ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
無料
ブラウザよりも高速アクセス!
 

ジャアファル・サーディク

索引 ジャアファル・サーディク

ャアファル・アッ=サーディク(جعفر الصادق, 702年4月20日 - 765年12月4日)、全名アブー・アブドゥッラー・ジャアファル・イブン・ムハンマド・イブン・アリー・イブン・フサイン・アッ=サーディクは、シーア派・イマーム派の第6代イマーム。アッ=サーディクとは「信に値する者」の意。 クーファの街を拠点に活動し、神学者・法学者としても著名。ジャアファル・アッ=サーディクの法判断はのちのシーア派法学においてジャアファル法学の基礎となっており、イマーム派シーア派の教義を確立したイマームといってよい。しかしジャアファル・アッ=サーディクの名声はシーア派内に留まるものではなく、信頼性の非常に高いハディースの伝承者として、また学問全般に対する貢献からスンナ派のあいだでも高い崇敬を受けた。 またジャアファル・アッ=サーディクの後継をめぐって、のちに主流派となる12イマーム派と今日のアーガー・ハーンの家系に連なるイスマーイール派との分裂がおこっている。.

40 関係: 十二イマーム派マーリク学派マディーナハナフィー学派ハディースムハンマド・バーキルムハンマド・イブン=アブドゥッラーフムーサー・カーズィムムゥタズィラ学派ファーティマフサイン・イブン・アリー (イマーム)ニザール派アリー・リダーアリー・イブン・アビー・ターリブアリー・ザイヌルアービディーンアーガー・ハーンアッバース朝アブー・ハニーファアブー・バクルイマームイマーム派イスマーイール派イスラム法学ウマイヤ朝ウンマ (イスラム)クルアーンクーファザイド・ブン・アリーシャリーアシーア派ジャービル・イブン=ハイヤーンジャアファル法学派スンナスンナ派神智学正統カリフ702年743年750年765年

十二イマーム派

十二イマーム派(じゅうにイマームは、英語:Twelver、アラビア語:اثنا عشرية、ペルシア語:شیعه دوازده‌امامی)は、イスラム教シーア派の一派。イラン、イラク、アゼルバイジャン、レバノンなどに分布し、イランの国教でもある。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクと十二イマーム派 · 続きを見る »

マーリク学派

マーリク法学派(まーりく ほうがくは المذهب المالكي, المالكية al-Mālikīya)はスンナ派におけるイスラーム法学の学派(マズハブ)の一つ。マーリキ法学派とも表記される。4大法学派のうちで二番目に大きく、ムスリム全体のおよそ25%がこの法学派に属し、北アフリカ、西アフリカ、アラブ首長国連邦、クウェート、サウジアラビアの一部で有力である。かつてはイスラーム支配下のヨーロッパ、特に北アフリカ(マグリブ)一帯からアンダルスの主な政権で有力な法学派として発展し、シチリア首長国:en:Emirate of Sicily (831年 - 1072年)でも有力であった。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとマーリク学派 · 続きを見る »

マディーナ

アル=マディーナ・アル=ムナウワラ(المدينة المنوّرة)または単にマディーナ(المدينة)は、アラビア半島の都市で、マッカ(メッカ)に次ぐイスラームの第2の聖地である。メディナともいう。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとマディーナ · 続きを見る »

ハナフィー学派

ハナフィー学派(ハナフィーがくは)は、イスラーム教スンナ派のイスラーム法学における学派(マズハブ)である。四大法学派のひとつであり、ハナフィー法学派、ハナフィー派とも表記される。。。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとハナフィー学派 · 続きを見る »

ハディース

ハディース(الحديث al-ḥadīth(伝承))は、イスラム教の預言者ムハンマドの言行録。クルアーンがムハンマドへの啓示というかたちで天使を通して神が語った言葉とされるのに対して、ハディースはムハンマド自身が日常生活の中で語った言葉やその行動についての証言をまとめたものである。クルアーンが第一聖典であり、ハディースが第二聖典とされる。ただし、ハディースの一部はクルアーンよりも優先されると考えられるときがある。クルアーンと異なり、一冊の本にまとまっているような類のものではない。伝えられる言行一つ一つがハディースである。 また、ハディースの内容は預言者ムハンマドや教友(サハーバ)たちなどの日常生活や信仰に関わる様々なことについて体験したことを述べられており、礼拝方法から用便の所作、戦争にいたるまでムスリムの信仰生活について広範な規範・遵守すべき慣行(スンナ)を提示している。このためハディースはイスラーム法(シャリーア)上、クルアーンと並ぶ重要な法源として位置付けられている。スンナ派やシーア派、さらにイスラーム法学派ごとに採用されるハディース、およびハディース集成書に違いがある。9世紀頃、アッバース朝ではブハーリーやイブン・ハンバルなど有名なハディース学者、法学者たちによって様々な形式のハディース集成書が多数編纂された。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとハディース · 続きを見る »

ムハンマド・バーキル

ムハンマド・アル=バーキル(アラビア語: أبو جعفر محمد بن علي الباقر; 西暦676年 - 743年; 全名アブー・ジャアファル・ムハンマド・イブン・アリー・アル=バーキル)は、シーア派第5代イマーム。アル=バーキルとは「知を分き開く者」の意。 ムハンマドは676年、マディーナに生まれた。713年、父アリー・ザイヌルアービディーンの跡をついで第5代イマームとなった。シーア派伝承によれば、732年、ウマイヤ朝のカリフ・ヒシャームの従兄弟イブラーヒーム・イブン・ワリード・イブン・アブドゥッラーの手で毒殺されたという。遺骸は祖父フサイン、父アリーとともにマディーナのジャンナトゥル・バキー墓地に葬られている。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとムハンマド・バーキル · 続きを見る »

ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ

ムハンマド(محمد、Muḥammad、570年頃 - 632年6月8日)は、イスラム教の開祖、軍事指導者、政治家。アラビア半島中西部、ヒジャーズ地方の中心都市メッカの支配部族であるクライシュ族出身で、その名門ハーシム家のひとり。イスラム教では、モーセ(ムーサー)、イエス(イーサー)その他に続く、最後にして最高の預言者(ナビー)でありかつ使徒(ラスール)とみなされている。また世俗君主・軍人としても有能であり、アラビア半島にイスラム国家を打ち立てた。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ · 続きを見る »

ムーサー・カーズィム

ムーサー・アル=カーズィム・イブン・ジャアファル・アッ=サーディク (アラビア語: الإمام موسى الكاظم ابن جعفر الصادق al-Imām Mūsá al-Kāẓim ibn Ja`far al-Ṣādiq、745年11月10日 - 799年9月4日)は、シーア派十二イマーム派第7代イマーム。マディーナで生まれ、バグダードに没した。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとムーサー・カーズィム · 続きを見る »

ムゥタズィラ学派

ムゥタズィラ学派(المعتزلة、al-muʿtazilah)とは、イスラム教の神学の学派である。9世紀初頭から10世紀にかけてのイスラーム世界で大きな影響力を持ち、分散して少数派となった後も思想の一部はシーア派に継承された塩尻「ムゥタズイラ学派」『岩波イスラーム辞典』、959頁。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとムゥタズィラ学派 · 続きを見る »

ファーティマ

ファーティマ( Fāṭima al-Zuhrā' 606年または614年 - 632年8月28日)は、イスラームの開祖ムハンマドの娘で、第4代正統カリフアリーの妻。(ただし、アリーが正統カリフとなったのはファーティマの死後であったことには注意を要する。) ムハンマドの血を引く娘であること、シーア派イマームの祖となったことなどから、シーア派で大変に尊敬されている。また、ムハンマドの寵愛を受けたことから、イスラーム圏における理想の女性の象徴とみなされている。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとファーティマ · 続きを見る »

フサイン・イブン・アリー (イマーム)

フサイン・イブン・アリー・イブン・アビー=ターリブ(; Ḥusayn ibn ‘Alī ibn Abī Ṭālib; 626年8月28日 - 680年10月10日)はイスラーム・シーア派における第3代イマーム(ごく一部では第2代)。母は預言者ムハンマドの娘ファーティマ・ザフラー、父はムハンマドの従兄弟アリー・イブン・アビー=ターリブ。ムハンマドの孫にあたり、シーア派のみならずスンナ派でもアフル・アル=バイト(御家=ムハンマド家)の一員として崇敬される。 フサインはヒジュラ暦61年のアーシューラー(ムハッラム月10日、ユリウス暦では680年10月10日)、カルバラーの戦いで惨敗を喫し戦死した。シーア派はアーシューラーに、その死を悲しむ祭式を行う。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとフサイン・イブン・アリー (イマーム) · 続きを見る »

ニザール派

ニザール派(نزاریان, Nezāriyān、نزارية, Nizārīya)は、イスラム教のシーア派・イスマーイール派の分派。1094年、ファーティマ朝のカリフ=イマーム位をめぐってイスマーイール派は二派に分裂したが、そのうちの一方がニザール派(もう一方はムスタアリー派)である。史料や現在の報道、学術的著作でも単にイスマーイール派としてムスタアリー派と一括して扱われることが多い。 ニザール派はハサニ・サッバーフの指導するイラン方面のイスマーイール派で支持を獲得。11世紀末から13世紀半ばまでシリア地方からホラーサーンに点在する城砦およびその周辺領域を保持し、イラン高原のに築城されたを中心に独立政権を打ち立てた。時に敵対するセルジューク朝や十字軍の要人を暗殺するという手段を用いたことから暗殺教団の別称が生まれ、のちに大麻吸引などと結びつけられて伝説化した(これについては暗殺教団を参照)。 13世紀半ばのモンゴル帝国軍の到来によってほとんどの城砦を失うが、広い地域に散在するコミュニティは存続し、現在ではインド、パキスタン、シリア、アフガニスタン・タジキスタン・ザンジバルなど東アフリカおよび欧米に信徒を擁する。特にインド・パキスタン方面のホージャー派のニザール派コミュニティおよびアフガニスタン・タジキスタンのニザール派コミュニティの指導者アーガー・ハーンは、絶大な財力を背景に同地域に社会的影響力を誇る。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとニザール派 · 続きを見る »

アリー・リダー

イマーム・アリー・ムーサー・アッ=リダー(アラビア語: علي بن موسى الرضا Imām ˤAlī ibn-Mūsā al-Riđā; 766年1月1日 - 818年5月26日)は、シーア派・十二イマーム派の第8代イマーム。名はアリー・イブン・ムーサー・イブン・ジャアファル。ペルシア語ではエマーム・レザーとして知られる。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとアリー・リダー · 続きを見る »

アリー・イブン・アビー・ターリブ

アリー・イブン・アビー・ターリブ( 'Alī ibn Abī Tālib、600年頃 - 661年1月27日)は、イスラーム教の第4代正統カリフ(在位656年 - 661年)。同教シーア派の初代イマーム。 預言者ムハンマドの父方の従弟で、母もムハンマドの父の従姉妹である。後にムハンマドの養子となり、ムハンマドの娘ファーティマを娶った。ムハンマドがイスラム教の布教を開始したとき、最初に入信した人々のひとり。直情の人で人望厚く、武勇に優れていたと言われる。早くからムハンマドの後継者と見做され、第3代正統カリフのウスマーンが暗殺された後、第4代カリフとなったが、対抗するムアーウィヤとの戦いに追われ、661年にハワーリジュ派によって暗殺される。 のちにアリーの支持派はシーア派となり、アリーはシーア派によって初代イマームとしてムハンマドに勝るとも劣らない尊崇を受けることとなった。アリーとファーティマの間の息子ハサンとフサインはそれぞれ第2代、第3代のイマームとされている。また、彼らの子孫はファーティマを通じて預言者の血を引くことから、スンナ派にとってもサイイドとして尊崇されている。 アリーの墓廟はイラクのナジャフにあり、カルバラーとともにシーア派の重要な聖地となっている。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとアリー・イブン・アビー・ターリブ · 続きを見る »

アリー・ザイヌルアービディーン

アリー・イブン・フサイン・ザイヌルアービディーン (アラビア語: علي بن حسين زين العابدين; 西暦658年 - 713年)はシーア派第4代イマーム。フサイン・イブン・アリーの子で、預言者ムハンマドの曾孫にあたる。ザイヌルアービディーンはシーア派のあいだで冠せられる名であり「崇拝者らの宝飾」の意。またイマーム・サッジャードとも。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとアリー・ザイヌルアービディーン · 続きを見る »

アーガー・ハーン

アーガー・ハーン (ラテン文字: Aga Khan, Aqa Khan, Agha Khan、آغا خان) はイスラム教・イスマーイール派の中の分派ニザール派のイマームに対して1818年より使用されている称号である。2013年現在アーガー・ハーンの称号を得ているのは第49代イマーム (1957年-) のプリンス・シャー・カリーム・アル・フサイニー (アーガー・ハーン4世、1936年生) である。 アーガー・ハーンという称号はもともと、ニザール派第46代イマーム (1817年-1881年) であった (1800年-1881年) に対して、ガージャール朝の王ファトフ・アリー・シャーが敬意を表して贈った称号であった"41.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとアーガー・ハーン · 続きを見る »

アッバース朝

アッバース朝(الدولة العباسية al-Dawla al-‘Abbāsīya)は、中東地域を支配したイスラム帝国第2の世襲王朝(750年 - 1517年)。 イスラム教の開祖ムハンマドの叔父アッバース・イブン・アブドゥルムッタリブの子孫をカリフとし、最盛期にはその支配は西はイベリア半島から東は中央アジアまで及んだ。アッバース朝ではアラブ人の特権は否定され、すべてのムスリムに平等な権利が認められ、イスラム黄金時代を築いた。 東西交易、農業灌漑の発展によってアッバース朝は繁栄し、首都バグダードは産業革命より前における世界最大の都市となった。また、バグダードと各地の都市を結ぶ道路、水路は交易路としての機能を強め、それまで世界史上に見られなかったネットワーク上の大商業帝国となった。 アッバース朝では、エジプト、バビロニアの伝統文化を基礎にして、アラビア、ペルシア、ギリシア、インド、中国などの諸文明の融合がなされたことで、学問が著しい発展を遂げ、近代科学に多大な影響を与えた。イスラム文明は後のヨーロッパ文明の母胎になったといえる。 アッバース朝は10世紀前半には衰え、945年にはブワイフ朝がバグダードに入城したことで実質的な権力を失い、その後は有力勢力の庇護下で宗教的権威としてのみ存続していくこととなった。1055年にはブワイフ朝を滅ぼしたセルジューク朝の庇護下に入るが、1258年にモンゴル帝国によって滅ぼされてしまう。しかし、カリフ位はマムルーク朝に保護され、1518年にオスマン帝国スルタンのセリム1世によって廃位されるまで存続した。 イスラム帝国という呼称は特にこの王朝を指すことが多い。古くはヨーロッパ中心史観に基づき日本でもサラセン帝国と呼ばれたが、現在では一般的ではない。後ウマイヤ朝を西カリフ帝国、アッバース朝を東カリフ帝国と呼称する場合もある。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとアッバース朝 · 続きを見る »

アブー・ハニーファ

アブー・ハニーファ(、699年9月5日頃 - 767年6月14日)は、スンナ派のムスリムの神学者、法学者であるPakatchi, Ahmad and Umar, Suheyl, “Abū Ḥanīfa”, in: Encyclopaedia Islamica, Editors-in-Chief: Wilferd Madelung and, Farhad Daftary.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとアブー・ハニーファ · 続きを見る »

アブー・バクル

アブー・バクル・アッ=スィッディーク( Abū Bakr al-Ṣiddīq ‘Abd Allāh ibn Abī Quḥāfa ‘Uthmān b. ‘Āmir b. ‘Amr b. Ka‘b b. Sa‘d b. Taym, 573年 - 634年8月23日)は、初代正統カリフ(在位632年 - 634年)。預言者ムハンマドの最初期の教友(サハーバ)にしてムスリムのひとりであり、カリフすなわち「アッラーの使徒(ムハンマド)の代理人」( Khalīfat Rasūl Allāh)を名乗った最初の人物である。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとアブー・バクル · 続きを見る »

イマーム

イマーム( imām)は、アラビア語で「指導者」、「模範となるべきもの」を意味する語で、イスラム教の「指導者」を指す。他の日本語表記としてエマーム、イマムなど。 スンナ派においては、ムスリム(イスラム教徒)の大小の宗教共同体を指導する統率者のことをイマームと呼ぶ。一方、シーア派においては宗教共同体にとって特別な存在である「最高指導者」をイマームと呼ぶ(後述)。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとイマーム · 続きを見る »

イマーム派

イマーム派(イマームは)、イスラム教シーア派の宗派のひとつ。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとイマーム派 · 続きを見る »

イスマーイール派

イスマーイール派(アラビア語: الإسماعيليون al-Ismāʿīliyyūn、ペルシャ語:اسماعیلیان Esmāʿiliyān)、別名7イマーム派は8世紀に起こったイスラム教シーア派の一派である。グノーシス的な神秘主義的教説を特徴とする。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとイスマーイール派 · 続きを見る »

イスラム法学

イスラム法学(イスラムほうがく・フィクフ(fiqh))とは、イスラム法(シャリーア)に対する法解釈学のことである。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとイスラム法学 · 続きを見る »

ウマイヤ朝

ウマイヤ朝(ウマイヤちょう 、、Banu Umayya)は、イスラム史上最初の世襲イスラム王朝(661年 - 750年)。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとウマイヤ朝 · 続きを見る »

ウンマ (イスラム)

ウンマ(أمّة umma)とは、アラビア語で母と同義の言葉であり、現代では民族・国民・共同体などを意味する。ウンマ・イスラーミーヤ(أمّة إسلامية umma islamiya)はイスラーム共同体と訳され、イスラーム国家とほぼ同義である。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとウンマ (イスラム) · 続きを見る »

クルアーン

ルアーン(قرآن )あるいはコーランは、イスラム教(イスラーム)の聖典である。イスラームの信仰では、唯一不二の神(アッラーフ)から最後の預言者に任命されたムハンマドに対して下された啓示と位置付けられている。ムハンマドの生前に多くの書記によって記録され、死後にまとめられた現在の形は全てで114章からなる。 クルアーンは、読誦して音韻を踏むように書かれている。「クルアーン」という名称はアラビア語で「詠唱すべきもの」を意味し、アラビア語では正確には定冠詞を伴って「アル.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとクルアーン · 続きを見る »

クーファ

ーファ(Kūfa كوفة)はイラクの都市。ナジャフ県に属する。2003年当時の人口は約110,000人大野「クーファ」『世界地名大事典』3、343頁。現在のクーファの市街地は、7世紀に建設されたクーファ遺跡の近郊に位置する太田「クーファ」『岩波イスラーム辞典』、332頁。町の名前はアラビア語で「円形の砂丘」、ナバタイ語で「赤い砂」を意味する花田「クーファ」『新イスラム事典』、209頁。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとクーファ · 続きを見る »

ザイド・ブン・アリー

イド・ブン・アリー (、698年頃 - 740年) は、アリー・ブン・アビー・ターリブの曾孫、アリーの息子であるフサインの孫にあたる8世紀の人物である。父は「ザイヌル・アービディーン」と呼ばれるアリー・ブン・フサイン。西暦740年にクーファでウマイヤ朝に対して蜂起したが、同調者が少なく失敗し、殺された。ザイドの信奉者たちは、後にザイド派を形成した。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとザイド・ブン・アリー · 続きを見る »

シャリーア

ャリーア(شريعة Shari'a)は、コーランと預言者ムハンマドの言行(スンナ)を法源とする法律。1000年以上の運用実績がある。ローマ法を起源としないイスラム世界独自のものである。イスラム法、イスラーム法、イスラーム聖法などとも呼ばれる。 シャリーアはコーランと預言者ムハンマドの言行(スンナ)を法源とし、イスラム法学者が法解釈を行う。イスラム法を解釈するための学問体系(イスラム法学)も存在し、預言者ムハンマドの時代から1000年以上、法解釈について議論され続けている。法解釈をする権限はイスラム法学者のみが持ち、カリフが独断で法解釈をすることはできないとされる。預言者ムハンマドの言行録はハディースとよばれ預言者の言行に虚偽が混ざらぬように、情報源(出典)が必ず明記される。 シャリーアは民法、刑法、訴訟法、行政法、支配者論、国家論、国際法(スィヤル)、戦争法にまでおよぶ幅広いものである。シャリーアのうち主にイスラム教の信仰に関わる部分をイバーダート(儀礼的規範)、世俗的生活に関わる部分をムアーマラート(法的規範)と分類する。イバーダートは神と人間の関係を規定した垂直的な規範、ムアーマラートは社会における人間同士の関係を規定した水平的な規範と位置づけられる。 また、イスラム共同体(ウンマ)は、シャリーアの理念の地上的表現としての意味を持つとされる。 シャリーアが六法全書と国際法を合わせたような性格を持つようになったのは、預言者ムハンマド自身が軍の指揮官であり国家元首であったことが大きく関わっている。 シャリーアでは、異教徒との戦闘において、異教徒に「ジズヤ(人頭税)を払う」と言われてしまうと、カリフには講和を拒否する権利がない。 日本語で読める原典に、アブドル=ワッハーブ・ハッラーフ『イスラムの法 法源と理論』(中村廣治郎訳、東京大学出版会、1984年)と、イブン・ザイヌッディーン『イスラーム法理論序説』(村田幸子訳解説、<イスラーム古典叢書>岩波書店、1985年)がある。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとシャリーア · 続きを見る »

シーア派

ーア派(アラビア語:、ラテン文字転写:)は、イスラム教の二大宗派のひとつで、2番目の勢力を持つ。最大勢力であるもう一方はスンナ派(スンニ派)である。 7世紀のカリフであったアリーとその子孫のみが、預言者の代理たる資格を持ち、「イスラム共同体(ウンマ))」の「指導者(イマーム)」の職務を後継する権利を持つと主張する。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとシーア派 · 続きを見る »

ジャービル・イブン=ハイヤーン

アブー・ムーサー・ジャービル・イブン・ハイヤーン(, جابر بن حيان بن عبد الله الأزدي), (721年? – 815年?)は、アッバース朝時代のイスラム世界の哲学者、学者。後に11世紀にかけて続くイスラム科学黄金期を築く元祖とされる。彼の業績は、著作がラテン語に翻訳されてヨーロッパ世界へ伝わり、中世ヨーロッパの錬金術に多大な影響を及ぼすとともに、近代の化学の基礎を与えた。ラテン語ではGeberus(ゲベルス)又はGeber(ゲーベル、ジーベル)というラテン名で言及される。ジャービルは半ば伝説的な存在であり、その実像を正確に定めることは難しい。生年は721年あるいは722年ともいわれる。生地はホラーサーン(現在のイラン北東部およびアフガニスタン北西部)とされる。彼の父は化学、薬学者であった。イエメンで学業を修め、後にアッバース朝イラクのクーファで活躍、その地で没した。815年あるいは808年ともいわれる。アッバース朝最盛期のカリフであるハールーン・アッ=ラシードに宮廷学者として仕えた。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとジャービル・イブン=ハイヤーン · 続きを見る »

ジャアファル法学派

ャアファル法学派(じゃあふぁるほうがくは)はシーア派におけるフィクフつまりイスラーム法学の学派(マズハブ)の一つ。シーア派の多数派を占める。学派名は6代目イマームのジャアファル・サーディクに由来する。十二イマーム派と同一視される。 相続問題、宗教的な税金、商取引、個人の状態や一時的な結婚つまりニカー・ムトアの許可と同程度にイジュティハードを信頼する点でスンナ派の4大法学派との違いがみられる。しかし、こういった違いにもかかわらず、スンナ派の宗教体系によって許容できるムスリム「マズダク」としてジャアファル「フィクフ」を許容することを扱う数多くのファトワが出されてきた。そのなかにはアンマン報告やアル.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとジャアファル法学派 · 続きを見る »

スンナ

ンナ(سنة Sunnah)は字義通りには「踏み慣らされた道=慣行」。主にイスラームにおける預言者ムハンマドの言行・範例(السنة النبوية as-Sunnatu’n-Nabawīyah:預言者のスンナ)を指す(その他の用法については後述)。スンナ派イスラームにおける術語としてのスンナは、ムハンマドがウンマを指導した23年間におこなった慣行や範例であって、ムハンマドの教友ら(サハーバ)の合意を経て、世代から世代へと伝承された宗教的慣行・範例を意味する。またその上でイスラーム法においてクルアーンに次ぐ第二の法源となっている。 スンナは具体的なテクストではなく行いや範例であるため、なにに基づいて、ある慣行をスンナとするかが議論となった。スンナ派では主に預言者の言行についての言い伝えであるハディースから読み取るものとされる。つまりハディースはスンナの容れ物と考えるのである。この議論を確立したのがシャーフィイーである。しかしながら、ハディースそのものがスンナであるかどうかについては見解が分かれる。 シャーフィイーが登場した10世紀ころには、ハディースはハディース集というかたちで文書にまとめられる。ハディースが文書として整備されない時代には、具体的な仕草でスンナが継承されていることも当然あるが、このようなスンナはムハンマド以降、誰から誰に伝えられたか検証不可能であるため、ハディース集に収められることはない。このようなスンナは、単にスンナとして伝えられている。このようなスンナは検証可能性における瑕疵のため、法学的見地から法源として用いることはできず、立場によってはスンナとしてすら扱われない。 シーア派における「スンナ」は、預言者ムハンマドおよび預言者を継いで人生あらゆる局面で人類を指導するとされている十二イマームの言行と、預言者やイマームの承認した行いを意味する。また、スンナは実に預言者イブラーヒームが創始した宗教的行為から構成されるものであって、ムハンマドはそれを復活しただけにすぎないとする意見も一部にある。 ほかに神学的には、「アッラーのスンナ」(السنة الله as-Sunnatu’llāh)という用語を用いる。これは創造における慣行のことで、ある自然事象、社会事象を慣行(=神の定めた秩序体系)として読み解く。アッバース朝のカリフ・マアムーンのもとムゥタズィラ派などで盛んとなった議論であるが、恣意的政策を単に「神の慣行」で済ませることができるなど、これを政治的に危険な傾向もあり彼らの議論は「スンナ漁り」と非難されるようになった。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとスンナ · 続きを見る »

スンナ派

ンナ派(アラビア語:(أهل السنة (والجماعة 、ラテン文字転写:Ahl as-Sunnah (wa’l-Jamā‘ah))、あるいはスンニ派(日本では報道などでこちらが一般的に知られる)は、イスラム教(イスラーム)の二大宗派のひとつとされる。他のひとつはシーア派である。イスラームの各宗派間では、最大の勢力、多数派を形成する。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクとスンナ派 · 続きを見る »

神智学

智学(しんちがく、theosophy)とは、神秘的直観や思弁、幻視、瞑想、啓示などを通じて、神とむすびついた神聖な知識の獲得や高度な認識に達しようとするものである。神知学、神知論、接神論とも。 神智学は、名前のとおり「智」と「認識」を重視するものであり、神あるいは超越者が叡智的性格をもち、宇宙や自然もこのような叡智からつくられ、人間の智も神の智に通ずる性格をもっており、人間は霊的認識により神を知ること、神に近づくことができるとされる。 グノーシス派、新プラトン主義、インドの神秘思想などにも神智学的傾向がみられるが、狭義には以下の二つのものを指す。一つは、17世紀にヨーロッパで顕在化した近代の「キリスト教神智学」の潮流であり、もう一つは1875年に設立されたインドに本部のある「神智学協会」の思想である。 後者は近現代に新たに創出された体系であり、両者には共通点もあるが、系譜上のつながりはない。通常、神智学と言えばニューエイジ(スピリチュアル)の源流である神智学協会に関するものを指すことが多い。本記事では、神智学協会系の思想を区別する場合は〈神智学〉と表記する。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクと神智学 · 続きを見る »

正統カリフ

正統カリフ(せいとうカリフ、الخلفاء الراشدون - al-Khulafā’u r-Rāshidūn、アラビア語で「正しく導かれた代理人たち」の意)は、イスラム教・イスラム帝国の初期(الخلافة الراشدية - al-khilāfat ar-Rāshidīyah - en)の時代においてイスラム共同体(ウンマ)を率いたカリフのことを指すスンナ派の用語。正統カリフ4代のうちアブー・バクルを除く3代の正統カリフが暗殺されてこの世を去っている。.

新しい!!: ジャアファル・サーディクと正統カリフ · 続きを見る »

702年

記載なし。

新しい!!: ジャアファル・サーディクと702年 · 続きを見る »

743年

記載なし。

新しい!!: ジャアファル・サーディクと743年 · 続きを見る »

750年

記載なし。

新しい!!: ジャアファル・サーディクと750年 · 続きを見る »

765年

記載なし。

新しい!!: ジャアファル・サーディクと765年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

ジャアファル・アッサーディクジャアファル・アッ=サーディク

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »