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察度

索引 察度

察度(さっと、1321年(至治元年) - 1395年11月17日(洪武28年10月5日))は琉球の国王の一人。三国統一以前で初代中山王を名乗る。現在の宜野湾市の出身だという。宜野湾市の偉人の一人。神号は、大真物(うふまもの)。

目次

  1. 45 関係: 南山王国古琉球天願城奥間大親宜野湾市察度王統崎山里主与那覇勢頭豊見親中山王国三五郎亹伊波普猷北山王国北元ルソン島トグス・テムルジャワ島スマトラ島勝連城倭寇皇太子球陽琉球国王神 (神道)羽衣伝説牧港西威高麗史間切至治 (元)英祖王統李氏朝鮮楊載 (明)武寧泰期洪武朝鮮半島朝鮮王朝実録朝貢朱元璋明史浦添城浦添市承察度10月5日 (旧暦)11月17日

  2. 1321年生
  3. 1395年没
  4. 琉球の君主

南山王国

南山王国(なんざんおうこく)または山南王国(さんなんおうこく)は、現在の糸満市を中心に沖縄県島尻郡南部に存在した王国。 山南は中国(明)側からの呼称である。

見る 察度と南山王国

古琉球

古琉球 (こりゅうきゅう)は、「琉球」(現在の沖縄県(八重山列島)および、しばしば鹿児島県奄美群島を含む)の歴史区分である。 農耕社会の成立(12世紀頃)から、琉球王国の成立まで。島津氏の進入(1609年)までとする場合もある。

見る 察度と古琉球

天願城

天願城(てんがんじょう、琉球語: ティングヮングスク)は、沖縄県うるま市天願にあったグスク(御城)の城趾。15世紀に安慶名城を拠点に中部一帯を支配した安慶名大川按司一世の三男・後天願按司一世などが貿易の拠点であった具志川城と共に統治した。 遺構そのものが米海兵隊キャンプ・コートニーの基地内に囲まれており、保存状態は不明、未調査のままである。

見る 察度と天願城

奥間大親

奥間 大親(おくま うふや、生没年不詳)は、14世紀(1320年頃)の中世琉球における人物。後に初代中山王となる察度の父親と伝えられる。

見る 察度と奥間大親

宜野湾市

宜野湾市(ぎのわんし、)は、沖縄本島中南部の中央に位置する沖縄県第5の都市。

見る 察度と宜野湾市

察度王統

察度王統(さっとおうとう、1350年 - 1405年)は、14世紀・琉球の王統。初代・察度とその息子の武寧の二代・56年間続いた。第一尚氏王統に倒された。

見る 察度と察度王統

崎山里主

崎山 里主(さきやま さとぬし)は、14世紀末頃の中山王国(琉球王国)の人物。

見る 察度と崎山里主

与那覇勢頭豊見親

与那覇勢頭 豊見親(よなはせど とぅゆみゃ、生没年不詳)は、14世紀末から15世紀に、宮古島平良を拠点としていた豪族である。童名は真佐久(まさく)、諡は恵源。宮古島から初めて中山国に朝貢し、宮古島の首長に任じられた。

見る 察度と与那覇勢頭豊見親

中山王国

中山王国(ちゅうざんおうこく)は、現在の那覇市、浦添市を中心に主に沖縄県中頭郡に存在していた王国。 なお、三山の統一、琉球王国成立後も、国号および王号の一つとして用いられた(中山王府、琉球国中山王など)。 春秋時代の中国にあった中山国とは無関係である。

見る 察度と中山王国

三五郎亹

三五郎亹(さんぐるみー、五は吾、郎は良、亹は尾とも表記される)は、琉球の三山時代の14世紀末から15世紀初めにかけて、琉球王国から明の国子監に長期留学するとともに、対中国外交関係で活躍した人物である。南山王国、中山王国の国王の姪との記録などから、女性であったのではないかと言われている。

見る 察度と三五郎亹

伊波普猷

伊波 普猷(いは ふゆう、1876年(明治9年)3月15日 - 1947年(昭和22年)8月13日)は、日本の民俗学者・言語学者。沖縄学の父と言われている。沖縄県那覇市出身。

見る 察度と伊波普猷

北山王国

北山王国(ほくざんおうこく)、または山北王国(さんほくおうこく)は、今帰仁村を中心として主に現代の沖縄県北部の国頭地方に存在していた王国である。 山北は中国(明)側からの呼称である。

見る 察度と北山王国

北元

北元(ほくげん、拼音:Běiyuán)は、1368年に、元(大元)の第14代ハーンのトゴン・テムル・ハーン(在位:1333年 - 1370年)が長江流域に興った明の北伐を逃れて大都(現在の北京)からモンゴル高原に撤退し、中国の漢民族定住農耕地域を失ってから後の大元ウルス(モンゴル帝国の皇帝直轄政権)についての後世の呼び方のことである。この政権に属する遊牧諸部族を同時代の漢文史料では韃靼(だったん、拼音:dádá)と呼び、日本では韃靼のカタカナ表記であるタタールという名称も用いられる。柯劭忞の『新元史』は北元(1388年に終了)を中国の正統王朝と見なしている。

見る 察度と北元

ルソン島

ルソン島(ルソンとう、呂宋島、フィリピン語:Luzon)は、フィリピン諸島のうちで最も面積の大きな島。面積は約10万4688 km2、人口は約4622万人で、フィリピンの総面積の35%、総人口の52%を占める。世界で17番目に大きな島で、世界で5番目に人口が多い島でもある。首都マニラやフィリピンで最も人口が多いケソン、及びそれらを包括する首都圏メトロ・マニラが同島に所在しており、フィリピンの政治・経済で特に重要な位置を占めている。

見る 察度とルソン島

トグス・テムル

トグス・テムル(モンゴル語:, ラテン文字転写: )は、モンゴル帝国の第17代ハーン(北元としては第3代皇帝)。明朝の官選史料『明実録』では脱古思帖木児と記され、『新元史』『明史』といった後世の編纂物もこの表記を用いる。尊号はウスハル・ハーン(モンゴル語:, ラテン文字転写: )。治世の元号から天元帝と呼ばれることもある。 明周辺の親モンゴル勢力が征服される中で明と対決したがブイル・ノールの戦いで大敗、退却中に皇族イェスデルの襲撃を受けて暗殺された。世祖クビライ以来続いてきた元の皇統から出た最後のハーンとなった。

見る 察度とトグス・テムル

ジャワ島

18世紀初頭のジャワ島の地図 ジャワ島(ジャワとう、Jawa、Java、ꦗꦮ、 ᮏᮝ)は、インドネシアを構成する島の一つ。インドネシアの総人口の半分以上が居住し、世界一人口の多い島。インドネシアの首都・ジャカルタがある。スマトラ島などとともに、大スンダ列島を形成する。形状は東西に細長い。スマトラ島の東、カリマンタン島の南、バリ島の西に位置する。ジャワ島には4つの州と2つの特別州がある。

見る 察度とジャワ島

スマトラ島

主要都市。スマトラ島は面積において世界第6位。水平の青線は赤道、垂直は東経100度 地形図 赤線がスマトラ断層。赤の三角が火山 島北部にある巨大カルデラのトバ湖 バタック人の戦士(1870年) スマトラ島(スマトラとう、、سومترا)は、全域がインドネシア共和国、大スンダ列島に所属する世界で6番目に大きい島である。北部にはインドネシアで5番目に人口の多い都市メダンがある。マレー半島やカリマンタン島と同様に油田が存在し、特に中部のミナス油田はインドネシアで埋蔵量、産出量共に最大である。

見る 察度とスマトラ島

勝連城

勝連城(かつれんぐすく・かつれんじょう)は、沖縄県うるま市にあったグスク(御城)の城趾である。阿麻和利の城として有名。

見る 察度と勝連城

倭寇

倭寇(わこう)とは、一般的には13世紀から16世紀にかけて朝鮮半島や中国大陸の沿岸部や一部内陸、及び東アジア諸地域において活動した日本の海賊や私貿易、密貿易を行う貿易商人に対する中国・朝鮮側での蔑称。和寇と表記される場合もある。また海乱鬼(かいらぎ)、八幡(ばはん)とも呼ばれる。 倭寇。

見る 察度と倭寇

皇太子

皇太子(こうたいし/ひつぎのみこ荒木 1985 p.116/もうけのきみ)、王太子(おうたいし)は、皇位、帝位、国王の第一継承者を指す語であり、称号。 現代日本の皇室においては皇室典範(昭和22年法律第3号)第8条により「皇嗣たる皇子を皇太子という」と定義され、他の条文と併せ、同法に基づいて「皇太子」の称号を受けるのは『今上天皇の皇子たる親王』が皇嗣である場合のみとなる。 より広義には、日本の皇室における天皇位だけでなく、国外の君主国の王室における君主位(王位等)の法定推定相続人の称号(例:Crown Prince)の対訳として使われる。女性君主を容認している場合は、法定推定相続人である女子の称号(例:Crown Princess)の対訳にも用いられる。

見る 察度と皇太子

球陽

『球陽』(きゅうよう)は、1743年から1745年にかけて琉球王国の正史として編纂された歴史書である。

見る 察度と球陽

琉球国王

琉球国王(りゅうきゅうこくおう)は、1872年(清: 同治11年、日本: 明治5年)まで琉球諸島を中心に存在した琉球王国の君主及びその外交称号であり、明及び清に貿易上の理由から朝貢した際に授けられた封号もそれに含まれる。琉球国内では御主と呼ばれた。外交上、ならびに正式名称は琉球國中山王(りゅうきゅうこくちゅうざんおう)。 本項目では、琉球王国成立(1429年)より以前に琉球に君臨し、または君臨したとされる王統についても併記する(#琉球国王の一覧)。

見る 察度と琉球国王

神 (神道)

神道における神(かみ)とは、自然現象などの信仰や畏怖の対象である。「八百万の神」(やおよろずのかみ)と言う場合の「八百万」(やおよろず)は、数が多いことの例えである。

見る 察度と神 (神道)

羽衣伝説

余呉湖畔にある天女像 羽衣伝説(はごろもでんせつ)は世界各地に存在する伝説のひとつ。多くは説話として語り継がれている。日本で最古の羽衣伝説とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県長浜市の余呉湖を舞台としたものが『近江国風土記』に、京都府京丹後市峰山町を舞台としたものが『丹後国風土記』に見られる。 日本の他の地方での羽衣伝説はこれら最古の伝説が各地に広まりその地に根付いたものと考えられる。天女はしばしば白鳥と同一視されており、系の類型とみなされる。これは異類婚姻譚の類型のひとつで、日本のみならず、広くアジアや世界全体に見うけられ、天女をその部族の祖先神とみなす小規模な創世神話の型をとる。

見る 察度と羽衣伝説

牧港

牧港(まきみなと、まちなと)は沖縄県浦添市北部の地名。郵便番号901-2131。

見る 察度と牧港

西威

西威(せいい、1328年(致和元年)? - 1349年4月30日(至正9年4月13日))は琉球の歴史書に登場する王。在位:1336年または1337年 - 1349年。

見る 察度と西威

高麗史

『高麗史』(こうらいし)は、朝鮮の高麗王朝(918年 - 1392年)のことを記した紀伝体の官史。編纂は李氏朝鮮の鄭麟趾らによって行なわれ、文宗元年(1451年)に完成した。成立の際、高麗国王歴代の実録をはじめ多くの公私文書朝鮮王朝実録に相当する高麗王朝実録があったとされる。この実録の存在は、世宗実録からも存在が確認されるが、高麗史成立後の存在は不明となっている。具体的には、高麗の実録は世宗 22年までは忠州開川寺史庫に収蔵されてから 高麗史纂修のために京中に輸送されて、纂修が終わった後の行方ははっきりしない。 出典はである。 また史庫に関する詳細は、 を参照されたい。 なお、焚書された元天錫の「野史」6巻によれば、高麗史は高麗王朝実録の書き換えであり、「高麗実録」を「高麗史」に書き換えた事情が書かれ、高麗末の禑王は辛旽の子ではなく、恭愍王の子と書かれていたという。現存は転記の耘谷集等詩歌の部分と記録のみである。

見る 察度と高麗史

間切

間切(まぎり、マジリ)は、沖縄及び奄美群島における、琉球王国時代および明治時代の沖縄県の行政区分のひとつ。近世には間切は行政区画であるとともにそれ自体が直接納税義務者でもあった。

見る 察度と間切

至治 (元)

至治(しち)は、中国・元の英宗シデバラの治世で用いられた元号。1321年 - 1323年。モンゴル語史料ではČi-čiiと転写されている。

見る 察度と至治 (元)

英祖王統

英祖王統(えいそおうとう)は実在した可能性が高い、沖縄で生まれた最初の王統で、5代90年の王統である。 『中山世鑑』より。

見る 察度と英祖王統

李氏朝鮮

李氏朝鮮(りしちょうせん)は、1392年8月から1897年10月1910年8月まで大韓帝国として存続した。にかけて朝鮮半島に存在した国。高麗の次の王朝にあたり、朝鮮の歴史における最後の統一王朝である。

見る 察度と李氏朝鮮

楊載 (明)

楊 載(よう さい、生没年不詳)は、琉球に来た明の招諭使。

見る 察度と楊載 (明)

武寧

武寧(ぶねい、1356年 - 1406年? 在位:1396年 - 1405年?)は沖縄の歴史書に登場する王である。神号は中之真物(なかのまもの)。 1404年に、明の永楽帝が冊封使を派遣し、武寧は中山王に琉球で初めて冊封された。(先代の察度が初めてである、とする説もある。) 察度王統最後の王であり、先代の察度の息子である。武寧が国王になってから約10年経った1405年、沖縄統一を目指す尚巴志・思紹親子が襲来し、武寧の部下などは、尚氏側に味方した。結果的に、武寧は戦いに敗れ、居城である浦添城を下城した。その後の行方や墓の所在は分かっていない。

見る 察度と武寧

泰期

泰期(たいき、たいち)は、中山王察度の弟であり、天願按司。

見る 察度と泰期

洪武

洪武(こうぶ)は、中国、明代の元号(1368年 - 1398年)。初代皇帝である太祖・朱元璋の在世中に使われたため、朱元璋は洪武帝と呼ばれる。

見る 察度と洪武

朝鮮半島

は、アジア大陸東部から南南東に突出した半島。大韓民国(韓国)においては、という。

見る 察度と朝鮮半島

朝鮮王朝実録

『朝鮮王朝実録』(ちょうせんおうちょうじつろく)は李氏朝鮮の初代太祖の時から純宗に至るまで27代519年間の歴史を編年体で編纂した1967巻948冊の実録。かつては『李朝実録』(りちょうじつろく)と呼ぶことが多かった。なお、現在の朝鮮民主主義人民共和国での正式的な呼び名は『朝鮮封建王朝実録』(ちょうせんほうけんおうちょうじつろく)である。 李氏朝鮮時代の政治、外交、軍事、経済など各方面の史料を記載しているといわれる。1997年(平成9年)にはユネスコの世界の記憶 (Memory of the World) 計画に登録された。

見る 察度と朝鮮王朝実録

朝貢

朝貢(ちょうこう)は、皇帝に対して周辺諸国(君主)が貢物を献上し、皇帝側は恩恵として返礼品をもたせて帰国させることで外交秩序を築くもので、使節(朝貢使)による単なる儀礼的外交にとどまらず、随行する商人による経済実体(朝貢貿易)を伴うこともあり経済秩序としての性格を帯びることもある。

見る 察度と朝貢

朱元璋

朱 元璋(しゅ げんしょう)は、明の初代皇帝。廟号は太祖(たいそ)。諡号は高皇帝(こうこうてい)。その治世の年号「洪武」から洪武帝(こうぶてい)と呼ばれる。

見る 察度と朱元璋

明史

『明史』(みんし、)は、中国清代に編纂された歴史書。二十四史の一つ。「本紀」24巻、「列伝」220巻、「表」13巻、「志」75巻、「目録」4巻の計332巻から構成される紀伝体で、明朝の成立から滅亡までについて記述される。編纂開始は順治年間、完成は1739年(乾隆4年)であるが、大部分は康熙年間に編纂されている。

見る 察度と明史

浦添城

浦添城 浦添城(うらそえじょう、浦添城跡)は、沖縄県浦添市にある城(グスク)跡。1989年(平成元年)8月11日、国の史跡に指定されている()。 浦添城跡北側崖下中腹には浦添ようどれがある。

見る 察度と浦添城

浦添市

浦添市(うらそえし、)は、沖縄本島の南部地域と中部地域の境目にある市で、琉球王国の古都。那覇市、沖縄市、うるま市に次ぐ沖縄県第4の都市である。

見る 察度と浦添市

承察度

承察度(しょうさっと、うふさと、? - 1398年?)は、古琉球の南山王国(山南王国)の初代国王(在位:1337年? - 1398年?)。

見る 察度と承察度

10月5日 (旧暦)

旧暦10月5日(きゅうれきじゅうがついつか)は旧暦10月の5日目である。六曜は友引である。

見る 察度と10月5日 (旧暦)

11月17日

11月17日(じゅういちがつじゅうななにち、じゅういちがつじゅうしちにち)は、グレゴリオ暦で年始から321日目(閏年では322日目)にあたり、年末まであと44日ある。 毎年この日ごろしし座流星群が観測できる。

見る 察度と11月17日

参考情報

1321年生

1395年没

琉球の君主

察度王 別名。