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1365年

索引 1365年

記載なし。

99 関係: 千葉氏胤南北朝時代 (日本)南朝 (日本)夏 (元末)大治 (陳朝)天統 (明玉珍)室町幕府室町時代守護守護大名守護代将軍上総国常陸国下総国一条経通干支乙巳二条師基今川範氏仏滅紀元伊賀国佐竹義盛佐竹氏征夷大将軍御家人北朝 (日本)ハプスブルク家バイエルン大公ユダヤ暦ルートヴィヒ7世 (バイエルン公)ルドルフ4世 (オーストリア公)ヴィルヘルム2世 (バイエルン公)ヴェネツィアボロト・テムルボンヌ・ド・ベリーヒジュラ暦ホラント伯ベルナール7世 (アルマニャック伯)エノー伯オーストリア大公クリスティーヌ・ド・ピザンサヴォイア伯国公卿六角満高元 (王朝)元号一覧 (中国)元号一覧 (ベトナム)元号一覧 (朝鮮)元号一覧 (日本)...国分盛経国分氏 (陸奥国)神武天皇即位紀元熊谷直経韓林児鎌倉時代駿河国高麗貞治越後国足利尊氏龍鳳 (韓林児)近江国赤橋登子至正長尾邦景長尾氏陳朝恭愍王檀君紀元正室正平 (日本)武将1283年12月20日1301年1306年1316年1317年1337年1339年1407年1416年1417年1430年1435年1447年1450年1月26日 (旧暦)2月17日3月10日 (旧暦)4月1日4月30日 (旧暦)5月21日5月25日5月4日 (旧暦)7月27日9月13日 (旧暦)9月28日 インデックスを展開 (49 もっと) »

千葉氏胤

千葉 氏胤(ちば うじたね)は、南北朝時代の武将。千葉氏13代当主。上総国・下総国・伊賀国守護。.

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南北朝時代 (日本)

南北朝時代(なんぼくちょう じだい)は、日本の歴史区分の一つ。建武の新政の崩壊を受けて足利尊氏が新たに光明天皇(北朝側)を擁立したのに対抗して京都を脱出した後醍醐天皇(南朝側)が吉野行宮に遷った1336年(延元元年/建武3年)から、南朝第4代の後亀山天皇が北朝第6代の後小松天皇に譲位するかたちで両朝が合一を見た1392年(元中9年/明徳3年)までの、56年間をいう。また両朝の並立はひとえに後醍醐天皇の皇位に対する執念が生み出したものであることから、彼を中心に歴史が動いた南北朝時代の序章とでもいうべき1331年(元弘元年)の元弘の乱から建武新政の終焉に至る5年間もまたこの時代に含めるのが一般的である。 鎌倉時代の後半から半世紀にわたって両統迭立という不自然なかたちの皇位継承を繰り返した皇統は、すでに持明院統と大覚寺統という二つの相容れない系統に割れた状態が恒常化するという実質的な分裂を招いていた。それが倒幕と新政の失敗を経て、この時代になると両統から二人の天皇が並立し、それに伴い京都の北朝と吉野の南朝の二つの朝廷が並存するという、王権の完全な分裂状態に陥った。両朝はそれぞれの正統性を主張して激突し、幾たびかの大規模な戦が起こった。また日本の各地でも守護や国人たちがそれぞれの利害関係から北朝あるいは南朝に与して戦乱に明け暮れた。 こうした当時の世相を、奈良興福寺大乗院の第20代門跡・尋尊は自らが編纂した『大乗院日記目録』の中で「一天両帝南北京也」と表現した。これを中国の魏晋南北朝の時代を模して南北朝時代と呼ぶようになったのはかなり後のことである。なお明治以後に南朝の天皇を正統とする史観が定着すると、この時代の名称が「北朝」の語を含むことが問題視されるようになったため、吉野朝時代(よしのちょう じだい)という新語が作られたが、第二次世界大戦後に皇国史観が影を潜めるとともに死語同然となった。.

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南朝 (日本)

南朝(なんちょう)は、吉野朝廷(よしのちょうてい)とも称され、南北朝時代に京都以南の大和国の吉野(奈良県吉野郡吉野町)、賀名生(同県五條市西吉野町)、摂津国の住吉(大阪府大阪市住吉区)を本拠とした大覚寺統の後醍醐天皇に属する朝廷。1336年から1392年まで56年あまり存続し、叙位や元号の制定など政権としての機能を有した。.

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夏 (元末)

夏(か、1363年 - 1371年)は、元末から明初に四川省で創建された王朝。皇帝の姓から明夏とも呼ばれる。 1363年に明玉珍が皇帝に即位し、国号を大夏、都を重慶に定めた。1366年に明玉珍が病死すると子の明昇が即位した。1371年、朱元璋が攻撃を開始すると投降し、夏は8年で滅亡した。 Category:元朝 Category:明朝 Category:重慶の歴史 Category:四川省の歴史.

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大治 (陳朝)

大治(だいち)は、ベトナム陳朝の裕宗が使用した元号。1358年 - 1369年。.

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天統 (明玉珍)

天統(てんとう)は元代、四川での反乱指導者明玉珍が建てた私年号。1363年 - 1366年。 史書によって元年に異説があるが、李崇智は明玉珍の墓誌を根拠に1363年建元説を採る。.

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室町幕府

花の御所(室町殿) 室町幕府(むろまちばくふ)は、足利尊氏が京都において軍事貴族(武家貴族)として創始した武家政権。その称は3代将軍足利義満が京都北小路室町(現在の今出川通と室町通が交わる付近)に造営した花の御所(室町殿)に由来する。足利幕府ともいう。足利氏が15代にわたって将軍職を継承したが、織田信長によって事実上の滅亡に追い込まれた。.

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室町時代

室町時代(むろまちじだい)は、日本の歴史において、室町幕府(足利将軍家)によって統治されていた時代である。「室町時代」の名称は、京都の室町に幕府が置かれていたことに由来する。.

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守護

守護(しゅご)は、日本の鎌倉幕府・室町幕府が置いた武家の職制で、国単位で設置された軍事指揮官・行政官である。令外官である追捕使が守護の原型であって、後白河法皇が源頼朝に守護・地頭の設置と任免権を認めたことによって、幕府の職制に組み込まれていった。将軍により任命され、設立当時の主な任務は、在国の地頭の監督であった。鎌倉時代はといい、室町時代にはといった。 制度としては室町幕府滅亡後、織豊政権成立により守護が置かれなくなり守護制度が自然消滅するまで続いた。.

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守護大名

守護大名(しゅごだいみょう)は、軍事・警察権能だけでなく、経済的権能をも獲得し、一国内に領域的・一円的な支配を強化していった室町時代の守護を表す日本史上の概念。守護大名による領国支配の体制を守護領国制という。15世紀後期 - 16世紀初頭ごろに一部は戦国大名となり、一部は没落していった。.

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守護代

守護代(しゅごだい)とは、鎌倉時代と室町時代に守護の下に置かれた役職である。.

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将軍

将軍(しょうぐん)は、比較的大きな軍隊の指揮官に与えられる官職および称号の一つ、また軍閥の指導者の地位でもある。称号としての将軍を将軍号ともいう。 古くから東洋における軍隊の指揮官の役職名の一つであった。外交上または軍隊内の敬称としては閣下が用いられる。なお、古代中国では「将軍は皇帝に任命された官職」「将は王侯や地方領主に任命された官職」と区別されている。.

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上総国

上総国(かずさのくに、正仮名遣:かづさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 常陸国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は上総介であった。.

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常陸国

常陸国(ひたちのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。 上総国・上野国とともに親王が国司を務める親王任国であり、国府の実質的長官は常陸介であった。.

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下総国

下総国(しもうさのくに、しもふさのくに、しもつふさのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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一条経通

一条 経通(いちじょう つねみち)は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。1336年の南北分裂後は北朝側に属し、北朝第2代光明天皇の下で、建武5年(暦応改元前、1338年)から暦応5年(康永改元前、1342年)まで関白を務め、同時に藤氏長者となった。.

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干支

干支(かんし、えと、中国語:干支、ピンイン:gānzhī)は、十干と十二支を組み合わせた60を周期とする数詞。暦を始めとして、時間、方位などに用いられる。六十干支(ろくじっかんし)、十干十二支(じっかんじゅうにし)、天干地支(てんかんちし)ともいう。.

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乙巳

乙巳(きのとみ、いっし)は、干支の一つ。 干支の組み合わせの42番目で、前は甲辰、次は丙午である。陰陽五行では、十干の乙は陰の木、十二支の巳は陰の火で、相生(木生火)である。.

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二条師基

二条 師基(にじょう もろもと、正安3年(1301年) - 正平20年/貞治4年1月26日(1365年2月17日))は、鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての公卿。南北分裂後は南朝方に属し、正平一統の際には後村上天皇の下で関白を務めるなど、南朝政権における重鎮の一人であった。.

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今川範氏

今川 範氏(いまがわ のりうじ)は、南北朝時代前期の守護大名。駿河今川氏の第2代当主。.

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仏滅紀元

仏滅紀元(ぶつめつきげん、Buddhist calendar)とは、釈迦が入滅したとされる年、またはその翌年を元年とする紀年法である。 仏暦(ぶつれき)ともいう。東南アジアの仏教徒の多い国などで用いられている。.

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伊賀国

伊賀国(いがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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佐竹義盛

佐竹 義盛(さたけ よしもり、貞治4年/正平20年(1365年) - 応永14年9月21日(1407年10月22日))は南北朝時代から室町時代前期にかけての武将、守護大名。佐竹氏の第11代当主。父は佐竹義宣(義信)。母は河越氏の女。正室は江戸氏の女。子に佐竹義人妻、那須資重妻。常陸守護。官位は左馬助。称号は屋形号。 1389年、父・義宣の死により家督を継ぐ。佐竹氏が鎌倉公方より関東八屋形に任命されたのは義盛が当主の時代にあたる。1399年、鎌倉に多福寺(現在の大宝寺)を建立し、若くして入道して多福寺殿と号した。男児に恵まれず、弟の義有は病弱であったため、関東管領上杉憲定の次男・義憲を婿養子として迎えた(養子を迎えたのは義盛の没後だったとも)。応永14年(1407年)9月21日、43歳で死去し、後を養嗣子の義憲(義人)が継いだ。 よしもり Category:守護大名 Category:常陸国の人物 Category:1365年生 Category:1407年没.

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佐竹氏

佐竹氏(さたけし)は、日本の氏族のひとつ。日本の武家。本姓は源氏。家系は清和源氏の一家系 河内源氏の流れをくみ、新羅三郎義光を祖とする常陸源氏の嫡流。武田氏に代表される甲斐源氏と同族である。通字は「義」。佐竹氏は家紋として定紋の「扇に月」(一般的には日の丸扇と呼ばれている)の他に、源氏香(花散里)・笹竜胆・佐竹桐・丸に釘貫・丁子巴・鉄線を加えた七つの家紋を「御当家七ッ御紋」としている。源氏から中近世大名、華族として明確な系譜として現代まで残った中ではもっとも大きな流れの一つである。.

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征夷大将軍

征夷大将軍(せいいたいしょうぐん 旧字体:征夷大將軍)は、朝廷の令外官の一つである。「征夷」は、蝦夷を征討するという意味。 飛鳥時代・奈良時代以来、東北地方の蝦夷征討事業を指揮する臨時の官職は、鎮東将軍・持節征夷将軍・持節征東大使・持節征東将軍・征東大将軍などさまざまにあったが、奈良末期に大伴弟麻呂が初めて征夷大将軍に任命された。征夷大将軍(征夷将軍)の下には、征夷副将軍・征夷軍監・征夷軍曹、征東将軍(大使)の下には、征東副将軍(副使)・征東軍監・征東軍曹などの役職が置かれた。 大伴弟麻呂の次の坂上田村麻呂は阿弖流為を降して勇名を馳せたが、次の文室綿麻呂が征夷将軍に任ぜられた後は途絶えた。平安中期に藤原忠文が、平安末期には源義仲が征東大将軍に任じられたが、もはや蝦夷征討を目的としたものではなかった。なお、後述のとおり、義仲が任命されたのは征東大将軍であり、従来考えられていた征夷大将軍ではなかったことが明らかにされている。 平氏政権・奥州藤原氏を滅ぼして武家政権(幕府)を創始した源頼朝は「大将軍」の称号を望み、朝廷は坂上田村麻呂が任官した征夷大将軍を吉例としてこれに任じた。以降675年間にわたり、武士の棟梁として事実上の日本の最高権力者である征夷大将軍を長とする鎌倉幕府・室町幕府・江戸幕府が(一時的な空白を挟みながら)続いた。慶応3年(1867年)徳川慶喜の大政奉還を受けた明治新政府が王政復古の大号令を発し、征夷大将軍職は廃止された。.

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御家人

御家人(ごけにん)は、武家の棟梁(将軍)の家人の身分を指す語であるが、中世と近世では意味合いが異なる。.

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北朝 (日本)

北朝(ほくちょう)とは、日本の南北朝時代に、足利氏を頂点に、全国の多くの武士、及び大多数の公家が支持した持明院統の朝廷である。同時期に奈良の吉野に立った、大覚寺統の南朝(吉野朝廷)に対比する。 南北朝の分裂は後醍醐天皇の建武政権が崩壊した建武3年/延元元年(1336年)以後であるが、鎌倉幕府末期の元弘の乱時に鎌倉幕府が後醍醐天皇に代わって擁立し、後醍醐天皇の京都復帰後にその即位の事実を否認した持明院統の光厳天皇を含んだ6代の天皇が北朝の天皇とされている。.

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ハプスブルク家

ハプスブルク家の旗 ハプスブルク家の紋章 ハプスブルク家()は、現在のスイス領内に発祥したドイツ系(アルザス系)の貴族。.

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バイエルン大公

バイエルン大公(バイエルンたいこう)は、中世ドイツの部族大公。ドイツ南東部からオーストリアにかけてのバイエルン公国を支配した。 「大公」とはドイツ語Herzogの訳語であるが、ドイツ史においては中世の研究では「大公」、初期近代以降の研究では「公」という訳語が用いられるのが通常である。特にはっきりした境界があるわけではないが、以下では便宜上ヴィッテルスバッハ家がバイエルン公位を独占するようになる1180年以降に限ってバイエルン公という用語を使うことにする。また、1623年以降バイエルン公は選帝権を保持したためバイエルン選帝侯と呼ばれる。.

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ユダヤ暦

ユダヤ暦(ユダヤれき、הלוח העברי、Hebrew calendar)は、ユダヤ人の間で使われている暦法である。.

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ルートヴィヒ7世 (バイエルン公)

ルートヴィヒ7世(Ludwig VII., 1365年12月20日 - 1447年9月26日)は、14世紀の上バイエルン=インゴルシュタット公。シュテファン3世とタデア・ヴィスコンティの子。 公位継承前の1408年、同族のリエージュ司教ヨハンとリエージュ市民が対立、ルートヴィヒ7世はヨハンの兄・下バイエルン=シュトラウビング公ヴィルヘルム2世、ブルゴーニュ公ジャン無怖公と共に反乱を鎮圧した。また、妹イザベラがフランス王シャルル6世に嫁いだ関係でフランスに滞在したこともある。 1413年、父の死によって相続した。1425年、下バイエルン=シュトラウビング公ヨハン3世(兄の死後、リエージュ司教を辞任した)の死後の遺領を巡って従兄弟のハインリヒ16世、エルンストと対立、1429年に分割相続することで合意した。 しかし、1443年にハインリヒ16世と同盟を結んだ息子のルートヴィヒ8世の裏切りに遭い、投獄ののち廃位された。ルートヴィヒ7世は1447年に死ぬまで幽閉され、ルートヴィヒ8世も父に先立って死去、インゴルシュタット系は断絶、遺領はハインリヒ16世に奪われた。.

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ルドルフ4世 (オーストリア公)

ルドルフ4世(Rudolf IV., 1339年11月1日 - 1365年7月27日)は、14世紀のハプスブルク家の当主、オーストリア公(在位:1358年 - 1365年)。オーストリア公アルブレヒト2世(賢公)とその妻ヨハンナ・フォン・プフィルトの間の長男。偽造文書の駆使や型破りな行動で知られ、「大公」(Erzherzog)の称号もルドルフ4世の詐称に始まった。「建設公」(der Stifter)と呼ばれる。.

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ヴィルヘルム2世 (バイエルン公)

ヴィルヘルム2世 ヴィルヘルム2世(Wilhelm II., 1365年 - 1417年5月31日)は、14世紀の下バイエルン=シュトラウビング公。エノー伯、ホラント伯、ゼーラント伯でもあった。アルブレヒト1世の長男。姉マルガレーテはブルゴーニュ公ジャン無怖公に嫁ぎ、自身もフィリップ豪胆公の娘(ジャン無怖公の妹)マルグリットと結婚している(カンブレー二重結婚)。 派閥抗争のもつれから父と対立、内乱を起こした。1404年に死去した父の領土を継いだが、1397年には下バイエルン=シュトラウビング公であった弟のアルブレヒト2世が亡くなっている。 弟のリエージュ司教ヨハンがリエージュ市民と対立、鎮圧の為に義兄のジャン無怖公、同族の上バイエルン=インゴルシュタット公ルートヴィヒ7世と共に出兵。1417年に死去した時、娘のジャクリーヌにエノー、ホラント、ゼーラントが相続された。 しかし、下バイエルン=シュトラウビンク公となったヨハンは反対、相続争いが勃発した。 Category:バイエルン=シュトラウビング公 Category:ホラント伯 Category:エノー伯 Category:バイエルン=シュトラウビング家 Category:1365年生 Category:1417年没.

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ヴェネツィア

ヴェネツィア(Venezia)は、イタリア共和国北東部に位置する都市で、その周辺地域を含む人口約26万人の基礎自治体(コムーネ)。ヴェネト州の州都、ヴェネツィア県の県都である。ヴの表記によりベネチアと表記されることもある。 中世にはヴェネツィア共和国の首都として栄えた都市で、「アドリア海の女王」「水の都」などの別名をもつ。英語では「Venice」と呼ばれ、これに由来して日本語でもヴェニス、ベニスと呼ばれることもある。.

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ボロト・テムル

ボロト・テムル(Bolod-Temür, ? - 1365年)は、元の将軍。漢字表記は孛羅帖木児。 チンギス・ハーン以来のモンゴル譜代部将の子孫で、父のタシ・バアトルは四川・雲南方面の反乱鎮圧に活躍し宰相格の中書平章政事にのぼった軍閥である。ボロト・テムルは早くから父に従って反乱軍の討伐に活躍し、父の死後にその軍を引き継いだ。1358年には河南行省平章政事の肩書きを与えられ、河南に派遣されて開封を占拠する劉福通らの紅巾軍と戦って河南、山東の各地を転戦し、紅巾軍を打ち破って大きな戦功を残した。 1359年には元の首都大都の西にある要衝大同に入城し、山西の北部から内モンゴルの南辺を支配する大軍閥に成長する。しかし、やがて劉福通との戦いにともに活躍した河南の軍閥チャガン・テムルと山西南部の太原の支配をめぐって争うようになり、この軍閥同士の争いが宮廷における皇太子アユルシリダラと、その父トゴン・テムル・ハーンの側近たちとの権力争いと結びついて深刻な抗争となった。ボロト・テムルはもうひとつの首都上都に勢力を伸ばしたために中央政府の政治と軍事を一手に握ろうと目論む皇太子アユルシリダラと不和であり、反皇太子派の重要な後ろ盾となったので、皇太子は逆にチャガン・テムルおよびその後を継いだココ・テムルと結んだ。 1364年、宮廷において反皇太子派の高官が皇太子アユルシリダラによって処刑される事件が起こり、これをとりなして刑の減免を願い出たボロト・テムルも大同駐留を免ぜられる事件が起こった。これを聞いたボロト・テムルはついに決起して軍を居庸関に送り込んで大都に圧力をかけ、皇太子アユルシリダラを逃亡させるとともに政府に迫って皇太子派の高官を引き渡させた。ボロト・テムルが一旦兵を引くとアユルシリダラはココ・テムルに命じて大同を攻撃する一方、自らは大都に戻って対抗しようとしたが、かえってボロト・テムルが主力の大軍をもって大都に迫ったので、ついにアユルシリダラは大都を脱出して太原のココ・テムルのもとに逃げ込んだ。 ボロト・テムルは大都に入城するとトゴン・テムル・ハーンから中書右丞相に任命され、全権を掌握した。大都においてボロト・テムルは宦官やチベット仏教の僧侶を宮廷から追放してトゴン・テムルの宮廷の弊を払おうとしたが、ハーンの寵臣をはじめ多くの人々を些細な罪で殺害したため、宮廷の不満を買うばかりであった。さらにボロト・テムルに帰京を要請されたアユルシリダラは帰京を拒み、翌年ココ・テムルと結んでついにボロト・テムル打倒の兵をあげた。 ココ・テムルの軍が大都に向けて進軍してくると、ボロト・テムルは迎撃のために軍を送り出したが、迎撃軍はもとより戦意を持たず、アユルシリダラとココ・テムルに降った。ボロト・テムルはこれに驚き、自ら迎撃の軍を率いて出ようとしたが、悪天候のため大都を離れられず失敗した。 ボロト・テムルは苦境に陥ると疑心暗鬼に陥って恐怖政治をひきはじめたので、当初よりその政権に不満を募らせていたトゴン・テムル・ハーンはついにボロト・テムル誅殺の密命を下した。7月、上都において味方が勝利したとの報を受けたボロト・テムルはこれを上奏するために宮殿に向かったが、建物の前の樹下に伏せていた刺客に襲われ、殺害された。 ボロト・テムルの死後、その軍閥はことごとく討ち滅ぼされてアユルシリダラとココ・テムルが政権を奪った。ボロト・テムルはその抜群の戦功にもかかわらず、内紛の中で逆臣として殺害されたので、『元史』の「逆臣伝」中に伝が残されることとなる。 Category:元代の人物 Category:1365年没.

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ボンヌ・ド・ベリー

ボンヌ・ド・ベリー(Bonne de Berry, 1365年 - 1435年12月30日)は、フランスの貴族女性。フランス王族のベリー公ジャン1世と最初の妃ジャンヌ・ダルマニャック(アルマニャック伯ジャン1世の娘)の長女。モンパンシエ伯ジャン2世・ド・ベリーは兄、マリー・ド・ベリーは妹。初めサヴォイア伯アメデーオ7世と結婚し、次いで従兄のアルマニャック伯ベルナール7世(ベルナール・ダルマニャック)と再婚した。イタリア名ボナ・ディ・ベッリ(Bona di Berry)。 最初の夫アメデーオ7世との間にサヴォイア公アメデーオ8世らを、2番目の夫ベルナールとの間にアルマニャック伯ジャン4世らをもうけている。 Category:ヴァロワ家 Category:サヴォイア伯妃 Category:女性摂政 Category:1365年生 Category:1435年没.

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ヒジュラ暦

ヒジュラ太陰暦(ヒジュラたいいんれき、)またはヒジュラ暦(、)は、主にイスラム教社会で使われている暦法。太陰暦なので太陽暦とは毎年11日ほどのズレがあり、それが積み重なるため、暦は季節を反映していない。イスラム暦(イスラムれき、、)とも呼ばれる。紀年法はヒジュラ紀元(ヒジュラきげん)と呼ばれる。ヨーロッパではを略してA.H.と表記する。.

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ホラント伯

ホラント伯(オランダ語:graaf van Holland, ドイツ語:Graf von Holland)は、中世ネーデルラントのホラント伯領の領主である。.

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ベルナール7世 (アルマニャック伯)

ベルナール7世(Bernard VII d'Armagnac, 1360年 - 1418年6月12日)は、百年戦争期のフランスの貴族、軍人。アルマニャック伯。フランス王国軍総司令官(en)。アルマニャック伯ジャン2世とジャンヌ・ド・ペリゴールの次男でジャン3世の弟。.

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エノー伯

ノー伯の紋章 エノー伯()は、中世ネーデルラントのエノー伯領の領主である。.

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オーストリア大公

ーストリア大公(Erzherzog von Österreich)は、ハプスブルク家(ハプスブルク=ロートリンゲン家を含む)により用いられたオーストリア(オーストリア大公国)の領主としての称号(男性形)。16世紀以降は君主以外の一族の成員も用いた。.

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クリスティーヌ・ド・ピザン

リスティーヌ・ド・ピザン(Christine de Pisan, Cristina da Pizzano, 1365年頃 - 1430年)は、主にフランスのパリ宮廷で活動した、中世のヴェネツィア出身の詩人、文学者。フランス文学最初の女性職業文筆家とされる。反フェミニスト的な論調を取る『薔薇物語』続編に対抗し、『薔薇のことば』で女性擁護を訴えた。.

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サヴォイア伯国

ヴォイア伯国 または サヴォワ伯国(イタリア語:Contea di Savoia, フランス語:Comté de Savoie, ラテン語:Comitatus Sabaudiae)は、中世に現在のイタリアとフランスにまたがって存在した国家である。サヴォイア家の祖とされるウンベルト・ビアンカマーノ (980年頃 - 1047年/1048年)により創始された。伯国の領土は非常に不明確ではあるが、大部分は現在ではフランス領となるサヴォワ(サヴォワ県とオート=サヴォワ県)で構成された。.

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公卿

公卿(くぎょう)は、公家の中でも日本の律令の規定に基づく太政官の最高幹部として国政を担う職位、すなわち太政大臣・左大臣・右大臣・大納言・中納言・参議ら(もしくは従三位以上(非参議))の高官(総称して議政官という)を差す用語である。平安時代に公卿と呼ばれるようになった。.

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六角満高

六角 満高(ろっかく みつたか)は、南北朝時代から室町時代前期にかけての守護大名。近江国守護。六角氏8代当主。.

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元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

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元号一覧 (中国)

元号一覧(げんごういちらん)は、中国における元号の一覧。なお歴史書の紀年では、年内途中で改元された場合、その年はすべて新しい元号に従っている。しかし、ここではその元号が使用された年までを記載した。また中国の暦は太陰太陽暦であり、12月はユリウス暦に換算すると、翌年の1月・2月になるが、ここでは翌年までは含めていない。名称に諸説ある場合があるが、正史や『資治通鑑』といった歴史書の紀年に使われているものに限らず、歴史学や考古学の考証に基づき当時、実際に使われていたと考えられるものを代表として載せている。.

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元号一覧 (ベトナム)

元号一覧 (ベトナム)(げんごういちらん (ベトナム))は、ベトナムにおける元号の一覧。元号名および期間については、史書・史料により異同が多く、一部併記したものもあるが、ここに掲げた以外の説も存在する。詳細は、各記事において個別に紹介する。.

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元号一覧 (朝鮮)

元号一覧(げんごういちらん)では、朝鮮における歴代元号について記述する。なお朝鮮は伝統的に中国の冊封体制下に入っていたので、基本的には中国王朝の暦を用いていた。このため、朝鮮独自の元号は少ない。.

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元号一覧 (日本)

日本の元号一覧(にっぽんのげんごういちらん)は、和暦でこれまでに使用された元号の一覧である。.

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国分盛経

国分 盛経(こくぶん もりつね、貞治4年(1365年)? - 応永23年9月24日(1416年10月14日)?)は、日本の室町時代に陸奥国宮城郡にいた武士である。国分氏の第9世の当主とされる。名取郡で亘理氏と争い、亘理重胤を敗死させたが、その子亘理胤茂に敗れて戦死した。 国分氏は南北朝時代から戦国時代末まで宮城郡南部を領した一族である。盛経の名は、江戸時代に佐久間義和が編纂した「平姓国分氏系図」には現れるが、古内氏蔵の「平姓国分氏系図」には見えない。父は国分胤経、母は留守家明の女。弟に盛秋、重政、経春があり、姉妹が二人いてそれぞれ白石信基と斎藤季長の妻になった。高柳信康の女を娶り、盛忠、盛定、永経、盛信の4人の息子と、黒川氏基の妻になった娘1人がいた。 佐久間編の系図によれば、貞治4年(1365年)に国分で生まれ、彦五郎と名乗り、官位は従五位下、右京亮を称した。死んだのは応永23年(1416年)9月24日、52歳のときという。『伊達世臣家譜』では能登守、亘理氏系図では右馬允とある。 佐久間編系図では、応永19年(1412年)3月に亘理重胤と諍いをおこし、同年2月19日に名取郡の川上邑で戦った。これについては亘理氏の系図に、亘理重胤がこの年3月に国分盛胤と戦って戦死したとあり、盛経のことかと思われる飯沼勇義『知られざる中世の仙台地方』、167頁。。佐久間編系図によれば、盛経はその後連年戦い、応永23年(1416年)に亘理胤茂が名取郡余田邑に来襲したとき、敗れて9月24日に戦死した。亘理氏の系図にも応永23年9月に亘理胤茂が国分盛経を殺して復讐したとする。 ところがやはり江戸時代の編纂物である『伊達世臣家譜』では、畠信方とその子の親方、孫の親好が、応永22年(1415年)9月に武石胤茂・国分盛経等と名取郡飯田邑で戦って死んだとある。亘理氏は武石氏ともいうので、武石胤茂とは亘理胤茂のことである。亘理・国分の連合は、系図がいう両氏の死闘とはまったく相違する伝えである。世臣家譜を誤りとし、応永23年に畠・武石の連合軍と国分の軍が合戦して畠氏三代と国分盛経が戦死したと解する説がある。.

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国分氏 (陸奥国)

国分氏(こくぶんうじ、こくぶんし)は、南北朝時代から戦国時代の末まで、陸奥国の陸奥国分寺付近から宮城郡南部に勢力を張った武士の一族である。戦国時代末に伊達氏から当主として国分盛重を迎えて伊達氏に臣従したが、1596年に伊達政宗の不興を買って滅んだ。.

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神武天皇即位紀元

武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)または神武紀元は、『日本書紀』の記述をもとに設定された日本の紀年法である。古事記や日本書紀で日本の初代天皇とされる神武天皇の即位は、日本書紀に「辛酉の年」とある。それが、江戸前期の暦学者渋川春海の編纂による「日本長暦」において(西暦でいう)紀元前660年と比定され、また渋川の推理による当時の暦によるその1月1日が、現在の暦(グレゴリオ暦)の2月11日と比定されたものが、そもそも神代のことであり、特に改める必要もないとしてそのまま通用している(詳細は注および後述)。この即位年を明治に入り神武天皇即位紀元の元年と制定した。 異称は皇紀(こうき)、即位紀元、皇暦(すめらこよみ、こうれき)、神武暦(じんむれき)、日紀(にっき)等。 西暦#time: Y年(本年)は、神武天皇即位紀元年に当たる。.

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熊谷直経

谷 直経(くまがい なおつね)は、鎌倉時代末期から南北朝時代の御家人・武士。安芸国本庄系熊谷氏当主。.

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韓林児

韓 林児(かん りんじ)は、元末の群雄の一人。本貫は河北欒城。.

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鎌倉時代

伝・源頼朝肖像 鎌倉・高徳院の大仏 鎌倉時代(かまくらじだい、1185年頃 - 1333年)は、日本史で幕府が鎌倉に置かれていた時代を指す日本の歴史の時代区分の一つである。朝廷と並んで全国統治の中心となった鎌倉幕府が相模国鎌倉に所在したのでこう言う。本格的な武家政権による統治が開始した時代である。 始期については従来の1192年の征夷大将軍就任説をはじめ諸説あるが、東国支配権の承認を得た1183年説と守護・地頭設置権を認められた1185年説が有力になっている。(詳細は鎌倉幕府#概要を参照).

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駿河国

駿河国(するがのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。.

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高麗

麗(こうらい、ハングル:고려;、918年 - 1392年)は、918年に王建(太祖)が建国し、936年に朝鮮半島の後三国を統一し、李氏朝鮮が建てられた1392年まで続いた国家である。首都は開京。10世紀の最大版図時に高麗の領土は朝鮮半島の大部分に加えて元山市や 鴨緑江まで及んだ。 高麗の名称は朝鮮半島を表す「Korea(英語)」や「Corée(フランス語)」などの語源ともなった。 Map of Goryeo.

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貞治

貞治(じょうじ)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。北朝方にて使用された。康安の後、応安の前。1362年から1367年までの期間を指す。この時代の天皇は、北朝方が後光厳天皇。南朝方が後村上天皇。室町幕府将軍は足利義詮、足利義満。.

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越後国

越後国(えちごのくに)は、かつて日本の行政区分だった令制国の一つ。北陸道に属する。.

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足利尊氏

足利 尊氏(あしかが たかうじ)は、鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年 - 1358年)。足利将軍家の祖。.

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龍鳳 (韓林児)

龍鳳(りゅうほう)は元代、宋政権を樹立した韓林児が建てた私年号。1355年 - 1366年。.

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近江国

近江国(おうみのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東山道に属する。.

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赤橋登子

赤橋 登子(あかはし とうし / なりここの頃は女性に関する史料が乏しく、今日、その名の読みが分からぬ場合は「彰子」(平安時代)を「しょうし」と読むように完全音読みで読まれるのが通例である。『朝日日本歴史人物事典』(コトバンク所収、西尾和美執筆)では藤原登子(平安時代)と同じ「なりこ」とも併記されている(角田文衛『日本の女性名』(国書刊行会版)P178にも「なりこ」とある)。尚、吉川英治の『私本太平記』及びそれを原作とした大河ドラマ『太平記』では「とうこ」と呼ばれていたが、これはいわゆる重箱読みで正確とは言い難い。、徳治元年(1306年) - 正平20年5月4日(1365年5月25日))は、日本の鎌倉時代から南北朝にかけての女性。室町幕府初代将軍・足利尊氏の正室。.

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至正

至正(しせい)は、中国・元の順帝(恵宗)トゴン・テムルの治世で用いられた元号。1341年 - 1370年。1368年に元が大都(現在の北京)を追われた後も、北元の元号として使用された。.

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長尾邦景

長尾 邦景(ながお くにかげ)は、南北朝時代から室町時代中期にかけての武将。越後国守護代。越後長尾氏3代当主。.

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長尾氏

長尾氏(ながおし)は、日本の氏族のひとつ。東漢氏の後裔。また関東地方に興った武家長尾氏は本姓を平氏(坂東八平氏)とし、鎌倉時代、室町時代から江戸時代にかけ、関東へ入部した上杉氏に仕えた。.

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陳朝

陳朝(チャンちょう、ちんちょう、、)は、現在のベトナム北部を1225年から1400年まで支配した王朝。国号は大越。首都は昇龍(タンロン、現在のハノイ)。.

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恭愍王

恭愍王(きょうびんおう、1330年5月23日 - 1374年10月27日)は第31代の高麗王(在位:1351年 - 1374年)。忠粛王の子。姓は王、名は顓、初名は祺。蒙古名は伯顔帖木児(モンゴル語:、Bayan Temür)。諡号は恭愍仁文義武勇智明烈敬孝大王。妃は元の魏王女、 魯国大長公主高麗史89卷列傳2 后妃 魯國大長公主 恭愍王 徽懿魯國大長公主 寶塔失里 元宗室 魏王之女 王在元 親迎於北庭 元封承懿公主.

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檀君紀元

1956年に韓国で発行された記念切手。上部に「4289年12月4日」と檀君紀元で表記されている 檀君紀元(だんくんきげん)は、朝鮮神話の最初の王檀君王倹の即位を紀元とする紀年法である。「檀紀」(だんき)とも呼ばれる。 『三国遺事』や『東国通鑑』の檀君即位の記述(「中国の堯の即位から50年目」)や『世宗実録地理志』にある記述(「唐堯的即位二十五年・戊辰」、堯の即位から25年目)などを根拠に檀君即位の年を西暦紀元前2333年とし、これを檀紀元年としている。(『桓檀古記』に含まれる「檀君世紀」をもとにしたという説は誤り)但し、『三国史記』には檀君という王がいたことは全く書かれていない。また、檀君神話は朝鮮の古くからの独立を示すための創作説話だろうと推測されており、国家としての檀君朝鮮の実在性も認められない。堯の即位から25年目とは、明の太祖朱元璋の即位年(1368年)と李氏朝鮮の李成桂の即位(1392年)をなぞらえたものと考えられている。 西暦年は、檀紀年である。.

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正室

正室(せいしつ)は、高貴な人物の正式な妻のこと。正妻、本妻とも言う。律令制の元では嫡妻(ちゃくさい)とも呼ばれていた(原則一人)。これに対し、正室以外を側室(『大辞泉』)という。.

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正平 (日本)

正平(しょうへい)は、日本の南北朝時代の元号の一つ。南朝方にて使用された。興国の後、建徳の前。1346年から1370年までの期間を指す。この時代の天皇は南朝方が後村上天皇、長慶天皇。北朝方が光明天皇、崇光天皇、後光厳天皇。室町幕府将軍は足利尊氏、足利義詮、足利義満。 昭和、明治、応永、平成、延暦に次ぎ、歴代で6番目に長い元号である。一世一元の制制定以前の元号では3番目に長い。.

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武将

武将(ぶしょう)とは、軍勢を統率する将軍、特に武道に秀でた将のこと。 日本の戦国時代においては、武士や農民・町人から徴用された足軽たちを統率する戦国大名やその家臣を指すことがある(戦国武将)。なお、部隊を率いる将を部将と呼ぶ。 明治政府が当時の事象や日本の歴史について文献に基づきまとめた古事類苑に「武将」の文言は見られない。.

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1283年

記載なし。

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12月20日

12月20日(じゅうにがつはつか、じゅうにがつにじゅうにち)はグレゴリオ暦で年始から354日目(閏年では355日目)にあたり、年末まであと11日ある。.

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1301年

記載なし。

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1306年

記載なし。

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1316年

記載なし。

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1317年

記載なし。

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1337年

記載なし。

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1339年

記載なし。

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1407年

記載なし。

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1416年

記載なし。

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1417年

記載なし。

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1430年

記載なし。

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1435年

記載なし。

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1447年

記載なし。

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1450年

記載なし。

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1月26日 (旧暦)

旧暦1月26日は旧暦1月の26日目である。六曜は友引である。.

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2月17日

2月17日(にがつじゅうななにち、にがつじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から48日目にあたり、年末まであと317日(閏年では318日)ある。.

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3月10日 (旧暦)

旧暦3月10日は旧暦3月の10日目である。六曜は赤口である。.

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4月1日

4月1日(しがつついたち)は、グレゴリオ暦で年始から91日目(閏年では92日目)にあたり、年末まであと274日ある。誕生花はカスミソウ、クロッカス。 日本や一部の国では4月1日は会計年度・学校年度の初日である。この日は政府機関、企業などで多くの制度の変更、新設、発足が行われ、異動や新入学など大きな変化が起こる日である。.

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4月30日 (旧暦)

旧暦4月30日は旧暦4月の30日目である。年によっては4月の最終日となる。六曜は先負である。.

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5月21日

5月21日(ごがつにじゅういちにち)は、グレゴリオ暦で年始から141日目(閏年では142日目)にあたり、年末まではあと224日ある。誕生花はボリジ。.

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5月25日

5月25日(ごがつにじゅうごにち)はグレゴリオ暦で年始から145日目(閏年では146日目)にあたる。年末まで220日ある。誕生花はアスパラガス。.

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5月4日 (旧暦)

旧暦5月4日(きゅうれきごがつよっか)は、旧暦5月の4日目である。六曜は友引である。.

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7月27日

7月27日(しちがつにじゅうななにち、しちがつにじゅうしちにち)はグレゴリオ暦で年始から208日目(閏年では209日目)にあたり、年末まであと157日ある。誕生花はフウロソウ、ホオズキ。.

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9月13日 (旧暦)

旧暦9月13日は旧暦9月の13日目である。六曜は先負である。.

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9月28日

9月28日(くがつにじゅうはちにち)は、グレゴリオ暦で年始から271日目(閏年では272日目)にあたり、年末まであと94日ある。.

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