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上方舞

索引 上方舞

上方舞(かみがたまい)とは、江戸時代中期(1800年頃)から末期にかけて上方で発生した日本舞踊の一種。着流しに、屏風を立てた座敷で舞う素踊りを基本とする。源流となった御殿舞と、能を基本にした静的な舞に、人形浄瑠璃や歌舞伎の要素を加味しており、しっとりとした内面的な舞い方をする。歌舞伎舞踊より抽象的で単純化された動きである。本来、舞台より座敷で舞われることが多いとされていたので座敷舞と呼ばれたり、伴奏に地唄が用いられることから、地唄舞とも呼ばれる。また上方舞のうち、京都で発展した井上流、篠塚流を京舞(きょうまい)と呼ぶ。毎年、11月に東京の国立劇場で行われる「京阪の座敷舞」は、東京で上方舞が観られる数少ない機会であり、最も大規模なものである。.

43 関係: 古澤侑古澤侑峯古澤流吉村雄輝吉村流屏風上方上方歌中村歌右衛門 (3代目)幕末京都京都御所人間国宝井上流御殿舞地歌出雲蓉着流し篠塚流狂言師花崎流芸妓都をどり能楽舞妓関西歌舞伎葵上雪 (地唄)楳茂都流武原はん歌舞伎歌舞伎舞踊江戸時代振付師明治文化 (元号)文化功労者文楽文政日本舞踊扇崎流1800年

古澤侑

古澤 侑(ふるさわ ゆう、- 2008年11月12日)は、日本舞踊家。地歌舞古澤流宗家初代家元。品の良さとはんなりとした独特の味わいが評価され、大阪府民劇場賞、大阪芸術祭本賞、同奨励賞、京都伝統芸能賞、京都芸術祭賞を受賞した。「雪」「黒髪」「竹の縁」を始めとする多くの古典曲や新作「海士」「呉服(くれは)」などの振り付けを残している。.

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古澤侑峯

古澤 侑峯(ふるさわ ゆうほう)は日本の舞踊家。地歌舞古澤流宗家二代目家元。源氏物語五十四帖を舞の作品に作りあげ、「源氏舞」と称して横浜と宝塚を拠点に日本各地や海外で舞っている。地歌舞をもとに作られた健康体操「舞体操」の考案者。.

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古澤流

古澤流(ふるさわりゅう)は、日本舞踊の流派のひとつ。古典を中心とする地唄舞の流派である。兵庫県宝塚市と神奈川県横浜市に拠点を置く。 1982年、古澤侑とその長女古澤侑峯によって創流され、侑が初代家元、侑峯が2代目。侑が幼少より伯母から手ほどきを受けていた山村流地唄舞と、侑と侑峯が修得してきた御殿舞松本流の流れを引き継いでいる。 カーネギーホールやイタリアのヴェッキオ宮殿、サンフランシスコのアジア美術館などでの公演を行ってきている。また1985年には奈良県飛鳥寺に古澤流の扇塚を建立し、その後、扇供養と奉納舞を行っている。 近年は弟子の育成にも力を入れており、舞の技術・心構えの指導の他にも、国内海外公演などにも弟子を引き連れて公演を行っている。 .

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吉村雄輝

吉村 雄輝(よしむら ゆうき、1923年2月2日 - 1998年1月29日、本名:橋本昇一、はしもと しょういち)は、上方舞吉村流の四世家元で、人間国宝。高知県生まれ。俳優池畑慎之介 (ピーター) の実父。.

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吉村流

吉村流(よしむらりゅう)とは、明治初期に吉村ふじによって創設された上方舞の流派である。.

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屏風

屏風(びょうぶ)とは、部屋の仕切りや装飾に用いる家具のこと。木の枠に小さなふすまのようなものを数枚つなぎ合わせて、折りたためるようにしてある。「風を屏(ふせ)ぐ」という言葉に由来する。.

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上方

上方(かみがた・かみかた)は、江戸時代に京都や大阪を初めとする畿内を呼んだ名称である。広義では、畿内を初めとする近畿地方一帯を指す語としても使われる。.

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上方歌

上方歌(かみがたうた)は、「上方唄」とも、「上方端唄(歌)」とも呼ばれる 京阪都市部の三味線音楽である。.

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中村歌右衛門 (3代目)

三代目 中村歌右衛門(さんだいめ なかむら うたえもん、安永7年3月3日〈1778年3月31日〉 - 天保9年7月25日〈1838年9月13日〉)とは、江戸時代に活躍した歌舞伎役者。屋号は加賀屋、俳名は歌七・梅玉・芝翫。雅号百戯園。本名大關 市兵衛(おおせき いちべえ)。幼名は福之助。.

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幕末

幕末(ばくまつ)は、日本の歴史のうち、江戸幕府が政権を握っていた時代(江戸時代)の末期を指す。本記事においては、黒船来航(1853年)から戊辰戦争(1869年)までの時代を主に扱う。.

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京都

京都(きょうと、みやこ、きょうのみやこ、Kyōto)は、日本の都市の1つである。 都、もしくは京ともいい、歴史的には794年に日本の首都に定められた都城・平安京で、当時は日本の政治・文化の中心地であった。.

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京都御所

京都御所(模型) 京都御所(きょうとごしょ)は、京都府京都市上京区にある皇室関連施設。 14世紀から明治2年(1869年)までの間の「内裏(禁裏)」、すなわち歴代天皇が居住し儀式・公務を執り行った場所である。現在は宮内庁京都事務所が管理している。.

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人間国宝

人間国宝(にんげんこくほう)は、日本の文化財保護法第71条第2項に基づき同国の文部科学大臣が指定した重要無形文化財の保持者として各個認定された人物を指す通称である「人間国宝」は通称であるが、これに代わる法令上の正式名称はなく、「重要無形文化財の各個認定の保持者」のように説明的に言及するほかない。。文化財保護法には「人間国宝」という文言はないが、重要無形文化財の各個認定の保持者を指して人間国宝と呼ぶ通称が広く用いられている。.

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井上流

井上流(いのうえりゅう)は、日本舞踊における流派のひとつ。上方舞に分類され、京都で発展したことから「京舞」とも呼ばれる(京舞と呼ばれる分野には、他に篠塚流がある)。.

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御殿舞

御殿舞(ごでんまい)は、姫路城に伝えられた舞。「御殿舞松本流」がある。 松本三左衛門宗七を流祖とし、明治になって松本きくがその流れを継承した。その後、松本尚山が継承し、1952年(昭和27年)に松本尚山の門弟松本尚女が継承した。 Category:日本舞踊.

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地歌

地歌(ぢうた、地唄)は、江戸時代には上方を中心とした西日本で行われた三味線音楽であり、江戸唄に対する地(地元=上方)の歌。当道という視覚障害者の自治組織に属した盲人音楽家が作曲、演奏、教授したことから法師唄ともいう。長唄と共に「歌いもの」を代表する日本の伝統音楽の一つ。また三曲の一つ。.

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出雲蓉

出雲 蓉(いずも よう)は、地唄舞(上方舞)の演者。 神崎流の流れを汲む出雲流(いずもりゅう)を興し、東京・西荻窪を拠点とする。.

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着流し

羽織を着て袴を付けない様(右) 着流し(きながし)は、男子が和服を着る際に袴を穿かない様。またその着こなしかた。 古くは羽織を略したもののみを特に着流しと称し、袴をつけなくとも羽織を着ていれば礼装にかなうとされていたが、現在では羽織の有無にかかわらず袴を着けない様を指すことが多い。江戸時代には、武家方では袴を着用することが常であったのに対し、町人にはその習慣がなかったため、町方特有の風俗であるとされた。 一般に略式のくだけた格好であると考えられており、特に羽織を略した姿は粋や通にかよう独特の美意識と下層階級的な意気のよさ、卑俗な感じを持つものであるとされる。ただし着流しに町方としての独自の意識を持ち、礼装として扱っている場合もあり、千家系統の茶道では十徳に着流しを最礼装とし、長唄や浄瑠璃では裃の際に袴ではなく前垂れを用いる。一般に江戸期にあっても、医師、茶頭、茶坊主、お抱町人などにおいては十徳に着流しが正装であるとされることが多く、これは室町期の町人風俗に基づくものであろうと考えられる。 江戸町奉行所の廻り方同心が、将軍の御成先でも袴を着用しなくてよい「御成先御免」の着流しだった事で知られる(彼らにのみ許されていた特権である)。 きなかし.

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篠塚流

塚流(しのづかりゅう)は、日本舞踊における流派のひとつ。江戸時代の後期、文化・文政期(1804年-1830年)に、歌舞伎上方歌舞伎所作事の振付師・篠塚文三郎によって創設された京舞最古の流派である。.

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狂言師

言師(きょうげん-し).

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花崎流

花崎流(はなさきりゅう)は日本舞踊の流派の一つ。 神崎ひで女師(後の閑崎ひで女)に師事した花崎杜季女が平成15年(2003年)に創始。 上方で生まれた地唄舞は明治期に東京にもたらされた。その身体表現方法に、東京の粋を加え「東京の地唄舞」を求める流派である。 創始者である花崎杜季女は、女性が作り上げた日本の身体美を、国内外に広めるため平成22年(2010年)一般社団法人地唄舞普及協会設立。.

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芸妓

芸妓(げいぎ)とは、舞踊や音曲・鳴物で宴席に興を添え、客をもてなす女性。芸者・芸子のこと。酒席に侍って各種の芸を披露し、座の取持ちを行う女子のことであり、太夫遊びが下火となった江戸時代中期ごろから盛んになった職業の一つである。 江戸時代には男芸者と女芸者とがあった。江戸時代には京都や大坂で芸者といえば男性である幇間(太鼓持ち)を指し、芸子が女性であったが、明治になると芸者が男性を指すことはなくなり、以降は大阪でも女性を芸者というようになった。京都では芸妓(げいこ)とよばれる。現代では料理屋(料亭)、待合茶屋に出入りする芸者が売春を行うことはない。地方の温泉地等ではコンパニオンと呼ばれる派遣の芸妓などが存在し、また俗に枕芸者と呼ばれるものも一部に残っている。 呼名・異称・用字にはさまざまなものがある。下記「名称」の項目を参照のこと。.

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能(のう)は、日本の伝統芸能である能楽の一分野。江戸時代までは猿楽と呼ばれ、狂言とともに能楽と総称されるようになったのは明治維新後のことである。 能(翁奉納 春日神社 (篠山市)).

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都をどり

都をどりの総踊り。揃いの衣裳をまとった芸妓、舞妓20名が団扇を手に一斉に踊る 都をどり(みやこをどり)は、毎年4月1日 - 30日にかけて、京都の祇園甲部歌舞練場で開催される祇園甲部の舞踊公演。.

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能楽

中尊寺鎮守 白山神社の能舞台(重要文化財) 日牟禮八幡宮の能舞台 日牟禮八幡宮能舞台の橋がかり 能楽(のうがく)は、日本の伝統芸能であり、式三番(翁)を含む能と狂言とを包含する総称である。重要無形文化財に指定され、ユネスコ無形文化遺産に登録されている。.

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舞妓

舞妓(まいこ)は、京都の上七軒、先斗町、宮川町、祇園甲部、祇園東の五花街で、舞踊、御囃子などの芸で宴席に興(きょう)を添えることを仕事とする少女のことで、芸妓の見習い修行段階の者をいう。 舞妓・芸妓は、今から約300年前の江戸時代に、京都の八坂神社(当時は祇園社)のある東山周辺の、神社仏閣へ参詣する人や街道を旅する人にお茶をふるまった水茶屋の茶立女(ちゃたておんな)にルーツがあり、水茶屋もはじめはお茶や団子を提供していたものにそのうち酒や料理が加わり、その店で働く彼女達が、歌舞伎芝居を真似て三味線や舞踊を見せるようになった。現在も京都の祇園を中心とした花街で厳しいしきたりの下で活躍している。京都市内で、普通に見かける舞妓は、観光客の扮した変身舞妓であり、舞妓が日中、花街や花街以外を出歩くことはめずらしく、京都府民・京都市民でも、本物の舞妓を見かけることはほとんどない。 東京など関東地方における「半玉」、「おしゃく」とは別の文化起源であるため、区別されるものである。.

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関西歌舞伎

上方歌舞伎(かみがたかぶき).

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葵上

『葵上』(あおいのうえ)は、『源氏物語』の「葵」巻に取材した能楽作品。世阿弥改作か。 シテは六条御息所の生霊であり、題にもなっている葵の上は一切登場せず、生霊に祟られ寝込んでいることを一枚の小袖を舞台に寝かすこと(出し小袖)で表現している。 六条御息所は賀茂の祭の際、光源氏の正妻である葵の上一行から受けた侮辱に耐え切れず、生霊(前ジテ)となって葵上を苦しめているのである。薬石効なく、ついに修験者である横川の小聖が呼ばれ祈祷が始まると、生霊は怒り、鬼の姿(後ジテ)で現われるが、最後は般若の姿のまま、法力によって浄化される場面で終わる。.

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雪 (地唄)

雪(ゆき)は、地歌、日本舞踊の演目。天明期の作品で、流石庵羽積の文句に峰崎勾当が曲を付したと言われている。上方地唄および地唄舞の代表的な作品。.

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楳茂都流

楳茂都流(うめもとりゅう)は、上方舞の主な流派の一つ。流祖は幕末に大坂天満老松町に住んだ初代楳茂都扇性。 楳茂都流の芸は、初代扇性が博識多才で知られた父・鷲谷正蔵(1786年(天明6年)~1841年(天保12年))から伝授されたものに始まる。正蔵は、京都で光格天皇の兄・方広寺門跡妙法院真仁法親王に近従として仕えた時期に、当時多芸をもって知られた同御所の大橋の局から、雅楽乱舞や今様風流舞の奥義を伝授されたと伝えられている。こののち初代扇性は歌舞伎の所作事の振り付けを行う一方で、多くの弟子をもって大坂舞踊界に君臨した。また明治初年には、能楽・歌舞伎・舞踊を統合した新形式の芸能「てには狂言」を創始して絶大な人気を得た。 初代扇性の三男・路三郎(1865年(慶応元年)~1928年(昭和3年))は、1894年(明治27年)に二世家元を継いで二代目楳茂都扇性を名乗る。二代目扇性は門弟の教育とともに新しい形式の舞踊の創作に携わり、当時新舞踊運動の父と呼ばれた坪内逍遥から高い評価を受けている。今に残る楳茂都流の多くの振り付けはこの二代目扇性の時に創作されたものである。 二代目扇性の長男・陸平(1897年(明治30年)8月3日~1985年(昭和60年)2月4日)は、1917年(大正6年)に数え20歳で宝塚音楽学校の教師兼振付師に就任。次々に作品を発表する傍ら西洋音楽や舞踊を修め、シンフォニーに舞楽を取り入れた『春から秋へ』を発表、新舞踊の旗手として注目を集めた。1928年(昭和3年)に二代目扇性が死去すると三世家元を継ぐ。1931年(昭和6年)から1934年(昭和9年)にかけて文部省嘱託として出かけた欧米視察では、現地の舞踊団に『熱情ソナタ』などを振り付けて絶賛を浴びた。帰国後も多くの群舞や文楽の人形の舞の振り付けを手がけたが、舞踊家としての評価も高く、数々の賞を獲得した。楳茂都流では初代扇性以来、三つの法則を奥義として伝えてきた。それらは「天地人の体」「円形の構え」「六方の備え」と呼ばれる理論で、楳茂都陸平はそこに西洋のバレエやダンスにも通ずる、普遍性を主張した。楳茂都流が優雅さと美しさにおいて、上方舞の白眉と謳われるゆえんである。陸平自身が著した『舞踊への招待』(昭和33年(1958年)刊)に、その理論は詳述されている。 陸平が死去した後は長く家元の座が空き、高弟が理事をつとめていたが、2008年(平成20年)12月に歌舞伎役者の六代目片岡愛之助が四世家元を継承し、三代目楳茂都扇性を襲名した。.

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武原はん

武原 はん(たけはら はん、1903年(明治36年)2月4日 - 1998年(平成10年)2月5日)は、昭和期に活躍した上方舞の日本舞踊家である。本名・武原幸子。.

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歌舞伎

歌舞伎(かぶき)は、日本固有の演劇で、伝統芸能の一つ。重要無形文化財(1965年4月20日指定同日文化財保護委員会告示第18号「無形文化財を重要無形文化財に指定する等の件」)。歌舞伎(伝統的な演技演出様式によって上演される歌舞伎)は2005年にユネスコにおいて傑作宣言され、2009年9月に無形文化遺産の代表一覧表に記載された。.

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歌舞伎舞踊

歌舞伎舞踊(かぶきぶよう)は、以下の総称である。.

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江戸時代

江戸時代(えどじだい)は、日本の歴史において徳川将軍家が日本を統治していた時代である。徳川時代(とくがわじだい)とも言う。この時代の徳川将軍家による政府は、江戸幕府(えどばくふ)あるいは徳川幕府(とくがわばくふ)と呼ぶ。 藩政時代(はんせいじだい)という別称もあるが、こちらは江戸時代に何らかの藩の領土だった地域の郷土史を指す語として使われる例が多い。.

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振付師

バレエ 振付師(ふりつけし、choreographer)は、振付(ふりつけ、choreography)を専門に行う者をいう。歌舞伎舞踊や日本舞踊のような伝統芸のほか、バレエやダンスの振付をする者も含まれる。バレエやダンスの世界では振付家と呼ぶことが多い。ショウビズ界では英語の音訳でコレオグラファーと呼ぶこともある。.

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明治

明治(めいじ)は日本の元号の一つ。慶応の後、大正の前。新暦1868年1月25日(旧暦慶応4年1月1日/明治元年1月1日)から1912年(明治45年)7月30日までの期間を指す。日本での一世一元の制による最初の元号。明治天皇在位期間とほぼ一致する。ただし、実際に改元の詔書が出されたのは新暦1868年10月23日(旧暦慶応4年9月8日)で慶応4年1月1日に遡って明治元年1月1日とすると定めた。これが、明治時代である。.

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文化 (元号)

文化(ぶんか)は日本の元号の一つ。享和の後、文政の前。1804年から1818年までの期間を指す。この時代の天皇は光格天皇、仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。 町人文化が顕著に発展した時期であり、後続する文'''政'''期とあわせ、化政文化という。.

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文化功労者

文化功労者(ぶんかこうろうしゃ)とは、日本において、文化の向上発達に関し特に功績顕著な者をいう。文化功労者年金法(昭和26年法律第125号)に定められる。文化勲章よりも多くの者が選ばれ、文化勲章に次ぐ栄誉となっている。文化勲章受章者は、すでに亡くなっている人物を除いては、文化功労者にあわせて決定される。.

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文楽

文楽以外の人形浄瑠璃である。 『静御前』 JR新大阪駅 文楽(ぶんらく)とは、人形浄瑠璃文楽のこと。大阪で成立し本拠地とする人形浄瑠璃の系譜。 1955年に(人形浄瑠璃文楽座の座員により演ぜられる)文楽が文化財保護法に基づく重要無形文化財に指定された。2003年ユネスコ「人類の口承及び無形遺産に関する傑作の宣言」、2008年「人類の無形文化遺産の代表的な一覧表」への掲載、そしてユネスコ無形文化遺産保護条約が発効した2009年9月の第1回登録であらためてユネスコの無形文化遺産に登録された。2017年現在は公益財団法人文楽協会を公演団体とし、大阪市の国立文楽劇場を中心に公演を行っている。 1684年、古浄瑠璃を独自に発展させた「義太夫節」の始祖である竹本義太夫が、大坂に「竹本座」を建て、自らの義太夫節の演奏と人形による三業(後述)での人形浄瑠璃の興行を始めた。その後、竹本義太夫の弟子が独立し豊竹若太夫を名のって興した「豊竹座」と競うなど、隆盛の時代には複数の興行元を数えたが、明治初期には興行元が「彦六座」と「文楽座」の2座のみとなった。その後に彦六座が解散、興行が文楽座のみとなったため、「文楽」という2字の名称が、すべての人形浄瑠璃の代表的存在、ならびにその代名詞と化したものである。 なお、文楽および文楽座という名称の直接的由来は、兵庫県淡路出身の植村文楽軒という人物が興行元であった上述の文楽座ではあるが、前述どおり、義太夫節の始祖が大坂で直接成立させた人形浄瑠璃の一形態の系譜であるため、人形浄瑠璃文楽を成立させた源流=淡路ということではない(淡路には淡路人形浄瑠璃が存在する)。 しかしながら、大坂で成立したその「義太夫節+人形」という人形浄瑠璃の系譜をしめす呼称がない(あるいは消失してしまっている)ため、その系譜を示す語の実例として、たとえば現在の人形浄瑠璃文楽の技芸員における演奏的特徴を示す語として「文楽系」と呼ぶことがある(それに呼応する語には「彦六系」などがある)。 人形浄瑠璃(にんぎょうじょうるり)は日本の伝統芸能で、浄瑠璃と人形によって演じられる人形劇。明治以降、文楽座が一定規模以上の人形浄瑠璃の公演を行う唯一の公演団体となったため、「文楽」の名称が人形浄瑠璃と同義に用いられる場合もある。 この記事では文楽を中心に、文楽系統の成立以前の人形浄瑠璃、および文楽以外の人形浄瑠璃についても説明する。「人形浄瑠璃」については浄瑠璃も参照のこと。.

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文政

文政(ぶんせい)は日本の元号の一つ。文化の後、天保の前。1818年から1831年までの期間を指す。この時代の天皇は仁孝天皇。江戸幕府将軍は徳川家斉。.

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日本舞踊

日本舞踊(にほんぶよう)は、日本のいわゆる伝統的な踊りの総称である。日本の伝統的なダンスである舞(まい)と踊(おどり)を合わせたもの。 近年、日本舞踊の国際化に伴い欧米諸国やアジアにも Nihombuyo といった呼称が定着しつつある。.

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扇崎流

扇崎流 (せんざきりゅう)は、日本舞踊の流派のひとつである。神崎流の流れを組む地唄舞の流派であり、東京を拠点とし初代秀薗の出身地である愛媛県にも地盤を有する。.

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1800年

18世紀最後の年である100で割り切れてかつ400では割り切れない年であるため、閏年ではない(グレゴリオ暦の規定による)。。.

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