ロゴ
ユニオンペディア
コミュニケーション
Google Play で手に入れよう
新しい! あなたのAndroid™デバイスでユニオンペディアをダウンロードしてください!
インストール
ブラウザよりも高速アクセス!
 

考証学

索引 考証学

考証学(こうしょうがく)とは、中国において、清代に入って流行した学問であり、諸事の根拠を明示して論証する学問的態度のことを、こう呼んでいる。.

64 関係: 古文書学問孫詒譲宋明理学小野和子 (東洋史学者)中国常州学派万斯同万斯大乾隆乾隆帝康熙帝後漢北宋モンゴル帝国嘉慶 (清)全祖望兪エツ元 (王朝)前漢創文社国書刊行会王引之王念孫王国維研文出版章学誠章炳麟経学経書銭大キン音韻学顧炎武黄宗羲近藤光男 (中国文学者)閻若キョ邵晋涵金石学雍正帝恵棟東洋文庫 (平凡社)梁啓超歴史歴史学段玉裁江永漢学濱口富士雄...戴震明治書院春秋公羊伝文字文献学書誌学1736年1820年1923年1974年1987年1996年2007年 インデックスを展開 (14 もっと) »

古文書

羽柴秀吉朱印状(25ヵ条の大陸国割計画書)/前田育徳会所蔵 古文書 (こもんじょ)とは、広く「古い文書」の意味でも使われるが、歴史学上は、特定の対象(他者)へ意思を伝達するために作成された近世以前の文書を指す。特定の相手に向けたものではない文書、例えば日記や書物などは古記録と呼んで区別される。日本史の分野で多く用いられる用語であり、日本以外をフィールドとする場合、古記録とまとめて文書史料、略して文書(もんじょ)と呼ぶことが多い。.

新しい!!: 考証学と古文書 · 続きを見る »

学問

学問(がくもん)とは、一定の理論に基づいて体系化された知識と方法であり、哲学や歴史学、心理学や言語学などの人文科学、政治学や法律学などの社会科学、物理学や化学などの自然科学などの総称。英語ではscience(s)であり、science(s)は普通、科学と訳す。なお、学問の専門家を一般に「学者」と呼ぶ。研究者、科学者と呼ばれる場合もある。.

新しい!!: 考証学と学問 · 続きを見る »

孫詒譲

孫 詒譲(そん いじょう、Sun Yirang、1848年 - 1908年)。字は仲容、号は籀廎。清末の学者・教育家。 浙江省温州瑞安出身。儒学者の家に生まれ、幼時より学問を好み、13歳で『広韻姓氏刊誤』を、18歳で『白虎通校補』を著した。兪樾・黄以周とともに清末三大先生と呼ばれており、章炳麟も高く評価している。1873年より国家の危機の際には墨家の思想が役に立つと確信し、『墨子』に校注を加え『墨子間詁』を著した。また亀甲獣骨文字を研究し、成果を『契文挙例』としてまとめている。 さらに教育の必要性を唱え、『温処学務分処暫定学堂管理法』では「国民の智愚賢否は国家の強弱盛衰と関連している。初等小学校を各地に設置し、村から不学の家をなくし、家から不学の童をなくすべきである」と主張している。.

新しい!!: 考証学と孫詒譲 · 続きを見る »

宋明理学

宋明理学(そうみんりがく)は、またの名を道学という。中国の宋代・明代の儒学を代表するテーマが理であったことから、理学(りがく)と名付けられた。清代の儒学者たちからは宋学(そうがく)と呼ばれた。欧米からは、英語のに代表されるように、「新儒学」と呼ばれる(現代の新儒家(現代新儒学)とは区別される)。.

新しい!!: 考証学と宋明理学 · 続きを見る »

小野和子 (東洋史学者)

小野 和子(おの かずこ、1932年(昭和7年) - )は、日本の東洋史学者、京都大学人文科学研究所名誉教授。専攻は中国近世史・中国近代女性史。.

新しい!!: 考証学と小野和子 (東洋史学者) · 続きを見る »

中国

中国(ちゅうごく)は、ユーラシア大陸の東部を占める地域、および、そこに成立した国家や社会。中華と同義。 、中国大陸を支配する中華人民共和国の略称として使用されている。ではその地域に成立した中華民国、中華人民共和国に対する略称としても用いられる。 本記事では、「中国」という用語の「意味」の変遷と「呼称」の変遷について記述する。中国に存在した歴史上の国家群については、当該記事および「中国の歴史」を参照。.

新しい!!: 考証学と中国 · 続きを見る »

常州学派

常州学派(じょうしゅうがくは)は、中国、清代の儒学において漢代今文経学を重視する学派。創始した荘存与・劉逢禄らが常州の人であったためこの名がある。また、今文経重視を掲げているので今文学派の呼称もある。さらに、漢代今文学のなかでも『春秋公羊伝』に基づく董仲舒や何休の公羊学を重視したので、公羊学派(くようがくは)とも言われる。 常州学派の創始者である荘存与は今文経学の重視を提唱し、家学として甥の荘述祖や外孫の劉逢禄に伝えた。劉逢禄は『春秋公羊伝』に精通し、後漢の何休の『公羊解詁』に基いて六経に込められた孔子の微言大義を明らかにすることを目指し、常州学派の基礎を築いた。 劉逢禄の業を受けた魏源や龔自珍は、嘉慶・道光年間、公羊学に基づき経世致用の学を提唱し、政治改革の主張を行っている。魏源は劉逢禄が何休を重視したのに対して、前漢に遡って董仲舒こそ孔子の微言を明らかにしているとした。 光緒に至ると、廖平(りょうへい)が、古文経を劉歆の偽作として斥け、孔子を改制者として位置づける主張を行い、康有為はその影響を受けて『新学偽経考』(1891年)や『孔子改制考』(1897年)といった著作を発表した。『新学偽経考』で古文経学を劉歆が、王莽が漢朝を簒奪し新朝を建国するのを助けるために偽作した新学にすぎないと主張した。『孔子改制考』では六経をすべて孔子の創作とし、孔子が乱世救済のために古代の堯・舜に仮託して制度改革の思想を込めたのだとした。考証学など古文学派がイメージする学者・教育家としての孔子像を思想家・改革者へと変えた。 公羊学は康有為たちの変法運動の理論的根拠となり、清末の社会思潮に大きな影響を及ぼした。また学問上、古文経伝に対する懐疑を打ち出したことが、経書自体の懐疑へと向かい、顧頡剛を始めとする疑古派の歴史観を生むことになった。 Category:儒教の学派.

新しい!!: 考証学と常州学派 · 続きを見る »

万斯同

万 斯同(ばん しどう、1638年 - 1702年)は、清代中国の学者。字は季野。石園と号する。万泰の第8子で万斯大の弟。.

新しい!!: 考証学と万斯同 · 続きを見る »

万斯大

万斯大(ばん しだい、1633年 - 1683年)は、清代中国の学者。字は充宗。万泰の第6子で、万斯同の兄にあたる。晩年は跛翁と号し、学者たちは褐夫先生と称した。鄞県(現在の浙江省寧波市)の出身。.

新しい!!: 考証学と万斯大 · 続きを見る »

乾隆

乾隆(けんりゅう、満洲語:、転写:abkai wehiyehe)は、清の高宗の治世中に使われた元号。1736年 - 1795年。一世一元の制であったため高宗は乾隆帝と称される。 中国史上、康熙に次いで2番目に長く用いられた元号である。.

新しい!!: 考証学と乾隆 · 続きを見る »

乾隆帝

皇子時代の弘暦(北京故宮博物院蔵) 即位直後の乾隆帝(ジュゼッペ・カスティリオーネ画、1736年) 乾隆帝(カスティリオーネ画) 乾隆帝 儀礼用甲冑を着けた乾隆帝(カスティリオーネ画、1758年) 乾隆帝(カスティリオーネ画) 乾隆帝の南巡(1765年) 乾隆帝に謁見するマカートニー使節団(1793年、アーノルド・J・トインビー『歴史の研究』より) 晩年の乾隆帝(北京故宮博物院蔵) 乾隆帝(けんりゅうてい)は、清の第6代皇帝。清王朝の最盛期を創出する。諱は弘暦(こうれき)、廟号は高宗(こうそう)。在世時の元号の乾隆を取って乾隆帝と呼ばれる。.

新しい!!: 考証学と乾隆帝 · 続きを見る »

康熙帝

康熙帝(こうきてい)は、清の第4代皇帝。諱は玄燁(げんよう、燁は火偏に華)。君主としての称号はモンゴル語でアムフラン・ハーン、廟号は聖祖、諡号は合天弘運文武睿哲恭倹寛裕孝敬誠信功徳大成仁皇帝(略して仁皇帝)。在世時の元号康熙を取って康熙帝と呼ばれる。 西洋文化を積極的に取り入れ、唐の太宗とともに、中国歴代最高の名君とされる。その事実は歴代皇帝の中で聖の文字を含む廟号がこの康熙帝と、宋と澶淵の盟を締結させた遼最盛期の皇帝'''聖'''宗の2人にしか与えられていないことからも窺える。また祖の文字も、通常は漢の高祖(太祖高皇帝)劉邦など、王朝の始祖あるいは再建者に贈られる廟号であるが、康煕帝は4代目であるにもかかわらず太祖・世祖に続いて3番目に贈られている。.

新しい!!: 考証学と康熙帝 · 続きを見る »

後漢

後漢(ごかん、東漢、、25年 - 220年)は、中国の王朝。漢王朝の皇族劉秀(光武帝)が、王莽に滅ぼされた漢を再興して立てた。都は洛陽(当時は雒陽と称した。ただし後漢最末期には長安・許昌へと遷都)。五代の後漢(こうかん)と区別するため、中国では東漢と言う(この場合、長安に都した前漢を西漢という)。.

新しい!!: 考証学と後漢 · 続きを見る »

北宋

北宋(ほくそう、拼音:Bĕisòng、960年 - 1127年)は、中国の王朝。趙匡胤が五代最後の後周から禅譲を受けて建てた。国号は宋であるが、金に開封を追われて南遷した後の南宋と区別して北宋と呼び分けている。北宋期の首都は開封であった。 北宋と南宋とでは華北の失陥という大きな違いがあるが、それでも社会・経済・文化は継続性が強く、その間に明確な区分を設けることは難しい。そこで区分しやすい歴史・制度・国際関係などは北宋・南宋の各記事で解説し、区分しにくい分野を宋で解説することにする。.

新しい!!: 考証学と北宋 · 続きを見る »

モンゴル帝国

モンゴル帝国(モンゴルていこく)は、モンゴル高原の遊牧民を統合したチンギス・カンが1206年に創設した遊牧国家。中世モンゴル語ではイェケ・モンゴル・ウルス ( Yeke Mongγol Ulus)すなわち「大モンゴル・ウルス(大蒙古国)」と称した。 モンゴル帝国の創始者チンギス・カンと『四駿四狗』やその他の後継者たちはモンゴルから領土を大きく拡大し、西は東ヨーロッパ、アナトリア(現在のトルコ)、シリア、南はアフガニスタン、チベット、ミャンマー、東は中国、朝鮮半島まで、ユーラシア大陸を横断する帝国を作り上げた。最盛期の領土面積は約3300万km²で、地球上の陸地の約25%を統治し、当時の人口は1億人を超えていた。三大洋全てに面していた。 モンゴル帝国は、モンゴル高原に君臨するモンゴル皇帝(カアン、大ハーン)を中心に、各地に分封されたチンギス・カンの子孫の王族たちが支配する国(ウルス)が集まって形成された連合国家の構造をなした。 中国とモンゴル高原を中心とする、現在の区分でいう東アジア部分を統治した第5代皇帝のクビライは1271年に、大都(現在の北京)に遷都して緩やかな連邦と化した帝国の、モンゴル皇帝直轄の中核国家の国号を大元大モンゴル国と改称するが、その後も皇帝を頂点とする帝国はある程度の繋がりを有した。この大連合は14世紀にゆるやかに解体に向かうが、モンゴル帝国の皇帝位は1634年の北元滅亡まで存続した。また、チンギス・カンの末裔を称する王家たちは実に20世紀に至るまで、中央ユーラシアの各地に君臨し続けることになる。.

新しい!!: 考証学とモンゴル帝国 · 続きを見る »

嘉慶 (清)

嘉慶(かけい、満洲語:、ローマ字表記:saicungga fengšen)は清の仁宗の治世中に使われた元号。1796年 - 1820年。一世一元の制を採用していたため仁宗は嘉慶帝と称される。.

新しい!!: 考証学と嘉慶 (清) · 続きを見る »

全祖望

全祖望(ぜん・そぼう、1705年-1755年)は清朝中国の儒学者。字は紹衣。号は謝山。.

新しい!!: 考証学と全祖望 · 続きを見る »

兪エツ

晩年の兪樾 兪 樾(ゆ えつ、Yu Yue、1821年 - 1907年)。字は蔭甫、号は曲園。清末の考証学者。 浙江省徳清出身。1850年、進士となる。この時の試験官は曽国藩であったが、兪樾の詩は大いに賞賛された。翰林院編修、国史館協修となり、その知識を咸豊帝から賞賛され、1855年には河南学政となった。しかし出題した試験の題について弾劾を受けたため、官をやめて二度と出仕しなかった。 1875年、友人の援助で蘇州の荒れ地を買い取り、湾曲した地形を自ら設計して庭園を造った。『老子道徳経』の「曲則全」の言葉から取って「曲園」と名付け、自らを曲園居士と号した。晩年は杭州の詁経精舍で講義した。学風は王念孫・王引之を引き継ぎ、門人には章炳麟、呉昌碩などがいる。 曽孫に兪平伯がいる。.

新しい!!: 考証学と兪エツ · 続きを見る »

元 (王朝)

元(げん)は、1271年から1368年まで中国とモンゴル高原を中心領域として、東アジア・北アジアの広大な土地を支配した王朝である。正式の国号は大元(だいげん)で、元朝(げんちょう)とも言う。モンゴル人のキヤト・ボルジギン氏が建国した征服王朝で国姓は「奇渥温」である。伝統的な用語上では、「モンゴル帝国が中国に支配後、中華王朝に変化した国」というように認定されたが、視点によって「元は中国では無く、大元ウルスと呼ばれるモンゴル遊牧民の国」と、様々な意見もある。 中国王朝としての元は、唐崩壊(907年)以来の中国統一政権であり、元の北走後は明(1368年 - 1644年)が中国統治を引き継ぐ。しかし、中国歴代征服王朝(遼・金・清など)の中でも元だけが「政治制度・民族運営は中国の伝統体制に同化されなく、モンゴル帝国から受け継がれた遊牧国家の特有性も強く持つ」のような統治法を行った。一方、行政制度や経済運営の面では、南宋の仕組みをほぼ潰して、中華王朝従来の体制を継承してることとは言わない。.

新しい!!: 考証学と元 (王朝) · 続きを見る »

前漢

前漢(ぜんかん、紀元前206年 - 8年)は、中国の王朝である。秦滅亡後の楚漢戦争(項羽との争い)に勝利した劉邦によって建てられ、長安を都とした。 7代武帝の時に全盛を迎え、その勢力は北は外蒙古・南はベトナム・東は朝鮮・西は敦煌まで及んだが、14代孺子嬰の時に重臣の王莽により簒奪され一旦は滅亡。その後、漢朝の傍系皇族であった劉秀(光武帝)により再興される。前漢に対しこちらを後漢と呼ぶ。 中国においては東の洛陽に都した後漢に対して西の長安に都したことから西漢と、後漢は東漢と称される。前漢と後漢との社会・文化などには強い連続性があり、その間に明確な区分は難しく、前漢と後漢を併せて両漢と総称されることもある。この項目の社会や文化の節では前漢・後漢の全体的な流れを記述し、後漢の項目では明確に後漢に入って流れが変化した事柄を記述する。 漢という固有名詞は元々は長江の支流である漢水に由来する名称であり、本来は劉邦がその根拠地とした漢中という一地方をさす言葉に過ぎなかったが、劉邦が天下統一し支配が約400年に及んだことから、中国全土・中国人・中国文化そのものを指す言葉になった(例:「漢字」)。 文中の単位については以下の通り。距離・1里=30歩=1800尺=415m 面積・1畝=1/100頃=4.65a 重さ・1/120石=1斤=16両=384銖.

新しい!!: 考証学と前漢 · 続きを見る »

創文社

創文社(そうぶんしゃ)は、日本の学術出版社。哲学、宗教、歴史、東洋学などの人文科学関係の専門書のほかに、法律学、法制史、政治学、経済史など社会科学系も多数刊行している。 弘文堂の内紛により、当時社員だった久保井理津男が、独立退社し1951年(昭和26年)11月3日に創業した。 著名な刊行書目に、哲学・キリスト教思想関連ではトマス・アクイナス『神学大全』、訳者の山田晶、稲垣良典を主にキリスト教中世哲学研究、『ドイツ神秘主義叢書』(刊行中)、カール・ヤスパースの『哲学』3部作、『ハイデッガー全集』(全100数巻で刊行中)など多数がある。 西洋史学・社会学の訳書ではアンリ・ピレンヌの『中世都市論集』、マルク・ブロック、ベネデット・クローチェ、マックス・ウェーバー等が〈歴史学叢書〉他で出版し、東洋学・中国文学研究は、主に〈東洋学叢書〉や〈中国学芸叢書〉で出されている。 月刊PR誌『創文』を1962年8月より発刊していたが、2010年10月号で「小誌の持つ使命・役割は果しえたもの」とみなし、12月号にて終刊する事が告知された。2011年より季刊として再発足した。 2016年7月、国立大学の研究費削減などにより売り上げ減少が続き回復が見込めないことから、四年後の2020年をめどに会社を解散するという内容の文書を関係者に配布、創文社解散を事前告知した。『創文』は23号(2016年秋号)で終刊した。2017年3月、「会社解散のお知らせ」が公式サイトにも掲載された。.

新しい!!: 考証学と創文社 · 続きを見る »

国書刊行会

株式会社国書刊行会(こくしょかんこうかい、Kokushokankokai Inc.)は、東京都板橋区に本社を置く日本の出版社。1971年設立。.

新しい!!: 考証学と国書刊行会 · 続きを見る »

王引之

王 引之(おう・いんし、1766年 - 1834年)は清代中国の学者。王念孫の子。字は伯申。諡は文簡。.

新しい!!: 考証学と王引之 · 続きを見る »

王念孫

王 念孫(おう ねんそん、1744年 - 1832年)は清代中国の学者。字は懐祖。石臞先生と称せられる。吏部尚書王安国の子であり、王引之の父でもある。.

新しい!!: 考証学と王念孫 · 続きを見る »

王国維

王国維(おう こくい)は清末民初の学者。研究領域は文学・美学・史学・哲学・考古学に及び、「新学術」の開拓者とされる。亀甲獣骨文字の研究では羅振玉・董作賓・郭沫若とともに「甲骨四堂」と称される。字は静安または伯隅、号は観堂。.

新しい!!: 考証学と王国維 · 続きを見る »

研文出版

文出版 (けんぶんしゅっぱん)は日本の出版社で、中国関連の専門書店兼古書店の『山本書店』の出版部門である。(評論家・山本七平が店主だった山本書店とは同名だが無関係) 主に古典中国文学や東洋学研究を刊行しているが、日本漢文学(「日本漢詩人選集」など)・日本史や、台湾関連も多く出している。 著者には東洋学者、中国文学者が多い。主な出版書籍の「研文選書」が、2008年に100冊を越えた。同じ性格の出版社に汲古書院がある。.

新しい!!: 考証学と研文出版 · 続きを見る »

章学誠

学誠(しょう がくせい, 1738年(乾隆3年) - 1801年(嘉慶6年))は、中国・清代の史学者である。.

新しい!!: 考証学と章学誠 · 続きを見る »

章炳麟

炳麟(しょう へいりん、1869年1月12日 - 1936年6月14日)は、清末民初にかけて活躍した学者・革命家。本名は学乗。字は枚叔(ばいしゅく)。号の太炎でも知られる。.

新しい!!: 考証学と章炳麟 · 続きを見る »

経学

経学(けいがく)は、旧中国(王朝時代の中国)において、儒教の聖典である経書の権威を是認し、その前提の下に経書に現れた聖王ないし聖人の発言趣旨を解読しようとする学問。経書の注釈、ないしそれに類する総合的論究を指す場合が一般的であるが、より広く経書の成立や学説の継承などについて研究する場合、さらに拡大しては古典世界の解明も含まれる場合がある。現在では、経学的権威を認めず、形態的に旧来の経学研究に類似する研究を行う場合も、経学の名で呼ばれる場合がある。 経学の歴史は3分される。第1は漢代を代表とするものであり、第2は宋代を代表とするものであり、第3は清朝を代表とするものである。ただ、第3の清朝経学は漢代経学と同一であるとする立場があり、これに従うと経学の歴史は漢代と宋代との2区分となる。概括すると、漢代経学は経書の字句解説を主とする訓詁学(後、漢代の訓詁に注釈を施す義疏学が発展し、それを総じて訓詁義疏学と呼ぶ場合もある)とされ、宋代経学は経典の趣旨(義理)を分析する義理学であるとされる。.

新しい!!: 考証学と経学 · 続きを見る »

経書

経書(けいしょ)は、儒教でとくに重視される文献の総称。経典(儒家経典)ともいう。 もともとは聖人の著作のみを指すが、後世には意味が拡大され、賢人の著作や言行録、一部の注釈類も経書として扱われるようになった。経書は中国の伝統的な図書分類法である四部分類において大分類の1番目に挙げられている。具体的には戦国以来の六経(楽経は早くに亡び、五経となった)、五経・四書(四書五経を参照)・十三経を指す。また経書の注釈を主とする研究を、経学と呼ぶ。 「経」には織物の「たていと」の意味があり、織布を織るとき、経を固定し、それを基幹として織り上げていくことから、古今を貫通して不動の基幹となる古典をも表すようになったという説が生まれた(『説文解字』に記載)。これにより漢代には、経に対応する緯(よこいと)の「緯書」という文献も作られた。.

新しい!!: 考証学と経書 · 続きを見る »

銭大キン

銭 大昕(せん たいきん、1728年‐1804年)は、中国の清代中期の考証学者。字は暁徴あるいは辛眉、号は竹汀である。.

新しい!!: 考証学と銭大キン · 続きを見る »

音韻学

音韻学(おんいんがく)とは歴史的な中国語および漢字音の音韻変化を研究する学問分野。近代的な学問区分では歴史言語学の一部といえる。.

新しい!!: 考証学と音韻学 · 続きを見る »

顧炎武

顧 炎武(こ えんぶ、ピン音:Gù Yánwŭ、万暦41年5月28日(1613年7月15日) - 康熙21年1月9日(1682年2月15日))は中国明末、清の歴史で初めての儒学者。明の滅亡に際して反清運動に参加した。経学や歴史学の研究の傍ら経世致用の実学を説き、考証学正統派の始祖とされる。.

新しい!!: 考証学と顧炎武 · 続きを見る »

黄宗羲

宗羲 黄 宗羲(こう そうぎ ホァン・ツォンシー:Huáng Zōngxī、万暦38年8月8日(1610年9月24日) - 康熙34年7月3日(1695年8月12日)は中国明末、清初の儒学者。明の滅亡に際して反清運動に参加するが後に故郷に隠棲して学術に没頭、陽明学右派の立場から実証的な思想を説き、考証学の祖と称された。.

新しい!!: 考証学と黄宗羲 · 続きを見る »

近藤光男 (中国文学者)

近藤 光男(こんどう みつお、1921年(大正10年) - )は、日本の漢文学者、お茶の水女子大学名誉教授。 京都府京都市生まれ。東京帝国大学文学部支那哲学支那文学科卒業。北海道教育大学講師、北海道大学助教授、教授、1972年お茶の水女子大学教授。1987年定年退官、名誉教授。1997年春、勲三等旭日中綬章受勲。.

新しい!!: 考証学と近藤光男 (中国文学者) · 続きを見る »

閻若キョ

閻 若璩(えん じゃくきょ、1636年11月1日(崇禎9年10月14日) - 1704年7月9日(康熙43年6月8日))は、中国清代初期の考証学者。字は百詩、号は潜邱。諱の若璩と字の百詩は、三国時代の魏の応璩が百一詩を作ったことにちなむ。.

新しい!!: 考証学と閻若キョ · 続きを見る »

邵晋涵

邵 晋涵(しょう しんかん、1743年‐1796年)清朝中国の官吏・学者。清朝考証学を代表する一人。.

新しい!!: 考証学と邵晋涵 · 続きを見る »

金石学

金石学(きんせきがく)は、碑文研究の一種で、中国古代の金属器・石刻の上に刻まれた銘文(金文・石刻文)や画像を研究する学問のことをいう。 その研究対象は、先秦の鐘・鼎・彝器、秦の始皇帝が中国各地に建てた石刻、漢代の画像石、以降の時代の墓碑・墓誌銘、神道碑・記事碑、石経、銅鏡や古銭などである。 中国における金石学の創始者は、北宋の欧陽脩である。彼は、金石や石刻の拓本を蒐集して研究し、『集古録跋尾』10巻を撰した。その後、宋代の劉敞が、古銅器の研究に、器形・文字・歴史の三学があることを提唱した。また、徽宗皇帝は、『宣和博古図』を作らせ、「器形」の研究に資した。現在使用される古銅器の名称の多くは、この書に由来する。さらに、南宋の薛尚功が『歴代鐘鼎彝器款識法帖』20巻を著し、「文字」の解読を推し進めた。 その後、元明時期には、盛んではなかったが、清朝の考証学が発達すると、金石学も再び盛んになった。考証学者の祖である顧炎武に『金石文字記』6巻、朱彝尊に『金石文字跋尾』6巻がある。 金文に関しては、銭坫に『十六長楽堂古器款識考』4巻がある。本書は「文字」に優れ、金文解読において新境地を開いた。また、程瑶田は、『周礼』を中心とした古典の実物と文献との比較に優れていた。清末に出た呉大澂は、『字説』1巻、『説文古籀補』14巻ほかを著した、金文の天才的な解読者である。従来の伝統的な誤謬を多く訂正している。 石刻では、銭大昕の『潜研堂金石跋尾』20巻、武億の『授堂金石文字跋』があり、畢沅の『関中金石記』『中州金石記』や、阮元の『両浙金石志』が著され、地方別の石刻の集録が盛行した。その一方で、時代別に収集する傾向も現れ、王昶の『金石萃編』160巻が、集大成した。その補編としての『金石続編』21巻、陸増祥の『八瓊室金石補正』がある。 中華民国時期では、王国維が師である羅振玉の収集景印した資料を利用して、器形学・金文学(書体論)に新知見を加え、金文解釈一辺倒の清朝の金石学から脱却した。また、歴史学上においても、功績を残した。郭沫若や容庚、徐仲舒、呉其昌、陳夢家といった人々が、王国維の学を継承発展させた。 中国以外では、カールグレンや西川寧、浜田耕作、梅原末治、白川静、東野治之らに、金石学に関する業績が見られる。.

新しい!!: 考証学と金石学 · 続きを見る »

雍正帝

雍正帝(ようせいてい)は、清の第5代皇帝。諱は胤禛(いんしん(禛の字は示眞))、廟号は世宗、謚号は憲皇帝(temgetulehe hūwangdi)。在世時の元号を取って雍正帝と呼ばれる。.

新しい!!: 考証学と雍正帝 · 続きを見る »

暦(こよみ、れき)とは、時間の流れを年・月・週・日といった単位に当てはめて数えるように体系付けたもの。また、その構成の方法論(暦法)や、それを記載した暦書・暦表(日本のいわゆる「カレンダー」)を指す。さらに、そこで配当された各日ごとに、月齢、天体の出没(日の出・日の入り・月の出・月の入り)の時刻、潮汐(干満)の時刻などの予測値を記したり、曜日、行事、吉凶(暦注)を記したものをも含める。 細分すると、.

新しい!!: 考証学と暦 · 続きを見る »

恵棟

恵 棟(けい・とう、康熙36年10月5日(1697年11月18日) - 乾隆23年5月22日(1758年6月27日))は中国・清代中期の儒学者。字は定宇、松崖と号し小紅豆先生と称される。戴震に始まる皖派とともに、呉派の創始者として清朝漢学を大成する。.

新しい!!: 考証学と恵棟 · 続きを見る »

東洋文庫 (平凡社)

東洋文庫(とうようぶんこ; The Eastern Library)、別称で平凡社東洋文庫(へいぼんしゃとうようぶんこ)は、平凡社が刊行する叢書シリーズ。1963年に創刊。2013年秋の創刊50周年を機にファンクラブ「東洋文庫読者倶楽部」を発足している。.

新しい!!: 考証学と東洋文庫 (平凡社) · 続きを見る »

梁啓超

梁 啓超(りょう けいちょう)は清末民初の政治家、ジャーナリスト、歴史学者。字は卓如、号は任公、飲冰室主人など。さらに中国之新民他きわめて多数のペンネームをもつ。 建築家・建築史家の梁思成は長男、考古学者の梁思永は次男にあたる。.

新しい!!: 考証学と梁啓超 · 続きを見る »

歴史

Historia (Allégorie de l'Histoire). ニコラオス・ギジス(Nikolaos Gysis) (1892年) The Historian E. アービング・クーゼ(1902年) 歴史(れきし、羅: historia)は、何かしらの事物が時間的に変遷したありさま、あるいはそれに関する文書や記録のことをいう。主に国家や文明など人間の社会を対象とする。記述されたことを念頭に置いている。ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの科学分類に拠れば、「自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つもの」と定義している。また、現在に至る歴史を「来歴」と言う。.

新しい!!: 考証学と歴史 · 続きを見る »

歴史学

歴史学(れきしがく)とは、過去の史料を評価・検証する過程を通して歴史の事実、及びそれらの関連を追究する学問である。.

新しい!!: 考証学と歴史学 · 続きを見る »

段玉裁

段 玉裁(だんぎょくさい、Duàn Yùcái;雍正13年(1735年) - 嘉慶20年9月8日(1815年10月10日))は、中国・清朝中期の考証学者。字は若膺(じゃくよう)、号は懋(茂)堂(ぼうどう)。江蘇省金壇県の人。『説文解字』の解釈に金字塔を打ち立てた人物として広く知られる。詩人、公羊学者として有名な龔自珍は外孫に当たる。.

新しい!!: 考証学と段玉裁 · 続きを見る »

江永

江 永(こう えい、1681年 - 1762年)は清朝中国の学者。字は慎修。.

新しい!!: 考証学と江永 · 続きを見る »

清(しん)は、清朝、大清、清国、大清帝国、清王朝ともいい、1616年に満洲において建国され、1644年から1912年まで中国とモンゴルを支配した最後の統一王朝である。首都は盛京(瀋陽)、後に北京に置かれた。満洲族の愛新覚羅氏(アイシンギョロ氏)が建てた征服王朝で、満洲語で(ラテン文字転写:daicing gurun、カタカナ転写:ダイチン・グルン、漢語訳:大清国)といい、中国語では大清(、カタカナ転写:ダァチン)と号した。.

新しい!!: 考証学と清 · 続きを見る »

漢学

漢学(かんがく)とは、特に江戸時代の日本において、中国伝来の学問の総称。 なお、現代の中国語では、「漢学」は、「中国学(シノロジ―)」を意味する。 洋学(蘭学)・国学に対して、漢籍を通して古典的な思想文物を学び、漢詩文等の作成ができるよう学習する学問の総称。なお、清朝の学問傾向を引き継いで、宋明理学に対する伝統的(この意味で王朝名としての「漢」を用いる)な経学及びの考証学を、清朝における用語にあわせ漢学と呼ぶこともあるが希である。.

新しい!!: 考証学と漢学 · 続きを見る »

濱口富士雄

濱口 富士雄(はまぐち ふじお、1949年4月14日 - )は日本の漢文学者、群馬県立女子大学学長。漢和辞典『全訳 漢辞海』(三省堂)の編者の一員でもある。.

新しい!!: 考証学と濱口富士雄 · 続きを見る »

戴震

戴 震(たい しん、雍正元年12月24日(1724年1月19日) - 乾隆42年5月27日(1777年7月1日))は、中国清代の学者。清代考証学の代表者。.

新しい!!: 考証学と戴震 · 続きを見る »

明(みん、1368年 - 1644年)は、中国の歴代王朝の一つである。明朝あるいは大明とも号した。 朱元璋が元を北へ逐って建国し、滅亡の後には清が明の再建を目指す南明政権を制圧して中国を支配した。.

新しい!!: 考証学と明 · 続きを見る »

明治書院

明治書院(めいじしょいん)は、東京都新宿区にある日本の出版社。.

新しい!!: 考証学と明治書院 · 続きを見る »

春秋公羊伝

『春秋公羊伝』(しゅんじゅうくようでん、旧字:春秋公羊傳、)は『春秋』の注釈書であり、『春秋左氏伝』・『春秋穀梁伝』と並んで、春秋三伝の一つとされる。.

新しい!!: 考証学と春秋公羊伝 · 続きを見る »

文字

文字(もじ)とは、言葉・言語を伝達し記録するために線や点を使って形作られた記号のこと。文字の起源は、多くの場合ものごとを簡略化して描いた絵文字(ピクトグラム)であり、それが転用されたり変形、簡略化されたりして文字となったと見られる。.

新しい!!: 考証学と文字 · 続きを見る »

文献学

文献学(ぶんけんがく、philology、Philologie)は、過去の文章、言語を扱う学問である。.

新しい!!: 考証学と文献学 · 続きを見る »

書誌学

書誌学(しょしがく、ドイツ語: Bibliografie、英語:bibliography)とは、書籍を対象とし、その形態・材料・用途・内容・成立の変遷等の事柄を科学的・実証的に研究する学問のことである。狭義では、個別の書籍を正確に記述した書誌に関する学問を指す。.

新しい!!: 考証学と書誌学 · 続きを見る »

1736年

記載なし。

新しい!!: 考証学と1736年 · 続きを見る »

1820年

記載なし。

新しい!!: 考証学と1820年 · 続きを見る »

1923年

記載なし。

新しい!!: 考証学と1923年 · 続きを見る »

1974年

記載なし。

新しい!!: 考証学と1974年 · 続きを見る »

1987年

この項目では、国際的な視点に基づいた1987年について記載する。.

新しい!!: 考証学と1987年 · 続きを見る »

1996年

この項目では、国際的な視点に基づいた1996年について記載する。.

新しい!!: 考証学と1996年 · 続きを見る »

2007年

この項目では、国際的な視点に基づいた2007年について記載する。.

新しい!!: 考証学と2007年 · 続きを見る »

ここにリダイレクトされます:

乾嘉の学清朝考証学

出ていきます入ってきます
ヘイ!私たちは今、Facebook上です! »