目次
85 関係: 古代ローマ、双頭の鷲、大陸軍 (フランス)、小中華思想、帝権移譲論、市民革命、復活祭、ナポレオン・ボナパルト、マメーリの賛歌、ノウァ・ローマ、マケドニア、チュニジア、ハプスブルク家、ハプスブルク帝国、メフメト2世、メガリ・イデア、モスクワ、モスクワ大公国、ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴス、ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)、レオ3世 (ローマ教皇)、レジオンドヌール勲章、ロシア帝国、ロシア・ツァーリ国、ヴァシーリー3世、ヴェリコ・タルノヴォ、トラキア、プロイセン王国、テッサリア、フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)、フランク王国、フランス皇帝、フランス革命、フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)、フェルナンド2世 (アラゴン王)、ドイツ帝国、ベニート・ムッソリーニ、アナトリア半島、アラゴン王国、アンドレアス・パレオロゴス、インターネットアーカイブ、イヴァン3世、イオニア海、イオアニス・コレティス、イタリア、イタリア王国、イタリア統一運動、イタリア植民地帝国、イサベル1世 (カスティーリャ女王)、エウローパ、... インデックスを展開 (35 もっと) »
古代ローマ
古代ローマ(こだいローマ、Roma antiqua)は、イタリア半島中部に位置した多部族からなる国家の総称である。都市国家から始まり、領土を拡大して地中海世界の全域を支配する世界帝国となった。
見る 第三のローマと古代ローマ
双頭の鷲
セルジューク朝の紋章(11–12世紀) 1370年代に描かれた、教会会議を主宰する東ローマ皇帝ヨハネス6世カンタクゼノス。彼の足元に金の双頭の鷲が描かれている。 ボルゼシュティの主の御母生神女就寝教会ro icon) 双頭の鷲(そうとうのわし、Δικέφαλος αετός、Doppeladler、Double-headed eagle)とは、鷲の紋章の一種で、頭が2つある鷲の紋章。 主に東ローマ帝国や神聖ローマ帝国と、関連したヨーロッパの国家や貴族などに使用された。現在でもセルビア、アルバニア、ロシアなどの国章や、ギリシャ正教会などで使用されている。
見る 第三のローマと双頭の鷲
大陸軍 (フランス)
古参近衛隊 大陸軍(だいりくぐん、Grande Armée、グランダルメまたはグランド・アルメ、The Great Army)あるいは大陸連合は、1805年にナポレオン1世が命名したフランス軍を中核とする軍隊の名称である。最初に歴史的な記録に現れるのは、イギリス侵攻のためにイギリス海峡に面する海岸に軍隊を集結させた時であり、これを東方のオーストリアおよびロシアに対する作戦行動を始めるように配置転換された。この後、1806年から1807年、1812年、および1813年から1814年の各作戦においてもこの名称が使われており、19世紀初頭にナポレオンが作戦を実行するために自らの勢力圏の国々から召集した多国籍軍の総称である。
小中華思想
小中華思想(しょうちゅうかしそう)とは朝鮮、ベトナム、日本などの中華文明圏およびそれに影響を受けた国々の中にあって、異なる政治体制をしつつ朝貢国である事を維持した国家の間で広まった思想。自らを「中国王朝(大中華)と並び立つもしくは次する文明国で、中華の一役をなすもの(小中華)」と見なそうとする文化的優越主義思想である。この「文化」とは中国文化のことであり、中華文明をいう。
見る 第三のローマと小中華思想
帝権移譲論
帝権移譲論もしくはトランスラティオ・インペリイ(ラテン語: Translatio imperii)は、中世ヨーロッパ以降の史学史における、歴史の流れを「皇帝」もしくは「帝国」の変遷を通して国際覇権の推移を捉えようとする概念。似たものに「学問移転論」(translatio studii)があるが、どちらもヘブライ語聖書のダニエル書第二章に端を発するものである。
見る 第三のローマと帝権移譲論
市民革命
市民革命(しみんかくめい)またはブルジョア革命、資本主義革命、民主主義革命とは、封建的・絶対主義的国家体制を解体して、近代社会(市民社会・資本主義社会)をめざす革命を指す歴史用語である。一般的に、啓蒙思想に基づく人権(政治参加権あるいは経済的自由権)を主張した「市民(ブルジョア・資本家・商工業者)」が主体となって推し進めた革命と定義される。代表例はイギリス革命(清教徒革命および名誉革命)、アメリカ独立革命、フランス革命など。
見る 第三のローマと市民革命
復活祭
復活祭(ふっかつさい、Πάσχα、Pascha、Pâques、Easter、Ostern、Пасха)は、磔刑にされて死んだイエス・キリストが三日目に復活したことを記念・記憶する、キリスト教においては最も重要とされる祭正教会の出典:()カトリック教会の出典:(カトリック中央協議会)聖公会の出典:(日本聖公会 東京教区 主教 植田仁太郎)プロテスタントの出典:『キリスト教大事典』910頁、教文館、昭和48年9月30日 改訂新版第二版(正教会:教会用語辞典)(カトリック百科事典)。
見る 第三のローマと復活祭
ナポレオン・ボナパルト
ダヴィッド『サン=ベルナール峠を越えるボナパルト』 ナポレオン一世皇家の紋章 ナポレオン・ボナパルト(Napoléon Bonaparte、別名(1794年以前): ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)となった。1世から7世まで存在するが、単にナポレオンと言えばナポレオン1世を指す。 フランス革命後の混乱を収拾し、軍事独裁政権を確立した。大陸軍(Grande Armée グランダルメ)と名づけた軍隊を築き上げ、フランス革命への干渉を図る欧州諸国とのナポレオン戦争を戦い、幾多の勝利と婚姻政策によって、イギリス、ロシア帝国、オスマン帝国の領土を除いたヨーロッパ大陸の大半を勢力下に置いた。対仏大同盟との戦いに敗北し、百日天下による一時的復権を経て、51歳のとき、南大西洋の英領セントヘレナにて没した。
マメーリの賛歌
マメーリの賛歌(マメーリのさんか、)、あるいはイタリア人達の唱歌(イタリアじんたちのしょうか、)は、イタリア共和国(1946年~現在)の国歌である。イタリアの同胞(イタリアのどうほう)もしくはイタリアの兄弟 (イタリアのきょうだい、) とも称される。
ノウァ・ローマ
ノウァ・ローマ (コイネー:Νέα Ῥώμη(Nea Romē) ネア・ローメー、Nova Roma) は、ローマ皇帝コンスタンティヌス1世がボスポラス海峡のヨーロッパ大陸側に新たな帝国の首都として建設した都市の通称。 もともとビュザンティオン、あるいはビザンティウムと呼ばれる都市があった地であり、後にはコンスタンティノープルと呼ばれるようになり、20世紀にイスタンブールと改称して現在に至る。「ノウァ・ローマ」「ネア・ローメー」という名は公式に使われたものではないが、街を賛美する文脈で数多くの古代ローマや中世東ローマ帝国の文献に登場している。
マケドニア
北マケドニア(赤)、ギリシャ(白)、ブルガリア(緑)、アルバニア(橙)、セルビア(桃)。 年代ごとのマケドニアの領域 マケドニアの地形 マケドニア(Μακεδονία、Македонија、Македония、Македонија、Makedonija、Maqedonia、Macedonia)とは、東ヨーロッパのバルカン半島中央部にあたる歴史的・地理的な地域である。 67,000km2ほどの広さに約465万人が住み、スコピエ(北マケドニアの首都)やテッサロニキ(ギリシャ領内マケドニアの中心都市)が人口や経済における2大都市である。現在、大半が。
見る 第三のローマとマケドニア
チュニジア
チュニジア共和国(チュニジアきょうわこく、الجمهورية التونسية)、通称チュニジアは、北アフリカのマグリブに位置する共和制国家。西にアルジェリア、南東にリビアと国境を接し、北と東は地中海に面する。地中海対岸の北東・東にはイタリア領土のパンテッレリーア島やランペドゥーザ島、シチリア島がある。地中海の島国マルタとも近い。首都はチュニス 日本国外務省(2022年7月28日閲覧)。
見る 第三のローマとチュニジア
ハプスブルク家
ハプスブルク家の旗 ハプスブルク家(ハプスブルクけ、、Casa de Habsburgo)は、オーストリア家( Haus Österreich、Casa de Austria)とも呼ばれる、ヨーロッパの歴史上最も著名で重要な王朝の一つである。 ハプスブルク家の名前は、1020年代にクレトガウのラートボトによって現在のスイスに建てられた要塞、ハプスブルク城に由来する。彼の孫であるオットー2世は、この要塞の名前を初めて自分のものとし、その称号に「ハプスブルク伯爵」を加えた。1273年、ラートボト伯爵の7代目の子孫であるハプスブルク家のルドルフがローマ王に選出された。バーベンベルク家の消滅と、1278年のマルヒフェルトの戦いでボヘミア王オタカル2世に勝利したことを機に、息子たちをオーストリア公家に任命して一族の権力基盤をウィーンに移し、ハプスブルク家は「オーストリア家」の名を得て、1918年まで統治することになった。
ハプスブルク帝国
ハプスブルク帝国(ハプスブルクていこく)大津留厚「ハプスブルク帝国」世界民族問題事典、平凡社、2002年は、オーストリア系ハプスブルク家(のちハプスブルク=ロートリンゲン家)の君主により統治された、神聖ローマ帝国内外の領邦国家などの国家群による同君連合である。 成立年はハプスブルク家がオーストリア大公国に加えてハンガリー王国(王領ハンガリー)、ボヘミア王国(ボヘミア王冠領)を獲得した1526年とされる。1804年までは公式の名称を持っていなかったが、同時代の人々ですらこれを事実上の単一国家として認識され、オーストリアと呼称していた。 ただし、これより古い時代の、神聖ローマ皇帝とスペイン王を兼ねたカール5世を君主とする国家群なども、広く「ハプスブルク家の帝国」といった意味で「ハプスブルク帝国」と呼ばれることがある。
メフメト2世
メフメト2世(トルコ語: II. Mehmet、1432年3月30日 - 1481年5月3日)は、オスマン帝国の第7代スルタン(皇帝、在位: 1444年 - 1446年、1451年2月3日 - 1481年5月3日)。 コンスタンティノープル(イスタンブール)を攻略して東ローマ帝国を滅ぼし、オスマン帝国の版図を大幅に広げる。30年以上に渡る征服事業から、「征服者(ファーティフ Fatih)」と呼ばれた羽田「メフメット2世」『アジア歴史事典』9巻、28-29頁。
メガリ・イデア
メガリ・イデア(ギリシア語: )は、ギリシャ王国の国王オソン1世によって唱えられた、ビザンツ帝国の復興を目指した国家主義、ギリシア民族主義(民族統一主義)思想。ギリシャ化したヴラフ人でアリ・パシャの息子の侍医であったイオアニス・コレッティスが初めて用いたリチャード・クロッグ、(2004)、p55.。大ギリシャ主義ともウッドハウス、(1997)p.220.。
モスクワ
モスクワ( )は、ロシア連邦の首都。連邦市として市単独で連邦を構成する83の連邦構成主体のひとつとなっており、周囲を占めるモスクワ州の州都でもある。ただし州とは区別され「モスクワ市()」となる。 人口約1,268万人の世界都市である。漢字による当て字は莫斯科。
見る 第三のローマとモスクワ
モスクワ大公国
ヴァシーリー3世期のモスクワ大公国、1505年 - 1533年 モスクワ大公国(モスクワたいこうこく、 Московское великое княжество マスコフスカエ・ヴェリーカエ・クニャージェストヴァ)は、キエフ・ルーシの北東辺境地にあったルーシ系のウラジーミル・スズダリ公国のもとに成立した国家である。初めは小国であったが、周辺の諸公国を併合していき、1480年にはモンゴル族のジョチ・ウルスの支配を脱して、モスクワ大公国となった。モスクワ大公は主権を得て、北東ロシアの政治的統一を達成した。ロシア帝国の前身である。別名モスクワ・ルーシ(Московская Русь モスコーフスカヤ・ルーシ、モスクワ・ロシア)、モスクワ公国、モスコビア(Moskovie)である。
ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴス
ヨヴァン・ウロシュ・パレオロゴス(, 1350年頃 - 1423年2月24日)は、中世セルビア王国の王子、セルビア人のセサリア(テッサリア君主国)皇帝(在位:1371年 - 1381年)。ギリシア語名はヨアニス・ウレシス・ドゥカス・パレオロゴス(Ιωάννης Ούρεσις Δούκας Παλαιολόγος)。後にメテオラ修道院の修道士となった。修道士ヨアサフ(, Ιωάσαφ)としても知られる。 セルビア王ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの異母弟シメオン・ウロシュ・パレオロゴスの長男でドゥシャンの甥にあたる。一部の文献、サイト記事などに見られる「ドゥシャンの息子」という記述は誤りである。
ヨーゼフ2世 (神聖ローマ皇帝)
ヨーゼフ2世(Joseph II, 1741年3月13日 - 1790年2月20日)は、神聖ローマ皇帝・ハンガリー国王・ボヘミア国王(在位:1765年 - 1790年)。実質的な女帝マリア・テレジアとその夫で正式な皇帝フランツ1世の長男。マリー・アントワネットの兄にあたる。 ハプスブルク家の男系は母マリア・テレジアまでであり、ヨーゼフ2世らの代からハプスブルク=ロートリンゲン家となる。全名はヨーゼフ・ベネディクト・アウグスト・ヨハン・アントン・ミヒャエル・アダム・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン(Joseph Benedikt August Johann Anton Michael Adam von Habsburg-Lothringen)。
レオ3世 (ローマ教皇)
レオ3世(レオ3せい、Leo Ⅲ、750年? - 816年6月12日)は、ローマ教皇(在位:795年12月26日 - 816年6月12日)。
レジオンドヌール勲章
レジオンドヌール勲章(レジオンドヌールくんしょう、Ordre national de la Légion d'honneur〈オルドル・ナショナル・ド・ラ・レジオン・ドヌール〉)は、ナポレオン・ボナパルトにより1802年に制定されたフランスの栄典。レジオン・ドヌール勲章とも表記される。和訳は「名誉軍団国家勲章」など。 フランスはナポレオン時代以後に政体が幾度か変化し、そのつど章飾の意匠が変更されるなどしたものの、レジオンドヌール勲章は運用が続けられ、第五共和政下の現在でも同国の最高位勲章に位置付けられている。
ロシア帝国
ロシア帝国(ロシアていこく、Россійская Имперія、ラスィーイスカヤ・インピェーリヤ)は、1721年11月から1917年9月まで存在した帝国である。現在のロシア連邦を始め、フィンランド、リヴォニア、リトアニア、ベラルーシ、ウクライナ、ポーランド、コーカサス、中央アジア、シベリア、外満洲などのユーラシア大陸の北部を広く支配していた。帝政ロシア(ていせいロシア)とも呼ばれる。 通常は1721年のピョートル1世即位からロシア帝国の名称を用いることが多い。統治王家のロマノフ家にちなんでロマノフ朝とも呼ばれるがこちらはミハイル・ロマノフがロシア・ツァーリ国のツァーリに即位した1613年を成立年とする。
見る 第三のローマとロシア帝国
ロシア・ツァーリ国
ロシア・ツァーリ国(ロシア・ツァーリこく、Царство Русское)は、1547年にイヴァン4世がツァーリの称号を帯びて以後、1721年にピョートル1世がロシア帝国の建国を宣言するまで用いられていたロシア国家の公称である、とする説に基づいた名称のことである。
ヴァシーリー3世
ヴァシーリー3世(Василий III Иванович、1479年3月25日 - 1533年12月4日)はモスクワ大公(在位:1505年 - 1533年)。イヴァン3世の次男、母はモレアス専制公ソマス・パレオロゴスの娘ソフィヤ。イヴァン4世の父。 1490年代、ヴァシーリーと異母兄イヴァンの遺児ドミトリーとの間で、双方の母親ゾエとエレナを中心に激しい後継者レースが展開された。イヴァン3世は1497年一旦は孫のドミトリーを共同統治者としたものの、1500年にはヴァシーリーを共同統治者および後継者に指名し、ドミトリーとその母親エレナは失脚した。この争いには正教会と「ユダヤ派」という異端との宗派対立も絡んでおり、ヴァシーリーは正教会側に担がれていた。
ヴェリコ・タルノヴォ
ヴェリコ・タルノヴォ(ブルガリア語:Велѝко Тъ̀рново / Veliko Tarnovo)はブルガリア北東部の町、およびそれを中心とした基礎自治体。ヴェリコ・タルノヴォ州の州都である。町はヤントラ川沿いに広がり、第二次ブルガリア帝国の首都として多くの観光資源で知られている。
トラキア
トラキア(Thracia、Trakya、Тракия、Θράκη)は、バルカン半島南東部の歴史的地域名。現在は3か国に分断され、西トラキアがブルガリアの南東部とギリシャ北東部の一部に、東トラキアがトルコのヨーロッパ部分となっている。
見る 第三のローマとトラキア
プロイセン王国
プロイセン王国(プロイセンおうこく、Königreich Preußen)は、ホーエンツォレルン家の君主が統治したヨーロッパの王国である。現在のドイツ北部からポーランド西部にかけてを領土とし、首都はベルリンにあった。 プロイセン王国は、18世紀から20世紀初頭にかけて栄えた王国である。その前身は1660年のオリヴァ条約でポーランド王国の封土の地位から独立したプロイセン公国、およびドイツ国民の神聖ローマ帝国の領邦であるブランデンブルク辺境伯領である。1701年1月18日、ブランデンブルク選帝侯・プロイセン公フリードリヒ3世はケーニヒスベルクにおいてプロイセン王として戴冠し、初代プロイセン王フリードリヒ1世となった。1871年のドイツ国成立によって形式的な国家になったものの、1918年11月9日に第9代プロイセン国王兼第3代ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が退位・逃亡するまでプロイセン王国は続いた。
テッサリア
テッサリア(Θεσσαλία, Thessalía)は、ギリシャ中部の地域名であり、ギリシャ共和国の広域自治体であるペリフェリエス(地方)のひとつである。 テッサリア平原の広がるこの地方は、ギリシャの穀倉地帯である。 古代ギリシア語ではテッタリア(, Thettalía)とも呼ばれたため、古典の翻訳ではこう表記されることも多い。
見る 第三のローマとテッサリア
フランツ2世 (神聖ローマ皇帝)
フランツ2世(ドイツ語:Franz II、1768年2月12日 - 1835年3月2日)は、最後の神聖ローマ皇帝(在位:1792年 - 1806年)。神聖ローマ皇帝として退位する前に初代オーストリア皇帝フランツ1世(、在位:1804年 - 1835年)を兼ねることで皇帝の称号を維持した。ハンガリー国王としてはフェレンツ1世(、在位:1792年 - 1835年)、ボヘミア国王としてはフランティシェク2世(、在位:1792年 - 1835年)である。ハプスブルク=ロートリンゲン家の当主であり、全名はフランツ・ヨーゼフ・カール・フォン・ハプスブルク=ロートリンゲン()。
フランク王国
フランク王国(フランクおうこく、Regnum Francorum, Fränkisches Reich,Royaumes francs)は、5世紀後半にゲルマン人の部族、フランク人によって建てられた王国。カール1世(カール大帝・シャルルマーニュとも)の時代(8世紀後半から9世紀前半)には、現在のフランス・ドイツ・イタリア北部・オランダ・ベルギー・ルクセンブルク・スイス・オーストリアおよびスロベニアに相当する地域を支配し、イベリア半島とイタリア半島南部、ブリテン諸島を除く西ヨーロッパのほぼ全域に勢力を及ぼした。カール1世以降のフランク王国は、しばしば「フランク帝国」「カロリング帝国」などとも呼ばれる。
フランス皇帝
フランス皇帝(フランスこうてい、Empereur des Français)、より正確にはフランス人民の皇帝は、ナポレオン・ボナパルトが1804年5月14日にフランス元老院から授けられ、同年12月2日にパリのノートルダム大聖堂にてでしたことに始まる、ボナパルト朝で用いられた称号である。後述するように、「フランスの」(de France)君主ではなく、あくまで「フランス人民の」(des Français)君主であることを強調した称号であるが、日本語訳ではフランス皇帝と縮められることも多い。
フランス革命
フランス革命(フランスかくめい、Révolution française, French Revolution )とは、フランス王国で1789年7月14日から1795年8月22日にかけて起きた市民革命。フランス革命記念日(パリ祭)はフランス共和国の建国記念日でもあり、毎年7月14日に祝われている。 フランス革命を代表とするブルジョア革命は、封建制的な残留物(身分制度や領主)を一掃し、。
フリードリヒ1世 (神聖ローマ皇帝)
1188年に制作された写本中の細密画におけるフリードリヒ1世、バチカン図書館収蔵。 フリードリヒ1世(Friedrich I., 1122年 - 1190年6月10日)は、ホーエンシュタウフェン朝第2代ローマ王(ドイツ王、在位:1152年 - 1190年)ローマ王は帝位の前提となった東フランク王位から改称された王号。現代から見れば実質ドイツ王だが、当時国家・地域・民族としてのドイツは成立途中である。またイタリアとブルグントへの宗主権を備える。、イタリア王フェデリーコ1世(戴冠:1155年4月24日)赤みを帯びたブロンドの髭を持っていたことから、赤髭王(バルバロッサ、Barbarossa)と呼ばれた(成瀬 他、p.
フェルナンド2世 (アラゴン王)
フェルナンドがカスティーリャ王となった1474年におけるイベリア半島の勢力地図 フェルナンド2世(西:Fernando II、Fernando el Católico 1452年3月10日 - 1516年1月23日)は、アラゴン王(在位:1479年 - 1516年)。カスティーリャ王としてはフェルナンド5世(在位:1474年 - 1504年)。カタルーニャ語名ではフェラン2世(Ferran II)、アラゴン語名ではフェランド2世(Ferrando II)。カトリック王(el Católico)と呼ばれ、最初の妻であるカスティーリャ女王イサベル1世と共にカトリック両王(Reyes Católicos)と呼ばれる。
ドイツ帝国
ドイツ帝国(ドイツていこく、)は、1871年1月18日から1918年11月9日までドイツ国において存続した、プロイセン国王をドイツ皇帝に戴く体制を指す歴史的名称である。帝政ドイツ(ていせいドイツ)とも呼ばれる。
見る 第三のローマとドイツ帝国
ベニート・ムッソリーニ
ベニート・アミルカレ・アンドレーア・ムッソリーニ(、1883年7月29日 - 1945年4月28日)は、イタリアの政治家、独裁者。 イタリア社会党で活躍した後に新たな政治思想ファシズムを独自に構築し、国家ファシスト党による一党独裁制を確立した。
アナトリア半島
アナトリア半島(アナトリアはんとう、Ανατολία, Anatolia / Aνατολή, Anatolē、Anadolu)は、アジア大陸最西部で西アジアの一部をなす地域である。現在はトルコ共和国のアジア部分をなす。日本語ではアナトリア半島と呼ばれる事が多いが、英語圏では「半島」をつけない、単なるアナトリア(アナトール)であり、地形ではなく人文地理的な地域を表す言葉である。小アジア(Μικρά Ασία, Mikra Asia, Asia Minor)とも言い、漢字では小亜細亜と表記される。
アラゴン王国
アラゴン王国(アラゴンおうこく、Reino d'Aragón、Regne d'Aragó、Reino de Aragón)は、中世後期のイベリア半島北東部、現在のスペインのアラゴン州に存在した王国である。
アンドレアス・パレオロゴス
アンドレアス・パレオロゴス(Ἀνδρέας Παλαιολόγος; 1453年1月17日 – 1502年6月)は、ビザンツ帝国の皇帝家パレオロゴス家の人物。モレアス専制公ソマス・パレオロゴスの長男で、最後の皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの甥にあたる。オスマン帝国の侵攻によりモレアスを追われ、1465年に父ソマスが死去してからは名目上のモレアス専制公位を継いだ。さらに1483年からは「コンスタンティノープルの皇帝」 (Imperator Constantinopolitanus)を名乗った。
インターネットアーカイブ
旧インターネットアーカイブ本部(1996年 - 2009年11月) 新インターネットアーカイブ本部(2009年11月 - ) インターネットアーカイブ(Internet Archive)は、WWW・マルチメディア資料のアーカイブ閲覧サービスとして有名なウェイバックマシン(Wayback Machine)を運営しているアメリカの団体である。本部はカリフォルニア州サンフランシスコのリッチモンド地区に置かれている。 アーカイブにはプログラムが自動で、または利用者が手動で収集したウェブページのコピー(ウェブアーカイブ)が混在しており、これは「WWWのスナップショット」と呼ばれる。そのほか、ソフトウェア・映画・本・録音データ(音楽バンドなどの許可によるライブ公演の録音も含む)などがある。アーカイブは、それらの資料を無償で提供している。
イヴァン3世
イヴァン3世ヴァシーリエヴィチ(, 1440年1月22日 - 1505年10月27日)は、モスクワ大公(在位1462年 - 1505年)。大帝、暴帝とも言われる。 ヴァシーリー2世とセルプホフ公ウラジーミルの孫娘であるボロフスクの公女マリヤ・ヤロスラヴナの長男。イヴァン大帝(Иван Великий)の異称で知られ、ルーシ北東部を「タタールのくびき」から解放し、モスクワ大公国の支配領域を東西に大きく広げて即位時から4倍増とし、強力な統一国家を建設した名君と評価される。
イオニア海
イオニア海(イオニアかい、Ionian Sea、Mar Ionio)は、地中海の海域の一つである。ギリシャ半島(バルカン半島南部)とイタリア半島南部の間に広がり、北にアドリア海と接する。ギリシャ共和国およびアルバニア南部の西、イタリア本土の南、シチリア島の東にあたる。
見る 第三のローマとイオニア海
イオアニス・コレティス
イオアニス・コレティス(イオアニス・コレッティスとも、Ιωάννης Κωλέττης, Ioan Coletti, 1773年 – 1847年)はギリシャ独立戦争とその後のギリシャ政界において活躍した政治家。ロマンス語系言語を用いる少数民族であるアルーマニア民族出身。 彼は生涯、ギリシャ民族衣装『フスタネッラ』を着用し続けた。
イタリア
イタリア共和国(イタリアきょうわこく、)、通称イタリア()は、南ヨーロッパに位置する共和制国家。首都はローマ。 北はスイスとオーストリア、西はフランス、 東はスロベニアと国境を接している。南は地中海が位置しており、アルバニア、アルジェリア、クロアチア、ギリシャ、リビア、マルタ、モンテネグロ、スペイン、チュニジアとを共有している。また、国土には独立国であるバチカンとサンマリノが存在している。
見る 第三のローマとイタリア
イタリア王国
イタリア王国(イタリアおうこく、)は、現在のイタリア共和国の前身となる王国である。イタリア統一運動の流れの中で1861年に成立し、1946年に共和制へ移行した。
イタリア統一運動
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イタリア植民地帝国
イタリア植民地帝国(イタリアしょくみんちていこく、Impero coloniale italiano / colonialismo italiano、Italian colonial empire)とは、1936年から1943年の間にイタリア帝国(Impero italiano)として知られ、イタリア王国(1946年以降はイタリア共和国)の植民地、租借地、保護国および信託統治領から構成されていた植民地帝国である。
イサベル1世 (カスティーリャ女王)
イサベル1世(Isabel I de Castilla, Isabel la Católica, 1451年4月22日 - 1504年11月26日)は、トラスタマラ朝のカスティーリャ女王(在位:1474年 - 1504年)。夫フェルナンド2世と共にカトリック両王と称される。
エウローパ
エウローパは、イタリア共和国の首都ローマの第32番クアルティエーレ区 である。エウル (EUR, Esposizione Universale Roma) とも呼ばれる。1930年代からローマ郊外に建設された都市開発地区。
見る 第三のローマとエウローパ
エカチェリーナ2世 (ロシア皇帝)
エカチェリーナ2世(エカチェリーナ2世アレクセーエヴナ、 (イカチリーナ・フタラーヤ・アレクセーエヴナ)、1729年4月21日(ロシア暦)/5月2日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦))は、ロマノフ朝第8代ロシア皇帝(女帝)。在位は1762年6月28日(ロシア暦)/7月9日(グレゴリオ暦) - 1796年11月6日(ロシア暦)/11月17日(グレゴリオ暦)。夫は第7代皇帝ピョートル3世ならびにグリゴリー・ポチョムキン(秘密結婚)、子は第9代皇帝パーヴェル1世ほか。 プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世と共に啓蒙専制君主の代表とされる。
オットー1世 (神聖ローマ皇帝)
オットー1世(Otto I. 912年11月23日 - 973年5月7日)神聖ローマ皇帝。オットー大帝(Otto I. der Große)とも呼ばれる。元は東フランク国王(在位:936年 - 973年)で初代国王ハインリヒ1世の子。さらにイタリア王にも即位した(在位:951年 - 973年)。ついには数十年間空位だった神聖ローマ皇帝にも戴冠(962年2月2日)した。オットーは聖職者を官僚として用いる神聖な帝国を創出した。なお神聖ローマ帝国という国号は1254年に初めて現れ、オットーの帝国は同時代の認識ではあくまでカール大帝のカロリング帝国の延長である。
オトラントの戦い
オトラントの戦いは、1480年から1481年にかけて南イタリア、アプリア地方の都市オトラントをめぐって戦われた、オスマン帝国とナポリ王国を始めとするヨーロッパ諸国との間の戦闘である。
オスマン帝国
オスマン帝国(オスマンていこく、)は、かつて存在したテュルク系(後のトルコ人)のオスマン家出身の君主(皇帝)を戴く多民族帝国である。英語圏ではオットマン帝国 (Ottoman Empire) と表記される。15世紀には東ローマ帝国を滅ぼしてその首都であったコンスタンティノープル(後のイスタンブール)を征服し、この都市を自らの首都とした。17世紀の最大版図は中東からアフリカ・欧州に著しく拡大した。東西はアゼルバイジャンからモロッコに至り、南北はイエメンからウクライナ、ハンガリーに至る広大な領域に及んだ。
オスティア
オスティア(Ostia)は、イタリア ラツィオ州 ローマの第10区(ムニチーピオ)にある町。リド・ディ・オスティア(Lido di Ostia)やリド・ディ・ローマ(Lido di Roma)と表記されることもある。テヴェレ川河口部のティレニア海沿いにあり、かつて古代ローマ時代に栄えた港町を起源とする。 ローマ市の分離集落(フラツィオーネ)であり、イタリア国内でヴェネツィアのメストレと同じく、その人口が多いことで有名である。夏場はローマ市民が大勢訪れるビーチとして賑わっており、人口は約85,000人である。
見る 第三のローマとオスティア
カロリング帝国
カロリング帝国(カロリングていこく、Karolingerreich、Empire carolingien、Carolingian Empire)は、中世前期の西ヨーロッパ・中央ヨーロッパの広大な範囲に存在した帝国を指す史学上の用語であり、カールの戴冠により復活した「ローマ帝国」(西ローマ帝国)である。概ねカロリング家の勢力が拡大した8世紀後半からオットー1世の戴冠までの時代として用いられる。ただし、その指し示す範囲は明確には定まっておらず、始点としてピピン3世の即位や、終点としてベレンガーリオ1世の死去(924年)などが用いられる場合もあるが、本文の基本情報では「一般的な神聖ローマ帝国の始まり」つまり、オットーの戴冠を終点とする。
カロリング朝
東ローマ帝国 カロリング朝と東ローマ帝国とウマイヤ朝 カロリング朝(カロリングちょう、Karolinger、Carolingiens)は、メロヴィング朝に次ぐフランク王国2番目の王朝。宮宰ピピン3世がメロヴィング朝を倒して開いた。名称は同家で最も著名なカール大帝(ピピン3世の子)にちなむ。なお、「カロリング」は姓ではなく「カールの」という意味である。当時のフランク人には姓はなかった。 フランク族のカロリング家は代々フランク王国のメロヴィング朝に仕え、宮宰(宰相)を輩出してきた家系であった。はじめピピン1世(大ピピン)はフランク王国の分国(アウストラシア)の宮宰であったが、ピピン2世(中ピピン)においてはフランク王国全体の宮宰を務め、ピピン3世(小ピピン)に至っては遂にメロヴィング朝を廃しカロリング朝を開いた。
カール大帝
カール大帝(Karl der Große)、またはシャルルマーニュ(Charlemagne)(742年?/747年?/748年? 4月2日 - 814年1月28日)はフランク国王(在位:768年 - 814年)。初代神聖ローマ皇帝(在位:800年 - 814年)として、ローマ教皇レオ3世より帝冠を受けた。 ドイツ及びフランスの始祖的英雄と見なされるため、神聖ローマ皇帝としてカール1世(独)・フランス国王としてシャルル1世(仏)と称される。ドイツ語読みとフランス語読みを共に避けて英語読みのチャールズ大帝(英: Charles the Great)という表記が用いられることもある。 カロリング朝を開いたピピン3世(小ピピン)の子。768年に弟のカールマンとの共同統治としてカール大帝の治世は始まり、カールマンが771年に早世したのちカールは43年間、70歳すぎで死去するまで単独の国王として長く君臨した。カールは全方向に出兵して領土を広げ、フランク王国の最盛期を現出させた。
見る 第三のローマとカール大帝
カスティーリャ王国
カスティーリャ王国(カスティーリャおうこく、Reino de Castilla)は、中世ヨーロッパ、イベリア半島中央部にあった王国である。キリスト教国によるレコンキスタ(国土回復運動)において主導的役割を果たし、後のスペイン王国の中核となった。 Castillaの日本語表記は、カスティーリャ、カスティーリヤ、カスティリャ、カスティーリァ、カスティーリア、カスティリア、カスティーヤ、カスチラ、カストリヤ、カストリア、カステリヤ、カステリア、カスティージャと様々に音写されている。また菓子のカステラは、王国名のポルトガル語発音である「カステーラ」(Castela)からとされている。
ガイウス・ユリウス・カエサル
ガイウス・ユリウス・カエサル(Gaius Iulius Caesar、Juliusとも、紀元前100年 - 紀元前44年3月15日)は、共和政ローマ末期の政務官であり、文筆家。「賽は投げられた」(alea jacta est)、「来た、見た、勝った」(veni, vidi, vici) 、「ブルータス、お前もか」(et tu, Brute?) などの特徴的な引用句でも知られる。また彼が布告し彼の名が冠された暦(ユリウス暦)は、紀元前45年から1582年まで1600年間以上に渡り欧州のほぼ全域で使用され続けた。 古代ローマで最大の野心家と言われ、マルクス・リキニウス・クラッスス及びグナエウス・ポンペイウスとの第一回三頭政治と内戦を経て、(ディクタトル・ペルペトゥオ)となったFasti Amiternini (Amiternum/ Poggio San Vittorino):...esar dict(ator) erpetuum/ m civil(e) Mutine(n)se / cum M(arco) ntonio...-->。「カエサル」の名は、帝政初期にローマ皇帝が帯びる称号の一つ、帝政後期には副帝の称号となった(テトラルキア参照)。ドイツ語のKaiser(カイザー)やロシア語のцарь(ツァーリ)など、皇帝を表す言葉の語源でもある。
ケンブリッジ大学出版局
ケンブリッジ大学出版局(ケンブリッジだいがくしゅっぱんきょく、Cambridge University Press)は、ケンブリッジ大学の出版事業を手がける出版社である。1534年、ヘンリー8世により特許状が発せられたのを起こりとする世界最古の出版社、かつ世界第2の規模の大学出版局であり、聖書や学術誌の出版も手掛けている。 「出版活動を通して、大学の理念である全世界における学問、知識、研究の促進を推し進めること」を使命として掲げている。これは、ケンブリッジ大学規約中の “Statute J” に規定されている。そして、「公益のため継続的に出版活動を行い、ケンブリッジという名前の評価を高めること」を目的としている。
ゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)
ゲンナディオス2世スホラリオス(Γεννάδιος Β΄ Σχολάριος, 1400年頃 - 1468年頃?)は、コンスタンティノープルの陥落後の正教会のコンスタンディヌーポリ総主教(コンスタンティノープル総主教)。 コンスタンティノープルの支配者が東ローマ帝国からオスマン帝国に移行した時代における最初のコンスタンディヌーポリ総主教である。また、優れた哲学者・神学者でもあった。 俗名はゲオルギオス・スホラリオス(Γεώργιος Σχολάριος)。姓である"Σχολάριος"は古典ギリシャ語再建音からはスコラリオスとも転写できる。修道名ゲンナディオスと俗名を組み合わせてゲンナディオス・ゲオルギオス・スコラリオスと表記される事もあるが、このように修道名と俗名を組み合わせた表記は他言語および正教会では一般的ではない。
見る 第三のローマとゲンナディオス2世 (コンスタンディヌーポリ総主教)
コンスタンチン・パヴロヴィチ
コンスタンチン・パヴロヴィチ(, 1779年4月27日 - 1831年6月27日)は、ロシアの皇族。ロシア大公、ツェサレーヴィチ(1799年 - 1831年)。パーヴェル1世の次男。1825年に帝位継承権を放棄し、これが契機となってデカブリストの蜂起が起きたことは非常に有名である。皇帝に即位することはなかったが、コンスタンチン1世と呼ばれることもある。
コンスタンティノープル
コンスタンティノープル(Constantinople、Constantinopolis、Κωνσταντινούπολις / 、現代Κωνσταντινούπολη / )は、東ローマ帝国の首都であった都市で、現在のトルコの都市イスタンブールの前身である。 強固な城壁の守りで知られ、330年の建設以来、1453年の陥落まで難攻不落を誇り、東西交易路の要衝として繁栄した。正教会の中心地ともなり、現在もコンスタンティノープル総主教庁が置かれている。
コンスタンティノープルの陥落
コンスタンティノープルの陥落(コンスタンティノープルのかんらく、ギリシャ語: Άλωση της Κωνσταντινούπολης、トルコ語: Konstantinopolis'in Düşüşü veya İstanbul'un Fehti)とは、1453年5月29日、オスマン帝国のメフメト2世によって東ローマ帝国の首都コンスタンティノープル(現在のイスタンブール)が陥落した事件である。この事件により東ローマ帝国は滅亡した。また、「ローマ帝国の滅亡」は476年の西ローマ皇帝の廃止とするのが一般的ではあるが、この東ローマ帝国の滅亡がローマ帝国の滅亡であるとする識者も多い。
コンスタンティノス11世パレオロゴス
コンスタンティノス11世パレオロゴス・ドラガセス(コンスタンティノス11せいパレオロゴス・ドラガセス、、1405年2月9日 - 1453年5月29日)は、東ローマ帝国パレオロゴス王朝の皇帝(在位:1449年 - 1453年)。 東ローマ帝国最後、すなわちローマ帝国最後の皇帝である。 中世ギリシア語読みでは「コンスタンディノス11世ドラガシス・パレオロゴス」。後述する数え方の違いから「12世」や「13世」と呼ぶこともある。
シメオン1世
シメオン1世の治世中のブルガリア最大版図。ベージュがボリスまでの領土、オレンジがシメオンの獲得した領土 シメオン1世が刻まれた銅貨 シメオン1世が刻まれたもう一種類の銅貨 シメオン1世(Симеон I, 864年頃 - 927年5月27日)は、第一次ブルガリア帝国の君主(在位:893年 - 927年)。バルカン半島の大半を占めるブルガリア帝国の最大版図を築き、一時期は東ローマ帝国を圧倒して、自らを「ローマ人とブルガリア人の皇帝にして専制君主」と称した。シメオン大帝とも呼ばれる。ボリス1世の三男で母はマリア。兄弟にヴラディミルなど5人、妻は大貴族ゲオルギの妹。子にミハイル、ペタル、イヴァン、ベニヤミン(ボヤン)、娘が一人。
シメオン・ウロシュ・パレオロゴス
シメオン・ウロシュ・パレオロゴス(,, 生年不詳 - 1371年12月4日)は、セルビア王ステファン・ウロシュ3世デチャンスキと2番目の妻マリア・パレオロギナの間の息子。ステファン・ウロシュ4世ドゥシャンの異母弟でイピロス専制公(在位:1350年 - 1356年)・セサリア「皇帝」(在位:1359年 - 1371年)。セルビア語では「シニシャ」()という別称がある。古典式慣例表記ではシュメオン・ウロシュ・パライオロゴス。
ジュゼッペ・マッツィーニ
ジュゼッペ・マッツィーニ(Giuseppe Mazzini, 1805年6月22日 - 1872年3月10日)は、イタリアのイタリア統一運動時代の政治家、革命家。カヴール、ガリバルディと並ぶ「イタリア統一の三傑」の1人。また、急進主義者でもある。
ストラボン
ストラボン。16世紀の彫刻画 ストラボン(Στράβων / Strábôn、ストラボーン,Strabo, 紀元前64年/63年 - 24年頃)は、古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家・哲学者。 全17巻から成るギリシャ語で書かれた『地理誌』(または地理書、Γεωγραφικά, Geōgraphiká、ゲオグラフィカ)で知られる。この大著は、当時の古代ローマの人々の地理観・歴史観を知る上で重要な書物となっている。
見る 第三のローマとストラボン
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン (セルビア皇帝)
ステファン・ウロシュ4世ドゥシャン(Цар Стефан Душан силни, Stefan Uroš IV Dušan Silni, 1308年7月26日 - 1355年12月20日)は、セルビア王国、セルビア帝国のネマニッチ朝の君主(国王在位:1331年9月8日 - 1346年、皇帝在位:1346年 - 1355年12月5日)。ステファン・ウロシュ3世デチャンスキの子。
見る 第三のローマとステファン・ウロシュ4世ドゥシャン (セルビア皇帝)
ステファン・ウロシュ5世 (セルビア皇帝)
ステファン・ウロシュ5世(Стефан Урош V、1336年 - 1371年12月2日/4日)は、セルビア帝国の王(在位:1346年 - 1355年)、および皇帝(在位:1355年 - 1371年)。
見る 第三のローマとステファン・ウロシュ5世 (セルビア皇帝)
スコピエ
スコピエ(Скопје/Skopje )は、北マケドニア共和国の首都。
見る 第三のローマとスコピエ
セルビア王国 (中世)
セルビア王国(セルビアおうこく、Краљевина Србија)は、現在のセルビアを中心とした中世の王国である。
セルビア語
セルビア語(セルビアご、српски језик/srpski jezik)は、インド・ヨーロッパ語族スラヴ語派南スラヴ語群の言語。
見る 第三のローマとセルビア語
ゾイ・パレオロギナ
ゾイ・パレオロギナまたはゾエ・パレオロギナ(Ζωή Παλαιολογίνα, 1440年から1449年の間、または1455年頃 - 1503年4月7日)は、モスクワ大公イヴァン3世の2番目の妃。最後のビザンツ皇帝コンスタンティノス11世パレオロゴスの姪にあたる。ロシア名ソフィヤ・フォミーニチナ・パレオローク(Софи́я Фоми́нична Палеоло́г)。
神聖ローマ帝国
神聖ローマ帝国(しんせいローマていこく、Heiliges Römisches Reich, Sacrum Romanum Imperium, Holy Roman Empire)は、かつて中央ヨーロッパに存在した、ローマ王(ドイツ王)たる神聖ローマ皇帝によって統轄された諸領域の呼称で、現在のドイツ・オーストリア・チェコ・イタリア北部・フランス東部を中心に存在していた多民族国家、もしくは国家連合である。 9世紀から10世紀に成立し、1806年まで存続していた。最初はまとまった統一国家であったが、14世紀から国家としての機能を徐々に停止し、統治下の非ドイツの領土も次々と失い、終いには国号に「ドイツ国民の」という前綴語が加えられた。さらに1648年のヴェストファーレン条約により神聖ローマ帝国は名目だけを残し、帝国内の300以上の王国・公国・帝国自由都市・教会領・侯領・伯領および他の小貴族の領地は事実上の独立を獲得し、ドイツ人の国家連合としての性格が明らかとなった。しかし皇帝の座を独占しつつ、オーストリア大公国を本拠地とするハプスブルク家のみは帝国と看做された。
第一次ブルガリア帝国
第一次ブルガリア帝国(だいいちじブルガリアていこく、教会スラヴ語:блъгарьско цѣсарьствиѥ, ローマ字表記:blagarysko tsesarystviye、ブルガリア語:Първа българска държава, ローマ字表記:Pǎ́rva bǎ́lgarska dǎržáva、英語:First Bulgarian Empire)とは、7世紀から11世紀の間の東南ヨーロッパに存在したブルガール人とスラヴ人の国家、そして後にブルガリア人国家となった帝国である。アスパルフに率いられたブルガール人の一派がバルカン半島北東部へ南進した後の680年から681年に建国された。コンスタンティノス4世率いる東ローマ帝国(ビザンツ帝国)の軍隊にオングロスの戦いで勝利したことで、彼らはドナウ川の南に植民する権利について東ローマ側の承認を得た。
第二次ブルガリア帝国
第二次ブルガリア帝国(Второ българско царство, Second Bulgarian Empire)は、12世紀後半から14世紀末までブルガリアに存在した国家。14世紀末にオスマン帝国によって滅ぼされた。
西ローマ帝国
西ローマ帝国(にしローマていこく)は、ローマ帝国のうち西半分の地域を指す呼称である『世界大百科事典』『日本大百科全書』『百科事典マイペディア』。 一般に、テオドシウス1世死後の西方正帝が支配した領域および時代に限定して用いられるが、286年のディオクレティアヌス帝による東方正帝と西方正帝による分担統治開始(テトラルキアの第1段階)以降のローマ帝国についても用いられることがある。
東ローマ帝国
東ローマ帝国(ひがしローマていこく)またはビザンツ帝国ただし、標準ドイツ語発音では「ビュツァンツ」に近い。また、現代ドイツ語では地名ビュザンティオンは Byzantion,帝国の呼称としては Byzantinisches Reich(ビュツァンティニッシェス・ライヒ) が用いられるのが一般的である。、ビザンティン帝国、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には西暦395年以降の東の皇帝の統治領域を指すなお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた。
東ローマ帝国の皇帝一覧
東ローマ帝国皇帝の一覧。
15世紀
大航海時代。大西洋を渡り新世界に到達したコロンブス。 マチュ・ピチュ遺跡。アンデス山麓に属するペルーのウルバンバ谷に沿いの尾根にある遺跡で標高2430mの高さにある。用途は未だ明らかでない所もあるが、15世紀に建造されたインカ帝国の技術の高さを反映している。 太陽の石。1479年にアステカ帝国皇帝アシャヤカトルが現メキシコシティの中央広場の位置に奉献したもの(メキシコ国立人類学博物館蔵)。 後期ミシシッピ文化。北アメリカでは1450年代にはカホキア遺跡にみられる巨大建築物マウンドでの祭祀が停滞し、社会が大きく変容した。画像はこの時代に作られた中空土器の水差しで、神話上の水中豹を表している(アーカンソー州クロス郡出土)。 香辛料の魅惑。15世紀には東方との交易路はオスマン帝国に遮断される事になり、香辛料の供給不足が大きな問題となった。画像は1410年代に描かれた『世界の記述(東方見聞録)』の挿絵で、インドでの胡椒採収が取り上げられている。 エンリケ航海王子。ポルトガルは東方への航路の開発を推進したが、その中心となったのは「航海王子」の名を持つエンリケ王子である。サグレスに設置した「王子の村」が航海士の育成に貢献したことはよく知られている。画像は「サン・ヴィセンテの祭壇画」で聖人のすぐ右隣に位置する黒帽で黒髭の人物が王子とされているが異論もある。 キルワの大モスク跡。 サマルカンド近郊のウルグ・ベク天文台。ティムール朝の君主ウルグ・ベクは天文学に造詣が深く「ズィージ・スルターニー」のような精緻な天文表も作成させた。 コンスタンティノポリスの陥落。オスマン帝国のメフメト2世の占領により、1000年以上続いてきた東ローマ帝国はここに滅亡した。画像はジャン=ジョセフ・バンジャマン=コンスタンの歴史画(トゥールーズのオーギュスタン美術館蔵)。 ロシア正教会の自立。東ローマ帝国の衰退に伴い「タタールの軛」を脱したロシアでは独自の組織が形成され文化的にも新たな展開が見られた。画像はこの時代を代表するモスクワ派のイコン(聖画像)でアンドレイ・ルブリョフの「至聖三者」(モスクワのトレチャコフ美術館蔵)。 グルンヴァルトの戦い(タンネンベルクの戦い)。ポーランド・リトアニア連合軍がドイツ騎士団を破り、東方植民の動きはここで抑えられた。画像はこの戦いを描いたポーランド人画家ヤン・マテイコの歴史画(ワルシャワ国立美術館蔵)。 Chronica Hungarorum』の挿絵に描かれた正義王。 天文時計で1410年頃作成されてから、後世の補修はあるものの今日まで動いているものである。 プラハ大学学長ヤン・フスの火刑。コンスタンツ公会議の決定によりカトリック教会と相容れぬ異端の徒として処刑されたが、これがチェック人の憤激を呼び起こすことになった。 オルレアンの乙女ジャンヌ・ダルク。劣勢のフランス軍を鼓舞し百年戦争の終結に大きな役割を果たしたが魔女裁判で火刑に処せられた。画像は15世紀に描かれたジャンヌの肖像のミニアチュール(フランス国立中央文書館蔵)。 Henry Payne (artist)の歴史画で、ヨーク公リチャードが白薔薇を、サマセット公エドムンドが赤薔薇を選んでいる(バーミンガム市美術館)。 Martin Le Francの長編詩『女性の擁護者』の写本(1451年頃)より。 グーテンベルク聖書(42行聖書)』の「創世記」。 帝国都市ニュルンベルク。神聖ローマ皇帝の滞在地として、帝国議会の開催地として、宗教改革が起こるまで繁栄の時代が続いた。画像は1493年に出版されたハルトマン・シェーデル『ニュルンベルク年代記』の挿絵に描かれた都市ニュルンベルクの眺望。 Nicolas Rolinはこの国の宰相で、背後にはブルゴーニュのオータンの風景が広がる。 ブルネレスキの巨大なドーム建築で知られる「花の聖母教会(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)」。 人文主義者たち。古典古代への憧れが人文主義を育み、数多くの学者や著作家を生み出した。画像はドメニコ・ギルランダイオの「神殿のザカリアス(サンタ・マリア・ノヴェッラ教会トルナブオーニ礼拝堂壁画)」に描かれたマルシリオ・フィチーノら人文主義者たち。 ボッティチェリの「春(プリマヴェーラ)」。メディチ家などの文化支援活動に支えられてルネサンス文化が花開いた。画像の中心の女神は美と愛の女神ウェヌス(ヴィーナス)で、その周囲を多くの神々が取り囲んでいる(ウフィッツィ美術館蔵)。 イサベルとアラゴン王フェルナンド)によりイベリア半島のイスラム系王朝支配は終わった。画像はフランシスコ・プラディリャ・オルティスの歴史画「グラナダ征服」(スペイン上院蔵)。 サイイド朝からローディー朝へ。北インドではデリーを中心にイスラム系王朝が続いた。画像はデリーのローディー・ガーデン内にあるサイイド朝の君主ムハンマド・シャーの霊廟。この公園の敷地にはローディー朝君主たちの霊廟もある。 タイを支配したアユタヤ朝は上座部仏教を保護し東南アジアでも有数の国家となっていた。画像はアユタヤに残るワット・プラ・シーサンペットで、1448年にボーロマトライローカナート王により建立された寺院である。 Hang Tuahのブロンズ像。 万里の長城。モンゴル人を漠北に追い払ってからもその侵入に備え明代には長城が幾度となく修復・増築を繰り返されていた。画像は1404年に「慕田峪長城」と名付けられた長城で北京市の北東に位置するもの。 明の永楽帝。靖難の変により甥の建文帝から帝位を奪うと都を根拠地の北京に定めた。漠北への五度の親征や、宦官鄭和を派遣しての南海大遠征を通じて明の威光を周辺諸国に知らしめた傑出した君主であった。 鄭和の南海大遠征。永楽帝は明の国威を示すため、大艦隊をインド洋沿岸に派遣した。画像はベンガルから朝貢されたキリンを描いた「瑞応麒麟図」。 故宮博物院蔵)。 「仁宣の治」。明は仁宗洪熙帝と続く宣宗宣徳帝の時代に安定期を迎えた。画像は明の宣宗宣徳帝の入城を描いたもの(台北国立故宮博物院蔵)。 万国津梁の鐘。1458年に琉球王国の尚泰久王が鋳造させた釣鐘で、「舟楫を以て万国の津梁となす」と刻まれた銘文は海洋国家琉球の気概を示すものとして名高い。現在は沖縄県立博物館・美術館に展示されている。 如拙「瓢鮎図」。禅宗の流入は「五山文学」や「舶来唐物」などを通じて室町時代の文化に大きな影響を与えた。この「瓢鮎図」も将軍足利義持の命で描かれた水墨画で数多くの禅僧の画讃がつけられている。京都妙心寺塔頭退蔵院の所蔵。 「万人恐怖」。籤引きにより六代将軍に選ばれた足利義教は強権的な政治を行い「万人恐怖」と恐懼された。しかしそれが仇となって赤松満祐による嘉吉の乱で非業の死を迎えることになる。画像は愛知県妙興寺にある将軍義教の肖像画。 文化を極めた。将軍義政が賞翫した蒐集品は「東山御物」として珍重されることになる。 応仁の乱。将軍後継をめぐる守護大名の争いで京都の町は焦土と化した。以後足利将軍の権威は衰え下剋上の時代へと進むことになる。画像は応仁の乱を描いた「紙本著色真如堂縁起」(真正極楽寺蔵)。 衣笠山山麓に創建したのが竜安寺である。この方丈庭園は禅の思想に基づくもので、1500年頃までに現在の形になったと伝える。 15世紀(じゅうごせいき)とは、西暦1401年から西暦1500年までの100年間を指す世紀。
見る 第三のローマと15世紀
16世紀
盛期ルネサンス。歴代ローマ教皇の庇護によりイタリア・ルネサンスの中心はローマに移動した。画像はこの時代に再建がなされたローマのサン・ピエトロ大聖堂の内部。 カール5世。スペイン王を兼ねイタリア各地やネーデルラントも支配したが周辺諸国との戦いにも明け暮れた。画像はティツィアーノによる騎馬像(プラド美術館蔵)。 「太陽の沈まない帝国」。カール5世の息子フェリペ2世の時代にスペインは目覚ましい発展を遂げ貿易網は地球全体に及んだ。画像はフェリペ2世によって建てられたエル・エスコリアル修道院。ここには王宮も併設されておりフェリペ2世はここで執務を行った。 16世紀(じゅうろくせいき)は、西暦1501年から西暦1600年までの100年間を指す世紀。
見る 第三のローマと16世紀
1946年
この項目では、国際的に注目されたものを列挙する。
見る 第三のローマと1946年
第3のローマ、第三ローマ 別名。

