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韋玄成

索引 韋玄成

韋 玄成(い げんせい、? - 紀元前36年)は、中国の前漢の政治家。字は少翁。丞相韋賢の末子。 韋賢は魯国鄒から平陵に移住したが、彼は杜陵に移住した。しかし臨終にあたり父と同じ平陵に葬られることを願い許されている。 父の任子により郎となった。学問を好み父の学業を継いだ。人にへりくだり、貧しく賤しい者も敬ったので評判になった。経書に明るいことで諫大夫に抜擢され、大河都尉となった。 父韋賢が死亡した際、跡を継ぐべき兄韋弘は獄に下されていた。韋賢の家族や門下生は韋賢の命令と偽り、韋玄成を後継ぎとするよう申し出た。しかし韋玄成はそれが韋賢本人の考えではないことを知り、精神に異常をきたしたと偽り列侯(扶陽侯)を継承しようとしなかった。世間では兄に爵位を譲ろうとしたものだと噂した。丞相府がそのことについて取り調べ、実際には病んでいないと韋玄成を弾劾したが、宣帝は弾劾してはならないと詔を下し、彼に謁見した。韋玄成はやむをえず列侯を受けた。 その後河南太守、衛尉、太常と昇進したが、楊惲が誅殺された際に友人であったために官を免じられた。その後、恵帝廟の祭祀に侍した際に騎乗したまま廟のそばまで来たことを弾劾され、爵位を削られて関内侯にされた。 宣帝が寵愛する中子である淮陽王劉欽を後継にするのを断念する際、淮陽王に兄への謙譲を教えるために韋玄成を淮陽王の中尉とした。また、同じころ石渠閣で五経の異同について他の儒者たちと議論した。 元帝が即位すると、少府に昇進し、太子太傅となり、御史大夫に至った。永光2年(紀元前42年)、前任者于定国の引退により丞相となり、扶陽侯に復帰した。漢において親子で丞相となったのは韋賢・韋玄成と周勃・周亜夫、曹操・曹丕の三組だけである。 丞相としては世俗の浮沈に従い、へつらいであったと評されている(『史記』張丞相列伝補)。彼が丞相の間に「天子七廟」の制に基づく皇帝廟制度の整理が始まっている。 建昭3年(紀元前36年)に死亡。諡は共侯。 韋玄成の一族からは二千石の高官を十数人輩出し、韋弘の子の韋賞は哀帝の時代に大司馬車騎将軍となっている。 Category:漢代の人物 * Category:紀元前36年没.

34 関係: 劉欽大司馬太子太傅太守太常宣帝 (漢)少府丞相中国于定国建昭任子御史大夫列侯周亜夫周勃元帝 (漢)前漢紀元前36年紀元前42年韋賢衛尉魯郡車騎将軍都尉関内侯鄒城市杜陵県 (陝西省)楊ウン永光 (漢)淮陽県曹丕曹操

劉欽

劉欽(りゅう きん、? - 紀元前27年)は、前漢の皇族。漢の宣帝の皇子で元帝の弟。淮陽王に封建された。.

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大司馬

大司馬(だいしば)は、中国の官職の一つで、主に軍事を取り仕切る、現在の役職に例えれば国防長官である。ただし、その上に大将軍職がもうけられる場合もあった。 周(春秋戦国時代)代では、兵馬(軍事)を司る省の長だったようである。 秦代には太尉と呼ばれていた武官の職である。 前漢では、三公(三つの最高官職の内の一つ)の中の一つであった。恵帝の6年(紀元前189年)に周勃が太尉となったのが漢での最初である。武帝の建元2年(紀元前139年)に田蚡が免官されて以後は太尉は置かれず、事実上の廃止となる。武帝の建元4年(紀元前119年)に大将軍衛青と驃騎将軍霍去病を並立させるため、初めて大司馬が霍去病に与えられ、将軍号に冠した。宣帝の地節2年(紀元前68年)に、大司馬大将軍霍光が亡くなると、宣帝はその子霍禹を単に大司馬とし、将軍号を削って兵権を奪った。この時のみ大司馬には兵権が無かった。その後も三公での順位や将軍号の有無の変遷があったが、大司馬の職位は続いた。 新の王莽を打倒した更始帝も大司馬を置き、劉秀は当初、兼務の行大司馬として河北に渡った。劉秀が皇帝に即位すると、また大司馬を置き、呉漢が任じられた。 後漢の建武27年(51年)に太尉に置き換わった。 魏晋には、太尉と並立しながらも三公より格上の職として復活し、曹仁などの大物が就任した。.

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太子太傅

太子太傅(たいしたいふ)は前漢以降の官職名。官秩は前漢では二千石で、後漢になると官秩が中二千石となった。 太子少傅と共にいにしえの官を引き継いだものとされ、皇太子の師となって教え導くことが職務とされた。 『続漢書』百官志によると太子太傅は属官を持たず、太子門大夫、庶子等の属官は太子少傅に属した。.

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太守

太守(たいしゅ)は、中国においては郡の長官のことで、単に守とも呼ばれた。秦代に置かれた郡守を改称したもので、前漢中期から南北朝時代の隋に置かれた。唐代の後期から五代になると太守の称号は使われなくなり、のち宋朝の知府事、明朝、清朝の知府の別称として用いられた。 転じて以下のように用いられている。.

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太常

太常(たいじょう)とは、中国の官名である。.

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字(あざな、)とは、中国など東アジアの漢字圏諸国で使われる人名の一要素である。 昔、中国で成人男子が実名以外につけた名。日本でも学者・文人がこれをまねて用いた。 また、実名以外に呼び習わされた名。あだな。.

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宣帝 (漢)

宣帝(せんてい)は、前漢の第9代皇帝。武帝の曾孫。初め民間に育ち、霍光に擁立されて皇帝に即位した。後世、後漢光武帝により前漢中興の祖とされ、中宗の廟号を贈られた。その数奇な生涯から逸話が多い。.

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少府

少府(しょうふ)とは、中国の官名である。.

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丞相

丞相(じょうしょう)は、古代中国の戦国時代以降のいくつかの王朝で、君主を補佐した最高位の官吏を指す。今日における、元首が政務を総攬する国(大統領制の国や君主が任意に政府要職者を任命できる国)の首相に相当する。.

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中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

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于定国

于 定国(う ていこく、? - 紀元前40年)は、中国の前漢時代の人。東海郡郯県(現山東省臨沂市郯城県)の出身。字は曼倩。丞相となった。.

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建昭

建昭(けんしょう)は、中国、前漢の元帝劉奭(りゅうせき)の治世に行われた3番目の元号。紀元前38年 - 紀元前34年。.

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任子

任子(にんし)は中国古代以降、特に前漢における官吏の登用方法のこと。高級官僚の子弟を登用するものである。 前漢における任子は『漢書』哀帝紀注引『漢儀注』に見える「任子令」により規定されており、それによれば官秩二千石以上の高級官僚は、3年勤め上げると兄弟もしくは子を1名選び、高級官僚の登竜門である郎にすることができるというものであった。 この制度により前漢においては高級官僚が子弟を官僚にすることが可能となっており、親子兄弟がこぞって二千石となり「万石君」と呼ばれる者もいた。 任子は前漢においては多くの高官を輩出した一方で、能力や徳によらない制度であるという批判もあり、任子令は綏和2年(紀元前7年)、哀帝即位後に廃止された。その後は孝廉のように個人の徳や能力による選抜が建前とされるようになった。 しかしその後も完全に消滅したわけではなく、九品官人法においても任子と同様の精神が含まれていたと考えられている。また、南朝陳において九品官人法とは別に功臣の子を官に就ける任子制度があり、また唐においては、任子制度が九品官人法の流れを汲む貴族制を破壊する一方で科挙出身官僚と対立し、いわゆる牛李の党争が起こったとされる(前掲書第一編)。 制度上は、清に至るまで高官の子が無条件で官職につくことができる制度は存在したが、科挙の浸透に伴いたとえ高官の子でも実力で科挙に合格して官につくのを誇りとする風潮が広がり、人事上も科挙出身者が主流となっていった。.

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御史大夫

御史大夫(ぎょしたいふ)は、古代中国の官職名であるが、日本においても短期間であるが採用されたことがある。副丞相とも呼ばれた。 一般には、御史台の長官で、官僚の監察を行うとされているが、秦漢時代に於いては、監察業務はその下に置かれた、御史と称される官僚が行い、御史大夫は副宰相格として、或いは皇帝の側近の筆頭として、政策立案を司っていたようであり、その管轄する官署は御史府と称されていた。 景帝、武帝の時代頃から、皇帝の権威・権勢が強まると、相対的に行政執行官であり、官僚の最高ポストでもある丞相の権威が低下して名誉職の色合いが濃くなった。そこで皇帝の側近筆頭たる御史大夫が、宰相の役割を果たすようになった。 この時期の御史大夫として、鼂錯や張湯がよく知られる。 だが、この状況も長くは続かず、外戚等の新たなる皇帝の側近勢力が、領尚書事として、政治の中枢に参与。これにより、彼等が政治の実権を握ることとなった。 日本では天智天皇の時代に一時期大臣に次ぐ官職名として採用されたが、壬申の乱によって近江朝廷が崩壊すると廃止された。大宝律令以後の律令制における大納言に相当するが、天皇近侍の官としての要素も含まれたとされている。なお、律令制下においては弾正尹の唐名として用いられた。 category:中国の官名.

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列侯

列侯(れっこう)は、古代中国、前漢や後漢における爵位の一つ。 元は徹侯と言った。武帝の名が「徹」であるため、避諱されて「通侯」「列侯」と言った。『漢書』等の記録の中では通常「列侯」と呼ばれている。 漢の二十等爵の最上位に当たり、その上には皇帝の一族しか封じられないのが原則の諸侯王があるのみであるため、実質的には人臣が昇りうる最高の爵位である。 列侯は封土を与えられてその地の民の君主となり、その租税を自分のものとした。通常は封土の名前を付けて「○○侯」と呼ばれ、その封土は「○○国」と呼ばれる。例えば、潁川郡舞陽県に封じられたら「舞陽侯」であり、その侯国は「舞陽国」である。そうではなく、富民侯のようにめでたい字で名前をつけることもあった。 印綬は金印紫綬であり、侯国を統治するために相が置かれた。また家丞、庶子、門大夫、洗馬、行人といった属官が置かれた(家丞と庶子以外は後漢になり廃止された)。 侯国の君主という扱いであるため、官職を持つものと皇帝により特に止められている者以外は封国に実際に赴くこととなっていた。後者が待遇として制度化されたものが特進である。封じられた者が死ぬと諡が贈られ、嫡子が列侯を継承した。嫡子が無かった場合、または罪があった場合には列侯が剥奪された。たとえば漢の高祖の功臣樊噲は功により舞陽侯に封じられ、死去したのちに武侯と諡された。嫡子が舞陽侯を継承したが、母が呂后の妹であった縁から呂氏が滅んだのに連座して誅殺され、舞陽侯は断絶した。数ヶ月後に樊噲の庶子が再び舞陽侯に封じられ、死去した後に荒侯と諡された。その息子が舞陽侯を継いだが、後に荒侯の実子ではないとされ舞陽侯は断絶している(史記樊噲伝)。 軍功など大きな功績があった者、及び外戚が列侯に封建された。武帝元朔2年(紀元前127年)の「推恩の令」以降は、諸侯王が自分の領地を自分の子弟に分け与え、列侯とすることが許された。また、公孫弘以降は、丞相に就任すると列侯に封じられるのが定例となった。ただし、後漢に入ると丞相の列侯は行われなくなった。 漢の列侯は魏の成立とともに関中侯に降格され、代わりに魏の成立に貢献した功臣の将軍が列侯になるが、魏の最末期(晋の成立期)に五等爵が列侯の上に位置づけられたことで形骸化し、功臣や外戚への待遇は、功臣には将軍位、外戚には光禄大夫が与えられるようになった。.

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周亜夫

周 亜夫(しゅう あふ、? - 紀元前143年)は、前漢前期の武将、政治家。呉楚七国の乱において反乱軍を破る功績を上げた。.

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周勃

周 勃(しゅう ぼつ)は、中国の人物。.

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元帝 (漢)

元帝(げんてい)は、前漢の第10代皇帝。.

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前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

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紀元前36年

紀元前36年。.

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紀元前42年

紀元前42年。.

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韋賢

韋 賢(い けん、紀元前140年 - 紀元前61年)は、前漢の政治家。字は長孺。 魯国鄒の人。5代前の先祖韋孟は楚王に仕え、楚王劉戊を諌めたという。 韋賢は儀礼、尚書、詩経に通じ、「鄒魯の大儒」と呼ばれた。中央に徴用されて博士、給事中となり、昭帝に詩経を教授した。 光禄大夫、詹事と昇進し、大鴻臚に至った。昭帝が跡継ぎなく崩御したので、大将軍霍光らと共に宣帝を皇帝に擁立し、その功績で関内侯を賜った。後に長信少府となり、本始3年(紀元前71年)に前任者蔡義の死により丞相となり扶陽侯に封じられた。 地節3年(紀元前67年)に高齢を理由に丞相を引退することを申し出て許され、金百斤と屋敷を賜った。丞相が自ら引退するようになるのは彼が最初であった。神爵元年(紀元前61年)に82歳で死亡。節侯と諡された。 子は4人おり、長男の韋方山は早くに死に、次男の韋弘は東海太守となり、三男の韋舜は魯の父祖の眠る墳墓を守り出仕せず、四男の韋玄成は丞相になった。漢において親子2代で丞相となったのは韋賢・韋玄成と周勃・周亜夫、曹操・曹丕の計3組だけである。 故郷の鄒魯では、韋氏が経書を学んで栄えたことから、「子孫に金を遺すよりも経書を遺す方が良い」という諺が生まれたという。 Category:漢代の人物 * Category:紀元前140年生 Category:紀元前61年没.

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衛尉

衛尉(えいい)とは、中国の官名である。.

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魯郡

魯郡(ろ-ぐん)は、中国にかつて存在した郡。漢代から唐代にかけて、現在の山東省南部に設置された。.

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車騎将軍

車騎将軍(しゃきしょうぐん)は前漢以降の官職名。軍を率いる将軍位の一つ。 漢においては初期は灌嬰などの将、文帝の外戚薄昭などが就任し、以後、主に皇帝の信任する者や外戚が就任して軍事権を握った。 『続漢書』百官志によれば、常に置かれるわけではなく、反乱の征伐を掌り兵を指揮する。将軍位としては大将軍、驃騎将軍に次ぎ、衛将軍の上位に当たる。 属官には長史、司馬(各官秩比千石)、従事中郎(官秩比六百石)がいる。兵を領する場合、部・曲が置かれる。部には校尉(官秩比二千石)、軍司馬(官秩比千石)が置かれる。部の下に曲があり、軍候(官秩比六百石)が置かれる。曲の下には屯があり、屯長(官秩比二百石)が置かれる。 曹魏では、二品官であった。蜀漢では建国当初に張飛が就任したほか、末期には古参の将軍である廖化・張翼を「右車騎将軍」「左車騎将軍」に任じている。呉では初期に朱然が就任し、その後は劉纂が務めた。 その後徐々に格が上がり、晋では儀同三司となり、さらに北魏では一品官となり、位三司上となった。 隋代には驃騎府・車騎府が府兵制の中核となったため、車騎将軍は車騎府の指揮官として驃騎将軍に属して府兵を率いた。大業3年には驃騎府・車騎府が統合され鷹揚府となり、府の指揮官は鷹揚郎将となった。唐に入ると驃騎府・車騎府が復活したが、貞観年間に再び折衝府に統合され、府の指揮官は折衝都尉となった。.

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都尉

都尉(とい)は秦、漢の官職名。郡の軍事を掌る。 前漢においては、元は郡尉と呼ばれていたが、景帝中2年に郡守を郡太守と改称し、郡尉は郡都尉と改称した。都尉は太守を補佐し、郡内の武職や兵卒を掌った。官秩は比二千石であった。役所は太守とは別の場所に置かれた。通常は郡に一名だが、辺境などでは一郡に複数の都尉が置かれることもあり、その場合には「西部都尉」「中部都尉」などと呼ばれる。副官に丞(官秩比六百石)がいた。 後漢の光武帝の建武6年、辺境を除いて都尉は廃止され、太守が職務を兼任し、必要に応じ臨時に置かれることがあるだけとなった。 また、前漢においては関所に置かれる関都尉、辺境の郡で農事を掌る農都尉、属国を掌る属国都尉があったが、後漢においては属国都尉だけが残った。それとは別に、騎都尉、奉車都尉など一部の武官にも都尉の称が使われている。 その後、李自成政権が県の統治官を都尉と改めたことがある。(従来は「知県事」) 清代には、武官の散官の名称として都尉が用いられた。一品、二品官の散官は「○○将軍」であるが、三品、四品官の散官は「○○都尉」と名づけられる。 北京政府は警察庁の役職として都尉を設置している。.

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関内侯

関内侯(かんだいこう)は漢王朝の爵位。 漢の二十等爵における十九番目であり、その上には列侯があるだけである。 名前の由来は、「侯の称号はあっても封国がなく関内(函谷関以西。秦の元々の領土)に居るから」(『漢書』顔師古注)、「関内の邑の租税を得るから」(『続漢書』注引如淳)、「秦が六国を滅ぼす以前、将帥の家は関内にあったから」(『続漢書』注引荀綽『晋百官表注』)、「秦は関内を直轄領としていたため」(『続漢書』劉昭注)など諸説ある。 列侯との違いとして師古注では基本的に食邑が与えられず、特別として関内の邑の租税のみを与えられることがあるとしている。しかし関内侯に食邑が与えられた例は多数あり、この解釈は誤りとされる。関内侯と列侯との間に実利的な意味での違いは無かったが、韋玄成が関内侯に落とされた時にその嘆きを詩に読んだ史実が示すように、実利を超越して爵制における最高位と十九位の差は大きかったと考えられる。.

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鄒城市

鄒城市(すうじょう-し)は中華人民共和国山東省西南部の済寧市に位置する県級市である。儒教では孔子に次ぐ重要な人物で「亜聖」とも呼ばれる孟子の出身地として知られ、国家歴史文化名城にも指定されている古都である。.

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杜陵県 (陝西省)

---- 杜陵県(とりょう-けん)は、紀元前65年から紀元3、4世紀頃まで中国にあった県である。前漢の都長安の南東郊外にあり、これは現在の陝西省西安市雁塔区三兆邑西北にあたる。前身は秦の杜県。前漢のとき宣帝の陵墓杜陵を築くことになり、杜陵県に改称した。新代の一時期饒安県と改称したがすぐに戻され、晋代には杜城県と改称した。北魏のときまた杜県と改称し、北周のとき廃止になった。.

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楊ウン

楊 惲(よう うん、? - 紀元前54年)は、前漢の人。字は子幼。華陰の人。丞相楊敞の子。司馬遷の外孫で、外祖父の『史記』を広めた人物として知られる。.

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永光 (漢)

永光(えいこう)は、中国、前漢の元帝劉奭(りゅうせき)の治世に行われた2番目の元号。紀元前43年 - 紀元前39年。.

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淮陽県

淮陽県 (わいよう-けん)は中華人民共和国河南省に位置する県。地級市の周口市に属し、市域の東北部、河南省でも東の方に位置する。総人口は129万人を超える。かつては宛丘(えんきゅう)、陳州(ちんしゅう)、陳(ちん)と呼ばれた。.

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曹丕

曹 丕(そう ひ)は、三国時代の魏の初代皇帝。父曹操の勢力を受け継ぎ、後漢の献帝から禅譲を受けて王朝を開いた。著書に『典論』がある。.

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曹操

曹 操(そう そう、拼音:Cáo Cāo、永寿元年(155年) - 建安25年1月23日(220年3月15日))は、後漢末期の武将、政治家。詩人、兵法家としても業績を残した。字は孟徳(もうとく)、幼名は阿瞞、また吉利。豫州沛国譙県(現在の安徽省亳州市譙城区)の出身。 後漢の丞相・魏王で、三国時代の魏の基礎を作った。廟号は太祖、謚号は武皇帝。後世では魏の武帝、魏武とも呼ばれる。.

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