目次
42 関係: 吐谷渾、太宗 (唐)、夸呂、宇文述、世伏、且末郡、廓州、侯君集、北史、レビラト婚、ホータン王国、タングート、祁連山脈、突厥、煬帝、隋、隋末唐初、隋書、青海湖、裴矩、西平郡、首長、資治通鑑、蘭州、鄯州、長安、鉄勒、李道宗、李道彦、李靖、李軌、李淵、楊堅、楊雄 (観徳王)、段志玄、河西回廊、涼州、湟源県、新唐書、旧唐書、敦煌郡、慕容順。
吐谷渾
吐谷渾(とよくこん、拼音:tǔyùhún)は、中国の西晋時代に遼西の鮮卑慕容部から分かれた部族。3世紀から7世紀まで(286年 - 663年)、青海一帯を支配して栄えたが、チベット民族の吐蕃に滅ぼされた。
見る 伏允と吐谷渾
太宗 (唐)
太宗(たいそう)は、唐朝の第2代皇帝、唐汗国の初代天可汗。諱は世民(せいみん)。高祖李淵の次男で、李淵と共に唐の創建者とされる。隋末の混乱期に李淵と共に太原で挙兵し、長安を都と定めて唐を建国した。太宗は主に軍を率いて各地を転戦して群雄を平定し、626年にクーデターの玄武門の変にて皇太子の李建成を打倒して皇帝に即位し、群雄勢力を平定して天下を統一した。 優れた政治力を見せ、広い人材登用で官制を整えるなど諸制度を整えて唐朝の基盤を確立し、貞観の治と呼ばれる太平の世を築いた。対外的には、東突厥を撃破して西北の遊牧民の首長からの称号を贈られた。騎兵戦術を使った武力において卓越し、文治にも力を入れるなど文武の徳を備え、中国史上有数の名君の一人と称えられる。
見る 伏允と太宗 (唐)
夸呂
夸呂(かりょ / こりょ、生年不詳 - 591年)は、吐谷渾の首長。
見る 伏允と夸呂
宇文述
宇文 述(うぶん じゅつ、生年不詳 - 大業12年10月6日(616年11月20日))は、中国の隋の武将・政治家。字は伯通。本姓は破野頭(費也頭)。本貫は代郡武川鎮(現在の内モンゴル自治区フフホト市武川県)。子に宇文化及・宇文智及・宇文士及。
見る 伏允と宇文述
世伏
世伏(せいふく、生年不詳 - 597年)は、吐谷渾の首長。
見る 伏允と世伏
且末郡
且末郡(しょまつ-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。隋代に現在の新疆ウイグル自治区チャルチャン県に設置された。
見る 伏允と且末郡
廓州
廓州(かくしゅう)は、中国にかつて存在した州。南北朝時代から宋代にかけて、現在の青海省東部に設置された。
見る 伏允と廓州
侯君集
侯 君集(こう くんしゅう、生年不詳 - 貞観17年4月6日(643年4月29日))は、中国の唐の軍人。本貫は豳州三水県(現在の陝西省咸陽市旬邑県)。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。
見る 伏允と侯君集
北史
『北史』(ほくし)は、中国の北朝について書かれた歴史書。李大師により編纂が開始され、その子の李延寿によって完成された。二十四史の一つ。 全100巻で、本紀12巻、列伝88巻の構成となっている。 南北朝時代(439年 - 589年)の北朝にあたる王朝、北魏・西魏・東魏・北斉・北周・隋の歴史を記している。詔令や上奏文の多くを削って叙事に重きを置き、記述の総量は断代史である『魏書』・『北斉書』・『周書』・『隋書』を合わせた分量の半分ほどであるが、断代史の4書に見られない記述も少なくない。特に『魏書』の記さなかった西魏の人物についての増補部分が大きい。
見る 伏允と北史
レビラト婚
レビラト婚(レビラトこん)は、寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習。レビラトは、ラテン語で夫の兄弟を意味するレウィル(levir)に由来する。レビレート婚とも。 死亡した妻の代わりにその姉妹が夫と結婚する慣習のことはソロレート婚という。
見る 伏允とレビラト婚
ホータン王国
ホータン王国(ガンダーラ語:コータンナ、Kingdom of Khotan)はシルクロードの一つ西域南道沿いにあった仏教王国。タリム盆地のタクラマカン砂漠の南に位置する。現在では中華人民共和国新疆ウイグル自治区にあたる。漢語では于闐(うてん)、于寘(うてん)。コータン王国とも書かれる。 ホータン王国の首都は現在のホータン市にあたる。漢・唐代の中国では「于窴」として知られていた。オアシス沿いにあり、植えられていたクワによる絹および絹織物、その他軟玉、硬玉(共にヒスイの一種)および陶磁器を輸出していた。
見る 伏允とホータン王国
タングート
タングート(Tangut)とは、7世紀~13世紀ごろに中国西南部の四川省北部、青海省などに存在したチベット。
見る 伏允とタングート
祁連山脈
祁連山脈(きれん/チーリェン-さんみゃく, Qilian Mountains)は中国の主な山脈の一つ。青蔵高原(チベット高原)の北縁、甘粛と青海に跨り、西はアルチン山脈に接し、東は蘭州の興隆山に至り、南はチャイダム盆地と青海湖に相連なる。山脈は西北から東南へ走り、数条の平行する山脈よりなり、平均海抜4000m以上、長さ2000km、幅200~500km。平原河谷が山地面積の三分の一以上を占める。主峰は祁連山。山脈の北側は河西回廊である。 祁連山脈の特徴的な生態系は、世界自然保護基金(WWF)に「祁連山脈の針葉樹林(Qilian Mountains coniferous forests; PA0517) 」として登録されている。
見る 伏允と祁連山脈
突厥
突厥(とっけつ、)、あるいはテュルク(【Türük】、【Türük】、【ギョクテュルク】)は、中央ユーラシアに存在したテュルク系遊牧国家。6世紀に広大な版図を支配した。 起源はジュンガル盆地北部からトルファン北方の山麓にかけて住んでいたテュルク系部族と考えられている。柔然に隷属していた。 その後、柔然の命令に従いアルタイ山脈の南麓へ移住させられ、鍛鉄奴隷として鉄工に従事した。 552年に柔然から独立を成し、部族連合である突厥可汗国(日本語読み:とっけつかかんこく。突厥帝国とも)を建て、中央ユーラシアの覇者となった。 582年に内紛により東西に分裂した(東突厥・西突厥)。
見る 伏允と突厥
煬帝
煬帝(ようだい 北周天和四年(569年) - 隋大業十四年(618年))は、中国隋の第2代皇帝(在位:604年8月21日 - 618年4月11日)。姓は楊、諱は広。煬は唐から贈られた諡であり、「色を好んで礼を無視した、礼に背き人民から嫌われたもの、天に逆らい人民を搾取したもの」という意味がある。 中国史を代表する暴君とされる。 煬帝は本来なら漢音で「ようてい」と読むところを、呉音で「ようだい」と読むことが慣例となっている。わざわざ「だい」と読むのは暴君であることを強調するためであると思われる。
見る 伏允と煬帝
隋
隋(呉音: ずい、漢音: すい、 swěɪ、581年 - 618年)は、中国の王朝である。魏晋南北朝時代の混乱を鎮め、西晋が滅んだ後分裂していた中国をおよそ300年ぶりに再統一した。しかし第2代煬帝の失政により滅亡し、その後は唐が中国を支配するようになる。都は大興城(現在の中華人民共和国西安市)。国姓は楊。開祖楊堅は後漢代の有名な官僚の楊震の子孫にあたるというが、これには疑義が多い(詳しくは楊堅#出自についてを参照)。
見る 伏允と隋
隋末唐初
隋末唐初(ずいまつとうしょ)は、隋の煬帝が殺された618年から唐による支配が安定する630年頃までの混乱期のことである。
見る 伏允と隋末唐初
隋書
『隋書』(ずいしょ)は、二十四史の一つで第13番目にあたる。中国大陸史の中における隋代を扱った歴史書。志の部分だけは通史である(後述)。
見る 伏允と隋書
青海湖
青海湖(せいかいこ、チンハイフー)は、中華人民共和国青海省(チベット・アムド地方)にある湖。モンゴル語ではココ・ノール( Хөхнуур/Köke naɣur「青い湖」の意)、チベット語ではツォ・ゴンポ(མཚོ་སྔོན་; mtsho sngon po)またはツォ・ティショル・ギャルモ(མཚོ་ཁྲི་ཤོར་རྒྱལ་མོ་; mtsho khri shor rgyal mo)と呼称される。 チベット高原北東部に位置し、面積5,701平方キロ、周囲360キロである。海抜3,201メートルの高地にあり、周囲から大小23の河川が流入する。湖水は平均水深約20メートル、最大水深31メートル、蓄水量1150億立方メートル。
見る 伏允と青海湖
裴矩
裴 矩(はい く、武定5年(547年) - 貞観元年(627年))は、隋から唐初にかけて活躍した功臣。字は弘大、敬と諡される。裴世矩とも。本貫は河東郡聞喜県。父の裴訥之(裴譲之・裴諏之の弟)は北斉に仕えた。
見る 伏允と裴矩
西平郡
西平郡(せいへい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。魏晋南北朝時代に2カ所の西平郡が立てられた。
見る 伏允と西平郡
首長
首長(しゅちょう、くびちょう)は、行政機関における独任制の長を意味する用語で、広い意味では一般に集団・組織を統率する長を意味する。
見る 伏允と首長
資治通鑑
『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂して1084年(元豊7年)に完成した、編年体の歴史書。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周の世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光が執筆に用いた史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。
見る 伏允と資治通鑑
蘭州
蘭州(らんしゅう、中国語:兰州、英語:Lanzhou)は、中国にかつて存在した州。現在の甘粛省蘭州市一帯に設置された。
見る 伏允と蘭州
鄯州
鄯州(ぜんしゅう)は、中国にかつて存在した州。現在の青海省北東部に設置された。
見る 伏允と鄯州
長安
長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。
見る 伏允と長安
鉄勒
鉄勒(漢音:てつろく、拼音:Tiĕlè)は、6世紀から7世紀にかけて、中央ユーラシア北部に分布した突厥以外のテュルク系遊牧民の総称。この中から回鶻(ウイグル)が台頭した。「鉄勒」という表記は勅勒・丁零などと同じく、Türkを音写したものと考えられている。
見る 伏允と鉄勒
李道宗
李 道宗(り どうそう、603年 - 656年歴史上の記述では李道宗は53歳で死去し、亡命先に到達することなく653年に追放後に亡命先への旅の途中で死去したことを仄めかしている。このことは653年に死去したことの証拠であるようであるが、確実ではない。『旧唐書』巻60を参照されたい。一方で『新唐書』は619年に16歳で、従ってこの日付はここで使われている。)は、中国の唐の宗室。唐の高祖李淵の従兄弟の東平王李韶(李虎の四男の畢王李璋の子)の子。字は承範。太宗の従弟で、太宗の時代に東突厥・吐谷渾・高句麗・薛延陀に対する戦役で部隊を指揮した。高宗の時代に李道宗は高宗の母方の伯父の長孫無忌の感情を害し、長孫無忌は反逆した房遺愛に協力したとして告訴し象州に追放した。李道宗は亡命の途上で死去した。
見る 伏允と李道宗
李道彦
李 道彦(り どうげん、生没年不詳)は、中国の唐の宗室。唐の高祖李淵の従弟の淮安靖王李神通の子。
見る 伏允と李道彦
李靖
李 靖(り せい、、天和6年(571年) - 貞観23年5月18日(649年7月2日))は、中国の唐の太宗に仕えた軍人・政治家。李勣とともに初唐の名将として知られ、突厥征伐などで戦功を挙げた。もとの名は薬師。衛公に封じられた。李靖と太宗の対話は『李衛公問対』という書物にまとめられ、兵法書として高い評価を受けている。
見る 伏允と李靖
李軌
李 軌(り き)は、隋末唐初に割拠した群雄の一人。
見る 伏允と李軌
李淵
李 淵(り えん、566年4月7日 - 635年6月25日)は、唐の初代皇帝。隋末の混乱の中で太原で挙兵し、長安を落として根拠地とした。そこで隋の恭帝侑を傀儡として立て、禅譲により唐を建国した。李淵は在位9年の間王世充などの群雄勢力と戦い、また律令を整備した。626年に太宗(李世民)に譲位させられ、太宗が残存の群雄勢力を一掃して唐の天下統一を果たした。
見る 伏允と李淵
楊堅
楊 堅(よう けん、541年7月21日 - 604年8月13日)は、中国の隋の初代皇帝(在位:581年3月4日 - 604年8月13日)。小名は那羅延。諡は文皇帝、廟号は高祖。文帝(ぶんてい)と称される。 疑い深い性格だったが、有能な官僚を用いて内政につとめ,科挙を創始して中央集権体制を確立し、約300年ぶりに中国全土を統一した。その治世は〈開皇の治〉と言われ、後継の唐王朝からも評価される。中国の皇帝の中で名君の一人とされる。
見る 伏允と楊堅
楊雄 (観徳王)
楊 雄(よう ゆう、大統8年(542年) - 大業8年3月10日(612年4月15日))は、中国の隋の皇族。観徳王。もとの名は恵。字は威恵。文帝楊堅の族子にあたる。弟は楊達・楊貴。
見る 伏允と楊雄 (観徳王)
段志玄
段 志玄(だん しげん、生年不詳 - 642年)は、中国の唐の軍人。名は雄。志玄は字であり、字をもって通称される。本貫は斉州鄒平県。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。玄孫に宰相である段文昌がいる。
見る 伏允と段志玄
河西回廊
河西回廊(かせいかいろう、河西走廊、甘粛走廊)は、チベット高原北西端に接する細長い形の地域・交通路の呼称で、黄河の西側にあるためにこの名で呼ばれる。日本では、河西回廊と呼ばれている。 古くからシルクロードを含めた東西交通史上において重要な役割を果たしてきた地域で、西域へ抜ける交通の要路として、東と西を結ぶ回廊地帯となっていた藤島範孝「河西走廊における地名の変遷 武威(涼州)と永昌(番和)について」北海道駒澤大学研究紀要21、1986年。 河西回廊の北側にはゴビ砂漠の一部をなすバダインジャラン砂漠が広がっている。漢王朝は砂漠を超えた異民族からの防衛のため、武威から玉門関まで万里の長城を建設した。
見る 伏允と河西回廊
涼州
涼州(りょうしゅう, Liangzhou)は、中国にかつて存在した州。現在の甘粛省・寧夏回族自治区一帯に設置され、現在では甘粛省の別称となっている。
見る 伏允と涼州
湟源県
湟源県(こうげん-けん)は中華人民共和国青海省西寧市に位置する県。
見る 伏允と湟源県
新唐書
『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。
見る 伏允と新唐書
旧唐書
『旧唐書』(くとうじょ、)は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書。二十四史の一つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。
見る 伏允と旧唐書
敦煌郡
敦煌郡(燉煌郡、とんこう-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の甘粛省敦煌市一帯に設置された。
見る 伏允と敦煌郡
慕容順
慕容 順(ぼよう じゅん、生年不詳 - 635年)は、吐谷渾の首長。趉胡呂烏甘豆可汗を号した。
見る 伏允と慕容順

