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ラチブシュ公国

索引 ラチブシュ公国

ラチブシュ公国(波:Księstwo raciborskie、独:Herzogtum Ratibor、チェコ語:Ratibořské knížectví)は、中世ポーランドの分裂期に成立したシロンスク公国群の一つ。首都は高地シロンスクのラチブシュ。 1163年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世の後ろ盾を受けたボレスワフ1世とミェシュコ1世兄弟が叔父のポーランド大公ボレスワフ4世から世襲領であるシロンスク公国を取り戻した後、1172年にラチブシュ公国はラチブシュ、コジュレ、チェシンを中心としてミェシュコ1世の領土として作られた。1177年、ミェシュコ1世の叔父のポーランド大公カジミェシュ2世からビトム、オシフィエンチム、ザトル、プシュチナ、シェヴィエシュの地を与えられ、ミェシュコ1世の小さな公国は初めての拡張を見せた。更に1202年、ミェシュコ1世は甥のヤロスワフの死後ヴロツワフ公国に併合されていたオポーレ公国を取り込み、オポーレ=ラチブシュ公国を形成した。 1281年にミェシュコ1世の孫のオポーレ公ヴワディスワフ・オポルスキが死ぬと、息子達は再びオポーレ公国とラチブシュ公国に分割、1290年にラチブシュ公国が創設され、ヴワディスワフの末子プシェミスワフが公位に就いた。この時のラチブシュ公国にはヴォジスワフ、ジョルィ、リブニク、ミコウフ、プシュチナなどが含まれていたが、以前領土だった一部がチェシン公国とビトム公国の創設に使われた。 1327年に、プシェミスワフの息子レシェクは、ボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクに対し臣従の礼をとり、ラチブシュ公国はボヘミア王冠領の封土となった。レシェクが1336年に後継ぎを残さずに死ぬと、ヨハンはプシェミスル家のオパヴァ公ミクラーシュ2世(オタカル2世の庶出の孫、レシェクの妹アンナと結婚)に与え、オパヴァ=ラチブシュ公国を形成した。1521年にヤン2世ドブルィの下で再びオポーレ公国と統合するまで、ラチブシュ公国は幾度も領土変更が行われた。1532年のヤン2世の死後、オポーレ=ラチブシュ公国は1526年以降のボヘミア王であるハプスブルク家の支配下に入った。 公国はホーエンツォレルン家のブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルクに相続され、後に短期間ヴァーサ家の担保となり、最後は1742年にプロイセン王国に併合された。1840年、ラチブシュ公の称号はホーエンローエ=シリングスフュルスト家の公家に与えられた。 Category:シレジアの諸公国 Category:ポーランドの歴史的地域 Category:チェコの歴史的地域 *.

57 関係: ミェシュコ1世プロントノギミコウフチェコ語チェシンチェシン公国ハプスブルク家ポーランド君主一覧ポーランド王国ポーランド語ヤロスワフ (オポーレ公)ヨハン・フォン・ルクセンブルクラチブシュリブニクレシェク (ラチブシュ公)ヴワディスワフ・オポルスキヴァーサ王朝ボレスワフ1世ヴィソキボレスワフ4世ボヘミアボヘミア君主一覧ボヘミア王冠領プロイセン王国プシェミスル朝プシェミスワフ (ラチブシュ公)ビトム公国フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)ドイツ語ホーエンローエ家ホーエンツォレルン家アンスバッハ侯領オポーレ公国オシフィエンチム公国オタカル2世カジミェシュ2世ゲオルク (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)ザトル公国シレジアシロンスク公国シロンスク公国群ジョルィ神聖ローマ皇帝一覧1163年1172年1173年1177年1202年1211年1281年1290年1327年...1336年1521年1526年1532年1742年1840年5月16日 インデックスを展開 (7 もっと) »

ミェシュコ1世プロントノギ

ミェシュコ1世(跛足公) ミェシュコ1世プロントノギ(ポーランド語:Mieszko I Plątonogi、1130年頃 - 1211年5月16日)は、シロンスク公(在位:1163年 - 1173年、兄と共同統治)、ラチブシュ公(在位:1173年 - 1211年)、オポーレ公(在位:1202年 - 1211年)、クラクフ公及びポーランド大公(在位:1210年 - 1211年)。ヴワディスワフ2世(亡命公)の次男、母はオーストリア辺境伯レオポルト3世の娘で、ローマ王コンラート3世の異父妹であるアグネス。ボレスワフ1世の弟、コンラトの兄。異称である跛足公(Plątonogi)は、14・15世紀の年代記で使われるようになった。.

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ミコウフ

ミコウフ(Mikołów、Nikolai(ニコライ)、シレジア語:Mikołůw)は、ポーランドの南部、シレジア地方のカトヴィツェ近郊にある町。シレジア高原に位置し、ヴィスワ川支流のマンコウォヴィエツ川が流れる。かつてはカトヴィツェ県に属したが、1999年の再編でシロンスク県に組み込まれた。戦間期もシロンスク県に属していた。 人口270万人のカトヴィツェ都市圏と529万4千人のシレジア大都市圏の圏内にある。人口は2008年の時点で3万8821人。.

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チェコ語

チェコ語(Čeština 、Český jazyk)は、スロヴァキア語やポーランド語、カシューブ語(ポメラニア語)、ソルブ語(ソラビア語、ヴェンド語とも)などと共に、西スラヴ語の一つである。チェコ共和国の人口(約1030万人、2007年3月現在)の9割以上を占めるチェコ人と、周辺国やアメリカ合衆国、カナダ等にコミュニティを作るチェコ系住民に話されている言語である(共和国の国内外合わせて約1200万人の話者が存在する)。.

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チェシン

チェシン(Cieszyn 、Těšín、Teschen(テシェン))は、ポーランド南部のシロンスク県チェシン郡に位置する国境の町。同郡の郡庁所在地で、人口は3万6109人(2004年)である。オーデル川支流のオルザ川に臨み、対岸はチェコのチェスキー・チェシーンである。 歴史的にチェシン・シロンスク地方の中心地であるチェシンは、第一次世界大戦後の1918年までチェシン公国の首都であった。1920年、同地方がポーランドとチェコスロバキアに分割されると、チェシンも一部の地区がチェスキー・チェシーンとしてチェコスロバキア領に編入され、その以外の地域はポーランド領となった。チェコ側をあわせると、市の人口は6万1201人におよぶ。 町内の建物には、ポーランドとオーストリア双方の建築様式の影響がみられる。過去に何回か見舞われた大火(最近では18世紀後半)のつど再建されたためで、旧市街の美しい景観はしばしば「小ウィーン」と呼ばれる。そのほか、古代に築かれた城の唯一の遺構である12世紀の正方形の塔や、10世紀のロマネスク様式の礼拝堂がある。.

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チェシン公国

チェシン公国ないしテッシェン公国(Těšínské knížectví; Herzogtum Teschen; Ducatus Tessinensis; Księstwo Cieszyńskie)は、高地シロンスクのチェシンを首都とする独立公国で、シロンスク公国群の一つ。.

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ハプスブルク家

ハプスブルク家の旗 ハプスブルク家の紋章 ハプスブルク家()は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。.

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ポーランド君主一覧

ポーランド君主一覧では、現在のポーランドにあった諸王朝、諸国の君主を一覧で挙げる。.

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ポーランド王国

ポーランド王国(ポーランドおうこく)は、1025年から1569年(リトアニアとの二重王国時代を含めると1795年)までポーランド一帯を支配していた王国。14世紀にリトアニア大公国と合同し、14世紀から16世紀にかけて北はエストニア、南はウクライナまでをも含む大王国を形成、人口や領土において当時のヨーロッパ最大の国家「ポーランド・リトアニア共和国」を形成し、その連邦の盟主となったが、ヨーロッパの経済構造が変化すると共に対外戦争と内乱が続き、18世紀に共和国が周辺諸国に領土を分割されると同時に消滅して、その領土的実態としての歴史を終えた。法的には1918年に成立したポーランド共和国(第二共和国)、1939年からのポーランド亡命政府、このポーランド亡命政府を1989年に継承した現在のポーランド共和国(第三共和国)がその法的継承国家。.

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ポーランド語

ポーランド語(ポーランドご、język polski、polski、または polszczyzna)は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派の西スラヴ語群レヒト諸語に属するポーランドの公用語。レヒト諸語と同じ西スラヴ語群に属する言語は、チェコ・スロヴァキア諸語とソルブ諸語である。名詞の格変化は7格(主格、生格、与格、対格、造格、前置格、呼格)あり、文中での語の働きが格語尾によって示されることなど、形態による表現の豊かさを特徴とする。 ポーランド語は16世紀の期間に発達し、新単語は19世紀に口語のドイツ語、ラテン語、ロシア語、英語から採られポーランド語のスペルに反映されている。ラテン文字は12世紀に導入され、話し言葉だけのポーランド語を記載できるようになった。.

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ヤロスワフ (オポーレ公)

ヴワディスワフ2世の次男ミェシュコ1世プロントノギ ヤロスワフ・オポルスキ(波:Jarosław opolski, 1143年以後 - 1201年3月22日)は、オポーレ公(在位:1173年 - 1201年)、ヴロツワフ司教(在位:1198年 - 1201年)。シロンスク公ボレスワフ1世ヴィソキと最初の妻であるキエフ大公フセヴォロド2世の娘ズヴェニスラヴァとの間の長男。ヘンリク1世の異母兄。ルテニアの名前は母から与えられた。.

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ヨハン・フォン・ルクセンブルク

ヨハン・フォン・ルクセンブルク(独:Johann von Luxemburg, 1296年8月10日 - 1346年8月26日)は、ルクセンブルク家のボヘミア王(在位:1310年 - 1346年)およびルクセンブルク伯(在位:1313年 - 1346年)。父はローマ皇帝ハインリヒ7世、母はブラバント公ジャン1世の娘マルガレータ。息子に皇帝カール4世がいる。父と息子は皇帝に即位したものの、自身は帝位を得ることはなかった。後に病によって失明したため、ヨハン盲目王(Johann der Blinde)と呼ばれる。フランス語名でジャン・ド・リュクサンブール(Jean de Luxembourg)と呼ばれることもある(この名で呼ばれる人物は複数存在するので注意)。チェコ語名はヤン(Jan Lucemburský)であるが、日本語文献で用いられることは稀である。.

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ラチブシュ

紋章 ラチブシュ(Racibórz,, チェコ語:Ratiboř)はポーランド南西部、シロンスク県の都市。人口は2004年12月31日のセンサスで5万8310人。ドイツ語名ラーティボーア(Ratibor)でも知られる。プロイセン王国領時代にはオーバーシュレージエン州(Provinz Oberschlesien)に属した。.

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リブニク

リブニク(Rybnik、シレジア語:Rybńik)は、ポーランド南部の都市。シロンスク県に属し、チェコとの国境に近い。クラクフの西、約100kmに位置する。大都市圏である上部シレジア石炭盆地の南のはずれにあり、リブニク炭田の中心地である。 人口は約14万人で、ポーランドで第25位。失業率は約11%で、ポーランド平均の16%より相当低い。.

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レシェク (ラチブシュ公)

レシェク(Leszek raciborski, 1292年頃 - 1336年)は、ラチブシュ公(在位:1306年 - 1336年)、コジュレ公(在位:1334年 - 1336年)。ラチブシュ公プシェミスワフの一人息子、母はマゾフシェ公爵家の一員であるチェルスク公コンラト2世の娘アンナ。 1306年に父が死ぬとラチブシュ公国を相続した。しかしレシェクは相続時には未成年だったため、1308年まで伯父のチェシン公ミェシュコ1世が摂政を務めた。この摂政期間に、ドミニコ会は公国の宮廷から、ヴォジスワフに修道院を建設することを承認され、この修道院が落成を迎えると、教会会議はレシェクがドミニコ会のために便宜を図ったことについて、祈りを以て寿いだ。1327年2月19日、レシェクはシロンスクの他の諸公達と一緒に、オパヴァでボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクに臣従の礼をとった。 1334年、レシェクは従兄のビトム公ヴワディスワフから銀4000本と引き換えにコジュレ公国を買い取り、自領を拡大させた。但し協定により、もしレシェクが息子をもうけずに死ねば、コジュレはビトム公国に返還されることになった。 レシェクは1336年に亡くなり、ラチブシュのドミニコ会修道院に埋葬された。1332年にグウォグフ=ジャガン公ヘンリク4世の娘アグニェシュカ(1321年頃 - 1362年)と結婚していたが、子供を授かることはなかった。封建上の主君であるボヘミア王ヨハンの独断により(同じくグルヌィ・シロンスクを統治している近縁の男系親族たちが激しく抗議をしたにもかかわらず)、ラチブシュ公国はレシェクのすぐ下の妹アンナの夫である、プシェミスル家のオパヴァ公ミクラーシュ2世に与えられた。コジュレは、レシェクの末の妹エウフェミアに金銭的補償を支払った後で、ビトム公ヴワディスワフが取り戻した。レシェクの死後、未亡人となったアグニェシュカはブジェク公ルドヴィク1世と再婚している。.

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ヴワディスワフ・オポルスキ

ヴワディスワフ・オポルスキ ヴワディスワフ・オポルスキ(ポーランド語:Władysław opolski, 1225年 - 1282年8月27日から9月13日)は、ヴィエルニ公(在位:1243年 - 1249年)、及びオポーレ=ラチブシュ公(在位:1246年 - 1282年)。オポーレ=ラチブシュ公カジミェシュ1世の次男で、母はブルガリア貴族の娘とされるヴィオラ。.

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ヴァーサ王朝

ヴァーサ王朝は、スウェーデン王国(1523年 - 1654年)、およびポーランド・リトアニア共和国(1587年 - 1668年)の王朝。一時はロシア・ツァーリ国も支配した(1610年 – 1613年).

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ボレスワフ1世ヴィソキ

ヤン・マテイコによるボレスワフ1世ヴィソキ ボレスワフ1世ヴィソキの墓石 ボレスワフ1世ヴィソキ(波:Bolesław I Wysoki、独:Boleslaus der Lange, 1127年 - 1201年12月7日/12月8日、Leśnica)は、ヴロツワフ公(在位:1163年 - 1201年)。ヴワディスワフ2世(亡命公)の長男、母はオーストリア辺境伯レオポルト3世の娘で、ローマ王コンラート3世の異父妹であるアグネス。ミェシュコ1世、コンラトの兄。ヤロスワフ、ヘンリク1世の父。神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世は母方の従兄に当たる。.

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ボレスワフ4世

ボレスワフ4世ケンジェジャヴィ(Bolesław IV Kędzierzawy, 1120年 - 1173年1月5日)は、ポーランド大公(在位:1146年 - 1173年)。ボレスワフ3世と2度目の王妃サロメ・フォン・ベルク=シェルリンゲンの子として生まれた。ヴワディスワフ2世の異母弟、ミェシュコ3世、ヘンリク、カジミェシュ2世の同母兄。巻毛公(Kędzierzawy)と称される。 父が死ぬと、シロンスク公で異母兄のヴワディスワフ2世がポーランド大公となった。若いボレスワフ4世はマゾフシェとクヤヴィを継承し、マゾフシェ公となった。 1146年にヴワディスワフ2世を追放するとクラクフ領とシロンスクを継承し、ボレスワフ4世自身がポーランド大公となった。しかし、1163年にローマ皇帝フリードリヒ1世が外交で圧力をかけたため、甥のボレスワフ1世・ミェシュコ1世兄弟にシロンスクを返還した。死後は息子レシェックがマゾフシェ公を継承したのみで、クラクフとグニェズノを継承したのは同母弟のミェシュコ3世であった。.

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ボヘミア

ボヘミア(Bohemia、Čechy、Böhmen, ベーメン)は、現在のチェコの西部・中部地方を指す歴史的地名。古くはより広くポーランドの南部からチェコの北部にかけての地方を指した。西はドイツで、東は同じくチェコ領であるモラヴィア、北はポーランド(シレジア)、南はオーストリアである。 この地方は牧畜が盛んである。牧童の黒い皮の帽子に皮のズボンにベストは、オーストリア帝国の馬術や馬を扱う人たちに気に入られた。このスタイルは、オーストリアと遠戚関係にあるスペインを経て、アメリカのカウボーイの服装になったといわれる。西欧にも伝わり、芸術家気取り、芸術家趣味と解されて、ボヘミアンやボヘミアニズムという言い方も生まれた。 '''ボヘミア''' チェコ西部から中部に位置する緑色の部分.

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ボヘミア君主一覧

ボヘミア君主一覧(ボヘミアくんしゅいちらん)では、ボヘミアの君主であるボヘミア公およびボヘミア国王を挙げる。ボヘミアでは9世紀頃にプシェミスル家の君主がボヘミア公となり、10世紀に神聖ローマ帝国に服属する。11世紀から12世紀には神聖ローマ帝国の中で王号を許された特別の地位を得て、「ボヘミアを征する者はヨーロッパを征す」と言われた。ボヘミア国王は1289年からは選帝侯の一人となった。 プシェミスル家が13世紀に断絶した後、婚姻政策によってルクセンブルク家が王位を世襲するが、これもフス戦争の渦中で断絶する。その後はハプスブルク家の支配下に入り、第一次世界大戦による帝国崩壊でチェコスロバキアの一部として独立するまで、ハプスブルク帝国の構成国として続く。.

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ボヘミア王冠領

タカル2世時代のボヘミア領、1273年 カール4世時代のボヘミア王冠領 ボヘミア王冠領(ボヘミアおうかんりょう)またはボヘミア王国の王冠(ボヘミアおうこくのおうかん、捷:Česká koruna, země Koruny české、独:Krone Böhmen; Böhmische Krone, Böhmische Kronländer, Länder der Böhmischen Krone、羅:Corona Bohemiae, Corona Regni Bohemiae)は、ボヘミア王国及び王国と封建上の主従関係(レーエン)にある従属邦の集合体を指す国制概念。この場合の「ボヘミアの王冠」とは、いわゆる「聖ヴァーツラフの王冠」(en)と呼ばれる、国王が頭に被る物体としての王冠のことではなく、ボヘミア王の主権下に、ボヘミア国家を構成する諸身分が統合されている状態を表している。この国制概念は、1526年よりボヘミア王冠領が属していたハプスブルク帝国が1918年に崩壊するまで存在していた。.

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プロイセン王国

プロイセン王国(プロイセンおうこく、Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。 プロイセンの語源となったプルーセンはドイツ騎士団に征服され、1224年にドイツ騎士団国が作られた。ドイツ騎士団国は1525年にプロシア公領ないしプロイセン公国となる。1618年、公国はブランデンブルク選帝侯領とともに、同君連合であるブランデンブルク=プロイセンを構成した。君主フリードリヒ・ヴィルヘルムは、オランダ総督との姻戚関係によって威勢を増した。1701年にプロイセン王国となった。王国は北ドイツ連邦の盟主となるまで軍事国家として成長し続け、普仏戦争に勝利した。そのときプロイセンを盟主とするドイツ帝国ができた。1918年からドイツ革命によりヴァイマル共和政のプロイセン州となった。(#歴史).

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プシェミスル朝

プシェミスル家の紋章 プシェミスル朝(Dynastie Přemyslovců)は、ボヘミア(ドイツ語でベーメン、チェコ語ではチェヒ)のチェコ人王朝。1306年に断絶するまで続いた。伝説上の女傑・リブシェの夫で、一族の伝説上の始祖である農夫プシェミスルから名づけられた。競合するスラヴニク家を打倒後、ボヘミアの一君主となったが、13世紀にオタカル2世はオーストリア公国を獲得してオーストリア大公の地位に就き、大空位時代に神聖ローマ皇帝として推挙されている(ハプスブルク家に敗れた)。さらに13世紀後半、ポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の下で最盛期を誇ったが、息子である次王ヴァーツラフ3世が殺害され断絶した。.

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プシェミスワフ (ラチブシュ公)

ンスク、プシェミスワフの領土はピンク色で示されている プシェミスワフ(Przemysław raciborski, 1268年6月12日 - 1306年5月7日)は、ラチブシュ公(在位:1282年 - 1306年、1290年まで兄ミェシュコ1世と共同統治)。オポーレ=ラチブシュ公ヴワディスワフの第5子で四男、母はヴィエルコポルスカ公ヴワディスワフ・オドニツの娘エウフェミア。 1282年に父が死ぬと、プシェミスワフは長兄ミェシュコ1世と共にラチブシュ、チェシン、オシフィエンチム地域を相続した。1285年、プシェミスワフは三兄ボルコ1世以外の2人の兄と共に、ヴロツワフ公ヘンリク4世と戦っていたヴロツワフ司教トマシュ2世ザレンバを支援し、司教をラチブシュに匿いさえした。1287年、ヘンリク4世は司教を支援した報復としてラチブシュに遠征を行い、同市は包囲されたうえ、ヴロツワフの軍勢によってほぼ壊滅させられた。その前年、ヘンリク4世はプシェミスワフの姉コンスタンツィアと離婚し、彼女を実家に追い返していた。 1290年、ラチブシュ公国は2人の公爵の間で正式に分割された。プシェミスワフはラチブシュを保持し、ミェシュコ1世がチェシンとオシフィエンチムを獲得した。翌1291年、プシェミスワフは2人の兄ミェシュコ1世、ボルコ1世と共にボヘミア王ヴァーツラフ2世に臣従した(もう一人の兄ビトム公カジミェシュは、1289年から既にボヘミア王の封臣だった)。プシェミスワフがこれ以後、一般にボヘミア王の封臣と見なされていたかどうかは判然としないが、おそらくボヘミア王の封臣として扱われたと考えられる。内政においては、プシェミスワフは2つの重要な事業を行った。1299年に公国の首都ラチブシュに都市特権を付与したこと、同市にドミニコ会修道院を建設したことである。 1306年5月7日に37歳で亡くなり、ラチブシュの聖ヤクプ修道院に埋葬された。.

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ビトム公国

ビトム公国(波:Księstwo Bytomskie、独:Herzogtum Beuthen)は、中世ポーランドの分裂期に成立したシロンスク公国群の一つ。首都はビトム。 オポーレ公ヴワディスワフ・オポルスキの死後、オポーレ公国は彼の息子達によって分割相続され、1281年頃に高地シロンスクに創設された。次男のカジミェシュはビトム公となり、最初は弟のボルコ1世と共にオポーレ公国を共同統治していたが、1284年に領土を分割、以後は単独統治となった。義弟のヴロツワフ公ヘンリク4世との対立は1289年にボヘミア王ヴァーツラフ2世への臣従を誓うこととなり、カジミェシュはボヘミア王冠に臣属を認めた最初のシロンスク諸公となった。 1355年、カジミェシュの孫のボレスワフが死亡、シロンスク・ピャスト家のビトムにおける分家が絶えたことで遺産相続争いが起こり、ボレスワフの未亡人マルケータ・ゼ・シュテルンベルカはコジュレの支配権を含む公国の北部をオレシニツァ公コンラト1世に、公国の残りの部分をチェシン公カジミェシュ1世に譲らなければならなかった。1459年にチェシン公ヴァツワフ1世が自分の所有するビトム公国をオレシニツァ公コンラト9世に売却するまでビトム公国は分裂したままで、彼の統治中に再統一された。 1472年、ハンガリー王でありボヘミア王(対立王)でもあったマーチャーシュ1世がビトム公国を併合し、ジェロティン家のJan卿に対して担保とした。1498年にヤン2世ドブルィの統治下で、ビトム公国はオポーレ公国に併合された。ヤン2世はブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ゲオルクと相続協定を結び、1526年にボヘミア王兼ハンガリー王ラヨシュ2世によってオポーレ公国を与えられた。 しかし彼の統治をラヨシュ2世の王位を継承したハプスブルク家は認めず、シレジアにおけるホーエンツォレルン家の支配権を虎視眈々と狙っていた。1620年の白山の戦いの後、神聖ローマ皇帝フェルディナント2世は、ブランデンブルク選帝侯ゲオルク・ヴィルヘルムからシレジアを奪う機会を得た。それからビトム公国は、1742年のプロイセン王国による併合までハプスブルク君主国の中の領邦のままだった。 Category:シレジアの諸公国 Category:ポーランドの歴史的地域 Category:オーストリアの歴史的地域 *.

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フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)

フリードリヒ1世(Friedrich I., 1122年 - 1190年6月10日)はローマ王(在位:1152年 - 1190年)及びイタリア王(在位:1155年 - 1190年)、並びに中世西ヨーロッパのローマ皇帝(在位:1155年 - 1190年)。1178年にブルグント王としても戴冠。ホーエンシュタウフェン朝第2代の王で初代皇帝。父はシュヴァーベン大公フリードリヒ2世(独眼公)、母はバイエルン公ハインリヒ9世の娘ユーディト。皇帝ハインリヒ4世の曾孫にあたる。西ヨーロッパの歴代ローマ皇帝の中でも有能なことで知られ、後世では英雄とまで呼ばれた。また、赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、赤髭王(バルバロッサ、Barbarossa)と呼ばれた。 なお、弟のライン宮中伯コンラート(1135年 - 1195年)の娘のアグネスはハインリヒ5世(バイエルン公ハインリヒ9世の曾孫)に嫁いでいる。.

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ドイツ語

ドイツ語(ドイツご、独:Deutsch、deutsche Sprache)は、インド・ヨーロッパ語族・ゲルマン語派の西ゲルマン語群に属する言語である。 話者人口は約1億3000万人、そのうち約1億人が第一言語としている。漢字では独逸語と書き、一般に独語あるいは独と略す。ISO 639による言語コードは2字が de、3字が deu である。 現在インターネットの使用人口の全体の約3パーセントがドイツ語であり、英語、中国語、スペイン語、日本語、ポルトガル語に次ぐ第6の言語である。ウェブページ数においては全サイトのうち約6パーセントがドイツ語のページであり、英語に次ぐ第2の言語である。EU圏内では、母語人口は域内最大(ヨーロッパ全土ではロシア語に次いで多い)であり、話者人口は、英語に次いで2番目に多い。 しかし、歴史的にドイツ、オーストリアの拡張政策が主に欧州本土内で行われたこともあり、英語、フランス語、スペイン語のように世界語化はしておらず、基本的に同一民族による母語地域と、これに隣接した旧支配民族の使用地域がほとんどを占めている。上記の事情と、両国の大幅な領土縮小も影響して、欧州では非常に多くの国で母語使用されているのも特徴である。.

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ホーエンローエ家

ノイエンシュタインの教会入り口のホーエンローエ家墓所を示す銘板。中央の盾型の中にホーエンローエ家の紋章が彫られている。 ホーエンローエ家(haus das Hohenlohe)は、かつてドイツ・フランケン地方を治めた貴族一門。家名は、おそらく、ウッフェンハイム近郊のホーラッハ城(あるいはホーエンロッホ城)に因んだものと推測される。 ホーエンローエ家の本来の支配地域は、コッハー川、タウバー川、ヤクスト川沿いの渓谷であった。1234年にランゲンブルク、1250年にエーリンゲンを獲得、さらに後(1300年以降)にはヴァルデンブルクやノイエンシュタインをも獲得した。13世紀から15世紀にかけて幾度も分家し、あるいはドイツ騎士団への寄贈(1219年)を行いながらも、ホーエンローエは、固有の確固とした領土を形成していた。 ホーエンローエ家の紋章の図柄は、上下に配置された2頭のゆったりと歩むヒョウで、勇敢さと強さを表現している。また、ホーエンローエ家のモットーは、ex flammis orior(『炎の中からおのれを高めよ』)であった。.

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ホーエンツォレルン家

ホーエンツォレルン城 ホーエンツォレルン家(ホーエンツォレルンけ、Haus Hohenzollern)は、南ドイツのシュヴァーベン地方に発祥したヨーロッパの貴族、君主の家系であり、ドイツ皇帝やルーマニア国王も出した一族である。 家名は居城としていたホーエンツォレルン城に由来し、14世紀にツォレルンからホーエンツォレルンに改めた。なお「ホーエンツォレルン」は舞台ドイツ語および南部のドイツ語の影響を受けた表記であり、現代標準ドイツ語の発音では「ホーエンツォレアン」または「ホーエンツォラーン」と表記する方が近い。.

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アンスバッハ侯領

1791年時点でのアンスバッハ侯領地図 アンスバッハ侯領(Fürstentum Ansbach)、すなわちブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯領は、フランケン帝国クライスに属した帝国直轄地で、ホーエンツォレルン家の傍流が治めた。本家筋にあたるベルリンのブランデンブルク選帝侯家(1701年以降はプロイセン王家)と緊密な関係にありながらも、1792年まで独立した領邦を保った。この侯領の統治者の政治的な活動範囲は、もっぱらフランケン帝国クライス内とその周辺地域に留まった。.

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オポーレ公国

ポーレ公国の紋章 オポーレ公国またはオペルン公国(ポーランド語:Księstwo opolskie;チェコ語:Opolské knížectví;ドイツ語:Herzogtum Oppeln)は、シロンスク公国群に属する公国の一つ、首都はオポーレ。 公国は1172年、ボレスワフ1世の長男ヤロスワフの領国として分離独立した。ヤロスワフの死後、1201年から1202年までの短い間はヴロツワフ公国に併合されていたが、1202年にヤロスワフの叔父ミェシュコ1世が自分の領するラチブシュ公国へと取り込み、オポーレ=ラチブシュ公国を形成した。1290年、オポーレ=ラチブシュがヴワディスワフ・オポルスキの4人の息子達の間で分割相続されると、ラチブシュ公国から分離した単独のオポーレ公国が成立したが、この2国の領土の一部からチェシン公国、ビトム公国が新たに分立した。 1327年、公国はボヘミア王冠領の封土(レーエン)となった。公国はこの後、繰り返し起きる領土的変化によって不安定な状態が続き、15世紀半ばに至るまで徐々にその版図は縮小していった。しかし15世紀後半には再び拡張を始め、1511年にはオポーレ=ラチブシュ公国が再形成されることになった。1532年、ピャスト家最後の統治者ヤン2世が死ぬと、公国は完全にボヘミアの主権下に入った。オポーレ=ラチブシュ公国の支配者はホーエンツォレルン家、ハプスブルク家、ヴァザ家など目まぐるしく変わっていった。オポーレ=ラチブシュ公国は1742年、最終的にプロイセン王国によって併合され、消滅した。.

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オシフィエンチム公国

フィエンチム公国またはアウシュヴィッツ公国(ポーランド語:Księstwo Oświęcimskie;チェコ語:Osvětimské knížectví;ドイツ語:Herzogtum Auschwitz)は、中世ポーランドの分裂期の後に成立したシロンスク公国群の一つ。首都はオシフィエンチム。 オシフィエンチム城 オシフィエンチム公国は1315年、12世紀のポーランド及びシロンスク公国の分裂の後に成立した。オシフィエンチム一帯はもともと比較的規模の大きなチェシン公国の領域に属していたが、1315年にチェシン公ミェシュコ1世が死んだ際の分割相続に伴って公国として独立し、ミェシュコ1世の長男ヴワディスワフ1世に与えられた(チェシンは次男のカジミェシュ1世が受け継いだ)。1327年、ヴワディスワフ1世の息子ヤン1世スホラスティクは、他のシロンスク諸公と同様にボヘミア王ヨハン・フォン・ルクセンブルクに臣従し、公国はボヘミア王冠領の属国になった。 1445年、オシフィエンチム公国からはザトルとトシェクが分立した。オシフィエンチムはボヘミア王冠の属領の地位にあったにもかかわらず、1454年にヤン4世がポーランド王カジミェシュ4世に臣従したことで、ポーランド王国の領域に復帰することになった。ヤン4世には男子の相続者がおらず、1456年に300万プラハ・グロシュで公国を主君カジミェシュ4世に売却した。1564年のポーランド通常議会において、ジグムント2世アウグストはポーランド王冠領の一部であるオシフィエンチム公国とザトル公国をクラクフ県のシロンスク郡へと併合することを承認した。ただし、その後もポーランド王は両公国の公爵の称号を保持し続けた。 オシフィエンチム公国の旧領域は1772年の第1次ポーランド分割に伴ってハプスブルク君主国が支配するガリツィア・ロドメリア王国の一部となった。ヨーゼフ2世以後のハプスブルク家の神聖ローマ皇帝とオーストリア皇帝(1804年以後)は、皆自らの公式称号の中でアウシュヴィッツ公(Herzog zu Auschwitz)を名乗っていた。1918年、オシフィエンチムがポーランド第2共和国領に組み入れられると同時に、この形式的な称号も廃止された。.

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オタカル2世

タカル2世(Otakar II, 1230年? - 1278年8月26日ツェルナー『オーストリア史』、153頁)は、プシェミスル朝のボヘミア王(在位:1253年 - 1278年)、オーストリア公(在位:1251年 - 1278年)。ヴァーツラフ1世とドイツ王フィリップの娘クニグンデの次男。ボヘミア王とポーランド王も兼ねたヴァーツラフ2世の父。大空位時代にドイツ王に選ばれたカスティーリャ王アルフォンソ10世は母方の従弟に当たる。ドイツ語名Ottokar、ハンガリー語名Ottokárから、オットカール2世とも呼ばれる。 オーストリアを統治するバーベンベルク家の断絶後、オタカルは彼らの統治下にあったオーストリア、シュタイアーマルクを獲得する。東方においてはドイツ騎士団の征服事業を支援し、東プロイセンに勢力を拡大した。1273年に神聖ローマ皇帝に選出されたハプスブルク家のルドルフ1世と対立し、1278年にマルヒフェルトの戦いでルドルフ1世に敗れ、落命した。 オタカルはオーストリアの重要な支配者の一人として挙げられるが、彼の死後に書かれた年代記には偉大さとともに傲慢な人格も記される。それらの年代記は、19世紀の劇作家フランツ・グリルパルツァーのオタカル像にも影響を与えたツェルナー『オーストリア史』、154頁。.

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カジミェシュ2世

ミェシュ2世スプラヴィエドリヴィ(Kazimierz II Sprawiedliwy, 1138年 - 1194年5月5日)は、ポーランド大公(在位:1177年 - 1190年、1190年 - 1194年)。ボレスワフ3世と2度目の王妃サロメ・フォン・ベルク=シェルリンゲンの末子。ヴワディスワフ2世の異母弟、ボレスワフ4世、ミェシュコ3世、ヘンリクの同母弟。正義公(Sprawiedliwy)とも呼ばれている。マウォポルスカ・ピャスト家の祖。 父は死去にあたって、遺言状によりポーランド王国の領土を多くの子供達に分割相続させていた。このため、ポーランドは分裂状態となり、ポーランド王はクラクフとその周辺を領するだけの一諸侯に過ぎなくなってしまった。 カジミェシュ2世は1177年、貴族の支持を得て兄でクラクフ領主でもあったヴィエルコポルスカ公ミェシュコ3世を追放し、ポーランド王として即位した。その後は王権強化のためにウクライナなどへの進出も行なったが、ミェシュコ3世に短期間公位を奪われ、国内では貴族による反乱が起こるなど、王権は常に不安定であった。1194年に死去、息子のレシェク1世が後を継いだ。.

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ゲオルク (ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯)

敬虔伯ゲオルク・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハ(Georg der Fromme von Brandenburg-Ansbach、1484年3月4日、アンスバッハ - 1543年12月27日。信奉者(der Bekenner)とも呼ばれる)は、ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯。ブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯兼ブランデンブルク=クルムバッハ辺境伯フリードリヒ2世とポーランド王カジミェシュ4世の娘ゾフィアとの間の次男。クルムバッハ辺境伯カジミールの弟、ドイツ騎士団団長、プロイセン公アルブレヒトの兄。.

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ザトル公国

トル公国(ポーランド語:Księstwo Zatorskie;ドイツ語:Herzogtum Zator)は、中世ポーランドの分裂期の後に成立したシロンスク公国群の一つ。首都はザトル。 ザトル城 ザトル公国は1445年、12世紀のポーランド及びシロンスク公国の分裂の後に成立した。オシフィエンチム公カジミェシュ1世から公国を継いで11年たった3人の兄弟達は、公国を分轄統治することに決め、長男のヴァーツラフ1世はザトルの地を治めることとなった。1468年のヴァーツラフ1世の死後も公国の分裂は続き、1474年に彼の息子達カジミェシュ2世・ヴァーツラフ2世とヤン5世・ヴワディスワフとで公国はスカワ川を境に分轄統治された。 しかし、カジミェシュ2世の死後2つの領域は統合され、1494年、最後の生き残っている兄弟としてヤン5世はたった一人の統治者になった。ヤン5世には相続人がいなかったので、同年に彼が死ぬまで公爵のままであるという保証の下で、ポーランド王ヤン1世オルブラフトに公国を売ることを決めた。ヤン5世は1513年に殺され、ザトル公国はポーランド王国に併合された。1564年のポーランド通常議会において、ジグムント2世アウグストはポーランド王冠領の一部であるザトル公国とオシフィエンチム公国とザトル公国をクラクフ県のシロンスク郡へと併合することを承認した。ただし、その後もポーランド王は両公国の公爵の称号を保持し続けた。 ザトル公国の旧領域は1772年の第1次ポーランド分割に伴ってハプスブルク君主国が支配するガリツィア・ロドメリア王国の一部となった。オーストリアのガリツィアの一部であるザトル公国とオシフィエンチム公国であったが、1818年から1866年までドイツ連邦に属していた。ヨーゼフ2世以後のハプスブルク家の神聖ローマ皇帝とオーストリア皇帝(1804年以後)は、皆自らの公式称号の中でザトル公(Herzog von Zator)を名乗っていた。1918年、ザトルがポーランド第2共和国領に組み入れられると同時に、この形式的な称号も廃止された。.

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シレジア

レジアは、現在のポーランド南西部からチェコ北東部(プロイセン王国時代の行政区画も含めればドイツ東部のごく一部も)に属する地域の歴史的名称。支配者は様々に変化してきた。.

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シロンスク公国

ポモジェ、長子領の支配者の封土 シロンスク公国またはシュレージエン公国(ポーランド語:Księstwo śląskie;ドイツ語:Herzogtum Schlesien)は、中世ポーランドのシロンスクに存在した公国。1163年に創設されてまもなく、シロンスク公国群へと細かく分割される状況が生まれた。.

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シロンスク公国群

ンスク公国群またはシュレージエン公国群(ポーランド語:Księstwa śląskie;ドイツ語:Herzogtümer in Schlesien)は、1138年に成立したシロンスク公国が分裂して出来た微細な小公国群の集まりの総称。.

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ジョルィ

ョルィ(Żory)は、ポーランド南部、シロンスク県にある都市。2006年の統計で人口62,625人。 1999年からはシロンスク県に属している。1975年から1998年まではカトヴィツェ県に属していた。.

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神聖ローマ皇帝一覧

聖ローマ皇帝一覧(しんせいローマこうていいちらん)では、中世から近代にヨーロッパに存在した神聖ローマ帝国の統治者を、時代順に列挙している。歴史学においては神聖ローマ皇帝の系譜はカール大帝から始めるのが通例ではあるが、ローマ帝国期のローマ皇帝、すなわちカール大帝からベレンガーリオ1世までの皇帝の一覧についてはフランク・ローマ皇帝の項目に譲る。 ザクセン朝からヴェルフェン朝までの系図.

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1163年

記載なし。

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1172年

記載なし。

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1173年

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1177年

記載なし。

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1202年

記載なし。

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1211年

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1281年

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1290年

記載なし。

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1327年

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1336年

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1521年

記載なし。

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1526年

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1532年

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1742年

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1840年

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5月16日

5月16日(ごがつじゅうろくにち)はグレゴリオ暦で年始から136日目(閏年では137日目)にあたり、年末まではあと229日ある。誕生花はイキシア。.

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