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中世前期

索引 中世前期

中世前期(ちゅうせいぜんき)Leonardo Bruni, James Hankins, History of the Florentine people, Volume 1, Books 1–4, (2001), p. xvii.

371 関係: 単性説古代末期古代教会スラヴ語古典古代大ブルガリア (中世)大聖堂天然痘天文学奴隷宋 (王朝)封建制中世中世盛期主教幾何学弁証法弓 (武器)後ウマイヤ朝修辞学ペチェネグナルボンヌペロポネソス半島ペストミデヤン人ミカエル3世ノルマン人ノルマンディー公国ノルウェーマー・ワラー・アンナフルノース人ノーサンブリアマディーナマインツマウリキウスマケドニア王朝 (東ローマ)マケドニア朝ルネサンスマジャル人ネストリウス派ハワーリジュ派ハンガリーハンガリー大平原ハーラル1世 (ノルウェー王)ハーンハドリアノポリスの戦いハインリヒ1世 (ドイツ王)ハザールハサン・イブン・アリーバチカンバルト人バルカン半島...バルセロナバグダードバスラバスク人ポルトガルムハンマド・イブン=アブドゥッラーフムーア人ムアーウィヤムスリムメロヴィング朝メッカモラヴィアモラヴィア王国モルドンの戦いユーグ・カペーユスティニアヌス1世僧院ヨハネス12世 (ローマ教皇)ヨハネス・スキュリツェスヨーロッパヨーロッパ史ランゴバルド人ランス・オ・メドーラヴェンナラツィオ州ラテン語ライン川リューリク朝リーベリベラル・アーツリカーブボウルーマニアルイ4世 (西フランク王)レバントレヒフェルトの戦いレオ3世 (ローマ教皇)レオ8世 (ローマ教皇)レオーン6世ロマンス諸語ロムルス・アウグストゥルスロンドンロングシップローマローマ帝国ローマ法ローマ法大全ヴァリャーグヴァリャーグからギリシャへの道ヴァンダル族ヴァイキングヴェネツィア共和国ヴェルダン条約ヴォルガ川ヴォルガ・ブルガールヴォーティガンボルドーヌルシアのベネディクトゥスボヘミアボニファティウス3世 (ローマ教皇)ボエティウストラキアトルソートゥールのグレゴリウストゥール・ポワティエ間の戦いヘラクレイオスヘントヘーゼビューブリトン人ブリソン諸語ブリタニカ百科事典ブルッヘブルガリア正教会ブルガール人ブルグントのアーデルハイトブルグント族ブルゴーニュ地域圏ブルジョワジーブルターニュプラウプッリャ州パレスチナパンデミックパヴィーアパクス・ロマーナヒルデスハイムの聖マリア大聖堂と聖ミカエル聖堂ヒジュラヒスパニアヒスパニア・バエティカビュザンティオンビルカビザンティン建築ピレネー山脈ピピン3世ピピンの寄進ピクト人テマ制テルトゥリアヌステッサロニキティレニア海ティンタジェルテオドリック (東ゴート王)テオドリック廟テオドシウス1世テオドシウス2世デルベントデンマークデヴォンデーン人フランク人フランク王国フワーリズミーフン族ファールス州フィン人フィン・ウゴル系民族ドナウ川ドニエプル川ドイツ王国ドゥムノニアニケフォロス2世フォカスニコマコスホノリウスダブリンベネヴェント公国ベルベル人ベレンガーリオ2世ベーダ・ヴェネラビリス初代教会アナトリア半島アヤソフィアアラリック1世アラン人アラブ人アラブ・東ローマ戦争アラビア数字アリウス派アリストテレスアルメニアアルボイーノアルフレッド大王アルキメデスアルクィンアレマン人アンミアヌス・マルケリヌスアンダルシア州アンダルスアングル人アングロ・サクソン人アングロサクソン年代記アヴァールアーサー王アッバース朝アブー・バクルアブド・アッラフマーン1世アテネアフリカ属州アイルランド島アイスランドアウグスティヌスアエギュプトゥスアストゥリアス州アストゥリアス王国アゼルスタン (イングランド王)イラン系民族イリュリアイリュリア人イングランドイーリアスイベリア半島イベリア王国イコノクラスムイシドールスイスラム帝国イスラム教イスラーム黄金時代イスラーム教徒のペルシア征服イタリア王国ウマル・イブン・ハッターブウマイヤ朝ウラジーミル1世ウァレンスウィットビー教会会議ウェールズウェールズ人ウェセックスウスマーン・イブン・アッファーンエルベ川エドワード・ギボンエウクレイデスオングロスの戦いオーフスオットー1世 (神聖ローマ皇帝)オットー3世 (神聖ローマ皇帝)オフリドのクリメントオドアケルオストマルク (ザクセン)カラブリア州カルパチア盆地カロリング帝国カロリング朝カロリング朝ルネサンスカンナエの戦いカール3世 (フランク王)カール大帝カール・マルテルカッシオドルスカトリック教会カフカス・アルバニア王国カイロカタルーニャ州ガリアガリア・ナルボネンシスガリア・アクィタニアキリル文字キリスト教キリスト教徒キリスト教哲学キエフ大公国ギリシャギリシア語クリミア半島クリミアゴート族クリュニー修道院クルスス・ホノルムクレーフィクロヴィス1世クーファクテシフォンクシャーノ・サーサーン朝クタイバ・イブン・ムスリムグラティアヌスグレートブリテン島グレゴリウス1世 (ローマ教皇)ケルト系キリスト教ケルズの書ゲルマン人コルンバコルンバヌスコルドバ (スペイン)コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)コンスタンティノープルコンスタンティノープル大学コンスタンティノス7世コーンウォールコーカサスゴート族シチリアシメオン1世シリア属州シルウェステル2世 (ローマ教皇)シンド州ジュート人ジローナジブラルタルスペイン辺境領スポレート公国スラヴ人スヴャトスラフ1世スティリコスウェーデンスウェーデン人スエビ族スカンディナヴィアスコラ学スコットランド人スタラヤ・ラドガセルビア人セプティマニアターリク・イブン・ズィヤードサラセン人サルマタイサルデーニャサン・ヴィターレ聖堂サーマーン朝サーサーン朝サクソン人元号皇帝神聖ローマ帝国神聖ローマ皇帝一覧突厥第一次ブルガリア帝国算術算術入門音楽遊牧民聖ボニファティウス聖職者荘園西ヨーロッパ西ローマ帝国西ゴート王国西ゴート族西スラヴ人論理学黒海輪作野蛮自然暗黒時代東南ヨーロッパ東ヨーロッパ東ローマ帝国東ゴート族東西教会の分裂正統カリフ正教会民族移動時代朝廷海難事故文法教会法教皇教皇領教育時代区分1千年紀3世紀5世紀620年7世紀 インデックスを展開 (321 もっと) »

単性説

単性説(たんせいせつ、Monophysitism)あるいは単性論(たんせいろん)とは、キリスト論において用いられたキリスト教用語で、受肉したイエス・キリストが単一の性(natura)のみを有するという説・論。"Monophysitism"の語源はギリシャ語で1つを意味する「mono」と本性を意味する「Physis」という言葉である。カルケドン公会議で採択された、キリストは神性と人性という二つの本性を持つという立場(両性説)によって否定された立場である『キリスト教大辞典』(144頁、321頁、322頁、教文館、昭和52年改訂新版第4版)。.

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古代末期

古代末期(こだいまっき、Late Antiquity, Spätantike, Antiquité tardive)は、ヨーロッパ史における時代区分で、古典古代から中世(中世初期)への変遷の説明に用いられる。 範囲は諸説あるが、最も広く見て、概ね西暦200年から800年までの間、すなわち3世紀から8世紀にかけての時期であるBrown, Bowersock, Graber, Late Antiquity: A Guide to the Postclassical World (Harvard University Press Reference Library) 1999年南雲泰輔「英米学界における「古代末期」研究の展開」西洋古代史.

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古代教会スラヴ語

古代教会スラヴ語(こだいきょうかいスラヴご、 ポーランド語: Język staro-cerkiewno-słowiański 英語: Old Church Slavonic または Old Church Slavic)、古代スラヴ語(古スラヴ語、ロシア語: старославянский язык, древнеславянский язык)は、スラヴ語による最古の文語であり、現代のスラヴ語の文章語の前身にあたる言語である。正教会のスラヴ語地域で用いる聖書がこの言語で書かれ、奉神礼もこの言語で行なわれていることからこの名がある。この言語が口語的に使われていたのはおおよそ9世紀から11世紀のころである。現在も奉神礼の祈祷文を中心に使用されている。 最初に古代教会スラヴ語に聖書を翻訳したのは、スラヴ語を書き表すための最初の文字であるグラゴル文字を考案したキュリロスとメトディオスの兄弟で、現存する古代教会スラヴ語の著作はほぼ全てがギリシア語から翻訳されたキリスト教文献である。 キュリロスとメトディオスはマケドニア地方のテッサロニキの出身であり、古代教会スラヴ語と呼ばれている言語はスラヴ語派の中でもこの地方で話されていた南スラヴ語群に基づくと考えられ、現在のマケドニア語やブルガリア語と関係が深い。このため、狭い意味では古代教会スラヴ語とはマケドニア・ブルガリア地方の方言をもとに作られたスラヴ語文献の言語のことであり、ブルガリアでは古代ブルガリア語(Старобългарски език)と呼ばれる。ただし、当時のスラヴ語文献には、ボヘミア(チェコ)の西スラヴ語群やルーシ(ウクライナ、ベラルーシ、ロシア)の東スラヴ語群の方言の特徴を含むものも多い。 古代教会スラヴ語より後の11世紀~17世紀頃に東・南スラヴで用いられた文章語は、教会スラヴ語と呼ぶ。.

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古典古代

古典古代(こてんこだい、Classical Antiquity)は、ヨーロッパ史(西洋史)において古代ギリシア・ローマ時代を指す名称である。この時代に生み出された文化・文明が現在のヨーロッパ文化の基盤になっていることに由来し、「古典的」という修飾句を冠することで他の古代(文化・文明)と区別したものである。 古典古代の文化は、先行して繁栄していた古代オリエントの文化(エジプト文明およびメソポタミア文明)からの大きな影響(文字や鉄器の使用など)を受けて成立し、地中海世界(特にその北半分)を中心に発展した。この地域からはアレクサンドロスの帝国およびローマ帝国が台頭し、オリエント世界をも統合する大帝国を現出した。言語的側面から見れば、古典古代文化は古代ギリシア語およびラテン語による文化であった。 古典古代の終焉は、古代末期の終了に伴う古代文化の崩壊と中世初頭の開始を以ってとされ、これ以後の西ヨーロッパ世界は、ローマ帝国末期から次第に力を増してきたキリスト教とゲルマン人の文化に支配されることになった(中世の始まり)。古典古代の文化的遺産は東ローマ(ビザンツ)に継承され、8世紀以降はアラビア語への翻訳を通じてイスラーム世界に引き継がれた。ここで古典古代文化は哲学・自然科学の研究の面で独自の発達を遂げ、十字軍・レコンキスタによる西欧世界との接触・交流の開始により、再び西欧へと「逆輸入」されることになり、12世紀ルネサンス、(14世紀以降の)イタリア・ルネサンスの成立につながった。この結果、古典古代文化はキリスト教・ゲルマン人文化に加え現代にいたるヨーロッパ文化の基盤とみなされるに至っている。.

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大ブルガリア (中世)

大ブルガリア(だいブルガリア)、または古い大ブルガリア(ブルガリア語:Стара Велика България / Stara Velika Balgariya、ギリシャ語:Παλαιά Μεγάλη Βουλγαρία)は、東ローマ帝国の歴史書に登場する用語で、7世紀のクブラト(Кубрат / Kubrat)によるヴォルガ川下流からドニエストル川までの範囲のカフカース山脈北部・ステップ地帯の支配を指し示す。オノグリア(Onoguria / Onoghuria)とも呼ばれる。.

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大聖堂

大聖堂(だいせいどう)は、キリスト教の宗教建築の種別のひとつ。語義には教派によって差がある。日本のカトリック教会では「カテドラル」との片仮名表記も頻繁に用いられるが、日本の他教派ではこれはあまり用いられない。.

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天然痘

天然痘(てんねんとう、smallpox)は、天然痘ウイルス(Variola virus)を病原体とする感染症の一つである。疱瘡(ほうそう)、痘瘡(とうそう)ともいう。医学界では一般に痘瘡の語が用いられた。疱瘡の語は平安時代、痘瘡の語は室町時代、天然痘の語は1830年の大村藩の医師の文書が初出である。非常に強い感染力を持ち、全身に膿疱を生ずる。致死率が平均で約20%から50%と非常に高い。仮に治癒しても瘢痕(一般的にあばたと呼ぶ)を残す。天然痘は世界で初めて撲滅に成功した感染症である。1805年にはナポレオンが、全軍に種痘を命じた。以降は羊毛の流通に乗って発疹チフスが猛威をふるった。.

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天文学

星空を観察する人々 天文学(てんもんがく、英:astronomy, 独:Astronomie, Sternkunde, 蘭:astronomie (astronomia)カッコ内は『ラランデ歴書』のオランダ語訳本の書名に見られる綴り。, sterrenkunde (sterrekunde), 仏:astronomie)は、天体や天文現象など、地球外で生起する自然現象の観測、法則の発見などを行う自然科学の一分野。主に位置天文学・天体力学・天体物理学などが知られている。宇宙を研究対象とする宇宙論(うちゅうろん、英:cosmology)とは深く関連するが、思想哲学を起源とする異なる学問である。 天文学は、自然科学として最も早く古代から発達した学問である。先史時代の文化は、古代エジプトの記念碑やヌビアのピラミッドなどの天文遺産を残した。発生間もない文明でも、バビロニアや古代ギリシア、古代中国や古代インドなど、そしてイランやマヤ文明などでも、夜空の入念な観測が行われた。 とはいえ、天文学が現代科学の仲間入りをするためには、望遠鏡の発明が欠かせなかった。歴史的には、天文学の学問領域は位置天文学や天測航法また観測天文学や暦法などと同じく多様なものだが、近年では天文学の専門家とはしばしば天体物理学者と同義と受け止められる。 天文学 (astronomy) を、天体の位置と人間界の出来事には関連があるという主張を基盤とする信念体系である占星術 (astrology) と混同しないよう注意が必要である。これらは同じ起源から発達したが、今や完全に異なるものである。.

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奴隷

鞭打ちによる傷跡のある黒人奴隷(米国1863年) 奴隷(どれい)とは、人間でありながら所有の客体即ち所有物とされる者を言う。人間としての名誉、権利・自由を認められず、他人の所有物として取り扱われる人。所有者の全的支配に服し、労働を強制され、譲渡・売買の対象とされた。奴隷を許容する社会制度を特に奴隷制という。 1948年に国連で採択された世界人権宣言では、次のような宣言がある。.

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宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝の一つ。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(河南省商丘県)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋、南宋もともに、宋、宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。.

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封建制

封建制(ほうけんせい)は、君主の下にいる諸侯たちが土地を領有してその土地の人民を統治する社会・政治制度。諸侯たちは、領有統治権のかわりに君主に対して貢納や軍事奉仕などといった臣従が義務づけられ、領有統治権や臣従義務は一般に世襲される。日本史においては主に、鎌倉時代から江戸時代にかけての「武家の世」の社会・政治制度を表す言葉として用いられている。封建制は、中国古代の統治制度に由来する概念であるとともに、ヨーロッパ中世の社会経済制度であるフューダリズムの訳語でもあり、2つの意味が相互に影響している面もある。 中国では、封建制と郡県制の是非について「歴千百年」の議論が続いた。日本では中国古典とともに封建制の概念も持ち込まれ、頼山陽など江戸時代の知識人は、鎌倉幕府成立以来の武家政権体制を中国古代と似たものと考え、封建制の概念を用いて日本史を論じた。明治維新で実施された版籍奉還や廃藩置県には、こうした頼山陽らの封建制についての議論が影響している。一方、ヨーロッパ特にドイツでは、中世を特徴づける社会経済制度としてフューダリズム(ドイツ語:Feudalismus、英語:Feudalism)やレーエン(ドイツ語:Lehen)が盛んに研究されていた。明治時代半ばにレーエンを中心にフューダリズムが日本に紹介されると、フューダリズムと封建制は類似しているとされ、フューダリズムの訳語として封建制が用いられるようになった。その後、ドイツの歴史学派による経済発展段階説やマルクス経済学の唯物史観が日本に紹介されると、封建制(フューダリズム)は農奴制に結びつく概念となった。.

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中世

中世(ちゅうせい、英語:middle ages)は、狭義には西洋史の時代区分の一つで、古代よりも後、近代または近世よりも前の時代を指す。17世紀初頭の西洋では中世の観念が早くも定着していたと見られ、文献上の初見は1610年代にまでさかのぼる。 また、広義には、西洋史における中世の類推から、他地域のある時代を「中世」と呼ぶ。 ただし、あくまでも類推であって、西洋史における中世と同じ年代を指すとは限らないし、「中世」という時代区分を用いない分野のことも多い。 また、西洋では「中世」という用語を専ら西洋史における時代区分として使用する。 例えば英語では日本史における「中世」を通常は「feudal Japan」(封建日本)や「medieval Japan」(中世日本)とする。.

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中世盛期

中世において中世盛期(ちゅうせいせいき)とは、ヨーロッパ史において11, 12, 13世紀を中心とする時代で、歴史上の時代区分としては中世前期の後、中世後期の前とされる。中世後期は1500年までには終了したと考えるのが慣例である。 ヨーロッパ史における中世盛期に顕著な傾向として、大幅な人口増が挙げられる。これによって、前時代からは政治的・経済的に大きな変化が生じた。1250年の大幅な人口増によって引き起こされた経済成長は、地域によっては19世紀までは二度と実現されなかったほど大幅なものであった。しかし、こうした人口増加は、中世後期になるとしばしば発生した災難(ペストが有名だが、戦争や経済停滞も含まれる)によって抑制されることになった。 780年頃以降、西ヨーロッパでは民族移動時代が終わりをつげ、政治的・社会的な組織化が促進された。南欧で繁栄したイスラム系諸国は、ヨーロッパにおける科学と哲学の復興をもたらした。ボローニャ、サレルノ、パリ、モデーナには最初の大学が設立された。バイキング達はブリテン諸島やフランスをはじめ各地に定住したが、同時にキリスト教を国教としたノルド人達の諸王国は、故地であるスカンディナヴィアでも発展を続けた。マジャル人は10世紀頃に侵入を停止し、1000年頃までにはキリスト教国であるハンガリー王国として、地域の諸大国と同盟を結びつつ、中央ヨーロッパにおけるその地位を固めた。一過性に例外的事件としてモンゴルの征服はあったが、おおむね異民族の侵入はこの時代に終わったと言えよう。 11世紀になると、アルプス山脈の北方にいたゲルマン人達は新たな土地を求めて入植を始めたが、こうした植民地の中にはローマ帝国の滅亡後には荒れ地に戻っていた場所もある。ヨーロッパに残っていた広大な森林や湿地はこの時代に開墾され耕作地となったが、この変化はグレート・クリアランスと呼ばれる。また、入植活動はフランク王国の旧来の国教線を越えて東方の未開地に及び、エルベ川を超えて東に拡張する過程でドイツ人の居住地は3倍に拡大した。依然として強力な指導力を保っていたカトリック教会は、聖地を占領したセルジューク・トルコに対する一連の十字軍遠征を全ヨーロッパに呼びかけ、それによりレバントに十字軍国家を建国した。北方ではバルト海の植民地化が行われ、イベリア半島ではキリスト教諸国軍がムーア人をレコンキスタによって駆逐し、ノルマン人は南イタリアに植民したが、こうした活動は全て、この時代に起きた人口の大幅な増加とその結果としての移住のパターンとして読み解くことが出来る。 中世盛期には、知的で精神的な芸術作品の分野に多くの様式が生まれた。また、この時代にはエスノセントリズムの萌芽が見られるが、これは後に近代ヨーロッパ諸国に見られた国民国家の思想につながるものである。イタリアでは諸々の都市国家が興隆し、イベリア半島ではアンダルスの勃興と没落があった。アリストテレスの著作群が再発見されたことは、トマス・アクィナスをはじめとする思想家がスコラ学を発展させるきっかけとなった。建築では、有名なゴシック大聖堂の多くの建設が、この時代に着工され、あるいは完成されている。中世盛期という時代区分は、中世後期の危機と呼ばれる14世紀に始まった相次ぐペストの流行や飢饉の発生よって区切られる。.

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主教

主教(しゅきょう、Επίσκοπος, Episcopus, Bishop, Епископ)とは、正教会、聖公会における高位聖職者主教について、「最高位」(英語では"highest" もしくは"supreme")に類した表現を使用して居らず、「高位」(英語では"high")に当たる言葉も使っていないケースもあるが(、 )、一方で「最高位」 ("highest") を使用している文献もある。ここでは大辞泉での表現「高位」に拠った。。複数教会によって構成される教区を管轄する(大辞泉)正教会の出典:聖公会の出典:。 カトリック教会では司教と呼ばれる。「主教」は正教会に属する日本ハリストス正教会、および聖公会に属する日本聖公会などで用いられる訳語。なお朝鮮語および中国語では、カトリック教会の司教も「主教」である。ルーテル教会やメソジストでは監督と呼ばれる『キリスト教大事典』519頁、教文館、昭和48年9月30日 改訂新版第二版。 2世紀初頭には既に主教職があり現代に至っているが、教派ごとにその位置付けは異なる。.

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幾何学

最先端の物理学でも用いられるカラビ-ヤウ多様体の一種。現代幾何学では図も書けないような抽象的な分野も存在する。 幾何学(きかがく、)は、図形や空間の性質について研究する数学の分野である広辞苑第六版「幾何学」より。イエズス会マテオ・リッチによる geometria の中国語訳である。以前は geometria の冒頭の geo- を音訳したものであるという説が広く流布していたが、近年の研究により否定されている。 もともと測量の必要上からエジプトで生まれたものだが、人間に認識できる図形に関する様々な性質を研究する数学の分野としてとくに古代ギリシャにて独自に発達しブリタニカ国際大百科事典2013小項目版「幾何学」より。、これらのおもな成果は紀元前300年ごろユークリッドによってユークリッド原論にまとめられた。その後中世以降のヨーロッパにてユークリッド幾何学を発端とする様々な幾何学が登場することとなる。 幾何学というとユークリッド幾何学のような具体的な平面や空間の図形を扱う幾何学が一般には馴染みが深いであろうが、対象や方法、公理系などが異なる多くの種類の幾何学が存在し、現代においては微分幾何学や代数幾何学、位相幾何学などの高度に抽象的な理論に発達・分化している。 現代の日本の教育では、体系的な初等幾何学はほぼ根絶されかけたが、近年、中・高の数学教育で線型幾何/代数幾何を用いない立体を含む、本格的な綜合幾何は見直されつつある。.

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弁証法

弁証法(べんしょうほう、διαλεκτική、dialectic)とは、哲学の用語であり、現代において使用される場合、ヘーゲルによって定式化された弁証法、及びそれを継承しているマルクスの弁証法を意味することがほとんどである。それは、世界や事物の変化や発展の過程を本質的に理解するための方法、法則とされる(ヘーゲルなどにおいては、弁証法は現実の内容そのものの発展のありかたである)。しかし、弁証法という用語が指すものは、哲学史においてヘーゲルの登場よりも古く、ギリシア哲学以来議論されているものであり、この用語を使う哲学者によってその内容は多岐にわたっている。したがって「弁証法=ヘーゲルの弁証法的論理学」としてすべてを理解しようとするのは誤りである。.

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弓 (武器)

弓(ゆみ)はしなやかな竹や木に弦をかけ、その弾力を利用して矢を飛ばす武器。オーストラリア、タスマニア原住民を除いて広く世界に分布し、その起源は中石器時代に遡る。.

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後ウマイヤ朝

後ウマイヤ朝(こうウマイヤちょう、756年 - 1031年)は、イベリア半島に興ったウマイヤ朝の再興王朝。西カリフ帝国とも呼ぶ。日本での通称は後ウマイヤ朝であるが、史料や外国の研究者はアンダルスの(またはコルドバの)ウマイヤ朝とよぶ。.

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修辞学

修辞学(しゅうじがく、ρητορική、 rhetorica、 rhetoric)は、弁論・叙述の技術に関する学問分野。雄弁術、弁論術、説得術、レトリックとも。 欧州古代・中世で教養の中核を成していたが、近代に衰退。古代・中世の教育規範である自由七学芸の内の一つ。基本的には演説の技術で、いかに聴衆を納得させるかを目的とするかなり政治的なもの。そのため修辞学では、聴衆の心理操作が大きな位置を占め、さらに、演説をより魅力的に見せるために、身ぶりや発声法なども重要視される。つまり、言語学、詩学、演技論などの総体だった。だが近代ではさまざまな学問に分化し、あくまで言語表現に磨きをかける技術、という領域に押し込められていった。.

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ペチェネグ

ペチェネグとその周辺国。 ペチェネグ(英:Pechenegs)は、8世紀から9世紀にかけてカスピ海北の草原から黒海北の草原(キプチャク草原)で形成された遊牧民の部族同盟。9世紀末に遊牧民のハザール人とオグズ人の圧迫によって黒海北岸の草原に移住し、そこからフィン・ウゴル系の遊牧民マジャル人(後のハンガリー人)、ならびにスラヴ系の農耕民ウールィチ人,ティーヴェルツィ人を追い出した。10世紀を通じてキエフ・ルーシ,ブルガリア,ハンガリー王国,ビザンツ帝国などの隣国と抗争を繰り広げた。11世紀末に、遊牧民のポロヴェツ(クマン、キプチャク)に圧迫されてドナウ川を越え、ビザンツ帝国領内へ移住した。残った人々は、ポロヴェツに同化した。 ペチェネグ人の系統に最も近い現存する民族はガガウズ人である。.

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ナルボンヌ

ナルボンヌ(Narbonne)はフランス南西部、スペイン国境近くの都市。 モンペリエからバルセロナ方面の国際列車が停車する街で、プロヴァンスからトゥールーズ、カルカソンヌやボルドーに向かう時の起点となる街。 紀元前の昔から古代ローマの有力な都市の一つとして重要な役割を持っており、当時のナルボンヌ付近には野生のブドウが自生していたため、退役軍人たちがワインを生産して生計を立てていた。そのためワイン生産の歴史は古く、2006年まで「ミレジム・ビオ」(Millesime Bio)という欧州最大のオーガニックワインの展示会が開催されていた。.

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ペロポネソス半島

ペロポネソス半島(ペロポネソスはんとう、Πελοπόννησος / Pelopónnisos; Peloponnesos)は、ギリシャの大陸部分南端に広がる半島である。ギリシャの「本土」とはコリンティアコス湾およびサロニコス湾で隔てられており、コリントス地峡でつながっている。 「ペロポネソス」は古代ギリシア語での発音(Pelopónnēsos)に由来する表記(長音を表記すれば「ペロポンネーソス」)であり、現代ギリシャ語での発音では「ペロポニソス」となる。このほか「ペロポンネソス」などの表記も用いられる。ヴェネツィア語ではモレア(Morea)と称された。.

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ペスト

ペスト(, )とは、ヒトの体にペスト菌(Yersinia pestis 腸内細菌科 通性嫌気性/グラム陰性/無芽胞桿菌)が感染することにより発症する伝染病である。黒死病(, )とも。.

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ミデヤン人

ミデヤン人(ミデヤンじん、Midian, מִדְיָן )は古代パレスチナのセム系民族の一つ。ユダヤ人に吸収され消滅した。.

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ミカエル3世

ミカエル3世“メテュソス”(ギリシア語:Μιχαήλ Γʹ ὁ Μέθυσος, Mikhaēl III ho Methysos, 840年1月19日または20日 - 867年9月23日または24日)は、東ローマ帝国アモリア王朝の第3代(最後)の皇帝(在位:842年 - 867年)。同王朝第2代皇帝テオフィロスの子。中世ギリシア語読みでは「ミハイル」となる。“メテュソス”は「飲んだくれ」「酔っ払い」を意味するあだ名。.

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ノルマン人

12世紀にノルマン人が征服した地を赤で示す ノルマン人(Normanean)は、スカンディナヴィアおよびバルト海沿岸に原住した北方系ゲルマン人。初期の時点では、「ヴァイキング」という概念とほぼ同じ(同項目を参照)。.

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ノルマンディー公国

ノルマンディー公国(ノルマンディーこうこく、Duché de Normandie)は、ノルマン人が9世紀にフランスに侵入し、その後、次第に地歩を固めて成立したノルマンディー公の公国である。 ノルマン人(ノースマン、ないしはラテン語のNormanni)は、デンマーク人、ノルウェー人、ノルマン・ゲール人、オークニーヴァイキングおよび デーンロウから来たアングロ・デーン人といった様々な民族からなる。 レーエン関係の設定は、おそらくは伯領として、911年にサン・クレール・シュル・エプト協定によりなされたものである。これは西フランク国王シャルル3世単純王の譲歩によるもので、ノルマン人の首長であるロロに対して与えられた。.

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ノルウェー

ノルウェー王国(ノルウェーおうこく、Kongeriket Norge/Noreg)、通称ノルウェーは、北ヨーロッパのスカンディナビア半島西岸に位置する立憲君主制国家である。首都は半島南端部に存在するオスロフィヨルドの奥に形成された港湾都市のオスロで、東にスウェーデン、ロシア、フィンランドと国境を接している。 国土は南北に細長く、海岸線は北大西洋の複数の海域、すなわちスカゲラック海峡、北海、ノルウェー海およびバレンツ海に面している。海岸線には、多くのフィヨルドが発達する。この他、ノルウェー本土から約1,000キロメートル (km) 離れた北大西洋上のヤン・マイエン島は固有の領土の一部として領有され、スヴァールバル条約によりバレンツ海のスヴァールバル諸島を領有している。南大西洋にブーベ島を属領として持つ。 による高負担高福祉の福祉国家として知られ、OECDの人生満足度(Life Satisfaction)ではスイスに次いで第2位となった(2014年)。.

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マー・ワラー・アンナフル

マー・ワラー・アンナフル(ما وراء النهر Mā-warā' an-Nahr)とは、中央アジア南部のオアシス地域の歴史的呼称である。 アラビア語で「川の向うの土地」を意味する言葉で字義通りにはアム川北岸の地域を指し堀川「マー・ワラー・アンナフル」『中央ユーラシアを知る事典』、487頁久保「マー・ワラー・アン=ナフル」『岩波イスラーム辞典』、939頁、ギリシア語やラテン語で書かれたヨーロッパの史料に見られる「トランスオクシアナ(Transoxiana、オクサス川(アム川)より向こうの地)」と同じ意味を持つ間野「マー・ワラー・アンナフル」『新イスラム事典』、466頁川口『ティムール帝国』、116頁。日本では、英語読みの「トランスオキジアナ」と表記されることもある。実際にはアム川とシル川の間の地域を指す言葉として使われ、その領域には、今日のウズベキスタンとタジキスタン、それにカザフスタンの南部とクルグズスタンの一部が含まれている。北はカザフステップ、西にカスピ海、南東に天山山脈とパミール高原が位置し、西南にキジルクム砂漠とカラクム砂漠が広がる。北から南、西から東へ向かうにつれて海抜高度が上がり、一年を通じて乾燥した気候にあり、気温の年較差は大きい。 「マー・ワラー・アンナフル」と呼ばれる地域は、イスラーム以前のサーサーン朝がアケメネス朝の行政単位をそのまま用いてソグディアナと呼んでいた領域とほぼ重なる。また、サマルカンドやブハラなどのマー・ワラー・アンナフル南部の地域はかつてのソグディアナの名称がそのまま残り、特に「スグド地方( بلاد سغد bilād-i Sughd)」とも呼ばれ、現在のタジキスタンのソグド州に名称が受け継がれている。 「マー・ワラー・アンナフル」は主としてイスラーム化後の時代を指して使用される語であり松田「マーワラー・アンナフル」『アジア歴史事典』8巻、381頁、イラン(イーラーン)と対峙する地域であるトゥーラーン( توران Tūrān)と呼ばれた地域とほぼ同一である。ティムール朝の時代にはマー・ワラー・アンナフルとトゥーラーンの呼称が併用され、トゥーラーンはアム川からホータンの境界に至る広範な地域を指し示していた。 7世紀以降、アラビア語、ペルシア語の地理書などでは、マー・ワラー・アンナフルの領域はおおよそアム川(ジャイフーン川)を西境とし、東はシル川(サイフーン川)までの地域を指す場合が多かった。マー・ワラー・アンナフルの北限は不明確であり、イスラーム時代の初期にはアラブの征服地の範囲とほぼ一致し、15世紀のティムール朝の歴史家ハーフィズ・アブルーはシル川より北の地域をマー・ワラー・アンナフルに含めていた川口『ティムール帝国』、115-116頁。テュルク(トルコ)系民族の諸勢力が多いシル川よりも北の地域は「トルキスタン」と呼ばれ、10世紀末からマー・ワラー・アンナフルのテュルク化が進行すると、シル川以北の地域と同じようにトルキスタンと呼ばれるようになる。シル川以北の「東トルキスタン」に対して、この地域は「西トルキスタン」と呼称されることもある。トルキスタンの地名が広まった後、「マー・ワラー・アンナフル」の呼称は雅称としても使われるようになる。.

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ノース人

ノース人(Nordmän)は、北欧全体に広がった古代スカンディナヴィアの人々(主にノルウェー人)で、ヴァイキングにも含まれる。スヴェーア人(主にスウェーデン人)とは呼び名で区別されることもあるが、人種的にその境界線はないといっていい。 ノース人という名称の由来は「北方からやってきた人々」で、彼らはフィンランドをはじめ、西はカナダやグリーンランド、東はウクライナやエストニアにまで進出し、各地でノース人の国を作った。特にスコットランドに渡ったノース人はケルト系民族と混合して、独自の氏族社会をつくった。フランスのノルマンディーは、ここに、フランス国王より土地を与えられたヴァイキングの呼称、ノルマン人に由来する。 ノース人は北ゲルマン語に属する古ノルド語を使っていた。古ノルド語は、のちにデンマーク語やアイスランド語、ノルウェー語、スウェーデン語へ分岐する。.

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ノーサンブリア

ノーサンブリア(英:Northumbria、古英語:Norþanhymbra rīce)は、アングロサクソン人が築いた七王国のうち最北、現在のノーサンバランドにあったアングル人の王国である。 王国の範囲は現在の行政区で言えば、ノース・イースト・イングランド、ヨークシャー・アンド・ザ・ハンバー、カンブリアを含むノース・ウェスト・イングランド、そしてスコティッシュ・ボーダーズまでの範囲に渡る。またハンバー川より北の地方がこう呼ばれ、ハンバー以南の地方はサウサンブリアと呼ばれた。 ノーサンブリアには、という2つの王国が並存していた。これらはときに対立し、ときに統一されてノーサンブリア王国 (6~10世紀) という1つの国になり、そしてまた分裂するということを繰り返した。2つの王家の伝説的な祖先が、オーディンの双生の息子、ベルデーグとウェグデーグとされているところからも、これらがもとは同じ部族であったことが推察される。.

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マディーナ

アル=マディーナ・アル=ムナウワラ(المدينة المنوّرة)または単にマディーナ(المدينة)は、アラビア半島の都市で、マッカ(メッカ)に次ぐイスラームの第2の聖地である。メディナともいう。.

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マインツ

マインツ大聖堂 マインツ大聖堂内部 第二次大戦で破壊された教会 マインツ(Mainz)は、ドイツ連邦共和国の都市。ラインラント=プファルツ州の州都。中世よりマインツ大司教の司教座聖堂の所在地であり、活版印刷の発明者ヨハネス・グーテンベルクの出身地でもある。一時フランス領であった時期には、フランス語のマイエンス(Mayence)の名で呼ばれた。.

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マウリキウス

マウリキウス(Flavius Mauricius Tiberius,Mauricius, 539年 - 602年11月27日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第5代皇帝(在位:582年 - 602年)。.

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マケドニア王朝 (東ローマ)

1025年 バシレイオス2世没時のマケドニア王朝東ローマ帝国の版図 マケドニア王朝(マケドニアおうちょう、Μακεδονική Δυναστεία)は、東ローマ帝国中期の王朝(867年 - 1057年)。.

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マケドニア朝ルネサンス

マケドニア朝ルネサンス(マケドニアちょうルネサンス、Macedonian Renaissance)とは、10世紀の東ローマ帝国(ビザンツ帝国)における古典の復興と文化の高揚を指し、近年使われるようになった用語である。.

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マジャル人

マジャル人の分布及び割合 ルーマニアにおけるマジャル人の割合 マジャル人(マジャルじん、Magyarok)は、国家としてのハンガリーと歴史的に結びついた民族。マジャール人(Magyár)とも呼ばれる。.

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ネストリウス派

ネストリウス派とは、古代キリスト教の教派の1つ。コンスタンティノポリス総主教ネストリオスにより説かれた。431年のエフェソス公会議において異端認定され、排斥された。これにより、ネストリウス派はペルシャ帝国へ移動し、7世紀ごろには中央アジア・モンゴル・中国へと伝わった。唐代の中国においては景教と呼ばれる。のちアッシリア東方教会が継承した。.

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ハワーリジュ派

ハワーリジュ派(الخوارج )は、イスラーム教の初期に多数派(のちのスンナ派とシーア派)から政治的理由で分離することで成立した派。ハワーリジュは「出ていった者・離反した者」を意味し、単数形はハーリジー である。広義にはウンマが合意したイマームに対して謀反を企てる者、狭義にはアリー軍とムアーウィヤ軍とで交わされた和議に反対し、アリー陣営から離反した者達をいう。 スンナ派においてスンナ派以外の宗派は異端とされるため、しばしば迫害を受けた。また、ハワーリジュ派は多くの宗派に分裂しており、主要な分派だけで6つあるとされるが、その大部分はウマイヤ朝の圧力を受け消滅し、現存するものはその分派の1つで穏健派のイバード派のみである。 現代においては、自派以外のムスリムを不信仰者として武力行使する集団や、反体制派に対してのレッテルとしても使われ、しばしば弾圧される。例としてワッハーブ派が興った際に、ハナフィー学派のイブン・アービディーンがそれらを「現代のハワーリジュ派」として糾弾した。.

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ハンガリー

ハンガリー(Magyarország)は、中央ヨーロッパの共和制国家。西にオーストリア、スロベニア、北にスロバキア、東にウクライナ、ルーマニア、南にセルビア、南西にクロアチアに囲まれた内陸国。首都はブダペスト。 国土の大部分はなだらかな丘陵で、ドナウ川などに潤される東部・南部の平野部には肥沃な農地が広がる。首都のブダペストにはロンドン、イスタンブールに次いで世界で3番目に地下鉄が開通した。.

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ハンガリー大平原

ハンガリー大平原 (Alföld, Nagy Alföld )とはハンガリーの東部及び南部、東スロバキア低地、ウクライナ南西部、トランスカルパティア低地、ルーマニア西部、セルビア北部、クロアチア東部を占める平原であり、カルパチア盆地の中で一番大きい面積を有する平原である。.

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ハーラル1世 (ノルウェー王)

ハーラル1世(古ノルド語:Haraldr hinn hárfagri、ノルウェー語:Harald Hårfagre、アイスランド語:Haraldur hinn hárfagri、850年頃 - 930年頃)は、ノルウェー最初の統一王とされる人物(在位:872年頃 - 930年頃)である。.

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ハーン

ハーン(可汗、合罕、qaġan/qaγan、khaan)は、北アジア、中央アジア、西アジア、南アジアにおいて、主に遊牧民の君主や有力者が名乗る称号。古い時代の遊牧民の君主が名乗った称号カガン(古テュルク語: - qaġan/qaγan)はその古形である。.

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ハドリアノポリスの戦い

ハドリアノポリスの戦い(ハドリアノポリスのたたかい、Proelium Hadrianopolitanum)は、378年におこなわれた、ローマ帝国皇帝ウァレンス率いるローマ軍とゴート族との戦闘である。この戦いでローマ軍は敗退し、以後トラキア地方はゴート族に占領されることになった。英語表記によるアドリアノープルの戦いとも称される。.

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ハインリヒ1世 (ドイツ王)

ハインリヒ1世(Heinrich I., 876年 - 936年7月2日)は、ザクセン公(在位:912年 - 936年)および東フランク王(ドイツ王、在位:919年 - 936年)。ザクセン朝の初代国王。それまでのフランク王国において行われてきた分割相続の慣例を廃し、世代を越えた永続的な国家領域を形成する基礎を築いた。また、マジャル人に対する防衛戦に成功し、北方のデーン人、東方の西スラヴ人と戦い、王国領土を拡張させた。.

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ハザール

ハザール(突厥文字:、Khazar、ヘブライ文字:הכוזרים)は、7世紀から10世紀にかけてカスピ海の北からコーカサス、黒海沿いに栄えた遊牧民族およびその国家。支配者層はテュルク系民族と推測されている。交易活動を通じて繁栄した。アラビア語、ペルシア語資料では خزر Khazar と書かれている。日本語ではハザル、ハザリア、ホザールあるいはカザールと表記されることもある。.

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ハサン・イブン・アリー

ハサン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ(()‎ 624年 – 669年)は、アリー・イブン・アビー=ターリブとファーティマ・ザフラーの子で、ムハンマドの初孫。スンナ派からは第5代正統カリフとして、また大部分のシーア派ムスリムから第2代イマームとして扱われるが、弟フサインを第2代として扱うシーア派分派もある。いずれにしろアフル・アル=バイト(ムハンマドの「御家」の人々)としてスンナ派、シーア派のいずれにおいても重要な人物である。.

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バチカン

バチカン市国(バチカンしこく、Status Civitatis Vaticanae、Stato della Città del Vaticano)、通称バチカンは、ヨーロッパにある国家で、国土面積は世界最小である(ただし、国際連合加盟国のみの場合はモナコになる)。ヴァチカンやバティカン、ヴァティカンとも表記される。 なお、経済指標はイタリアに統合される。.

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バルト人

1200年ごろのバルト部族: 薄茶系エリア、東バルト人 緑系エリア、西バルト バルト人(balti、baltai、ラトガレ語: bolti)は、バルト海東南岸付近(現在のリトアニアと、ラトビア)に居住するバルト語派を話す民族をいう。古くからバルト海の東南にある南のヴィスワ川、ダウガヴァ川、また ドニエプル川 北方が囲まれている地域に居住したインド・ヨーロッパ語族のグループから来ている。 地域にある数多くの湖や沼沢はバルト人を外の世界から切り分けていたため、バルト語派は多くの古代語の特徴を保っている。バルト人の中には現代のリトアニア人、ラトビア人とラトガレ人(東バルト人の民族)がいれば、言語も文化が絶えてしまったプロイセン人、ヨトヴィング人とガリンド人 も皆バルト人であった。 このように東バルト語を母語とする東バルト人と西バルト語を母語とする西バルト人に分けられる。 遺伝的には印欧語族の担い手ハプログループR1a (Y染色体)が40%ほどの高頻度であるが、ウラル語族に関連するハプログループN (Y染色体)も40%ほどみられ、バルト人の基層にウラル系民族があることを示唆している。.

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バルカン半島

バルカン半島(バルカンはんとう、Balkans、Balcania)は、ヨーロッパの南東部で、ギリシャ、アルバニア、ブルガリア、マケドニア、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴビナ、コソボ、ヴォイヴォディナ(スレム、バチュカ、バナト)及びトルコのヨーロッパ部分(ボスフォラス海峡以西)からなる地域である。バルカン半島の北限はしばしばドナウ川とサヴァ川とされているが、歴史的な繋がりの深いルーマニアや、旧ユーゴスラビア連邦のスロヴェニア(1991年以前の旧ユーゴスラビアの大部分がドナウ川またはサヴァ川以南)をバルカンに含めることもあり、必ずしも定まった地域概念ではない(バルカン山脈に詳しい)。オスマン語でバルカンは森林山脈を意味する。.

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バルセロナ

バルセロナ(Barcelona、 バルサローナ)は、スペイン・カタルーニャ州バルセロナ県のムニシピ(基礎自治体)。カタルーニャ州の州都であり、バルセロナ県の県都である。2017年に独立を宣言したカタルーニャ共和国の首都にもなっている。人口はマドリードに次いでスペインで第2位、カタルーニャでは第1位である。.

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バグダード

バグダード(/ラテン文字表記:Baghdad, Baġdād)は、イラクの首都で同国最大の都市。また、バグダード県の県都でもある。アッバース朝によって建設された古都であり、中東諸国ではイスタンブール、テヘランに次ぐ大都市である。2005年の人口はおよそ590.4万人。日本語では多くの場合バグダッドと表記されるが、アラビア語の綴りと発音(bæɣˈdæːd)に近づけるとバグダードという表記になる。 バグダードは、2003年3月のイラク戦争でアメリカ合衆国・イギリス両国を主力とする軍の攻撃を受け、同年4月に制圧されたのち、連合国暫定当局(CPA)本部が置かれた『日本大百科全書』(2004)原隆一執筆分。その後、2004年6月にはイラク暫定政権への主権移譲がなされ、イラク移行政府を経て2006年にはイラク正式政府が成立し、現在に至っている。.

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バスラ

バスラ(アル=バスラ、, al-Baṣrah)は、イラク南東、シャットゥルアラブ川の右岸にある港湾都市。.

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バスク人

バスク人(バスクじん、vascos, euskaldunak)とは、ビスケー湾岸でピレネー山脈西端部にある、伝統的にバスク地方として知られる地域に元来居住している系統不明の民族。文脈によって、以下のどちらかを指す。.

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ポルトガル

ポルトガル共和国(ポルトガルきょうわこく、República Portuguesa、República Pertuesa)、通称ポルトガルは、南ヨーロッパのイベリア半島に位置する共和制国家である。北と東にスペインと国境を接し、国境線の総延長は1,214kmに及ぶ。西と南は大西洋に面している。ヨーロッパ大陸部以外にも、大西洋上にアソーレス諸島とマデイラ諸島を領有している。首都はリスボン。 ポルトガルはユーラシア大陸最西端の国家である。ヨーロッパで最初に海路で中国や日本など東アジアとの接触を持った。.

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ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ

ムハンマド(محمد、Muḥammad、570年頃 - 632年6月8日)は、イスラム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島中西部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラム教では、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)その他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラム国家を打ち立てた。.

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ムーア人

ムーア人(Moors)は、北西アフリカのイスラム教教徒の呼称。主にベルベル人を指して用いられる。.

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ムアーウィヤ

ムアーウィヤ(, 603年頃 - 680年4月18日)はイスラム教の5人目のカリフで、ウマイヤ朝の初代カリフ(在位:661年 - 680年)である。同名の孫、ウマイヤ朝第3代カリフのムアーウィヤ2世と区別してムアーウィヤ1世とも呼ばれる。全名は.

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ムスリム

ムスリム(مسلم、Muslim)とは、「(神に)帰依する者」を意味するアラビア語で、イスラム教の教徒のことである。.

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メロヴィング朝

メロヴィング朝フランク王国 メロヴィング朝(メロヴィングちょう、Mérovingiens, Merovingian dynasty, Merowinger)は、ゲルマン人(西ゲルマン)であるフランク族の支族のサリ族が築いたフランク王国における最初の王朝である。 メロヴィングの名は、始祖クロヴィスの祖父メロヴィクスにちなむ。4子に分割相続して以後、分裂・内紛を繰り返して衰退した。.

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メッカ

メッカ(مكة Makkah )は、サウジアラビアのマッカ州(歴史的にいえばヒジャーズ地域)の州都である。正式名はマッカ・アル=ムカッラマ(مكة المكرمة Makkah al-Mukarramah 「栄光あるマッカ」)。別名、ウンム・アル=クラー(أم القرى Umm al-Qurā 「町々の母」)。サウジアラビア政府は、1980年代に当市の名前の公式な英語表記を、西洋人が以前から一般に用いてきた綴りである Mecca から Makkah に改めた。.

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モラヴィア

モラヴィア(Moravia)は、チェコ共和国東部の地方。チェコ語ではモラヴァ(Morava)、ドイツ語ではメーレン(Mähren)と呼ばれる。面積は約26,000km2稲野「モラビア」『東欧を知る事典』新版、574-575頁。.

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モラヴィア王国

ワトプルクの治世期 (871-894) に最も拡大したモラヴィア王国の版図。 キュリロスの像(モラヴィア地方・オロモウツにある三位一体柱の一部) モラヴィア王国 (Veľkomoravská ríša) は、9世紀から10世紀初頭にかけて栄えたスラヴ人の王国。大モラヴィア王国などとも表記される。現在のモラヴィア、スロヴァキア辺りの地域を支配した。.

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モルドンの戦い

モルドンの戦い(モルドンのたたかい, 英語:Battle of Maldon)は、エゼルレッド2世の代の西暦991年8月10日、イングランドのエセックスにあるモルドンの近郊で起きた戦闘である。モルドンの太守が侵入してきたヴァイキングを迎え撃ち、敗北に終わった。アングロサクソン年代記にはこのときのヴァイキング側の首領はオーラフ・トリュグヴァッソン(オーロフ1世)であったという記述があるが改竄の可能性が高い。.

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ユーグ・カペー

ユーグ・カペー(Hugues Capet、940年頃 - 996年10月24日)は、ロベール家の出身でフランスのカペー朝を開いた。フランス王(在位:987年 - 996年)。年幼くして家督を相続した当初はその力量からロベール家領の多くを失ったが、カロリング朝が断絶したことにより王位を継承、彼の子孫はしだいに勢力を回復した。以後ヴァロワ朝からブルボン朝へと血統を繋げ、フランス革命からナポレオンの時代を除いた七月王政まで、800年以上フランスの王権を保った。史家の多くはこのユーグ・カペーの王位継承をもってフランク王国が終わりフランス王国が始まったと解釈している。.

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ユスティニアヌス1世

ユスティニアヌス1世(Justinianus I, 483年 - 565年11月14日)は、東ローマ帝国ユスティニアヌス王朝の第2代皇帝(在位:527年 - 565年)。正式名は、フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(Flavius Petrus Sabbatius Iustinianus)。 後世「大帝」とも呼ばれたように、古代末期における最も重要な人物の一人である。その治世は東ローマ帝国史における画期的な時代をなし、当時の帝国の版図を押し広げた。これは、野心的だが最終的には失敗した「帝国の再建」(renovatio imperii)に特徴づけられる。この野望はローマを含む西ローマ帝国の領土を部分的に回復したことに表される。しかしその栄光の時代も、543年の黒死病()が終わりの印となった。帝国は領土的縮小の時代に入り、9世紀まで回復することはなかった。 ユスティニアヌスの遺産の重要な側面は、ローマ法を統合して書き直した『ローマ法大全』(Corpus Iuris Civilis)であり、これは多くの現代国家の大陸法の基礎であり続けている。彼の治世はまた初期ビザンティン文化の興隆にも印され、彼の建築事業はハギア・ソフィア大聖堂のような傑作を生みだし、これは800年以上にわたって東方正教会の中心となった。 東方正教会では聖者と見なされており、ルーテル教会の一部からも祝福されている。反対に同時代のプロコピオスはユスティニアヌスを「残忍で強欲そして無能な統治者」として見ていた。 ユスティニアヌス1世の治世に関する主な史料は、歴史家プロコピオスが提供している。散逸したシリア語によるエフェソスのヨハネスの年代記は後代の年代記の史料となり、多くの付加的な詳細を知ることに貢献している。この2人の歴史家は、ユスティニアヌスと皇后テオドラに対して非常に辛辣である。また、プロコピオスは『秘史』(Anekdota)を著しており、ここではユスティニアヌスの宮廷における様々なスキャンダルが述べられている。ほかの史料としては、アガティアス、メナンデル・プロテクトル、ヨハネス・マララス、復活祭年代記、マルケリヌス・コメス、トゥンヌナのウィクトルが挙げられる。.

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僧院

僧院(そういん、monastery、sangharama)とは同一の信仰を持つ出家修行者僧が、共同生活を行うための施設。.

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ヨハネス12世 (ローマ教皇)

ヨハネス12世(Ioannes XII、937年 - 964年5月14日)は、ローマ教皇(在位:955年 - 964年)。教会慣用名はヨハネ。.

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ヨハネス・スキュリツェス

ヨハネス・スキュリツェス (Ἰωάννης Σκυλίτζης, Ioannes Scylitzes) は、11世紀後半東ローマ帝国の歴史家。1040年代初頭に生まれ、1101年以降に死去した。.

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ヨーロッパ

ヨーロッパ日本語の「ヨーロッパ」の直接の原語は、『広辞苑』第5版「ヨーロッパ」によるとポルトガル語・オランダ語、『デジタル大辞泉』goo辞書版「」によるとポルトガル語。(、)又は欧州は、地球上の七つの大州の一つ。漢字表記は欧羅巴。 地理的には、ユーラシア大陸北西の半島部を包括し、ウラル山脈およびコーカサス山脈の分水嶺とウラル川・カスピ海・黒海、そして黒海とエーゲ海を繋ぐボスポラス海峡-マルマラ海-ダーダネルス海峡が、アジアと区分される東の境界となる増田 (1967)、pp.38–39、Ⅲ.地理的にみたヨーロッパの構造 ヨーロッパの地理的範囲 "Europe" (pp. 68-9); "Asia" (pp. 90-1): "A commonly accepted division between Asia and Europe...

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ヨーロッパ史

西暦814年頃のヨーロッパ ヨーロッパ史(ヨーロッパし)とは、ヨーロッパにおける歴史である。欧州史(おうしゅうし)とも呼ばれる。.

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ランゴバルド人

ランゴバルド人(ランゴバルドじん、,,,,, )、またはランゴバルド族(ランゴバルドぞく)は、6世紀後半にイタリア半島の大部分を支配する王国(ランゴバルド王国)を築いたことで知られるゲルマン系部族である。日本語ではしばしば英語形に基づきロンバルドとも表記される。.

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ランス・オ・メドー

ランス・オ・メドー(L'Anse aux Meadows)は、カナダ東部、ニューファンドランド・ラブラドール州のニューファンドランド島最北端にある考古遺跡。1978年にユネスコの世界遺産(文化遺産)に登録された。カナダ国定史跡にも指定されている。語源はフランス語で「くらげの入り江」を意味する L'Anse-aux-Méduses から来ている。ランソメドウズとも。 1960年、ノルウェー人の探検家とその妻で考古学者のが発見した。コロンブスが北米に上陸する以前の年代にバイキングが持ち込んだとされる鉄釘をイングスタッド夫妻が発見し、これによりコロンブスの「新大陸発見(西洋人視点)」説は覆った。.

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ラヴェンナ

ラヴェンナ(Ravenna)は、イタリア共和国エミリア=ロマーニャ州にある人口約15万人の基礎自治体(コムーネ)。ラヴェンナ県の県都である。 古代ローマ時代から中世にかけて繁栄した都市で、ラテン語ではラウェンナ(Ravenna)と呼ばれる。西ローマ帝国や東ゴート王国が首都を置き、東ローマ帝国ラヴェンナ総督領の首府であった。「ラヴェンナの初期キリスト教建築物群」はユネスコの世界遺産に登録されている。.

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ラツィオ州

ラツィオ州(Lazio)は、イタリア共和国中部にある州。州都はイタリアの首都であるローマ。 州人口は約570万人で、ミラノを擁するロンバルディア州、ナポリを擁するカンパニア州に次いで第3位である。.

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ラテン語

ラテン語(ラテンご、lingua latina リングア・ラティーナ)は、インド・ヨーロッパ語族のイタリック語派の言語の一つ。ラテン・ファリスク語群。漢字表記は拉丁語・羅甸語で、拉語・羅語と略される。.

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ライン川

ライン川(ラインがわ、阿:Rhy、巴 / Rhein、Rijn、Rhin、Rhine、Rhenus)は、ヨーロッパを流れる川。 スイスアルプスのトーマ湖に端を発し、ボーデン湖に入りドイツ・フランスの国境を北に向かう、ストラスブールを越えてカールスルーエの少し南からドイツ国内を流れ、ボン、ケルン、デュッセルドルフ、デュースブルクなどを通過しオランダ国内へと入ったあと2分岐し、ワール川とレク川となりロッテルダム付近で北海に注いでいる。 全長1,233km。そのうちドイツを流れるのは698kmである。ドイツにとっては特に重要な川であり、ライン流域を主軸のひとつとしてドイツ史は展開していった。また、ドイツ語の名詞には男性名詞、女性名詞、中性名詞があるが、河川のほとんどは女性名詞であるのに対し、ライン川、マイン川、ネッカー川などごく少数の川だけは男性形であらわされる。そのこともあって、ドイツ人はこの川を「父なる川」と呼んでいる。ドナウ川とともに、外国の船が自由に航行する国際河川の一つ。 下流地域は川幅が広く流れが穏やかなため、水運が盛んである。バーゼルから河口までのライン川流域圏はブルーバナナ(「太平洋ベルト」の西欧版)の一部を成す。また、産業革命の中心地のひとつとなったルール工業地帯もライン川とルール川に挟まれる形で位置しており、その充実した内陸水路と豊富な地下資源によって発達した。.

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リューリク朝

リューリク朝(ロシア語:Рюриковичи ウクライナ語:Рюриковичі、ベラルーシ語:Рурыкавічі)は、リューリクを高祖とする公家で、9世紀から16世紀半ばにかけてキエフ大公国、ハールィチ・ヴォルィーニ大公国、モスクワ大公国などの東欧諸国を統治した君主の公朝である。.

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リーベ

リーベ(Ribe、Ripen リペン)は、デンマークのユトランド半島南西部に位置する町。2007年1月1日まではリーベ市とリーベ県の中心であったが、行政改革で南デンマーク地域のエスビャウ市に編入された。人口は8,192人(2011年1月1日)。.

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リベラル・アーツ

自由七科と哲学 リベラル・アーツ(liberal arts)とは、.

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リカーブボウ

リカーブボウ(recurve bow)はアーチェリーにおいてオリンピック競技に使用されている弓。日本で最も普及している。リム本体のカーブに対し、両端に「反り」があるためリカーブボウと呼ばれる。 大きく分けて「ワンピースボウ」(ハンドル・リムが一体の弓)と「テイクダウンボウ」(ハンドルとリムが別の部品の弓)の2つに分かれる。現在は「テイクダウンボウ」が主流。弓の構成は主に、ハンドルライザー、リム、スタビライザー、サイトからなっている。 なお、リカーブボウからスタビライザー、サイト、クリッカー、プランジャーなどを外して原始的な体型の弓がベアボウになる。競技の規定範囲内でのスタビライザーの使用は認められる。.

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ルーマニア

ルーマニアは、東ヨーロッパに位置する共和制国家。南西にセルビア、北西にハンガリー、北にウクライナ、北東にモルドバ、南にブルガリアと国境を接し、東は黒海に面している。首都はブカレスト。 国の中央をほぼ逆L字のようにカルパティア山脈が通り、山脈に囲まれた北西部の平原をトランシルヴァニア、ブルガリアに接するワラキア、モルドバに接するモルダヴィア、黒海に面するドブロジャの4つの地方に分かれる。 東欧では数少ないロマンス系の言語であるルーマニア語を公用語として採用している国家であるが、宗教的には東方教会系のルーマニア正教会が多数派である。いっぽう北西のポーランドはスラヴ語派のうち西スラヴ語群に属するポーランド語が主に話されているが、宗教的にはカトリック教会が支配的であり、ルーマニアとは好対照をなしている。.

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ルイ4世 (西フランク王)

ルイ4世(フランス語:Louis IV d'Outremer, 920年9月10日 - 954年9月10日)は、西フランク王国(カロリング朝)の国王(在位:936年 - 954年)。ドイツ語ではルートヴィヒ4世(Ludwig IV)。シャルル3世(単純王)とイングランド王エドワード(長兄王)の娘エドギヴァの息子。.

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レバント

レバントまたはレヴァント(Levant)とは、東部地中海沿岸地方の歴史的な名称。厳密な定義はないが、広義にはトルコ、シリア、レバノン、イスラエル、エジプトを含む地域。現代ではやや狭く、シリア、レバノン、ヨルダン、イスラエル(およびパレスチナ自治区)を含む地域(歴史的シリア)を指すことが多い。歴史学では、先史時代・古代・中世にかけてのこれらの地域を指す。 レヴァントは英語の発音だが、もとはフランス語のルヴァン (Levant) で、「(太陽が)上る」を意味する動詞「lever」の現在分詞「levant」の固有名詞化である。.

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レヒフェルトの戦い

レヒフェルトの戦い(レヒフェルトのたたかい、Schlacht auf dem Lechfeld)は、955年8月10日、東フランク王オットー1世指揮下の東フランク軍が、侵入してきた(ハンガリー)の騎馬民族ウゴル系マジャル人(ハンガリー人)を撃退した戦い。.

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レオ3世 (ローマ教皇)

レオ3世(ラテラノ宮殿のモザイク画) レオ3世(Papa Leo III、750年? - 816年6月12日)は、ローマ教皇(在位:795年12月26日 - 816年6月12日)。.

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レオ8世 (ローマ教皇)

レオ8世(Leo VIII、? - 965年3月1日)は、ローマ教皇(在位:963年 - 965年)。在位のうち963年から964年の間は対立教皇とする場合もある。 ローマの名門貴族出身。教皇就任前はプロトセリヌス(protoserinus、書記学校の監督者)という役職に就いていた。神聖ローマ帝国皇帝オットー1世が召集した963年12月のローマでの教会会議において、教皇ヨハネス12世の廃位が決定されるとともに教皇位に選出される。 しかしこの就任に際して、俗人から教皇座に就くまでの幾つもの叙階の儀式を急いで2日間で行ったため、ローマ市民など多くの人々から不満に思われていた。964年2月にオットー1世がローマから去ると、レオ8世は不満分子を恐れてローマから逃避し、代わって前任のヨハネス12世がローマに戻った。その後すぐにヨハネス12世が急死し、ローマの大衆は後任にベネディクトゥス5世を選出した。 ローマに戻ったオットー1世は街を包囲。その意に従ってベネディクトゥス5世は助祭に降格させられ、そしてレオ8世は自らの手でベネディクトゥス5世からパリウムを剥がし取った(964年6月)。これ以降レオ8世への抵抗はなかったとされ、よってこの時点から死亡する965年の3月頃までの期間をレオ8世が真の教皇であった期間と考えるのが妥当である。 レオ8世の復位を決めた教会会議において、オットー1世とその後継者たちにイタリア統治者としての叙任権をレオ8世が与えたという通説に対して、現在、それを示す文書の正当性には疑問があると言われている。 一説には、レオ8世は腹上死したとも伝えられる。 れお08 れお08 れお08.

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レオーン6世

レオーン6世の肖像が描かれた銅貨 レオーン6世“ソフォス”または“フィロソフォス”(ギリシア語:Λέων Ϛʹ ὁ Σοφός, Leōn VI ho Sophos または ὁ Φιλόσοφος, ho Philosophos, 866年9月1日あるいは9月19日 - 912年5月11日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の第2代皇帝(在位:886年 - 912年)。中世ギリシア語読みでは「レオン」となる。“ソフォス”は「賢者」を、“フィロソフォス”は「哲学者」を意味するあだ名である。 マケドニア王朝の開祖バシレイオス1世と、彼の二人目の妻のエウドキア・インゲリナとの間に生まれた。しかし、エウドキア・インゲリナは867年にミカエル3世がバシレイオス1世に暗殺されるまでミカエル3世の愛人であった。そのため866年に生まれたレオーンと、867年(ミカエル3世の暗殺直後)に生まれたステファノスはミカエル3世の息子である可能性を否定できない。こうした噂は既にレオーンの出生直後から広く流布していたようである。なお兄のコンスタンティノスはバシレイオス1世の最初の妻であるマリアとの間に生まれた子供である。これが事実だとすれば公式上、バシレイオス1世の子孫となっているレオーン6世をはじめとするマケドニア王朝の幾人かの皇帝達は実はミカエル3世の子孫であり、アモリア王朝の血統は1056年まで存続したことになる。 870年には共同皇帝として戴冠された。872年頃には一時幽閉されていたフォティオスが召喚され、レオーンらバシレイオス1世の息子たちの家庭教師となった。本来レオーンは権力の座につく予定はなかったが、879年に、後継者であった兄コンスタンティノスが没したためレオーンがバシレイオス1世の跡を継ぐことになり、882年に母親のエウドキア・インゲリナの一族のテオファノと結婚した。しかしテオファノと結婚した直後に母が没するとバシレイオス1世とレオーンの関係は急速に悪化した。そして883年には謀反の疑いをかけられて後継者の地位を剥奪され、宮殿内の一室に886年7月まで3年あまり幽閉されていた。レオーンが幽閉された要因、そして復権できた要因についてはなお定説はない。 レオーンが復権した直後にバシレイオス1世が急死したため、その権力を継承した。すぐに彼は当時コンスタンティノポリス総主教に復帰していたフォティオスを更迭し、弟のステファノスを総主教に任命した。 レオーン6世の治世は、前半はレオーンの復帰に尽力したステュリアノス・ザウツェスが実権を振るったとされている。彼はレオーンの愛人で後に二人目の妻となったゾエ・ザウツァイナの父親である。レオーンは後に彼にバシレオパトル(「皇帝の父」、あるいは「宮廷の長」の意味)の地位を創設して与えた。ただし最近の研究によると、ステュリアノスの権力は、従来想定されていたほど強力なものではなかったようである。899年にステュリアノスが没し、ザウツェス一族が失脚すると、それに代わってザウツェス一門の陰謀を通報した宦官のサモナスが実権を握った。彼は当時東ローマ軍で重きをなしていたアンドロニコス・ドゥークスと対立した。アンドロニコス・ドゥークスはバグダードに亡命したが、この事件にはサモナスが関与していたとされている。なおアンドロニコスの息子のコンスタンティノス・ドゥークスは後に復帰している。 レオーンはフォティオスを追放したものの、少年時代にその教えを受けて多方面に渡る学識を身につけており、たくさんの典礼詩や世俗詩、演説などを残した。また首都の商工業者の組合に関する法令集『総督の書』や6世紀のユスティニアヌス1世が編纂させた『ローマ法大全』のギリシャ語改訂版である『バシリカ法典』などの法律書の編纂をもさせている。 このように、内政面・文化面では功績を残したレオーンだったが、対外関係ではいくつか失敗を犯している。893年に第一次ブルガリア帝国のシメオン1世と開戦した。レオーンは当時ドナウ川北岸にいたマジャル人と同盟してブルガリアを挟撃したが、896年にはブルガロフュゴンでブルガリアに敗北して、毎年貢納金を支払う条件で和平を結んだ。なおこの時マジャル人も敗走して、現在のハンガリー平原に侵入することになる。 西方の領域でも敗北が続いた。888年にはミラッツォ沖でイスラーム艦隊に敗北を喫した。902年にはシチリア島で事実上最後の拠点であったタオルミナが陥落した。またエーゲ海の奥深くにまでイスラーム艦隊が侵入して各地を荒らし、904年には帝国第二の都市テッサロニキが襲撃され、多くの犠牲者を出した。イスラーム艦隊に対してレオーン6世はヒメリオスを艦隊司令官に任じて反撃を行わせた。ヒメリオスは当初大きな成果を挙げるが、911年のクレタ島遠征は完全な失敗に終わっている。また907年にはキエフ・ルーシの艦隊がコンスタンティノポリスを攻撃している(:en:Rus'–Byzantine War (907))。一方アナトリア半島東部では帝国の領域をユーフラテス川の東側にまで拡大し、テマ・メソポタミアを設置した。 レオーンには長い間後継者となる男子が生まれなかったため、私生活の面でもトラブルを起こした。最初の妻テオファノが897年頃に病死すると、898年に年来の愛人ゾエ・ザウツァイナと結婚したが、ゾエは翌年病死。その後3度目の妃エウドキア・バイアナを迎えたが、レオーン自身が三度目の結婚を禁止する法律を発布していたために、教会に反対された。 901年にはエウドキアも死去。レオーンには未だに子供がいないままだったので、4番目の妃であるゾエ・カルボノプシナ(ヒメリオスの一族)を迎え、905年についに息子のコンスタンティノス(のちのコンスタンティノス7世)が生まれた。当初、側近で学友でもあった総主教のニコラオス1世ミュスティコスはコンスタンティノスの認知のみ承認することで事態を収拾しようとしたが、レオーンがゾエとの正式な結婚に踏み込んだ(「四婚問題」)ために態度を硬化させた。その結果ニコラオス1世は906年のクリスマスおよび翌年の神現祭では、レオーンはハギア・ソフィア大聖堂への立ち入りを禁じた。そのためレオーン6世はニコラオス1世を解任し、自身の信任する修道士エウテュミオスを後任とした。しかしこれはニコラオス派とエウテュミオス派の対立を惹起することになってしまう。 912年5月11日に病死した。コンスタンティノス7世がまだ幼かったため、バシレイオス1世の代から共同皇帝の地位にあったアレクサンドロスが後継者となった。 Category:東ローマ皇帝 Category:マケドニア家 Category:866年生 Category:912年没.

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ロマンス諸語

マンス諸語(ロマンスしょご)は、インド・ヨーロッパ語族イタリック語派ラテン・ファリスク語群に属する言語のうち、ラテン語の口語である俗ラテン語に起源をもつ言語の総称である。ロマン諸語、ロマンス語、ロマン語とも言う。 また、ラテン・ファリスキ語群のことをロマンス語群、イタリック語派のことをロマンス語派と言うこともある。 方言連続体についての論議の際、しばしばロマンス系諸語の近似性について言及される。これは近代言語学の父・フェルディナン・ド・ソシュールが一般言語学講義の中でフランス語とイタリア語は一つの方言連続体であり、「明確な境界線を引くことは難しい」と記している事からも窺える。ロマンス諸語は個々の言語である前にラテン語の方言であるともいえる。.

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ロムルス・アウグストゥルス

ムルス・アウグストゥルス(Romulus Augustulus, 460年 - 511年~536年)は、西ローマ帝国最後の皇帝(在位:475年 - 476年)。ホノリウス帝から数えて13人目の皇帝である。.

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ロンドン

ンドン(London )はグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国およびこれを構成するイングランドの首都。イギリスやヨーロッパ域内で最大の都市圏を形成している。ロンドンはテムズ川河畔に位置し、2,000年前のローマ帝国によるロンディニウム創建が都市の起源である。ロンディニウム当時の街の中心部は、現在のシティ・オブ・ロンドン(シティ)に当たる地域にあった。シティの市街壁内の面積は約1平方マイルあり、中世以来その範囲はほぼ変わっていない。少なくとも19世紀以降、「ロンドン」の名称はシティの市街壁を越えて開発が進んだシティ周辺地域をも含めて用いられている。ロンドンは市街地の大部分はコナベーションにより形成されている 。ロンドンを管轄するリージョンであるグレーター・ロンドンでは、選挙で選出されたロンドン市長とロンドン議会により統治が行われている。 ロンドンは屈指の世界都市として、芸術、商業、教育、娯楽、ファッション、金融、ヘルスケア、メディア、専門サービス、調査開発、観光、交通といった広範囲にわたる分野において強い影響力がある。また、ニューヨークと並び世界をリードする金融センターでもあり、2009年時点の域内総生産は世界第5位で、欧州域内では最大である。世界的な文化の中心でもある。ロンドンは世界で最も来訪者の多い都市であり、単一の都市圏としては世界で最も航空旅客数が多い。欧州では最も高等教育機関が集積する都市であり、ロンドンには大学が43校ある。2012年のロンドンオリンピック開催に伴い、1908年、1948年に次ぐ3度目のオリンピック開催となり、同一都市としては史上最多となる。 ロンドンは文化的な多様性があり、300以上の言語が使われている。2011年3月時点のロンドンの公式の人口は817万4,100人であり、欧州の市域人口では最大で、イギリス国内の全人口の12.7%を占めている。グレーター・ロンドンの都市的地域は、パリの都市的地域に次いで欧州域内で第2位となる8,278,251人の人口を有し、ロンドンの都市圏の人口は1200万人から1400万人に達し、欧州域内では最大である。ロンドンは1831年から1925年にかけて、世界最大の人口を擁する都市であった。2012年にマスターカードが公表した統計によると、ロンドンは世界で最も外国人旅行者が訪れる都市である。 イギリスの首都とされているが、他国の多くの首都と同様、ロンドンの首都としての地位を明示した文書は存在しない。.

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ロングシップ

ーセベリ(Oseberg)のロングシップ (バイキング船博物館、ノルウェー) オーセベリのロングシップを前方より見る。ノルウェーの美術と職人技の最も美しい造形 風を受けて帆走するロングシップ ロングシップ(英:longship)は、主にスカンディナヴィアのヴァイキングとサクソン人によって、ヨーロッパ中世に海岸や内陸の集落を襲うために用いられた船である。ロングシップはしばしばロングボートとも呼ばれるが、ロングシップの方がより正確である。ロングシップは、遠距離の航海を要する貿易・商売にも、またアイスランドやグリーンランド、さらに遠くまでの探検航海にも用いられた。ロングシップの形状は数世紀を経て改良され続けており、9世紀まで発展を遂げた。ノルウェーでは、伝統的なロングシップが13世紀まで利用され、その特徴や外観は20世紀初頭まで西ノルウェーの造船技術に影響を残した。 ロングシップの特徴は、優美で、長く、細い形状と、速度を優先して喫水が浅く軽い木製の船であることである。喫水が浅いことで、水深がほんの1 mの場合でも航海でき、海浜に乗り上げる速度も速く、また軽いことで陸路輸送のために担いでいくことも可能にした。ロングシップは前後が対称となっており、後退も素早く行えた。ロングシップには、ほぼ全長に渡ってオールが取り付けられた。後世には1本マストに方形帆が付けられ、特に長い航海の間の漕ぎ手の労を軽くした。 ロングシップは当時のスカンジナビア海軍力の縮図であり、価値ある財産であった。所有者の多くは海岸に住む農夫であり、戦争の場合は強力な海軍を造り上げるために王によって就役させられた。バイキングは戦時にロングシップを用いたが戦闘用というよりも輸送用であった。10世紀の戦闘では船をつなぎ合わせて白兵戦のための堅固な土俵となった。イギリスのような敵国からはドラゴンシップとも呼ばれた。.

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ローマ

ーマ(Roma、Roma)は、イタリアの首都。欧州有数の世界都市であり、ラツィオ州の州都、ローマ県のコムーネの一つで、ローマ県の県都でもある。英語とフランス語の表記は「Rome」。.

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ローマ帝国

ーマ帝国(ローマていこく、Imperium Romanum)は、古代ローマがイタリア半島に誕生した都市国家から、地中海にまたがる領域国家へと発展した段階以降を表す言葉である。従って厳密には古代ローマの体制が共和制だった頃を含んでいる。最盛期には地中海沿岸全域に加え、ブリタンニア、ダキア、メソポタミアなど広大な領域を版図とした。シルクロードの西の起点であり、古代中国の文献では大秦の名で登場する。 帝国という訳語があてられている事から、狭義にはオクタウィアヌスがアウグストゥスの尊称を与えられた紀元前27年からの古代ローマを指す場合もある。しかし、本来の表現からすればこの場合は帝政ローマ、またはローマ帝政期とした方が正確である。.

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ローマ法

ーマ法(ローマほう、römisches Recht、droit romain、Roman law、dreptul roman、derecho romano)とは、狭義には古代ローマや中世の東ローマ帝国の法体系であり、広義には中世の西ヨーロッパで復活し発展した普通法(ユス・コムーネ)としてのローマ法も含む。古代ギリシア哲学やキリスト教とともに、ヨーロッパ文明を特徴付ける一大要素である。.

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ローマ法大全

『ローマ法大全』(ローマほうたいぜん、Corpus Iuris Civilis)は、東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世が編纂させたローマ法の法典である。ユスティニアヌス帝の名をとった『』を含む。.

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ヴァリャーグ

ヴァリャーグ(古東スラヴ語: 、、古ノルド語: 、、、)とは、スラヴ語名によるヴァイキング(ヴィーキング)である。複数形はヴァリャーギ(古東スラヴ語: 、ギリシア語: 、ウクライナ語: 、ベラルーシ語: 、ロシア語: )。 東スラヴ人による呼称でゲルマン人の一派を指す。一般的には、スウェーデン・ヴァイキング(ノルマン人、移動ルートも参照)の事であると現代では解釈されている。ロシアでは15世紀までスウェーデン人をヴァリャーグと呼んでいた。 実のところは、民族系統については不明との説もあり、ノルマン人と似た習俗があったとされ、一般的に東スラヴ人による呼称でゲルマン人の一派を指し、スカンディナヴィアから出てロシア平原に出現したヴァイキングの事とされているが、物的証拠の乏しさもあり、あくまで移動ルートは推測である。.

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ヴァリャーグからギリシャへの道

地図中の青線(バルト海上の紫線を含む)が「ヴァリャーグからギリシャへの道」を示す ヴァリャーグからギリシャへの道(ヴァリャギからグレキへの道)(Путь из варяг в греки、Vägen från varjagerna till grekerna、Εμπορική Οδός Βαράγγων - Ελλήνων)は、河川にそってルーシを縦断し、またバルト海を越えてスカンディナヴィア、黒海を越えて東ローマ帝国へも至る水上交易路である。8世紀から13世紀にかけて存在したこの交易路を通して、バルト海沿岸に住むヴァリャーグは、行動範囲を東欧南部やアナトリア半島まで拡大させた。またルーシの商人は、この道をスカンディナヴィアやコンスタンティノープルとの交易のために利用した。ルーシの歴史を記した『原初年代記』では、この道は「из Варягъ въ Грѣкы」(ヴァリャギからグレキへ)と記されている。 (留意事項)以下の「主幹ルート」・「分岐ルート」の名称は、説明上便宜的に用いた用語である。また「ルーシ」はおおよそキエフ大公国の支配領域を指す。地名は現在の現地の言語の転写表記よりも、歴史学的文献等において一般的と思われる表記を優先している。.

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ヴァンダル族

ヴァンダル族のローマ略奪(455年) ヴァンダル族(Vandal)は、古代末期にゲルマニアから北アフリカに移住した民族。ローマ領外の蛮族による民族移動時代にローマ領内へ侵入して北アフリカにまで進軍し、カルタゴを首都とするヴァンダル王国を建国した。彼らが北アフリカに進出する前に一時的に定着したスペインのアンダルシア(もともとはVandalusiaと綴った)や、破壊行為を意味するヴァンダリズムの語源ともなっている。 近代まではゲルマン系の部族と考えられていたが、現代ではポーランド地方のプシェヴォルスク文化に起源を持つスラブ系あるいはイリュリア系民族であったと考えられている。.

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ヴァイキング

'''ヴァイキングの航海''' 緑色はヴァイキングの居住地(植民地)、青線は経路、数字は到達年。黒海やカスピ海、北アメリカ大陸のニューファンドランド島にも到達している ヴァイキング(Viking、Viking、Wikinger)とは、ヴァイキング時代(Viking Age、800年 - 1050年)と呼ばれる約250年間に西ヨーロッパ沿海部を侵略したスカンディナヴィア、バルト海沿岸地域の武装船団(海賊)を指す言葉。 彼らは北方系ゲルマン人で、ゲルマン民族移動の時代には南下(デーン人のユトランド半島進出など)により、西ヨーロッパとより近く接触するようになったが、9世紀に入って侵略などを活発化させた。 後の研究の進展により、ヴァイキングは「その時代にスカンディナヴィア半島、バルト海沿岸に住んでいた人々全体」を指す言葉に変容した。そういった観点からは、ノルマン人とも呼ばれる。中世ヨーロッパの歴史に大きな影響を残した。西洋生活様式と思想は、個人主義がヴァイキングのイデオロギーに影響を受ける。 ヴァイキングは海賊・交易・植民を繰り返す略奪経済を生業としていたのではなく、ノルウェーの考古学者であるヘイエルダールが述べたように、故地においては農民であり漁民であった。http://www.history.com/topics/exploration/vikings-history--> また、ヴァイキングたちの収益の大部分が交易によるものだったと言われている。この事実から、ヴァイキングたちにとっても航海の主たる目的は交易であり、略奪の方がむしろ例外的なものだったと考えられる。金になるブリテン諸島、イベリア半島、イタリア半島、バルカン半島、ヨーロッパロシア、スカンディナヴィア半島、北アフリカ、西アジアとの交易路。例えばヴァリャーグからギリシャへの道でコンスタンティノープルとの貿易、ヴァイキングの通商路である。.

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ヴェネツィア共和国

ヴェネツィア共和国(薄赤)の領域はポー平原北部からイストリア半島、ダルマチアに及んでいた。1494年時点の状況 最も高貴な共和国ヴェネツィア(もっともこうきなきょうわこく ヴェネツィア、Serenìsima Repùblica de Venexia(Venessia)、Serenissima Repubblica di Venezia)、通称ヴェネツィア共和国(ヴェネツィアきょうわこく、、)は、現在の東北イタリアのヴェネツィアを本拠とした歴史上の国家である。7世紀末期から1797年まで1000年以上の間に亘り、歴史上最も長く続いた共和国である。「最も高貴な国」や「アドリア海の女王」とも呼ばれる。東地中海貿易によって栄えた海洋国家であった。また、信教の自由や法の支配が徹底されており、元首の息子であっても法を犯せば平等に処罰された。.

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ヴェルダン条約

ヴェルダン条約(-じょうやく、独Vertrag von Verdun)は、843年にフランク王国(カロリング朝)の王ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世)の死後、遺子であるロタール、ルートヴィヒ、カールがフランク王国を3分割して相続することを定めた条約。 ヴェルダン条約で定められた国境 この条約によって東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国が誕生し、それぞれ現在のドイツ・フランス・イタリアの原型が形成された。870年メルセン条約が再画定した。.

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ヴォルガ川

最上流の町・ルジェフ周辺(1909年から1915年頃のカラー写真) ヴォルガ川流域 ヴォルガ川(ヴォルガがわ、 ヴォールガ)は、ロシア連邦の西部を流れる、ヨーロッパ州最長の川で、ロシア主要部(ヨーロッパ・ロシア中心部)を水系に含む「ロシアの母なる川」でもある。全長は3,690kmにおよぶ。.

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ヴォルガ・ブルガール

ヴォルガ・ブルガール(タタール語:İdel Bolğarı、チュヴァシ語:Атăлçи Пăлхар、ロシア語:Волжская Булгария、英語:Volga Bulgaria)は、7世紀から13世紀にかけて、 ヴォルガ川とカマ川の合流点周辺に存在した国家である。ヴォルガ・ブルガールの領域は、今日のロシア連邦内のタタールスタン共和国とチュヴァシ共和国の領域に相当し、ヴォルガ・タタール人、チュヴァシ人は、ヴォルガ・ブルガール人の末裔とみられている。.

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ヴォーティガン

ヴォーティガン(英: Vortigern)とは、5世紀、七王国時代のブリタンニア(現在のグレートブリテン島)に存在したと伝えられるブリトン人諸侯。ヴォーティガーンとも記載され、英語では Vortiger ないし Vortigen とも記載される。当時ブリトン人が支配していたイングランドと対峙するスコット人、ピクト人に抗するためにヨーロッパ大陸から傭兵としてサクソン人をケントの地に招き入れた人物として知られる。しかし彼の行動はサクソン人のイングランドへの移住、侵攻、先住者ブリトン人との抗争を招き、争いに敗れたブリトン人はウェールズの地に敗走する事となった。 彼の名は6世紀の修道士ギルダスの『ブリトン人の没落』の23章に Gurthrigern という名で、サクソン人をイングランドに招き入れた傲慢で見識のない王として書かれている。そして8世紀にはノーサンブリアの歴史家ベーダ・ヴェネラビリスが著書『イングランド教会史』に残しており、9世紀のウェールズに生きた修道士ネンニウスの『ブリトン人の歴史』にその存在が記されている。また七王国時代における重要な資料である『アングロサクソン年代記』の449年の項目にも言及され、七王国時代が終わった時代にも12世紀の歴史家モンマスのジェフリーが残した『ブリタニア列王史』にその名は残されている。 彼の存在は文学的にも注目され、前述の「ブリタニア列王史」にその名が見られた事からアーサー王伝説の登場人物の一人として取り上げられる事となり、さらに後年になってシェイクスピア外典の題材としても取り扱われている。サクソン人の侵攻を誘発した人物として古くから名が記されている事から歴史の流れにおいて彼の役割をした人物は存在すると考えられているが、史的人物としてのヴォーティガンの実在性は、はっきりとしていない。 Category:七王国時代の人物 Category:アーサー王伝説の人物 Category:ケルト.

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ボルドー

ボルドー(Bordeaux)は、フランス南西部の中心的な都市で、ヌーヴェル=アキテーヌ地域圏の首府、ジロンド県の県庁所在地である。アキテーヌ公国の首府だった。.

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ヌルシアのベネディクトゥス

ヌルシアのベネディクトゥス(羅:Benedictus de Nursia, 480年頃 - 547年)は、中世のキリスト教の修道院長で、西方教会における修道制度の創設者と呼ばれ、ベネディクトスの著した会則は西ヨーロッパに広く普及し、やがて「西欧修道士の父」と称されるようになった『ラルース 図説 世界人物百科I』(2004)pp.248-250。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会および正教会で聖人。ベネディクトやベンディクトとも表記され、イタリア語ではベネデット(Benedetto)と呼ばれる。正教会ではノルシヤの克肖者聖ベネディクトと称される。 カトリック教会においては、教会の聖堂名や保護聖人名、個人の霊名、その他において「聖ベネディクト」と記載・表記した場合、このヌルシアのベネディクトゥスを表すことが多い。 529年ころイタリアのローマとナポリの間にあるモンテ・カッシーノ(イタリア共和国ラツィオ州)に修道院を設け、540年ころ修道会則(戒律)を定めて、共同で修道生活を行った。彼の戒律に従った修道会の一つをベネディクト会と呼ぶ。.

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ボヘミア

ボヘミア(Bohemia、Čechy、Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。 この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに気に入られた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。 '''ボヘミア''' チェコ西部から中部に位置する緑色の部分.

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ボニファティウス3世 (ローマ教皇)

ボニファティウス3世(Boniface III, ? - 607年11月12日)は、第66代ローマ教皇(在位:607年2月19日 - 11月12日)。 Category:教皇 Category:ローマ出身の人物 Category:6世紀生 Category:607年没.

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ボエティウス

ボエティウス アニキウス・マンリウス・トルクアトゥス・セウェリヌス・ボエティウス(Anicius Manlius Torquatus Severinus Boethius、480年 - 524年か525年)は、イタリアの哲学者、政治家。.

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トラキア

トラキア(Thracia、Trakya)は、バルカン半島南東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。.

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トルソー

トルソ(torso)は、人間の頭部・両腕・両脚、すなわち五体を除いた胴体部分のこと。「木の幹」や「胴体」を意味するイタリア語に由来する。トルソーとも言う。.

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トゥールのグレゴリウス

トゥールのグレゴリウス(Gregorius Turonensis、538年頃11月30日 - 594年11月17日)は、ガロ・ローマ人の歴史家、聖職者、メロヴィング朝治下アウストラシアのトゥール司教。ガリア聖職者集団の主導的立場にあった。生まれたときにゲオルギウス・フロレンティウス(羅:Georgius Florentius)と名付けられたが、後に母方の曽祖父に敬意を表してグレゴリウスの名が加えられた。彼は後期の俗ラテン語で著述したが、自身の著作が多くの聴衆に届くようにという入念な策略であったとされる。著作は後代の年代記作家により付けられた『フランク史』(羅:Historia Francorum)の名で知られる『歴史十巻』(羅:Decem Libri Historiarum)が有名で、また著書「聖人伝」もメロヴィング朝期ガリアの生活や信仰の貴重な史料である。.

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トゥール・ポワティエ間の戦い

トゥール・ポワティエ間の戦い(トゥールポワティエかんのたたかい、Bataille de Poitiers、معركة بلاط الشهداء)は、732年にフランス西部のトゥールとポワティエの間で、フランク王国とウマイヤ朝の間で起こった戦い。ツール・ポアティエの戦いとも表記する。.

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ヘラクレイオス

ヘラクレイオスまたはヘラクレイオス1世(希:Ἡράκλειος, Hērakleios, 羅:Heraclius, 575年頃 - 641年2月11日)は、東ローマ帝国中期の皇帝(在位:610年 - 641年)。ヘラクレイオス朝の開祖。「ヘラクレイオス」はギリシア神話の英雄ヘラクレスにちなんだ名で、中世ギリシア語読みでは「イラクリオス」。ラテン語では「ヘラクリウス」となる。また、称号として「バシレウス」を名乗った。 サーサーン朝ペルシア帝国との6年にわたる戦いに勝利し、奪われた領土を回復したものの、当時勃興してきたイスラム帝国に敗れ、サーサーン朝から奪い返した領土は再び失われた。 また彼の治世は、東ローマ帝国の公用語がラテン語からギリシア語へ変わり、軍事権と行政権が一体化したテマ(軍管区)制が始まるなど(テマ制の起源に付いては諸説あり)、古代のローマ帝国から「キリスト教化されたギリシア人のローマ帝国」と呼ばれるような、ギリシア的要素の強い「中世ローマ帝国」の幕開けとなった。.

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ヘント

市庁舎 鐘楼 ベギン会小修道院 ヘント(Gent、Gand、Ghent古くは) は、ベルギー・フランデレン地域のオースト=フランデレン州にある都市で、同州の州都。(ベルギーの言語事情についてはベルギー#言語を参照)。 南東に位置するブリュッセル、北東に位置するアントウェルペンに次ぐベルギー第3の都市。南西に位置するフランスのリールにも近い。花の都市という異名を持つ。日本では、英語(Ghent)あるいはドイツ語(Gent)由来のゲント、フランス語(Gand)由来のガンの名で呼ばれることも多い。 フーベルト・ファン・エイクとヤン・ファン・エイクの代表作である「神秘の子羊」を所蔵することでも知られている。.

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ヘーゼビュー

ヴァイキング時代のデンマーク。南端にヘゼビューがある。 ヘゼビューに復元された家屋。 半円状に築かれた土塁。(ハッデビ・ノールが背景に写っている)。 ヘーゼビュー(英、、、「荒れ地」の意)は、かつてデンマークのヴァイキングが居住した重要な定住地。ルーンの綴りを復活させたドイツ名ヘイタブ(Haithabu)でも知られる。 中世デンマークにおいて、ロスキレ(Roskidle)、オーフス(Aarhus)、リーベ(Ribe)(en:Ribe)、ヴィボー(Viborg)、イェリング(Jeling)、リンホルム(en:Lindholm_(Aalborg))、ルンド(Lund)などともに大規模な都市であったとされる。 ヘーゼビューは、こんにちシュライ・フィヨルド(de:Schlei)として知られるバルト海へと通じる狭いながら航行可能な入り江の一番奥に発展した商業地だった。河口が北海に通じるエルベ川の支流トゥレーネ川までの陸上輸送が15km未満であるなどヘーゼビューは立地条件に恵まれていた。荷物やヴァイキング船は陸路で運搬出来た。このルートはバルト海と北海の間をほとんど航路を途切れさせず危険なユトランド廻航も回避することが可能だったためヘゼビューは利便性の高い町となり、ヴァイキング時代を通じて北欧諸国で最大かつデンマークで最も古い都市になった。 1864年オーストリアとプロイセン王国の間で勃発した第二次シュレースヴィヒ=ホルシュタイン戦争でデンマークはヘーゼビューを含む領地を失った。国境地域を巡る争いとそれによる国境の移動の結果ヘーゼビューの遺跡は現在ドイツ最北のシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州にある。 ほぼ1000年前に放棄されたが、ヘーゼビューは現在非常に重要な遺跡である。遺跡が発掘された後、1985年に博物館が開館された。.

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ブリトン人

ブリトン人(Britons, Brythons)は、前ローマ時代にブリテン島に定住していたケルト系の土着民族である。単に「Briton」というと近代英国民のことを指すので学術上、この民族集団を指すときは「ブリテン諸部族(British tribes)」、「古代ブリトン人(ancient Britons)」、または「ブリトン民族(ethnic Britons)」とも呼ばれる(このような書き分けはケルト系語族の区分け、ブリタニック語とゲール語の違いを語る時に用いられる)。 なおブリソン(Brython)という言葉はウェールズ語からの借用で、民族言語学上のブリトン(Briton)と区別するための単語である。.

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ブリソン諸語

ブリソン諸語(ブリソンしょご、Brythonic languages)、もしくはブリトン諸語(Brittonic languages、British languages)とは、島嶼ケルト語からの分岐語族の一つ。もう一方の分岐はゲール語。ブリソニック(Brythonic)の表記は、ウェールズのケルト学者ジョン・ライスによって、(アングロ・サクソン人やゲール人ではない)土着のブリトン人を意味するウェールズ語のブリソン(Brython)から名付けられた。ブリトニック(Brittonic)の表記は、ギリシャ人の著述家による、ブリテン諸島を指すPrettanicが起源である。およそ紀元600年以降に変更が加わったブリソン諸語を指してブリトン諸語(Brittonic)の用語を使う場合もある。.

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ブリタニカ百科事典

ブリタニカ百科事典(ブリタニカひゃっかじてん、)は、英語で書かれた百科事典である。110人のノーベル賞受賞者と5人のアメリカ合衆国大統領を含む4,000人以上の寄稿者と専任の編集者約100人によって書かれており、学術的に高い評価を受けている。 英語の百科事典としては最古のものであり、今もなお製作されている。1768年から1771年にかけて、エディンバラで3巻の百科事典として発行されたのが始まりである。収録された記事は増えていき、巻数は第2版で10巻、第4版(1801年から1810年)では20巻となった。学術的な地位の向上は高名な寄稿者を招くのに役立ち、第9版(1875年から1889年)と第11版(1911年)は、文体と学術的知識において画期的なものとなった。版権が米国に移った第11版からは北米市場に売り込むため短く簡潔な記事となっていった。1933年、ブリタニカは百科事典としては初めて継続的な改訂が行われるようになった。2012年3月ブリタニカ社は、紙の書籍としての発行を取り止めオンライン版 に注力すると発表し、2010年に32巻で印刷されたものが紙の書籍としては最後となった。 1972年より日本語版もあり、『ブリタニカ国際大百科事典』(Britannica International Encyclopædia)として出版されている。 第15版からは三部構成となっている。短い記事(ほとんどが750語以下からなる)のマイクロペディア(小項目事典)12巻、長い記事(2~310ページ)のマクロペディア(大項目事典)19巻、そして知識を系統立てる、もしくは概観を示すプロペディア(総論・手引き)1巻である。マイクロペディアは簡単な調べ物やマクロペディアの手引書としての役割を担っている。記事の概観や詳細を知るためにはプロペディアを閲覧することが推奨されている。ブリタニカはおよそ50万の記事が約4000万語で記述されており、70年以上ほぼ一定に保たれている。1901年以降は米国を拠点に出版されてきたが、主にイギリス英語で書かれている。.

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ブルッヘ

ブルッヘまたはブリュッヘ、ブルグ、ブラヘなど(フラマン語(オランダ語):Brugge )、ブリュージュ(仏語:Bruges )、ブルージュ(英語:Bruges )は、ベルギー北西部、フランデレン地域の都市で、ウェスト.

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ブルガリア正教会

ブルガリア正教会(ブルガリアせいきょうかい)は、世界の正教会とフル・コミュニオンの関係にある独立正教会の一つ。ブルガリアを中心にブルガリア人の間で信仰されている正教会の一組織である。.

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ブルガール人

ブルガール人(Прабългари、Bulgars)は、中世において中央アジアから移動し東ヨーロッパで活動したテュルク系遊牧民で、人種はモンゴロイドに属していた。 ブルガール人の中で広い地域に分散した部族のうち、バルカン半島のドナウ川下流域からトラキア地方に侵入した一派はブルガリア帝国を建国、キリスト教の正教会信仰を取り入れ、先住民であるコーカソイドの南スラヴ人に言語的にも人種的にも同化されて、現在のブルガリア人の先祖となった。そのためにプロト・ブルガリア人ともいう。.

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ブルグントのアーデルハイト

ブルグントのアーデルハイト(Adelheid von Burgund, 931/932年 - 999年12月16日)は、イタリア王妃、東フランク王妃、そして最初の神聖ローマ帝国皇后。カトリック教会の聖人。オットー1世大帝の2番目の妃で、皇帝オットー2世の母親、皇帝オットー3世の祖母である。.

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ブルグント族

ハドリアヌス帝(在位117年-138年)時代のローマ帝国。当時ブルグント族はポーランドのオーデル川とヴィスワ川に囲まれた地域に定住していた。 ブルグント族(英語:Burgundians、ラテン語:Burgundiones)またはブルグンド族は、スカンジナビア半島からボーンホルム島(Bornholm、古ノルド語による古い表記ではBurgundarholmr)、後にヨーロッパ大陸へと移住した東ゲルマン諸語を話すゲルマン人である。『Þorsteins saga Víkingssonar』(バイキングの息子トルスタインの冒険談)でヴェセティ(Veseti)が住んでいた島が「ブルグントの小島(holm)」、すなわちボーンホルム(Bornholm)である。また、アルフレッド大王によるオロシウス(Orosius)著書の古英語翻訳では「ブルグントの土地」(Burgenda land)という名前を使っている。スウェーデンの詩人であり初期の神話学者でもあるヴィクトル・リュードベリ(Viktor Rydberg、1828年-1895年)は、中世初期の文献『Vita Sigismund』に基づき、ブルグント族は自らの起源がスカンジナビアであると口承していた、と述べている。.

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ブルゴーニュ地域圏

ブルゴーニュ地域圏(Bourgogne)は、フランス東部のかつて存在した地域圏(région)。首府はディジョン。人口は 約162万人、総面積は 31.741 km2(1999年)。ブルゴーニュ・ワインの産地として世界的に有名。英語では「バーガンディ」(Burgundy)、ドイツ語では「ブルグント」(Burgund)と呼ばれる。温暖な気候と平坦で耕作に適した土地など、恵まれた自然条件を活かして古くから農耕が盛ん。域内面積は日本の中国地方と、人口は鹿児島県と同程度。.

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ブルジョワジー

ブルジョワジー(Bourgeoisie)は、中産階級の事であり、特に17 - 19世紀においては革命の主体になりうるほどの数と広がりを持つ階層であったが、市民革命における革命の推進主体となった都市における有産の市民階級をさす場合も有る。貴族や農民と区別して使われた。 短くブルジョワ(Bourgeois)ともいうが、これは単数形で個人を指す。20世紀の共産主義思想の下で産業資本家を指す言葉に転化し、共産主義者の間では概ね蔑称として用いられたが、この資本家階級という意味では上層ブルジョワジーのみをさしている。.

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ブルターニュ

ブルターニュ (Bretagne; Breizh ブレイス; ガロ語: )は、フランス北西部にある地域。ブルトン語を意識した際には、ブレイスという名称も用いられる。かつてはブルターニュ王国、そしてブルターニュ公国という独立国だったが、1532年にフランスに併合され州となった。ブルターニュは6つあるケルト国の1つとみなされている。時には、現在のブルターニュ地域圏と区別する目的で「歴史的なブルターニュ」(Bretagne historique、ブルターニュ・イストリック)と呼ばれることもある。 ブルターニュは、フランス北西部、ヨーロッパ大陸の北西に突き出た半島にある。北はイギリス海峡、西はケルト海と大西洋、南をビスケー湾と接している。面積は34,023 km² 。ブルターニュとみなされる県が5つある。西のフィニステール県、北のコート=ダルモール県、北東のイル=エ=ヴィレーヌ県、南東のロワール=アトランティック県、ビスケー湾に面したモルビアン県である。 1956年、これらの県を集めフランスの地域圏がつくられた。ブルターニュ地域圏は、ブルターニュとみなされる5つの県のうち4つで構成される(歴史的なブルターニュの80%を占める)。一方でかつてのブルターニュの一部であるロワール=アトランティック県はペイ・ド・ラ・ロワール地域圏に含まれることになった。この地域圏編成は定期的に論争の種となっている。ブルターニュ王国、ブルターニュ公国、かつてのブルターニュ州、そして現在のブルターニュ地域圏は、ローマ時代にアルモリカとして知られた地方の西部分にあたる。 2010年の調査で、歴史的なブルターニュ人口は概算で4,475,295人であった。これらのうち71%の人口がブルターニュ地域圏で暮らしている。残り29%はロワール=アトランティック県に暮らす。2008年時点の都市圏はナント都市圏(854,807人)、レンヌ都市圏(654,478人)、ブレスト都市圏(311,735人)であった。.

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プラウ

プラウ(英:plough,またはplow)とは、種まきや苗の植え付けに備えて最初に土壌を耕起する農具であり、トラクターの作業機である。.

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プッリャ州

プッリャ州(Puglia)は、イタリア共和国南部にある州。州都はバーリ。 しばしばブーツに喩えられるイタリアの「かかと」に当たる地域で、南東にサレント半島が突き出している。東はアドリア海を隔ててギリシャ・バルカン半島と向き合い、南はターラント湾に面している。肥沃な平原が広がる地形で、古くから穀倉地帯として知られた。古代にはギリシア人が植民都市を築き、次いでローマ人がこの地を征服してアッピア街道を延伸した。以後、東ローマ帝国、ノルマン人・フランス人・スペイン人(シチリア王国・ナポリ王国)など、さまざまな民族や国家の支配を受けた。ターラントやブリンディジなどの港湾都市は古代以来の歴史を有する。.

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パレスチナ

パレスチナの衛星写真 旧国際連盟イギリス委任統治領パレスチナ。当初は現在のヨルダンも含む範囲であった パレスチナ(فلسطين、פלשתינה)は、地中海東岸の歴史的シリア南部の地域的名称。西アジア・中東に位置する。 中世以降の主要な住民はアラビア語を日常語とするムスリム(イスラム教徒)、キリスト教徒、ユダヤ教徒(ミズラヒム)である。前2者とごくわずかのミズラヒムが、近代以降世界各地から移住してきたユダヤ人に対して、パレスチナに在住するアラブ人としてパレスチナ人と呼ばれる。.

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パンデミック

300px パンデミック()あるいは世界流行とは、ある感染症(特に伝染病)が、顕著な感染や死亡被害が著しい事態を想定した世界的な感染の流行を表す用語である。ただし英語のの意味は、「流行」という現象と「流行病」という病気との双方である。前者は不可算名詞で、後者は可算名詞である。 語源はギリシア語の(pandemia)で、(pan, 全て)+ (demos, 人々)を意味する。 2014年現在の世界は、航空機などの輸送機関の発達によりパンデミックが起こりやすい状況になっているため、検疫を行うなど感染症の流入を防ぐ対策がとられている。.

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パヴィーア

パヴィーア(Pavia)は、イタリア共和国ロンバルディア州にある都市であり、その周辺地域を含む人口約7万3000人の基礎自治体(コムーネ)。パヴィーア県の県都。 ミラノの南約30km、ポー川との合流点にほど近いティチーノ川の河畔にあるこの都市には、東ゴート王国やランゴバルド王国が首都を置いた。中世においてはイタリア王権の首都とみなされており、神聖ローマ皇帝は12世紀に至るまでイタリア王としての戴冠式をこの都市で挙行した。1361年に設立されたパヴィーア大学を中心に学問の風土を持つ、閑静な都市である。.

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パクス・ロマーナ

パークスの石像 アウグストゥス治世におけるローマ帝国の版図。緑はアウグストゥスの治世下に徐々に征服された地域を表しており、黄色は紀元前31年の共和政ローマの版図を表し、ピンクの領域は従属国を表している。 パクス・ロマーナ()とは、「ローマの平和」を意味し、ローマ帝国の支配領域(地中海世界)内における平和を指す語である。パクス(パークス)とはローマ神話に登場する平和と秩序の女神である。 エドワード・ギボン 18世紀のイギリスの学者エドワード・ギボンが『ローマ帝国衰亡史』のなかで五賢帝(Five Good Emperors)の時代を「人類史上もっとも幸福な時代」と評し「パークス・ロマーナ」というラテン語の造語で表現してから一般に広まった。 ただし、「五賢帝」とともに美化されたイメージは、今日の歴史学では基本的に支持されていない。.

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ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂と聖ミカエル聖堂

ヒルデスハイムの聖マリア大聖堂(Hildesheimer Dom St.

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ヒジュラ

イスラム教におけるヒジュラ( Hijrah、Hijra)は、西暦622年前後に、ムハンマドとその信者達がメッカでの布教を諦め、アビシニアやヤスリブなどへと移住したことを指す。とくに、ヤスリブへの場合は聖遷と訳される。ヘジラ(Hejira, Hegira)とも音写される。また、ヒジュラのあったとされるユリウス暦622年7月16日を以ってヒジュラ暦の紀元と定められている。 なお、本来アラビア語ではヒジュラは移住を意味し、特に「ある人間関係を断ち切り、新しい人間関係を構築する」というニュアンスを持つ。.

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ヒスパニア

ーマ帝国初期の行政区分 ヒスパニア(Hispania)は、イベリア半島(現在のスペインとポルトガルや、アンドラ・ジブラルタルの領域)の古名である。なお、スペインの現代語での名称(España、Espanha、Espagne、Spagna、Spain、Spanien、Испания、إسبانياなど)は全てこのヒスパニアを語源とする。.

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ヒスパニア・バエティカ

ヒスパニア・バエティカ(ラテン語:Hispania Baetica、ヒスパーニア・バエティカ)は、イベリア半島にあったローマ帝国の属州のひとつ。ヒスパニア・タッラコネンシスを東に接し、ルシタニアを西に接する。現在のスペイン、アンダルシア地方に相当する地域。元老院属州のひとつで、元老院の任命のもとでプロコンスルが統治した。.

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ビュザンティオン

ビュザンティオン()は、ヨーロッパの南東、バルカン半島のトラキアの東端に位置する小さな半島(現在のトルコ領イスタンブールの旧市街地区)の先端部分にあった、古代ギリシア人の建設による都市である。アジア側の対岸にはカルケドンがある。 表記は、ビュザンティオンのほか、ビザンティオン、ビザンティウム、ビザンチウム、とされることもある。 ビュザンティオン、ビザンティオンはギリシア語表記に、ビザンティウム()はラテン語表記に由来している。.

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ビルカ

ビルカ(Birka)は、現在のスウェーデンの首都ストックホルム西方約29kmのメーラレン湖のビェルケ島にあるヴァイキング時代の都市遺跡である。.

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ビザンティン建築

ビザンティン建築(ビザンティンけんちく、Byzantine Architecture)は、東ローマ帝国(ビザンツ帝国、ビザンティン帝国)の勢力下で興った建築様式である。4世紀頃には帝国の特恵宗教であるキリスト教の儀礼空間を形成し、そのいくつかは大幅な補修を受けているものの今日においても正教会の聖堂、あるいはイスラム教のモスクとして利用されている。日本では、ビザンツ建築と呼ばれる場合もある。 ローマ建築円熟期の優れた工学・技術を継承し、早い段階で技術的成熟に達するが、その後、東ローマ帝国の国力の衰退と隆盛による影響はあるものの、発展することも急速に衰退することもなく存続した。 キリスト教の布教活動とともに、ブルガリアやセルビアなどの東欧の東ローマ帝国の勢力圏のみならずロシアあるいはアルメニアやジョージアなど西アジアにも浸透していった。その影響力は緩やかなもので、地域の工法・技術と融合しながら独自の様式を発展させた。また、初期のイスラーム建築にも影響を与えている。 ハギア・ソフィア大聖堂周囲の4本のミナレットはオスマン帝国時代にモスクに転用された際に付け加えられたもの。.

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ピレネー山脈

ピレネー山脈(ピレネーさんみゃく、Les Pyrénées、Los Pirineos、オック語:Los Pirenèus、Els Pirineus、Pirinioak)とは、ユーラシア大陸西端部のイベリア半島の付け根付近をほぼ東西方向に走る、長さ約430 kmの褶曲山脈である。.

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ピピン3世

ピピンの寄進 ピピン3世(ドイツ語:Pippin III, 714年 - 768年9月24日)は、フランク王国の国王(在位:751年 - 768年)。アウストラシアの宮宰だったピピン1世(大ピピン)との対比で、「小ピピン(Pippin der Jüngere)」とも呼ばれる。また、「ピピン短躯王(Pépin le Bref、ペパン・ル・ブレフ)」とも呼ばれる。フランク王国宮宰カール・マルテルの子。はじめネウストリアの宮宰(在職:741年 - 751年)およびアウストラシアの宮宰(在職:747年 - 751年)であったが、メロヴィング朝のキルデリク3世を廃して自ら王位に即き、カロリング朝を開いた。.

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ピピンの寄進

ピピンの寄進の様子 ピピンの寄進とは、756年にフランク王であるピピン3世がローマ教皇にランゴバルド王国を倒して獲得したラヴェンナ地方を寄進した出来事である。ラヴェンナはウマイヤ朝の北アフリカ領を牽制できる拠点であったが、ピピンは765年にアッバース朝のバグダードへ使者を派遣し後ウマイヤ朝を孤立させた。ラヴェンナが一時東ローマ帝国のものであったことから、ピピンの寄進は教皇庁と東ローマ帝国を対立させた。イコノクラスムの最中に行われ、近代まで続く宗教戦争の原因となった。.

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ピクト人

ピクト人(Picts)は、フォース川の北、ローマ帝国支配下の頃にカレドニアと呼ばれていたスコットランド地方に居住していたコーカソイド種族。.

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テマ制

テマ制(テマせい ギリシア語:θέματα、Themata)とは、東ローマ帝国中期の地方行政制度。日本語では軍管区制とも呼ばれる。なお、「テマ」という言葉は元々ギリシャ語で「軍団」を表す言葉であるため、ここで述べるテマ制が開始される前から存在するが、この記事とは異なった意味で使用されていることに注意する必要がある。また、中世ギリシャ語では「セマ」となる。.

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テルトゥリアヌス

テルトゥリアヌス クイントゥス・セプティミウス・フロレンス・テルトゥリアヌス(Quintus Septimius Florens Tertullianus, 160年? - 220年?)は、2世紀のキリスト教神学者。ラテン語で著述を行ったいわゆるラテン教父の系統に属する最初の一人。テルトリアヌスとも。.

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テッサロニキ

アギア・ソフィア聖堂。貴重なイコンや壁画が多く残されている。ギリシャ正教会。 テッサロニキ(Θεσσαλονίκη、ラテン文字転写:Thessaloniki )またはテサロニカ (Thessalonica)(or)は歴史的にはサロニカ(Salonica)の名で知られたギリシャの都市である。テサロニキとも表記する。同国では首都アテネに次ぐ2番目に大きな都市で、中央マケドニアの首府であり マケドニア・トラキア行政管区(Αποκεντρωμένη Διοίκηση Μακεδονίας-Θράκης)の首府でもある。テッサロニキには Συμπρωτεύουσα (Symprotévusa、共同の首都)と言う称号があり、東ローマ帝国時代にはコンスタンティノープルと並びビザンティンに君臨した都市であった。 2011年の国勢調査による統計でのテッサロニキ自治体の人口は322,240人でテッサロニキ自治体と隣接する自治体で構成される都市的地域のテッサロニキ都市圏の人口は790,824人 であった。バルカン半島ではイスタンブール、アテネ、ブカレスト、ソフィア、ベオグラードに次いで6番目に大きな都市圏を形成し、首都でない都市ではイスタンブールに次いで人口が多い都市である。テッサロニキ大都市圏は周辺地域 1455.62km2の範囲で広がり、2011年現在の人口は1,006,730人に達する。テッサロニキはギリシャ第2の都市として、経済や産業、商業、政治の中心であると共に南東ヨーロッパの交通の一大拠点で、テッサロニキ港はギリシャや南東ヨーロッパの後背地にとっては重要な役割を果たしている。 ギリシャにおいて有名な行事が行われたり、様々な時代の遺構が残されていることから文化的な首都であると考えられている。行事には毎年行われるテッサロニキ国際トレードフェアやテッサロニキ国際映画祭などがあり、半年ごとに行われるギリシャ・デゥアスポラの会議が開催される。 2014年の欧州青年首都に選ばれている。 テッサロニキは紀元前315年カッサンドロスによって創建され、以来2,300年の歴史がある都市で、ローマ時代には重要な大都市であった。テッサロニキはビザンティン時代には2番目に富める都市になっており、市内には多くの著名なビザンティン建築が残されている。その中には世界遺産に登録されたテッサロニキの初期キリスト教とビザンティン様式の建造物群も含まれ、同様にローマ時代やオスマン帝国時代のもの、セファルディムの遺構も残されている。 アテネが古代ギリシャを象徴する街なのに対して、中世東ローマ時代のギリシャを象徴する街と言われており、アトス山の修道院共同体もこのテッサロニキが入り口となる。テッサロニキ市のメインとなる大学のアリストテレス大学はギリシャやバルカンでは最大の学生数を誇っている。.

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ティレニア海

ティレニア海(ティレニアかい)は、地中海の海域の一つである。チレニア海とも表記される。イタリア半島の西側に広がり、コルシカ島、サルデーニャ島、シチリア島に囲まれている。 イタリアの首都ローマ、斜塔で有名なピサ、風光明媚な海岸で有名なナポリを初めとして、イタリアの経済の重心が、このティレニア海側に集まっている。この海域では海底での火山活動が活発で、シチリア島の北のエオリア諸島にあるストロンボリ火山は地中海の灯台と呼ばれるほど見事な噴火をする。.

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ティンタジェル

ティンタジェル(英:Tintagel)はイギリス、コーンウォール地方のヴィレッジ、行政教区。大西洋側に面しており、この地に所在するティンタジェル城はアーサー王所縁の城という伝承がある。最近では村は観光として著名になり日帰り旅行の目的地となっている。 現在のティンタジェル村はトレヴェナという名で知られていた。この地はモンマスのジェフリーによってアーサー王の生誕の地として紹介された。また詩人アルフレッド・テニスンもこの地をアーサー王伝説の地として詩『国王牧歌』を歌いあげている。また村にはオールド・ポスト・オフィスという14世紀からの建物がある。この建物は19世紀から郵便局として使われ、現在ではナショナル・トラストの管理下にある。 大規模な発掘は1930年代のラリー・ラドフォードによるものから始まり、この12世紀の遺跡の近辺からティンタジェルは(ラドフォードの説によれば)ケルト人支配者のもので城砦または交易拠点として5、6世紀から存在した事が判明した。この世紀はローマ人がブリテン島から去った時代でもあった。しかし、ワインやオリーブオイルの壷が発見されている事によりローマ系ブリトン人が今まで考えられていたように孤立した辺境に住んでいたわけではなく、地中海から奢侈品の交易がある程度存在した事が分かっている。1998年の発掘で『アーサー王の石碑.

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テオドリック (東ゴート王)

テオドリック(Theodoric, ゴート語:𐌸𐌹𐌿𐌳𐌰𐍂𐌴𐌹𐌺𐍃, 454年 - 526年8月30日)またはテオデリック(Theoderic, Theoderik)は、東ローマ帝国の軍人および政治家で、東ゴート王国の創始者。ラテン語ではテオドリクス (Theodoricus)。しばしばテオドリック大王と呼ばれる。イタリア語ではテオドーリコ (Teodorico)。.

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テオドリック廟

テオドリック廟(Mausoleo di Teodorico)は、東ゴート王国の創始者テオドリックにより造られたテオドリック自身の霊廟である。520年にイタリアのラヴェンナに建設された。 Category:霊廟 Category:ラヴェンナの建築物 Category:エミリア=ロマーニャ州の観光地 Category:ゴート人 Category:イタリアの世界遺産 Category:墓の世界遺産 Category:6世紀の建築物 Category:イタリアの墓地 Category:イタリアのモニュメントと記念建造物.

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テオドシウス1世

テオドシウス1世(フラウィウス・テオドシウス、Flavius Theodosius, 347年1月11日 - 395年1月17日)は、古代ローマ帝国の皇帝(在位:379年 - 395年)。テオドシウス大帝とも呼ばれる。わずか4か月ではあったが、東西に分裂していたローマ帝国を 実質的に1人で支配した最後の皇帝となった。 392年にキリスト教を東ローマ帝国の国教に定め、のちに西ローマ帝国においても同じくした。.

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テオドシウス2世

テオドシウスの城壁 テオドシウス2世“カリグラフォス”(Theodosius II.

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デルベント

デルベント(Derbent)は、ロシア・ダゲスタン共和国にある都市である。ロシア最南端の都市であり、ダゲスタン共和国第2の都市でもある。人口は101,031人(2002年国勢調査)である。アゼルバイジャン人が最も多く、:en:Lezgins、:en:Tabasaran peopleがそれに続く。 アレクサンドロスの門(en)の伝説が残る都市であり、デルベントはロシア最古の都市と言われる。2003年にUNESCOの世界遺産に「デルベントのシタデル、古代城壁、要塞建築物群」の名前で登録された。.

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デンマーク

デンマーク(Danmark, )は、北ヨーロッパのバルト海と北海に挟まれたユトランド半島とその周辺の多くの島々からなる立憲君主制国家。北欧諸国の1つであり、北では海を挟んでスカンディナヴィア諸国、南では陸上でドイツと国境を接する。首都のコペンハーゲンはシェラン島に位置している。大陸部分を領有しながら首都が島嶼に存在する数少ない国家の一つである(他には赤道ギニア、イギリスのみ)。 自治権を有するグリーンランドとフェロー諸島と共にデンマーク王国を構成している。 ノルディックモデルの高福祉高負担国家であり、市民の生活満足度は高く、2014年の国連世界幸福度報告では第1位であった。.

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デヴォン

デヴォン (Devon) は、イングランド南西部の地域であり、デヴォン州 (county of Devon, Devon county) とも呼ばれる。 コーンウォール半島の中部に位置し、西にコーンウォール、東にドーセットとサマセットにそれぞれ接している。かつてはデヴォンシャー (Devonshire) と呼ばれていたが、現在ではいくつかの名称とデヴォンシャー公爵の称号に残っているのみである。地名の "Devon" は、西暦50年ごろに南ブリテンに侵入したローマ人によって、その地に住んでいたケルト人を指してつけられた。Dumnoniiという名前がつけられ、意味は「深い谷に住むもの」という意味である。 4億0800万年前から3億6300万年前を指す地質時代は、デボンに地層が良く分布し、世界で初めてこの時代の地層が研究された事から、この地域にちなんでデボン紀と呼ばれている。.

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デーン人

デーン人(デーンじん。Daner)は、現在のデンマークおよびスウェーデンのスコーネ地方に居住した北方系ゲルマン人(ノルマン人)の一派である。現在のデンマーク人の祖先にあたる。ヴァイキング時代にイングランドおよび西ヨーロッパ一帯に侵攻した。.

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フランク人

Gelasian Sacramentary』。750年頃にメロヴィング朝フランク王国で作られたもので現在はヴァティカン図書館に所蔵されている。 フランク人(フランクじん)またはフランク族(フランクぞく、Franci, Franken, Francs, Franchi, Franks)は、ローマ帝国時代後期から記録に登場するゲルマン人の部族である。一般的にサリー族と(ライン・フランク族)に大別される。前者は西ヨーロッパにおいてフランク王国を建国した事で知られる。 フランクという名前は西暦3世紀半ばに初めて史料に登場する五十嵐 2003, p. 317。記録に残る「フランク(francus または franci)」という言葉の最も古い用例は241年頃の歴史的事実を踏まえたとされるローマ行軍歌においてであり佐藤 1995a, p. 134、これは4世紀に書かれた『皇帝列伝』に収録されて現代に伝わっている。ローマ人はライン川中流域に居住するゲルマン人たちを一括して「フランク人」と呼んでいた。フランク(francus、franci)の語義は「勇敢な人々」、「大胆な人々」、あるいは「荒々しい」「猛々しい」「おそろしい」人々という意味であるとされている渡部 1997, p. 45。 西ヨーロッパ全域を支配する王国を建設したことから、東方の東ローマ帝国やイスラム諸国では、西ヨーロッパ人全般を指す言葉として用いられた事もある。十字軍研究の分野では現代の学者たちもレヴァント十字軍国家を指して「フランク国家」と表現したり、移住したヨーロッパ人全般を指して「フランク人」と言う用語を用いる場合があるグルッセ 1954, pp.

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フランク王国

フランク王国の時代別の領土 フランク王国(フランクおうこく、Royaumes francs、Fränkisches Reich)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(大帝)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・イタリア北部・ドイツ西部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。 この王国はキリスト教を受容し、その国家運営は教会の聖職者たちが多くを担った。また、歴代の王はローマ・カトリック教会と密接な関係を構築し、即位の際には教皇によって聖別された。これらのことから、西ヨーロッパにおけるキリスト教の普及とキリスト教文化の発展に重要な役割を果たした。 フランク王国はメロヴィング朝とカロリング朝と言う二つの王朝によって統治された。その領土は、成立時より王族による分割相続が行われていたため、国内は恒常的に複数の地域(分王国)に分裂しており、統一されている期間は寧ろ例外であった。ルートヴィヒ1世(敬虔王、ルイ1世とも)の死後の843年に結ばれたヴェルダン条約による分割が最後の分割となり、フランク王国は東・中・西の3王国に分割された。その後、西フランクはフランス王国、東フランクは神聖ローマ帝国の母体となり、中フランクはイタリア王国を形成した。 このようにフランク王国は政治的枠組み、宗教など多くの面において中世ヨーロッパ社会の原型を構築した。.

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フワーリズミー

フワーリズミー 1983年のソビエト連邦の記念切手 アル=フワーリズミー(الخوارزمي al-Khuwārizmī)ことアブー・アブドゥッラー・ムハンマド・イブン・ムーサー・アル=フワーリズミー(أبو عبد الله محمد ابن موسى الخوارزمي)は、9世紀前半にアッバース朝時代のバグダードで活躍したイスラム科学の学者である。アッバース朝第7代カリフ、マアムーンに仕え、特に数学と天文学の分野で偉大な足跡を残した。.

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フン族

フン族(フンぞく、Hun)は北アジアの遊牧騎馬民族。中央アジアのステップ地帯が出拠と考えられるが、民族自体の出自についてはかなり以前より「フン」=「匈奴」説などがあるものの、いまだ定説となっていない。言語学的にはテュルク語族に属すると考えられているテュルクの音写として丁零が知られており、中国の秦から漢の時代に匈奴と覇権を争っていたことがわかっている。モンゴル諸語はテュルク諸語、ツングース諸語とともにアルタイ語族にまとめられているが、まだ弱い相関しか知られておらず系統接続ははっきりしていない。。 4世紀中頃から西に移動を始め、これが当時の東ゴート族、西ゴート族を圧迫して、ゲルマン民族大移動を誘発、さらには西ローマ帝国崩壊の遠因ともなった。5世紀中頃のアッティラの時代に統一帝国を築いて最盛期を迎えたが、453年に王の死去、翌年には帝国は瓦解、急速に衰退した。 同じ名称の後裔または後継者がおおよそ4世紀から6世紀に東ヨーロッパと中央アジアの一部に住んでいたと記録されている。フン族の末裔が8世紀前半にカフカスで記録されている。.

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ファールス州

ファールス州(استان فارس Ostān-e Fārs)はイランの州(オスターン)。州都はシーラーズ。面積は122,400km²。ペルシア人の故地であり、1996年現在、人口は380万人、そのうち58%が都市に、42%が農村部に居住している。.

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フィン人

フィン人/スオミ人(フィンランド語: suomalaiset)は、北ヨーロッパに居住する民族の一つ。居住域は「フィンランド」と呼ばれ、現在のこの地域にはフィンランド共和国がある。フィンランド国民(フィンランド人)を構成する主要な民族である。.

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フィン・ウゴル系民族

ーミ人男性とサーミの伝統的なテント フィン・ウゴル系民族(フィン・ウゴルけいみんぞく、Finno-Ugric peoples)とはウラル語族フィン・ウゴル語派の言語を話す民族の総称である。.

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ドナウ川

ドナウ川(ドナウがわ、ラテン語:Danubius、 ドイツ語: Donau )は、ヴォルガ川に次いでヨーロッパで2番目に長い大河である。 ドイツ南部バーデン=ヴュルテンベルク州の森林地帯「シュヴァルツヴァルト(黒い森)」に端を発し、概ね東から南東方向に流れ、東欧各国を含む10ヶ国を通って黒海に注ぐ重要な国際河川である。河口にはドナウ・デルタが広がる。全長は2,850 km。.

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ドニエプル川

ドニエプル川の流域。 ドニエプル川(Дніпро;Дняпро;Днепр)は、ロシアから始まって、ベラルーシを経てウクライナに流れ黒海に注ぐ川である。総延長は、2285km。 日本語表記は、他にドネプル川、ドニェプル川、ドニェープル川などのバリエーションが見られる。ウクライナ語名やベラルーシ語名に沿って表記されることは少ない。.

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ドイツ王国

ドイツ王国(ドイツ語:Deutsches Reich)は、通常は9世紀から10世紀に現在のドイツを中心とする地域を支配した東フランクに成立しシュルツェ、p.

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ドゥムノニア

ドゥムノニア(Dumnonia、ダムノニアまたはヅムノニアとも)は、七王国時代にイングランド西南部を支配していた王国。現在のデヴォン州、サマセット州の大部分、また可能性としてドーセット州の一部も支配しており、ローマ帝国の末裔ブリトン人の王国であった。西の境界線は分かっておらず、コーンウォール州が果たしてドゥムノニアの支配区域になっていたのかどうかは不明。 七王国時代のイングランド(ドゥムノニアは西南の半島部).

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ニケフォロス2世フォカス

ニケフォロス2世フォカス(ギリシア語:Νικηφόρος Βʹ Φωκάς, Nīkēphoros II Phōkas, 913年 - 969年12月10日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:963年 - 969年)。中世ギリシア語読みでは「ニキフォロス」となる。.

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ニコマコス

ニコマコス(Nicomachus、Νικόμαχος、60年頃-120年頃)は、古代世界において重要な数学者で、ギリシア語の著作Introduction to Arithmetic(算術入門)やManual of Harmonicsで知られる。シリア属州のゲラサ(現在ヨルダンのジャラシュ)で生まれ、アリストテレスの影響を強く受けた。新ピタゴラス派であり、数字の神秘的な性質について著した。.

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ホノリウス

フラウィウス・アウグストゥス・ホノリウス(Flavius Augustus Honorius, 384年9月9日 - 423年8月15日)は、西ローマ帝国テオドシウス王朝の最初の皇帝(在位:393年 - 423年)。テオドシウス1世の次男。西ローマ帝国の実質的な滅亡の一因を作った暗君として知られる。.

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ダブリン

ダブリン(Dublin 、アイルランド語:Baile Átha Cliath または Dubh linn)は、アイルランド島東部の都市で、アイルランドの首都である。リフィー川河口に位置し、その南北に町が広がる。 アイルランドの政治・経済・交通・文化の中心地であり、アイルランドの全人口の3分の1がダブリン首都圏に集中するアイルランド国内最大の都市である。欧州有数の世界都市であり、重要な金融センターの一つになっている。 市内にはアイルランド人の権利の拡大に尽力した人々やイギリスからの独立運動のために命を落とした活動家の名前が記念日や通りの名前に多く見られる。ダニエル・オコンネルに因む町の目抜き通りのオコンネル通りやパトリック・ピアースにちなむピアース通り、コノリー駅などが例に挙げられる。これらは本来は別の名前がつけられていたが、1921年の独立後に改名されたものである(オコンネル通りはかつてはサックビル通りと呼ばれていた)。.

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ベネヴェント公国

ベネヴェント公国(ベネヴェントこうこく、Ducato di Benevento)は、中世におけるイタリア最南端のランゴバルド系公国で、ベネヴェント、メッツォジョールノ(南イタリア)を中心としていた。ランゴバルド三侯国のひとつ。.

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ベルベル人

ベルベル人(ベルベルじん)は、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称。北アフリカ諸国でアラブ人が多数を占めるようになった現在も一定の人口をもち、文化的な独自性を維持する先住民族である。形質的にはコーカソイドで、宗教はイスラム教を信じる。 自称はアマーズィーグ(転写: ⴰⵎⴰⵣⵉⵖ)。アマジグ人、アマジク人という呼称もこれ由来である。ベルベルの呼称は、ギリシャ語で「わけのわからない言葉を話す者」を意味するバルバロイに由来し、ヨーロッパの諸言語で Berber と表記されることによる。.

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ベレンガーリオ2世

ベレンガーリオ2世(Berengario II, 900年頃 - 966年7月6日)は、イタリア王(在位:950年 - 961年)、イヴレーア辺境伯(在位:928年 - 950年)。ベレンガーリオ2世・ディヴレーア (Berengario II di Ivrea) と呼ばれる。イヴレーア辺境伯アダルベルト1世とイタリア王ベレンガーリオ1世の娘ジゼラとの息子。.

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ベーダ・ヴェネラビリス

『イギリス教会史』の歴史家ベーダ・ヴェネラビリス(ニュルンベルク年代記より) ベーダ(Beda, Bade, Bæda, 672年/673年 - 735年5月26日)はイングランドのキリスト教聖職者・歴史家・教会博士。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会で聖人。9世紀以降からベーダ・ヴェネラビリス(Beda Venerabilis、ラテン語)と呼ばれ、日本語では尊敬すべきベーダまたは尊者ベーダ (Bede the Venerable、英語) と訳されている。現代の英語では、名は「Bede」と綴られ「ビード( )」と発音される。.

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初代教会

初代教会(しょだいきょうかい)は、教会史における初代のキリスト教会を指すキリスト教の用語である。ここでは新約聖書、教父文書、信条、信仰告白においてあらわされ、キリストの教会、教派において共有される見解のみ記述する。他の学問的理解については原始キリスト教を参照。.

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アナトリア半島

アナトリア半島(アナトリアはんとう、Ανατολία, Anatolia / Aνατολή, Anatolē、Anadolu)は、アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域である。現在はトルコ共和国のアジア部分をなす。日本語ではアナトリア半島と呼ばれる事が多いが、英語圏では「半島」をつけない、単なるアナトリアであり、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。小アジア(Μικρά Ασία, Mikra Asia, Asia Minor)とも言う。.

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アヤソフィア

アヤソフィア(トルコ語:Ayasofya、古典ギリシア語:Ἁγία Σοφία (Hagia Sophiā)、現代ギリシア語:Αγία Σοφία (Aagia Sophia))は、トルコのイスタンブールにある博物館日高ら(1990)、p.31-66、2.ドームを仰ぎ見るとき、◎ハギア・ソフィア大聖堂<オスマン・トルコ時代のアヤソフィア>。東ローマ帝国(ビザンツ帝国・ビザンティン帝国)時代に正統派キリスト教の大聖堂としての建設を起源とし、帝国第一の格式を誇る教会、コンスタンティノープル総主教座の所在地であったMüller-Wiener (1977), p. 112.が、1204年から1261年まではラテン帝国支配下においてローマ・カトリックの教徒大聖堂とされていた。その後は1453年5月29日から1931年までの長期間にわたりモスクとして改築を繰り返し使用されて現在の特徴的な姿となり"." ArchNet.、後に世俗化された。1935年2月1日から博物館(Ayasofya Müzesi)として使われている。 東ローマ帝国の代表的な遺構であり、しばしばビザンティン建築の最高傑作と評価される。その歴史と威容から、オスマン帝国の時代においても第一級の格式を誇るモスクとして利用された。日本語では慣用的に「ハギア・ソフィア」と呼称されるが、厳密にはトルコ語読みは「アヤソフャ」、古典ギリシア語読みは「ハギア・ソピアー」、現代ギリシア語読みでは「アギア・ソフィア」に近い。正教会では「アギア・ソフィア大聖堂」と呼ばれ、「ハギア・ソフィア大聖堂」と表記されることも多い。.

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アラリック1世

アラリック1世(Alaric I, 370/375年 - 410年)は、西ゴート族の最初の王である(在位:395年 - 410年)。その名は彼が成した410年のローマ略奪で最も知られている。ローマ略奪は、ローマ帝国(西ローマ帝国)の衰退を決定づける事件であった。.

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アラン人

アラン人(アラン族、Alans)は、紀元後に北カフカスから黒海北岸地方を支配した遊牧騎馬民族。イラン系遊牧民族であるサルマタイを構成する部族のひとつ、ないしいくつかの総称雪嶋 2008,p224。アラニ(Alani),アラウニ(Alauni),ハラニ(Halani)ともいう。.

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アラブ人

アラブ人(アラブじん、العرب،عربي)は、おもにアラビア半島や西アジア、北アフリカなどのアラブ諸国に居住し、アラビア語を話し、アラブ文化を受容している人々。 7世紀にムハンマド(マホメット)によってイスラム教が開かれ、中東・北アフリカを中心に勢力を拡大した。 もともとアラビア人をアラブと呼ぶが、日本では誤訳から始まった呼び方で定着した。.

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アラブ・東ローマ戦争

アラブ・東ローマ戦争(―ひがし―せんそう)とは、アラブ人のイスラム王朝(ウマイヤ朝、ファーティマ朝)と東ローマ帝国との間に行われた戦争のことである。.

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アラビア数字

アラビア数字(アラビアすうじ、Arabic numerals)あるいはインド・アラビア数字は、インド数字に起源を持つ十進記数法の数字である。 0, 1, 2, 3, 4, 5, 6, 7, 8, 9 の10種類がある。.

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アリウス派

アリウス派は、アレクサンドリアの司祭、アリウス(古典ギリシア語表記でアレイオスΆρειος、Arius…古典ギリシア語再建音からは「アレイオス」、現代ギリシア語からは「アリオス」、ラテン語からは「アリウス」と転写し得る。、250年頃 - 336年頃)とその追随者の集団を指す。 集団は「アリウス派」と呼ばれ、その主張内容も「アリウス主義」(Arianismus、Arianism)として知られるが、アリウスがこの種の主張を始めたわけではないとされる。創始者としてはが挙げられ、の影響も指摘される『山川 世界史小辞典』p32, 山川出版社; 改訂新版 (2004/01)、ISBN 9784634621107(ただしルキアノスは殉教したことにより列聖され、カトリック教会および正教会において聖人致命者・殉教者として崇敬されている)。.

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アリストテレス

アリストテレス(アリストテレース、Ἀριστοτέλης - 、Aristotelēs、前384年 - 前322年3月7日)は、古代ギリシアの哲学者である。 プラトンの弟子であり、ソクラテス、プラトンとともに、しばしば「西洋」最大の哲学者の一人とされ、その多岐にわたる自然研究の業績から「万学の祖」とも呼ばれる。特に動物に関する体系的な研究は古代世界では東西に類を見ない。イスラーム哲学や中世スコラ学、さらには近代哲学・論理学に多大な影響を与えた。また、マケドニア王アレクサンドロス3世(通称アレクサンドロス大王)の家庭教師であったことでも知られる。 アリストテレスは、人間の本性が「知を愛する」ことにあると考えた。ギリシャ語ではこれをフィロソフィア()と呼ぶ。フィロは「愛する」、ソフィアは「知」を意味する。この言葉がヨーロッパの各国の言語で「哲学」を意味する言葉の語源となった。著作集は日本語版で17巻に及ぶが、内訳は形而上学、倫理学、論理学といった哲学関係のほか、政治学、宇宙論、天体学、自然学(物理学)、気象学、博物誌学的なものから分析的なもの、その他、生物学、詩学、演劇学、および現在でいう心理学なども含まれており多岐にわたる。アリストテレスはこれらをすべてフィロソフィアと呼んでいた。アリストテレスのいう「哲学」とは知的欲求を満たす知的行為そのものと、その行為の結果全体であり、現在の学問のほとんどが彼の「哲学」の範疇に含まれている立花隆『脳を究める』(2001年3月1日 朝日文庫)。 名前の由来はギリシア語の aristos (最高の)と telos (目的)から 。.

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アルメニア

アルメニア共和国(アルメニアきょうわこく、)、通称アルメニアは、南コーカサスに位置する共和制国家。東ヨーロッパに含められることもある。首都はエレバンで、黒海とカスピ海の間にある内陸国であり西にトルコ、北にジョージア、東にアゼルバイジャン、南にイランとアゼルバイジャンの飛び地ナヒチェヴァン自治共和国と接する。1991年にソビエト連邦から独立した。ナゴルノ・カラバフを巡ってアゼルバイジャンと、アルメニア人虐殺に対する歴史認識をめぐってトルコと激しく対立していたが、近年はアルメニア大統領が両国を訪問するなど関係修復を目指して対話を行っている。.

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アルボイーノ

アルボイーノ(Alboino, 526年? - 572年6月28日)は、ランゴバルド族の王(在位:560年 - 572年)、およびイタリア王(在位:568年 - 572年)である。最初の妻はフランク王クロタール1世の娘クロトジンド。567年パンノニアのゲピド族を部族長共々虐殺し、またクニムンドの娘を妻としたが、572年に彼女に暗殺された。アルボイーノは東ゴート王国の王族アマル家の血を引いている。アルボイーノの母Rodelindaが東ゴート王国初代テオドリック大王の妹アマラフリーダの孫娘(アマラフリーダの娘アマラベルガの子)だからである。故にアルボイーノはアマラフリーダの曽孫にあたり、アルボイーノとテオドリック大王は曽姪孫と曽祖伯父の関係で、テオドリック大王の曽孫ゲルマヌス(550年 - 605年、テオドリック大王の孫娘で東ゴート王国第3代アマラスンタの娘、第2代アタラリックの妹、西ゴート王国国王アマラリックの従妹であるマタスンタの息子。父は東ローマ帝国皇帝ユスティニアヌス1世の従兄弟ゲルマヌス・ユスティヌス(505年頃 - 550年))は三従弟である。アマラリックとアタラリック・マタスンタ兄妹は三従伯父母、アマラスンタは三従伯祖母である。また、アマラリックの娘ゴイスウィンタは三従姉妹、ゴイスウィンタの2人の娘(ガルスウィント、ブルンヒルダ)は三従姪、ゲルマヌスの二人の娘(母は東ローマ帝国皇帝ティベリウス2世の娘の1人チャリート(560年頃生誕)。長女(583年頃 - 605年)は東ローマ帝国皇帝マウリキウスとチャリートの姉妹コンスタンティアの長男テオドシウス(583年 - 602年)と結婚。子女なし。次女(585年 - 没年不明)はマウリキウスの次々代東ローマ帝国皇帝ヘラクレイオスとの間に1男ヨハンネスを儲けた)も三従姪である。.

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アルフレッド大王

アルフレッド大王(Alfred the Great、古英語ではÆlfred、849年 - 899年10月26日、在位:871年 - 899年)は、イングランド七王国のウェセックス王。兄エゼルレッド王の死後、王位を継いだ。妃はエアルフスウィス(Ealhswith)(エアルスウィス、Ealswith)。約100年続いたデーン人(北欧ヴァイキング)の侵攻を食い止め、衰退したイングランドのキリスト教文化を復興し、古英語での読み書きを習慣化した王として知られる。 アングロ・サクソン時代最大の王とも称せられ、イギリスの歴史において大王と称される君主である。また、海上で敵を迎え撃ち、上陸を阻止するための海軍力の適正運用を行った初めての君主として、しばしば英国海軍の父と称される。.

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アルキメデス

アルキメデス(Archimedes、Ἀρχιμήδης、紀元前287年? - 紀元前212年)は、古代ギリシアの数学者、物理学者、技術者、発明家、天文学者。古典古代における第一級の科学者という評価を得ている。.

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アルクィン

アルクィン(中央の人物) アルクィン(Alcuin、735年? - 804年5月19日)は、イングランドブリテン島のヨーク出身の修道士、神学者。長年ヨークにある学校の教師として勤めたのち、カール大帝のフランク王国の教会制度と教育制度の相談役を務めた。769年からはトゥールの司教となり、聖マルティヌス(サン・マルタン)修道院院長で、カロリング朝ルネサンスを代表する人物である。.

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アレマン人

アレマン人(Alemanne, Alamannen, Alemanni, Alamanni)は、ドイツ南西部のライン川上流地域を原住地とするゲルマン人の部族連合。アレマンネ人、アラマンネン人、アラマンニ人とも表記される。 「ドイツ」/「(形容詞形)ドイツの・ドイツ語・ドイツ人」を意味するフランス語の「Allemagne/allemand・Allemand」、スペイン語の「Alemania/alemán」、ポルトガル語の「Alemanha/alemão」の由来になった民族名である。.

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アンミアヌス・マルケリヌス

アンミアヌス・マルケリヌス(古典ラテン語:アンミアヌス・マルケッリヌス、325年/330年 - 391年以後)は、ローマ帝国後期の軍人・歴史家。31巻からなる『歴史』を著した。.

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アンダルシア州

アンダルシア州(Andalucía)は、スペインを構成する自治州の一つである。 スペイン南部に位置し、北はエストレマドゥーラ州とカスティーリャ=ラ・マンチャ州、東はムルシア州、そして西はポルトガルと接し、南は地中海・ジブラルタル海峡・大西洋がある。州都は、セビリア。自治州政府はフンタ・デ・アンダルシーア(Junta de Andalucía)。近年はアンダルシーアという表記も見られる。 気候は典型的な地中海性気候で、夏はまばゆい太陽が輝き暑い。雨はあまり降らない。.

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アンダルス

1031年のイベリア半島 アル=アンダルス(Al-Ándalus、الأندلس、)とは、イスラーム世界において歴史的にスペインのアンダルシア地方を中心とするイスラーム勢力統治下のイベリア半島一帯のことを漠然と指す呼称。レコンキスタでイスラーム勢力統治領域が狭まっても、史料でキリスト教諸国の領域はアンダルスとして扱われることはほとんどなく、レコンキスタ最末期に「アンダルス」との言及があれば、それはナスル朝の領域を指す。.

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アングル人

ユトランド半島南部でドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州のバルト海側のアンゲルン半島一帯の地図 アングル人(英:Angle; 羅:Angli)またはアンゲルン人、アンゲル人(独:Angeln / Angel; 蘭:Angelen)は、西方系ゲルマン人の一種族であり、ユトランド半島南部に位置するアンゲルン半島(ドイツのシュレースヴィヒ=ホルシュタイン州の一部)の一帯に住んでいた人々を指す。その一部は6世紀頃にイングランド北東部に移住して幾つもの王国を建国し、後のアングロサクソン人の祖先となった。.

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アングロ・サクソン人

アングロ・サクソン人(Anglo-Saxons)は、5世紀頃、現在のドイツ北岸からグレートブリテン島南部に侵入してきたアングル人、ジュート人、サクソン人のゲルマン系の3つの部族の総称である。この中でアングル人が、イングランド人としてイングランドの基礎を築いた。このようにドイツ起源の民族であるが、現在のドイツ圏の国民をアングロサクソン人と呼ぶことは原則なく、一部地方でサクソン人(ザクセン人)という呼び方が残っている程度である。.

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アングロサクソン年代記

『アングロサクソン年代記』(アングロサクソンねんだいき、英:Anglo-Saxon Chronicle)は、イングランドの七王国時代を含む古代の出来事を主に記した年代記である。同一の題材をもとにした写本が複数現存している。 紀元1世紀から1154年までを扱っており、写本によっては紀元前60年にガイウス・ユリウス・カエサルがブリテン島に遠征したという(史実とは年時が異なる)記述がある。噂の類もかなり含まれていて史料として比較的信憑性は低いが他書には載っていない情報も記されている。 「アングロサクソン」(Anglo-Saxon)の名前は後代につけられたもので、1692年の初版では "Chronicum saxonicum" という題である。現在はインターネット・書籍で原文・訳文・注釈等が公開されている。.

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アヴァール

アヴァール (Avars) は、 5世紀から9世紀に中央アジアおよび中央・東ヨーロッパで活動した遊牧民族。支配者は遊牧国家の君主号であるカガン(khagan:可汗)を称したため、その国家はアヴァール可汗国とも呼ばれる。東ローマの一部史料ではジェジェン(Geougen)、ルーシの史料ではオーブル人(Obrs)とも呼ばれる。.

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アーサー王

アーサー王(King Arthur)は、5世紀後半から6世紀初めのブリトン人の君主。.

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アッバース朝

アッバース朝(الدولة العباسية al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1517年)。 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。.

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アブー・バクル

アブー・バクル・アッ=スィッディーク( Abū Bakr al-Ṣiddīq ‘Abd Allāh ibn Abī Quḥāfa ‘Uthmān b. ‘Āmir b. ‘Amr b. Ka‘b b. Sa‘d b. Taym, 573年 - 634年8月23日)は、初代正統カリフ(在位632年 - 634年)。預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリムのひとりであり、カリフすなわち「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」( Khalīfat Rasūl Allāh)を名乗った最初の人物である。.

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アブド・アッラフマーン1世

アブド・アッラフマーン1世(『スペイン史 1:古代 – 近世』 関哲行、立石博高、中塚次郎編、山川出版社〈世界歴史大系〉、2008年、付録、索引(人名)、pp.2-3、731年 - 788年9月30日)は、後ウマイヤ朝の初代アミール(在位:756年 - 788年)。アブドゥル・ラフマーン1世とも表記される。ウマイヤ朝の第10代カリフ・ヒシャームの孫私市 (2002)、p.217にあたる。.

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アテネ

アテネ(現代ギリシア語: Αθήνα; Athína;; カサレヴサ: Ἀθῆναι, Athinai; 古代ギリシア語: Ἀθῆναι, Athēnai)は、ギリシャ共和国の首都で同国最大の都市である。 アテネはアッティカ地方にあり、世界でももっとも古い都市の一つで約3,400年の歴史がある。古代のアテネであるアテナイは強力な都市国家であったことで知られる。芸術や学問、哲学の中心で、プラトンが創建したアカデメイアやアリストテレスのリュケイオンがあり、西洋文明の揺籃や民主主義の発祥地として広く言及されており、その大部分は紀元前4-5世紀の文化的、政治的な功績により後の世紀にヨーロッパに大きな影響を与えたことは知られている。今日の現代的なアテネは世界都市としてギリシャの経済、金融、産業、政治、文化生活の中心である。2008年にアテネは世界で32番目に富める都市に位置し、UBSの調査では25番目に物価が高い都市に位置している。 アテネ市の人口は655,780人Hellenic Statistical Authority, Hellenic Statistical Authority (EL.STAT.), 22 July 2011.

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アフリカ属州

アフリカ属州の位置(116年頃) アフリカ属州(Africa Province)は、ローマ帝国の属州である。領域の概要は、現代のチュニジア北部と地中海沿岸のリビア西部からなる。かつてのカルタゴの支配領域に比べると狭い領域になる。アフリカ属州の名は、ローマ帝国の後に同じ領域を支配したアラブ人にもイフリーキヤ(Ifriqiya)として残り、また、後世のアフリカ大陸の名前の由来ともなった。.

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アイルランド島

アイルランド島(アイルランドとう、Island of Ireland)は、ヨーロッパ大陸の北西沖に位置し、アイリッシュ海を挟んで東にグレートブリテン島に接する、ヨーロッパで3番目に大きな島である。面積は8万4412km²で、北海道島に北方領土を足し合わせた面積にほぼ等しく、世界では20番目に大きな島である。 南北450km、東西260kmで、中央部の低地を丘陵地帯が取り囲む地形である。山は全体的に低く南西部にあるカラントゥール山が1041mで最も高い。島内最長の河川シャノン川が北東から南西に流れ、無数の湖を有する。気候は、西の大西洋を北上してきた北大西洋海流(メキシコ湾流の延長)の影響で温暖である。 古くはローマ人にヒベルニア(Hibernia; ラテン語で「冬の国」「冬の地」の意)と呼ばれていた。 政治的には、ダブリンを首都とする南西部大半のアイルランド共和国と、ベルファストを首都とする北部の北アイルランド(アルスターの一部)に分かれ、北アイルランドはグレートブリテン島のイングランド・スコットランド・ウェールズとともにグレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する。.

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アイスランド

アイスランドは、北ヨーロッパの北大西洋上に位置する共和制を取る国家である。首都はレイキャビク。総人口は約337,610人。.

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アウグスティヌス

マニ教を批判したアウグスティヌスの書簡。 ラテラノ大聖堂に描かれたアウグスティヌス アウレリウス・アウグスティヌス(Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)あるいはアウグウティノは、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者。ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ理論家。カトリック教会・聖公会・ルーテル教会・正教会・非カルケドン派で聖人。母モニカも聖人である。日本ハリストス正教会では福アウグスティンと呼ばれる。 なお、イングランドの初代カンタベリー大司教も同名のアウグスティヌスであるため、本項のアウグスティヌスはこれと区別してヒッポのアウグスティヌスと呼ばれる。.

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アエギュプトゥス

アエギュプトゥス(Aegyptus)は、古代のエジプトがローマ帝国の属州だった時代の地名で、「エジプト(Egypt)」の語源でもある。属州の領域は現在のエジプトとほとんど同じだが、シナイ半島は含まない。西側はキュレナイカ属州と隣り合い、東側はアラビア属州と隣り合っていた。 元はプトレマイオス朝が支配していたが、紀元前30年にクレオパトラ7世とマルクス・アントニウスをオクタウィアヌス(のちの初代ローマ皇帝アウグストゥス)が破ったことにより、ローマの支配下に入った。またローマ皇帝の私領として、皇帝個人の収入源となった。この地域は、ローマ帝国にとって重要な穀物の供給地となった。7世紀にイスラム帝国の支配下に入った。.

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アストゥリアス州

アストゥリアス州(西:Principado de Asturias、アストゥリアス語:Principáu d'Asturies)は、スペインを構成する自治州の一つ。原語名はアストゥリアス公(Príncipe de Asturias)の領土を意味する。アストゥリアス州はアストゥリアス県1つからなる一県一州の自治州である。州都はオビエド。 イベリア半島の北部に位置し、東はカンタブリア州、南はカスティーリャ・イ・レオン州、西はガリシア州に接し、北岸はカンタブリア海に面している。.

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アストゥリアス王国

アストゥリアス王国(アストゥリアスおうこく、アストゥリアス語: Reinu d'Asturies、スペイン語: Reino de Asturias、ラテン語: Asturorum Regnum)は、イベリア半島にかつて存在した王国。 711年(または712年)、グアダレーテ河畔の戦いでイベリア半島をイスラーム勢力(ウマイヤ朝)が征服し、西ゴート王国が滅亡した。この際、イスラームへの抵抗を続けた西ゴート王国の貴族ペラーヨは、イベリア半島北西部にまで逃れ、在地のアストゥリアス人勢力と結んで、アストゥリアス王国を建国した。イスラーム勢力の攻撃を受けるが、722年頃にコバドンガの戦いで勝利して独立を保つと、カンガス・デ・オニスを都として支配を固めた。 アルフォンソ2世の時代にガリシア地方へと版図を拡大し、聖ヤコブを守護聖人とするサンティアゴ大聖堂を設けた。また、カンガス・デ・オニスにかわりオビエドを支配の拠点とした。このころより、イスラーム勢力に対する反撃が進められた。ガルシア1世の時代に、都はオビエドからレオンへと遷された。これ以降の王国はレオン王国と称される。.

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アゼルスタン (イングランド王)

アゼルスタン(英語Athelstan, Æthelstan, 古英語Æðelstan, 895年 - 939年10月27日)はイングランドのサクソン系の王(在位:924年8月2日 - 939年10月27日)。 エドワード長兄王の長男。弟エルフウェルドの死後、王位を継承した。 ウェドモーアの和議以降デーン人に支配されていたデーンロウを奪還し、そのイングランド化を図った。そのこともあって、アゼルスタンの治世にイングランドの政治的統一が進んだ。 外交上はザクセンと結び、異母妹エドギタをザクセン大公・東フランク王ハインリヒの継嗣オットーと婚姻させた。 937年にBrunanburhの戦いに勝利した。 生涯独身で子はなかったため、弟のエドマンド1世が後を継いだ。 Category:イングランドの君主 Category:ウェセックスの君主 Category:ウェセックス家 Category:895年生 Category:939年没.

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イラン系民族

イラン系民族(Iranian peoples)とは、インド・ヨーロッパ語族イラン語派の言語を話す民族の総称である。 イラン祖語はインド・ヨーロッパ語族の下位言語として中央アジアにおいて起元前2千年紀に誕生したと考えられる。紀元前1000年紀に分布が最大になった時には、イラン系民族の分布範囲はイラン高原を超えて西はハンガリー平原、東はオルドス平原に至るユーラシア・ステップ全域に及んだ: "From the first millennium b.c., we have abundant historical, archaeological and linguistic sources for the location of the territory inhabited by the Iranian peoples.

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イリュリア

イリュリアの位置 イリュリア(イリリア、Ἰλλυρία、Illyricum)は、古代ギリシア・ローマ時代に現バルカン半島の西部に存在した王国。 イリュリア語を話すイリュリア人によって建国され、共和政ローマによって滅ぼされた。 イリュリアの正確な姿は、現在の歴史家にも十分にはわかっていない。 イリュリア人の勢力範囲とイリュリア王国の領域とは必ずしも一致せず、さらに、 イリュリア王国の国境線はあいまいな部分がある。 例えば、ダルマティアは言語的にはイリュリア人に分類されるが、イリュリア王国には短期間しか所属していない。.

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イリュリア人

イリュリア人の居住範囲 イリュリア人(Ἰλλυριο,llyrii/Illyri)は古代のバルカン半島西部やイタリア半島沿岸南東部(メッサーピ)に住んでいた民族である。イリュリア人が住んでいた地域はギリシャやローマの作家たちによりイリュリアとして知られるようになったが、イリュリア人が住んでいた範囲は以前ユーゴスラビアだった地域やアルバニアなどで、西はアドリア海、北はドラーヴァ川、東は大モラヴァ川、南はヴョセ川河口までの範囲である。.

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イングランド

イングランド(England)は、グレートブリテン及び北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国」(country)の一つである。人口は連合王国の83%以上、面積はグレートブリテン島の南部の約3分の2を占める。北方はスコットランドと、西方はウェールズと接する。北海、アイリッシュ海、大西洋、イギリス海峡に面している。 イングランドの名称は、ドイツ北部アンゲルン半島出身のゲルマン人の一種であるアングル人の土地を意味する「Engla-land」に由来する。イングランドは、ウェールズとともにかつてのイングランド王国を構成していた。.

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イーリアス

イーリアスの表紙(1572年・Rihel社) 『イーリアス』(Iλιάς, Ilias, Iliad)は、ホメーロスによって作られたと伝えられる長編叙事詩で、最古期の古代ギリシア詩作品である。.

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イベリア半島

イベリア半島(スペイン語・ポルトガル語・ガリシア語:Península Ibérica、カタルーニャ語:Península Ibèrica、バスク語:Iberiar penintsula)は、ヨーロッパの南西に位置する半島である。.

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イベリア王国

イベリア王国(Iberia)は、南コーカサス、現在のグルジア東部に存在した王国である。紀元前1世紀から紀元後1世紀にかけて、大コーカサス山脈の南部、小コーカサス山脈の北部に存在した。イベリア半島と区別するためコーカサス・イベリアとも呼ばれる。.

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イコノクラスム

イコノクラスム(iconoclasm, εικονομαχία)とは、宗教的に崇められる画像を破壊する運動である(英語の意味においては「悪習の打破」等の他の意味も含意されるが、本項では「破壊運動」の語義に当たる事項のみを扱う)。聖像破壊運動(せいぞうはかいうんどう)ともいう。 キリスト教で有名なイコノクラスムには、東ローマ帝国におけるイコノクラスムと、宗教改革時に西ヨーロッパで起こったビルダーシュトゥルム(絵画嵐)がある。場合によってはイコノクラスムと言えば、東ローマ帝国において8世紀から9世紀にかけて行われたものを特に指すことがある。「偶像破壊」というとキリスト教の運動を中心としていうこともあるが、包括的に宗教的な「偶像」の破壊を指すこともある。.

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イシドールス

ビリャのイシドールス(San Isidoro de Sevilla、Isidorus Hispalensis、 英語:Saint Isidore of Seville、560年頃 - 636年4月4日)は、中世初期の神学者で、後期ラテン教父の中でも最も重要な神学者の一人であり、カトリックでは「インターネット利用者およびプログラマー」の守護聖人。 30年以上セビリャ大司教を務めた。中世のヒスパニアの地域で書かれた後の歴史書はすべて、このイシドールスの歴史を範としていた。 イシドールスが生きたのは、古典文化が没落し、支配者の暴力と無学が横行していた時代であった。イシドールスは長兄レアンデルと協力して、西ゴート王の、アリウス派信仰からのカトリック改宗に関与した。そして兄の死後も彼はカトリック布教の努力を継続した。レアンデルと同じように、トレドとセビリャで開かれた宗教会議で主導的な役割を演じた。レアンデルとイシドールスの兄弟は、その政治的手腕によって今日の歴史家から見ても意義のある変化をもたらしたともいえる。なぜなら、この教会会議で発議された西ゴート王国の法令は代議制政治の発達にとっても重要な契機となっているからである。 農業の守護聖人でマドリードの守護聖人である聖イシドロ(en)とは別人である。.

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イスラム帝国

イスラム帝国(イスラムていこく、خلافة, caliphate)は、イスラム教(イスラーム)の教えに従って生まれたイスラム共同体(ウンマ)の主流派政権が形成した帝国のこと。.

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イスラム教

イスラム教(イスラムきょう、イスラーム教、イスラーム、和名・漢字圏名:回教)は、唯一絶対の神(アラビア語でアッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。 ユダヤ教やチゲリスト教の影響を受けた唯一神教で、偶像崇拝猶、いわゆる『偶像崇拝』が神像を用いた礼拝と同義であるのかを巡っては、宗教や個人により大きな開きがあるを徹底的に排除し、神への奉仕を重んじ、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。アッラーを崇拝するが、アッラーとは、もともとアラビアの多神教の神々の中の一人であったが、ムハンマドがメッカを占領すると、他の多神教の神々の像は全て破壊され、そして作ることや描くことも禁止され、その神だけを崇拝するようになった。.

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イスラーム黄金時代

イスラーム黄金時代(イスラームおうごんじだい、Islamic Golden Age)とは、1258年のバグダードの戦いまで続いたアッバース朝時代の呼称である。イスラム黄金時代やイスラム黄金期と表記されることもある。 イスラーム黄金時代は8世紀中期にアッバース朝が成立し、ダマスカスからバグダードへの遷都が行われて始まったVartan Gregorian, "Islam: A Mosaic, Not a Monolith", Brookings Institution Press, 2003, pg 26–38 ISBN 0-8157-3283-X。アッバース朝の学問に対する姿勢は「学者のインクは殉教者の血よりも尊い」といった、知識の価値を強調するクルアーンの訓戒やハディースの姿勢に大きく影響を受けた。アッバース朝時代、アラブ世界は科学、哲学、医学、教育などの知識の集積所となった。アッバース朝は知識人の庇護を行い、バグダードに知恵の館を建設した。知恵の館ではムスリムの学者もそうでない学者もすべての世界の知識を収集し、アラビア語へと翻訳していた 。他の地域では失われてしまった多くの知識はアラビア語やペルシア語へと翻訳された後、さらにトルコ語やヘブライ語、ラテン語へと翻訳された。この時代、アラブ世界は古代ローマ、中国、インド、ペルシア、エジプト、ギリシャ、東ローマ帝国から得た知識を集積、大きく発展させ文化の中心地となっていた。.

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イスラーム教徒のペルシア征服

イスラーム教徒のペルシア征服は、イスラーム共同体がサーサーン朝ペルシア帝国を征服し、その領土を支配するに至った一連の戦争をさす。.

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イタリア王国

イタリア王国(イタリアおうこく、伊:)は、現在のイタリア共和国の前身となる王国。1861年に成立し、1946年に共和制へ移行した。.

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ウマル・イブン・ハッターブ

ウマル・イブン・アル=ハッターブ( ‘Umar ibn al-Khattāb, 592年? - 644年11月3日)は、初期イスラーム共同体(ウンマ)の指導者のひとりで、第2代正統カリフ(634年 - 644年)。.

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ウマイヤ朝

ウマイヤ朝(ウマイヤちょう 、、Banu Umayya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝(661年 - 750年)。.

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ウラジーミル1世

ア1000年記念碑の銅像。八端十字架を掲げている。 ウラジーミル1世(Владимир Святославич)、ヴォロディーミル1世(Володимѣръ Свѧтославичь、Володимир Святославич)955年頃 - 1015年7月15日)は、リューリク朝、キエフ大公国のキエフ大公(在位:978年6月11日 - 1015年7月15日)。スヴャトスラフ1世と彼の母、オリガの鍵番マルーシャとの間の子。子にはヤロスラフ1世やボリスとグレプがいる。キエフ大公国をキリスト教化した。キリスト教(正教会・カトリック教会・聖公会・ルーテル教会)の聖人で、亜使徒・聖公ウラジーミルと呼ばれる。祭日は7月15日(7月28日)。「太公」、「聖公」、「赤日」とも呼ばれる。.

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ウァレンス

フラウィウス・ユリウス・ウァレンス(Flavius Iulius Valens, 328年 - 378年8月9日)は、ローマ帝国の皇帝(在位364年 - 378年)。兄ウァレンティニアヌス1世より帝国東部を任されて、共同統治した。ハドリアノポリスの戦い(ゴート戦争)で敗死した。.

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ウィットビー教会会議

ウィットビー教会会議(英語:Synod of Whitby)は、664年にイングランドで開かれたキリスト教の教会会議。.

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ウェールズ

ウェールズ(Wales、Cymru カムリ)は、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国(イギリス)を構成する4つの「国(イギリスのカントリー)」(country)のひとつである。ウェールズはグレートブリテン島の南西に位置し、南にブリストル海峡、東にイングランド、西と北にはアイリッシュ海が存在する。 かつて、石炭を代表とする豊富な地下資源を産出し、イギリスの産業革命を支えた歴史をもつ。.

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ウェールズ人

ウェールズ人(ウェールズじん、Welsh people、ウェールズ語: Cymry)は、ウェールズ国民、またはウェールズを父祖の土地とする民族のこと。.

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ウェセックス

ウェセックス(Wessex)は、イングランドの七王国の一つ。アングロサクソン人の建てた王国のひとつでデーン人が進攻した時代に生き残った唯一の王国である。また有能な王も輩出しエグバート、アルフレッド大王が有名。とくにアルフレッド大王のもとで行われた文化事業により数々の伝承文献が書き残される事となり、資料の乏しいこの時代の歴史、古英語の文献が現在でも残されている。 なお、ウェセックス(Wessex) の名は、『西サクソン(West Saxon)』に由来する。同様に、サセックス(Sussex)の名は 『南サクソン(South Saxon)』から。エセックス(Essex)の名は『東サクソン(East Saxon)』から由来する。しかし初期の西サクソンと後期のウェセックスとでは歴史的な経緯により支配した領域が変異している(詳しくは後述参照)。.

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ウスマーン・イブン・アッファーン

ウスマーン・イブン・アッファーン(عثمان ابن عفّان بن ابي العاص بن امية ‘Uthmān ibn ‘Affān b. Abī al-‘Āṣ b. Umayya, 574年?嶋田「ウスマーン・イブン・アッファーン」『世界伝記大事典 世界編』2巻、223-224頁/76年?森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、4頁 - 656年6月17日森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、147頁)は、イスラームの第3代正統カリフ(在位644年 - 656年)。マッカ(メッカ)のクライシュ族の支族であるウマイヤ家の出身。預言者ムハンマドの教友(サハーバ)で、ムハンマドの娘婿にあたる。 ムハンマドの妻ハディージャを除いた人間の中では、ウスマーンは世界で2番目にイスラームに入信した人物として数えられている森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、11頁。クルアーン(コーラン)の読誦に長けた人物として挙げられることが多い7人のムハンマドの直弟子には、ウスマーンも含まれている。651年頃、ウスマーンの主導によって、各地に異なるテキストが存在していたクルアーンの版が統一される。656年にウスマーンは反乱を起こした兵士によって殺害され、その死はイスラーム史上初めてカリフが同朋のイスラム教徒に殺害された事件として記憶された。莫大な財産を有していたことから、ウスマーン・ガニー(「富めるウスマーン」の意)と呼ばれた森、柏原『正統四カリフ伝』下巻、7頁。また、ムハンマドの2人の娘と結婚していたことから、ズンヌーライン(و النورين Dhū al-Nūrain、「二つの光の持ち主」)とも呼ばれる小杉「ウスマーン・イブン・アッファーン」『岩波イスラーム辞典』、196頁。.

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エルベ川

流域 エルベ川(エルベがわ、、Labe、Die Elbe、低ザクセン語: De Elv)は、チェコ北部およびドイツ東部を流れ北海へと注ぐ国際河川である。全長約1,091kmはヨーロッパでは14番目に長く、このうち727kmがドイツ国内を占める。.

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エドワード・ギボン

ドワード・ギボン エドワード・ギボン(Edward Gibbon, 1737年5月8日 - 1794年1月16日)は、イギリスの歴史家で、『ローマ帝国衰亡史』の著者である。.

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エウクレイデス

ラファエロの壁画「アテナイの学堂」に画かれたエウクレイデス アレクサンドリアのエウクレイデス(、、(ユークリッド)、紀元前3世紀? - )は、古代ギリシアの数学者、天文学者とされる。数学史上最も重要な著作の1つ『原論』(ユークリッド原論)の著者であり、「幾何学の父」と称される。 プトレマイオス1世治世下(紀元前323年-283年)のアレクサンドリアで活動した。『原論』は19世紀末から20世紀初頭まで数学(特に幾何学)の教科書として使われ続けた。線の定義について、「線は幅のない長さである」、「線の端は点である」など述べられている。基本的にその中で今日ユークリッド幾何学と呼ばれている体系が少数の公理系から構築されている。エウクレイデスは他に光学、透視図法、円錐曲線論、球面天文学、誤謬推理論、図形分割論、天秤などについても著述を残したとされている。 なお、エウクレイデスという名はギリシア語で「よき栄光」を意味する。その実在を疑う説もあり、その説によると『原論』は複数人の共著であり、エウクレイデスは共同筆名とされる。 確実に言えることは、彼が古代の卓越した数学者で、アレクサンドリアで数学を教えていたこと、またそこで数学の一派をなしたことである。ユークリッド幾何学の祖で、原論では平面・立体幾何学、整数論、無理数論などの当時の数学が公理的方法によって組み立てられているが、これは古代ギリシア数学の一つの成果として受け止められている。.

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オングロスの戦い

ングロスの戦いは、680年、ブルガール人のハーン・アスパルフと東ローマ皇帝コンスタンティノス4世との間で行われた戦い。ブルガール人が勝利し、第一次ブルガリア帝国が建国された。.

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オーフス

ーフス(Aarhus、1948年から2010年まではÅrhus、)はデンマークでは2番目に大きな都市である。 の中心地で、ユトランド半島の東岸に位置しデンマークの地理的な中心部に位置し、コペンハーゲンの南西187km、ハンブルクの北289kmの場所にある。人口は2015年1月1日現在、市街地と自治体が326,676人、ユーロスタットの推計では大都市圏域の人口は845,971人であった。オーフスの歴史的な始まりは8世紀に創建されたヴァイキングの要塞化された入植地で、教区の中心としての最初の記録は少なくとも948年からである。 オーフスはの北岸の天然の沿岸港に創建され、何世紀にもわたる海上交易や農産品の成長に主要な役割を果たした。マーケットタウンの特権は1441年に獲得したが、17世紀のカール・グスタフ戦争の間には封鎖や砲撃により困難に陥った。19世紀には2度、ドイツの軍隊によっての間占領されたが、破壊は免れた。産業革命によってオーフスは成長し、20世紀までにはデンマークでは2番目に大きな都市となった。 今日のオーフスは、地域の文化や経済の中核でユトランド半島では最大の商業やサービス、工業の中心である。欧州連合域内では92番目の規模の都市で、世界ではトップ100に入るカンファレンスの都市である。コンテナの取扱とカテガット海峡の貿易の重要なハブの面でデンマークの主要な産業港である。 主要なデンマークの企業はオーフスに本社を置き拠点としており、中央ユラン地域の広いエリアから人々が通勤やレジャーでやって来る。北欧諸国の研究や教育の中心でもあり、拠点を置くオーフス大学はスカンディナヴィアでは最大の大学で やINCUBサイエンスパークが含まれる。オーフスはデンマークでは一番若者が多い都市で、学生の人口が13%を占めており2010年以来、毎年平均4,000人の人口増加で急速に増加している都市の1つである。オーフスは の中心部で経済成長や人口規模ではデンマークでは2番目の規模である。 オーフスは注目されるミュージカルの歴史があり、1950年代に多くのジャズクラブが若者たちに支えられ街の周辺に急速に出現した。1960年代には音楽シーンはロックや他のジャンルに多様化した。1970年代や1980年代にはオーフスはデンマークのロック音楽の中心となり や など多くの象徴的なバンドを育んだ。オーフスでは毎年8日間の 、 、 が開催される。.

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オットー1世 (神聖ローマ皇帝)

ットー1世(Otto I.、912年11月23日 - 973年5月7日)は中世ドイツの王(在位:936年 - 973年)及びイタリア王(在位:951年 - 973年)、並びに西ヨーロッパの皇帝(在位:962年 - 973年)。ザクセン朝第2代の王、初代皇帝で初代国王ハインリヒ1世の子。形骸化して消滅したローマ皇帝の称号を約40年ぶりに復活させて国制を確立し、神聖ローマ帝国の初代皇帝とも見なされる。オットー大帝(Otto I. der Große)とも呼ばれる。彼の時代にアブド・アッラフマーン3世から使節があった瀬原、p.

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オットー3世 (神聖ローマ皇帝)

ットー3世(Otto III., 980年7月 - 1002年1月23日)は中世ドイツの王(在位:983年12月 - 1002年)及びイタリア王(在位:996年4月 - 1002年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:996年5月 - 1002年)。ザクセン朝第4代の王、第3代の皇帝。第2代皇帝オットー2世とギリシャ皇女テオファヌの子、初代オットー1世大帝の孫。古代ローマ帝国の復興を図った。ローマを首都とした帝国の再興を試みたが、現実に合わず果たせなかった。1002年に21歳で死去。.

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オフリドのクリメント

フリドのクリメント(古代教会スラヴ語: Климє́нтъ Охрїдьскъ, ブルガリア語・マケドニア語: Свети Климент Охридски, 840年頃 – 916年)は、聖キリル(キュリロス)と聖メフォディ(メトディオス)の弟子であり、のちにオフリドの主教となった人物。正教会で聖人であり、亜使徒と呼ばれる。初めてスラヴ語で説教、著述活動を行った最初のブルガリアの主教であった。.

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オドアケル

オドアケルに帝冠を渡すロムルス・アウグストゥルス オドアケル(Odoacer, 433年 - 493年3月15日)は、西ローマ帝国の傭兵隊長を経てローマ帝国のイタリア領主となった人物。オドワカル(Odovacar)あるいはイタリア語でオドアクレ()とも言う。 その出自は不明で、ヘルール族の王であったとか、の出身であるとか、あるいはの出身であるなどとされる。父の名はEdeko(406年頃 - 454年)、兄弟にOnoulphus(430年頃 - 493年)がいる。 470年までにオドアケルはローマ軍の将軍となり、472年にはゲルマン人の将軍リキメルの下でローマ皇帝アンテミウスの討伐にも参加した。 476年、西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥルスを廃位し、ローマ元老院を通じて「もはや西ローマ帝国に皇帝は必要ではない」とする勅書を東ローマ帝国の皇帝ゼノンへ送り、西ローマ皇帝の帝冠と紫衣を返上した。ゼノンはオドアケルにローマ貴族とイタリア領主(dux Italiae)の称号、およびにローマ皇帝の代官としてイタリアを統治する法的権限を与えた。一方でゼノンは、オドアケルがゼノンの支持するユリウス・ネポスを西ローマ皇帝として受け入れるべきだとも提案した。オドアケルは提案を受け入れ、自らはローマ皇帝の代理としてラヴェンナを中心としてイタリアの統治を開始した。このことからオドアケルをローマ帝国の初代イタリア王(rex Italiae)と見なす場合もあるが、オドアケルをイタリア王に含めるかどうかついては議論がある。 480年にネポスが殺害されると、ゼノンは法的にも西ローマ皇帝と東ローマ皇帝の地位を廃止し、自身を西ローマ帝国と東ローマ帝国を合わせたローマ帝国全土のローマ皇帝とした。西ローマ皇帝位の廃止後も、ゼノンとオドアケルは元老院など西ローマ帝国の政府機構をそのまま残し、古代ローマ式の統治方法を継続した。オドアケルによる統治は、それまでローマ皇帝によって押さえつけられていた元老院議員達やらによって歓迎された。また、ヴァンダル王国の王ガイセリックとの和平を成し遂げるなど、イタリアに平和をもたらした。 しかし、484年から488年にかけての東ローマ帝国の内乱において、オドアケルはゼノンの対立皇帝側に与してゼノンと対立した。そのためゼノンは東ゴート王テオドリックにオドアケル討伐を命じ、翌年テオドリックはイタリアに侵攻を開始する。イゾンツォの戦いとヴェローナの戦いと相次いで敗れたオドアケルは首都ラヴェンナへと追い込まれ、493年に降伏した(ラヴェンナ包囲戦 (490年-493年))が、その直後に配下の兵たちと共に暗殺された。妻スニギルダは幽閉されて餓死、幼い息子のテーラ(Thela)はガリアに追放されやがて処刑された。兄のフンウルフは矢で針鼠にされた。テオドリックは、オドアケル討伐の功として東ローマ帝国の皇帝アナスタシウス1世からイタリア支配とイタリア王の地位を承認され、東ゴート王国が成立した。 今日ではオドアケルがイタリアの領主に任命されたことをもって西ローマ帝国の「滅亡」とする場合があるが、ら研究者はオドアケルによるイタリア統治の開始を西ローマ帝国の「滅亡」と呼ぶことには否定的である。それは西ローマ帝国政府は少なくとも6世紀中頃まではローマ帝国の政府機関としてオドアケルや東ゴート王らとは別々に存続しており、オドアケルへのイタリアの委任も、これまで帝国の各地でゴート族やヴァンダル族らの王を領主に任命して統治を委任してきたのと同じことが、皇帝ゼノンによってイタリアに適用されただけだと考えられるからである。 category:古代ゲルマン Category:5世紀の古代ローマ人 Category:中世イタリア王 Category:傭兵 Category:暗殺された人物 Category:433年生 Category:493年没.

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オストマルク (ザクセン)

赤い破線の下、ノルトマルクの南側の紫の斜線部がオストマルク オストマルク(Sächsische Ostmark)は、10世紀から12世紀にかけて神聖ローマ帝国にあった辺境伯領である。オストマルクという語はラテン語のmarchia Orientalisからきており、もともとはザクセン公領の東に設けられた辺境伯領と、バイエルン公領の東側に設けられたのちのオーストリア辺境伯領の両方を指した。 ザクセンのオストマルクは、965年のゲロの死後、その広大な領土ゲロ辺境伯領が分割された際に成立した。ゲロは嗣子なく没したため、その領土はエルベ川とオーデル川に挟まれたノルトマルクと、現在のザクセン州にほぼ当たるザーレ川とボーブル川に挟まれた南側の領域のオストマルクとに分割された。皇帝オットー1世はゲロの甥のオドー1世をオストマルク辺境伯に任命した。 同時にオストマルクの南側半分の領域にはマイセン辺境伯領、メルゼブルク辺境伯領、ツァイツ辺境伯領が設けられた。マイセン辺境伯にはゲロの甥でオドー1世の兄ティートマール1世が後に任ぜられた。オドー1世の跡を継いだ兄ティートマール1世の子ゲロ2世は、1002年に辺境伯領の東側部分をポーランド王ボレスワフ1世に奪われたが、1031年にはボレスワフの子ミェシュコ2世により皇帝コンラート2世に返還された。1046年、ヴェッティン家のデード1世がこの地を獲得し、さらに1089年には息子のハインリヒ1世がマイセン辺境伯領を皇帝ハインリヒ4世から与えられた。こうして両方の辺境伯ともヴェッティン家の支配下に入り、これらは後のザクセン選帝侯領の中心となっていった。 領とラウジッツ辺境伯領がオストマルクから分かれて成立し、1123年に残りの地はマイセン辺境伯領に統合された。最後にオストマルクとラウジッツが別々にあらわれるのは、オストマルクについてはこの地がグロイチェ伯ハインリヒに与えられた1128年であり、ラウジッツにおいては独立して存在していたことが確認できる1131年までである。グロイチェ伯ハインリヒはオストマルクを保持しつづけることができず、1136年までにはこの地はヴェッティン家のコンラート1世に戻された。ヴェッティン家の領土は分割を繰り返したが、そのほとんどは同家のエルネスティン系が領した。 オスターラントという地域名が、現在もこの辺境伯領の中心をなした地域を示す語として用いられている。オストマルクの境界はたびたび変わったが、現在ではおよそザーレ川とムルデ川に挟まれた領域としてこの語が用いられている。.

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カラブリア州

ラブリア州(Calabria)は、イタリア共和国南部に位置し、カタンザーロを州都する州である。州内で最多の人口を有する都市はレッジョ・ディ・カラブリア(レッジョ・カラブリア)。しばしば国土の形状がブーツに喩えられるイタリアの「爪先」にあたる地域で、南西にメッシーナ海峡を隔ててシチリア島がある。.

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カルパチア盆地

ルパチア盆地の地形図に現在の国境を入れた図 東から北に屈曲するカルパチア山脈、西にアルプス山脈、南にディナル・アルプス山脈 カルパチア盆地(カルパチアぼんち)は、カルパチア山脈・アルプス山脈・ディナル・アルプス山脈の尾根に囲まれた、中央ヨーロッパに存在する盆地である。ドナウ川中流域のほとんどを含む。 ハンガリー語では Kárpát-medence (カールパート・メデンツェ)、ドイツ語ではKarpaten­becken (カルパーテンベッケン)、スロヴァキア語ではKarpatská kotlina (カルパトスカー・コトリナ)、ルーマニア語ではBazinul Carpați (バジヌル・カルパツィ)、英語ではCarpathian Basin (カーペイシャン・ベイスン)と呼ばれる。 現在のハンガリーとスロヴァキアの全領域とオーストリア、 ボスニア・ヘルツェゴビナ、チェコ、クロアチア、ルーマニア、セルビア、スロヴェニア、ウクライナの一部を含む。 1920年のトリアノン条約によるハンガリー王国解体までは、ほぼハンガリー王国の領域と重なっていたためハンガリーではハンガリーから領土の割譲を受けた継承国を刺激しないために専ら「歴史的ハンガリー」(történelmi Magyarország)、すなわち旧「ハンガリー王国」(Magyar Királyság)、「ハンガリー聖冠諸邦」(A Magyar Szent Korona Országai)、「大ハンガリー」(Nagy-Magyarország) の版図を指す場合の婉曲用法として使われることが多い。 トリアノン講和条約) カルパチア盆地は北部と東部が山岳地帯であり、中央部がハンガリー大平原、西部が丘陵地帯のドゥナーントゥール地方(古代ローマのパンノニア皇帝属州)である。専らこの平原部分に注目したパンノニア平原(パンノニアへいげん)という呼称も用いられることがある。ドイツ語ではPannonische Tiefebeneまたは、Pannonisches Becken、スロヴァキア語ではPanónska panvaまたはPanónska nížina、ルーマニア語ではCâmpia Panonică、英語ではPannonian Plain と言う。ただし、パンノニアという地域名は現在のハンガリーのドナウ川西岸、すなわちドゥナーントゥール地方の古称であり、実際のカルパチア盆地の西南部、全体の4分の1程度の地域しか指していないため、カルパチア盆地全体の別称としては不適切だとの考え方もある。 約1000万年前から約60万年前まではパンノニア海と呼ばれる浅海を形成しており、地盤は厚い海底堆積物の層である。 ファイル:Mala fatra2.jpg|小ファトラ山地 (ファトラ・タトラ山地)のヴラートナ渓谷 (Vrátna dolina) ファイル:Hortobágyi pusztaság.jpg|ホルトバージのプスタ(ティサーントゥール地方) |セーケイ地方の風景(ブラショヴ盆地).

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カロリング帝国

リング帝国 (フランス語: Empire carolingien 英語: Carolingian Empire)は、中世前期の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパの広大な範囲に存在した帝国を指す史学上の語。カール大帝の西ローマ皇帝戴冠からカール3世の退位・死去(800年 - 887/8年)までを指す。前身のフランク王国や後の神聖ローマ帝国と同一視されることもあるが、前者とはローマ帝国の継承者を称する帝国である点で、後者とはカロリング家という一家系がヨーロッパ主要部全体を支配していたという点で異質である。 日本では「フランク王国」の語がカロリング帝国の概念も含めて用いられることが多い。.

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カロリング朝

ール時代のフランク王国('''青'''がカール即位時のフランク王国、'''赤橙'''がカールの獲得領、'''黄橙'''がカールの勢力範囲、'''濃赤'''はローマ教皇領) カロリング朝と東ローマ帝国とウマイヤ朝 カロリング朝(カロリングちょう、Carolingiens, Karolinger)は、メロヴィング朝に次いでフランク王国2番目の王朝。宮宰ピピン3世がメロヴィング朝を倒して開いた。名称はピピン3世の父、カール・マルテルにちなむ。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。 フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰(宰相)を輩出してきた家系であった。はじめピピン1世(大ピピン)はフランク王国の分国(アウストラシア)の宮宰であったが、ピピン2世(中ピピン)においてはフランク王国全体の宮宰を務め、ピピン3世(小ピピン)に至っては遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。 751年から987年までフランク王国やそれが分裂した後の東フランク王国・西フランク王国・中フランク王国の王を輩出した。987年、西フランク王国の王家断絶をもって消滅した。 ピピン3世の子カール大帝の時代にはその版図はイベリア半島とブリテン島を除く今日の西ヨーロッパのほぼ全体を占めるに至った。ローマ教皇はカール大帝に帝冠を授け、西ヨーロッパに東ローマ帝国から独立した、新しいカトリックの帝国を築いた。カール大帝の帝国は現実的には、後継者ルートヴィヒ1世の死後3つに分割され、今日のイタリア・フランス・ドイツのもととなったが、理念上は中世を通じて西ヨーロッパ世界全体を覆っているものと観念されていた。 本記事ではカロリング家についても包括的に言及することとする。.

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カロリング朝ルネサンス

リング朝ルネサンスまたはカロリング・ルネサンス(Carolingian Renaissance, Renaissance carolingienne )とは、フランク王国(カロリング朝)のカール大帝(フランク王 768年 - 814年、西ローマ皇帝 800年 - 814年)の頃(8世紀~9世紀)に見られる古典復興、文化の隆盛を指す言葉である。.

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カンナエの戦い

ンナエの戦い(カンナエのたたかい)は、紀元前216年8月2日、アプリア地方のカンナエ(カンネー)で起こったローマ軍とカルタゴ軍の戦いである。第二次ポエニ戦争における会戦の一つで、ハンニバル率いるカルタゴ軍が、ローマの大軍を包囲殲滅した戦いとして戦史上名高い。2倍の敵を包囲・殲滅した衝撃的な勝利であった。カンネーの戦いとも表記する。 1018年10月1日にも同じ場所で戦闘が起こっており、これもカンナエの戦いと呼ばれる(英語版)。これは東ローマとノルマン人の間で行われた戦闘で、東ローマ側が勝利したものである。.

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カール3世 (フランク王)

ール3世 カール3世(ドイツ語:Karl III.

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カール大帝

ール大帝(カールたいてい、742年4月2日 - 814年1月28日)は、フランク王国の国王(在位:768年 - 814年)。西ローマ皇帝厳密にはコンスタンティノス6世の後継者としての「ローマ帝国全土の皇帝」であるが、同時代に存在した東ローマ皇帝との地理的関係から、現代においては西ローマ皇帝とも表記される。同じく西ローマ皇帝と表記されるロムルス・アウグストゥルス以降に途絶えた西方正帝の地位を復活させたものではないことに注意を要する。(在位:800年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝とも見なされる。カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。フランス語でシャルルマーニュ といいラテン語ではカロルス・マグヌス 、ドイツ語ではカール・デア・グローセ 、英語ではフランス語綴りを英語読みでシャーレメイン、または英訳してチャールズ・ザ・グレート 、イタリア語ではカルロ・マーニョ 、スペイン語ではカルロマグノ 、ポルトガル語ではカルロス・マグノ 、トルコ語ではフランス語綴りを音訳してシャルルマン (Şarlman) という。日本ではカール大帝の名が世界史の教科書などで一般的に使用されているが、フランス語のシャルルマーニュもフランスの古典叙事詩や歴史書などからの翻訳でよく知られている。、またカール1世(シャルル1世)ともいう。ドイツ、フランス両国の始祖的英雄と見なされていることから、ドイツ風とフランス風の呼び方を共に避けて英語読みのチャールズ大帝という表記が用いられることもある。 768年に弟のカールマンとの共同統治(分国統治)としてカールの治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。800年にはローマ教皇レオ3世によってローマ皇帝として戴冠されたが、東ローマ帝国ではカールのローマ皇帝位を承認せず、僭称とみなした。1165年、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によってカール大帝は列聖された。カール大帝は、古典ローマ、キリスト教、ゲルマン文化の融合を体現し、中世以降のキリスト教ヨーロッパの王国の太祖として扱われており、「ヨーロッパの父」とも呼ばれる。カール大帝の死後843年にフランク王国は分裂し、のちに神聖ローマ帝国・フランス王国・ベネルクス・アルプスからイタリアの国々が誕生した。.

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カール・マルテル

ール・マルテル(, Charles Martel シャルル・マルテル, 686年8月23日 – 741年10月22日)は、メロヴィング朝フランク王国の宮宰。カロリング家出身で、トゥール・ポワティエ間の戦いでウマイヤ朝の進撃を食い止め、西ヨーロッパへのイスラム教徒の侵入をイベリア半島でとどめたことで名高い。.

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カッシオドルス

ッシオドルス フラウィウス・マグヌス・アウレリウス・カッシオドルス・セナトル(Flavius Magnus Aurelius Cassiodorus Senator, 485年頃 - 585年頃)は、一般にカッシオドルスとして知られるローマ人の政治家、著述家である。東ゴート王国のテオドリック大王に仕えた。セナトル(Senator)は名前の一部であり、役職ではない。.

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カトリック教会

トリック教会(カトリックきょうかい、)は、ローマ教皇を中心として全世界に12億人以上の信徒を有するキリスト教最大の教派。その中心をローマの司教座に置くことからローマ教会、ローマ・カトリック教会とも呼ばれる。.

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カフカス・アルバニア王国

フカス・アルバニア王国( - おうこく)は紀元前2千年紀末にカフカス南東部、およびアゼルバイジャン領域に存在したアルバニア人によって建国された古代王国である。紀元前3世紀から紀元前2世紀ごろにかけて首都をに置く国家として明確な形成がなされ、犂耕作、放牧、種々の工芸、コブスタンなどの文化を築いた。紀元前1世紀ごろにはクル川(Kür)での戦いにおいてポンペイウスと戦闘した記録が残されている。 なお、このアルバニア人は現代のバルカン半島のアルバニア人とは全くの別民族である。 3世紀から5世紀ごろにかけてはキリスト教が国教となるとともに封建的な国家が形成された。6世紀にサーサーン朝の支配下に入るも、7世紀メフル朝の時代に独立を回復する。8世紀にカリフ領となりイスラム化が進むとともに国家としての存在は消滅した。.

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カイロ

イロ(القاهرة,, アル・カーヒラ、, コプト語: ⲕⲁϩⲓⲣⲏ,, Cairo)は、エジプトの首都。アフリカ、アラブ世界で最も人口の多い都市であり、その地域を代表する世界都市の一つ。アラブ連盟の本部所在地でもあり、アラブ文化圏の中心都市でもある。.

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カタルーニャ州

タルーニャ州(Catalunya, Cataluña, アラン語:Catalonha)は、スペインの自治州。州都はバルセロナ。 カタルーニャ州はスペイン北東部の地中海岸にあり、交通の要衝として古代から栄えた。カタルーニャは独自の歴史・伝統・習慣・言語を持ち、カタルーニャ人としての民族意識を有している。中世にはアラゴン=カタルーニャ連合王国として地中海の覇権を握ったが、スペイン王国成立後には衰退した。1979年にはスペイン国家内で自治州の地位を得たが、2010年代にはカタルーニャ独立運動が盛んになり、2017年10月にはカタルーニャ共和国として独立宣言が行われるに至った。.

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ガリア

リア()とは、ガリア人(ケルト人の一派)が居住した地域の古代ローマ人による呼称。古典ラテン語での正確な発音は「ガッリア」。フランス語では (ゴール)。 具体的には現在のフランス・ベルギー・スイスおよびオランダとドイツの一部などにわたる。元来の「ガリア」はイタリア半島北部であったため、地域(地理上の概念)としての「ガリア」とローマの属州(行政区画)としての「ガリア」とは同一ではない。 近代にはフランスの雅称として使われるようになる。現代ギリシャ語の「ガリア」(Γαλλία) は、フランスのことである。.

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ガリア・ナルボネンシス

リア・ナルボネンシス(Gallia Narbōnēnsis)は、ローマ帝国の属州のひとつ。北東部にガリア・アクィタニア、北西部にガリア・ルグドゥネンシス、西方にヒスパニア・タッラコネンシスの各属州と接していた。現在のフランス南部、ラングドック地方およびプロヴァンス地方に該当する。 ガリア・トランサルピナ(Gallia Transalpina、「アルプスの向こうのガリア」)とも呼ばれ、早くから属州化が進んでいた地域である。元老院に任命されたプロコンスルが統治する元老院属州であった。.

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ガリア・アクィタニア

リア・アクィタニア(Gallia Aquitania ガッリア・アクィタニア)は、ローマ帝国の属州のひとつ。かつてのアクィタニア地方であり、現在のフランス南西部アキテーヌ地方に該当する。東方にガリア・ルグドゥネンシス、南方にガリア・ナルボネンシス、西方にヒスパニア・タッラコネンシスの各属州と接していた。.

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キリル文字

リル文字(キリルもじ、Кириллица、Cyrillic alphabet、キリール文字とも)は、主にスラヴ諸語を表記するのに用いられる表音文字の体系の一種である。日本等では特にロシア語の文字として知られ、ロシア語で使う 33 文字(大文字小文字を同一視して)は、ロシア文字とも呼ばれる。しかし、キリル文字はブルガリア語やセルビア語をはじめとする多くの言語で使用されており、文字もそれぞれ微妙に異なる。そして、キリル文字発祥の地はブルガリアであるとされるため、キリル文字の総称としてロシア文字と呼ぶのは不適当である。.

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キリスト教

リスト教で最も頻繁に用いられるラテン十字 アギア・ソフィア大聖堂にある『全能者ハリストス』と呼ばれるタイプのモザイクイコン。 キリスト教(キリストきょう、基督教、Χριστιανισμός、Religio Christiana、Christianity)は、ナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年11月20日、第一版、714頁。 小学館、コトバンク。。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。その多く(正教会正教会からの出典:・東方諸教会東方諸教会からの出典:・カトリック教会カトリック教会からの出典:・聖公会聖公会からの出典:・プロテスタントルーテル教会からの出典:改革派教会からの出典:バプテストからの出典:メソジストからの参照:フスト・ゴンサレス 著、鈴木浩 訳『キリスト教神学基本用語集』p103 - p105, 教文館 (2010/11)、ISBN 9784764240353など)は「父なる神」「御父」(おんちち、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)。と「その子キリスト」「御子」(みこ、『ヨハネによる福音書』3:35〈『新共同訳聖書』〉)・「子なる神」。と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。 世界における信者数は20億人を超えており、すべての宗教の中で最も多い。.

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キリスト教徒

リスト教徒(キリストきょうと、Christianus; クリスティアーヌス)あるいはクリスチャン(Christian)とは、キリスト教の信徒のことである。 キリスト教はいくつかの教派に分かれているが、ナザレのイエスを救世主キリスト(メシア)と信じ、旧約聖書に加えて、新約聖書に記されたイエスや使徒たちの言行を信じ従い、その教えを守る者がキリスト教徒であると言える。 日本では、明治時代以前、キリスト教徒のことを「キリシタン」と呼んだ。近現代の日本のキリスト教徒はキリスト者(きりすとしゃ)と自称することがある。日本正教会ではロシア語から「ハリスティアニン(Христианин)」との転写も用いられる。.

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キリスト教哲学

リスト教哲学(Christian philosophy)とは、キリスト教内における哲学的営みのこと。ユダヤ哲学やイスラム哲学と同じく、キリスト教的環境・思想内にギリシア哲学、特にプラトンやアリストテレス、ストア派、更にはネオプラトニズムやグノーシス主義の思想が吸収されて成立した思想態度・思想内容を指す。 古代の教父哲学(2世紀-8世紀末)、中世のスコラ哲学(9世紀-15世紀末)を主な内容とし、特に後者は欧州における中世哲学の主流を成した。.

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キエフ大公国

フ大公国(キエフたいこうこく)は、9世紀後半から1240年にかけてキエフを首都とした東欧の国家である。正式な国号はルーシ(古東スラヴ語: Русь)で、日本語名はその大公座の置かれたキエフに由来する。 10世紀までにキリスト教の受容によってキリスト教文化圏の一国となった。11世紀には中世ヨーロッパの最も発展した国の一つであったが、12世紀以降は大公朝の内訌と隣国の圧迫によって衰退した。1240年、モンゴル来襲によってキエフは落城し、事実上崩壊した。.

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ギリシャ

リシャ共和国(ギリシャきょうわこく、ギリシャ語: Ελληνική Δημοκρατία)、通称ギリシャは、南ヨーロッパに位置する国。2011年国勢調査によると、ギリシャの人口は約1,081万人である。アテネは首都及び最大都市であり、テッサロニキは第2の都市及び中央マケドニアの州都である。.

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ギリシア語

リシア語(ギリシアご、現代ギリシア語: Ελληνικά, または Ελληνική γλώσσα )はインド・ヨーロッパ語族ヘレニック語派(ギリシア語派)に属する言語。単独でヘレニック語派(ギリシア語派)を形成する。ギリシア共和国やキプロス共和国、イスタンブールのギリシア人居住区などで使用されており、話者は約1200万人。また、ラテン語とともに学名や専門用語にも使用されている。省略形は希語。.

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クリミア半島

リミア半島(クリミアはんとう)、または単にクリミア(Crimea, Крым, Крим, Qırım)は、黒海の北岸にある半島。面積は2万6844km2、2014年1月1日時点の人口は235万3100人。 1991年の独立以来ウクライナに属していたが、2014年のクリミア危機でロシアへの編入の是非を問う住民投票が行われて以降、帰属についてロシアとウクライナの間で係争状態にある。ロシアは自国に編入したと主張し、実効支配しているが、ウクライナではクリミア編入はウクライナ憲法に違反しているとして現在もウクライナの領土の一部であると主張し、日本を含め国際社会の多くが支持している。.

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クリミアゴート族

リミアゴート族(-ぞく)は、黒海周辺の土地、それもクリミア半島にとどまったゴート族のこと。ゴート族の中では最も弱く、最も無名であったが、皮肉にも、ゴート族の社会において最も長く存続した。 クリミアゴート族は、ドロス(後の)周辺を牙城に存在し続け(:en:Metropolitanate of Gothia)、1500年代にクリミア・ハン国に組み込まれるまでの間、族長が東ローマ帝国、ハザール、キプチャク・ハン国、蒙古、ジェノヴァ共和国などの列強に忠勤を誓った。 他のゴート族と同じく当初はアリウス派を奉じていたが、500年代までには完全にギリシャ正教に鞍替えした。8世紀にゴート人主教イオアンニスは、ハザールの専制に対して叛旗を翻したが、失敗している。 クリミアゴート族の多くはギリシャ語の話者であったため、コンスタンティノープルの政府から「ゴティア Gothia」と呼ばれた。しかしながらこの地域の、遅くとも1500年代のクリミアゴート語の文書が現存しており、1700年代までクリミアゴート族社会は無傷のまま存続し続けた。18世紀後半にエカチェリーナ2世によって多くの部族民が強制退去させられ、クリミアゴート語は1800年代までに死語となった。 ロシア南部の、いわゆるヴォルガドイツ人はクリミアゴート族ではない。ヴォルガドイツ人の言語は西ゲルマン語群であったのに対して、ゴート語は東ゲルマン語群に属していた。.

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クリュニー修道院

リュニー修道院(クリュニーしゅうどういん、正式名称はサン=ピエール・エ・サン=ポール・ド・クリュニー修道院。フランス語:Abbaye de Saint-Pierre et Saint-Paul de Cluny)は、当時のブルグント王国内で現在のフランス・ブルゴーニュ地方のソーヌ=エ=ロワール県・クリュニーに909年9月11日(910年とする説もある)、アキテーヌ公ギヨーム1世により創建されフランス革命まで存続したベネディクト会修道院である。.

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クルスス・ホノルム

ルスス・ホノルム(ラテン語:Cursus honorum)とは、共和政ローマ期及び初期の帝政ローマ期の、政治的な野心を持ったローマ人(主に名門のノビレス(貴族)階級者が対象)が、最高の官位であった執政官(コンスル)に就任するまでの取るべき進路のことを指す。日本語では「名誉のコース」「名誉のキャリア」などと訳される。.

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クレーフィ

レーフィ(Clefi, ? - 574年)は、イタリア王及びロンゴバルド王(在位:572年 - 574年)。.

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クロヴィス1世

ヴィス1世クロヴィスはフランス語読み。古代ラテン語表記のクロウィス(Clovis)、ラテン語ではクロドウェクス(Chlodovechus)または古高ドイツ語および中高ドイツ語表記のクロードヴェヒ、クロートヴィヒ(Chlodowech, Chlodwig)と長音される表記もみられる。現代フランス語のルイ(Louis)、現代ドイツ語のルートヴィヒ(Ludwig)に当たる。(Clovis Premier,, 466年頃 - 511年11月27日)は、メロヴィング朝フランク王国の初代国王(在位481年 - 511年)である。日本では大半の書籍では、フランス語読みの「クロヴィス」でなく、英語ないしドイツ語読みに近いクローヴィス1世の表記が用いられる。 クロヴィスは一夫多妻制の生活を送っていたが、妻の1人であった王妃クロティルドの影響で、キリスト教アタナシウス派(カトリック教会)に改宗して、これを保護したのでガリアでの布教活動に大きな貢献があった。.

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クーファ

ーファ(Kūfa كوفة)はイラクの都市。ナジャフ県に属する。2003年当時の人口は約110,000人大野「クーファ」『世界地名大事典』3、343頁。現在のクーファの市街地は、7世紀に建設されたクーファ遺跡の近郊に位置する太田「クーファ」『岩波イスラーム辞典』、332頁。町の名前はアラビア語で「円形の砂丘」、ナバタイ語で「赤い砂」を意味する花田「クーファ」『新イスラム事典』、209頁。.

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クテシフォン

テシフォン(Ctesiphon)はイラクにある古代都市の遺跡。バグダードの南東、チグリス川東岸に位置する。.

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クシャーノ・サーサーン朝

ャーノ・サーサーン朝(クシャノササン朝、インド・サーサーン朝)は、3世紀と4世紀、及び6世紀から7世紀の間、インド亜大陸の北西部に支配を確立したサーサーン朝の分流である。.

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クタイバ・イブン・ムスリム

タイバ・イブン・ムスリム (قتيبة بن مسلم、全名: أبو حفص قتيبة بن أبي صالح مسلم بن عمرو الباهلي) (669–715/716) は、ウマイヤ朝カリフ国に仕えたアラブ人の軍人であり、ホラサーン総督となり、ワリード1世 (705–715)の時代のマー・ワラー・アンナフルの征服で知られる。 優れた兵士であり行政官であった彼は、当地域のムスリム支配を確立し、マー・ワラー・アンナフルの大半までカリフ国の領域を広げた。705年から約710年までにトハーリスターン在地の小国に対するムスリム支配を確立し、ブハラの小国を征服した。また彼は710–712にホラズムを征服してサマルカンドを獲得しソグディアナの征服を完了した。のちにシルダリヤ川渓谷への道を開き、晩年にクタイバは毎年そこへ出征してフェルガナへムスリム支配を広げた。把握する人的労働力を増やすため、クタイバは大規模な在地ホラサーン人とソグド人兵士の徴用を開始し、アラブ人ムスリム兵士軍団とともに戦わせた。ワリード1世の死のあとクタイバは新体制のもと自身の地位が危うくなり、反乱を起こしたが自軍の支持を得るのに失敗し、敗北して殺害された。マー・ワラー・アンナフルにおける彼の征服のほとんどは、彼の死後失われた。740年代になってはじめてクタイバの到達線を回復し、751年のタラス河畔の戦いのあとやっと強固にムスリム支配に置かれるようになった。 中国語資料の『冊府元亀』では“屈底波”として現れる。.

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グラティアヌス

フラウィウス・グラティアヌス(Flavius Gratianus, 359年4月18日か5月23日 - 383年8月25日)は、ローマ帝国の皇帝(在位:375年 - 383年)。.

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グレートブリテン島

レートブリテン島(グレートブリテンとう、Great Britain、Britannia Maior)は、北大西洋に位置する島で、アイルランド島、マン島などとともにブリテン諸島を構成する。ヨーロッパ大陸からみるとドーバー海峡を挟んで北西の方向にあたり、ヨーロッパ地域の一部である。面積は209,331km2で、世界で9番目に大きい島である(島の一覧参照)。イギリスの国土の中心的な島で、同国の首都ロンドンをはじめとする多くの大都市を有する。 グレートブリテン島は、政治的に見ると、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」の構成要素であるイングランド、スコットランド、ウェールズの3つの「国(カントリー)」からなる。.

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グレゴリウス1世 (ローマ教皇)

レゴリウス1世(Gregorius I, 540年? - 604年3月12日)は、ローマ教皇(在位:590年9月3日 - 604年3月12日)。問答者グレゴリウス(Dialogos Gregorios)、大聖グレゴリウスとも呼ばれる。典礼の整備、教会改革で知られ、中世初期を代表する教皇である。四大ラテン教父の一人。ローマ・カトリックでは聖人、教会博士であり、祝日は9月3日。 東方正教会でも聖人で記憶日は3月25日。日本ハリストス正教会では先備聖体礼儀の作成者・ロマの「パパ」問答者聖グリゴリイ(鍵括弧原典ママ)と呼ばれる。.

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ケルト系キリスト教

アイルランドにキリスト教を伝えたパトリキウス ケルト系キリスト教(ケルトけい キリストきょう、Celtic Christianity) は、ケルト系共同体によって受容され、実践されたキリスト教である。ケルト教会 (Celtic Church) とも言う。中世前期のアイルランドからスコットランド、イングランド北部に広がり、その修道院制度は西ヨーロッパにも伝えられた。西欧の歴史から一度は消滅したこの流れが近年再びケルト教会として蘇っている。.

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ケルズの書

このページはヨハネによる福音書であり、豪華な装飾がなされている ケルズの書(ケルズのしょ、The Book of Kells)は、8世紀に制作された聖書の手写本。.

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ゲルマン人

1世紀のゲルマニア。スエビ人(おそらくケルト系が主)やヴァンダル人(おそらくスラヴ系が主)など、母語がゲルマン語派の言語かどうかが怪しまれている民族も含まれている。 ゲルマン人(ゲルマンじん、ドイツ語:Germanen)は、現在のドイツ北部・デンマーク・スカンディナヴィア南部地帯に居住していたインド・ヨーロッパ語族 - ゲルマン語派に属する言語を母語とする諸部族・民族百科事典マイペディア、平凡社。。先史時代,歴史時代初めのゲルマン語を話す部族および部族連合を原始ゲルマン人、または古ゲルマン人と呼ぶ日本大百科全書(ニッポニカ)「ゲルマン人」平城照介。原始ゲルマン人は中世初期に再編されゲルマン民族となり、4世紀以降フン人の西進によって、ゲルマン系諸民族は大移動を開始し、ローマ領内の各地に建国して、フランク、ヴァンダル、東ゴート・西ゴート、ランゴバルドなどの新しい部族が形成された。 原始ゲルマン人は現在のデンマーク人、スウェーデン人、ノルウェー人、アイスランド人、アングロ・サクソン人、オランダ人、ドイツ人などの祖先となった。アングロ・サクソン人になったゲルマン人系部族にはアングル人、サクソン人、ジュート人、フリース人がいた岩谷道夫「スエービーとアレマンネン」法政大学キャリアデザイン学部、2004。.

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コルンバ

『聖コルンバ』(1906年、John R Skeltonによる) 聖コルンバ(Saint Columba、521年12月17日 - 597年6月9日)は、アイルランド出身の修道僧で、スコットランドや北部イングランド布教の中心となったアイオナ修道院を創設した。アイルランド語ではコルム・キル(Colum Cille)。これは教会の鳩を意味する語句である。カトリック教会、聖公会、ルーテル教会、正教会の聖人。アイルランド、スコットランドの守護聖人。祝日は6月9日。.

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コルンバヌス

ルンバヌス(Columbanus, Columbán コルンバン、543年 - 615年11月21日)は、アイルランド出身の修道士。カトリック教会の聖人暦では聖コロンバン修道院長。コロンバヌスと表記されることもある。混同しやすいので注意が必要だが、同じくアイルランド出身の修道士コルンバと対比して小コルンバとも称される。 フランスからアルプス北麓、北イタリアにかけて、西ヨーロッパの広い地地域に宣教して、大きな影響を遺したことから、「ヨーロッパの聖人」・「ヨーロッパの父」と評されることがある教皇ベネディクト十六世の141回目の一般謁見演説。.

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コルドバ (スペイン)

ルドバ(Córdoba)は、スペイン・アンダルシア州コルドバ県のムニシピオ(基礎自治体)。コルドバ県の県都である。グアダルキビール川に面する。 かつての後ウマイヤ朝の首都で、イスラム時代の文化を伝える建築物や街路が遺されている。メスキータやユダヤ人街を含む「コルドバ歴史地区」は世界遺産に登録されている。.

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コンラート2世 (神聖ローマ皇帝)

ンラート2世(Konrad II., 990年7月12日? - 1039年6月4日)は中世ドイツの王(在位:1024年 - 1039年)、イタリア王(在位:1026年 - 1039年)及びブルグント王(在位:1033年 - 1039年)、並びに西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1027年 - 1039年)。ザーリアー朝初代のローマ皇帝で、ザクセン朝初代皇帝オットー1世大帝の女系の玄孫。ローマ皇帝としては唯一の「コンラート」であるが、東フランク王コンラート1世との区別のため「2世」とするのが一般的である。.

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コンスタンティノープル

ンスタンティノープル(Constantinople、: Constantinopolis、: Κωνσταντινούπολις)は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンディヌーポリ総主教庁が置かれている。.

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コンスタンティノープル大学

タンティノープル大学(University of Constantinople、別名Pandidakterion (Πανδιδακτήριον)、 University of the palace hall of Magnaura (Πανδιδακτήριον της Μαγναύρας)、 は、テオドシウス2世が西暦425年にローマ・ビザンツ帝国に開設し、15世紀まで運営されていた教育機関・大学。  同時代には、アンティオキア、アレクサンドリアでも類似教育機関が存在した.

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コンスタンティノス7世

ンスタンティノス7世“ポルフュロゲネトス”(ギリシア語:Κωνσταντίνος Ζʹ ὁ Πορφυρογέννητος, Kōnstantinos VII ho Porphyrogennētos, 905年? - 959年11月9日)は、東ローマ帝国マケドニア王朝の皇帝(在位:913年 - 920年、944年 - 959年 共同皇帝:920年 - 944年 )。「ポルフュロゲネトス」は「緋色の産室生まれ(皇帝の嫡子)」を意味するあだ名(後述)。帝国史上随一の文人皇帝で、「マケドニア朝ルネサンス」と呼ばれるビザンティン文化の黄金時代を築いた。中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス7世“ポルフィロエニトス”」となる。.

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コーンウォール

ーンウォール(Cornwall; Kernow ケルノウ)は、イングランド南西端の典礼カウンティかつ単一自治体である。連合王国の最も南および西に位置し、コーンウォール州とも呼ばれる。形容詞は英語で"Cornish"(「コーニッシュ」)である。州都はボドミン。独自の文化や言語、帰属意識を持った地域であり、イングランドの他の地域とは趣を異にしている。コーンウォール語で「Kernow」 あるいは「Curnow」と綴られる。6つのケルト地域のうちの1つである。名目上は、連合王国の国王の長男が世襲の爵位であるコーンウォール公として領有する。.

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コーカサス

ーカサス山脈 コーカサス()、またはカフカース、カフカス( (ラテン文字転写例: Kavkaz)、、、)は、黒海とカスピ海に挟まれたコーカサス山脈と、それを取り囲む低地からなる面積約44万km2の地域である。コーカサスの漢字表記は高加索。 英語のコーカサス、ロシア語のカフカースとも (Kaukasos; カウカーソス)に由来する。 「カウカーソス」自体は、一説に、古代スキタイ語のクロウカシス(白い雪)に由来するとされる。 コーカサス山脈を南北の境界として北コーカサスと南コーカサス(ザカフカジエ、ザカフカース、トランスカフカス、外カフカース)に分かれ、北コーカサスはロシア連邦領の北カフカース連邦管区および南部連邦管区に属する諸共和国となっており、南コーカサスは旧ソ連から独立した3共和国からなる。北コーカサス(ロシア)はヨーロッパに区分され、南コーカサスは西アジアに区分されることもあるがヨーロッパに区分されることもある。 全体的に山がちな地形で、山あいには様々な言語、文化、宗教をもった民族集団が複雑に入り組んで暮らしており、地球上でもっとも民族的に多様な地域であると言われる。 ケフィア発祥の地で、しばしば、この地方の人々は、ケフィアを飲んでいるために長寿であると喧伝されるが、統計的に見て、この地方の人々が長寿であるという科学的根拠はない。.

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ゴート族

ート族(ゴートぞく、、Gothe(または Gote))は、古代ゲルマン系の民族で、東ゲルマン系に分類されるドイツ平原の民族。ゴットランドからウクライナに移動した後、いわゆる「ゲルマン民族の大移動」によってイタリア半島やイベリア半島に王国を築いた。ローマ帝国の軍勢と戦い、壊滅的打撃を与えたこともある精強な軍を持った民族である。また、ゲルマン系のなかでは早くからローマ帝国の文化を取り入れて独自のルーン文字を残したほか、ローマ軍に傭兵として雇われるなど、後期のローマ帝国の歴史において大きな役割を担った。.

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シチリア

チリア島(Sicilia, シチリア語: Sicìlia)は、イタリア半島の西南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海最大の島である。 周辺の島を含めてシチリア自治州を構成している。この州はイタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はパレルモ。.

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シメオン1世

メオン1世が刻まれた銅貨 シメオン1世が刻まれたもう一種類の銅貨 シメオン1世(Симеон I, 863年頃 - 927年5月27日)は、第一次ブルガリア帝国の君主(在位:893年 - 927年)。ボリス1世の三男。一時期は東ローマ帝国を圧倒し、自らを「ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主」と称した。シメオン大帝とも呼ばれる。.

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シリア属州

リア(シュリア)属州の位置(120年頃のローマ帝国) シリア属州(provincia Syria)は、紀元前1世紀にシリア地方に設立されたローマ帝国の属州。紀元前64年にグナエウス・ポンペイウスがセレウコス朝を倒してローマに編入した。ローマ帝国および東ローマ帝国が7世紀の間にわたり支配していたが、637年にイスラム帝国に征服された。なお、ラテン語の原音表記による「シュリア属州」とも称される。.

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シルウェステル2世 (ローマ教皇)

ーリヤックにあるブロンズ像 シルウェステル2世(Silvester II, 950年? - 1003年5月12日)は、フランス人初のローマ教皇(在位:999年 - 1003年)。本名オーリヤックのジェルベール(仏:Gerbert d'Aurillac)、ラテン語名ゲルベルトゥス(Gerbertus)。千年紀をまたいだ教皇であり、数学者・天文学者として10世紀の西欧世界において傑出した人物である。.

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シンド州

ンド州(Sindh)はパキスタン南部の州。人口4237万8千人(2008年推計)、面積140,914km2。パキスタンのアラビア海沿岸部東側、インダス川下流部にあたり、バローチスターン州、パンジャーブ州、およびインドのラージャスターン州、グジャラート州に接する。研究者などはスィンド州と表記することが多い。.

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ジュート人

ュート人(Jutes(、ジューツ)、Jüten(、ユーテン))は、西方系ゲルマン人の一種。 原住地は、ジュート人が住む地の意味のユトラント半島北部やヴェーゼル川河口の地域。 ゲルマン民族の大移動の時代には、北方系のデーン人の到来により圧迫されアングル人やサクソン人とともにブリテン島に移住した。 七王国の一つケント王国を建国したといわれ、領内のカンタベリーからキリスト教がブリテン島に広まった。後にジュート人はアングロ・サクソン人に同化し、その痕跡を止めていない。.

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ジローナ

ーナ()は、スペイン・カタルーニャ州ジローナ県のムニシピ(基礎自治体)。ジローナ県の県都である。カスティーリャ語による表記はGerona(ヘローナ)。自治体公式名称はカタルーニャ語名の。.

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ジブラルタル

ブラルタル(Gibraltar)は、イベリア半島の南東端に突き出した小半島を占める、イギリスの海外領土。.

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スペイン辺境領

ペイン辺境領(Marca Hispánica、Marca Hispànica)は、フランク王国のカール大帝によって設置された辺境領。.

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スポレート公国

ポレート公国(イタリア語:Ducato di Spoleto)は、イタリア中部にあった古い国(570年 - 1198年)で、当初は現在のアブルッツォ州、ラツィオ州、マルケ州、ウンブリア州の各州の一部または全部を含んでいた。時代を経ると、同じ名前だがより狭い領域となり、教皇国家に併合され一つの県となった。.

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スラヴ人

南スラヴ人 スラヴ人(スラヴじん)は、中欧・東欧に居住し、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派に属する言語を話す諸民族集団である。ひとつの民族を指すのではなく、本来は言語学的な分類に過ぎない。東スラヴ人(ウクライナ人、ベラルーシ人、ロシア人)・西スラヴ人(スロバキア人、チェコ人、ポーランド人)・南スラヴ人(クロアチア人、セルビア人、ブルガリア人など)に分けられる。言語の共通性は見られ、特に西スラヴと東スラヴは時により北スラヴと分類されることがある。.

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スヴャトスラフ1世

ヴャトスラフ1世(古東スラヴ語:Свѧтославъ Игоревичь;ウクライナ語:Святослав Ігоровичスヴャトスラーウ・イーホロヴィチュ;ロシア語:Святослав Игоревичスヴィタスラーフ・イーガリェヴィチ、942年頃 - 972年)は、キエフ大公国の大公(在位945年 - 972年)。キエフ大公イーゴリ1世とオリガの子。ハザール王国を滅ぼし、キエフ・ルーシの最大版図を築いた。.

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スティリコ

フラウィウス・スティリコ(Flavius Stilicho 365年 - 408年8月22日)は、西ローマ帝国の軍人。.

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スウェーデン

ウェーデン王国(スウェーデンおうこく、スウェーデン語: )、通称スウェーデンは、北ヨーロッパのスカンディナヴィア半島に位置する立憲君主制国家。首都はストックホルム。西にノルウェー、北東にフィンランドと国境を接し、南西にカテガット海峡を挟んでデンマークと近接する。東から南にはバルト海が存在し、対岸のロシアやドイツとの関わりが深い。法定最低賃金は存在しておらず、スウェーデン国外の大企業や機関投資家に経済を左右されている。.

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スウェーデン人

ウェーデン人(スウェーデンじん、svenskar)は、スウェーデンの国民、または、北欧スカンディナヴィア半島に分布するゲルマン民族の総称。以下、後者についてここで解説する。 主にスウェーデンをはじめ、ノルウェー、フィンランドに住んでいる。 98年、タキトゥスの記した「ゲルマニア」によると、強勢な種族 "Suiones"()の存在が確認出来る。北欧神話によれば、スヴェーア人は古代の紀元前1世紀頃の王にまで遡ることが出来、2世紀にはルーン文字を使用していた。スヴェーア人たちは、ヴァイキング活動の最中に纏まりを見せ、10世紀までにスウェーデン王国を形成した。なお、東方及び東欧に進出したヴァイキングの中には、ルーシ族などがヴァリャーグを構成し、ルーシ諸国家(キエフ・ルーシ等)の建設を担ったとされるが、これもスヴェーア人を含んだゲルマン人だとされている。 これらのスヴェーア人によってスウェーデン人が形成されたものと思われるが、民族としてのスウェーデン人は16世紀のデンマークを盟主としたカルマル同盟からの独立によって成立したと言える。フィンランドにいるスウェーデン人は、北方十字軍以降に移住したスウェーデン系フィンランド人を指す。また19世紀から20世紀にかけてアメリカ合衆国に移住したスウェーデン人は、スウェーデン系アメリカ人と言い、主に北部に移住している(アメリカ移民と同時期にカナダに移住したスウェーデン人は、スウェーデン系カナダ人を形成した)。 スウェーデン語を母語とするスウェーデン人は、現在、本国スウェーデンの他、フィンランドとフィンランドの自治領オーランド諸島に住む。南部のスコーネ県はデーン人に由来し、現在もデンマーク語に近い方言を話すが、一般的にはスウェーデン人に含まれる。なお、スウェーデン国内には、サーミ人やフィンランド人も少数おり、近年は移民も受け入れている。宗教はプロテスタント系のルター派(ルーテル教会)が多数を占めており、国教(スウェーデン国教会)となっている。近年の世論調査では、90%がスウェーデン人を自認している。.

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スエビ族

ビ族(Suebi、Suevos、Sueben、阿: Suebe、Suèves、Suebi)は、古代ヨーロッパの民族。「スエヴィ」「スエボス」「シュエビ」「スウェイビア」とも呼ばれる。 タキトゥスの『ゲルマーニア』に言及があり、いわゆるゲルマン系に属する民族として描かれるがケルト系の説もあるなど、その民族系統は不明である。.

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スカンディナヴィア

ンディナヴィア スカンディナヴィア(Scandinavia (スキャンダネイヴィア))は、ヨーロッパ北部のスカンディナヴィア半島周辺の地域。.

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スコラ学

ラ学はラテン語「scholasticus」(学校に属するもの)に由来する言葉で、11世紀以降に主として西方教会のキリスト教神学者・哲学者などの学者たちによって確立された学問のスタイルのこと。このスコラ学の方法論にのっとった学問、例えば哲学・神学を特にスコラ哲学・スコラ神学などのようにいう。.

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スコットランド人

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スタラヤ・ラドガ

ラドガの石造りの要塞は12世紀に建設され、その4世紀後に再建されている スタラヤ・ラドガ(ラドガ、スターラヤ・ラドガ、ロシア語:Ста́рая Ла́дога;ラテン文字表記: Staraya Ladoga)は、ノース人のサガでは「アルデイギュボルグ」(Aldeigjuborg)と呼ばれているロシア北西部の古代の街。現在はロシア・レニングラード州のヴォルホフスキー地区にある小さな村である。ラドガ湖の南、ヴォルホフ川を若干遡った位置にある。 8世紀および9世紀、この地には東ヨーロッパでも有数の豊かさを誇った交易拠点ラドガがあり、ノルマン人のルーシ族が支配者であった。現在のロシア人の起源の一つであるルーシの都であったことから、ラドガは「ロシア最初の都」とも呼ばれる。.

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セルビア人

ルビア人(セルビア語:Срби / Srbi)は、主にセルビアやボスニア・ヘルツェゴビナのスルプスカ共和国を中心に住む南スラブ人。血統や言語はクロアチア人・ボシュニャク人(ボスニア人)とほぼ同じだが宗教が異なる。セルビア人には正教会信徒が多い。.

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セプティマニア

プティマニア(Septimanie、Septimània)は、南フランス地中海沿岸のローヌ川西方の地域。 「セプティマニア」の呼称は5世紀に登場する。西ローマ帝国末期の元老院議員シドニウス・アポリナリスの書簡の中には、ゴール地方南部を指す語として「セプティマニア」の地名が言及されている。カロリング朝フランク王国カルル1世 (大帝) 時代に、南フランスのアキタニア地方、プロヴァンス地方とともに後期ローマ時代のラティフンディウム、コロナツス制 などの大土地所有制度にゲルマン的な従士制度が結合し、現在の騎士道物語につがなるヨーロッパでの封建制が早くから進展したことで知られている。.

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ターリク・イブン・ズィヤード

ターリク・イブン・ズィヤード(طارق ابن زياد Ṭāriq ibn Ziyād 生年不詳 - 720年)は、イベリア半島を征服したウマイヤ朝の軍人。.

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サラセン人

ラセン人()とは、中世ヨーロッパ世界でイスラム教徒を指した言葉。 アラビア半島北西部の遊牧アラブ人を指して使われたギリシア語のサラケーノイ(Sarakēnoi)、ラテン語のサラケニ(Saraceni)に由来する。古い例では2世紀に、プトレマイオスが地理書の中でこの語を用いている。"Sarakenoi"は、エウセビオスの『教会史』の中のデキウス帝によるキリスト教徒迫害に関する箇所で、「アラビアの山中で、蛮人'sarkenoi'に奴隷にされた」とアレクサンドリアのディオニシオスが記していると語られている。『ローマ皇帝群像』にもペスケンニウス・ニゲルが"Saraceni" に攻撃されたとの記述があり、古典作家は、これらの遊牧民を意味する語として使用したと考えられる。 7世紀にイスラム勢力が台頭すると、ヨーロッパ人はこの古典に登場する名をアラブ人に対して使うようになり、十字軍などで東西交流が活発になった中世以降には、もっぱらムスリム一般を指す呼称となった。なお、ムスリム側は西欧人を総称してフランク人と呼んだ。 日本においてすらヨーロッパ中心史観的な立場で歴史記述がなされてきた影響で、初期のムハンマド自身や彼の後継者であるカリフ達に指導されたイスラム共同体(ウンマ)政権は、中世以来ヨーロッパ人が用いてきたこの呼称に倣って、サラセン帝国と呼ばれていた。しかし、近年ではヨーロッパを中心に歴史を解釈する姿勢が好まれなくなり、実情に沿ったものとして提案されたイスラム帝国と称されるのが通例である。現代の日本では、サラセン人、サラセン帝国といった語彙が、歴史学史的な文脈以外で、アラブ人やイスラム教徒に対して使われることは稀である。 ちなみに、イタリア車のアルファロメオのエンブレムには人を呑み込む大蛇の図柄が描かれているが、大蛇はミラノ公・ヴィスコンティ家(十字軍)を、大蛇に飲み込まれている人は聖地を冒涜(侵略)したサラセン人を表しており、「十字軍がサラセン人を退治していることを表している」とも言われている。.

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サルマタイ

ルマタイ(ギリシア語:Sarmatai、ラテン語:Sarmatae、英語:Sarmatians)は、紀元前4世紀から紀元後4世紀にかけて、ウラル南部から黒海北岸にかけて活動したイラン系遊牧民集団。紀元前7世紀末からウラル南部にいたサウロマタイに紀元前4世紀頃東方から移動してきた遊牧民が加わって形成されたとされる。サルマタイはギリシア語であり、ラテン語ではサルマタエとなる。また、彼らのいた黒海北岸地域をその名にちなんでサルマティアと呼ぶため、サルマティア人とも呼ばれる。 紀元前1世紀頃の黒海周辺諸族。.

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サルデーニャ

ルデーニャ(Sardegna)は、イタリア半島西方、コルシカ島の南の地中海に位置するイタリア領の島。地中海ではシチリア島に次いで2番目に大きな島である。 周辺の島を含めて、サルデーニャ自治州を構成している。この州は、イタリアに5つある特別自治州のひとつである。州都はカリャリ(カリアリ)。.

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サン・ヴィターレ聖堂

ン・ヴィターレ聖堂北東部ファサード サン・ヴィターレ聖堂(Basilica di San Vitale)は、イタリアのラヴェンナにあるビザンティン建築・初期キリスト教建築の代表的な聖堂(教会堂)であり、カトリック教会のバシリカ。6世紀前半に建設された。ラヴェンナでは非常に著名な聖堂であるが、司教座聖堂ではなく、聖ウィタリスの聖遺物を信仰するためのマルティリウム(殉教者記念礼拝堂)である。八角形の集中式平面というかなり特殊な平面構成を持ち、9世紀の歴史家アグネルスは、他のいかなるイタリアの教会建築とも類似しないと述べている。 ラヴェンナは、6世紀以降東ローマ帝国のイタリア統治の拠点として総督府が置かれ、繁栄を謳歌したが、8世紀初頭には東ローマ帝国から分離・衰退した。このため東ローマ帝国での聖像破壊運動の影響を受けることはなく、サン・ヴィターレの内陣部には初期ビザンティン美術の美しいモザイク画が残る。 近接して、ガッラ・プラキディア廟堂が建つ。周辺の建造物と共に世界遺産に登録されている。.

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サーマーン朝

ーマーン朝(سامانيان Sāmāniyān, 873年 - 999年)は、中央アジア西南部のマー・ワラー・アンナフルとイラン東部のホラーサーンを支配したイラン系のイスラーム王朝。 首都はブハラ。中央アジア最古のイスラーム王朝の1つに数えられる間野、中見、堀、小松『内陸アジア』、68頁。ブハラ、サマルカンド、フェルガナ、チャーチュ(タシュケント)といったウズベキスタンに含まれる都市のほか、トルクメニスタンの北東部と南西部、アフガニスタン北部、イラン東部のホラーサーン地方を支配した。 サーマーン家の君主はアッバース朝の権威のもとでの地方太守の格であるアミールの称号を名乗り、アッバース朝のカリフの宗主権のもとで支配を行ったが、イスラーム世界において独立王朝が自立の証とする事業を行い、アッバース朝の東部辺境で勢力を振るった。 サーマーン朝の時代に東西トルキスタン、およびこれらの地に居住するトルコ系遊牧民のイスラーム化が進行した。 英主イスマーイール・サーマーニーはウズベキスタンとタジキスタンで民族の英雄として高い評価が与えられ、タジキスタンの通貨単位であるソモニは、サーマーニーに由来している帯谷知可「イスマーイール・サーマーニー」『中央ユーラシアを知る事典』収録(平凡社, 2005年4月)、54-55頁。このイスマーイールが事実上の王朝の創始者と見なされている江上『中央アジア史』、478-479頁。.

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サーサーン朝

ーサーン朝(サーサーンちょう、Sassanid、ساسانيان - 、226年 - 651年)はイラン高原・メソポタミアなどを支配した王朝・帝国。首都はクテシフォン(現在のイラク)。.

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サクソン人

ン人またはザクセン人(Saxon, Sachsen, 低ザクセン語: Sassen, 低フランク語、Saksen)は、で形成されたゲルマン系の部族である。現在のドイツのニーダーザクセン地方を形成する主体となり、またイングランド人の民族形成の基盤を成した。.

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元号

元号(げんごう)とは、日本を含むアジア東部における紀年法の一種。特定の年代に付けられる称号で、基本的に年を単位とするが、元号の変更(改元)は一年の途中でも行われ、一年未満で改元された元号もある。日本においては年号(ねんごう)とも呼ばれることもある。公称としては、江戸時代まで「年号」が多く使われ、明治時代以降は一世一元の制が定着し、「元号」が法的用語となった。現代では元号法が制度の裏付けとなっている。.

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皇帝

皇帝(こうてい、中国語: 皇帝、imperator、emperor; king of kings、Kaiser、Βασιλευς、император、İmparator)は、帝国の世襲の君主。諸王に超越する王(諸王の王)、君主国の君主の称号。皇帝という君主号には唯一神の意や、模倣・僭称も存在する。.

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神聖ローマ帝国

聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、,,, Holy Roman Empire)は、現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在していた国家。9~10世紀に成立し、1806年まで続いた。西ローマ帝国の後継国家を称した。.

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神聖ローマ皇帝一覧

聖ローマ皇帝一覧(しんせいローマこうていいちらん)では、中世から近代にヨーロッパに存在した神聖ローマ帝国の統治者を、時代順に列挙している。歴史学においては神聖ローマ皇帝の系譜はカール大帝から始めるのが通例ではあるが、ローマ帝国期のローマ皇帝、すなわちカール大帝からベレンガーリオ1世までの皇帝の一覧についてはフランク・ローマ皇帝の項目に譲る。 ザクセン朝からヴェルフェン朝までの系図.

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突厥

突厥(とっけつ、とっくつ、拼音:Tūjué、古テュルク語:【Türük】、【Türük】、トルコ語:Göktürk【ギョクテュルク】)は、6世紀に中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。もともとはジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいた部族で、柔然の隷属の下でアルタイ山脈の南麓へ移住させられ鍛鉄奴隷として鉄工に従事したが、552年に柔然から独立すると、部族連合である突厥可汗国(突厥帝国などと呼ばれることもある)を建て、中央ユーラシアの覇者となる。582年には内紛によって東西に分裂した。.

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第一次ブルガリア帝国

一次ブルガリア帝国(ブルガリア語:Първа българска държава;英語:First Bulgarian Empire)は、7世紀より11世紀前半まで続いた東ヨーロッパのブルガリアに栄えた帝国。10世紀前半におけるシメオン1世の治世に全盛期を迎えたが、東ローマ帝国によって滅ぼされた。.

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算術

算術 (さんじゅつ、arithmetic) は、数の概念や数の演算を扱い、その性質や計算規則、あるいは計算法などの論理的手続きを明らかにしようとする学問分野である。.

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算術入門

『算術入門』(さんじゅつにゅうもん、)は、ニコマコスによる数学関係の現存する唯一の著作である。哲学的な内容と基礎的な数学のアイデアの両方を含む。ニコマコスはしばしばプラトンの言葉を引用し、哲学は数学を十分知った者だけに可能となると書いている。またニコマコスは、自然数や基礎的な数学のアイデアがいかに永続的で不変か、また抽象的な領域にあるかについて書いている。それぞれ23章、29章を含む2巻からなっている。.

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音楽

音楽(おんがく、music)の定義には、「音による芸術」といったものから「音による時間の表現」といったものまで、様々なものがある。 音楽は、ある音を選好し、ある音を選好しない、という人間の性質に依存する。 音楽には以下の3つの要件がある。.

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遊牧民

遊牧民族のサーミ人 遊牧民(ゆうぼくみん)あるいは遊牧民族(ゆうぼくみんぞく)は、人類の生活類型の二大区分である移動型と定住型のうちの移動型の牧畜(遊牧)を生業とする人々や民族を指す。.

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聖ボニファティウス

聖ボニファティウス(Bonifatius、672年頃ウェセックス王国 - 754年6月5日フリースラント)は、8世紀にフランク王国にキリスト教を伝えた宣教師・殉教者である。カトリック教会、正教会、ルーテル教会、聖公会で崇敬される聖人であり、「ドイツ人の使徒」 (Apostel der Deutschen) とも呼ばれるドイツの守護聖人である。マインツ大司教(在位:745年 - 754年)。ラテン語ではボニファチウスまたはボニファキウス (Bonifacius) 、フランス語・英語ではボニファス (Boniface、英語ではボニフェイスとも発音) と呼ばれる。.

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聖職者

Таджуддин, Талгат Сафич(ムフティー、イスラームの指導者)、アレクシイ2世(モスクワ総主教、正教の指導者) 聖職者(せいしょくしゃ、κλῆρος、clerus、clergy, cleric)とは、宗教上の聖職に就いている人。(宗教的に)人々を導き、教える役割を果たしている人のことである。対義語は、平信徒。.

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荘園

荘園(しょうえん)は、公的支配を受けない(あるいは公的支配を極力制限した)一定規模以上の私的所有・経営の土地である。なお、中世の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパに見られたmanor(英語)、Grundherrschaft(ドイツ語)の訳語としても用いられている。.

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西ヨーロッパ

中東 西ヨーロッパ(にしヨーロッパ、Western Europe、L’europe de l'ouest、Westeuropa)は、西欧ともいい、ヨーロッパ地域の西部を指す。.

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西ローマ帝国

西ローマ帝国(にしローマていこく)とはローマ帝国の西半分の地域を指す呼称である。一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域と時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第一段階)以降のローマ帝国の西半分や、3世紀のガリア帝国時代が含まれることもある。 なお「西ローマ帝国」と「東ローマ帝国」は共に後世の人間による呼称であり、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、西ローマ帝国・東ローマ帝国というふたつの国家も存在しなかった。複数の皇帝による帝国の分担統治はディオクレティアヌスのテトラルキア以後の常態であり、それらは単に広大なローマ帝国を有効に統治するための便宜(複都制)にすぎなかった。ローマ帝国の東部と西部は現実には別個の発展をたどることになったものの、それらは、ひとつのローマ帝国の西方領土(西の部分)と東方領土(東の部分)だったのである。両地域の政府や住民が自らの国を単にローマ帝国と呼んだのも、こうした認識によるものである。 395年にテオドシウス1世が死去すると、その遺領は父テオドシウスの下で既に正帝を名乗っていた2人の息子アルカディウスとホノリウスに分割されたが、一般に、この時点をもって西ローマ帝国時代の始まりとされる。西ローマ帝国時代の終わりとしては、オドアケルによる476年9月4日のロムルス・アウグストゥルス廃位までとするのが一般的であるが、480年のユリウス・ネポス殺害までとすることもある。通常、この西方正帝の消滅をもって古代の終わり・中世の始まりとする。 ギリシア化を免れた西ローマ帝国では、中世においても古代ローマ式の文化と伝統とが保存された。西ローマ帝国内に定住した蛮族たちも、次第にカトリック教会に感化され、カトリック信仰やローマの文化、ローマ法を採用し、徐々に自らがローマの遺産の「真の相続者」であるという自意識を持つようになっていった。.

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西ゴート王国

西ゴート王国(にしゴートおうこく、、415年 - 711年)は、現在のフランス南部からイベリア半島にあたる地域を支配したゲルマン系王国。はじめはキリスト教アリウス派、のちにカトリックを国教とし、ゲルマン文化・ローマ文化・キリスト教文化を融合させ栄えた。ビシゴート王国とも。.

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西ゴート族

西ゴート族 西ゴート族(にしゴートぞく、Visigoth)は、ゲルマン人の一派である五十嵐 1992, p. 245.

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西スラヴ人

西スラヴ人が多数を占める国 西スラヴ人(にしスラヴじん)は、スラヴ人の中で、西スラヴ語を話すチェコ人、ポーランド人、スロバキア人、カシューブ人、 ソルブ人を指す、グループも含む。このうちカシューブ人はすでにポーランド人に同化され、ソルブ人もドイツ社会に取り込まれているが、他の西スラヴ人は今日まで彼らの文化的なアイデンティティを保ち続いている。西スラヴ人社会は西ヨーロッパ諸国に倣って神聖ローマ帝国と政治的に連携することで発展してきた。.

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論理学

論理学(ろんりがく、)とは、「論理」を成り立たせる論証の構成やその体系を研究する学問である。.

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黒海

黒海(こっかい)は、ヨーロッパとアジアの間にある内海で、大西洋の縁海(地中海 (海洋学))の一つである。マルマラ海を経てエーゲ海、地中海に繋がる。 バルカン半島、アナトリア半島、コーカサスと南ウクライナ・クリミア半島に囲まれており、ドナウ川、ドニエストル川、ドニエプル川などの東ヨーロッパの大河が注ぐ。アナトリアとバルカンの間のボスポラス海峡、マルマラ海、ダーダネルス海峡を通じて地中海に繋がっており、クリミアの東にはケルチ海峡を隔ててアゾフ海がある。 黒海に面する国は、南岸がトルコで、そこから時計回りにブルガリア、ルーマニア、ウクライナ、ロシア、ジョージアである。 黒海に面する有名な港湾には、イスタンブール(ビュザンティオン、コンスタンティノープル)から時計回りにブルガス、ヴァルナ、コンスタンツァ、オデッサ、セヴァストポリ、ヤルタ、ガグラ、バトゥミ、トラブゾン、サムスンなどがある。.

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輪作

ンザス州の農地を映した衛星写真。トウモロコシやコムギといった作物が、区画ごとに入れ替えられて栽培されている 輪作(りんさく、Crop rotation)は、農業の手法の1つで、同じ土地に別の性質のいくつかの種類の農作物を何年かに1回のサイクルで作っていく方法。.

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野蛮

野蛮(やばん)とは、文明・文化に対立する概念であり、文化の開けていない状態あるいは乱暴で礼節を知らないことを言う。未開や粗野と同義。しばしば自身を「文明」と称する人々によって相手に付けられるレッテルとして用いられる。野蛮だとされる民族は「蛮族」と呼ばれる。ここでは例として欧州人の蛮族観を説明する。.

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自然

ルングン火山への落雷(1982年) 自然(しぜん)には次のような意味がある。.

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暗黒時代

暗黒時代(あんこくじだい)とは、歴史上のある一定期間、戦乱、疫病、政情不安定などの原因により、社会が乱れ文化の発展が著しく停滞したような時代を指す。.

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東南ヨーロッパ

東南ヨーロッパ(とうなんヨーロッパ)または南東ヨーロッパ(なんとうヨーロッパ)は、ヨーロッパ南東部の地域である。 ヨーハン・ゲオルク・フォン・ハーン (1811–1869) により、バルカンを拡大した地域に対し使われたのが始まりである。 国際連合はヨーロッパを東西南北に4分し、東南ヨーロッパを置かない。東南ヨーロッパは国連の区分では東ヨーロッパと南ヨーロッパにまたがる。.

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東ヨーロッパ

中東 東ヨーロッパ(ひがしヨーロッパ)は、東欧ともいい、ヨーロッパ東部の地域を指す。時代によって「東欧」の概念は大きく変わる。広義には、かつてのヨーロッパのソ連型社会主義圏を指して「東欧」と呼んでいたが、狭義にはロシア(のウラル山脈以西)・ウクライナ・ベラルーシの三国を指す。以下は「東欧」という概念の大まかな変遷を説明する。.

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東ローマ帝国

東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国、ビザンティン帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分割統治は4世紀以降断続的に存在したが、一般的には最終的な分割統治が始まった395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。西ローマ帝国の滅亡後の一時期は旧西ローマ領を含む地中海の広範な地域を支配したものの、8世紀以降はバルカン半島、アナトリア半島を中心とした国家となった。首都はコンスタンティノポリス(現在のトルコ共和国の都市であるイスタンブール)であった。 西暦476年に西ローマ帝国がゲルマン人の傭兵隊長オドアケルによって滅ぼされた際、形式上は最後の西ローマ皇帝ロムルス・アウグストゥスが当時の東ローマ皇帝ゼノンに帝位を返上して東西の帝国が「再統一」された(オドアケルは帝国の西半分の統治権を代理するという体裁をとった)ため、当時の国民は自らを古代のローマ帝国と一体のものと考えていた。また、ある程度の時代が下ると民族的・文化的にはギリシャ化が進んでいったことから、同時代の西欧からは「ギリシア帝国」とも呼ばれた。.

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東ゴート族

東ゴート族 東ゴート族(ひがしゴートぞく、Ostrogoths)は、ゲルマン人の一派。.

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東西教会の分裂

東西教会の分裂(とうざいきょうかいのぶんれつ)は、キリスト教教会が、ローマ教皇を首長とするカトリック教会(西方教会)と、東方の正教会とに二分されたことをいう。多くのシスマ(分裂)の中でも史上最大規模だったことから大シスマとも呼ばれる。 分裂の年は、日本においては、ローマ教皇とコンスタンディヌーポリ総主教が相互に破門した1054年とされることが多い。 しかし395年にローマ帝国が東西に分割された後、476年の西ローマ帝国滅亡を経て、東西両教会の交流が薄くなり、数百年の間に教義の解釈の違い(フィリオクェ問題等)、礼拝方式の違い、教会組織のあり方の違い(教皇権に対する考え方の違い、司祭の妻帯可否等)などが増大した - (日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一) - (日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)。そうした流れの中に1054年の事件があるのであり、一応、1054年の「相互破門」が日本の世界史教科書等で一般的な目安ではあるが、異論も少なくない。1054年の相互破門自体は東西双方から解消されているが、いまだに東西両教会の「合同」は成立していない - (日本語訳:司祭 ゲオルギイ松島雄一)。 キリスト教諸教派の成立の概略を表す樹形図。更に細かい分類方法と経緯があり、この図はあくまで概略である。.

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正統カリフ

正統カリフ(せいとうカリフ、الخلفاء الراشدون - al-Khulafā’u r-Rāshidūn、アラビア語で「正しく導かれた代理人たち」の意)は、イスラム教・イスラム帝国の初期(الخلافة الراشدية - al-khilāfat ar-Rāshidīyah - en)の時代においてイスラム共同体(ウンマ)を率いたカリフのことを指すスンナ派の用語。正統カリフ4代のうちアブー・バクルを除く3代の正統カリフが暗殺されてこの世を去っている。.

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正教会

Σημειώσεις από τις παραδόσεις τού καθηγητού Ι. Δ. Ζηζιούλαより)。 正教会(せいきょうかい、Ορθόδοξη Εκκλησία、Православие、Orthodox Church)は、ギリシャ正教もしくは東方正教会(とうほうせいきょうかい、Eastern Orthodox Church)とも呼ばれる、キリスト教の教会(教派)の一つ。 日本語の「正教」、英語名の"Orthodox"(オーソドックス)は、「正しい讃美」「正しい教え」を意味するギリシャ語のオルソドクシア "ορθοδοξία" に由来する。正教会は使徒継承を自認し、自身の歴史を1世紀の初代教会にさかのぼるとしている『正教会の手引き』8頁 - 11頁。 なお「東方教会」(とうほうきょうかい)が正教会を指している場合もある。 例外はあるものの、正教会の組織は国名もしくは地域名を冠した組織を各地に形成するのが基本である。コンスタンディヌーポリ総主教庁、アレクサンドリア総主教庁、アンティオキア総主教庁、エルサレム総主教庁、ロシア正教会、セルビア正教会、ルーマニア正教会、ブルガリア正教会、グルジア正教会、ギリシャ正教会、日本正教会などは個別の組織名であって教会全体の名ではない。いずれの地域別の教会組織も、正教として同じ信仰を有している。教会全体の名はあくまで正教会であり、「ロシア正教に改宗」「ルーマニア正教に改宗」といった表現は誤りである。 なお、アルメニア使徒教会、シリア正教会、コプト正教会、エチオピア正教会なども同じく「正教会」を名乗りその正統性を自覚しているが、上に述べたギリシャ正教とも呼ばれる正教会とは別の系統に属する。英語ではこれらの教会は"Oriental Orthodox Church"とも呼ばれる。詳細は非カルケドン派正教会を参照。.

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民族移動時代

民族移動時代(みんぞくいどうじだい、)は、西暦300年から700年代にかけて、ヨーロッパで起こった人類の移住の時代のことである。この移住が古代を終わらせ中世が始まったと考えてもよい。 この移住はゲルマン系及びスラブ系の移住、更に東方系の諸民族の侵略を主体としている。これは中央アジアでのトルコ系民族の移動や、人口爆発、気候変動、疫病の蔓延、高齢化人口の増大などが要因とされる。.

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朝廷

朝廷(ちょうてい)とは、君主制下で官僚組織をともなった政府および政権で、とりわけ中国と日本におけるものを指す。また、君主が政治執務を行う場所や建物(朝堂院:朝政と朝儀を行う廟堂)。.

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海難事故

2006年10月に鹿島灘で発生した香港船籍の貨物船「オーシャン・ヴィクトリー」の座礁事故当該船は鹿島港に入港していたが、荒天のために港外に避難したのち、操船不能に陥って座礁した。座礁後しばらくは引き出しが試みられたが、荒天が続いたため作業は難航、引き出せないでいるうちに船体が破断した。積荷は鉄鉱石であり、1/3強が避難出航までに荷下ろしが間に合わず搭載されたままになっていたが、オイルタンカーではなかったため重大な汚染は発生しなかった。 積丹半島 西の河原に残骸となって今なお残る難破船。積丹半島は、船の難所であった。 海難(かいなん)あるいは海難事故(かいなんじこ)とは、一般的に、平時に海上および隣接水域における船舶に関して生じた事故で、人や船舶や積荷に損傷を生じるもののことであるブリタニカ百科事典【海難】。難破(なんぱ)(シップレック shipwreck)とも言う。 。この意味の類義語として「水難事故」があり船舶以外の海水浴での事故などについて使うことも多い。--> 本項「海難事故」では、船舶に関する事故を中心に述べる。.

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文法

文法(ぶんぽう、grammar)とは、言語の体系、およびそのモデル、およびそれをもとにした、ある個別言語の話し手が従うべき規範である。この記事ではもっぱら自然言語の文法について扱う。形式言語の文法については形式文法の記事を参照のこと。なお、「文法論(grammar)」という語が指すものと「統語論(syntax、分野等によっては構文論とも)」という語が指すものが同一のものであるとして扱われている場合もあるが、ここでは別とする。.

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教会法

教会法(きょうかいほう、ius ecclesiasticum、Ecclesiastical law、Kirchenrecht)は、広義においては、国家のような世俗的権力が定めた教会に関する法と教会が定めた法を包括した概念であるが、狭義においては、キリスト教会が定めた法のことをいい、世俗法(ius civile)と対比される概念である。最狭義においては、カトリック教会が定めた法のことをいい、カノン法(ius canonicum、Canon law、Kanonisches Recht)ともいう。以下では主に最狭義のカノン法について解説する。.

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教皇

教皇(きょうこう、Pāpa、Πάπας Pápas、The Pope)は、キリスト教の最高位聖職者の称号。一般的にはカトリック教会のローマ司教にして全世界のカトリック教徒の精神的指導者であるローマ教皇を指す。ヴァティカン市国の首長。教皇の地位は「教皇位」、あるいは「教皇座」と呼ばれる。また、教皇の権威のことを「聖座」、「使徒座」ということもある。現在の教皇はフランシスコ(第266代)。 日本語では「ローマ法王」と表記されることも多いが、日本のカトリック教会の中央団体であるカトリック中央協議会は「ローマ教皇」の表記を推奨している(後述)。またカトリックの内部では「教父」の呼称を用いる場合もある。なお、退位した教皇の称号は名誉教皇(名誉法王とも)という。 本項では主にローマ教皇について記述する。その他の教皇については称号の変遷とその他の「教皇」の節を参照。.

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教皇領

教皇領(きょうこうりょう、ラテン語:Status Pontificius, イタリア語:Stato Pontificio)は、ローマ教皇あるいはローマ教皇庁の支配していた領土である。歴史的には国家としての体裁も持ったため、教皇国、教皇国家とも呼ばれる。.

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教育

FIRST Robotics Competitionにおける学生徒弟 教育(きょういく、、education、éducation, enseignement、Bildung, Erziehung、educación、educação、Образование、تعليم)は、教え育てることであり、ある人間を望ましい状態にさせるために、心と体の両面に、意図的に働きかけることであるデジタル大辞泉。教育を受ける人の知識を増やしたり、技能を身につけさせたり、人間性を養ったりしつつ、その人が持つ能力を引き出そうとすることである。 教育の機能や効果については、さまざまなことが言われている。政治面、経済面など様々なことが挙げられている。教育は、民主化を推進することになる、と指摘されている。また経済学的に見ると、生産性が向上する、とも指摘されている。なお、教育がむしろ否定的な効果・機能を果している場合には「教育の逆機能」と呼ばれることがある。 教育を研究のする学問を教育学と言う。教育学は、哲学・心理学・社会学・歴史学などの方法を用いて教育を研究する。様々な目的で細分化されており、基礎的・基本的なものとして、教育哲学・教育社会学・教育心理学・教育史学などがあり、実践的なものとして領域教育方法論・臨床教育学・教科教育学なものがある。(中学や高校の)教師になろうとする人は、必修科目として教育学を学ぶ。(ただし大学教授は教育学を学んでいない人がなっていることは多い。) 年齢による分類もあり、乳児の場合には、その教育は乳児教育(保育)と呼ばれ、幼児の場合は幼児教育、児童の場合には児童教育、成人である場合は成人教育と呼ばれる。また、場所に着目して、家庭教育、学校教育、社会教育、世界教育(World Studies、日本では、国際理解教育と呼ぶ)という言い方もある。.

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時代区分

時代区分とは、過去を予め定められた一定数の個々の時間のブロックへと分割する過程、あるいはその研究のことである。Adam Rabinowitz.

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1千年紀

紀元1千年紀(きげんいっせんねんき)は、西暦紀元による1番目の千年紀(ミレニアム)である。西暦元年から西暦1000年(1世紀から10世紀)に当たる。.

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3世紀

ナクシュ・イ・ルスタムの磨崖像で、平伏するローマ皇帝ウァレリアヌスと騎乗のサーサーン朝皇帝シャープール1世が浮き彫りにされている。 3世紀(さんせいき)は、西暦201年から西暦300年までの100年間を指す世紀。.

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5世紀

大仙古墳。5世紀頃に築造された全長486メートルの最大級の前方後円墳で、大阪府堺市に広がる百舌鳥古墳群を代表する。伝承では仁徳天皇陵とされている。 レオ1世とアッティラの会見」。 ラヴェンナのガッラ・プラキディア廟堂。ガッラ・プラキディアは西ローマ皇帝ヴァレンティニアヌス3世の母。初期キリスト教美術を代表するモザイク壁画が残されている。 慧遠と道士の陸修静と詩人の陶淵明の邂逅が画題となっている。 雲崗石窟。北魏時代に都の平城(大同市)から西方約20キロに位置する雲崗で造営された石窟寺院。 キジル千仏洞壁画。この石窟はシルクロード沿いのオアシス国家亀茲(クチャ)によって作られたもので、この時期には仏教が大いに繁栄したと伝えられている。訳経僧として名高い鳩摩羅什もここの出身である。 アジャンター石窟寺院。インドではこの時代にグプタ様式と呼ばれる表現が発達した。画像はアジャンター石窟の壁画でパドマパーニ(蓮華手(観世音)菩薩)の像。 シーギリヤ。スリランカのシンハラ朝のカッサパ1世は父王から王位を奪い、アヌラーダプラからこの地へと遷都した。画像はシーギリヤロックの全景で、この頂上にカッサパ1世は王宮を営んだが、最後は反乱軍の攻撃を受けここで自害している。 アルメニア教会。カルケドン公会議以後にキリスト論をめぐりキリスト教は分立した。「単性論派」と呼ばれる「非カルケドン派」にはシリア・エジプト・アルメニアの諸教会がある。画像は483年に再建されたアルメニア教会のエチミアジン大聖堂。 ラテラノ大聖堂に描かれた肖像画。 5世紀(ごせいき)は、西暦401年から西暦500年までの100年間を指す世紀。.

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620年

記載なし。

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7世紀

ブリールから啓示を受けるムハンマドで、14世紀に描かれた『集史』「預言者ムハンマド伝」載録の細密画(エディンバラ大学蔵)。 聖地メッカ。ムハンマドはメッカからメディナに逃れた後、イスラム教共同体(ウンマ)を組織し、再びこの都市に現れてイスラム教の支配下に置いた。画像はメッカのカアバとそれを取り囲むマスジド・ハラーム。 岩のドーム。ユダヤ教徒やキリスト教徒にとって重要な聖地であるエルサレムはイスラム教徒にとっては預言者ムハンマドが「夜の旅(イスラー)」を行った場所であり、それを記念してこの建物が建てられた。 ハルシャ王に歓待された。旅の記録は『大唐西域記』にまとめられ、有名な伝奇小説『西遊記』のもとともなった。 ナーランダ寺院。創立はグプタ朝時代にさかのぼるが、この時代までにインド随一の仏教総合大学に発展し、唐僧玄奘もこの地で唯識派のシーラバドラ(戒賢)に学んでいる。画像は現在のビハール州に残るナーランダ寺院跡。 シュリーヴィジャヤ王国。スマトラ島を中心にマレー半島周辺に交易圏を築き上げた海洋王国で、唐僧義浄が『南海寄帰内法伝』で記録したように多くの寺院が立ち並ぶ大乗仏教の拠点でもあった。画像はシュリーヴィジャヤ様式の青銅鍍金四臂観世音菩薩像。 「天寿国繍帳」。飛鳥時代を代表する工芸の一つで聖徳太子の妃である橘大郎女の発願で作成されたとされ、斑鳩中宮寺に伝来した。 吐蕃の王ソンツェン・ガンポと二人の妃(唐から来た文成公主とネパールから来たチツン)。吐蕃はチベットを統一し唐に倣った律令体制を発展させた。 太宗。父李淵の後を継いで二代皇帝となった太宗李世民は、唐の律令体制を完成させ「貞観の治」と呼ばれる安定期をもたらした。画像は台湾国立故宮博物院が所蔵する太宗の肖像画。 洛陽郊外の龍門にある奉先寺大仏。則天武后の命で造営されたもので、大仏の顔は則天武后をモデルにしているといわれる。 National Museum of Anthropology (Mexico)蔵)。 「ギリシア火」。イスラム軍の猛攻で劣勢に置かれた東ローマ帝国もこの新兵器を用いて帝都の防衛に成功する。画像は『スキュリツェス年代記(歴史概観)』の挿絵(マドリッド国立図書館蔵)。 スペイン国立考古学博物館蔵)。 7世紀(ななせいき、しちせいき)とは、西暦601年から西暦700年までの100年間を指す世紀。.

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