ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

カバネ

索引 カバネ

姓(カバネ、可婆根)は、古代日本の大和王権において、大王(おおきみ、天皇)から有力な氏族に与えられた、王権との関係・地位を示す称号である。 以下、特別の補足がない限り「氏」は「うじ」、「姓」は「かばね」と読む。.

75 関係: きみ史 (姓)壬申の乱壬申戸籍大学院大久保利通大王 (ヤマト王権)大隈重信大臣 (古代日本)大連 (古代日本)大村益次郎天武天皇奈良時代宿禰官職山縣有朋平民苗字必称義務令伊藤博文徳川家康忌寸ミミおよびミネ (称号)モリ (称号)ヤマト王権ワケヌシトベヒ (日)ヒナモリヒメヒコキ (称号)キミ (カバネ)コリ (称号)タマ (称号)允恭天皇八色の姓国造皇室称号稲置真人県主爵位直 (姓)百済百済王氏道師菅原氏...魏志倭人伝越智氏防人藤原氏村主氏姓制度氏族源氏朝臣成城大学成務天皇明治4年明治維新文学研究科日本神話日本書紀10月12日 (旧暦)11月24日1870年1871年1872年1875年672年 インデックスを展開 (25 もっと) »

きみ

* 君 は、日本語の二人称代名詞の一つ。または、古代日本の姓の一つ。→キミ (カバネ)参照。.

新しい!!: カバネときみ · 続きを見る »

史 (姓)

史(ふひと/ふみひと)とは、古代の日本において文筆や記録の職務にあたった渡来人系の官人組織。後に姓(カバネ)の1つに転じた。 元々は「ふみひと」と読まれ、「史人」「文人」「書人」などとも表記されていたが、後に「ふみひと」が略されて「ふひと」とも読まれるようになり、表記も「史」と記されるようになった。 漢字が中国もしくは朝鮮半島から伝来されたのが日本における文字の始まりとされ、文筆や記録など文字を扱う業務も中国系及び朝鮮半島系の渡来人によって担われた。こうした業務を行う人々がふみひと(史人)後にふひと(史)と称され、後に一族やその部民をもって史部(ふひとべ)として編成された。「ふひと」の制度化は6世紀に入ってからと見られ、後に史部に属する人々に「史」の姓が与えられるようになっていった(『日本書紀』の記事上では、欽明天皇14年(553年)に王辰爾が船史を授けられたのが「史」の姓の最初であるが、「ふみひと/ふひと」の制度がこの時点において既に存在していたことになる)。史の姓を称したことが知られているのは、田辺史(たなべのふひと)・阿直岐史(あちきのふひと)・船史(ふねのふひと)・白猪史(しらいのふひと)など70氏いるが、いずれも渡来人の末裔である。また、外交や徴税など、文書・記録の作成を必要とする他の分野においても史の姓を持つ人々が従事していた。ただし、漢字の伝来に大きな貢献をしたと伝えられている阿知使主の末裔である東漢氏は直、王仁の末裔である西文氏は首の姓を特別に与えられて史および史部を管掌する立場となっていた。八色の姓成立後も新しい姓の授与の対象にならなかった史姓の者は引き続きその姓を用いていたが、天平宝字元年(757年)に藤原史(藤原不比等の別表記)を避けるために「毘登」と表記を改めたが13年後に元に戻したことが『続日本紀』宝亀元年(770年)九月壬戌条に記されている(なお、『尊卑分脈』によれば、藤原不比等は幼少時に田辺史の一人である田辺大隅に養育され、不比等(史)の名前自体もそれに由来しているとされている)。.

新しい!!: カバネと史 (姓) · 続きを見る »

壬申の乱

壬申の乱(じんしんのらん)は、天武天皇元年6月24日 - 7月23日、(ユリウス暦672年7月24日 - 8月21日)に起こった古代日本最大の内乱である。 天智天皇の太子・大友皇子(弘文天皇の称号を追号)に対し、皇弟・大海人皇子(後の天武天皇)が地方豪族を味方に付けて反旗をひるがえしたものである。反乱者である大海人皇子が勝利するという、例の少ない内乱であった。 名称の由来は、天武天皇元年が干支で壬申(じんしん、みずのえさる)にあたることによる。.

新しい!!: カバネと壬申の乱 · 続きを見る »

壬申戸籍

壬申戸籍(じんしんこせき)は、明治4年(1871年)の戸籍法に基づいて、翌明治5年(1872年)に編製された戸籍である。編製年の干支「壬申」から「壬申戸籍」と呼び慣わす。.

新しい!!: カバネと壬申戸籍 · 続きを見る »

大学院

大学院(だいがくいん)とは、高等教育(学士課程)にて優秀な成績評価を取得した者を対象として、上級学位(修士、専門職学位、博士)を付与する機関である。国際標準教育分類(ISCED2011)ではレベル7と8に分類される。.

新しい!!: カバネと大学院 · 続きを見る »

大久保利通

大久保 利通(おおくぼ としみち、文政13年8月10日(1830年9月26日) - 明治11年(1878年)5月14日)は、日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。 明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また「維新の十傑」の1人でもある。 初代内務卿(実質上の首相)を務めるなど、内閣制度発足前の明治政界のリーダーであった。.

新しい!!: カバネと大久保利通 · 続きを見る »

大王 (ヤマト王権)

大王(おおきみ/だいおう)とは、古墳時代のヤマト王権(倭国)の首長を指す歴史用語。「おおきみ」との和訓については、主人や貴人を表す“キミ”に偉大さや特別に尊いことを表す接頭語“オオ/オホ”を当てて“オオキミ/オホキミ”とするものであるが、他方で、これは“キミ”の尊称としての和語に過ぎず、「大王」(ダイオウ)は中国からの王号賜与を根源とする漢語の称号とするものもある。「大王」と記されている用例は多く、ヤマト王権の天皇や皇族の敬称と解されている。5世紀後半までに大王、治天下大王(あめのしたしろしめすおおきみ)の称号が成立し、この称号が飛鳥浄御原令の編纂が始まった680年代まで日本国内で用いられた。なお、初期においては統一王権の王とするかどうかで学説が分かれる。.

新しい!!: カバネと大王 (ヤマト王権) · 続きを見る »

大隈重信

大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家、教育者。位階勲等爵位は従一位大勲位侯爵(公爵)。菅原姓。 政治家としては参議兼大蔵卿、外務大臣(第3・4・10・13・28代)、農商務大臣(第11代)、内閣総理大臣(第8・17代)、内務大臣(第30・32代)、貴族院議員などを歴任した。早稲田大学の創設者であり、初代総長である。.

新しい!!: カバネと大隈重信 · 続きを見る »

大臣 (古代日本)

大臣(おおおみ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の1つ。王権に従う大夫を率いて大王(天皇)の補佐として執政を行った。姓(かばね)の一つである臣(おみ)の有力者が就任した。.

新しい!!: カバネと大臣 (古代日本) · 続きを見る »

大連 (古代日本)

大連(おおむらじ)とは、古墳時代におけるヤマト王権に置かれた役職の1つ。大王(天皇)の補佐として執政を行った。姓(かばね)の一つである連(むらじ)の中でも軍事を司る伴造出身の有力氏族である大伴氏と物部氏が大連となった。.

新しい!!: カバネと大連 (古代日本) · 続きを見る »

大村益次郎

大村 益次郎(おおむら ますじろう、 文政7年5月3日(1824年5月30日) - 明治2年11月5日(1869年12月7日)は、幕末期の長州藩の医師、西洋学者、兵学者である。維新の十傑の一人に数えられる。 長州征討と戊辰戦争で長州藩兵を指揮し、勝利の立役者となった。太政官制において軍務を統括した兵部省における初代の大輔(次官)を務め、事実上の日本陸軍の創始者、あるいは陸軍建設の祖と見なされることも多い。靖国神社の参道中央に像がある理由もこのためであるとされる。元の名字は村田、幼名は宗太郎、通称は蔵六、良庵(または亮庵)、のちに益次郎。雅号は良庵・良安・亮安。諱は永敏(ながとし)。位階は贈従二位。家紋は丸に桔梗。.

新しい!!: カバネと大村益次郎 · 続きを見る »

天武天皇

天皇系図38~50代 天武天皇(てんむてんのう、? - 朱鳥元年9月9日(686年10月1日))は、7世紀後半の日本の天皇である。在位は天武天皇2年2月27日(673年3月20日)から朱鳥元年9月9日(686年10月1日))。『皇統譜』が定める代数では第40代になる。.

新しい!!: カバネと天武天皇 · 続きを見る »

奈良時代

奈良時代(ならじだい)は、日本の歴史の時代区分の一つで、平城京(奈良)に都が置かれた時代である。平城時代(へいじょうじだい)ともいう。日本仏教による鎮護国家を目指して、天平文化が花開いた時代である。.

新しい!!: カバネと奈良時代 · 続きを見る »

宿禰

宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺))は、古代日本における称号の一つ。大和朝廷初期(3世紀~5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた金井清一「スクナヒ コナの名義と本質」1971 。主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。.

新しい!!: カバネと宿禰 · 続きを見る »

官職

官職(かんしょく)とは、官吏の職のことをいう。具体的には以下の通りに分類される。また、官職の名称のことを官名(かんめい)という。.

新しい!!: カバネと官職 · 続きを見る »

山縣有朋

山県 有朋(やまがた ありとも、天保9年閏4月22日(1838年6月14日) - 大正11年(1922年)2月1日)は、日本の武士(長州藩士)、陸軍軍人、政治家。階級位階勲等功級爵位は元帥陸軍大将従一位大勲位功一級公爵。内務大臣(初・第2・第3代)、内閣総理大臣(第3・9代)、元老、司法大臣(第7代)、枢密院議長(第5・9・11代)、陸軍第一軍司令官、貴族院議員、陸軍参謀総長(第5代)などを歴任した。 長州藩領内の蔵元仲間山縣三郎有稔(ありとし)の子として生まれた。幼名は辰之助、通称は小助、後に小輔、さらに狂介と改名。明治維新後は有朋の諱を称した。高杉晋作が創設した奇兵隊に入って頭角を現し、後に副官である奇兵隊の軍監となる。 明治政府では軍政家として手腕をふるい、日本陸軍の基礎を築いて「国軍の父」とも称されるようになった。官僚制度の確立にも精力を傾け、門閥や情実だけで官僚文官官吏が登用されることのないように文官試験制度を創設し、後進を育成。山県が軍部・政官界に築いた幅広い人脈は「山県系」「山県閥」などと称される。 晩年も、陸軍のみならず政官界の大御所、「元老中の元老」として隠然たる影響力を保ち、「日本軍閥の祖」の異名をとった。ただし国政に深く関与するようになってからも、自身では「わしは一介の武弁」と称するのが常であった。伊藤博文と並び、明治維新期に低い出自から栄達を遂げた代表的人物である。 自身が得た最高位の階級は陸軍大将だが、元帥府に列せられ元帥の称号を得ており、元帥陸軍大将と呼称された。国外でも大英帝国のメリット勲章など、勲章を多数受章している。.

新しい!!: カバネと山縣有朋 · 続きを見る »

平民苗字必称義務令

平民苗字必称義務令(へいみんみょうじひっしょうぎむれい、平民苗字必唱義務令)は、日本の法令である(明治8年太政官布告第22号)。1875年(明治8年)2月13日公布。すべての国民に苗字(名字・姓)を名乗ることを義務付けた。 江戸時代まで、日本において公的に苗字を使用したのは、原則として、公家及び武士などの支配階層に限られ、一種の特権とされていた。明治維新により、従来の身分制度の再編が図られ、明治3年9月19日(1870年10月13日)に「平民苗字許可令」(明治3年太政官布告第608号)が定められた。この布告では初めて「平民」の語を用いて、華族及び士族(この両者は公家・武士の家柄がほとんどである)に属さない平民に「苗字」の使用を許した。しかし、当時の国民(平民)には、あえて苗字を使用しない者も多かった。そのため、1875年(明治8年)に改めて名字の使用を義務づける「苗字必称義務令」を出した。 本令では、苗字を称える(唱える)ことを義務づけ、「祖先以來苗字不分明ノ向」は新たに苗字を設けることとした。 1875年(明治8年)2月13日に平民苗字必称義務令が出されたことから、2月13日を「苗字制定記念日」という。また、明治3年9月19日(1870年10月13日)に平民苗字許可令が出されたことから、9月19日は「苗字の日」とされている。 なお、仏教の僧侶は本来は俗縁を絶って出家した身であることから戒名を出家前の姓(俗姓)に続けて名乗ることはなかったが、平民苗字必称義務令の際に僧侶が例外とされることはなかったため、現在に至るまで日本の僧侶は俗姓に戒名を続けて名乗っている(江戸時代までの慣習に従えば、たとえば有馬家の出身で僧侶になって頼底と名乗った有馬頼底であればただ「頼底」と名乗ることになる)。.

新しい!!: カバネと平民苗字必称義務令 · 続きを見る »

伊藤博文

伊藤 博文(いとう ひろぶみ、天保12年9月2日(1841年10月16日) - 明治42年(1909年)10月26日)は、日本の武士(長州藩士)、政治家。位階勲等爵位は従一位大勲位公爵。諱は博文(ひろぶみ、「ハクブン」と有職読みすることもある)。幼名は利助(りすけ)、後に吉田松陰から俊英の俊を与えられ、俊輔(しゅんすけ)とし、さらに春輔(しゅんすけ)と改名した。号は春畝(しゅんぽ)で、春畝公と表記されることも多い。また小田原の別邸・滄浪閣を所持していたことから滄浪閣主人(そうろうかくしゅじん)を称して落款としても用いた。 周防国出身。長州藩の私塾である松下村塾に学び、幕末期の尊王攘夷・倒幕運動に参加。維新後は薩長の藩閥政権内で力を伸ばし、岩倉使節団の副使、参議兼工部卿、初代兵庫県知事(官選)を務め、大日本帝国憲法の起草の中心となる。初代・第5代・第7代・第10代の内閣総理大臣および初代枢密院議長、初代貴族院議長、初代韓国統監、元老を歴任した。内政では、立憲政友会を結成し初代総裁となったこと、外交では日清戦争の勝利に伴う日清講和条約の起草・調印により清国から朝鮮を独立させた(第一条)ことが特記できる。 1909年、ハルビン駅で朝鮮民族主義活動家の朝鮮人安重根に暗殺された。.

新しい!!: カバネと伊藤博文 · 続きを見る »

徳川家康

徳川 家康(とくがわ いえやす、)または松平 元康(まつだいら もとやす)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・戦国大名。江戸幕府の初代征夷大将軍。三英傑の一人。「海道一の弓取り」の異名を持つ。 家系は三河国の国人土豪・松平氏。幼名は竹千代。通称は次郎三郎のちに蔵人佐。諱は今川義元に偏諱をもらい元信(もとのぶ)次いで元康と名乗るが今川氏から独立した際に「元」を返上して家康に改める。 勅許され永禄9年12月29日(1567年2月18日)に徳川氏に改姓。本姓は私的には源氏を称していたが徳川氏改姓と従五位の叙位に際し藤原氏と称し遅くとも天正16年(1588年)以降に源氏を再び称している。.

新しい!!: カバネと徳川家康 · 続きを見る »

忌寸

忌寸(いみき)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓で新たに作られた姓(かばね)で、上から4番目。国造系氏族である大倭氏・凡川内氏や、渡来人系の氏族である東漢氏・秦氏など、元直(あたえ)姓などの11の「連」姓氏族が選ばれて、賜姓されている。その後、主として秦氏・漢氏の系譜を引く氏族に授与され、渡来系氏族に多い姓となっていった。.

新しい!!: カバネと忌寸 · 続きを見る »

ミミおよびミ

ミミ(耳、彌彌、美美)およびミ(彌、見、美、海、看)は古代日本の尊称。.

新しい!!: カバネとミミおよびミ · 続きを見る »

ネ (称号)

ネ(根、禰、尼)は、古代日本の原始的カバネの一つで、3世紀から4世紀にかけて軍事的カリスマ者を表す名称の一つとして、人名あるいは氏名の語尾に付けられる。後のカバネ制度において、ネはスクネに受け継がれた。.

新しい!!: カバネとネ (称号) · 続きを見る »

モリ (称号)

モリ(母離、母理、毛理、毛利、守)は3世紀から6世紀ごろの古代日本の地域的あるいは海運的首長につけられた語尾名称のひとつで、後に原始的カバネとしても使われた。.

新しい!!: カバネとモリ (称号) · 続きを見る »

ヤマト王権

ヤマト王権(ヤマトおうけん)とは、大伴氏が本拠を置いた難波 (なにわ) に都を定めた仁徳天皇など、3世紀から始まる古墳時代に「王」「大王」(おおきみ)などと呼称された倭国 (わこく) の王を中心として、いくつかの有力氏族が連合して成立した政治権力、政治組織である。今の大阪平野や奈良盆地を中心とする大倭地方の国がまわりの国を従えたことからこう呼ばれる。旧来より一般的に大和朝廷(やまとちょうてい)と呼ばれてきたが、歴史学者の中で「大和」「朝廷」という語彙で時代を表すことは必ずしも適切ではないとの見解が1970年代以降に現れており、その歴史観を反映する用語として「ヤマト王権」の語等が用いられはじめた。 本記事では、これら「大和朝廷」および「ヤマト王権」について、解説をする。 呼称については、古墳時代の前半においては近年「倭王権」「ヤマト政権」「倭政権」などの用語も用いられている(詳細は「名称について」の節を参照)。古墳時代の後、飛鳥時代での天皇を中心とした日本国の中央集権組織のことは「朝廷」と表現するのが歴史研究でも世間の多くでも、ともに一般的な表現である。 ヤマト王権の語彙は「大阪平野や奈良盆地などの近畿地方中央部を念頭にした王権力」の意であるが、一方では出雲を代表格とする「地域国家」と称せられる日本列島各地の多様な権力(王権)の存在を重視すべきとの見解がある。.

新しい!!: カバネとヤマト王権 · 続きを見る »

ワケ

ワケ(別、和気、和希、和介、委居、獲居)は、ヤマト王権における称号およびカバネの一つ。4世紀前後にヤマト皇族から分かれ、地方に領地を得た者およびその一族にワケが使われた。しかし5世紀前半允恭天皇の氏姓制度改革により臣連制が作り出されると、ワケはキミやオミのカバネに変更され、それ以来は使われなくなった。.

新しい!!: カバネとワケ · 続きを見る »

ヌシ

ヌシ(主)は、古代日本の神名や人名につけられる称号。地方の首長や国津神系の神名や人名を表す称号として用いられた。天津神系の神名や人名を表すヒ(日)と対立する称号である。.

新しい!!: カバネとヌシ · 続きを見る »

トベ

トベ(戸畔、戸弁、戸辨、戸辺、戸邊、戸邉、刀俾、戸部、富部、砥部、土部)は、ヤマト王権以前の称号(原始的カバネ)の一つで、4世紀以前の女性首長の名称に使われた。後に一般的姓や地名として使われる。トベはトメ(戸賣、斗女、刀咩)の語源でもある。.

新しい!!: カバネとトベ · 続きを見る »

ヒ (日)

ヒは古代の神名や人名の語尾につけられる称号。天皇およびその伴造(ともがら)を表す天孫・天神系の称号として用いられた。地祇・国神系を意味するヌシと対照をなす称号である。「ヒ」はヒコやヒメの語源でもある。.

新しい!!: カバネとヒ (日) · 続きを見る »

ヒナモリ

ヒナモリ(卑奴母離、比奈毛里、鄙守、比奈守、夷守)は、3世紀から4世紀頃の日本(邪馬台国)の国境を守備する軍事的長の名称。後に地名、駅名、神社名等に残る。またヒナモリの「モリ (守)」はカバネとしても使われた。.

新しい!!: カバネとヒナモリ · 続きを見る »

ヒメ

ヒメ(媛、日女、比売、比咩、姫)は、貴族や領主の女性名に付けられる尊称。古くは地域の女性首長を表す尊称、また原始的カバネの一つ。.

新しい!!: カバネとヒメ · 続きを見る »

ヒコ

ヒコ(彦、比古、日子、毘古)は、男子人名の語尾に付けられる名称の一つ。古くは地域の男性首長や貴族を表す尊称、また原始的カバネの一つ。.

新しい!!: カバネとヒコ · 続きを見る »

キ (称号)

(支、岐、伎、杵、耆、藝、鬼、来、城、吉、木、貴、槻)またはギ(伎、耆、杵、藝)は4世紀までの古代日本における男子首長の称号の一つとして、またその男子首長(族長)の支配地域の名称語尾として使われた言葉。名称語尾の「キ」は原始的カバネとして氏族の始祖名に用いられ、のちに地名や神社名にも反映される。ヤマト政権のカバネ制度においても、「イナキ(稲置)」や「イミキ(忌寸)」にその名残をとどめている。.

新しい!!: カバネとキ (称号) · 続きを見る »

キミ (カバネ)

君または公(きみ)は、ヤマト政権のもとで行われた姓(かばね)の一つ。.

新しい!!: カバネとキミ (カバネ) · 続きを見る »

コリ (称号)

リまたはゴリ(凝、許理、許利、碁理、牛利)は、ヤマト王権以前の称号の一つで、3 - 5世紀ごろの専門的職業人(または集団)とくに「切る」ことに精通しているものの名称として使われた。その名残は最近まで使われていた「キコリ(木を切る職業人)」にみられる。現在、「コリ(凝り)」(終止形はコル)は「あることに熱心である、あるいは精通している」という意味で使われている。.

新しい!!: カバネとコリ (称号) · 続きを見る »

タマ (称号)

タマ(多模、玉、魂、霊、多麻)は、3世紀から6世紀ごろの古代日本において、宗教的・呪術的な有力人物に付けられた名称のひとつで、ヤマト政権以前の称号(原始的カバネ)として使われた。後に氏族の祖先名や神名に多く用いられるようになる。.

新しい!!: カバネとタマ (称号) · 続きを見る »

允恭天皇

允恭天皇(いんぎょうてんのう、仁徳天皇64年? - 允恭天皇42年1月14日)は、第19代天皇(在位:允恭天皇元年12月 - 同42年1月14日)。5世紀の天皇。雄朝津間稚子宿禰尊(おあさづまわくごのすくねのみこと)、男浅津間若子宿禰王(古事記)。中国の歴史書『宋書』・『梁書』に記される倭の五王中の倭王済に比定されている。.

新しい!!: カバネと允恭天皇 · 続きを見る »

八色の姓

八色の姓(やくさのかばね)は、天武天皇が684年(天武13)に新たに制定した「真人(まひと)、朝臣(あそみ・あそん)、宿禰(すくね)、忌寸(いみき)、道師(みちのし)、臣(おみ)、連(むらじ)、稲置(いなぎ)」の八つの姓の制度のこと。 『日本書紀』の天武天皇十三年冬十月の条に、「詔して曰はく、更諸氏の族姓を改めて、八色の姓を作りて、天下の万姓を混(まろか)す。一つに曰く、真人。二つに曰く、朝臣。三つに曰く、宿禰。四つに曰く、忌寸。五つに曰く、道師。六つに曰く、臣。七つに曰く、連。八つに曰く、稲置」とある。 天武天皇の国風諡号(和風諡号、わふうしごう)は、天渟中原瀛真人天皇(あまのぬなはらおきのまひとのすめらみこと)という。「真人」が使われており、八色の姓の筆頭にあげられている。.

新しい!!: カバネと八色の姓 · 続きを見る »

国造

国造(くに の みやつこ・こくぞう・こくそう)は、古代日本の行政機構において地方を治める官職のこと。また、その官職に就いた人のこと。軍事権、裁判権などを持つその地方の支配者であったが、大化の改新以降は主に祭祀を司る世襲制の名誉職となった。 訓の「みやつこ」とは「御奴(ミヤツコ)」または「御家つ子」の意味とされる。.

新しい!!: カバネと国造 · 続きを見る »

皇室

皇室(こうしつ)は、天皇および皇族の総称。 狭義には内廷皇族、広義には天皇とその近親である皇族を意味するが、皇族の範囲は時期によって異なる。 近代(明治維新)以降は、天皇と内廷皇族を家族とする内廷と皇太子以外の皇族男子及びその家族で構成される宮家を意味する。 皇室典範第五条に定める、天皇の配偶者である皇后、先代の天皇の未亡人である皇太后、先々代の天皇の未亡人である太皇太后、また、皇太子(皇太孫)、皇太子妃(皇太孫妃)、皇族男子たる親王、王、さらには生まれながらの皇族女子である内親王、女王がある。親王妃、王妃は親王、王の配偶者となることをもって、皇族とされる。戦前(大日本帝国憲法下、日本国憲法施行まで)においては、帝室(ていしつ)とも呼ばれていた。 一般国民の女性は、皇族男子との婚姻により皇族になることができる。また、15歳以上の内親王、王、女王はその意思により、皇太子、皇太孫を除く親王、内親王、王、女王は、その意思によるほかにやむをえない特別の事由があるとき、皇室会議の議決を経て皇族の身分を離脱できる。なお、皇族女子は天皇、皇族以外の者と婚姻したとき皇族の身分を離れる(臣籍降下・臣籍降嫁)。.

新しい!!: カバネと皇室 · 続きを見る »

称号

号(しょうごう、英語:Title)とは、主に個人または団体の公的な身分や資格、地位などを表す呼び名。.

新しい!!: カバネと称号 · 続きを見る »

稲置

置 (いなぎ)は、.

新しい!!: カバネと稲置 · 続きを見る »

真人

* 真人(しんじん)は、老荘思想・道教において人間の理想像とされる存在。仙人の別称として用いられることもある。.

新しい!!: カバネと真人 · 続きを見る »

県主

主(あがたぬし)は、律令制が導入される以前のヤマト王権の職種・姓(かばね)の一つである。.

新しい!!: カバネと県主 · 続きを見る »

爵位

爵位(しゃくい、)とは主に古代から中世にかけての国家や現代における君主制に基づく国家において、貴族の血統による世襲または国家功労者への恩賞に基づき授与される栄誉称号のことである。別称として勲爵、爵号など。官職と爵位を総称して官爵ということもある。.

新しい!!: カバネと爵位 · 続きを見る »

直 (姓)

(あたい)は、ヤマト政権のもとで行われた姓(かばね)の一つ。「費」・「費直」とも記した。.

新しい!!: カバネと直 (姓) · 続きを見る »

百済

済(くだら/ひゃくさい、旧字体:百濟、4世紀前半 - 660年)は、古代の朝鮮半島西部、および南西部にあった国家。 百済の歴史はその首都の移動によって、大きく漢城期(475年まで)、熊津期(475-538年)、時代(538から)に分類される。漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、一時的に滅亡した後は、現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。熊津時代の百済は弱体化していたが、武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。538年には新たな首都としてを建設し、一層伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。百済が存続していた時代には、朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、朝鮮半島南東部に新羅、半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の東晋や南朝と密接な関係を結び、仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、周辺諸国とも交流を持った。現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、日本の『日本書紀』、中国の歴代の正史などによって知られており、また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。宋山里古墳群にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、20世紀に未盗掘のまま発見されたため、往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、隋が成立すると隋の高句麗遠征に加わるも逆に高句麗から侵攻されることになり、ついで唐がその支配を握ると、唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、聖王死後の百済と対立していた新羅を支援して百済を攻撃した。これによって660年に百済は滅亡し、王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。その後唐は旧百済領の経営に乗り出したが、本国における問題と新羅による攻撃の結果、最終的に朝鮮半島から撤退し、百済の故地は新羅に組み入れられた。.

新しい!!: カバネと百済 · 続きを見る »

百済王氏

済王氏(くだらのこにきしし)は、百済最後の王である義慈王の子である善光を始祖とする日本の氏族。持統朝に百済王の氏姓を賜与された。.

新しい!!: カバネと百済王氏 · 続きを見る »

道師

道師(みちのし)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で上から5番目。八色の姓の授与が4番目の忌寸で途絶えてしまったので、授与の記録がなく、どのような氏族を対象にした姓であったかは不明である。語の意味から想像すると「諸道の師」であり、難波薬師や河内絵師など、職業に通じ、技術で仕える有力氏族を対象として制定されたもののようである。あるいは「造」姓を対象にしたのではないか、とも言われている。.

新しい!!: カバネと道師 · 続きを見る »

菅原氏

菅原氏(すがわらうじ)は、「菅原」を氏の名とする氏族。.

新しい!!: カバネと菅原氏 · 続きを見る »

くび(首、頸, neck)とは頸部(けいぶ)、すなわち、人体において頭(頭部)と胴体をつなぐ部位である。 日本語ではまた、頭部そのものを指す場合もある。.

新しい!!: カバネと首 · 続きを見る »

魏志倭人伝

魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人(日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋の陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた。.

新しい!!: カバネと魏志倭人伝 · 続きを見る »

越智氏

越智氏(おちうじ)は、「越智」を氏の名とする氏族。 古代日本の伊予国(愛媛県)の豪族の一つ。その由来は伊予守輩出や、南海道の発展から伊予越智氏と関係があったとする説もあるが、立証はなく関係性があったかは不明である。.

新しい!!: カバネと越智氏 · 続きを見る »

防人

防人(さきもり / ぼうじん)は古代中国や、日本の飛鳥時代から平安時代、律令制度下で行われた軍事制度である。.

新しい!!: カバネと防人 · 続きを見る »

藤原氏

藤原氏(ふじわらうじ)は、「藤原」を氏の名とする氏族。略称は「藤氏(とうし)」。 藤原鎌足を祖とする神別氏族で、飛鳥時代から藤原朝臣姓を称した。近世に至るまで多くの公家を輩出したほか、日本各地に支流がある。1200年以上もの間、廷臣の一大勢力であった。.

新しい!!: カバネと藤原氏 · 続きを見る »

臣(おみ)は、ヤマト王権で使われていた姓(かばね)の一つで、姓の中では連と並んで高位に位置していた。古くは使主とも表記される。語源には諸説あるが、身体ならびに人格を意味する「ミ」に指小辞の「オ」をつけたもの(すなわち「小身」)とする説が有力である。『日本書紀』などの官撰史書では、臣姓の多くを継体天皇以前の天皇から別れ出た氏族とする。また、有力七氏族は系譜上武内宿禰を共通の祖としている。.

新しい!!: カバネと臣 · 続きを見る »

連(むらじ)は、ヤマト政権のもとで行われた姓(かばね)の一つで、臣(おみ)とともに高位の豪族が保持した称号である。語源には諸説あるが、一定規模の社会集団を意味する「ムラ」の族長「ヌシ」とする説(「むらぬし」→「むらじ」)が有力である(ただし別姓の「村主」(すぐり)とは区別される)。『日本書紀』等の官撰史書では、連姓の多くは皇室以外の神々の子孫と記述される。.

新しい!!: カバネと連 · 続きを見る »

村主

村主(すぐり).

新しい!!: カバネと村主 · 続きを見る »

氏姓制度

氏姓制度(しせいせいど)とは、古代日本において、中央貴族、ついで地方豪族が、国家(ヤマト王権)に対する貢献度、朝廷政治上に占める地位に応じて、朝廷より氏(ウヂ)の名と姓(カバネ)の名とを授与され、その特権的地位を世襲した制度。「氏姓の制(ウヂ・カバネのせい)」ともいい、「氏・姓」を音読して「氏姓(しせい)」ともいう。 大化の改新ののち、律令国家の形成におよぶと、戸籍制によって、氏姓はかつての部民(べみん)、つまり一般民衆にまで拡大され、すべての階層の国家身分を表示するものとなった。氏姓を有しない者は、天皇をはじめとする皇族と奴婢のみとなった。.

新しい!!: カバネと氏姓制度 · 続きを見る »

氏族

氏族(しぞく、うじぞく、clan)とは、共通の祖先を持つ血縁集団、または、共通の祖先を持つという意識・信仰による連帯感の下に結束した血縁集団のこと。 単系出自集団(unilineal descent group。特定の祖先から男性または女性のみを通じて親子関係がたどれる子孫の作る集団)の一つ。特定の男性祖先から男性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を父系出自集団といい、特定の女性祖先から女性のみを通じて出自がたどれる子孫から成る集団を女系出自集団という。 これらの集団のうち、成員が互いの系譜関係、あるいは共通祖先との系譜関係を把握している集団はリニエッジ(lineage)といい、伝説上・神話上の共通祖先を持っているという意識・信仰があるのみで、系譜関係がはっきりしない集団をクラン(clan)と呼んで、両者を区別する。 同じ氏族の男女の結婚を禁じる結婚規制が広く見られる(氏族外婚)。これは、互いの系譜関係がたどれぬ場合であっても同じ氏族であれば血縁関係を擬制して規制することから、必ずしも近親婚の禁止とは重ならない。.

新しい!!: カバネと氏族 · 続きを見る »

源氏

源氏(げんじ、みなもとうじ)は、「源」を氏の名とする氏族。姓(カバネ)は朝臣。 日本において皇族が臣下の籍に降りる(臣籍降下)際に名乗る氏の1つで、多数の流派がある。清和天皇の子孫である清和源氏が有名である。.

新しい!!: カバネと源氏 · 続きを見る »

朝臣

朝臣(あそん、あそみ)は、684年(天武天皇13年)に制定された八色の姓の制度で新たに作られた姓(カバネ)で、上から二番目に相当する。一番上の真人(まひと)は、主に皇族に与えられたため、皇族以外の臣下の中では事実上一番上の地位にあたる。読みは「あそみ」が古い。古くは阿曽美、旦臣とも書いた。 この朝臣が作られた背景には、従来の臣(おみ)、連(むらじ)、首(おびと)、直(あたい)などの姓の上位に位置する姓を作ることで、姓に優劣、待遇の差をつけ、天皇への忠誠の厚い氏(うじ)を優遇し、皇室への権力掌握をはかったと思われる。 『日本書紀』には、684年(天武天皇13年)11月1日に初めて朝臣を賜った52氏として、大三輪氏、大春日氏、阿倍氏、巨瀬氏、膳氏、紀氏、波多氏、物部氏、平群氏、雀部氏、中臣氏、大宅氏、粟田氏、石川氏、桜井氏、采女氏、田中氏、小墾田氏、穂積氏、山背氏、鴨氏、小野氏、川辺氏、櫟井氏、柿本氏、軽部氏、若桜部氏、岸田氏、高向氏、宍人氏、来目氏、犬上氏、上毛野氏、角氏、星川氏、多氏、胸方氏、車持氏、綾氏、下道氏、伊賀氏、阿閉氏、林氏、波弥氏、下毛野氏、佐味氏、道守氏、大野氏、坂本氏、池田氏、玉手氏、笠氏が記されている。 朝臣は、主に壬申の乱で功績の有った主に臣の姓を持つ氏族(古い時代に皇室から分かれたものが多い)に優先的に与えられた。その次に位置する主に連の姓を持つ氏族には宿禰の姓を与えていた。しかしながら、その後も朝廷に功績が有った氏族には朝臣の姓を下賜していき、奈良時代にはほとんどの氏が朝臣の姓を持つようになった。 さらに時代が下ると、大半の貴族や武士は藤原朝臣、源朝臣、平朝臣などの子孫で占められてしまい、また、武家台頭による下級貴族の没落もあり、朝臣は、序列付けの為の姓としての意味を失ってしまい、公式文書で使う形式的なものになっていった。 平安時代以降、公卿(三位以上及び参議)は、氏の下に朝臣、諱の下に公(大臣)ないし卿という敬称を以って称した。四位以下の者は氏、諱の下に姓をつけて呼称した。氏ではなく諱の下に朝臣とつけた者は特に名乗り朝臣という。.

新しい!!: カバネと朝臣 · 続きを見る »

成城大学

愛知の星城大学と同名であるため、混同されやすい。日本の大学で校名が完全に一致するのは「セイジョウ(成城・星城)大学」のみである。.

新しい!!: カバネと成城大学 · 続きを見る »

成務天皇

成務天皇(せいむてんのう、景行天皇14年 - 成務天皇60年6月11日)は、『古事記』『日本書紀』に伝えられる第13代天皇(在位:成務天皇元年1月5日 - 同60年6月11日)。和風諡号は稚足彦尊(わかたらしひこのみこと)、『古事記』は若帯日子天皇(わかたらしひこのすめらみこと)とする。『日本書紀』にはこの天皇の事績として、日本全国に数多くの国造を任命したり、稲城を設置したり、国や郡の境を定めたりしたことが記されている。.

新しい!!: カバネと成務天皇 · 続きを見る »

明治4年

明治4年(めいじ4ねん) 日本では明治5年12月2日(1872年12月31日)まで太陰太陽暦(以下、旧暦)を採用していたため、西暦とはずれが生じる。 したがって、グレゴリオ暦の場合は.

新しい!!: カバネと明治4年 · 続きを見る »

明治維新

Le Monde illustré』1869年2月20日刊行号内の挿絵。 明治維新(めいじいしん、Meiji Restoration, Meiji Revolution)とは、明治時代初期の日本が行った大々的な一連の維新をいう。江戸幕府に対する倒幕運動から明治政府による天皇親政体制への転換と、それに伴う一連の改革を指す。その範囲は、中央官制・法制・宮廷・身分制・地方行政・金融・流通・産業・経済・文化・教育・外交・宗教・思想政策など多岐に及んでいるため、どこまでが明治維新に含まれるのかは必ずしも明確ではない。.

新しい!!: カバネと明治維新 · 続きを見る »

文学研究科

文学研究科(ぶんがくけんきゅうか、英称:The Graduate School of Letters)は、日本の大学院研究科のうち、文学に関する高度な教育および研究を行う機構の1つである。具体的な研究分野については文学部も参照。人文学研究科や人文科学研究科とも研究分野は重なることが多い。.

新しい!!: カバネと文学研究科 · 続きを見る »

日本神話

日本神話(にほんしんわ)とは日本に伝わる神話のことである。.

新しい!!: カバネと日本神話 · 続きを見る »

日本書紀

日本書紀(平安時代の写本) 『日本書紀』(にほんしょき)は、奈良時代に成立した日本の歴史書。日本に伝存する最古の正史で、六国史の第一にあたる。舎人親王らの撰で、養老4年(720年)に完成した。神代から持統天皇の時代までを扱う。漢文・編年体にて記述されている。全30巻。系図1巻が付属したが失われた。.

新しい!!: カバネと日本書紀 · 続きを見る »

10月12日 (旧暦)

旧暦10月12日は旧暦10月の12日目である。六曜は先負である。.

新しい!!: カバネと10月12日 (旧暦) · 続きを見る »

11月24日

11月24日(じゅういちがつにじゅうよっか、じゅういちがつにじゅうよんにち)はグレゴリオ暦で年始から328日目(閏年では329日目)にあたり年末まであと37日ある。.

新しい!!: カバネと11月24日 · 続きを見る »

1870年

記載なし。

新しい!!: カバネと1870年 · 続きを見る »

1871年

記載なし。

新しい!!: カバネと1871年 · 続きを見る »

1872年

記載なし。

新しい!!: カバネと1872年 · 続きを見る »

1875年

記載なし。

新しい!!: カバネと1875年 · 続きを見る »

672年

記載なし。

新しい!!: カバネと672年 · 続きを見る »

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »