目次
101 関係: 大司教、ナバラ王国、マリー (ギーズ女公)、マリー・ド・ロレーヌ (1674-1724)、マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ、メアリ・オブ・ギーズ、メアリー (スコットランド女王)、ユグノー、ユグノー戦争、ヨランド・ダンジュー、ランス (マルヌ県)、ルネ2世 (ロレーヌ公)、ルネ2世 (エルブフ侯)、ルネ・ダンジュー、ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガ、ルイ (ジョワイユーズ公)、ルイ・ド・ロレーヌ (1527-1578)、ルイ・ド・ロレーヌ (1555-1588)、ルイ・ド・ロレーヌ (1575-1621)、ルイ・ド・ロレーヌ (1641-1718)、ルイ・ド・ロレーヌ (1692-1743)、ルイ・ド・サヴォワ=ヌムール、ルイ・シャルル・ド・ロレーヌ、ルイ・ジョゼフ (ギーズ公)、ルイーズ=イポリット (モナコ女公)、ロレーヌ家、ロレーヌ公、ロレーヌ公国、ブルボン家、ブロワ城、プロテスタント、パリ、フランス王国、フランソワ (アンジュー公)、フランソワ (ギーズ公)、フランソワ1世 (フランス王)、フランソワ2世 (フランス王)、フランソワ・マリー・ド・ロレーヌ、フランソワ・ルイ・ド・ロレーヌ、フランソワ・ジョゼフ (ギーズ公)、フィリップ・ド・ロレーヌ、フェリペ2世 (スペイン王)、ドルーの戦い、ニコラ1世 (ロレーヌ公)、アルフォンス=アンリ・ド・ロレーヌ、アンリ (マイエンヌ公)、アンリ (モンパンシエ公)、アンリ (エルブフ公)、アンリ1世 (ギーズ公)、アンリ1世・ド・サヴォワ=ヌムール、... インデックスを展開 (51 もっと) »
- 反プロテスタント主義
大司教
大司教の紋章 大司教(だいしきょう、Archiepiscopus)は、カトリック教会の聖職者位階司教の範疇に属する聖務職。正教会と聖公会では大主教に相当する。他言語のほとんどでは区別せず、たとえば英語ではともにアーチビショップ(archbishop)である。カトリックの教会行政では特定の司教に与えられる栄誉称号であるが、聖職者としては司教と同様の位階ながらもしばしば他の司教を超える大きな権限を享有した。 カトリック教会の教会法において4種類に分類される。
見る ギーズ家と大司教
ナバラ王国
ナバラ王国(Nafarroako Erresuma、Reino de Navarra、Royaume de Navarre)は、中世のイベリア半島北東部パンプローナより興った王国である。ナバーラ王国とも言う。824年バスク人の首領アリスタがパンプローナで王として選ばれフランク王国に対する反乱を率いたことによる。ナバラの名は、7世紀のスペインでの西ゴート族の時代が終わりを告げた頃から登場している。
見る ギーズ家とナバラ王国
マリー (ギーズ女公)
マリー・ド・ギーズ(フランス語:Marie de Guise, 1615年8月15日 - 1688年3月3日)は、ギーズ女公、ジョワイユーズ女公およびジョアンヴィル女公(在位:1675年 - 1688年)。ギーズ公シャルル1世とジョワイユーズ女公アンリエットの娘。
マリー・ド・ロレーヌ (1674-1724)
マリー(向かって左側)と妹シャルロット(右側)、ニコラ・フーシェ画 マリー・ド・ロレーヌ(Marie de Lorraine, 1674年8月12日 - 1724年10月30日)は、ブルボン朝時代フランスの貴族女性。モナコ公アントワーヌ1世の妃。
見る ギーズ家とマリー・ド・ロレーヌ (1674-1724)
マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ
マリー・ド・ブルボン=モンパンシエ(Marie de Bourbon-Montpensier, Mademoiselle de Montpensier, 1605年10月15日 - 1627年6月4日)は、ブルボン朝期のフランスの貴族。オルレアン公ガストンの最初の妃、またモンパンシエ公爵夫人(女公)。ヴァロワ朝以来続いたブルボン家の支流ブルボン=モンパンシエ家の最後の末裔である。
メアリ・オブ・ギーズ
マリー・ド・ギーズまたはメアリー・オブ・ギーズ(仏:Marie de Guise, 英:Mary of Guise, 1515年11月22日 - 1560年6月11日)は、スコットランド国王ジェームズ5世の妃、女王メアリー・ステュアートの母。 フランスの大貴族ギーズ家の出身で、初代ギーズ公クロードの長女。母アントワネット・ド・ブルボンはブルボン家傍系のヴァンドーム伯フランソワの娘でブルボン朝初代の王アンリ4世の大叔母に当たる。ギーズ公フランソワ、ロレーヌ枢機卿シャルル、オマール公クロード2世、エルブフ侯ルネ2世は弟である。マリー・ド・ロレーヌ(Marie de Lorraine)とも呼ばれる。
メアリー (スコットランド女王)
メアリー・ステュアート(Mary Stuart, 1542年12月8日 - 1587年2月8日(グレゴリオ暦2月18日))は、スコットランド女王(メアリー1世、在位:1542年12月14日 - 1567年7月24日)。スコットランド王ジェームズ5世とフランス貴族ギーズ公家出身の王妃メアリー・オブ・ギーズの長女。ダーンリー卿ヘンリー・ステュアートは2度目の夫であり、後のイングランド国王ジェームズ1世の母。 メアリーは王家ステュアートの綴りを Stewart から Stuart に替えたが、これは自身のフランス好みからであったという。同時代のイングランド女王エリザベス1世と比較されることも多く、また数多くの芸術作品の題材となっている。
ユグノー
ユグノー(Huguenot)は、フランスにおける改革派教会(カルヴァン主義)またはカルヴァン派。フランス絶対王政の形成維持と崩壊の両方に活躍し、迫害された者は列強各国へ逃れて亡命先の経済を著しく発展させた。その活躍は、まずとびぬけてイギリスでみられたが、ドイツでは順当な規模であった。 関連項目と記事下部のカテゴリからのリンクが充実している。
見る ギーズ家とユグノー
ユグノー戦争
「サン・バルテルミの虐殺」 フランソワ・デュボア作 ユグノー戦争(ユグノーせんそう、フランス語:Guerres de religion, 1562年 - 1598年)は、フランスのカトリックとプロテスタントが休戦を挟んで8回40年近くにわたり戦った内戦である。 ドイツに始まった宗教改革運動は各国に広まったが、ジャン・カルヴァンの思想がフランスでも勢力を持ち、プロテスタントはカトリック側からユグノー(huguenot)と呼ばれた。ユグノーには貴族も加わり、弾圧にもかかわらず勢力を広げていった。1562年にカトリックの中心人物ギーズ公によるヴァシーでのユグノー虐殺事件(ヴァシーの虐殺)が契機となり、内乱状態になった。妥協的な和平を挟んだ数次の戦争の後の1572年8月24日には、カトリックがユグノー数千人を虐殺するサン・バルテルミの虐殺が起こっている。
見る ギーズ家とユグノー戦争
ヨランド・ダンジュー
ヨランド・ダンジュー(Yolande d'Anjou, 1428年11月2日 - 1483年3月23日)は、ロレーヌ女公(在位:1473年)、バル女公(在位:1480年 - 1483年)。ナポリ王、アンジュー公兼ロレーヌ公ルネ・ダンジュー(ルネ1世)とロレーヌ女公イザベルの長女。ジャン2世の妹でイングランド王ヘンリー6世妃マルグリットの姉。
ランス (マルヌ県)
ランス(Reims )は、フランス北部にあるグラン・テスト地域圏・マルヌ県の郡および市。
ルネ2世 (ロレーヌ公)
ロレーヌ公ルネ2世 ルネ2世(René II, 1451年5月2日 - 1508年12月10日)は、ロレーヌ公(在位:1473年 - 1508年)、バル公(在位:1483年 - 1508年)、ヴォーデモン伯(在位:1470年 - 1508年)。1480年から1493年まではカラブリア公として、1493年以降はナポリ王およびエルサレム王として、ナポリ王国とプロヴァンス伯領の、外祖父ルネ1世(ナポリ王)以来の継承権を要求していた。また、父方の叔父からアルクール伯およびオマール伯を継承した。1504年にはルネ1世の称号の1つであったギーズ伯を獲得した。
ルネ2世 (エルブフ侯)
ルネ2世・ド・ロレーヌ=ギーズ(René II de Lorraine-Guise, 1536年8月14日 - 1566年12月14日)は、フランスの貴族。フランスの上級貴族ギーズ公爵家の一員で、エルブフ侯爵(1550年 - 1566年)。スコットランド王ジェームズ5世妃マリー、ギーズ公フランソワ、ロレーヌ枢機卿シャルル、オマール公クロード2世の弟。
ルネ・ダンジュー
Aix Cathedralに飾られているニコラ・フロマン筆のルネと後妻ジャンヌの画。『燃える柴の祭壇画』(1476年)より タラスコンにあるルネの城 ルネ・ダンジュー(René d'Anjou, 1409年1月16日 - 1480年7月10日)は、中世フランスの王族。王家ヴァロワ家の分家であるヴァロワ=アンジュー家出身で、アンジュー公ルイ2世と、アラゴン王フアン1世の娘ヨランド・ダラゴンの次男。兄にアンジュー公ルイ3世、姉にフランス王シャルル7世妃マリー、弟にメーヌ伯シャルル4世がいる。 ギーズ伯(1417年 - 1425年)、バル公(1431年 - 1480年、実際は1420年から)、ロレーヌ公(1431年 - 1453年)、ナポリ王(1435年 - 1442年)、アンジュー公(1434年 - 1480年)、プロヴァンス伯・フォルカルキエ伯(1434年 - 1480年)、名目上のエルサレム王(1435年 - 1480年)、名目上のアラゴン王およびバルセロナ伯(1466年 - 1472年)などの位に就いた。
ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガ
ルドヴィーカ・マリア・ゴンザーガ(Ludwika Maria Gonzaga, 1611年8月18日 - 1667年5月10日)は、ポーランド王ヴワディスワフ4世の王妃。またその異母弟ヤン2世の王妃にもなった。イタリア語名マリア・ルドヴィーカ・ディ・ゴンザーガ=ネヴェルス(Maria Ludovica di Gonzaga-Nevers)、フランス語名マリー=ルイーズ・ド・ゴンザーグ=ヌヴェール(Marie-Louise de Gonzague-Nevers)。ゴンザーガ家の出身。妹アンヌはギーズ公アンリ2世、プファルツ=ジンメルン伯エドゥアルトの妃となっている。
ルイ (ジョワイユーズ公)
ルイ・ド・ロレーヌ=ギーズ(Louis de Lorraine-Guise, 1622年1月11日 - 1654年9月27日)は、フランスの上級貴族ギーズ公爵家の一員で、ジョワイユーズ公爵およびアングレーム公爵。ギーズ公シャルルとその妻のアンリエット・カトリーヌ・ド・ジョワイユーズの間の息子の1人。ギーズ公アンリ2世、ギーズ女公マリーの弟。
ルイ・ド・ロレーヌ (1527-1578)
ルイ・ド・ロレーヌ(Louis de Lorraine, 1527年10月21日 - 1578年3月29日)は、ヴァロワ朝時代のフランス・カトリック教会の高位聖職者。、、、、枢機卿。大貴族ギーズ公爵家の一員。
ルイ・ド・ロレーヌ (1555-1588)
ルイ・ド・ロレーヌ(Louis de Lorraine, 1555年7月6日 - 1588年12月24日)は、フランスの聖職者。ギーズ公フランソワと妃アンナ・デステの三男として、ダンピエールで生まれた。ギーズ公アンリ1世、マイエンヌ公シャルルの弟。
ルイ・ド・ロレーヌ (1575-1621)
ルイ3世・ド・ロレーヌ(フランス語:Louis III de Lorraine, 1575年1月22日 - 1621年6月21日)は、カトリック同盟のリーダーであったギーズ公アンリ1世とカトリーヌ・ド・クレーヴの三男。ギーズ枢機卿(cardinal de Guise)といわれる。カトリックの首領であったギーズ公フランソワは祖父、ギーズ公クロードは曽祖父、ロレーヌ公ルネ2世は高祖父である。
ルイ・ド・ロレーヌ (1641-1718)
ルイ・ド・ロレーヌ(Louis de Lorraine, comte d'Armagnac, 1641年12月7日 - 1718年6月13日)は、ブルボン朝時代のフランスの宮廷貴族、廷臣。アルマニャック伯。
ルイ・ド・ロレーヌ (1692-1743)
ルイ・ド・ロレーヌ(Louis de Lorraine, prince de Lambesc, 1692年2月13日 - 1743年9月9日)は、ブルボン朝時代フランスの大貴族家門ギーズ家の一員。ブリオンヌ伯及びランベスク公であり、後者の称号を使用した。
ルイ・ド・サヴォワ=ヌムール
ルイ・ド・サヴォワ=ヌムール(Louis de Savoie-Nemours, 1615年 - 1641年9月16日)は、ジュネーヴ公およびヌムール公(在位:1632年 - 1641年)、オマール公(在位:1638年 - 1641年)。
ルイ・シャルル・ド・ロレーヌ
ルイ・シャルル・ド・ロレーヌ(Louis Charles de Lorraine, 1725年9月10日 - 1761年6月28日)は、ブルボン朝時代フランスの貴族、軍人、廷臣。ブリオンヌ伯及びランべスク公であり、前者の爵位を通称とした。王室主馬頭(Grand écuyer de France)及びアンジュー州知事を務めた。
ルイ・ジョゼフ (ギーズ公)
ルイ・ジョゼフ・ド・ロレーヌ=ギーズ(Louis Joseph de Lorraine-Guise, duc de Guise, 1650年8月7日 - 1671年7月30日)は、フランスの貴族。ギーズ公およびジョワイユーズ公。
ルイーズ=イポリット (モナコ女公)
ルイーズ=イポリット・ド・モナコ(Louse-Hippolyte de Monaco, 1697年11月10日 - 1731年12月29日)は、モナコ女公。現在のモナコ公家の先祖。
ロレーヌ家
ロレーヌ家(ロレーヌけ、フランス語:Maison de Lorraine, ドイツ語:Haus Lothringen)は、ヨーロッパ貴族の家系の一つ。シャトノワ家(Maison de Châtenois)とも呼ばれる。元来はロレーヌを統治した公爵家であったが、18世紀に婚姻によりハプスブルク家を相続してハプスブルク=ロートリンゲン家となったことで、ヨーロッパ史上において重要かつ最も長きにわたって統治した王家の一つとなった。現在当主はカール・ハプスブルク=ロートリンゲンでオーストリア皇帝、ハンガリー、クロアチア、ボヘミア、ガリツィア・ロドメリア、イリュリアの王およびエルサレム国王の称号を有するGordon Brook-Shepherd.
見る ギーズ家とロレーヌ家
ロレーヌ公
ロレーヌ公の紋章 ロレーヌ公(仏:duc de Lorraine)またはロートリンゲン公(独:Herzog von Lothringen)は、現在はフランス領となっているロレーヌ(ロートリンゲン)地方に存在したロレーヌ(ロートリンゲン)公国の君主。初期はフランク王国の部族大公であり、ロートリンゲン大公(ロタリンギア大公)とも呼ばれるが、訳語の違いに過ぎない。フランスとドイツの国境に位置し、歴史的にもフランス王国と神聖ローマ帝国との間で帰属の変遷があり、日本語での呼称はフランス語に基づくものとドイツ語に基づくものが混用されるほか、称号自体も時代によって定訳が(「大公」と「公」で)異なる。
見る ギーズ家とロレーヌ公
ロレーヌ公国
ロレーヌ公国(Duché de Lorraine)またはロートリンゲン公国(Herzogtum Lothringen)は、現在のフランスのロレーヌ地方北東部、ルクセンブルクおよびドイツの一部からなる歴史的公国である。主要な都市はメス、ヴェルダンであり、歴史的な首都はナンシーであった。
見る ギーズ家とロレーヌ公国
ブルボン家
ブルボン家(ブルボンけ、Maison de Bourbon)は、ヨーロッパの王家で、フランス王家カペー家の支流の一つ。かつてのフランス王家、また現在のスペイン王家であり、さらに両シチリア王国など現在のイタリアの一部を治めていた家系もある。現在のルクセンブルク大公家も男系ではブルボン家の後裔。
見る ギーズ家とブルボン家
ブロワ城
ブロワ城(ブロワじょう)はフランスのロワール渓谷、ロワール=エ=シェール県にある城・宮殿。ブロア城とも表記する。歴代フランス王の幾人かが住居とし、またジャンヌ・ダルクが1429年、オルレアンからイギリス人に向けて軍を出発させる前に、ランスの大司教から祝福を受けた場所でもある桐生・47P。 ブロワ城はブロワの街の中央にある。13世紀から17世紀にかけて造られた建物がいくつか、中庭を囲むように建っている。そのうち最も有名な建築が、フランソワ1世の翼にあるすばらしい螺旋階段である。 世界遺産「シュリー=シュル=ロワールとシャロンヌ間のロワール渓谷」に含まれる。
見る ギーズ家とブロワ城
プロテスタント
は、宗教改革運動を始めとして、カトリック教会(または西方教会)から分離し、特に広義の福音主義を理念とするキリスト教諸教派を指す。日本ではカトリック教会(旧教)に対し、「新教」(しんきょう)ともいう。この諸教派はナザレのイエスをキリスト(救い主)として信じる宗教「キリスト教」『宗教学辞典』東京大学出版会、1973年、146頁。「キリスト教」『大辞泉』増補・新装版、小学館、1998年、第一版、714頁。「」デジタル大辞泉、小学館、コトバンク。である。イエス・キリストが、神の国の福音を説き、罪ある人間を救済するために自ら十字架にかけられ、復活したものと信じる。「父なる神」と「その子キリスト」と「聖霊」を唯一の神(三位一体・至聖三者)として信仰する。
見る ギーズ家とプロテスタント
パリ
パリ市(パリし、Ville de Paris)、通称パリ(Paris、巴里)は、フランスの首都。イル=ド=フランス地域圏の首府。フランス最大の都市であり、同国の政治、経済、文化などの中心地。ロンドンと共に欧州を代表する世界都市。 ルーヴル美術館を含む1区を中心として時計回りに20の行政区が並び、エスカルゴと形容される。
見る ギーズ家とパリ
フランス王国
フランス王国(フランスおうこく、Royaume de France)は、かつて存在したヨーロッパの王国である。
見る ギーズ家とフランス王国
フランソワ (アンジュー公)
エルキュール・フランソワ・ド・フランス(Hercule François de France、1555年3月18日 - 1584年6月19日)は、フランス王アンリ2世と王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子。フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世、およびスペイン王妃エリザベート、ロレーヌ公妃クロード、ブルボン朝のアンリ4世妃マルグリットの弟である。1560年にエヴルー公、1566年にアランソン公、1576年にアンジュー公、トゥーレーヌ公、ベリー公に叙されたが、アランソン公の称号でしばしば呼ばれる。
フランソワ (ギーズ公)
フランソワ・ド・ロレーヌ(François de Lorraine)またはフランソワ(1世)・ド・ギーズ(François (Ier) de Guise, 1519年2月17日 - 1563年2月24日)は、フランスの貴族・軍人でギーズ公、ジョアンヴィル公、オマール公。渾名はバラフレ(balafré:傷跡のあるという意味)であった。ユグノー戦争で活躍したが、プロテスタントに暗殺された。スコットランド王ジェームズ5世妃マリーは姉、ロレーヌ枢機卿シャルル、オマール公クロード2世、エルブフ侯ルネ2世は弟。
フランソワ1世 (フランス王)
フランソワ1世(仏:François Ier、1494年9月12日 - 1547年3月31日)は、ヴァロワ朝第9代のフランス王(在位:1515年 - 1547年)。シャルル5世の曾孫でルイ12世の従兄に当たるアングレーム伯シャルル・ドルレアンと、サヴォイア公フィリッポ2世の娘ルイーズ・ド・サヴォワとの間に生まれた。ジャンヌ・ダルクの戦友ジャン・ド・デュノワは大叔父である。 国内では王権強化に努める一方で対外的にはイタリア戦争を続けて神聖ローマ皇帝であるカール5世に対抗し、一時は神聖ローマ皇帝位をカルロス1世と争ったが敗北し、カルロス1世がカール5世として即位した。また、文芸の保護育成に努力した業績によって「フランス・ルネサンスの父」と呼ばれる。騎士王(roi-chevalier)とも呼ばれた。
フランソワ2世 (フランス王)
フランソワ2世(François II de France, 1544年1月19日 - 1560年12月5日)は、ヴァロワ朝第11代フランス王(在位:1559年 - 1560年)。父はアンリ2世、母はカトリーヌ・ド・メディシスで、シャルル9世、アンリ3世の兄である。スコットランド女王メアリー・ステュアートを王妃とした。
フランソワ・マリー・ド・ロレーヌ
フランソワ・マリー・ド・ロレーヌ(François Marie de Lorraine, prince de Lillebonne, duc de Joyeuse, 1624年4月4日 - 1694年1月19日)は、フランスの貴族。リルボンヌ公およびジョワイユーズ公。エルブフ公シャルル2世とその妻でカトリーヌ・アンリエット・ド・ブルボンの間の四男として生まれた。母方の祖父母はアンリ4世王とガブリエル・デストレである。エルブフ公シャルル3世、アルクール伯フランソワ・ルイの弟。
フランソワ・ルイ・ド・ロレーヌ
フランソワ・ルイ・ド・ロレーヌ(François-Louis de Lorraine, 1623年 - 1694年6月27日)は、ブルボン朝時代フランスの大貴族家門ギーズ家の一員。アルクール伯、リウー伯、ロシュフォール伯及びモンロール伯、モーベック侯爵及びオーベナ男爵(comte d'Harcourt, de Rieux, Rochefort et Montlaur, marquis de Maubec et baron d'Aubenas)。 エルブフ公シャルル2世とアンリ4世王の庶出の娘カトリーヌ・アンリエット・ド・ブルボンの間の三男。当初はリウー伯と称した。フロンドの乱ではコンデ公ルイ2世、オルレアン公ガストンらフロンド派諸侯の与党として活動した。乱の最中の1652年7月31日、オルレアン公の居館での諸侯会合の際、ターラント公との上席権争いを起こし、ターラント公に肩入れしたコンデ公を殴打したことから、王族に対する暴行の嫌疑でバスティーユ牢獄に収監された嶋中、2007年。
フランソワ・ジョゼフ (ギーズ公)
フランソワ・ジョゼフ・ド・ロレーヌ=ギーズ(François Joseph de Lorraine-Guise、duc de Guise、1670年8月28日 - 1675年3月16日)は、フランスの貴族。ギーズ公、ジョワイユーズ公。
フィリップ・ド・ロレーヌ
フィリップ・ド・ロレーヌ(Philippe de Lorraine, 1643年 1月1日- 1702年12月8日)は、フランスブルボン朝の貴族。上級貴族ギーズ家の一員で、分家のエルブフ公シャルル1世の次男のアルクール伯アンリの次男として生まれた。美男子であったことからフランス王ルイ14世の弟のオルレアン公フィリップ1世の男色相手として寵愛された。シュヴァリエ・ド・ロレーヌ(Chevalier de Lorraine)の通称でも知られる。
フェリペ2世 (スペイン王)
フェリペ2世(スペイン語:Felipe II, 1527年5月21日 - 1598年9月13日)は、ハプスブルク家のスペイン国王(在位:1556年 - 1598年)。慎重王(el Prudente)と称された。イングランド女王 メアリー1世と結婚期間中、共同統治者としてイングランド国王フィリップ1世の称号を有していた。また1580年からは、フィリペ1世としてポルトガル国王も兼ねた。 スペイン帝国・スペイン黄金世紀の最盛期に君臨した国王で、絶対主義の代表的君主の一人とされている。その治世はスペイン帝国の絶頂期に当たり、ヨーロッパ・中南米・アジア(フィリピン)に及ぶ大帝国を支配し、地中海の覇権を巡って争ったオスマン帝国を退けて勢力圏を拡大した。さらにポルトガル国王も兼ね、イベリア半島を統一すると同時にポルトガルが有していた植民地も継承。その繁栄は「太陽の沈まない国」と形容された。
ドルーの戦い
ドルーの戦い (Bataille de Dreux)は、1562年12月19日に起きた、ユグノー戦争に含まれる戦い。アンヌ・ド・モンモランシーがカトリック同盟軍を、コンデ公ルイ1世がユグノー軍を率いた。一般的にユグノー戦争で最初の会戦とされる。11月まで、ユグノー軍はパリ周辺に攻撃を試みていたが、兵力の不足から首都を包囲するまでには行かなかった。12月中旬になるとスイスとドイツからの傭兵で補強されたカトリック同盟軍の反撃を避ける為、コンデ公とコリニー提督は撤退を決断し、南進を開始した。しかし、あらゆる先発隊や斥候の類を配置していなかったというコンデ公の先見性を欠いた過ちによって、ユグノー軍はドルーへ向かう途上でカトリック軍と激突した。両軍とも同数の騎兵隊を抱えていたが、カトリック同盟軍には敵軍より多い歩兵と優れた組織という利点があった(ただし、敵軍より指揮官が優れていた訳ではない)。戦闘が始まる前、両軍は2時間あまり互いに向かい合っていた。ラ・ヌーは自身の論文において、何も動きが無かった二時間について『2つのフランス軍が対峙したのは、この100年間で初めてのことだった。兄弟、友人が敵味方に分かれており、戦争が始まればそれが大きな悲劇となることが疑いもないからだった。』と述べている。
見る ギーズ家とドルーの戦い
ニコラ1世 (ロレーヌ公)
ニコラ・ダンジュー(Nicolas d'Anjou)またはニコラ1世・ド・ロレーヌ(Nicolas Ire de Lorraine, 1448年 - 1473年)は、ロレーヌ公(在位:1470年 - 1473年)。ジャン2世と妃マリー(ブルボン公シャルル1世の娘)の子。
アルフォンス=アンリ・ド・ロレーヌ
アルフォンス=アンリ=シャルル・ド・ロレーヌ(Alphonse-Henri-Charles de Lorraine, 1648年8月14日 - 1718年10月19日)は、ブルボン朝時代フランスの大貴族家門ギーズ家の一員。アルクール伯。 アルクール伯フランソワ・ルイとモンロール女伯・モーベック女侯アンヌ・ドルナーノの間の次男。兄フランソワが両親の婚前に出生していて相続権がなかったため、次男ながら父の称号や資産・所領を相続した。1661年2月21日マリー=フランソワーズ・ド・ブランカと結婚、間にもうけた子は多くが夭折した。長男のアンヌ=マリー=ジョゼフ(1679年 - 1739年)がアルクール伯を相続した。
アンリ (マイエンヌ公)
アンリ・ド・ロレーヌ(フランス語:Henri de Lorraine, 1578年12月20日 - 1621年9月20日)は、マイエンヌ公(在位:1611年 - 1621年)。
アンリ (モンパンシエ公)
モンパンシエ公アンリ(Henri de Bourbon, duc de Montpensier, 1573年5月12日 - 1608年2月27日)は、オーヴェルニュのドーファン、モンパンシエ公、ドンブ公およびシャテルロー領主。
アンリ (エルブフ公)
アンリ・ド・ギーズ=ロレーヌ(Henri de Guise-Lorraine, duc d'Elbeuf, 1661年8月7日 - 1748年5月17日)は、フランスの貴族、エルブフ公爵。
アンリ1世 (ギーズ公)
ギーズ公アンリ1世 ギーズ公アンリ1世(1570年) ギーズ公アンリ1世(Henri Ier de Guise, 1550年12月31日 - 1588年12月23日)は、16世紀フランスの貴族、ユグノー戦争期のカトリック派の中心人物、カトリック同盟のリーダー。ギーズ公フランソワと妃アンナ・デステの長男。
アンリ1世・ド・サヴォワ=ヌムール
アンリ1世・ド・サヴォワ=ヌムール(Henri Ier de Savoie-Nemours, 1572年11月21日 - 1632年7月10日)は、ヌムール公(在位:1595年 - 1632年)。父はヌムール公ジャック、母はギーズ公フランソワの未亡人であったアンナ・デステ。公位の継承前はサン=ソルラン侯とよばれた。兄シャルル・エマニュエルの跡を継いでヌムール公となった。
アンリ2世 (フランス王)
アンリ2世(Henri II de France、1519年3月31日 - 1559年7月10日)は、ヴァロワ朝第10代のフランス王(在位:1547年 - 1559年)。 フランソワ1世と王妃クロード・ド・フランス(ルイ12世の王女)の次男。メディチ家出身のカトリーヌ・ド・メディシスを王妃とした。しかし、カトリーヌが嫁ぐ前から家庭教師であったディアーヌ・ド・ポワチエと長く愛人関係にあり、王妃とは不仲であったといわれる。
アンリ2世 (ギーズ公)
アンリ2世・ド・ギーズ(Henri II de Guise, 1614年4月4日 - 1664年6月2日)は、第5代ギーズ公。ギーズ公シャルル1世と妃でジョワイユーズ女公アンリエットの次男として、パリで生まれた。ギーズ女公マリー、ジョワイユーズ公ルイの兄。
アンリ3世 (フランス王)
アンリ3世(Henri III, 1551年9月19日 - 1589年8月2日)は、ポーランド最初の選挙王(在位:1573年 - 1575年)、およびヴァロワ朝最後のフランス王(在位:1574年 - 1589年)。アンリ2世の四男、母はカトリーヌ・ド・メディシス。フランソワ2世およびシャルル9世の弟。ポーランドではヘンリク・ヴァレジ(Henryk Walezy)と呼ばれる。
アンリ3世 (コンデ公)
アンリ3世ジュール・ド・ブルボン=コンデ(Henri III Jules de Bourbon-Condé, 1643年7月29日 - 1709年4月1日)は、ブルボン朝時代のフランスの軍人、貴族。コンデ公、モンモランシー公(1689年にアンギャン公と改称)、ギーズ公。
アンリ4世 (フランス王)
アンリ4世(、1553年12月13日 - 1610年5月14日)は、ブルボン朝初代のフランス国王(在位:1589年8月2日 - 1610年5月14日)、およびナバラ国王エンリケ3世(、在位:1572年6月9日 - 1610年5月14日)。 ユグノー戦争で叔父コンデ公ルイが戦死したため、年少にしてユグノーの盟主となる。1572年、自身の婚礼に際して企てられたサン・バルテルミの虐殺に遭遇したが、カトリックに改宗して難を避け、1576年に脱走して再びプロテスタントに復帰し、1589年のアンリ3世の暗殺により王位を継承する。その後再度カトリックに改宗して国内を平定し、1598年にナントの勅令を発布してカトリックとユグノーとの国内融和に努め、40年近くにわたる戦争を終結させた。戦後は戦争によって疲弊した国家の再建を行ったが、1610年に狂信的なカトリック信者によってされた。在位中から現代に至るまでフランス国民の間で人気の高い王の一人で、大アンリ(Henri le Grand)、良王アンリ(le bon roi Henri)と呼ばれる。
アンリ・ド・ロレーヌ (1601-1666)
アンリ・ド・ロレーヌ(Henri de Lorraine, comte d'Harcourt, 1601年3月20日 - 1666年7月25日)は、フランスの貴族、軍人。アルクール伯、アルマニャック伯、ブリオンヌ伯およびマルサン子爵。「真珠将校」を意味するカデ・ラ・ペルル(Cadet la Perle)の異名で呼ばれた。
見る ギーズ家とアンリ・ド・ロレーヌ (1601-1666)
アンリ・ド・ロレーヌ (1661-1713)
アンリ・ド・ロレーヌ(Henri de Lorraine, comte de Brionne, 1661年11月15日 - 1713年4月26日)は、ブルボン朝時代フランスの大貴族家門ギーズ家の一員。ブリオンヌ伯。1677年から1713年まで一族が世襲する王室主馬頭(Grand écuyer de France)を務めた。
見る ギーズ家とアンリ・ド・ロレーヌ (1661-1713)
アンリエット・カトリーヌ・ド・ジョワイユーズ
アンリエット・カトリーヌ・ド・ジョワイユーズ(フランス語:Henriette Catherine de Joyeuse, 1585年1月8日 - 1656年2月25日)は、ジョワイユーズ女公(在位:1608年 - 1647年)。モンパンシエ公アンリ、後にギーズ公シャルル1世と結婚した。「ラ・グランド・マドモワゼル」アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアンの祖母に当たる。
見る ギーズ家とアンリエット・カトリーヌ・ド・ジョワイユーズ
アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン
アンヌ・マリー・ルイーズ・ドルレアン(Anne Marie Louise d'Orléans, 1627年5月29日 - 1693年4月3日)は、フランスの王族。モンパンシエ女公。ラ・グランド・マドモワゼル(La Grande Madomiselle)の呼び名で知られる。
アンヌ・ド・バヴィエール
アンヌ・ド・バヴィエール アンヌ・アンリエット・ジュリー・ド・バヴィエール(Anne Henriette Julie de Bavière, 1648年3月13日 - 1723年2月23日)は、フランスの貴族コンデ公アンリ3世の妻である。
アンヌ・ド・ゴンザーグ・ド・クレーヴ
アンヌ・マリー・ド・ゴンザーグ・ド・クレーヴ(Anne Marie de Gonzague de Clèves, 1616年 - 1684年7月6日)は、ギーズ公アンリ2世とプファルツ=ジンメルン公子エドゥアルトの妻。マントヴァ公カルロ1世とマイエンヌ公シャルルの娘カトリーヌの末娘。
アンヌ=マリー=ジョゼフ・ド・ロレーヌ
アンヌ=マリー=ジョゼフ・ド・ロレーヌ(Anne-Marie-Joseph de Lorraine, 1679年4月30日 - 1739年4月29日)は、ブルボン朝時代フランスの大貴族家門ギーズ家の一員。ギーズ公(prince de Guise)及びアルクール伯(comte d'Harcourt)。 アルクール伯アルフォンス=アンリとその妻マリー=フランソワーズ・ド・ブランカの間の長男。1705年7月2日マリー=ルイーズ=クレティエンヌ・ジャナン・ド・カスティーユと結婚、間に3子をもうけた。
アントワーヌ (ロレーヌ公)
アントワーヌ・ド・ロレーヌ(Antoine de Lorraine, 1489年6月4日 - 1544年6月14日)は、ロレーヌ(ロートリンゲン)公(在位:1508年 - 1544年)。善良公(ル・ボン:le Bon)とも呼ばれた。ロレーヌ公ルネ2世とその妻でゲルデルン公アドルフの娘であるフィリッパの間の長男として、バル=ル=デュックで生まれた。弟はギーズ公クロード。
アントワーヌ1世 (モナコ公)
アントワーヌ1世(Antoine I, 1661年1月25日 – 1731年2月20日)は、モナコ公(在位: 1701年 – 1731年)。ルイ1世とカトリーヌ・シャルロット・ド・グラモンの長男。
イングランド王国
イングランド王国(イングランドおうこく、Kingdom of England)は、927年のアングロ=サクソン七王国の一つウェセックス王国の王アゼルスタンのイングランド全土統一から1707年のスコットランド王国との合同まで存在した国家である。ウェセックス王エグバートの825年のイングランド統一から最初のイングランド王と言われることが多いが、実際の称号はブレトワルダ(覇王)であった。 スコットランド王であったステュアート朝のジェームズ6世が1603年に王位を兼ねて以来(イングランド王ジェームズ1世)、スコットランドとは同君連合の関係にあったが、アンの時代の1707年の合同法により、スコットランド王国と合同してグレートブリテン王国となった。
イザベル・ド・ロレーヌ
イザベル・ド・ロレーヌ(Isabelle de Lorraine, 1400年 - 1453年2月28日)は、ロレーヌ女公(在位:1431年 - 1453年)、ナポリ王妃。ロレーヌ公シャルル2世の長女で、母マルグリットはローマ王・プファルツ選帝侯ループレヒトの娘であった。夫のルネ・ダンジュー(ナポリ王、バル公などを兼ねた)を共同君主として治めた。
イサベル・クララ・エウヘニア
イサベル・クララ・エウヘニア・デ・アウストリア(Isabel Clara Eugenia de Austria, 1566年8月12日 - 1633年12月1日)は、オーストリア大公アルブレヒト(ルドルフ2世の弟)の妃。
エマニュエル・モーリス (エルブフ公)
エマニュエル・モーリス・ド・ギーズ=ロレーヌ(Emmanuel Maurice de Guise-Lorraine, duc d'Elbeuf, 1677年12月20日 - 1763年7月17日)は、フランスの貴族、軍人。エルブフ公(1748年 - 1763年)。
エドゥアルト・フォン・デア・プファルツ
エドゥアルト・フォン・デア・プファルツ(Eduard von der Pfalz, 1625年10月5日 - 1663年3月10日)は、プファルツ=ジンメルン家の一族でプファルツ=ジンメルン伯。父はプファルツ選帝侯でボヘミア王でもあったフリードリヒ5世、母はイングランド王兼スコットランド王ジェームズ1世の娘エリーザベト。プファルツ選帝侯カール1世ルートヴィヒ、カンバーランド公ルパート(ループレヒト)は兄、ハノーファー選帝侯エルンスト・アウグスト妃ゾフィーは妹、グレートブリテン王ジョージ1世は甥に当たる。
オルレアン家
オルレアン公の紋章 オルレアン家(オルレアンけ、)は、フランスの公爵であるオルレアン公(duc d'Orléans)の家系。オルレアン公は王太子(ドーファン)に次ぐ国王の男子、あるいは国王の弟に授けられる、フランスの公爵位のうちでも特に格式の高いものであった。公爵位は男子の相続人が続く限りはその家系で継承されたが、国王に嫡子がいない場合に王位継承者を出すなど重要な位置づけにあり、王家とも密接に関わりを持っていた。 オルレアン公の家系にはヴァロワ家支流のヴァロワ=オルレアン家(Maison de Valois-Orléans)とブルボン家支流の(Maison de Bourbon-Orléans)があり、それぞれで主に2系統が存在したが、通常単にオルレアン家と呼ぶ場合には最後の系統を指す。以下、この最後の系統について説明する。
見る ギーズ家とオルレアン家
カルロ1世・ゴンザーガ=ネヴェルス
カルロ1世・ゴンザーガ=ネヴェルスまたはシャルル1世・ド・ゴンザーグ=ヌヴェール(Carlo I Gonzaga-Nevers;Charles Ier de Gonzague-Nevers, 1580年5月6日 - 1637年9月22日)は、イタリアのマントヴァ公爵及びモンフェッラート公爵(在位:1627年 - 1637年)。またフランスのヌヴェール公爵及びルテル公爵(在位:1595年 - 1637年)、アルシュ公(在位:1608年 - 1637年)。
カルロ・ゴンザーガ=ネヴェルス (1609-1631)
カルロ・ゴンザーガ=ネヴェルスまたはシャルル・ド・ゴンザーグ=ヌヴェール(伊:Carlo Gonzaga-Nevers;仏:Charles de Gonzague-Nevers, 1609年 - 1631年8月30日)は、イタリアのマントヴァ公爵家の世継ぎ公子。また、フランスのマイエンヌ公爵及びエギュイヨン公爵(在位:1621年 - 1631年)。
見る ギーズ家とカルロ・ゴンザーガ=ネヴェルス (1609-1631)
カレー (フランス)
カレー(、、西フラマン語: )は、フランス北部パ=ド=カレー県の都市。ドーバー海峡(カレー海峡)の海底を英仏海峡トンネルが通りイギリスのフォークストンと結んでいる。 前近代からグレートブリテン島と大陸ヨーロッパを結ぶ玄関口として重要視され、フェリー港や貿易港として栄えてきた。しかし、最近では40 km離れた位置にあるダンケルクにその役割を奪われつつある。
カトリーヌ・ド・マイエンヌ
カトリーヌ・ド・マイエンヌ(フランス語:Catherine de Mayenne, 1585年 - 1618年3月8日)は、マントヴァ公カルロ1世・ゴンザーガ=ネヴェルスの妃。
カトリーヌ・ド・メディシス
カトリーヌ・ド・メディシス(Catherine de Médicis、1519年4月13日 - 1589年1月5日)は、フランス王アンリ2世の王妃。フランス王フランソワ2世、シャルル9世、アンリ3世の母后成瀬治 『世界の歴史〈15〉近代ヨーロッパへの道』(講談社、1978年)、フィリップ・エルランジェ 『聖バルテルミーの大虐殺』 (磯見辰典訳、白水社、1985年)、オルソラ・ネーミ、ヘンリー・ファースト 『カトリーヌ・ド・メディシス』(千種堅訳、中央公論社、1982年)、ジョルジュ・リヴェ 『宗教戦争』(二宮宏之、関根素子訳、白水社、1968年)はいずれもカトリーヌの称号として「母后」の用語を用いている。また、ジャン・オリユー 『カトリーヌ・ド・メディシス―ルネサンスと宗教戦争〈上下〉』( 田中梓訳、河出書房新社、1990年)は「王母」としている。
カトリック同盟 (フランス)
カトリック同盟(かとりっくどうめい, La ligue catholique または La Sainte Ligue, La ligue)は、16世紀フランスのユグノー戦争期に形成されたカトリック側の同盟。かつてカトリックに対し、日本の歴史用語で「旧教」という言葉があてられたことがあるため、「旧教同盟」とも呼ばれる。
ガストン (オルレアン公)
ガストン・ジャン・バティスト・ド・フランス(Gaston Jean Baptiste de France, 1608年4月25日 - 1660年2月2日)は、ブルボン朝フランスの王子。オルレアン公(duc d'Orléans)。
ギーズ公
ギース公の紋章 ギーズ公(ギュイーズ公、ギュイズ公、Duc de Guise 、Duke of Guise )はフランス貴族の称号。ユグノー戦争ではカトリック側の中心勢力として、プロテスタントに対抗した。
見る ギーズ家とギーズ公
クロード (ギーズ公)
クロード・ド・ロレーヌ(Claude de Lorraine)またはクロード・ド・ギーズ(Claude de Guise, 1496年10月20日 - 1550年4月12日)は、ギーズ伯(在位:1508年 - 1528年)のち初代ギーズ公(在位:1528年 - 1550年)、オマール伯(在位:1508年 - 1547年)、ジョアンヴィル領主(在位:1508年 - 1550年)。ロレーヌ公ルネ2世とその妻でゲルデルン公アドルフの娘であるフィリッパの間の次男。兄はロレーヌ公アントワーヌ。
クロード (シュヴルーズ公)
クロード・ド・ロレーヌ(Claude de Lorraine, duc de Chevreuse, 1578年6月5日 - 1657年1月24日)は、フランスの上級貴族ギーズ公爵家の一員で、シュヴルーズ公爵。ギーズ公シャルル1世、ギーズ枢機卿ルイの弟。カトリック同盟の首領であったギーズ公フランソワは祖父、ギーズ公クロードは曽祖父、ロレーヌ公ルネ2世は高祖父。
クロード2世 (オマール公)
ヴェルサイユ宮殿の戦士回廊に置かれたオマール公クロードの胸像 クロード2世・ド・ロレーヌ(Claude II de Lorraine, marquis de Mayenne, duc d'Aumale, 1526年8月18日 - 1573年3月3日)は、フランスの上級貴族ギーズ公爵家の一員で、マイエンヌ侯爵及びオマール公爵(在位:1550年 - 1573年)。スコットランド王ジェームズ5世妃マリーは姉、ギーズ公フランソワ、ロレーヌ枢機卿シャルルは兄、エルブフ侯ルネ2世は弟。
コンデ公
コンデ公(prince de Condé)は、フランスの貴族で、ブルボン家の支流。コンデ親王あるいはコンデ大公とも日本語訳される。初代コンデ公のルイ1世・ド・ブルボン=コンデはヴァンドーム公アントワーヌの弟で、フランス王アンリ4世の叔父に当たる。
見る ギーズ家とコンデ公
シャルル (マイエンヌ公)
シャルル・ド・ロレーヌ(Charles (II) de Lorraine, duc de Mayenne, 1554年3月26日 - 1611年10月3日)は、フランスの貴族、軍人。フランスの上級貴族ギーズ家の一員で、ユグノー戦争末期におけるカトリック同盟の最高指導者。ギーズ公フランソワとその妻でフェラーラ公エルコレ2世の娘であるアンナ・デステの間の次男として生まれた。ギーズ公アンリ1世は兄、ランス大司教兼枢機卿ルイは弟に当たる。マイエンヌ公(在位:1573年 - 1611年)。
シャルル1世 (エルブフ公)
シャルル1世・ド・ロレーヌ=ギーズ(Charles Ier de Lorraine-Guise, duc d'Elbeuf, 1556年10月18日 - 1605年8月4日)は、フランスの貴族で上級貴族ギーズ公爵家の一員。エルブフ侯爵およびアルクール伯爵、1582年よりエルブフ公爵。エルブフ侯ルネ2世の長男。
シャルル1世 (ギーズ公)
シャルル1世(Charles Ier de Guise, 1571年8月2日 - 1640年9月30日)は、ヴァロワ朝末期からブルボン朝初期のフランス王国の貴族でギーズ公。アンリ1世と妃カトリーヌ・ド・クレーヴの長男。ギーズ枢機卿ルイ、シュヴルーズ公クロードの兄。
シャルル2世 (エルブフ公)
シャルル2世・ド・ロレーヌ=ギーズ(Charles II de Guise-Lorraine, duc d'Elbeuf, 1596年11月5日 - 1657年11月5日)は、フランスの貴族、廷臣。エルブフ公爵。フランス王ルイ13世の義兄にあたる。
シャルル3世 (エルブフ公)
シャルル3世・ド・ロレーヌ(Charles III de Lorraine, duc d'Elbeuf, 1620年 - 1692年5月4日)は、フランスの貴族。エルブフ公爵。
シャルル・フランソワ・ド・ロレーヌ
シャルル・フランソワ・ド・ロレーヌ(Charles François de Lorraine, prince de Commercy, comte de Rosnay, 1661年7月11日 - 1702年8月15日)は、フランスの上級貴族ギーズ家の公子で、神聖ローマ皇帝(ハプスブルク君主国)軍の元帥。コメルシー公およびロネ伯。ジョワイユーズ公(1688年 - 1690年)。ドイツ語名はカール・フランツ・フォン・ロートリンゲン(Karl Franz von Lothringen)。
シャルル・ド・ロレーヌ (1524-1574)
シャルル・ド・ロレーヌ(Charles de Lorraine, 1524年2月17日 - 1574年12月26日)は、フランスの貴族及び聖職者。シュヴルーズ公(Duc de Chevreuse)、メス司教、ランス大司教、ロレーヌ枢機卿。ロレーヌ家出身者としては2人目、その分枝であるギーズ家からは初の枢機卿であった。フランソワ・ラブレー、ピエール・ド・ロンサールの庇護者でもあった。
見る ギーズ家とシャルル・ド・ロレーヌ (1524-1574)
シャルル・アメデ・ド・サヴォワ=ヌムール
シャルル・アメデ・ド・サヴォワ=ヌムール(Charles-Amédée de Savoie-Nemours, 1624年4月12日 - 1652年7月30日)は、ヌムール公(在位:1641年 - 1652年)、フランスの軍事指導者。サヴォイア公妃マリー・ジャンヌとポルトガル王妃マリー・フランソワーズの父。
シャルル・ウジェーヌ・ド・ロレーヌ
シャルル=ウジェーヌ・ド・ロレーヌ(仏:Charles-Eugène de Lorraine, prince de Lambesc, 1751年9月25日 - 1825年11月2日)は、フランスの貴族、軍人。ランベスク公、ブリオンヌ伯およびエルブフ公。フランス革命期に民衆の抑圧者の1人として憎悪され、国外に逃れてオーストリア帝国軍に仕官した。ドイツ語名はカール・オイゲン・フォン・ロートリンゲン(Karl Eugen Prinz von Lothringen, Fürst von Lambesc)。
ジャン2世 (ロレーヌ公)
ジャン2世・ダンジュー(Jean II d'Anjou, 1425年 - 1470年12月16日)は、ロレーヌ公(在位:1453年 - 1470年)。カラブリア公も称した(1435年 - 1470年)。ロレーヌ女公であった母イザベルから公位を継承した。父は母の共同統治者としてロレーヌ公でもあったナポリ王ルネ・ダンジュー。妹にヴォーデモン伯フェリー2世妃ヨランド、イングランド王ヘンリー6世妃マルグリットがいる。
ジェームズ5世 (スコットランド王)
ジェームズ5世(James V, 1512年4月10日 - 1542年12月14日)は、スコットランド王(在位:1513年 - 1542年)。ジェームズ4世とイングランド王ヘンリー7世の娘(ヘンリー8世の姉)マーガレット・テューダーの子。
スペイン
スペイン王国(スペインおうこく、)、もしくはスペイン国(スペインこく、)、通称スペイン()は、南ヨーロッパのイベリア半島に位置し、同半島の大部分を占める議会君主制国家。首都はマドリード。スペイン本土以外に、西地中海のバレアレス諸島やアルボラン海のアルボラン島、大西洋のカナリア諸島、北アフリカの飛地領土のセウタとメリリャを有しており、モロッコ沿岸部にもいくつか領土がある(プラサス・デ・ソベラニア)。 西にポルトガル、南にイギリス領ジブラルタル、北東にフランスとアンドラ、アフリカ大陸にあるセウタとメリリャではモロッコと陸上国境を接する。
見る ギーズ家とスペイン
スコットランド王国
スコットランド王国(スコットランドおうこく、ゲール語:Rìoghachd na h-Alba, Kinrick o Scotland)は、グレートブリテン島の北部、現在のイギリスのスコットランドに存在した王国である。843年にケネス1世により成立したとされ、1707年のイングランド王国との合同で消滅した。 ステュアート朝のスコットランド王ジェームズ6世が1603年にイングランド王位を兼ねて以来(イングランド王ジェームズ1世)、南部のイングランドとは同君連合の関係にあったが、アン女王時代の1707年の合同法によりイングランド王国と合同して、グレートブリテン王国となった。
サン・バルテルミの虐殺
サン・バルテルミの虐殺(サン・バルテルミのぎゃくさつ フランス語:Massacre de la Saint-Barthélemy)は、1572年8月24日にフランスのカトリックがプロテスタントを大量虐殺した事件である。 聖バルテルミーの虐殺あるいは(英語表記から)聖バーソロミューの虐殺(St.
近世
近世(きんせい、early modern period)とは、歴史学における時代区分のひとつ。中世よりも後で、近代よりも前の時期を指す。
見る ギーズ家と近世
枢機卿
枢機卿(すうききょう、すうきけい、、)は、カトリック教会における教皇の最高顧問である。重要な案件について教皇を直接に補佐する「枢機卿団」を構成すると同時に、個々の枢機卿は教会全体にかかわる日常的な職務について教皇を助ける。 正式な称号は「聖なるローマ教会の枢機卿」 で、枢機卿(カーディナル)という言葉自体はラテン語の「Cardo(カルド。
見る ギーズ家と枢機卿
推定相続人
推定相続人(すいていそうぞくにん)は、現状のままで相続が開始した場合、直ちに相続人となるべき者をいう。
見る ギーズ家と推定相続人
摂政
摂政(せっしょう、regent)は、君主制国家において、君主が幼少、女性、病弱である等の理由で政務を執り行うことが不可能、あるいは君主が空位であるなどの場合に君主に代わって政務を摂ること、またはその役職のこと。 多くの場合、君主の親族(血縁関係にある者)や配偶者が就任する。
見る ギーズ家と摂政
16世紀
盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。 16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。
見る ギーズ家と16世紀

