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叙任権闘争

索引 叙任権闘争

叙任権闘争(じょにんけんとうそう、)は、中世初期において特にローマ皇帝(俗権)がローマ教皇(教権)との間で司教や修道院長の任命権(叙任権)をめぐって行った争いのこと。.

29 関係: 司教中世前期修道院ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)レオ9世 (ローマ教皇)ヴォルムス協約ブルグント王国カノッサの屈辱クリュニー修道院グレゴリウス7世 (ローマ教皇)グレゴリウス改革ザーリアー朝シモニアシャルトル神聖ローマ帝国私有教会制聖職叙任権政教一致政教分離原則教会教会改革教皇教皇権教皇派と皇帝派1076年1077年10世紀1122年

司教

司教(しきょう、Episcopus, bishop)は、カトリック教会の位階の一つで、ある司教区(教区)を監督する聖務職のこと。 正教会や聖公会などではこれに相当するのは「主教」と呼び、福音主義(ルター派)教会やメソジストでは「監督」と呼ぶ。 なお、カトリック教会でも中国語・韓国語では訳語に「主教」を採用している(例:天主教台湾地区主教団)。.

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中世前期

中世前期(ちゅうせいぜんき)Leonardo Bruni, James Hankins, History of the Florentine people, Volume 1, Books 1–4, (2001), p. xvii.

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修道院

イスラエルにあるカトリック教会のトラピスト修道院 シナイ山にある正教会の聖カタリナ修道院 カラー写真。 パドゥーラ修道院(イタリア、カトリック教会) グレゴール・ヨハン・メンデル。修道士であると共に、遺伝学の研究も行った 修道院(しゅうどういん、Abbey)は、キリスト教において修道士がイエス・キリストの精神に倣って祈りと労働のうちに共同生活(修道生活)をするための施設。 男子修道院と女子修道院とがあり、いずれにおいても修道士・修道女は独身を守る。いくつかの修道院の集まった修道院群のことを、大修道院と呼ぶ。修道院を有する教派としては、東方諸教会、正教会、カトリック教会、聖公会、ルーテル教会がある。ルーテル教会を除き、プロテスタントには極めて僅かな例外を除いて修道院は無い。 カトリック教会には修道会の制度がある。このうち観想修道会の会員は原則的に修道院の敷地内を出ずに生活するため、修道院が修道士たちが自由に行き来することが可能な唯一の場所になる。トラピスト会のような観想修道会に所属する会員(修道士)は、基本的には自分の意思で修道院から出ることは出来ない。 帝国代表者会議主要決議の第35条は、各領主に修道院を自由に処分する権限を与えた。有力なプロイセン王国・バーデン王国・ヴュルテンベルク王国・バイエルン王国において、修道院はどんどん解体されていった。バイエルン選帝侯領の修道院は身分制議会に議席を持ち、また選帝侯領の32%を保有していた。このころの修道院は科学研究機関をかねており、解散により保有していた学術的収集品が資産として処分されてしまった。.

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ハインリヒ4世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ4世(Heinrich IV., 1050年11月11日 - 1106年8月7日)はローマ王(在位:1053年 - 1106年)及びイタリア王(在位:1080年 - 1106年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1084年 - 1106年)。ザーリアー朝第3代皇帝で、第2代皇帝ハインリヒ3世(黒王)の子。フランケン公(在位:1056年 - 1076年)、バイエルン公でもあった(在位:1077年 - 1096年)。帝国の統治機構にも関わる聖職叙任権の問題を巡って教皇グレゴリウス7世と激しく対立、ローマから教皇を追いやったもののローマ皇帝が持つ神権の失墜は避けられないものとなった。ローマ皇帝としてはハインリヒ「3世」であるが、皇帝ではない東フランク王ハインリヒ1世から数えて「4世」とするのが一般的である。.

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ハインリヒ5世 (神聖ローマ皇帝)

ハインリヒ5世(Heinrich V., 1086年8月11日 - 1125年5月23日)はイタリア王(在位:1106年 - 1125年)及びローマ王(在位:1099年 - 1125年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1111年 - 1125年)。ザーリアー朝第4代で最後の皇帝。第3代皇帝ハインリヒ4世とサヴォイア伯オッドーネの娘ベルタの子。ハインリヒ5世の死去をもってザーリアー朝は断絶する。ローマ皇帝としてはハインリヒ「4世」であるが、皇帝でない東フランク王ハインリヒ1世から数えて「5世」とするのが一般的である。.

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レオ9世 (ローマ教皇)

レオ9世(Leo IX, 1002年6月21日 - 1054年4月19日)は、ローマ教皇(在位:1049年 - 1054年)。ヒルデブランド(後の教皇グレゴリウス7世)らの人材を得て教会改革に尽力した教皇。聖別されており、教会慣用名はレオ小林(1966)巻末「歴代法王表」p.7。.

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ヴォルムス協約

ヴォルムス協約(ヴォルムスきょうやく、Wormser Konkordat)は、1122年にドイツのヴォルムスにおいて、神聖ローマ皇帝ハインリヒ5世とローマ教皇カリストゥス2世の間で結ばれた政教条約である。両者の取り持ちにはレオポルト3世が当たったという、p.129。。神聖ローマ帝国内で世俗権力と教会が争った聖職者の叙任権の問題(叙任権闘争)を解決し、「叙任権は教会にあり、皇帝は世俗の権威のみを与える」と取り決めた。「根本問題をなにひとつ解決していない不透明な妥協の産物」とも評される。 ヴォルムス協約原本 古代末期以来、私領において建てられた聖堂(私有教会)や修道院が増えていく中で、その種の聖堂の聖職者あるいは修道院長を選ぶ権利(叙任権)は土地の領主が持っていた。また、世俗権威が強大化していくと、その地域の司教の選出に対しても影響力を及ぼすようになっていった。これは教会財産の管理権を握ることと直結していたので、世俗権力にとっても重要であった。中世に入って、教皇権が伸張する中でこの叙任権をめぐる争いが起こるようになっていった。 特に神聖ローマ帝国内において、誰が司教や修道院長を任命するのかという問題をめぐって皇帝と教皇の間での綱引きが続いていた。この皇帝と教皇の争いは、ハインリヒ4世とグレゴリウス7世の間において頂点に達した。ハインリヒ4世によってグレゴリウス7世がローマを逃れ、客死に追い込まれるという事態に至ったのである。 こういった叙任権をめぐる争いにピリオドを打つべく、以後教皇と皇帝の間で話し合いが重ねられていった。その結果1122年にドイツのヴォルムスで会議が行われ、教皇特使と皇帝が臨席して合意に達し、協約を結んだ。これがヴォルムス協約である。その中で.

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ブルグント王国

ブルグント王国(ブルグントおうこく)は、ローヌ川流域を領土として存在した王国。現在のフランス、スイスにまたがっており、ブルゴーニュ=フランシュ=コンテ地域圏、オーヴェルニュ=ローヌ=アルプ地域圏、及びスイスのフランス語圏とおおよそ一致する。9世紀末からは プロヴァンス=アルプ=コート・ダジュールも領域に含んだ。.

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カノッサの屈辱

トスカーナ女伯マティルデ(右)、クリュニー修道院長(左) ハインリヒ4世 グレゴリウス7世 カノッサの屈辱(カノッサのくつじょく、、)は、聖職叙任権をめぐってローマ教皇グレゴリウス7世と対立していたローマ王ハインリヒ4世が、1077年1月25日から3日間に及んで雪が降る中、カノッサ城門にて裸足のまま断食と祈りを続け、教皇による破門の解除を願い、教皇から赦しを願ったことを指す。 また、カノッサ事件とも呼ばれる。。.

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クリュニー修道院

リュニー修道院(クリュニーしゅうどういん、正式名称はサン=ピエール・エ・サン=ポール・ド・クリュニー修道院。フランス語:Abbaye de Saint-Pierre et Saint-Paul de Cluny)は、当時のブルグント王国内で現在のフランス・ブルゴーニュ地方のソーヌ=エ=ロワール県・クリュニーに909年9月11日(910年とする説もある)、アキテーヌ公ギヨーム1世により創建されフランス革命まで存続したベネディクト会修道院である。.

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グレゴリウス7世 (ローマ教皇)

レゴリウス7世(Gregorius VII,1020年? - 1085年5月25日)は、ローマ教皇(在位:1073年 - 1085年)。本名はイルデブランド(Ildebrando)。グレゴリウス改革といわれる一連の教会改革で成果をあげ、教皇権の向上に寄与。叙任権闘争における神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世との争いでも知られる。カトリック教会の聖人であり、記念日は5月25日。.

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グレゴリウス改革

レゴリウス改革(Gregorian Reform)は、11世紀に教皇グレゴリウス7世(在位:1073年-1085年)によって推進されたカトリック教会の改革。叙任権の世俗権力からの奪還と聖職者の綱紀粛正が改革の二本柱であった。.

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ザーリアー朝

ーリアー朝(Salier、Salian dynasty)は、中世ドイツにおいてローマ王およびローマ皇帝を世襲したフランケン出身の貴族の家系である。「ザリエル朝」および「フランケン朝」(同じフランケン朝のコンラディン家とは直接は関係ない)ともいわれる。「ザーリアー」の名はフランク族の部族サリー族から来ていると考えられている瀬原、p.142-143。.

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シモニア

『シモンの堕落』(1170年作) シモニア(Simony、Simonia)ないし聖職売買(せいしょくばいばい)は、金銭など対価を以て聖職者の位階や霊的な事物を故意に取引すること。.

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シャルトル

ャルトル()は、フランスの中部に位置する都市で、ウール=エ=ロワール県の県庁所在地である。.

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神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

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私有教会制

私有教会制(しゆうきょうかいせい、羅:ecclesia propria、独:Eigenkirche)は、中世ヨーロッパにおいて、教会の建物や敷地や付属物などが俗人領主の私的所有権の下にあることをさす。俗人所有権下にある修道院ことは私有修道院と言う。当初は世俗の有力者が私有教会を有していたが、のちになって修道院や司教の私有教会も現れるようになった。 私有教会制は、ゲルマン人の家父祭司制を起源とする説と、荘園制を起源とする説がある。私有教会制は7世紀頃からみられ、9世紀から10世紀にかけてがピークとなる。ザクセン朝ドイツにおいて、私有教会は世俗の封建制機構に取り込まれ、特に私有修道院は俗人修道院長によって統治された。 私有教会において、建物・敷地・付属物といった有体財産の処分権のみならず、聖務遂行権や聖職叙任権に関しても所有者からの支配・干渉を受けることとなる。 私有教会に関する事物は所属する司教区の意思が届くことはなかった。ときとして教会が聖務に付随して有していた諸権利が、所有者たる俗人領主によって簒奪され、その諸権利によって利殖し、またその諸権利を封として臣下に与えたり遺産として子息に相続したりすることもあった。以下はその諸権利の一部。.

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聖職叙任権

聖職叙任権(せいしょくじょにんけん)は、キリスト教会における司教や修道院長など聖職者を任命する権限。単に叙任権(じょにんけん)と称されることもある。.

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政教一致

政教一致(せいきょういっち)とは、政教分離の対語(造語)で、政治と宗教、または教会と国家が分離されずに一体化した統治体制の型。政教一致には、教会国家型(Church-State)と国家教会型(State-Church)とがある岩井淳「政教分離」歴史学事典第11巻 宗教と学問,2004年、弘文堂、p.399-400。。教会国家主義と国家教会主義ともいわれる中野毅「政教分離・政教一致」宗教の事典(朝倉書店)pp.862-864.。.

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政教分離原則

政教分離原則(せいきょうぶんりげんそく)は、国家(政府)と教会(宗教団体)の分離の原則をいう。また、教会と国家の分離原則(Separation of Church and State)ともいう。ここでいう「政」とは、狭義には統治権を行動する主体である「政府」を指し、広義には「君主」や「国家」を指す『宗教の事典』、山折哲雄、2012年、朝倉書店、p862。。世界大百科事典では「国家の非宗教性、宗教的中立性の要請、ないしその制度的現実化」と定義されている。 国家により、日本などに見られる国家による一切の宗教的活動を禁止する厳格な分離(分離型)や、国家が平等に宗教を扱えばよいとする英国などに見られる緩やかな分離(融合型)野中俊彦・中村睦男・高橋和之・高見勝利『憲法』第4版、有斐閣、2005年小原克博「日本人の知らないの多様性」『論座』2001年10月号 などに分かれる。信教の自由の制度的保障として捉えられ、政教分離と信教の自由は不可分である。本項では信教の自由との関連、各国における政治と宗教、また国家と教会との関係についても扱う。.

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教会

教会(きょうかい).

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教会改革

教会改革とは、11世紀半ばから12世紀半ばにいたる中世ヨーロッパのキリスト教教会における改革。教皇権が皇帝権に対して優位となった。改革以前までは聖職者と俗人がともに教会(エクレシア)に属していたが、教会改革において俗人が次第に締め出されて、教皇首位権のもとに教階制(ヒエラルキア)へと統合されていった。教皇改革、教皇革命ともいう。従来知られてきた叙任権闘争やグレゴリウス改革を含めて、さらにその前後のより広い時期を指す。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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教皇権

教皇権(きょうこうけん)とは、ローマ教皇がもつ,カトリック教会を管理し、信徒を指導する最高司牧権「教皇権」世界大百科事典 第2版。.

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教皇派と皇帝派

教皇派と皇帝派(きょうこうはとこうていは)とは、12世紀から13世紀の主に北イタリアにおいて、対立するローマ教皇と神聖ローマ皇帝をそれぞれを支持した都市、貴族達を指すが、14世紀から15世紀には本来の意味から離れ、対立する都市間の争いや都市内部の派閥抗争における両勢力の便宜的な分類として用いられた。ゲルフとギベリンともいう。 元々は、神聖ローマ帝国の帝位争いにおいてヴェルフ派をヴェルフ、ホーエンシュタウフェン派をウィーベリンと言ったものが、ヴェルフ家が教皇と結んで、帝位についたホーエンシュタウフェン朝と対抗したため、これがイタリアに伝わり教皇派と皇帝派(ゲルフ(グエルフィ、Guelfi)とギベリン(ギベッリーニ、Ghibellini))となった。.

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1076年

記載なし。

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1077年

記載なし。

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10世紀

江南の爛熟。画像は顧閎中が描いた「韓煕載夜宴図(北京故宮博物館蔵)」。五代十国南唐の後主李煜時代の宮廷の優雅な様子がしのばれる。 コルドバ。画像はコルドバにあるメスキータの円柱の森。10世紀末までに歴代の後ウマイヤ朝カリフによって改築が続けられ今ある姿となった。 10世紀(じっせいき)とは、西暦901年から西暦1000年までの100年間を指す世紀。1千年紀における最後の世紀である。.

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1122年

記載なし。

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