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高駢

索引 高駢

高駢(コウベン、コウヘン、字は千里、821 - 887年9月)は幽州出身。元和初の功臣南平郡王に封じられた高崇文(中国語版) の孫で、代々禁衛に仕えた家柄の出で、若い時から文芸に秀で儒者たちと交遊し理・道を語りあった。 憲宗皇帝時代の名將として知られる。 また晩唐の詩人として『山亭夏日』などの作品で知られる。

目次

  1. 41 関係: 南平郡司空大中宣宗 (唐)宦官安南都護府中和 (唐)中書令幽州乾符広明会昌後梁僖宗刺史咸通タングート全唐詩元和 (唐)光啓勃海郡王仙芝禅譲秦州節度使粛宗 (唐)道士荊南静永健資治通鑑黄巣重慶市長安植木久行検校 (中国)朱全忠新唐書旧五代史旧唐書憲宗 (唐)懿宗 (唐)

南平郡

南平郡(なんへい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。晋代から隋初にかけて、現在の湖北省中南部と湖南省北西部にまたがる地域に設置された。

見る 高駢と南平郡

司空

司空(しくう)は、かつて中国にあった官職である。時代により職掌・地位が異なる。

見る 高駢と司空

大中

大中(だいちゅう)は中国・唐代の元号。宣宗の治世で用いられた元号。847年正月 - 860年10月。

見る 高駢と大中

宣宗 (唐)

宣宗(せんそう)は、唐朝の第19代皇帝。憲宗の十三男で、穆宗の弟、武宗の叔父に当たる。 その治世に一定の成果を挙げたため、小太宗と呼ばれているが、戦乱で実録が失われたため、その業績の詳細は不明である。 『編年綱目』によると、高麗の太祖王建の祖父王帝建は、宣宗の庶子であった。

見る 高駢と宣宗 (唐)

宦官

宦官(かんがん)とは、去勢を施した、特に完全去勢を施された官吏をいう。古代から各文化圏に存在した。特に男性ホルモンは短命に繋がりやすく特に中国の宦官については有名で完全去勢された宦官は長寿になる傾向があった。

見る 高駢と宦官

安南都護府

安南都護府(あんなんとごふ)は、唐代におかれた六都護府の一つ。

見る 高駢と安南都護府

中和 (唐)

中和(ちゅうわ)は、中国・唐代の皇帝僖宗の治世で用いられた。 881年7月 - 885年3月。

見る 高駢と中和 (唐)

中書令

中書令(ちゅうしょれい)は、中国の前漢から明代にかけて存在した官職名。

見る 高駢と中書令

幽州

幽州(ゆうしゅう)は、中国にかつて存在した州。 上古の中国の九州の一つに数えられている。具体的な区域については、『爾雅』・『呂氏春秋』では「燕である」としており、『周礼』では「東北」としている。『晋書』地理志では「北方は陰気が多いことにより、幽冥をもって名称とした」としている。

見る 高駢と幽州

乾符

乾符(けんふ)は、中国・唐の僖宗の治世で用いられた元号。874年旧11月 - 879年旧12月。

見る 高駢と乾符

広明

広明(ひろあき、ひろあきら)は、日本の人名。

見る 高駢と広明

会昌

会昌(かいしょう)は、中国・唐代の元号。武宗の治世で用いられた元号。841年 - 846年。

見る 高駢と会昌

後梁

後梁 後梁(こうりょう)は、五代の最初の王朝。唐末の混乱期に唐の朝廷を掌握した軍閥の首領朱全忠が、907年に唐の哀帝より禅譲を受けて建国した。都は開封。中国では、南北朝時代の後梁(西梁)と区別して朱梁とも呼ぶ。

見る 高駢と後梁

僖宗

僖宗(きそう)は、唐朝の第21代皇帝。懿宗の五男。

見る 高駢と僖宗

刺史

刺史(しし)は、中国に前漢から五代十国時代まで存在した官職名。当初は監察官であったが、後に州の長官となった。州牧(あるいは単に牧)とも。日本では国守の唐名として使われた。

見る 高駢と刺史

咸通

咸通(かんつう)は、中国・唐の懿宗の治世で用いられた元号。860年 - 874年。

見る 高駢と咸通

タングート

タングート(Tangut)とは、7世紀~13世紀ごろに中国西南部の四川省北部、青海省などに存在したチベット。

見る 高駢とタングート

全唐詩

『全唐詩』(ぜんとうし)は、清・康熙帝の勅命により、彭定求らが編纂した、唐詩のすべてを収載した奉勅撰漢詩集。900巻、目録12巻、補遺6巻、詞12巻。

見る 高駢と全唐詩

元和 (唐)

元和(げんわ)は、中国・唐の憲宗の治世で使用された元号。806年8月 - 820年12月。

見る 高駢と元和 (唐)

光啓

光啓(こうけい)は中国・唐代僖宗の治世で用いられた。885年3月 - 888年正月。

見る 高駢と光啓

勃海郡

勃海郡(ぼっかい-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から隋代にかけて、現在の河北省滄州市一帯に設置された。

見る 高駢と勃海郡

王仙芝

王 仙芝(おう せんし、生年不詳 - 878年)は、中国の唐代末期の反乱指導者。唐朝に対して反乱を起こしたが、失敗して殺された。

見る 高駢と王仙芝

禅譲

禅譲(ぜんじょう)は、君主(ほとんどの場合、皇帝)が、その地位を血縁者でない有徳の人物に譲ることである。実際には、歴史上禅譲と称していても譲られる側が強制して行われていることが多い。 また、天子に限らず、比喩的に地位を平和裏に譲ることを禅譲、無理やり奪うことを簒奪と呼ぶことがある。

見る 高駢と禅譲

秦州

秦州(しんしゅう)は、中国にかつて存在した州。晋代から民国初年にかけて、現在の甘粛省天水市一帯に設置された。

見る 高駢と秦州

節度使

節度使(せつどし)は、中国古代の官職名。軍を指揮する皇帝の使い、という意味を有する。とりわけ唐代のものを指す場合が多く、律令に規定のない令外官だった。

見る 高駢と節度使

粛宗 (唐)

粛宗(しゅくそう)は、唐朝の第10代皇帝。当初の諱は嗣昇(ししょう)であったが、後に浚(しゅん)、璵(よ)と次々と改名を繰り返し、即位時は亨(きょう)であった。生母の楊氏は楊達の玄孫娘。

見る 高駢と粛宗 (唐)

道士

道士(どうし)とは、道教を信奉し、道教の教義にしたがった活動を職業とするもの。 男性の道士は乾道(けんどう)、女性の道士は坤道(こんどう)と呼ばれる。 1997年時点で、中国には2万5000人余りの道士がいた。2011年には10万人の道士がいる。 道士の服装は道袍と称し、中国古代の漢服の一種で、頭には古代の冠巾をかぶり、足には雲履と称する下履きを履いている。 道士は主に宮、道観、道院、廟、洞などと称する場所に住まい、そこで宗教活動を行っている。 また宗派によっても形態が異なり、全真教の道士は出家し、頭髪や鬚をのばし、髻をゆっている。また、精進料理を食べ、修養を重んじる。一方、正一教の道士は出家しない、在家の道士で、髪を剃り、護符を書いたり、道教儀礼を行うことを主な活動としている。

見る 高駢と道士

荊南

荊南(けいなん、907年 - 963年)は、中国五代十国時代に現在の湖北省を支配した国。弱小ながら、交易の中継点として栄えた。南平(なんぺい)・北楚(ほくそ)とも。ただし、実際には中原の五代王朝の節度使の一人に過ぎず、独立した国家ではなかったとする異説がある(後述)。

見る 高駢と荊南

静永健

静永 健(しずなが たけし、1964年 - )は、日本の中国文学者、九州大学教授。

見る 高駢と静永健

資治通鑑

『資治通鑑』(しじつがん、)は、中国北宋の司馬光が、1065年(治平2年)の英宗の詔により編纂して1084年(元豊7年)に完成した、編年体の歴史書。全294巻。もとは『通志』といったが、神宗により『資治通鑑』と改名された。『温公通鑑』『涑水通鑑』ともいう。 収録範囲は、紀元前403年(周の威烈王23年)の韓・魏・趙の自立による戦国時代の始まりから、959年(後周の世宗の顕徳6年)の北宋建国の前年に至るまでの1362年間としている。 この書は王朝時代には司馬光の名と相まって、高い評価が与えられてきた。また後述のように実際の政治を行う上での参考に供すべき書として作られたこともあり、『貞観政要』などと並んで代表的な帝王学の書とされてきた。また近代以後も、司馬光が執筆に用いた史料で既に散逸したものが少なくないため、有力な史料と目されている。

見る 高駢と資治通鑑

黄巣

黄 巣(こう そう)は、唐末の反乱指導者。874年から10年間、全土を転戦しながら反乱を指揮した。 この一連の大乱を黄巣の名をとって黄巣の乱と呼ぶ。黄巣の乱により全国王朝としての唐は実質的に滅び、以後は各地に割拠する軍閥の中で長安一帯をかろうじて治める一地方政権に転落する。

見る 高駢と黄巣

重慶市

重慶市(じゅうけいし、チョンチンし、、、)は、中華人民共和国の直轄市。長江の上流地域経済の中心であり、西南圏総合交通拠点である。 人口は約3,205万人で、単独の市域では世界最多の人口である。2017年の都市圏人口は1962.66万人のメガシティである。 略称は渝で、重慶市内にある嘉陵江の古称「渝水」を由来とする。2019年、アメリカのシンクタンクが公表したビジネス・人材・文化・政治などを対象とした総合的な世界都市ランキングにおいて、世界第105位の都市と評価されている。

見る 高駢と重慶市

長安

長安(ちょうあん、、)は、中国の古都。現在の陝西省の省都西安市に相当する。 その萌芽として周代に早くも渭水(黄河支流)の中流域に都城が建設されており、その後規模や位置を変えながら現代まで続いている。漢代に長安と命名され、前漢、北周、隋などの首都であった。唐代には大帝国の首都として世界最大の都市に成長した。シルクロードの起点とされることもある(シルクロード:長安-天山回廊の交易路網)。また西都(さいと)、大興(だいこう)、西京(さいきょう)と呼ばれていた時期もあった。宋代以降は政治・経済の中心は大運河が通じる東の開封に移り、長安が首都に戻ることはなかった。 西域に近かったこともあって、王朝の隆盛とともに国際都市となっていた唐代の長安は周辺諸民族が都城建設の模範とした。日本でも平城京や平安京は長安に倣ったと考えられており、日本において平安初中期の詩文の中で、平安京を指して長安と書いている例が見られる。

見る 高駢と長安

植木久行

植木 久行(うえき ひさゆき、1949年12月 - )は、日本の古典中国文学者、弘前大学名誉教授。

見る 高駢と植木久行

検校 (中国)

検校(けんぎょう、満洲語:, baicasi)は、中国歴代王朝に存在した官職。本来の意味は検査・監査のこと。または、官職名の上に付加することで代理の意をあらわす。

見る 高駢と検校 (中国)

朱全忠

朱 全忠(しゅ ぜんちゅう)は、五代後梁の初代皇帝。廟号は太祖。諱は初め温(おん)であったが、黄巣の乱の際の戦功で唐より全忠(ぜんちゅう)の名が下賜された。その後、唐を滅ぼして後梁を建国し、自ら皇帝に即位して晃(こう)と名を改めた。 朱全忠は唐末期の黄巣の乱で頭角を現し、その後の覇権争いで勝利して後梁を築き上げたが、晩年は行状が乱れて最期は息子に暗殺された。

見る 高駢と朱全忠

新唐書

『新唐書』(しんとうじょ)は、中国の唐代の正史である。五代の後晋の劉昫の手になる『旧唐書』(くとうじょ)と区別するために、『新唐書』と呼ぶが、単に『唐書』(とうじょ)と呼ぶこともある。 北宋の欧陽脩・曾公亮らの奉勅撰、225巻、仁宗の嘉祐6年(1060年)の成立である。

見る 高駢と新唐書

旧五代史

『旧五代史』(きゅうごだいし)は、北宋の薛居正らの撰である歴史書。原名は『梁唐晋漢周書』、通称『五代史』とされ、欧陽脩による『新五代史』の編纂後は「旧」を冠する。二十四史の一つ。後梁の開平元年(907年)から後周の顕徳7年(960年)に北宋が後周に代わって建つまでが記されている。本記61巻・列伝77巻・志12巻の計150巻を五代に区分して書とした。『梁書』24巻・『唐書』50巻・『晋書』24巻・『漢書』11巻・『周書』22巻・志12巻がある。 『新五代史』が発表されてから『旧五代史』は忘れ去られ、散逸した。清代になって邵晋涵らが『永楽大典』に引用されている部分を集めて復活させたのが現行の『旧五代史』である。現代の学界では、創作や事実誤認が多い『新五代史』に比べ、率直・素朴・雑駁であるがかえって史料性が高いとされている。

見る 高駢と旧五代史

旧唐書

『旧唐書』(くとうじょ、)は、中国五代十国時代の後晋出帝の時に劉昫・張昭遠・賈緯・趙瑩らによって編纂された歴史書。二十四史の一つ。唐の成立(618年)から滅亡まで(907年)について書かれている。 当初の呼び名は単に『唐書』だったが、『新唐書』が編纂されてからは『旧唐書』と呼ばれるようになった。

見る 高駢と旧唐書

憲宗 (唐)

憲宗(けんそう)は、唐朝の第14代皇帝。順宗の長男。

見る 高駢と憲宗 (唐)

懿宗 (唐)

懿宗(いそう)は、唐朝の第20代皇帝。宣宗の長男。史書によれば暗愚な性格であったという。

見る 高駢と懿宗 (唐)