蔵の「金剛般若波羅蜜経」。これは現存する世界最古の木版印刷の巻子本(書籍)で唐の懿宗の治世の868年に作成されたもの。 禁止出境展览文物でもある「八重宝函」。 密教招来。空海らによって日本に密教がもたらされ平安時代の仏教に大きな影響を与えた。画像は密教で用いる胎蔵界曼荼羅で京都東寺所蔵のもの。 応天門の変。藤原氏による他氏排斥が進んで摂関政治が確立し、律令国家体制から王朝国家体制へと政体が変化した。画像は12世紀に応天門の変の経緯を描いた「伴大納言絵詞」(出光美術館蔵)。 ラパス県の4000メートル近くの標高にある遺跡で、最盛期である9世紀には人口は1万人を越えたと想定されている。画像は半地下式方形広場で人面の装飾がなされている。 Galerie des Batailles蔵)。 ラドガにて東スラブ人と出会うヴァリャーグのリューリク一行を描いたヴィクトル・ヴァスネツォフの歴史画。 ハギア・ソフィア教会アプス半ドームにある聖母子のモザイク画。 スラブ人への宣教。東ローマ帝国出身のキュリロス・メトディオス兄弟はグラゴール文字を作成しキリスト教の宣教に努めた。画像は18-19世紀にロシアで描かれたこの兄弟のイコン(聖画像)。 プリスカ遺跡。 9世紀(きゅうせいき)は、西暦801年から西暦900年までの100年間を指す世紀。.

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