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十国春秋

索引 十国春秋

『十国春秋』(じっこくしゅんじゅう)は、中国の五代十国時代の歴史を記した紀伝体の歴史書である。114巻。清初の康熙8年(1669年)、の撰による。

目次

  1. 25 関係: 南唐南漢宋 (王朝)中国乾隆康熙五代十国時代後蜀 (十国)北漢呉 (十国)呉越前蜀四庫全書総目提要紀伝体荊南載記藩鎮楚 (十国)欧陽脩歴史書洪亮吉新五代史晋書

  2. 17世紀の歴史書

南唐

南唐(なんとう、937年 - 975年)は、五代十国時代に江南に割拠した国であり、十国の一つである。首都は江寧。国号は単に唐であるが、唐と名乗った他の政権と区別するために、特にこの国の名を南唐という。文化的・経済的に繁栄し、十国の中では最大の勢力を誇ったが、華北の後周や北宋に攻め立てられて滅亡した。

見る 十国春秋と南唐

南漢

南漢(なんかん、909年 - 971年)は、中国五代十国時代に広東省・広西チワン族自治区・ベトナム北部を支配した地方政権。

見る 十国春秋と南漢

宋 (王朝)

宋(そう、拼音 Sòng、960年 - 1279年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建国した。国号は宋であるが、春秋時代の宋、南北朝時代の宋などと区別するため、帝室の姓から趙宋とも呼ばれる。国号の宋は趙匡胤が宋州(現在の河南省商丘市)の帰徳軍節度使であったことによる。通常は、金に華北を奪われ南遷した1127年以前を北宋、以後を南宋と呼び分けている。北宋・南宋もともに、宋・宋朝である。首都は開封、南遷後の実質上の首都は臨安であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分し易い歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区別し難い分野を本記事で解説する。

見る 十国春秋と宋 (王朝)

中国

中国(ちゅうごく、中國)は、ユーラシア大陸(アジア大陸)の東部を占める地域、及びそこで成立した国家をさす用語。日本では、1972年の日中国交正常化以降、中華人民共和国の略称としても使用されている。 中国統一問題を参照)。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。

見る 十国春秋と中国

乾隆

乾隆(けんりゅう、満洲語:、転写:abkai wehiyehe)は、清の高宗の治世中に使われた元号。1736年 - 1795年。 一世一元の制であったため高宗は乾隆帝と称される。 中国史上、康熙に次いで2番目に長く用いられた元号である(60年)。

見る 十国春秋と乾隆

康熙

康熙(こうき、z)は、清の元号(1662年-1722年)。 聖祖の治世に使われ、ここから聖祖は康熙帝と呼ばれる。 中国史上最も長く用いられた元号である(61年)。

見る 十国春秋と康熙

五代十国時代

五代十国時代(ごだいじっこくじだい、907年 - 960年)は、中国の唐の滅亡から北宋の成立までの間に、黄河流域を中心とした華北・中原を統治した5つの王朝(五代)と、華中、華南と華北の一部を支配した諸地方政権(十国)とが興亡した時代である。北宋が完全に中国を統一した979年が五代十国時代の終わりとされている場合もある。朱全忠が哀帝より禅譲を受け後梁を建国することで唐は滅んだが、それを地方の軍閥(節度使)達は認めず各地で自立し、中国は多数の国が乱立する分裂の時代へと突入した。 五代という言葉は北宋の欧陽脩による歴史書『五代史記』に由来し、唐の滅亡後に中原を支配した後梁・後唐・後晋・後漢・後周の5つの王朝を指す。これらの王朝はそれぞれ、前の王朝を滅ぼして(禅譲を受けて)新たに成立し、中原の唯一の支配者となった。

見る 十国春秋と五代十国時代

後蜀 (十国)

後蜀(こうしょく、934年 - 965年)は、中国五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した国。四川の豊かな財物を背景に文化の華を開かせた。

見る 十国春秋と後蜀 (十国)

北漢

北漢(ほくかん、951年 - 979年)は、中国五代十国時代に山西省北部を支配した国。都は太原。

見る 十国春秋と北漢

呉 (十国)

呉(ご、902年 - 937年)は、中国五代十国時代に江都を中心に江蘇省・安徽省・江西省を支配した国。江南の豊かな経済力を背景に強勢を誇ったが、李昪により簒奪され、南唐に取って代わられた。

見る 十国春秋と呉 (十国)

呉越

呉越(ごえつ、907年 - 978年)は、中国五代十国時代に現在の杭州市を中心に浙江省と江蘇省の一部を支配した国。

見る 十国春秋と呉越

前蜀

前蜀(923年頃) 前蜀(ぜんしょく、907年 - 925年)は、中国・五代十国時代に成都を中心に四川省を支配した国。

見る 十国春秋と前蜀

四庫全書総目提要

『四庫全書総目提要』(しこぜんしょ そうもく ていよう、満洲語:、転写:hesei toktobuha duin namun i yooni bithei oyonggo be tugiyeme gajihangge)は、中国最大の解題目録である。清朝の乾隆帝の奉勅撰、全200巻。1782年(乾隆47年)成立。「四庫提要」「四庫全書総目」ともいう。

見る 十国春秋と四庫全書総目提要

紀伝体

紀伝体(きでんたい)は、東アジアの歴史書の書式の一つ。中国の正史(いわゆる二十四史)はすべて紀伝体である。

見る 十国春秋と紀伝体

荊南

荊南(けいなん、907年 - 963年)は、中国五代十国時代に現在の湖北省を支配した国。弱小ながら、交易の中継点として栄えた。南平(なんぺい)・北楚(ほくそ)とも。ただし、実際には中原の五代王朝の節度使の一人に過ぎず、独立した国家ではなかったとする異説がある(後述)。

見る 十国春秋と荊南

載記

『載記』(さいき)とは、中国の歴史書の一形態を指す用語であり、本紀・列伝・世家・志などと並んで用いられる。列国の事柄を記録した箇所を指すものである。

見る 十国春秋と載記

閩(びん、909年 - 945年)は、中国五代十国時代に現在の福建省を中心に存在した国。十国の一つ。

見る 十国春秋と閩

藩鎮

藩鎮(はんちん)は、中国の唐から北宋まで存在した地方組織の名称である。節度使や観察使などを頂点とし、地方の軍と財政を統括した。節度使そのものを指すことも多い。

見る 十国春秋と藩鎮

楚 (十国)

楚(そ、907年 - 951年)は、中国五代十国時代に湖南省・広西チワン族自治区を支配した国。茶の交易で栄えた。

見る 十国春秋と楚 (十国)

欧陽脩

欧陽 脩(おうよう しゅう、欧陽修とも、景徳4年6月21日(1007年8月6日)- 熙寧5年閏7月23日(1072年9月8日))は、北宋の仁宗から神宗時期の政治家・詩人・文学者・歴史学者。字は永叔、醉翁・六一居士と号す。諡号は文忠。唐宋八大家の一人。

見る 十国春秋と欧陽脩

歴史書

歴史書(れきししょ)とは、歴史を記述した書物のことである。 歴史書を記述するのは目的意識を持った、そして多くの場合職業的な歴史家である。執筆の目的は歴史そのものへの興味、過去を後世に伝えるため、独自の史観を表現するためなどさまざまである。為政者の支配の正統性を主張するなど、政治的動機による場合も多い。 時系列に従って事件が記述される。記述される内容は政治史・軍事史を主とすることが多い。基本的なスタイルとして、事項が時系列順に並べられたもの(編年体)と重要な個人の事績を追って記述するもの(紀伝体)の2つがある。 歴史書を記述する歴史家は既存の史料を収集・比較・批判し、ある基準によって取捨選択(史料批判)を行う。この作業がなされない場合は歴史書とは言えず単なる記述にとどまる。また、歴史家の想像はできる限り排除される。想像が勝つ場合は歴史文学となる。例えば『三国志演義』など。

見る 十国春秋と歴史書

洪亮吉

洪 亮吉(こう りょうきつ、1746年 - 1809年)は、中国清代の官僚・思想家。字は君直・稚存。号は北江、晩年は更生と号した。もとの名は蓮。常州府陽湖県の出身。本貫は徽州府歙県。

見る 十国春秋と洪亮吉

清(しん)、または清国(しんこく)は、1636年に満洲に建国され、漢民族を征圧し1644年から1912年まで中国本土とモンゴル高原を支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に順天府(北京)に置かれた。満洲人のアイシンギョロ氏(満洲語:, 転写:aisin gioro, 愛新覚羅氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。清朝、満清、清王朝、大清国、大清帝国ともいう。 清の影響圏 1917年に張勲が清の最後の皇帝、溥儀を皇帝に立てて清国を復古させたが失敗した(張勲復辟)。

見る 十国春秋と清

新五代史

『新五代史』(しんごだいし)は、北宋の欧陽脩による歴史書。元の名を『五代史記』といい、皇祐5年(1053年)書となった。私撰であるため家に蔵されていたが、撰を終えた後に朝廷に献上された。乾隆のとき、薛居正の『旧五代史』と共に正史とするため、欧陽脩の史は『新五代史』と改称された。本紀12巻・列伝45巻・考3巻・世家及年譜11巻・四夷附録3巻の合わせて74巻。後梁の開平元年(907年)から後周の顕徳7年(960年)までの歴史が記載されている。 現在の歴史学会の評価として、杉山正明のまとめた説によると、「事実誤認も多い上、著者の癖が強く、司馬光の『資治通鑑』のようなあからさまなウソはないものの、創作も混じっており、旧五代史に比べて良質な史料とは言いがたい」とされている。また、山崎覚士からは本来、五代王朝の節度使に過ぎない荊南節度使をあたかも別の国家(荊南)のように記載して「十国」としたのは欧陽脩個人の史観に過ぎないとする指摘もある。

見る 十国春秋と新五代史

晋書

『晋書』(しんじょ、)は、中国晋朝(西晋・東晋)について書かれた歴史書。二十四史の一つ。唐の貞観20年(646年)に太宗の命により、房玄齢・李延寿らによって編纂が開始され、貞観22年(648年)に完成した。帝紀十巻・載記(五胡の単于・天王・皇帝に関する記述)三十巻・列伝七十巻・志二十巻によって構成される紀伝体。

見る 十国春秋と晋書

参考情報

17世紀の歴史書